木曜日, 12月 05, 2019

マルクス・ガブリエル& 未来への大分岐(脚注)

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「コロナ危機 精神の毒にワクチンを」
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624

「緊急事態―都市封鎖は正当化できるのか?」
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8626?fbclid=IwAR3iEm4vWploKSwuPUT9yuZcJytJL-YfRqTi5sxKYDWt8SMAyWX2DNDkvOQ


難しい。。。

ようするに、コロナ危機で今までありえないような経済殺しの対応をとっているけど、
大気汚染や水の汚染で、それ以上の人が世界では死んでいたのに、なんで何にもしないんだ、とか、
気候変動の方が、よっぽど大きな危機であるだろうに、コロナ危機だとなんでこんな劇的な対応なんだ?
みたいなこと?

危機を機会に、自由な連帯の社会をシャットダウンさせてはダメだ、ということかな?


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The Savage Anomaly: The Power of Spinoza's Metaphysics and Politics (英語) ペーパーバック – 1991/2/1








マイケル・ハート





マイケルハート (1960年生まれ)は、アメリカの政治哲学者であり文学理論家です。 ハートはアントニオ・ネグリと共著の彼の本「 帝国 」で最もよく知られています。 スラヴォイ・ジジェクは「21世紀の共産党宣言 」として称賛されています。 [3]
マイケル・ハート
MichaelHardt.jpg
セミナリオ国際ムンドで話すマイケル・ハート。2008年
生まれ1960
時代20世紀の哲学
領域西洋哲学
学校大陸の哲学
自律性
主な興味
政治哲学
文学理論
注目すべきアイデア
帝国の理論、 代替近代

Subversive Festivalで話すMichael Hardt
ハートとネグリは、 階級弾圧 、 グローバル 化、サービス商品化 (または感情の生成)など、現代の生活を支配していると考えるいくつかの力が、前例のない次元の社会的変化を引き起こす可能性があることを示唆しています。 続編、「 Multitude:War and Democracy in the Age of Empire」は2004年8月に公開されました。これは、 Empireで最初に提唱されたアイデアを概説しています。 三部作の3番目の最後の部分であるCommonwealthは、2009年に公開されました。

内容


生い立ちと教育

ハートはメリーランド州 ポトマックの ウィンストン・チャーチル高校に通った。 1978年から1983年まで、 ペンシルベニア州の スワースモア大学で工学を学びました。 1970年代のエネルギー危機の間、大学で代替エネルギー源に興味を持ち始めました。 [4]彼の大学の政治について話して、彼は言った、「第三世界の国々のために代替エネルギー工学をすることは、私が嫌ったこのキャンパスの政治的姿勢から抜け出す政治をする方法になると思った。でもすぐに嫌悪感を覚えました。」 [5]
大学時代、彼はさまざまな太陽エネルギー会社で働いていました。 ハートは大学卒業後、聖域運動にも参加し、後に米国から寄付されたコンピューターを持ち込み、 エルサルバドル大学のためにまとめるプロジェクトの設立を支援しました。 しかし、彼は、この政治活動がサルバドル人よりも彼のために多くをしたと言います。 [6]
1983年、 ワシントン大学で 比較文学を学ぶためにシアトルに移りました。 [7]博士は博士号に取り組んでいる間、アントニオ・ネグリのBaruch Spinozaの本、 The Savage Anomalyを翻訳し始め、彼と接触するようになりました。 [8] 1986年の夏、パリでネグリと初めて会い、翻訳の難しさについて話し合いました。 ミーティングの後、Hardtは卒業試験を完了し、翌夏にパリに移ることに決めました。 [9] 1986年に修士号を取得し、1990年にジル・ドゥルーズに関する論文を完成させ、博士号を取得しました。 [10]
南カリフォルニア大学で短期間教えた後、ハートは1994年にデューク大学の文学プログラムで教え始めた[11]。彼は現在デュークの文学教授とイタリア人である。

思考

ハートは政治生活の喜びに関心があり、「カップルの限界を超えて愛の概念を拡大しなければならない」と述べています。 [12]多数の政治は、生産性の手段を制御したり、自分の主観を解放したりすることだけではありません。 これら2つは、政治生活の愛と喜びと政治的目標の実現にも関連しています。 [13]
ハートは、革命的な職業を教えることを考慮しておらず、大学が特に政治的な機関であるとは考えていません。 「しかし、現在、政治は大規模な社会変革のプロジェクトだと考えていますが、政治活動が大学からもたらされるとはまったく確信していません。」 [14]
ハートは、公教育と大学への平等かつオープンなアクセスのビジョンは徐々に消えつつあると言います。「対テロ戦争」は、限られた軍事的および技術的知識のみを促進し、一方、生物政治経済に必要なスキル、「アイデア、イメージの創造、コード、影響、その他の重要でない商品」は、経済革新の主な鍵としてまだ認識されていません。 ハートの作品の多くは、 アントニオ・ネグリと共作されています。

2011年から2012年の占領運動

2012年5月、HardtとNegriは、2011年から2012年の占領および野営運動に関する電子パンフレットを宣言として発表しました。これは、運動が新しい形態の民主主義を探求することを主張しています。 引用が必要 ]

出版物

選択された記事

映画出演

参照

  1. ^ 歴史との会話(globetrotter.berkeley.edu)–マイケル・ハートとの会話
  2. ^ Vulliamy、Ed(2001-07-15)。 「帝国の反撃」 。 ガーディアン 。 ロンドン 取得済み2010-05-12 。
  3. ^ 「マイケルハートとアントニオネグリが21世紀に向けて共産党宣言を書き直したことがありますか? 。ラカン。2015年4月3日検索。
  4. ^ Vulliamy、「帝国の反撃」
  5. ^ Hardt、Smith、Minardi、「コラボレーター」、65
  6. ^ Vulliamy、「帝国の反撃」
  7. ^ Vulliamy、「帝国の反撃」
  8. ^ Hardt、Smith、Minardi、「コラボレーター」66
  9. ^ Hardt、「手」、175
  10. ^ Hardt、「手」、176
  11. ^ Vulliamy、「帝国の反撃」
  12. ^ マイケル・ハート。 アイデンティティと違い。 欧州大学院での講義。 2005年
  13. ^ ローリー、ティモシー; スターク、ハンナ(2017)、 「愛の教訓:親密さ、教育学、政治共同体」 、 アンジェラキ:理論的人文科学誌 、 22 (4):69–79
  14. ^ ハード、スミス、ミナルディ、「コラボレーター」71

引用された作品

  • ハード、マイケル、カレブスミス、エンリコミナルディ。 「コラボレーターと多数:マイケル・ハードとのインタビュー。」 ミネソタレビュー 61-62(2004年春/夏)。 63-77。
  • ハート、マイケル。 「4つの手で書く方法。」 ジャンル 46.2(2013)。 175–182。
  • Vulliamy、エド。 「帝国の反撃」 。 ガーディアン 、2001年7月15日日曜日。
  • シジェク、スラヴォイ (2001年9月)。 「マイケルハートとアントニオネグリは、21世紀に向けて共産党宣言を書き直しましたか?」 マルクス主義の再考 。 13 (3–4):190–198。 土井 : 10.1080 / 089356901101241875 全文。

外部リンク






    第1回:ミュニシパリズムとヨーロッパ その1(岸本聡子) | マガジン9

    maga9.jp/190116-4/
    2019年1月16日 ... こういう状況の中でミュニシパリズムmunicipalism)という具体的な希望が同時に急成長しているのだ。






    マガジン9:ミュニシパリズムとヨーロッパ – 岸本聡子の公共政策ウォッチ

    satokokishimoto.wordpress.com/.../ ...
    2019年2月10日 ... こういう状況の中でミュニシパリズムmunicipalism)という具体的な希望が同時に急成長しているのだ。






    ミュニシパリズム

    ameblo.jp/hitasiro/entry-12436029463.html
    2019年1月27日 ... こうした状況の中でミュニシパリズムmunicipalism)という革新的な市民主体の政治が、搾取する政治から脱 ...






    公共サービスの未来を創り始めた自治体と市民 - Transnational Institute

    (Adobe PDF)
     
    www.tni.org/files/.../conclusion_remunicipalisation.pdf
    はグローバルな「ミュニシパリズム」ビジョンを打ち出している。 ミュニシパリズム( municipalism)とは. 地方自治体の意である ...






    [B!] 第1回:ミュニシパリズムとヨーロッパ その1(岸本聡子) | マガジン9

    b.hatena.ne.jp/entry/s/maga9.jp/190116-4/
    haruhiwai18 "EU…が…新自由主義で統合された結果、ヨーロッパ域内は…市場開放が進み""EUという組織の構造的な非民主 ...






    未来への大分岐

    96頁構想と実行の分離=テイラー主義

    125頁

    ミュニシパリズムとヨーロッパ – 地球倫理:Global Ethics

    globalethics.wordpress.com/.../ミュニシパリズムとヨーロ...
    2019年1月27日 ... 第1回:ミュニシパリズムとヨーロッパ その1(岸本聡子). ミュニシパリズムの自治体は「 利潤と市場の法則よりも ...






    マガ9対談 雨宮処凛さん×岸本聡子さん(その2) - 里の家ファーム

    blog.goo.ne.jp/.../bb405b98a896b5749dee1e413f6a52...
    2019年3月14日 ... 岸本さんが紹介してくれた「ミュニシパリズム」(※)にも日本語がほしいなと思います。舌を噛んでしまってうまく ...






    再公営化という選択 - 山本太郎

     
    (Adobe PDF)
    www.taro-yamamoto.jp/.../e68542745c9144686d873dadbfed...
    2019年1月27日 ... ミュニシパリズムmunicipalism)とは. 地方自治体の意である municipality から来ているミュニシパリスト.



    マルクス・ガブリエル& 未来への大分岐(脚注)
    思弁的実在論
    http://nam-students.blogspot.com/2019/03/sr.html
    メイヤスー
    http://nam-students.blogspot.com/2016/01/blog-post_15.html

    素朴実在論?
    シェリングの影響
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%
    B9%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB

    NHKドキュメンタリー - BS1スペシャル「欲望の資本主義2019~偽りの個人主義を越えて~」
    https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225647/index.html

    資本主義が生み出したGAFA

    「ネット界の四天王」と呼ばれるGoogle、Apple、Facebook、Amazon(GAFA)。現代人の日常に浸透し、人間の欲望を握ったと言われる。ドイツの異色の哲学者で、『なぜ世界は存在しないのか』の著者であるマルクス・ガブリエル。『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』で、知のパラダイム転換を試みた彼が見つめるGAFAの姿とは――。
    「ソーシャルメディアはカジノのようなものです。我々はネット上の人物や投稿に『いいね!』を投票していますね。賭けられた人は『いいね!』やフォロワーを集めますね。これはカジノと同じです。ポイントを稼いだ人は大儲けができます。ユーチューバーに成功者が増えれば、ユーザー側の利益にはなりますが、しかし、ここがまさにカジノと同じ構造なのですが、最終的に最も利益をあげるのは当事者ではなくカジノそのものなのです。
    GAFAはもっともダーティーなカジノだと断言できます。インターネットの世界に規制がかけられる前に、できるだけ速く資本を増加させること。それが彼らの唯一の関心事です。今日の私たちはこうした企業に搾取されているのです。Eメールやネットニュースを見るといった我々がネット上で行っている行為は、すべて『労働』であり、これがデータと付加価値を生み出すのです。そうして生み出された付加価値によって、何十億という金がカリフォルニアの口座に支払われているのです。」



    https://www.amazon.co.jp/dp/408721088X/

    資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書) (日本語) 新書 – 2019/8/9

    柄谷交換図で言うと
    BA
    CX

    マルクス、トランプ理解に問題
    商品貨幣論を引きずっている
    信用貨幣論に移行していない
    それはトランプの戯画化に象徴される

    【世界最高峰の知性たちが描く、危機の時代の羅針盤】
    利潤率低下=資本主義の終焉という危機は、資本の抵抗によって人々の貧困化と民主主義の機能不全を
    引き起こしたが、そこに制御困難なAI(人工知能)の発達と深刻な気候変動が重なった。
    我々が何を選択するかで、人類の未来が決定的な違いを迎える「大分岐」の時代――。
    「サイバー独裁」や「デジタル封建制」はやって来るのか?
    世界最高峰の知性たちが日本の若き経済思想家とともに、新たな展望を描き出す!

    【著者略歴】
    ■マルクス・ガブリエル 
    史上最年少でボン大学哲学正教授に抜擢された天才哲学者。ベストセラー『なぜ世界は存在しないのか』、
    NHK『欲望の資本主義』シリーズなどでメディアの寵児に。
    ■マイケル・ハート
    グローバル資本主義が変容させる政治・経済の姿を描き切った『<帝国>』(ネグリとの共著)。
    その大著の予見の正しさが日々、証明されるなか、世界の社会運動の理論的支柱となっている。
    ■ポール・メイソン
    ナオミ・クラインらが絶賛した『ポストキャピタリズム』で、情報テクノロジーによって
    資本主義は崩壊すると主張し、次なる経済社会への移行を大胆に予言。鬼才の経済ジャーナリスト。
    ■斎藤幸平(さいとうこうへい)
    1987年生まれの若き経済思想家。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。
    Karl Marx's Ecosocialism: Capital, Nature, and the Unfinished Critique of Political Economy
    で権威あるドイッチャー記念賞を史上最年少で受賞。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。

    【おもな内容】
    ■第1部 マイケル・ハート
    資本主義の危機/政治主義の罠/<コモン>から始まる新たな民主主義/貨幣の力とベーシックインカム
    ■第2部 マルクス・ガブリエル
    「ポスト真実」の時代を生んだ真犯人/「人間の終焉」と相対主義/ 新実在論で民主主義を取り戻す
    未来への大分岐――環境危機とサイバー独裁
    ■第3部 ポール・メイソン
    資本の抵抗――GAFAの独占はなぜ起きた?/シンギュラリティが脅かす人間の条件/
    資本主義では環境危機を乗り越えられない/生き延びるためのポストキャピタリズム


    • 出版社: 集英社 (2019/8/9)
    • 言語: 日本語



    マルクス・ガブリエル

    哲学、古典文献学、近代ドイツ文学、ドイツ学をハーゲン大学、ボン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。2005年、イェンス・ハルフヴァッセンの指導のもと、後期シェリングの研究によりハイデルベルク大学から博士号を取得した。2005年にリスボン大学の客員研究員、2006年から2008年にかけてドイツ研究振興協会の研究員としてハイデルベルクに滞在した。2008年には古代哲学における懐疑主義観念論についての研究によりハイデルベルクにてハビリタチオン(大学教授資格試験)に合格する。2008年から2009年にかけて、ニューヨークニュースクール大学哲学部で助教を務めた。2009年7月にボン大学に着任し、認識論・近現代哲学講座を担当すると同時に、同大学国際哲学センターのディレクターも務めている[1]。過去にはカリフォルニア大学バークレー校の客員教授も務めた[2]
    複数の言語(ドイツ語英語イタリア語ポルトガル語スペイン語フランス語中国語)を自在に操り、また古典語(古代ギリシャ語ラテン語聖書ヘブライ語)にも習熟している[3][リンク切れ]。ガブリエルは既婚者である。
    2013年、ガブリエルは『Transcendental Ontology: Essays in German Idealism』を上梓した。セバスチャン・ガードナーによる書評が『ノートルダム・フィロソフィカル・レビュー』に掲載され、次のように評価されている。「英語で書かれた本書は、ガブリエルによるドイツ観念論の読解がこれまでで最も包括的に提示されたものである[4]。[…]豊かなアイデアが限られた紙幅に凝縮されているため、読者は予めかなりの関連知識を有していることが求められる」[4]
    あるインタビューにて、ガブリエルは次のように述べている。「現代の形而上学者の殆どは、自らの研究テーマを特徴づけることに失敗しています。彼らは『世界』や『現実』のような言葉を、特に明確な説明を与えることなく、しばしば同じ意味で用いています。私見では、こうした全体性を表す表現は、存在するという性質をもつものを指示することはできません」[5]。また次のようにも説明している。
    私はメタ存在論とメタ形而上学というカント以来の伝統を復活させようとしています。周知の通り、メタ存在論という言葉を導入したのはハイデガーであり、また彼はカントの哲学が「形而上学についての形而上学」であるとも明言しています。私が用いるメタ形而上学的ニヒリズムという言葉の意味とは、世界など存在しない、つまり、世界についてその究極的本性、本質、構造、構成、カテゴリー的輪郭などが問われるとき、その問いかけには意図されているような概念的内容が欠けている、ということです。万物を絶対的に構成している何か大きなものがあるという考えは、それが自然的なものであれ理性が不可避的に有する性質であれ、幻想なのです。現代の議論において影響力を持っているネオ・カルナップ主義者たちも同様の結論に至っていますね。彼らの研究で言われていることの多くに私は賛同しており、それをカント的、ポスト・カント的哲学におけるメタ存在論/メタ形而上学の伝統と連結させようと試みているのです[6]

    素朴実在論

    素朴実在論(そぼくじつざいろん、英:Naïve realism)とは、実在論の一形態で「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする考え方のことである[1]

    概説

    子供などが持っている素朴な実在論である。また大人などでも、哲学を学んだことがない一般人が抱きがちな実在観である[1]
    この実在観の例をあげると、例えば、木の葉を見て、ミドリの葉が実在していると思ったりすることである[1]。 また、例えば右のような場面において「水がある」と思ったり、「トンネルのむこうに川と木がある」と思うのも素朴実在論と言える。
    素朴実在論が哲学者によって未熟だと烙印を押されるのは、一つには、上の木の葉の例で言えば、木の葉は夕日の中や薄暗がりの中では黒かったりし、ミドリ色として決まっている木の葉があるわけではない、ということからでもある[1]
    人間というのは素朴な状態なままだと、自分が肉眼で感じられた内容をそのまま存在すると信じ、反対に、見えないものは存在していないと思い込む傾向がある。
    また人は素朴な状態では、物というのは他の物とガツンとぶつからなければ動きに変化はないと思っている。デカルト渦動説にはそうした素朴な考えの影響があるということは科学史家が指摘している。また、アイザック・ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』で万有引力を提唱した時、同時代人がそれをオカルトだと呼んで非難したことには、「自分が感覚器で感じられるものは実在しているに決まっており、反対に 自分の感覚器で感じられないもの(見えないもの、触れられないもの)は存在していないに決まっている」とする素朴な考え方を無自覚に持ったり頑強なまでに信じ込む人が多い、という背景がある。
    19世紀から20世紀にかけて自然科学の領域で様々な遠隔力が発見されたことで、今でこそ(ニュートンの時代とは異なり)、知覚できないことであっても実在しているものはやはり実在しているのだ、という見方は知識として一応普及した。だが現代においても人というのは、普通の人も科学者もしばしば、自分が知覚できるものだけが知覚したように実在し、知覚できないものは実在していないに決まっている、と素朴に思う傾向がある。
    人類は古くから、自分の眼に見えていてもそれが実在していなかったという経験や、反対に、たとえ肉眼では見えなくても(あるいは他の感覚器でも知覚できなくても)確かに何かが実在していた、という経験を繰り返している。こうして人間は、素朴実在論とは異なった考え方を探求してきた。

    素朴実在論の乗り越えや改良

    この素朴実在論とは異なった考え方の一つが、プラトンが提示したイデアという考え方である。これは、本物の実在というのは霊界にあるイデアであり、我々がふだん肉眼で見たと信じているものはイデアの摸造にすぎない、我々は以前イデアを見て過ごしていたがこちらの世界に来る時にその記憶を失ってしまった、だからそのイデアを《想起(アナムネーシス)》して見ることが、実在を真に認識することになるのだ、とするものである。
    「本当の実在はあちら側の世界にあり、こちらの世界はみかけにすぎず摸造だ 」とするこのプラトニズムの世界観は、一方では現在のスピリチュアリズムの考えともつながっている。
    またその一方で、このプラトニズムが結果として数理的に自然を把握しようとする西洋の科学をもたらすことになった、と指摘する科学史家もいる。(カール・ポパーが提示した「数理的な《世界3》が実在し、我々の世界はその《世界3》が投影されたものだ」という考え方も、このプラトニズムの系譜に属すると指摘されてもいる。なおポパーの《世界3》という考え方はロジャー・ペンローズも支持している。
    また西欧哲学においては、我々が感じている内容を現象と呼び、それについて考察してきた。ヒュームは懐疑的にとらえ、我々が感覚器でとらえていることは客観性とは繋がり得ないと見なした。カントは、現象は《物自体》と対比され、現象というのは物自体と主観との共同作業によって構成されるものだとし、人は現象が構成される以前の《物自体》を認識することはできない、とした。フッサール現象学を創始した。
    素朴実在論を改変・改良した考え方としては他に、「世界は現に存在しているが、しかしその世界は必ずしもそのすべての点において私たちに見えているとおりのものとは限らない」とする批判的実在論がある[2]
    現代の科学では「我々は、世界が存在すると見なし、しかもその世界の構造が部分的には認識可能であることを想定してはいるが、世界について我々が行うあらゆる言明は仮説的な性格を持つ」というCampbellの「仮説的実在論」[3]がある。

    備考

    • 素朴実在論は自然科学成立のための根本前提であり、また、唯物論も素朴実在論の立場に立つため、両者は同じ土台(素朴実在論)から成立したものとされる[4]
    • 「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」の「自分の眼に見えた」は、個別の事態ではなく、習慣的な事態群である。世界のすべてを一度に見ることはできないからである。この命題は「この世界というのは、いつも自分の眼に見えたままに存在している」と解釈しなければならない。したがってその否定は、「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在していることはない」ではなく、「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在しているとはかぎらない」である。人間を含む動物の感覚器は不完全なので、実在しない(と思われる)対象を知覚する場合や、実在する(はずの)対象を知覚できない場合もあるが、本来は、当該の動物種にとって知覚することが必要な、実在する対象だけを知覚するために作られているものと考えられる。さもないと、動物は食物を得られず、危険を回避できず、滅びてしまうであろう。

    出典・脚注

    1. a b c d 『哲学・論理用語辞典』三一書房、1975年。
    2.  ルック・チオンピ『基盤としての情動: フラクタル感情論理の構想』
    3.  ルック・チオンピ『基盤としての情動: フラクタル感情論理の構想』
    4.  梅本克己 『唯物論入門』 清水弘文堂書房 1969年 p.16.

    参考文献

    関連文献

    関連項目

    外部リンク















    千葉雅也×東浩紀「モノに魂は宿るか 実在論の最前線」:マルクス ...

    yasomi.hatenablog.com/entry/2018/04/15/052048
    ガブリエル『なぜ世界は存在しているか』について ... 代表的論者はメイヤスー、ハーマン、ガブリエル。 思弁的 ...

    千葉雅也×東浩紀「モノに魂は宿るか──実在論の最前線」:マルクス・ガブリエル他について #ゲンロン - 読めたら読んでね!
    https://yasomi.hatenablog.com/entry/2018/04/15/052048

    千葉雅也×東浩紀「モノに魂は宿るか──実在論の最前線」:マルクス・ガブリエル他について #ゲンロン















    f:id:yasomi:20180414155321p:plain
    3月末に「ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #5」として放送されたイベント。前後半合わせて3時間を超える対談を、後日タイムシフトで視聴しました。
    とくに後半の議論が面白かったのですが、前半部の千葉さんによるプレゼンは思弁的実在論の状況について分かりやすく整理されており、非常に勉強になりました。今回もメモを取りながら観ていたら大量になってしまったので、前半部のメモをこちらにまとめておきます。

    前半部の要点

    ガブリエル『なぜ世界は存在しているか』について

    • 結論:マルクス・ガブリエルの話題の書『なぜ世界は存在しているか』は全く面白くない。
    • 多様性を肯定する、かつてのポストモダンに近いが、その実在論化に踏み込んでいる。
    • 一角獣やアニメのキャラのような虚構的存在を含め、すべてのものに、自然科学的なものと同じ「存在する」という身分を与えようという議論。
    • ドイツのガダマーの解釈学やフランスなら構造主義を例にあげるまでもなく、「人文科学のなかで理念や虚構的存在をどう扱うか」ということと、「人文科学をいかに発展させるか」という方法論とは常にセット。ところが、ガブリエルはあまりに素朴に「存在認めちゃえばいいじゃん」と言ってしまっている。自然科学批判の文脈にあるのは分かるのだが・・・。
    • カジミール・マレーヴィチ「黒の正方形」を見て、コンテクスト抜きに正方形そのものを捉えるのだ、といった議論が出て来るが、芸術理解としても100年遅れている印象。メイヤスーやハーマンはもうすこしアクロバティックで面白い。
    • 「一角獣について考える人文系に価値があると考えるあなたも、素粒子について考える科学者も同じ存在について考えているから大丈夫」みたいな人文学の自慰的な話。ある存在者(とりわけ人文学的な存在者)について考える人の権利を擁護する話になっちゃてる。
    • 「これ以上私の傷に立ち入らせない」権利主張。「なぜならばそれは私の意味の場に存在しているから」。この本が支持されたことは、ポリコレに象徴される時代の空気と共振している。

    「実在論ブーム」とはなにか?

    • いわゆる「実在論」ブームは、「現代思想」の最先端の状況。フランスの「ポスト構造主義」(ドゥルーズ、デリダ等)に影響を受けているものを指す。このブームは英語圏での分析哲学の動きではない。
    • 代表的論者はメイヤスー、ハーマン、ガブリエル。
    • 思弁的実在論(SR)がその中心。「非人間」=人間とは関係なく、人間的な「意味の理解」の外側に独立に「実在」しているものそのもの、がテーマ。
    • ただし、SRはロンドン発で、ガブリエルはそれと直接関係はない。
    • 「実在論」とは、事物がそれ自体として存在すると認め、事物を客観的に記述できるとする立場。
    • 人間は事物を「ある捉え方で」捉えており、その「捉え方なし」で事物「それ自体 in itself」を知ることは出来ない。という立場がカント以来、近現代哲学のデフォルト。
    • 人間にプリセットされた物事の捉え方=超越論的な構造。ポストモダニズムはカントからの論理的帰結。
    • 「新しい実在論」とは、私たちの認識とは独立して実在について哲学的に議論できるはずだ、とする立場。

    「新しい実在論」とポストモダン思想の関係

    • ドゥルーズやデリダらのポスト構造主義の哲学者は「差異」を論じ、人々はそこから事物を一面的にではなく、「多様に理解しよう」というメッセージを(本人の意図とは関係なく)受け取った。
    • が、それは捉え方次第で「どうにでも言える」という「相対主義」ではないかと批判が生じる。現代の実在論では、相対主義批判の乗り越えが課題。
    • ポストモダン批判は90年代中盤から出てくるが2つの陣営がある。
    • 1つはソーカル事件に代表される自然科学陣営、もう1つはカルチュアル・スダディーズやポストコロニアル研究の人たち。
    • 特に後者はポストモダニズムの言葉を使いながら、本質的にはポストモダン批判。たとえば80年代に「n個の性」。元々は「諸々のカテゴリの境界が揺らいでいる」という話だったのに、90年代にはそれが「揺るがしにできないクィアなアイデンティティ」という本質主義的な政治性に変わっていく。
    • 「新しい実在論」とは、ポストモダン批判ではないことが大事。ポストモダン批判に対して、ポストモダン的な実在論を展開しようとする立場。
    • ガブリエルがポリコレ的なものと連携するように見えるのは、後者の本質主義陣営の一派だと考えるとすごく説明がつく。ポストモダンを簒奪し、正義や公正、平等の話にしてしまう立場。
    • ナチのトラウマから、ドイツは革命的なものを否定してしまっている。ニーチェと全く逆のことを主張しながら、ドイツ国内ではニーチェの再来のように学会で受け入れられている。カルスタ、ポスコロ、ポリコレ受け入れのための哲学的基礎づけの本。哲学的後退。
    • メイヤスーの「相関主義」批判。私たち=人間がどういう捉え方をしようとも、そこから独立に実在する世界があると言いたい。「私たちにとって世界がどうであるか」、という思考のフレームワークばかりの研究をする立場=「相関主義」と名付ける。「無人の世界」としての実在に「アクセス」しようとする試み。

    「思弁的実在論」の成立

    • 2007年にロンドンで始まった「思弁的実在論」ワークショップ。
    • レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマン、カンタンメイヤスーの4人がオリジナルメンバー。
    • ブラシエが名付け親。思弁的実在論は当初ネット・カルチャーとして流通。

    哲学研究の分裂(現状の派閥)

    • パリ:ポスト構造主義=ドイツ観念論は、デリダの死とともに2000年代で終わった。英語圏での「フレンチ・セオリー」研究(二次的なポスト構造主義)はジュディス・バトラーやジジェク等。いまやフィロソフィー=分析哲学。メルロ・ポンティ研究をやるためにアメリカへ行く時代。
    • 世界の哲学研究は大きく3つ。1.分析哲学(英語圏の主流派)、2.哲学史(古典的な研究。分析哲学とセット)、この2つが主流で、3.現代思想のテキスト解釈(比較文学、文化論系。フレンチ・セオリー、アガンベン等のイタリアン・セオリー)は傍流。
    • パリからロンドンへ。パリっぽい野心的な哲学者では、ロンドン経由で世界に拡散したメイヤスーのみが別格。それ以外のSR関係者はロンドンか辺境。3のメインストリームからもさらにドロップアウトしていることが重要。哲学の制度化にうんざりした人たち。でもまたすぐに制度化されていく風潮。
    • 「人文科学においても科学の方法論でやろう」という単純な発想になってしまっている傾向。実在論ブームとはいいつつも、サルトルやフーコーの社会的インパクトと比べると随分スケールダウンしていることは否めない。
    • 余談:インド出身で英語圏で活躍している人は階級が高い。スピヴァクはプリンセスの家系でファーストクラスでしか呼べない。笑

    「思弁的実在論」の代表論者について

    カンタン・メイヤスー
    • 主著:『有限性の後で』
    • ある種の唯物論を主張。真の実在は数理的に記述されるもので、それは人間的な(数的ではなく質的な)意味付けの外部にあるとされる。
    グレアム・ハーマン
    • オブジェクト指向哲学の代表者。主著は『四方対象』
    • あらゆる事物を「オブジェクト」と呼ぶ。
    • オブジェクトは根本的には他から絶対的に分離しており、「自らに引きこもって」いるとされる。絶対的無関係。ハイデガー的にいうと「タイ イン」。
    • オブジェクトがバラバラに存在するレベルが「実在的」であり、他と関係づけられているレベルは「感性的」である、という二重構造(の入れ子構造化)で世界を説明
    • 「新しい実在論」論者は傾向として、「そんな素朴なこと言うか?」と思えるようなことをガチで論証する人たち。ただハーマンは「なぜ世界はバラバラなのか?」ということに何の論証も与えておらず、そこはメイヤスーと異なる点。
    マルクス・ガブリエル
    • 日常的な事物や文学的作品のキャラクターにも量子物理学と同等の実在の地位を与えるべきだという立場。ある事物の実在を支える「意味の場」というのは無限に多様なので、それを包括するような「世界」は存在しない、という議論。
    • 『なぜ世界は存在しないのか?』というタイトルでは「世界」の意味を変えてしまっている。よくない。
    • 根源的な「非人間的な意味」の存在を論証する議論になれば面白いが、その場合にも「意味」の意味が変わっていることにはなる。
    • ポストモダンでは「もののあり方というのは捉え方だ。だから真の実在にはアクセスできない」。
    • ガブリエルは「もののあり方というのは捉え方だ。だから捉え方によってすべて実在する」と突き抜けた。
    • でもそれって「俺にとっては二次元の嫁は存在する」みたいな話。マイノリティやポリコレ擁護に使えてしまうのがこの本。

    「加速主義」

    • テモなどの左翼運動を「フォーク・ポリティクス」と呼んで批判。抵抗のポーズを示すだけではダメ。技術発達を徹底的に加速させること。少なくともそれを理念とすべきとする立場。
    • 一時期の浅田彰。未来派野郎。ポストモダニズムの反復。
    • 理念にはもちろん共感するが、非常に抽象的なスローガンに終始してしまっている。そんなこと言われても具体的にどうすればいいか分からない。デモは分かりやすいから参加できる。
    • 80年代の反復に気づかずに、ガブリエルの議論を初めて聞くように捉える若者も多いのではと懸念する。

    東浩紀の「否定神学」批判との類似性

    • 否定神学システム批判=メイヤスーの相関主義批判
    • 世界と思考の相関。その外部にアクセス不可能なものがあり、それについて議論の空中戦を繰り広げるのが東浩紀が指摘した「否定神学システム」。『存在論的、郵便的』で展開された批判というのは、カント以来の近現代哲学のシステム総体にたいして向けられたもので、そのオルタナティブとして「郵便的」(アクセス不可能なものではないような外部性)なものを提示しようとした試みだといえる。
    • 東さん自身、いまにして思えば、「ドイツ観念論が否定神学の構造を持っているよね」という話だったと。神秘思想、ロマン主義の残滓。フランスの話してるんじゃない。でも当時の能力ではそこまで持っていけなかった。
    • いずれにせよ、ヨーロッパに関してここ最近になって登場した議論が、日本には90年代すでにあったということ。
    • 「新しい実在論」には、人文学の自己否定になりうるモメントがある。人文学は他者というものをいかに解釈によって多様にみていくかという営みだった。だが今の実在論は、解釈を超えた実在というのが厳然としてある、という話。
    • デリダのエクリチュール論はそのことに自覚的な仕事だった。J.サールとの論争、『有限責任会社』。疲れたら議論を辞める、ということでしか実在はない。ままならない外部性、有限性の問題。
    • ところがデリダのように物質性について考えようとした人が、不可能なものに取り込まれてしまうパターンが哲学では何度も繰り返されている。
    • 哲学が取りこぼす物質性について考えようとしたのが『存在論的、郵便的』。その意味で東浩紀の仕事はマルクス主義的。
    • 「動物」「アーキテクチャ」「観光客」という概念も、社会学とはまったく違う抽象度のレイヤーで考えようとしているが、その点がなかなか理解されない。

    「人新世(アントロポセン)」の動向

    • マルクス主義における下部構造はつねに経済的なものだった。さらにその下部構造として、気候や地質、災害、疫病みたいなものが出てきている。唯物論的条件の再発見。
    • ところが、ガブリエルの本は「新しい実在論」や「人新世」のような理工系やSF的な話とは関係がない。非常に文系的な本。

    2018/9/1 追記

    本対談の内容が最新の「ゲンロンβ」にて公開されました。さすが公式だけに非常に読みやすくまとまっており、詳細はこちらを一読されることをおすすめします。















    半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考(千葉 ...

    gendai.ismedia.jp/articles/-/54371
    このたび、ドイツの若き哲学者マルクスガブリエルを一躍有名にした著作『なぜ ... 私はこれまでカンタン・メイヤスーやグレアム・ハーマンらの「思弁的実在論」を紹介してきたが、ガブリエルの立場もそれに関係する。

    半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考(千葉 雅也) | 現代新書 | 講談社
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54371

    半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考

    「実在論ブーム」を読み解く

    このたび、ドイツの若き哲学者マルクス・ガブリエルを一躍有名にした著作『なぜ世界は存在しないのか』の翻訳が講談社選書メチエから刊行された。同書でガブリエルは、「新しい実在論」という立場を主張している。
    私はこれまでカンタン・メイヤスーやグレアム・ハーマンらの「思弁的実在論」を紹介してきたが、ガブリエルの立場もそれに関係する。今日の大陸哲学では、「実在論ブーム」が広く巻き起こっているのである。
    ガブリエルの「新しい実在論」とは、いかなるものなのか。ひとまず、「世界は存在しない」というキャッチーな主張は脇に置くことにする。それは実は、二次的なことだからだ。私の整理では、ガブリエルの言わんとすることの本体は、「本質主義vs.相対主義」という対立から抜け出す第三の道を開くことである。

    「世界は存在しない」とは?

    本質主義vs.相対主義というのは、極端に単純化すれば、次のような対立だ。
    富士山を、別の場所からAさんとBさんが見ているとする。本質主義によれば、富士山「自体」が唯一の実在であり、AとBはそれを異なる見方で見ているが、「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」は、たんなる見方にすぎず、実在的ではない。自然科学によれば、富士山の実在は物質的・数理的に説明されるべきものであり、そしてその説明だけが真である。
    相対主義によれば、我々はつねに何らかのパースペクティヴから見た富士山の見方しか知ることができない。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」がそれぞれにあるだけだ。そしてそれはどちらも「主観的な構築」であり、我々に問題にできるのはそれだけである―実在的な富士山にはアクセスできない。
    こうした対立が、大ざっぱではあるが、「ポストモダン」思想以後、解決できない問題としてくすぶり続けてきた。とくに人文学においては、「ポストモダン」以後に相対主義的傾向が強まり、それへの批判がたびたびなされてきた。
    そこでガブリエルはこう論じる。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」があるのは確かなのだが、それはたんに主観的な構築なのではない、それぞれに実在的なのだ。というのは、物事の実在はそもそも、特定の「意味の場」と切り離せない。
    以上の場合では、「Aから見る」、「Bから見る」というのが「意味の場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存している。では、富士山「自体」はどうかと言うと、富士山「自体」とは、諸々の実在的なパースペクティヴの交差のことなのである―「意味の場」から完全に孤立しているような富士山「自体」は考えようもない。
    ひじょうに民主的な哲学ではないだろうか。これは、複数の「意味の場」を共存させるオントロジー(存在論)だ。ここで、「世界は存在しない」というテーゼの意味が明らかになる。「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合であるが、そのような包括はいまやできないのだ。実在的パースペクティヴは際限なく増加するからである。
    ガブリエルは、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だという(広く支持されている)立場に否を突きつける。そうした科学主義は、特定の「意味の場」を特権化しているからだ。非科学的な実在性もあるし、ファンタジー的な実在性もある……しかしこの主張には少なからぬ人々が反発するのではなかろうか。
    『なぜ世界は存在しないのか』著者のマルクス・ガブリエル氏
    見方はいろいろだという相対主義ならばまだ「認識論的」だったわけだが、ガブリエルはさらに「存在論的」に相対主義を徹底している、そんなバカなことがあるか! と。さて、日本ではどういう議論が起こるだろう?
    ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。
    清水一浩氏の訳文はひじょうに丁寧で明晰であり、先端的な議論でありつつも哲学への入門書としても読める本書の魅力をよく伝えている。
    うっかり本書の挑発的なタイトルに騙されて手に取った人が、「ある」ということの不思議に巻き込まれ、そこからまた他の哲学書にも手をのばすきっかけになれば、哲学研究に携わる一人として嬉しく思う。
    読書人の雑誌「本」2018年2月号より
















    現代思想の新たな「天才」――マルクスガブリエルの「新実在論」とは何 ...

    diamond.jp>...>書籍オンライン>いま世界の哲学者が考えていること
    今回は現代思想の新たな「天才」と評されるマルクスガブリエルとその思想に迫りたいと思います。 メイヤスー ...


    マルクス・ガブリエル来日インタビュー  入門マルクス・ガブリエル  『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)(聞き手・解説=浅沼光樹)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
    https://dokushojin.com/article.html?i=3592


     …
    M・G ポストモダンのいわば原罪、一番基本的な過ちはひと言で言えば、マルティン・ハイデガー(独、一八八九年~一九七六年)です。ハイデガー、そしてジャック・デリダ(仏、一九三〇年~二〇〇四年)は、西洋形而上学からの抜け道を探っていた。彼らのアイデアは人間の活動性の分析によって、形而上学からの抜け道が見つけられるのではないかということでした。すなわち現前性の代わりに活動性が登場してきます。これはつまり人間による営みが現実に代わって中心になってくるということです。こうして気づかぬうちに自ら現実を構築するということになります。このような構築された現実は、構築主義そのものです。ハイデガーそしてデリダは、〈見出すこと〉と〈作ること〉の差異を一応は認めているのです。しかし、形而上学というのはすべてのものを見出すのだという、そういう考え方が彼らの立場だった。そのような主張をいわば逆転させるかのように彼らは、私たちはすべてのものを作っているのだと言っているわけです。これはつまり、アメリカのプラグマティズムとも対応しているのではないか。そのために、リチャード・ローティー(米、一九三一年~二〇〇七年)とデリダがいわばポストモダンの頂点になっている。そしてドイツでは、ユルゲン・ハーバーマス(独、一九二九年~)がそうで、彼も同じ理論に基づいています。



    (3)「近代」についての再評価
    ――あなた自身もまた、ハイデガーやポストモダンと同様に形而上学を批判しています。ただあなたの場合、西洋形而上学の歴史に対する態度に、特にハイデガーなどと比較した場合に一つの特徴があるように思われます。それは近代についての評価の違いです。

    ハイデガーの場合、彼が存在神論(オントテオロギー)と呼ぶ西洋形而上学の体制は近代でピークを迎えると考えられています。デリダなどのポストモダンにおいても、近代の評価はあまり高くありません。それに対して、これはハイデガーの場合ですが、古代ギリシャ、特にソクラテス以前の哲学者に対する賛美のようなものが見うけられます。『なぜ世界は存在しないのか』には、そのような態度は見られません。むしろあなたは、近代の再評価を行おうとしているように見えます。たとえば、それは近代における歴史意識の成立や、近代の視覚芸術の意味に対する、あなたの肯定的な評価にもあらわれているようです。

    このような近代の評価をめぐるハイデガーなどとの相違は、あなたのどのような考えに基づいているのでしょうか。


    M・G ハイデガーにおけるナチズムと、ハイデガーにおけるノスタルジーは同じプログラムです。私の意見では、たとえそれが割と近い過去であっても、そのようなノスタルジックな社会的現実の中に生きるべきではない、と思っています。たとえば古代ギリシャにおける哲学のシステムが成立し得るのは排他主義と奴隷制があったからです。こうした態度、こうした倫理的な態度はそれこそ倫理的に間違っていると私は思っています。近代において私たちは人間について重要なことを学んだのです。それは、人間が生存しているすべての地域において人間は一定の生き物である、ということです。たとえば日本人の哲学者とドイツ人の哲学者が文化的に何か差異があったとしても、それにもかかわらず、たとえば色彩というものが存在している、それを見ることができるし、あるいは私たちはいずれも幼年期、子供だった頃があります。つまり、人間存在の普遍的な基本構造みたいなものがあります。さまざまなかたちに差異化していくのですが、決して消えさることはない。そして近代というのはこうした事実に対応する社会秩序を作るという試みだったのです。だから近代の哲学者は、たとえば国民国家を乗り越えなければならないというふうに考えています。そして、私もそれに同意しています。
    (4)精神の哲学と二つの基本思想
    ――わかりました。今の質問との関係でもう一つ質問します。再評価されるべき近代の遺産のうち、その代表的なものとしてあなたが『なぜ世界は存在しないのか』の中で挙げているのが、〈精神(Geist)〉です。この書は〈無世界観〉と〈新しい実在論〉という二つの基本思想から成り立っているとあなたは言っています。しかし、この書物の中にはたとえば、宗教の問題を扱った章があります。そこには〈精神の哲学〉と呼んでもいいようなものが含まれており、しかもそれに重要な意味が与えられているように思われます。私のこのような理解は正しいでしょうか。もし正しければ、この〈精神の哲学〉は二つの基本思想とどういう関係があるのでしょうか。

    M・G 今からスケッチしていくのですが、以前出した『Ich ist nicht Gehirn(私は脳ではない)』(*1)の中ではその問題に対して答えを出しています。そしてもう一つの著作が『Neo-Existentialism(新しい実存主義)』(*2)なのですが、その基本的な思想は次の通りです。

    ガイストすなわち精神というのは、「なぜ私たちはたんなる自然の塊の一部ではないのか」ということについて想像しうるという人間に備わった能力のことです。すなわち精神の立場というのは、私たちが哲学を行う立場そのものです。つまり、私たちが精神と呼んでいるものは、人間が哲学を行う者であるということの別称でしかない。それはつまり私が哲学を行う、思考するということをたんなる自然における一つの出来事に還元できない、ということを表しています。つまり、思考の中で自然科学的世界観が批判もしくは否定されるということです。科学主義は人間がなぜ思考できるかということについての理解を提供できません。そのためそれは常に思考を随伴現象として説明することになります。

    *1『Ich ist nicht Gehirn:Philosophie des Geistes für das 21. Jahrhundert』(二〇一七年/独・Ullstein Taschenbuchvlg.)


    *2『Neo-Existentialism』(二〇一九年刊行予定/米・Polity)
    (5)西田幾多郎とマルクス・ガブリエル
    ――次に日本の読者という立場から質問します。日本人である私が『なぜ世界は存在しないのか』を読んで感じたことは、それが日本の近代哲学の創始者である西田幾多郎の〈場所〉の思想を想起させるということでした。特に〈存在する〉ということと〈どこに〉ということが不可分であり、そしてこのような存在が最終的に無においてあるという考え方です。この点がよく似ていると思いました。実際、日本ではあなたと西田の思想を比較する試みも現れています。

    そこで質問なのですが、この本の執筆以前にあなたは西田の場所の思想を知っていましたか? あるいは西田の著作を読んだことはありましたか? またあなたと西田の間にこのような類似があるという私の指摘に対して何かコメントがあれば、お願いします。

    M・G 西田幾多郎という名前そのものは存じ上げていましたが、読んだことはありませんでした。

    しかし、ハイデルベルク大学には、そういう研究企画(「Asia and Europe in a Global Context(グローバル文脈におけるアジアとヨーロッパ)」)があって、そのほかのアジアの哲学者の著作、特に仏教思想の基本的なテキストはいろいろと読んでいました。そういうこともあって、私が本の中で言っていることはある意味、仏教思想における論理的な深部構造と一致しているのではないかと思っています。西田においては、仏教思想について何が合理的なのか、何が理性的なのかを示すという課題があって、だからこそ似たような思想にたどりついたことは偶然ではないでしょう。なぜなら仏教思想というのは、形而上学ではありませんから。
    (6)シェリングの思想とマルクス・ガブリエルの哲学
    ――最後の質問です。私はフリードリヒ・シェリング(独、一七七五年~一八五四年)の研究をしているのですが、あなたの学位論文も後期シェリングに関するものでした。その後もあなたはシェリングについてしばしば言及しています。シェリングはその『人間的自由の本質』(一八〇九年)の冒頭で、人間の自由と両立可能な世界とはどのようなものか、という問いから出発しています。このような問題意識、人間の自由が可能であるような世界という問題意識は、あなたの『なぜ世界は存在しないのか』とも共通しているように思われます。そこで質問なのですが、人間の自由についてのシェリングの思想は、この書物にとって、あるいはあなたの哲学全体にとってどのような意味を持っているのでしょうか。

    M・G シェリングの『人間的自由の本質』は、私の理解では正しい存在論のための青写真というかスケッチです。しかし、シェリング自身は当時そんなことには気づいていなかったでしょう。なぜならその後、シェリングは、それを追求するためにはキリスト教を切り捨てなければいけないと気づいたからです。そのためには、よりグローバルな視点を作らなければならなかったのかもしれません。これが『神話の哲学』においては、またあらためて試みられることになるのですが、『啓示の哲学』の中では潰えた。つまり、十九世紀は時期尚早だったということでしょう。 

    ――なるほど、わかりました。私の質問はこれで終わりです。今日はありがとうございました。 
    (インタビュー・おわり)

    ーーーーー


    以下、未来への大分岐脚注

    キュパイ運動·直接民主主義·集合的想像力」木下ちがやほか訳、
    航思社、二〇一五年。
    = トAム|ャ·ネグリ、 マイケル . ハート「報 -トルト
    チュードの民主主義宜言」水嶋一憲ほか訳、NHK出版、二〇1
    111年
    第一部
    - トAム川オ·ネグリ、 マイケル . ハート 「く※回) ロー
    バル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」水嶋一憲ほか訳、
    以文社,二二0O1三年。
    2 福田慎一「2世紀の長期停滞論
    復」を探る」平凡社,二O一八年,三一頁。
    3 トマ,ビケティ「a世紀の資本」山形浩生ほか訳、みすず書房、
    1101四年。ジョセフ。E.スティグリッツ「世界の9%を貧困
    にする経済」桧井活一ほか訳、徳岡書店、二〇11二年。ロバート。B.ライシュ 「最後の資本主義」雨宮寛ほか訳、東洋経済新

    報社、二〇一六年。水野和夫「資本主義の終馬と歴史の危機」集
    英社,二01年。
    4 ヴォルフガング·シュトレーク「時間かせぎさの資本主義 い
    つまで危機を先送りできるか」鈴木直沢、みすず書房、二〇一六
    年、五五頁。
    5 ユルゲン.ハーバーマス『後期資本主義における正統化の間
    山田正之任办訳,岩波書店。二01八年,11110-1111。
    6 デヴィッド,グレーバー 「官僚制のユートビア||テクノロ
    「ジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則」酒井隆史訳、以文社、

    1101中111 1 1。
    Nick Srnicek and Alex Williams, Inventing the Future:
    Postcapitalism and a World without Work, London: Verso, 2016, p. 15.
    2 Michael Hardt and Antonio Negri, Assembly, Oxford: Oxford
    景気回
    -日本の
    「実感なき
    University Press, 2017. p. xiv.
    3ニコス·パパダキス「SYRIZA 左翼、社会運動、そして
    映権」「POSSE」線1中号 (二01五年). ならびに、 ト=
    オ·カンディアス「ボデモスから人民連合へ」「POSSE」第
    11人分(110 1五年) を参照
    * Hardt & Negri, Assembly, p. 20.
    15 後藤道夫「収縮する日本型 〈大衆社会〉
    ムと国民の分裂」旬報社、二〇〇一年、五〇頁。
    16 今野晴貴、藤田孝典(編著) 「闘わなければ社会は壊れる!

    (対決と創造》の労働·福祉運動論」岩波書店、二〇一九年、一
    ○K-1110に
    (解論)政権を出た派遣村村長 反貧困ネットワーク事務局長,
    湯浅滅さん、「朝日新聞」二〇一二年四月一三日朝刊。
    3スラヴォィ·ジジェク 「迫り来る革命|レーニンを繰り返
    」長原豊訳,岩波書店,二OO五年,六頁。
    9 Hardt & Negri, Assembly, p. 149.
    8斎藤幸平「大洪水の前に|ーマルクスと惑星の物質代謝」(Nの
    と麦書)堀之内出版、二〇一九年。
    Rー-マルクス 「資本縄」袋11網「全集」線1に 線
    ||経済グローバリズ
    17
    David Graeber, Bullshit Jobs: A Theory, New York: Simon &
    Schuster, 2018.
    8 カール·マルクス「ルイ·ボナパルトのブリュメール3日[初
    版]」植村邦彦訳、平凡社、二〇〇八年、二〇頁。
    9 デヴィッド,グレーパー「デモクラシー·ブロジェクト||オ
    分冊,阿崎次郎祝,大月書店,1九六七年,一O四|頁。
    2 ナオミ·クライン 「これがすべてを変える|資本主義込気候
    「変動」(上·下)幾島幸子ほか訳、岩波書店、二〇1七年、上
    8 ハリー·ブレイヴァマン「労働と独占資本|8世紀における
    「労働の衰退」富沢賢治訳、岩波書店、一九七八年、一二八頁。
    3 横田増生、今野晴貴「討論 松運輸化する社会||フレキシブ
    ルな労働を問い直す」「現代思想」青土社、二〇一八年三月号
    「物流スタディーズ」。
    下ルクス「資本論」第一卷。四三四頁。
    |ョーゼフ·シュムベーター「経済発展の理論 |企業者刊門:
    資本·信用·利子および景気の回転に関する一研究」(上·下)
    「塩野谷祐一ほか訳、岩波書店、一九七七年。
    Sネグリ、ハート「帝国)」、五〇〇頁。
    8 ルトン·フリードマン 「資本主義と自由」村井章子駅、日経
    BPクラシ ツ クス- 二○Oハ年、 三四七ー111回人質。
    8 Hardt & Negri, Assembly: p. 280.
    sイエスタ·エスピン-アンデルセン「福祉資本主義の三つの世

    界」岡沢憲美、宮本太郎監沢、二〇〇1年、ミネルヴァ書房、11
    111に
    8 Hardt & Negri, Assembly. p. 281.
    8 Christian Marazzi, Che cos'e il plusvalore?, Edizioni Casagrande.
    23 同書:下·第九章。
    24 http://blacklandandliberation.org/
    9 Nick Srnicek and Alex Williams, Inventing the Future:
    Postcapitalism and the World without Work, London: Verso, 2016 &11
    論Sーンンの環論を参照
    8ここでハートが言及している、有名な「否定の否定」の箇所で
    用いられている Erde というドイツ語の単語には、「土地 land」
    という意味だけでなく「地球 earth」AJSう意味もある。 また
    Marx/Engels Collected Works の英訳 に お願い ては、 この箇所で「コ
    中A P(in common)」という表現が出てくる。 のことを
    念頭に該当箇所を訳すと次のようになるだろう。「この否定の否
    定は、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだ
    す。すなわち、 自由な労働者たちの協業と、地球ならびに生産手
    段のコモンとしての所有 (1共同所有)を基礎とした個人的所有
    v=+S10°J Marx-Engels Werke, volume 23. Berlin:
    Dietz Verlag. 1972. p. 791.
    5Rー, マルクス, ブリードリヒー . エンゲルス 【共催似 」
    大内兵衛·向坂逸郎訳、岩波書店、一九七一年、四八頁。
    客 トーリー ·ホックシールド 「管理されるる 商品にな
    るとき」川進はか訳、 世界思社 二00○年、 七!九頁。
    3カ!,ャクス「経通学批判要」,「資本論草集集2」大谷
    植之介ほ如配。大月書店,一 九九三年,四九二頁,第三のx4
    メンの感備の
    2016. pp. 81 -83.
    ール ラニー 「「新] 大転換」時口建彦ほか訳, 東洋経別
    济新報社,二00九年,一0|頁。
    日アントニオ·ネグリ、ラウル·サンチェスーセデイージョ 「野

    生的で構成的な民主主義のために」 瀬純 (曜者) 「資本の専制、
    奴隷の板連 「南欧」先規思想家8人に肌くヨーロッパ情勢徹
    底分析」航思社,二01六年1111四頁。
    ルーズ 『ジル ·ドゥルーズ の「アベセデール」」
    分功一郎監修、KADOKAWA、 二〇五年。

    =)
    三鳥一世小訳,
    岩波著店,一九九九年,,四五三1一國五
    第二部
    l マルクス·ガブリエルの三部作には、「なぜ世界は存在しない
    S」塩」指眠 当1101く年にえて「「」は断
    はない||1世紀のための精神の哲学」姫田多佳子訳、講談社、
    110I R B! Der Sinn des Denkens, Berlin: Ullstein, 2018
    ジークムント·フロイト「ある幼児期神経症の病歴より (狼
    男)」須藤調任R,「7ロイト全集」第一四卷,和波書店,二01
    9 マルクス,ガブリエル&スラヴォイ·ジジェク「神話,狂気·一
    映笑|ドイッ観念論における主体性」斎藤幸平ほか訳、堀之内
    出版- 二01年。
    2 Jürgen Habermas, "Mit Heidegger gegen Heidegger denken :
    zur Veröffentlichung von Vorlesungen aus dem Jahre 1935,"
    Frankfurter Allgemeine Zeitung (July 25, 1953).
    =「ヘーム」については、111鳥恵 「ハイデガーの「照ノーー
    ト」をめぐって!反ユダヤ主義と現実感覚の喪失」「みすず」
    |2014年7月号を参照。
    12 シャンタル·ムフ「政治的なるものの再興」千葉箕ほか訳、日|
    本経済評論社、一九九八年、二三三頁。
    B カール·マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」「マ
    ある
    N Noam Chomsky, "The New York Times is Pure Propaganda."

    (last access on 2019.628)
    3 創生「日本」東京研修会 第3回 平成別年5月0日 憲政記念会館|

    (last access on 2019.6.28)
    「言葉と物|人文科学の考古学」渡辺一
    民ほか訳、新湖社、一九七四年、四〇七頁。ジャック·デリダー
    「人間の目的= 終わり」「哲学の余白」(上·下)高橋允昭ほか訳、
    当大学王 1100セー100人年、 上 ,111七頁。 フリー
    HA-Nーコー
    ドリヒ·ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(上·下)
    氷上英脈訳、岩波書店、一九六七年。マルティン·ハイデッガー
    T「ヒューマニズム」についてーバリのジャン·ボーフレに宛て
    「た書筒」渡漫二郎訳、筑摩書房、一九九七年。
    ハンナ·アーレント「全体主義の起源」(全1三巻)、大久保和郎、
    大鳥かおり訳、みすず書房、一九八一年、3·八三頁。本文中の
    引用は意藤配。
    6フリードリヒ,ニーチェ「道想の系譜」木場深定訳、 岩波書店、
    1九六四年,國四頁。
    ユルゲン·ハーパーマス「近代の首学的ディスクルス」(-.
    「ルクス.エンゲルス全集」第三巻、大月書店、一九六三年、五頁。
    = Slavoj Žižek, "A Plea for Leninist Intolerance." Critical Inquiry
    28.2 (2002) : 542-66.
    「15マルクス·ガブリエル「中立的な実在論」「現代思想」斎藤幸
    「平訳、青土社、二〇1六年一月号。
    落合陽一「日本再興戰略」幻冬舍,二0一八年,七四頁。
    E Tyler Burge. "Memory and Persons." The Philosophical Review,
    vol. 112, no. 3 (July 2003) : 289-337.
    8ガプリエル「なぜ世界は存在しないのか」、一六九頁。
    19 ユルゲン·ハーバーマス「事実性と妥当性!法と民主的法治
    5.
    「国家の討議理論にかんする研究」 (上·下)河上倫逸ほか訳、未

    HネAハーバートズ 「真型正当化一哲外得」 111
    「憲一ほか訳、法政大学出版局、 二〇1六年、二九頁。
    引下クス「資本論」第一卷” 1三五三頁。
    8トーャと会·w.トドルノ「リマ·モラリアー いた生員
    「活裡の省察」三光長治訳、 法政大学出版局、一九七九年、四二頁。
    3 Stanley Cavell, The Claim of Reason: Wittgenstein, Skepticism,
    Morality, and Tragedy, New York: Oxford University Press, 1979,
    p. 109.
    a Gabriel, Ich ist nicht Gehirn, Berlin:Ullstein, 2015, p. 154.
    mAロールズ 「正義論」 川本隆史はか訳, 把伊園壁書的"
    二〇1〇年、一八四~一九二頁。
    26「哲学者が語る民主主義の「限界」ガブリエル ×園分対談」
    (last access on 2019.6.28)
    「ガブリエル、ジジェク「神話·狂気·映笑」、一五六頁以下も参
    2 フレドリック·ジェイムソン著、スラヴォイ·ジジェク編「ア
    メリカのユートビア||二重権力と国民背兵制」田尻芳樹ほか
    訳、書肆心水,1101八年,111三頁。
    3 ョーゼフ·シュムベーター「景気循環論 |資本主義過程の理
    論的·歴史的·統計的分析」(全五巻)、金融経済研究所訳、有斐
    園、一九五九~一九六五年。
    「メイソン「ボストキャビタリズム」、一五〇頁。
    n Carchedi Guglielmo, and Michael Roberts, World in Crisis: A
    Global Analysis of Marx's Law of Profitability. Chicago:
    Haymarket Press, 2018.
    6 資本主義の成熟と利調率の関係については、小西一雄「資本主
    義の成然と転換|現代の信用と恐慌」桜井書店、二〇一四年を
    参照。7ビーター·ドラッカー「ポスト資本主義社会||烈世
    紀の組織と入間はどう変わるか」上田尊生ほか訳、ダイヤモンド
    社、一九九三年。


    HAーリフキン 「限界費用ギロ社会 (平ノのイン
    「ターネット》と共有型経済の台頭」柴田裕之訳、NHK出版、二
    O一五年、一三真。
    n たとえば、グーグルがファーウェイからアンドロイドのライセ
    ンス権を剥奪したのも、こうした文脈で捉えることができる。
    = AK 「資本論」 第三を" 111 1 111
    2 Graeber, Bullshit Jobs, p. 175.
    2 Carl Benedikt Frev and Michael A. Osborne, "The future of
    employment: How susceptible are jobs to computerisation?."
    Technological Forecasting and Social Change, vol. 114 (2017),

    5シャンタル·ムフ「左派ポビュリズムのために」山本圭ほか訳、
    明石書店,二01九年。
    器イマニュエル·カント「水遠平和のために」宇都宮芳明訳、岩一
    当能 「人五年、 四七頁。 未ネグリ、 ハート 【梅区」'区」
    頁も参照。
    第三部
    1 ポール。メイソン「ポストキャビタリズム」
    経済新報社,二o1七年。
    佐々とも訳、
    東洋

    p. 254-280.
    * Paul Mason, "Our problem isn't robots, it's the low-wage car-wash
    Being. New York: Penguin, 2019. p. 160.
    トクス「資本論」第三卷,一O五一頁。
    5セルジュ·ラトゥーシェ「《税成長)》は、世界を変えられる
    参与,幸福,自律の新たな社会会く」中野佳裕況:作品社,
    economy," The Guardian


    https://www.theguardian.com/commentisfree/2016/dec/12/mark-carney-britains-car-wash-economy-low-wage-jobs (last
    access on 2019.6.28)
    下心クス 「経済学批判要調」、「資本論草稿集2」國七一頁以下。
    16メイソン 「ポストキャビタリズム」、二三八頁。
    Hーコト.フロム 「自由田からの送走」 日高六郎駅 東京側元
    社、一九六五年。
    18 https://transparency.eu/uber-lobbyists/ (last access on 2019.  ★★★
    1101 1114
    ーA「茶ストキャビタリズ ム」、 三人O
    ト=ト+.トッカート「企業家とし ての国家1イ ノベー
    ション力で官は民に劣るという神話」大村昭人訳、薬事日報社、
    1101 H
    mAメイナード , ケインズ 「わが孫たちの経済的可能性」
    『ケインズ全集嫁九巻 説得論集」宮崎義一訳、東洋経済新報社、
    一九八一年、三九六頁。
    15
    17
    6,28)
    9 Srnicek and Williams, Inventing the Future, p. 12.
    8 下クス 「経済学批判要調」”「資本論草稿集2」、四九九頁。
    Dト·ヘト·くラリ 「ホモ , デウ スーテクノ ロジーとサ
    已エンスの未来」(上,下),柴田裕之訳,河出書房新社、二O1
    八年。
    ルチアーノ·フロリディ「第四の革命|情報圏(インフォスラィア)が現実をつくりかえる」春木良且、大束敦史監訳、新曜

    社、二0一七年、一三三頁。
    3 Paul Mason. "Why Marx is more relevant than ever in the

    本書はJSPS科研費者手研究 「人新世の環境思想ーポスト·デ
    カルト的一元論の批判的検討」(18K12188)ならびに韓国研究財
    国 NRF-2018S1A3A2075204 S支援を受け て おり、 その成界とし
    て刊行されるものである。
    age of automation," New Statesman. 
    https://www.newstatesman.com/culture/2018/05/why-marx-more-relevant-ever-age-automation (last access on 2019.6.28)
    24 https://www.ft.com/content/95f3f866-a87e-11e4-bd17-00144feab7de (last access on 2019.6.28)★有料
    3 Paul Mason, Clear Bright Future: A Radical Defence of the Human
    貴体主義の終わりか、未来
    人間の終場か?
    二〇一九年 八 月一四日 第一刷発行|
    三〇一九年一一月二四日 第五刷発行
    の大分岐
    斎藤幸平(3wと3
    リうく5)
    一九八七年生まれ。大阪市立大
    学大学院経济学研究科准教授。
    マミリン. フンボルト大学哲学園
    科博士課程修了。博士(哲学)。
    関専門は経済思想。Karl Marx's
    集英社新書○九八八A
    「著者……マルクス·ガブリエル/マイケル·ハート/
    「ポール·メイソン/斎藤幸平
    茨木政彦
    ,朱式会社集英社
    東京都千代田区1 少橋二-五- 一 O
    O三-三111三0-六三九 1 (編集部)
    Ecosocialism: Capital, Nature,

    発行者
    発行所.
    and the Unfinished Critique of
    Political Economy ( K
    水の前にーマールクスと感星の物
    質代謝」)によって、ドイッチー
    ャ一記念賞を日本人初、史上最
    年少で受賞。
    郵便番号 一O一-八O五O
    電話
    O111-1111110-1KOKO( )
    O111-1111|1110-K11RIER)
    装頓..…原研哉
    E. MOTIER
    .......
    …大日本印刷#式会社 凸版印刷#式会社-
    印刷所
    無製本所……加藤製本#式会社
    ....
    定価はカバーに示してあります
    © Markus Gabriel, Michael Hardt, Paul Mason,Saito Kohei
    2019
    ISBN 978-4-08-721088-0 C0233
    本には十分注しておりますが、品T , 幕丁(本のべージ取序の胃連 数け落ち)
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    ★★

    哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談

    2018年6月20日08時33分
     日々のニュースで当たり前のように政治や経済の危機が語られる今、民主主義は「危機」の解決に役に立つのか。もはや民主主義こそ問題なのではないか――。著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)がベストセラーになっているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが来日し、東京・築地の朝日新聞東京本社読者ホールで6月12日、哲学者の國分功一郎さんと対談した。「危機」の時代に、改めて歴史をさかのぼり、民主主義の原理を見直した議論では、「民主主義と国民国家は両立しない」「主権という考え方は怪しい」など、ラディカルな発言が飛び出した。
     対談は、住民運動への参加経験などから議会中心の既存の民主主義観を批判してきた國分さんが事前に送った「手紙」による問題提起を受け、ガブリエル氏が講演する形でスタートした。
     通訳は斎藤幸平・大阪市立大学准教授、聞き手・司会は朝日新聞文化くらし報道部の高久潤記者が務めた。対談は、本の著者を招いて講演などをしてもらう「作家LIVE」(朝日新聞社主催)の一環で、会場には定員を大きく上回る約900人から応募があり、抽選で当選した約200人が来場。2時間半に及んだ当日の議論の全容を、2万5千字超で詳報する。

    國分さんからの手紙

     対談に先立ち、國分さんは事前にガブリエルさんに問題提起のため、民主主義をめぐる四つの質問を手紙で送っていた。ガブリエル氏の講演はこの質問を踏まえて行われた。
         ◇
    ①実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
    ②立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
    ③主権に統治は可能でしょうか。主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
    ④現代政治が主権の限界に直面する一方で、主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか

         ◇
     手紙の中で國分さんは、2013年に都の道路建設計画の見直しを求める住民運動に参加した自身の経験に触れ、「道路を建設するにあたって、建設現場に住む人びとからいかなる許可も取る必要がない」とし、「日本の行政には万能とも言うべき権力」がある、と指摘。近代の民主主義において、主権は「伝統的に立法権として定義されてきた」が、主権者である民衆が行政の決定に直接関わることができない中、それは民主的と言い得るか、と問題提起した。
     公文書改ざん問題でも改めて注目を集める行政権力の強大化は、国レベルでも当てはまる。國分さんは安倍政権が2015年、閣議決定日本国憲法第9条の解釈を変更したことに言及。その反対運動の中で注目された立憲主義を、「いかなる政治権力も制約を受けるという原則」と説明し、制約を受ける側である安倍政権が「そのルールの解釈を変更」したことを批判した。だが考えるべき問題はその先にある。では「憲法は民主主義的な権力をどこまで制約できるのか」と問いかけた。
     また英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票など世界政治の潮流にも触れ、「主権を求める動きが高まっている」と診断した上で、「主権(民主的な議会)による統治は可能か」「主権を求める動きが高まる状況をどう捉えればよいか」との質問も投げかけた。

    マルクス・ガブリエル氏の基調講演「危機に瀕する民主主義」


     日本の哲学者と交流を持てるのを楽しみにしていました。きょうこれから國分さんからの手紙との関連で民主主義の危機について論じますが、二つのパートにわけて話を進めようと思います。最初に論じたいのは、民主主義の本質に関する問題、つまり民主主義とは何かという問いです。それを踏まえて後半では、民主主義は今、社会システムの中で実際にどのような形で実施されているのかについて話します。
     そのうえで最後に、民主主義の危機とは、前半で論じるその「本質」と、現在実施されている制度の間にある距離、隔たりから生まれているのだ、ということを指摘したいと思います。
     民主主義が誕生した時期として、一般的に二つの時期が語られます。古代ギリシャフランス革命です。では、なぜこの時期に民主主義が生まれたかを考えてみると、民主主義がある種の「価値」に対応する形で生まれてきたことがわかります。ここでいう「価値」とは「事実」に関するものです。例えば子どもを虐待してはいけないという価値(判断)は、子どもを虐待してはならないという事実に対応しています。同様に民主主義について考えるならば、民主主義の価値は、人間は人間として存在することができるためには、けっして誰にも譲渡できないような諸権利を必ずや必要とする、という事実に対応しているのです。ではどういう権利が必要かというと、人間として充実した意味のある人生を送るための条件、幸せな生活を送る条件を人間は必要としており、こうしたものが権利の内容になります。
     これが人権と呼ばれるものですが、人権とは言い換えるならば、人間が人間としての人生、生活を送るために必要な条件です。民主主義とは、こうした人間が人間として存在するための権利を実現することを目指す政治システムということになります。
     まずこの単純な話を基礎として、理想的な民主主義の定義について話すことができます。つまり、どのような社会的、経済的、政治的条件のもとでなら人々は充実した生活を送ることができるか、という問いに答えていくことで、理想的な民主主義を定義することができるでしょう。
     では実際にはどう定義していくのか。社会学、経済学など様々な学問がその条件を明らかにする役割を果たします。その意味で、民主主義とは、知に――それを知の体系と呼んでもいいでしょう――基づいたシステムということになります。ですから、まず私たちは、自分たちが生きていくために、どういった条件が必要なのかを事実として知る必要がある。民主主義とは知に基づいた統治形式と定義することができます。

     古代ギリシャの民主主義がなぜ失敗したのかについて話しましょう。簡単に言えば、その民主主義が「みんなのための」民主主義ではなかったからです。当時は奴隷がいました。奴隷は、民主主義の基本的な理念と矛盾しています。奴隷は奴隷所有者のために働くことを義務付けられており、自分のしたいことを行うことができません。こうしたエリート主義的なシステムでは民主主義は実現しませんでした。
     また、フランス革命の後の民主主義の試みも失敗しています。このときは、ナポレオンが目指した民主主義の拡大という試みが帝国主義的な性格を内包していたからです。帝国主義な性格による失敗については、まさに今日の米国の民主主義が失敗していることにも同じようにあてはまるように思います。
     ナポレオンのプロジェクトの失敗は、後世同じように繰り返します。そうした試みが失敗したのは、帝国主義的な方法で民主主義を普及させようとすると「みんなのため」という民主主義の基本理念を実現できないからです。要するに他者を十分に理解してこなかったことに由来する問題です。米国は「他者」を理解することを非常に苦手としています。この問題はこの後にも話になると思うので示唆にとどめますが、(ギリシャとフランスの)二つの失敗は、それぞれ(の民主主義)が十分に普遍的なものではなかったということで説明されるでしょう。
     さて2番目の問題について話しましょう。現代の民主主義についてです。今の民主主義の危機を考えると、二つの大きな問題があると言えます。
     一つ目は、真理と知についての危機です。そして、二つ目が不平等という問題です。二つ目のほうが簡単なので二つ目(の不平等)から話を始めたいと思います。

     世界規模でみると、少数の人のみが先ほど言った人権の理念に合致した生活を送ることができています。なぜ少数の人たちがそのような生活を享受できているかというと、残りのものすごく大勢の人たちが、人権の理念に合致しない生活を送っているからです。
     これは古代ギリシャとまったく同じような状況で、つまりある種の奴隷制が世界規模でみると生じているのです。ただし、今回の場合は、古代ギリシャのように、国内に大勢の奴隷と一部のエリートがいるというわけではなく、先進国のために途上国の人がTシャツを作っているという状況です。そのため、自分たちのために途上国の大勢の人々が仕事をしているという状況が(利益を享受している少数の人間側に)見えない、言ってみればアウトソーシングをしているような状態になっているのが特徴です。
     そうした状態下での民主主義は普遍的ではありません。この状況は帝国主義的な方法でも解決できません。無理やり解決しようとして(民主主義の理念を帝国主義的に)拡張してしまったら、今度はTシャツをつくる人がいなくなってしまうでしょう。つまり現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっています。
     もう一つの問題、つまり真理と知の問題に戻りましょう。私が言おうとしているのは、ポストトゥルースと呼ばれる事態のことです。民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態にあります。これは大統領のようなトップにいる人たちだけではなく、議会に選ばれている政治家たちも含めて、科学的な事実について完全に無知な状態に陥っています。例えばドイツではいま大麻を合法化するかどうかの議論がなされていますが、議論は事実をしっかり調べないままに、国会でただぺちゃくちゃしゃべっているだけの状態になってしまっている。これは事実に基づいて検討するという態度からかけ離れています。
     だからこそ必要なのは科学者たちであり、さらに言えば哲学者たちです。重要な問題については科学者や哲学者に意見を聞く公聴会が必要なのです。もしこうした公聴会なしに様々な決定がなされていくと、無知で自己中心的な政治家が私たちの生活にかかわる重要な決定を勝手にしてしまうことになります。こうした試みが私たちの民主主義を最終的に破壊することになります。
     ここにポピュリズムの矛盾が表れていることに注意が必要です。このポピュリズムの状況を変えるには、きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要です。だからこそ科学と哲学が必要なのです。公共圏を作り出すことができなければ、私たちにはある種の独裁が待ち受けているでしょう。

    マルクス・ガブリエル×國分功一郎(対談)

     國分功一郎氏:たくさんの方に来ていただいてうれしく思います。ガブリエルさんにもわざわざ日本に来ていただいた。とてもうれしく思っています。少しだけ全般的な話をしてから、応答に入っていきたいと思います。先ほどこの対談を前に、高久記者から「いま哲学はブームになっていると思いますか」という質問を受けました。確かにガブリエルさんの本がよく売れていて、僕の本もまあまあ売れているのですが(笑)、ちょっとそういうブームがあるのかもしれない。哲学の本が売れる。さらには新聞社主催のイベントでこうして哲学を研究している僕らが話をするとなると、たくさんのお客さんが来て下さる。
     ガブリエルさんは今日、民主主義の危機をテーマに話しましたが、なぜ哲学がブームなのか、仮にブームがあるとすると、やはり危機と対応しているからだと思います。はっきり言って人が幸せに暮らしているときは、哲学はいらないんです。古代ギリシャでもやはり危機が起きたときに哲学が起こりました。プラトンがいたアテナイは、腐りきったアテナイだった。ですからいま哲学が求められているのだとしたら、それはやはり何らかの危機があるのだろうと思います。そして、恐らく今日ここに来ている方は、政治に関しての危機に非常に自覚的な方が多いと思います。きょうは、ガブリエルさんはドイツのボン大学の先生なので、ドイツの話も少しうかがいながらそれについて考えていきましょう。というよりも日本と同じ敗戦国としてスタートしたドイツを日本はしばしば比較対象としてきました。その比較は今でも有効だと思います。日本とドイツはどこが似ていてどこが違うのか。ドイツでは民主主義がどう考えられているのか。そうした点についてもおうかがいしたいと思っています。
     ではガブリエルさんの講演に応答していきましょう。デモクラシーの本質(ネイチャー)と、デモクラシーがいまいったいどう実行されているかという話を皮切りに、古代ギリシャフランス革命という例が出されました。強調されていたのはまず「価値」、僕らがどういう価値を民主主義的な価値と思っているのかということです。更に、それはどういう事実に基づいているのかというふうに話が展開され、そこからどういう権利が導き出されるのかというところまで話は及びました。つまり、バリュー(価値)、ファクト(事実)、ライト(権利)がいわば等号で結ばれるような形でガブリエルさんは語られた。哲学はしばしば「自然の発見」によって始まったと言われますが、哲学の役割の一つは、ファクトを発見していくことなのかもしれないと考えました。

     さて、ガブリエルさんが依拠された民主主義の価値の中心にあったのは、「平等」だと思います。平等という価値を一番大事なものとして民主主義をとらえているからこそ、古代ギリシャは奴隷がいたからダメだということになる。この平等を考える時、一つ厄介な問題があると思います。先ほどは経済的な平等の話が出ましたが、民主主義における平等という場合には、もう一つ大事な平等があると思います。それは「決定への平等な参加」、つまり「メンバーシップ」の問題です。
     言い換えれば、「僕は日本国民だから日本国の政治決定に、他の人と同じように平等に関われるはずだ」という権利の問題でもあります。しかし、いまグローバリゼーション下で問題になっているのは、いったいそのメンバーシップをどう確定できるのかということです。「日本国民に平等に決定権があるべきだ」という主張はとてもいい主張に聞こえる。でもそれは他方では、「外国人は入るべきではない」という主張にもなります。
     例えば昨年、フランス大統領選の際、マリーヌ・ルペンフランスの極右政党の候補)が最後まで残って世界を大変驚かせました。彼女は「フランスのことはフランス人が決めよう」と言っていました。よく事情を知らないでルペンの話を聞いているとけっこういい話に聞こえてしまう。僕はどういう人か知っているから「何を言っているんだ」となるけれど、実のところ、上ずみだけ聞いているととてもいいことを言っているように聞こえるのです。決定権における平等の問題が排除と結びつく場合があるという問題がここにはあります。
     僕らは国民国家をもはやこのまま維持できないということは分かっている。でも他方で、誰にでも決定権を与えてよいという考え方にみんなが賛成するかというと、ちょっと疑わしい。ではどうやって政治的決定権を考えるか、平等なメンバーシップの問題をどうガブリエルさんは考えているのでしょうか。

    「価値と知」「メンバーシップ」について


     ガブリエル氏:二つのパートに分けて、國分さんのコメントに答えます。まずは、「価値と知」という問題。もう一つは「メンバーシップ」の問題になります。一つ目に関していえば、哲学だけがそうした「知」を明らかにする役割を担っているわけではなく、科学全体、社会学とか政治学とか、物理学とか数学とか、こうしたさまざまな学問がすべていっしょになって「知」を生み出しているわけです。(民主主義のための)「知」は、個々の学問分野がばらばらに生み出すことはできません。物理なら物理、政治なら政治、哲学なら哲学、科学はさまざまな法則を発見し、知を生み出しますが、そうしたものが集まることによって我々が必要とする知を獲得することが出来るのであって、こうした共同的な営みを実現していく必要があります。ただ、こうした共同的な営みはいまのところは起きていません。起きるべきだと私は言っています。それによって哲学は民主主義の実現に貢献することができるでしょう。
     國分さんは、非常に重要な問題、メンバーシップの問題を提起してくれましたね。この点について完全に同意します。つまり、民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれないということです。国民国家を超えて民主主義が拡張されなくてはならないという発想は、カントが言ったのが有名です。要するに、国民国家というものと民主主義は相いれないものなのです。これはまさに哲学的な洞察で、普遍性という原理からこうした洞察が導かれるわけです。この普遍性原理に基づかない民主主義を実現しようとすると、まさに帝国主義的なやり方になってしまう。まさに(今日の)グローバルなコミュニティーでは、民主主義を実現するためにまったく新しい構造が求められているわけです。
     もし国民国家をひたすら維持しようとするならば、多くの国に独裁的なものがうまれるでしょう。他にいくつかの小さな「希望の島」とでも言えるようなものはできるかもしれませんが。なぜかというと私たちが直面している問題を解決することが国民国家ではできないからです。私たちが直面している気候変動であったり、経済的な格差といったりした問題はグローバルな性格を持つものであって、そうしたものに対して、国境を線引きして、ここからこちらは関係ないと線を引いてしまうことはできません。
     難民や移民は、民主主義という名の下で自分たちの人権を求める権利を持っているわけです。しかし、そうした問題に対して、現在は彼らの人権を否定してしまうような状態になっています。この問題は非常にグローバルな現象ですが、彼らが求めているのはまさに人権を自分たちのものにするということです。彼らはまさに民主主義者と言えるでしょう。

     ただ現在は移民、難民の問題は、ポピュリストたちに利用されていて、ナショナリストのプロパガンダのために利用されてしまっています。私たちがこの状況において選べる道は二つあります。一つは、こうした状況を鑑みて、国民国家を超えた「グローバルなシチズンシップ」を与える民主主義の形式に転換していくこと。二つ目の選択は、まさに人類を破壊してしまうことです。私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面しているといえるでしょう。

    国民国家と民主主義

     國分氏:いまガブリエルさんは非常に強い主張をされたと思います。「国民国家は民主主義と相いれない」というものです。非常に強い主張で、これを僕はどういう風に扱ったらいいかなと聞きながら考えていました。一方でもちろん賛成です。カントの「永遠平和のために」という本がすごいのは、何か世界的なルールを作りましょうと言っているわけじゃないところです。カントは、「ホスピタリティー(歓待)」のルールさえあればいいと言っている。市民が互いに世界を行き交っていれば、自然と世界がよくなる、それ以上のルールを作ってはいけないという。これがカントの面白いところで、これが本当に実現されれば、確かに国民国家は薄まっていって、もしかしたらグローバルなシチズンシップにも近づいていくのかもしれません。「移民、難民は民主主義者なのだ」という主張も非常によく分かります。ある意味で、だからドイツは難民を受け入れる決断をして、まさしくカントが言っていたような「歓待」のルールを実践してきたわけです。

     ただ他方で、一足飛びにグローバルなシチズンシップに僕らは行けるのか、とも思います。そこで一つ問題になってくるのは、手紙の中で出した「主権」ということばです。主権というものは非常に扱いが難しい。一方で民主主義は「民衆が主権を行使する」ということを意味します。でも「主権」という概念はやはりどこか怪しくて、本当に自分たちで自分たちのことを統治できるのだろうかという疑いもあるわけです。国民国家という枠を取り払ってしまったときに、いったい主権はどういう形で担われることになるのか。つまり、グローバルなシチズンシップを目指していく中で、主権をどう考えたらいいのだろうか。
     というのも、ぼくは「主権」という考え方に懐疑的ですが、今のところ、主権がない政治を思い描けないのです。もしかしたらガブリエルさんは「主権のない政治」みたいなことを考えていますか? 主権についてどういうことを考えているかお聞きしたい。
     ガブリエル氏:私も、(その後に)デリダが議論した「歓待」という発想を支持しています。とはいえ、以下では「主権」というテーマの歴史にさかのぼって考えたいと思います。一番有名なのはトマス・ホッブズですが、ホッブズ自身は主権や民主主義というテーマで論じられることが多いものの、彼自身は民主主義者ではなく、むしろ奴隷を所有しました。彼の哲学、政治理論というのは矛盾を含んでいます。
     ですから、私たちは政治と主権というものの関係について考え直す、再考する必要があると思います。私たちが民主主義について考えるとき、しばしば「人民の主権」、自分たちで統治する、人々により多くの権力を与える、というかたちで考えがちですが、民主主義というものは、先ほど説明したように普遍的な価値システムなわけですから、主権という概念とは相いれないものです。
     なので、主権という概念はいりません。主権なしに新しく民主主義について考える必要があります。ホッブズの場合は、政治的な共同体を内戦の結果として生まれたものとして理解しています。自然状態では人々は闘争をしてしまうので、それを調停するために社会が生まれたと考えるわけですが、こういう考え方をやめる必要があります。実際、主権が存在しなければ人々は自然状態における内戦状態になってしまう、という実証的な裏付けは、ホッブズの主張にもかかわらず、ないわけです。
     むしろ、ホッブズの主権理論は、アメリカの先住民族に対するジェノサイドを正当化する目的で、自然状態を早く乗り越えないと内戦が深刻化してしまう、そのため強い主権が必要だ、という奴隷所有者としてのホッブズの主張と結びつけているわけで、そうしたものを受け入れる必要はないのです。

    民主主義と主権

     國分氏:もう一つ、非常に強い主張が出されたと思います。先ほどの「国民国家と民主主義は相いれない」というテーゼに加えて、「民主主義と主権の考え方は相いれない」というテーゼですね。これは僕は今の政治理論の最先端の問題だと思います。先日、僕は憲法学者の石川健治先生と憲法について話しましたが、石川先生も主権概念について非常に強い疑問を呈されていました。やはり正面から理論的に考えると、主権という概念には大いに問題があるのです。まやかしがあると言ってもいい。例えばハンナ・アレントは主権の概念をまったく認めない立場でした。僕の専門分野だと、デリダもずっと主権について批判的な考察をしてきました。だから、すごくよく分かる。
     ただ主権を要求しなければいけない場面も間違いなくあるということも一応付け加えておきたいと思います。3年前、僕はフランス留学時代の恩師であるエティエンヌ・バリバール先生がいるロンドンの大学に客員研究員として滞在していたんですが、その時、先生の講演会に行って、同じようなことを質問したことがありました。主権概念に問題があるのはよく分かる。しかし主権を要求しなければならない場合もあるのではないか、と。バリバール先生は、「それは『WHEN(いつ)』と『WHERE(どこで)』の問題だ」とおっしゃいました。やはり場合によっては主権を要求しなければならない。
     例えば、いま沖縄県で、外国の軍隊の基地が、ものすごくきれいな海を埋め立てて造られています。地元の人の反対の意思があるけれども、本土は基本的に無関心です。僕はしばしば「この国は本当に主権国家なのだろうか」と思います。「基地を造ろうとしている国の『属国』なんじゃないか」と感じるときがある。こういうとき、主権を要求する必要が出てきます。
     話を少し展開しましょう。ガブリエルさんの今日の話で印象的なのは、「平等」を非常に大切にされているとともに、「ナレッジ(知)」の重要性を強調されているところだと思います。僕はガブリエルさんに宛てた手紙を、自分が体験した、地元の道路建設をめぐる住民運動から書き起こしました。様々な知識や情報がきちんと共有されない。これは情報公開の問題でもありますが、行政と住民は知識と情報に非対称性があり、住民側からこういう事実があると持っていっても、一方的に「道路をつくる必要がある」と言われてしまう。民主的社会が実現するためには、知識と情報を行政と市民が平等に共有することが非常に重要だと思います。

     ただ、ここにパラドックスがあります。ガブリエルさんも政治家の無知について言及されていましたが、そうすると、たとえば専門知識がある人が大臣になるのがよいのだろうかと考えてしまいます。例えばイタリアでは先日、法学者が首相になりました。一見すると、経済学者が財務大臣になるといい気がします。けれどもそれには民主主義的には問題があります。専門知識を根拠として政治家や大臣が選ばれるとなると、それは民主主義的に見て正統なのかということです。もし専門知識を持った人が大臣をやるのがいいならば、選挙をやる意味がなくなってしまう。ここには、専門知識と民主主義的手続きの問題がなかなか一致しないという重大な問題があります。
     危機のときには専門知識を持った大臣の方がいい気もします。けれども、これを常態化、恒久化していいのか。もしこれを認めるなら僕らはある意味で民主主義を捨てることになります。けれども他方で、今の世の中でみんなが専門知識を持つことも不可能です。例えば僕は、年金の仕組みなど全然分からないわけです。厚生年金とかもよく分かっていない。自分に関係あるのに(笑)。これはある意味では20世紀頭ぐらい、あるいは19世紀からかもしれませんが、ずっとある「行政国家」がもつ問題です。専門知識が必要だけれども、それがなかなか民主主義の中では共有できない。この問題についてはどうですか。

    専門家の意義

     ガブリエル氏:私が言っていたモデルというのは、別に科学者や専門家がそのまま政治家になって統治をすべきというものではありません。政治家自身も当然、私が言ったような政治家としての地位があるので、それは尊重されなくてはなりません。実際、専門家という点においては、今のシステムでは官僚がいるわけです。官僚が年金などの問題についての専門家として既に存在しており、彼らは終身雇用の立場で、政治家たちよりも長い期間はたらく専門家として機能しています。たまたまドイツでは博士号を持った物理学者のメルケルが首相で、彼女は物理学の専門家でもあるわけですが、それはたまたまであって、そういう人が首相になることを、私が薦めているわけではありません。いずれにせよ、官僚のような専門家は必要なのです。
     私が言ったのは、公聴会がもっと必要で、重要な問題について公聴会を必ず開かなければならないということです。実際、法律の教授なら法律の技術的で複雑な問題について相談を受けて、公聴会がしばしば開かれているし、経済学の教授なら同じような形で(経済に関する)公聴会に呼ばれています。ところが、哲学の公聴会はどのくらいの頻度で開かれているしょうか。化学だったら、薬学だったらどうでしょうか。こうした問題についても、もっともっと公聴会を開いていく必要がある、というのが私の考えです。
     その上で付け加えますが、いままさに話しているこの場も公共の場、「公共圏」ということです。そういう意味ではジャーナリズムも非常に重要です。ここではある種の「分業」があるわけですが、まさに「公聴会」はこうしたかたちでも開かれているといえます。この場で私たちの話を聞いて、みなさんは(市民として)自分なりの意見を形成することが出来るのであって、こうした場をもっともっとつくっていく必要があるでしょう。ですからジャーナリズムは民主主義のために非常に重要なものです。
     もう一点あるとすれば、インターネットの問題です。インターネットをどう規制するかが非常に重要になってくるでしょう。なぜかというと間違った情報ばかりでは、しっかりとした公共圏が形成されないので、インターネットを「野性」の「なんでもあり」の状態で放置しておくわけにはいきません。その意味で規制を考えていく必要があります。その上で、主権を含めて民主主義をどうやって実現していくかという問題を考えていかなければなりません。
     國分氏:「知識」を通じて考えた問題にもう少し、こだわりたいのですが、公聴会をめぐるガブリエルさんの提案に僕は賛成です。「来るべき民主主義」(幻冬舎新書)という著作で僕が民主主義について提案したことも、とても穏やかなことです。議会は万能でも何でもない。ところが民主主義の話をすると、みんなすぐに議会の話になる。「議会をよくしよう」という。でもそうではなくて、民主主義にはもっと別の、民衆の意思の実現ルートがあっていいはずです。例えば僕が関わった住民投票もその一つだし、公聴会もそう。そうしたいろんなパーツを民主主義に足していって、民主主義的な意思の実現のルートを増やすという提案を僕はしてきました。ですから、今のガブリエルさんの話にすごく共感するところがありました。
     さきほど行政権力の問題に触れましたが、この点について別の観点から考えてみましょう。行政権力が専門化しているがゆえに極めて強い力を持つというのは、20世紀にずっと指摘されていたことです。「行政国家」という専門用語でこれはずっと論じられてきました。ただ、行政の方が民主的な手続きに先立って動いてしまうことには理由があるというか、必然性もあるんですね。それは何かというと「スピード」の問題です。グローバリゼーション下では信じられないスピードで、災難が国に降りかかってくるわけです。それに対していちいち選挙して代議士を出して、議会で話し合って……ということは正直できない。いまのグローバリゼーション下では、猛スピードで事態が進行するため、どうしても行政権力は強くなります。
     ドイツというのはある意味で、これを20世紀頭に悲劇的な形で体験した国だと思います。というのも大恐慌が起きて、ワイマール期の民主的な議会は何も決められなくなっていき、どんどん立法権を行政の方に手渡していくということが起こる。そうした結果としてナチズムが出てくるわけです。ナチスによる独裁というのは要するに行政が立法権を持つ、ということです。
     行政は法律によって常に規制されているし、規制されなければならないわけですが、自分たちで自分たちのルールを作ってしまうというのは自分たちで好きに出来るということですから、これは行政の「夢」なんですね。ナチズムとは、絶対に実現してはならない行政の「夢」を実現してしまったものとしてみることができます。
     民主的な手続きにはスピードの点で劣るという構造的な弱点がある。特に現代では民主主義とスピードの問題を無視できないと思う。これはポール・ヴィリリオ的な問題ですがどう考えますか。

    民主主義の理念と実行の緊張関係

     ガブリエル氏:まさにおっしゃるとおりです。ここには再び、ここまで話してきた緊張関係が存在しています。つまり、民主主義の理念と、実際にそれをどう実行・実現していくかという問題の間にある緊張です。これは行政の問題になってくるわけですが、行政というのは「中間の媒介的な層」であって、経済、警察の問題、あるいは、火事が起きた時に消防士を派遣するといった問題に対応するわけですが、情報は複雑なわけですから、行政の役割とは、情報を、フィルターを通じて濾過(ろか)して複雑さを減らして処理することなわけです。
     ここでの問題は、そうしたフィルタリングを通じて行政がだんだんと権力を増していくことです。つまり、情報処理すること自体が行政に権力を与えてしまう。この問題に対抗するには、倫理的なものが必要になります。民主主義をいざ実行しようとすると、そうした問題が出てきます。ルソーはかつて「市民宗教が必要だ」と言ったわけですが、これがまさに今で言う倫理が必要という話です。人々が責任感をもって行政を扱う必要があります。行政を行う人もまた市民なのです。
     例えばメルケルであっても、法の前では私と同じ市民であって、その意味では「平等」なのです。メルケルはもし気にくわなければ権力を使って私を抑圧することができるかもしれません。でも倫理的にみたらそれは誤りを侵していることになります。とはいえ、抑圧することは非常に簡単なわけです。
     そういう意味では、哲学が出来るだけ速い段階で人々に教育されること、つまり倫理的判断が出来るためのトレーニングを初期教育として行っていく必要があると思います。中学や高校で、数学と同じように教えるべきなのです。数学もトレーニングなしにはできないように、倫理的判断もトレーニングなしにはできません。倫理的教育は簡単なものであれば5~6歳でもできるので、出来るだけ速く学校で、哲学を他の学問と同じように教えるべきだと考えています。
     國分氏:同感です。実はいま日本では役人が書類を勝手に書き換えたことが問題になっています。この事件は役人が悪いというより、政治家がプレッシャーをかけているから起こったものなのですが、実のところ、僕はあの事件で一番問題だと思うのは、あまり大衆が強く怒っていないことです。とんでもないことが起こっているのに全然怒っていない。それどころか「もう分かったから報道はやめろ」という声すらある。
     僕はここでアレントが「全体主義の起源」で示した、大衆社会における大衆の姿を思い出します。アレントは「大衆は何も信じていないから、何でも信じる」と言っています。何か「これだけは動かせない」という価値を信じていないから、何が起きても「ああそうなんだ」とすぐに信じる。

     もう一つ大事な要素は、そうした「軽信」(何でも信じる)と合わさった「シニシズム」です。どういうことかというと、騙されたことが分かっても、その次の日には「ああ、まあそうだろうと思っていたよ。分かっていたよ」とシニカルにそれを受け入れてしまうのです。騙されていることに驚かない。僕は、これは完全に今の日本だなと感じます。首相が「福島の原発はアンダーコントロール」と言っても、怒らない。そういうことが常態化している。そして、そうした事態を招いている原因の一つは、アレントの分析に従うならば、人びとが何か価値を信じていないということにある。
     例えば今日、ガブリエルさんは「民主主義において平等が大切だ。価値を共有することで権利が生まれる」とおっしゃった。僕もその通りだと思いますが、日本の問題は「平等」とか「権利」といった価値が信じられていないということなのです。ここからルソーの言う「市民宗教」について考えることもできるでしょう。「市民宗教」もまた、ある種の価値の共有のために必要とされるのです。僕は最近「信じる」ということが大切だと思っているんです。ではどうすれば、みんなが価値を信じることが出来るのだろうか。これはガブリエルさんに伺うようなことではないかもしれませんが、もしご意見があれば伺いたいです。
     ガブリエル氏:大衆心理に対する診断について、完全に同意します。これは解決策ではなくある種の提案ですが、教育において読み書きを教えるわけですが、読み書きについてはみんな「それは必要だ」というわけです。読み書きなんて教えなくていいという人がいたら「狂っている」と思うでしょう。それに対して、倫理的なことについて無知な状態は一般に受け入れられてしまっています。この状況は本当に大きな過ちです。私たちが民主主義的な社会システムのもとで生きている状況で、本来は「自由に考える」ということが重要ですが、幼稚園や学校では決して教えられない。むしろ「自由に考えない」ように教えられているわけです。
     本来、「自由に考える」というのが最も重要な教育における原理であって、最初に挙げられた大衆の問題も「自由に考える」ということを徹底すれば解決できる問題なのではないでしょうか。いま日本でもドイツでも直面している問題は同じもので、「自由に考える」ということで一つの解決策が見えてくるのではないか。
     もし、「自由に考えること」ということに同意しない人がいたら会ってみたいですね。トランプ(米大統領)は同意しないかもしれないが、彼は民主主義者じゃないので放っておきましょう。

    立憲主義と民主主義

     國分氏:次に立憲主義と民主主義の関係について話し合っていきたいと思います。まず、簡単な質問なんですが、ドイツでは「立憲主義」って言いますか?
     ガブリエル氏:言いますよ、もちろん。
     國分氏:実はこの言葉、日本では少し前まであまり使われなかった言葉なんです。法律の専門家は使っていたけれども、一般的にはほとんど耳にすることはありませんでした。どうしてこんな専門的な言葉が注目を集めるようになったのかというと、この原則が危うくなってきたからです。
     立憲主義の考え方というのはある意味では簡単で、どんな権力も制約を受けるということです。民主主義というのは民衆が権力をつくる政治体制のことであり、これと立憲主義を組み合わせたのが近代国家の基本的な枠組みであるわけですが、だとすると、立憲的民主主義の政治体制においては、「民衆が権力を作るけれども、その権力でさえも憲法によって制約を受ける」ということになるわけです。つまり、「民主主義だからといって民主的に決めれば何でもやってよいわけではない」というのがその基本的な考え方になります。
     すごく分かりやすい例を挙げると、人種差別を合法化するような法案を国会で通すことは民主主義においてあり得ます。しかし、そういう法はあらかじめ憲法によって禁止されているので、最終的にはボツになる。そうやって、あらかじめ民主主義がやっていい範囲を決めておくのが立憲主義の考え方です。ただ、立憲主義と民主主義の関係は、国とか、地域、歴史によって色々変わってくるものだと思います。ドイツでは、民衆の力としての民主主義と、それに対する憲法の制約について、どういうふうに受け止められているでしょうか? ドイツは立憲主義的な発想が非常に強いと聞いていますが、どうでしょうか?
     ガブリエル氏:まさにこの問題はドイツにとっても中心的な問題で、立憲主義も様々な論者が強調する問題です。立憲主義とは、どのような権力も制限されなければならないということです。ドイツの憲法でも立憲主義が言われており、第1条は、人間の尊厳は不可侵である、としています。これが第一命題となっていて、そのうえで2条、3条以降も書かれている。

     私の今日の話は、このドイツ憲法第1条の私なりの解釈だったわけです。戦後ドイツは人々が権力をどのように制約するかという観点から憲法をつくったわけですが、重視されたのは、倫理的な土台がなければならないということです。政治的なシステム、つまり国家は単なる形式的なシステムではなく、倫理的な基礎をもったシステムになっていなければなりません。倫理的な基礎がなければ、すぐに無制約的なシステムや権力に取って代わられてしまうと考えました。
     國分氏:いまのお話に同意です。ただ、いまおっしゃった「倫理的な基礎」についてはもう少し考えるべきことがあると思うんです。現在の首相である安倍氏は、「憲法解釈に責任をもつのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」という発言をして物議を醸したことがあります。こう発言する彼が、法とは何か、憲法とは何か、立憲主義とは何かについて、何も知らないし、何も分かっていない、無知な人間であることは明らかです。しかし、そこには、それでもなお論ずべき論点があると思います。それは何かというと「民主的な権力はいったいどこまで及ぶのか? どこまで及ぶべきなのか?」という問いです。
     もちろん、ドイツの憲法第1条の理念を否定する人はいないと思います。でも、「憲法に書かれているからもう絶対に誰も手出しできない」ということは、民主主義の理念とどう折り合いをつけることができるのか。この問いは抽象的には考えられないものかもしれず、論点ごとに考えなければならないことかもしれません。ただ理論的問題としてそういう問題があることは指摘しておきたいのです。
     こう述べながら僕が思い出しているのは、アントニオ・ネグリという哲学者です。ネグリ氏はイタリアの左派の哲学者として世界的に有名な人ですが、このネグリ氏は明確に立憲主義に反対しています。彼に言わせれば、民主主義は、民衆が自分たちで自分たちのことを決める政治体制なのだから、どうして他の原理が必要なのかということになるわけです。僕はネグリ氏に同意しませんが、しかし気持ちは分かる感じもするわけです。
     立憲主義というのはある意味、エリート主義的な原理だと思います。民主主義が下からつくっていくものだとしたら、立憲主義は上から「はいダメ」と言ってくる。だから立憲主義に反対する人がいることは分からないではないのです。日本の首相だけではなく、哲学者にもそういう人がいる。「なぜ自分たちが決めちゃいけないのか」という民衆の反発をどう考えたらよいでしょうか。

     ガブリエル氏:幸運なことに、人間の尊厳についてドイツでは「それが必要ない」というふうに誰も否定しないわけです。それは極右であっても、どんな人であっても人間の尊厳の重要性については否定しない。このことからも分かるように、民主主義は制限されています。民主主義が決定できることは「全部」についてではないわけです。例えば我々は「誰かを拷問するかどうか」について、投票を行うべきではありません。この部屋で誰かを拷問するかどうかを投票して決めてはいけないわけです。そういう意味で、民主主義が投票で決められる内容は制限されています。それに対して、極左の人たちは何でも決定できるという発想になってしまいますが、それが実現すると、スターリニズム、毛沢東主義になってしまう。だから私はネグリ氏の考えには明確に反対しています。民主主義にはとにかく制限が必要で、この制限はどういったものかというと、ふつうの正しい考え(ライト・マインド)を持っている人なら決して疑問視しない。
     例えば、人間の尊厳についての問題がそうでしょう。人間の尊厳を傷つける拷問は、民主主義が絶対に決めてはならない。つまり民主主義は自分自身に、つまりは民主主義自体に反対することができません。これが、私が主張するラディカル・デモクラシーという理念になります。「民主主義は民主主義についてのものである」というのがラディカル・デモクラシーの基本的な発想です。
     ヘーゲルは「法哲学」で「法は自由意志を欲する自由意志である」と言っています。つまり自由意志を実現するものに反対するようなことを望むことはできません。民主主義には決して疑問視されてはならない内容、事項が存在していて、もしそれを望んでしまうなら、2+2=7と言ってしまうような非常に大きな誤りを犯すことになる。2+2=7なら単に数学の計算間違いですが、民主主義の場合は、非常に深刻な倫理的な誤りを犯すことになるわけです。
     國分氏:日本では数年前、「いつまでたっても憲法を変えられないから憲法の変え方を変えてしまおう」と構想した首相がいて、それが今の首相です。今のルールの下で、ゲームのルールを変えることができるのかというすごく形而上学(けいしじょうがく)的な問題なんですが、総スカンを食らったので彼はこれを引っ込めました。ところが、そういう光景を目にしても日本人はあまり驚かなかった。あれにもっと驚くべきだったということだと思います。立憲主義的な価値の共有がいかに尊重されているか、それがドイツの話からよく分かったように思います。これを日本でどう実現できるか。そうしたことを思って話を伺っていました。

    倫理は教育できるのか

     ――会場からの質問を受ける前に一つ質問させてください。民主主義には倫理が欠かせないということでしたが、それはどう教育できるのでしょうか。相次ぐテロなどをみていると、民主主義を含む欧米型の政治体制に反発を抱く人は少なくありません。
     ガブリエル氏:あらゆる子どもたちは生まれたときに、倫理的な問題に対するある種の感性を持って生まれてきます。子どもたちはすぐに規範というものを求めるようになります。人間というのは、規範性に対する感性を持って生まれてくる。つまり、大多数の人間は、生活において規範的な構造というものを探しながら生活するわけです。
     その時に選択肢が限定されたものにならないといけないわけです。もし私たちが子どもたちに倫理を早い段階で教育したとしたら、彼らがのちに権力や社会的地位を得た時に、何でも選択するわけではなくて、例えばいまおっしゃったような、民主主義の価値をまったく信じていないような人々が行ってしまうような論理づけ、理由づけにおける誤謬(ごびゅう)、誤りというものがだいたいなくなるわけです。
     民主主義を信じないで排外運動に傾くような人たちは、欠陥を含んだ理由付けをしてしまっています。例えば「ユダヤ人は悪いやつだ」と信じている人たちに「なぜそう考えるのか」と聞くと、そのときにかえってくる理由づけは、まさに欠陥を含んでいる薄弱な推論です。

     もちろん、倫理的な教育をしたとしても、そのうえで人々の意見が異なって合意しない、意見の食い違いは存在します。ただその時の意見の食い違いは合理的な形をとるようになるわけです。つまり、ちゃんとした理由づけをできる人たち同士の意見の違い、互いに違うようになるという状態は、それ自体が倫理的な状況と呼ぶことができます。なぜかというと、同意していない物事についての「幅」がすでに限定されていて、そこでの意見の不一致はめちゃくちゃなものではなくて、合理的なものになっている。そういうものが実現された状態こそが、私が民主主義の「倫理的な土台」と呼ぶようなものです。

    多数決は平等なのか

     【会場からの質問】いまの民主主義は本当に平等なのか疑問です。多数決は平等なのでしょうか。結局、少数に回ってしまった意見は切り捨てられてしまいますし、代表として選ばれた人は選んだ人の利益だけを追求しており、みんなの権利を探していく民主主義の理念からは隔絶したものに感じられます。
     もう一点、なぜ民主主義は専門家に任せられないのか。例えば水、病院、通信の管理は専門家に任されています。そこには信頼の上でいろんなものが成り立っていますが、なぜ政治は成り立たないのか。自分には自分の専門があって、政治について考える時間がない。すごく短い時間で、政治家が口で言っているすごく少量のことからしか考えられない。自分自身もみんなも無知で、無知な人が代表を選んで、結局はうまくいかない。
     だったら全体を考えてくれる人に任せる選択肢があってもいいのではないか。今まで失敗しまくってきたのかもしれませんが。
     國分氏:日本では「民主主義とは多数決である」という通念が非常に強く存在しています。そんな考えはドイツであるのか、お伺いしたいです。
     あとなぜ専門家に政治を任せてはいけないのかという点に僕が応えておくと、そうやってしまうと、自分が困ったときに何もできなくなるということだと思うんです。道路を作りますが、あなたの家が邪魔ですのでどいてくださいと言われた時、何も言い返せない。確かに何の危機もないときは、政治に参加していなくても何も困らない。けれども、災難が降りかかったときにはものすごく困ります。

     ガブリエル氏:どちらの質問も面白いのですが、日本に来てからよく聞くのが「少数派をどう扱うべきか」という問題です。ドイツでは多数決ではなく、同意を形成していくことが重視されています。今日の話でいうと、「倫理的な土台」を考えるときに、多数決で圧倒的な多数を占めたからといって、その意見が重要なのではなく、「倫理的な土台」に基づいて考えたから、その決定がみんなのためになるから効力、力を持つわけです。
     例えば何か権利を行使するさいには義務がある。その義務とは反対する人を抑圧しない形で権利を実行していかなければならないということです。そうでなければ、倫理的な誤りを犯すことになるでしょう。
     もう一点ですが、専門家に任せればいいというのは、まさに中国がそういったモデルになっていますが、私はその仕組みに賛成しません。ある種の独裁です。それが監視社会と結びつく。専門家と監視社会が結びついて独裁がもたらされるというのは、わりと専門家が一致する見解ではないでしょうか。
     國分氏:一つだけ。僕は住民投票は最後の手段だと思っています。他にどうしようもない時に使われるべき手段ですね。あと、住民投票の制度は、いろいろなかたちが研究されています。単に「51%だったらOK」とはしないやり方があるということだけは言っておきます。
     【会場からの質問】お二人にお聞きしたいのですが、ものすごい衝撃を受けたテーゼが二つあります。一つは「民主主義と国民国家は相いれない」。もう一つは「民主主義と主権は相いれない」という。国民国家も主権も必要としない、それに代わる新しいシステムはありうるのか。公聴会の話がでましたが、日本では往々にして政府の息がかかったものになり、あまり実質的な効果を果たしていない。ドイツではそれを防ぐ仕組みがあるのかどうか教えてください。
     國分氏:実のところ僕も、ガブリエルさんはそこまではっきり言うんだとは思いました。ただ、国民国家について少しだけ言っておくと、国民国家と国家は違うので、国民国家はなくなっていっても、国家は残るわけですよね。国家という制度は簡単にはなくならない。他方、主権なき政治、主権なき民主主義については、僕は今のところアイデアはありません。ただ言えるのは、主権という概念を金科玉条にしてはいけないということです。僕らはもう少し主権に懐疑的になるべきだと思います。
     ガブリエル氏:国民国家については連邦モデルで考えています。つまり、グローバルな政府というものを連邦モデルで考えていて、今の国家のような構造をもっていて、例えば日本でも地方自治体があり、国家があるような同じ構造をグローバルでやればいいと。だから、グローバルな政府の下にローカルな州(国家)があって、今の国民国家モデルをグローバルに拡張した連邦モデルが、一つのモデルのないのではないか。
     そしてそのとき、市民権がない、いわゆる「不法滞在労働者」と呼ばれるような人たちに対して、グローバルなパスポートを発行する必要があるでしょう。グローバルな次元でのシチズンシップが保障されて、個々のローカルな政府があり、ローカルな次元の規制も存在する、さまざまな地域差がありながらも、場所を移動できるグローバルパスポートが必要になる。何でもありのアナーキズムではなく、さまざまな規制のもとに成り立ったモデルになります。
     その場合、地域ごとのさまざまな「情報処理」が必要で、具体的にどうなるかは検討が必要ですがまず、こうしたことを考え始める必要があります。考えれば将来的にどういうものが可能か、が見えてくるでしょう。

     政治理論をやっている人たちが、本や新聞などでこうした考えを発表することで人々に広まり、現実に実行されるということが歴史上においても様々な形で起きたわけですし、こうした問題をグローバルな文脈で考えていく必要があるでしょう。
     主権なしの政治体制というのも同じで、当然ここで言えるような解決策はないわけですが、解決策に向けて一緒に考え始める必要がある。そのために、ほかの人たちと話し、対話をしながら考えていく必要があるでしょう。
     三つ目の公聴会については一つの提案があって、公聴会のメンバーの3分の2の専門家は対立している野党が選び、3分の1は与党が選ぶ形にすればいいんじゃないかと。そうすると与党側が自分たちが決定したい法律を通す際に、野党が多くのメンバーを送り込めるわけで、より超党派的な形で取引を結んでいかなければならない状況に追い込まれるわけで、それが一つの制約になるのではないでしょうか。
     ――ありがとうございました。民主主義、国民国家、倫理的な土台まで、盛りだくさんの話でした。ガブリエルさん、國分さん、それから完璧な通訳をしてくださった斎藤さんに大きな拍手をお願いいたします。
         ◇
     Markus Gabriel 1980年生まれ。独ボン大教授。専門はドイツ観念論など。著書に「なぜ世界は存在しないのか」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「神話・狂気・哄笑」など。ポストモダン思想への批判で知られ、新しい実在論という立場から議論を展開している。
         ◇
     こくぶん・こういちろう 1974年生まれ。東京工業大学教授。専門はフランス現代思想。2013年に都道建設計画をめぐる住民運動に関わり、行政と民主主義の関係に光を当てる議論を展開した。著書に「中動態の世界 意志と責任の考古学」「来るべき民主主義」など

    ★★★★
    Our problem isn’t robots, it’s​ ​the​ ​low-wage car-wash economy | Paul Mason | Opinion | The Guardian
    https://www.theguardian.com/commentisfree/2016/dec/12/mark-carney-britains-car-wash-economy-low-wage-jobs

    Our problem isn’t robots, it’s​ ​the​ ​low-wage car-wash economy | Paul Mason
























    Mark Carney is right that we must stop creating badly paid low-productivity jobs and redistribute wealth – and that will involve unleashing the machines
    In a globalised labour market, five guys with rags can undercut an expensive machine.
    In a globalised labour market, five guys with rags can undercut an expensive machine. Photograph: Alamy Stock Photo

    The headlines were inevitable, once Mark Carney uttered the word automation. Robots, the Sun told us, are set to “steal 15m jobs from Brits”. Sadly, our main problem is not robots; still less the artificial intelligence technologies that will power them.
    Our real problem is symbolised by the car wash. A car wash used to mean a machine. Now it means five guys with rags. There are now 20,000 hand car washes in Britain, only a thousand of them regulated. By contrast, in the space of 10 years, the number of rollover car-wash machines has halved – from 9,000 to 4,200. The free-market economic model, combined with a globalised labour market, has produced a kind of reverse industrialisation.
    Five guys with rags can undercut a machine that cost tens of thousands of pounds to build, because the entire economic system is geared to distributing the proceeds of globalisation upwards and its costs downwards. Mark Carney had some very prophetic things to say about this problem, as well, but funnily enough the tabloids ignored it.
    Carney last week became one of the first powerful policymakers to recognise that the crisis of globalisation, the stagnation of free-market economies and the delayed impact of new technologies are linked.
    In the eight years since financial crisis, the response of policymakers has been to prescribe simply more of the things that caused it: more free markets and more globalisation. That is the logic that drove TTIP, that drove last week’s breakup of BT. It is the logic that drives Theresa May’s government to go on handing large chunks of the NHS to Richard Branson.
    Carney is the first person with significant power in the western world to say that the medicine cannot work. It delivers slow growth, stagnating wages, falling productivity and rising inequality. Central banks, by printing money, can keep the patient alive, but it is for politicians and economists to design a new system.
    Carney’s solutions, though couched in language eviscerated in order to avoid offence, boil down as follows. First, economists have to accept that the current form of capitalism is failing the 99%. Gains from both technological progress and globalisation flow more to the rich than the poor. Second, he says, we have to stimulate growth by relying less on creating money, and more by creating growth: governments have to start using taxpayers’ money to invest, and redesign the economy so that our dire productivity is reversed. Third we have to redistribute wealth downwards instead of upwards.
    If Theresa May’s government was actually listening to Carney (instead of trying to undermine him as in reality), they should scrap Philip Hammond’s austerity targets, raise tax revenues, shut down tax havens and take decisive measures to end the creation of low-wage, low-productive jobs. To do that you would have to re-regulate the economy and hard.
    It would, in short, have to be somebody’s responsibility that 20,000 low-wage cash business appear out of nowhere; somebody has to care about it other than the police, whose raids on such businesses frequently scoop up just enough trafficked migrants to hit the headlines, but never enough to actually put the traffickers out of business, nor to raise wages.
    At the same time, you would have to redistribute wealth aggressively. Not all of that needs to be done through taxation. If, instead of privatising public services, you ran them as non-profit corporations, providing rail, broadband and energy at prices below the cost of production, the redistributive effect would be significant. People on rock-bottom wages would suddenly have a lot more to live on.
    On top of that you need to actively raise wages. That needs more than a worker on the board: it needs a recognised union rep in every workplace. If Amazon, Pret a Manger, the courier industry and the construction firms were obliged by law to negotiate with unions, and to cease repressing them, there would be upward pressure on wages across the whole economy. Another way of creating that pressure would be for local and national government to hike public sector pay.
    Call it what you will, it would no longer be globalisation as we know it, and it would reverse 30 years of free market labour reforms. Because he cannot or will not spell this out, Carney’s intervention only does half the job.
    But if we did all of the above, then what? Companies would react to rising wages by promoting rapid automation. Hand car washes would probably shrink to a couple of thousand luxury valeting operations, and the investment of petrol stations in machines would pay off. Productivity would increase. Maybe forecourts would be incentivised to invest in more machines. Maybe more of them could be built in the UK.
    But then the strategic problem highlighted by Carney would kick in. What kind of work can we offer people displaced by automation?
    Politicians of all stripes like to promise a future of high-value, high-skilled, high-paid work. But if the Bank of England’s economists are right, there won’t be enough of that work in the world to go around. Technology is automating tasks faster than it is creating new ones. So in a situation where global growth is stagnant, providing your own population with decent jobs means attracting them from somewhere else.
    That, in turn, will mean enacting a controlled, limited and reluctant step back from freemarket globalisation. The alternative is the uncontrolled and chaotic one being promoted by Trump, Putin, Shinzo Abe and Xi Jinping. As in the 1930s, the last time a global system fragmented, this will take radical leaps of thinking among the elite – and Carney’s intervention, though constrained by his remit, is hopefully the first of many.
    A new kind of capitalism, whose aim is to put the cheap labour exploiter out of business and promote high wages, will provoke howls of indignation from the economics profession and the asset-rich classes of the West. They revelled in the race to the bottom, as long as they got the upside of it. To unleash technology and revive productivity will take a big and careful rethink, above all about what redistribution policies work best in a highly complex and individualised consumer economy. But the outcome has to be better than the economics of the hand car wash.

    ★★★★★
    Why Marx is more relevant than ever in the age of automation
    https://www.newstatesman.com/culture/2018/05/why-marx-more-relevant-ever-age-automation

    Why Marx is more relevant than ever in the age of automation

    On the bicentenary of his birth, Marx continues to be a key thinker thanks to his surprising faith in the individual.

    The blurry snapshot catches Leon Trotsky in mid-sentence, in Frida Kahlo’s house sometime in 1937. To the left of the frame is Natalia Sedova, Trotsky’s wife. To the right is Kahlo and, half hidden behind her, a young woman listening intently: Trotsky’s secretary Raya Dunayevskaya.
    We don’t know what the argument is about but we can be sure of the premise on which it is being conducted: everybody in the photograph is a Marxist. Their ideas about politics, economics, morality and art were shaped by the writings of a man born in Germany 200 years ago.
    Trotsky would be assassinated in 1940, and Sedova would rage against the Soviet machine thereafter. Kahlo would become one of the most formidable female artists of the 20th century. But it is Dunayevskaya who provides the link between classic Marxism and the only form in which it can be relevant today. “Marxism,” she would insist, “is radical humanism.”
    As we reach the 200th anniversary of Marx’s birth, the struggle over his ideas shows no sign of stopping. The American alt-right marched through Charlottesville claiming that the town had succumbed to “cultural Marxism”. The Bank of England governor Mark Carney has warned that Marxism could make a comeback due to the impacts of automation on jobs and inequality. Meanwhile, in China, a decidedly uncultural form of Marxism has been revived as the new state doctrine of Xi Jinping. To understand what can survive of Marxism and what cannot, we must ask what its teachings might mean in the radically different conditions of today.
    By July 1850, Karl Marx was already a theorist of defeat. He had written in The Communist Manifesto (1848) that the destiny of the working class was to abolish private property and bring communism, but now he understood it was going to take some time. After two years of trying to push the democratic revolutions in France and Germany in the direction of social justice, Marx had admitted failure and fled to London.
    Yet in the upstairs room of a Soho pub, over a pint, Marx assured fellow exile Wilhelm Liebknecht there was hope. He had just seen the prototype of an electric train on display in Regent Street: the age of steam would soon be over and the age of the electric spark would begin. Liebknecht records:
    Marx, all flushed and excited, told me… “Now the problem is solved – the consequences are indefinable. In the wake of the economic revolution the political must necessarily follow, for the latter is only the expression of the former.”
    From left: Natalia Sedova, Leon Trotsky, Raya Dunayevskaya and Frida Kahlo in Mexico, 1937
    Amid the tobacco smoke, Marx had outlined a simple version of the materialist conception of history. A more complicated version would follow. In his preface to A Contribution to the Critique of Political Economy (1859) Marx explained social change as the result of a clash between two layers of reality created by human beings: the forces of production – technology and the expertise needed to deploy it – and the social relations of production: the economic model required to bring the technology to life.
    Together, said Marx, the technology and the economic model form a “base” on which the “superstructure” of laws, political institutions, cultures and ideologies are founded in any given system. Revolutions happen when the economic system begins to retard technological progress.
    After the 1848 revolutions failed, Marx devoted his life to two complementary projects: forming and educating stable working-class parties to defend workers’ interests and prepare them for power; and analysing the dynamics of industrial capitalism.
    Only once, in a notebook that lay unpublished for more than a hundred years, did Marx hazard a guess at the form that the techno-economic revolution might take. In the “Fragment on Machines”, written in 1858, he imagined a time when machines do most of the work and in which knowledge becomes “social”, embodied in what he called a “general intellect”. Since capitalism is based on profits generated by workers, it could not survive a level of technological advance that eradicated the need for work. The clash between private property and shared social knowledge, he said, would blow the foundations of capitalism “sky high”. This prophecy, so obviously relevant to our time of robots and networked knowledge, lay in the archives, unread until the 1960s.
    ****
    In the 50 years after Marx’s death in 1883, his ideas suffered three reinterpretations. First, his collaborator, Frederick Engels, tried to systematise Marx’s ideas into a theory of everything in the universe, encompassing no longer just history but physics, astronomy and ethnography. This was the Marxism that the leaders of the early socialist parties learned; but they added a second revision: claiming that Marx’s theories justified peaceful parliamentary socialism, not revolution. Then, starting around 1899, there emerged a Marxism of confrontation and class struggle, elevating human willpower and organisational elan above concepts of historical inevitability or fixed stages of development.
    This was the Marxism that both Trotsky and Sedova had learned in the Russian underground, and which brought them together as exiles in Paris in 1902. It said: Russia could only become democratic under the leadership of the working class; the task was to organise workers into a party as confrontational, secretive and hierarchical as the states run by the tsars and kaisers that they were to overthrow. Mass strikes and barricades, not elections and socialist choral societies, were their chosen weapons.
    By now Marxism also contained a theory of the working class that was diametrically opposed to that of Marx. For Marx, the revolutions of 1848 had failed because capitalism was not ready to be overthrown. For Lenin, by 1902 it was the workers who were not ready – and never would be without the cattle prod of an elite, underground “vanguard party” to make them move.
    The entire skilled workforce of the developed world had been bought off by the proceeds of imperialism, Lenin said: revolution would be a job for the unskilled workers in the West, and for the peoples of the less developed world. From around 1910 the nationalist revolts and land wars unfolding in Mexico, China, Ireland and ultimately Russia seemed to confirm this prediction.
    Trotsky and Sedova had at least seen this new, revolutionary Marxism evolve. For Kahlo and Dunayevskaya’s generation it was the only one they had ever known.
    Dunayevskaya was born to Jewish parents in today’s Ukraine in 1910 and emigrated with them to Chicago in 1922. She joined the Communist Party at the age of 14, during a school strike. She left it four years later, after having been thrown down a staircase for questioning Trotsky’s expulsion from the Comintern.
    Trotsky had helped to lead the revolution in 1917. He then took part in the abolition of workers’ control in factories and the suppression of left-wing opposition movements. But faced with the rise of a new bureaucratic elite he launched, from 1923, his own left opposition. By the 1930s he had concluded that Stalinism and fascism were “twins” separated only by their differing economic basis.
    Dunayevskaya’s job in the beleaguered Trotskyist movement was to run, from an office in New York, the Russian-language bulletin they were trying to distribute in the USSR. She arrived in Mexico in July 1937 to work as Trotsky’s stenographer and translator – just as the Great Purge began to roll up their underground networks.
    Kahlo had joined Mexico’s communist youth movement in 1928, aged 21. “I am a communist being…” she would write later. For the generation of young intellectuals attracted to Mexican communism, this state of communist being involved not only sexual and artistic experiment, but deep engagement with the indigenous cultures of Mexico and enthusiasm for the peasant wars begun by Emiliano Zapata.
    If we list the common assumptions of the people in the photograph, they would be: that revolutions usually happen in backward countries; that they involve mobile warfare, peasant land seizures and ruthless repression of the rich; that a Marxist party has to stand aloof from the conservatism of the Western working class and instead defend indigenous peoples and the racially oppressed; and that the working class is the “revolutionary subject” intrinsically at war with capitalism, though misled.
    These were self-sacrificing people, prepared to use manipulation and violence for the greater good. But each was, in their own way, struggling to preserve Marxism with a human face: to resist the organised lying, mass murder and suppression of artistic freedom that Stalinism had unleashed.
    The tragedy is that none of them understood how thoroughly humanist Marxism had been at its conception – and only Dunayevskaya ever would.
    Self Portrait with Stalin by Frida Kahlo, 1954
    Marx disdained philosophy, writing that “philosophers have only interpreted the world; the point is to change it”. The Economic and Philosophic Manuscripts – written in Paris in 1844 but not published in Moscow until 1932 – show how he came to that conclusion: through a critique of Enlightenment philosophy that is thoroughly imbued with humanism and firmly descended from a concept of human nature traceable to Aristotle, via St Augustine and Hegel.
    The purpose of human beings, says the Marx of 1844, is to set themselves free. They are enslaved not just by capitalism, nor by any specific form of class society, but by a problem arising from their social nature, which obliges them to work in groups and to collaborate via language, not simply instinct.
    When humans make things, or discover a new idea, we tend to embody our concept of “self” in the new object or idea – a process Marx calls self-estrangement or “alienation”. We then allow our products, mental and physical, to exercise power over us, whether in the form of religions or superstitions, or by fetishising consumer goods, or by mindlessly obeying routines and disciplines that we have created for ourselves. To overcome alienation, Marx argued that humanity has to rid itself of all hierarchies and class divisions – which means abolishing both private property and the state.
    The 1844 manuscripts contain an idea lost to Marxism: the concept of communism as “radical humanism”. Communism, said Marx, is not simply the abolition of private property but the “appropriation of the human essence by and for man… the complete return of man to himself as a social (ie, human) being”. But, says Marx, communism is not the goal of human history. It is simply the form in which society will emerge after 40,000 years of hierarchical organisation. The real goal of human history is individual freedom and self-realisation.
    When they published these notebooks in 1932, Soviet academics treated them as an embarrassing mistake. To do otherwise would be to admit that the whole materialist conception of history – classes, modes of production, technology versus economics – was underpinned by a profound humanism, with moral implications.
    Dunayevskaya, who got hold of a Russian version of the Paris Manuscripts in the 1940s, spent nearly a decade hawking her English translation around, before publishing them herself in the mid 1950s.
    She understood the Paris Manuscripts were a challenge to all previous interpretations of Marx. For the Soviet bureaucracy, the contrast between Marx’s idea of freedom and their own drab, oppressive reality was obvious. For Western Marxism, which had become obsessed with the study of permanent structures, here was a Marx arguing not for impersonal forces but for a clear and almost Aristotelian concept of human nature, autonomy and well-being. Could it be, Dunayevskaya asked, that all the disasters that had befallen the Marxist left were traceable to the rigid theories  propagated by Engels? Could it be that the ruthlessness of the Bolshevik tradition, always justified by the goal of working-class power, was unjustified when compared to the goal of communism outlined by Marx? Could it be that Marxism was not, after all, a break with the philosophical humanism of the Enlightenment, but its most complete expression?
    These were the conclusions Dunayevskaya drew. And from them she outlined new practical priorities. All left-wing politics in the future had to be based on the experience of individual human beings and their search for freedom. In 1950s America this meant not only joining the struggle for workers’ control on the factory floor, but also advocating feminism, black civil rights, the rights of indigenous people – and supporting anti-imperialist struggles in the global south. It meant, when the revolts against Stalinism began in Germany (1953) and then Hungary (1956), supporting them without equivocation.
    When researchers eventually discovered and published Marx’s “Fragment on Machines” in the late 1960s, Dunayevskaya understood it was the last piece of the puzzle. This was not an account of capitalist economic breakdown due to the falling profit rate, it was a theory of technological liberation. Freed from work by the advance of automation, Marx had foreseen how humanity would use its leisure time: for the “free development of the individual”, not some collectivist utopia.
    ****
    Frida Kahlo took a different path. Her last painting shows her seated beneath a portrait of Joseph Stalin. Kahlo had conducted a love affair with Trotsky, seen him assassinated in her own house, and practised a form of surrealism that Trotsky praised and Moscow labelled degenerate. So why did she end up lionising the man who had ordered Trotsky’s murder?
    Kahlo’s art was, though she could not know it, a lifelong riff on the Marxist concept of self-estrangement. She clearly regarded the self as the site on which human liberation would be achieved; she explored through her paintings the alienation of her gender, sexuality, disability and ethnicity. Her unflinching portrayals of unhappiness and isolation have made her, since the 1970s, the artistic patron saint of feminism.
    Yet it is clear that she regarded her most famous paintings as un-Marxist and anti-political. She once described them as “small and unimportant, with the same personal subjects that only appeal to myself and nobody else”. Political paintings were what her husband, Diego Rivera, did; the concept of the personal as political was alien to her generation.
    During the Cold War, as the world divided into “camps”, Kahlo made the same choice that many leftists did: she rejoined the Mexican Communist Party and denounced Trotsky. Her paintings changed, too. She began to attempt big social allegories, such as Marxism Will Give Health to the Sick (1954), from which the layers of mysticism and metaphor found in her earlier work are stripped. This was not a choice of a political dilettante. In 1952 she wrote in her diary: “I was never a Trotskyite… I understand very clearly the material dialectics of Marx, Engels, Lenin, Stalin and Mao Tse. I love them as the pillars of the new communist world.”
    Kahlo’s political trajectory is a case study of what happens to a Marxism devoid of humanism. She had to keep her artistic engagement with psychological trauma and sexual freedom separate from the ideology she understood as “material dialectics”. Her focus on the defenceless self, on the beauty of the oppressed person, on the inescapable power of the natural world, were all products of her engagement with the same idea of freedom that Marx had expressed in 1844. But she just couldn’t reconcile it with the Marxism of the Moscow textbooks, and the textbooks won.
    ****
    What’s left of Marxism in our era of techno-euphoria and environmental doom? Not its class narrative: despite the doubling of the global workforce, the workers of the developing world are as encaged in bourgeois society as their white, male, manual counterparts became in the 20th century. Workplace unrest will continue but capitalism has worked out how to quarantine it away from revolution.
    That’s only a tragedy if you have never read the Paris Manuscripts. The Marx of 1844 theorised communism first, and the workers’ role in bringing it about second. He saw communism not as the end point of history but, as he once put it poetically, the end of prehistory. And for the Marx of these early writings, the workers’ role in bringing communism lies in their propensity to self-educate and to create co-operative associations – not as blind automata, driven purely by their material interests.
    In the early 1960s the pro-Kremlin French sociologist Louis Althusser “solved” the problem of the Paris Manuscripts by declaring them to be un-Marxist. They contained, Althusser argued, the “Marx furthest from Marx” – a humanist philosophy that should be “driven back into the darkness”. Yet he recognised their publication as a “theoretical event” – and anybody who calls themselves left-wing is still living with the consequences of that event.
    Once the Paris Manuscripts were brought to light, the dilemma was clear: either Marxism is about the liberation of individual human beings or it is about impersonal forces and structures, which can be studied but very rarely escaped. Either there is a “human essence”, which we can rediscover by abolishing property and class, or we are a sack of bones conditioned by our surroundings and our DNA. Either people make history, as Marx had said, or history makes history.
    During the past 50 years, much of left-wing academic thought has followed the anti-humanist path Althusser laid out. Dunayevskaya, like most other people who had embraced humanism in the aftermath of war and genocide, was revered but treated like a crank.
    However, the Marx she helped to rediscover is highly relevant to the future we face. If we are to defend human rights against authoritarian populism we must have a concept of humanity to defend – as we must if we insist that human beings should have the power to limit and suppress the activities of thinking machines.
    If the Marx of 1844 is correct, the ideal of human liberation and communism can survive the atomisation and dispersal of the class that was supposed to bring it. As the revolts of 2011 showed, large masses of people now possess the capacity for autonomous action, self-education and collaboration that Marx admired in the Parisian working class of the 1840s.
    As Dunayevskaya understood, the impulse towards freedom is created by more than just exploitation: it is triggered by alienation, the suppression of desire, the humiliation experienced by people on the receiving end of systemic racism, sexism and homophobia. Everywhere capitalism follows anti-human priorities it stirs revolt – and it’s all around us. In the coming century, just as Marx predicted, it is likely that automation coupled with the socialisation of knowledge will present us with the opportunity to liberate ourselves from work. That, as he said, will blow capitalism “sky high”. The economic system that replaces it will have to be shaped around the goal he outlined in 1844: ending alienation and liberating the individual.
    If I could speak across time to the people frozen in that photograph I would say, after congratulating them for their magnificent lives of resistance and suffering: “That inner desire you are suppressing, for Marxism to be humanistic? That impulse towards individual liberation? It’s already there in Marx, just waiting to be discovered. So paint what you want, love whom you want. Fuck the vanguard party. The revolutionary subject is the self.” 
    Paul Mason is  a New Statesman contributing writer and author of “PostCapitalism: a Guide to Our Future” (Penguin)

    5 Comments:

    Blogger yoji said...


    次回
    1
    24



    ジークンドー
    https://twitter.com/tiikituukahana/status/1155814268773646336

    Dialektik der Natur 1873 〜1886のタイトルはあきらかにデューリングの『自然的弁証法』Naturliche Dialektik

    https://translate.google.com


    (マルクス主義を体系化する後期の段階で初期を反復している。これは笑えない喜劇だ。)
    エンゲルスの『自然弁証法』Dialektik der Natur 1873 〜1886のタイトルはあきらかにデューリングの『自然的弁証法』Naturliche Dialektik, 1865を意識している(デューリングはヘーゲルの不自然な弁証法に自然な弁証法を対置したのだが、ヘーゲルの弁証法も実は自然界における生物学モデルが基本である)。


    金持ち名無しさん、貧乏名無しさん (ササクッテロル Sp11-Uanx) 2019/11/14(木) 09:57:32
    参考:
    ココ・ファーム・ワイナリー [いいね!JAPAN ソーシャルアワード]
    https://youtu.be/hfUsQNUWznc?t=3m40s
    「風に吹かれる係」


    プルードン『所有とは何か』より



    «Supprimez la propriété en conservant la possession; et, par cette seule modification dans le principe, vous
    changerez tout dans les lois, le gouvernement, l'économie, les institutions : vous chassez le mal de la terre. »

    《Suppress property while maintaining possession, and, by this simple modification of the principle,
    you will revolutionize law, government, economy, and institutions; you will drive evil from the face of the earth.》

    《所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、政治、経済、
    諸制度の一切を変えるだろう。諸君は地上の悪を除きさるのだ》

    《所有を維持し乍ら財産を抑圧せよ。そして、此単純なる原理の變換に依り、諸君は法律、政治、経済
    及び組織を革命し、地表から害悪を一掃するのである。》

    《诸位先生,保全所持而除所有,仅靠这种修正就可以改変法律、政治、経済和一切制度。
    就可以消除地上的所有罪悪。》

    参照:
    Qu'est-ce que la propriété?: Premier mémoire: Recherches sur le principe du ... - Pierre-Joseph Proudhon
     http://books.google.co.jp/books?id=iWbn2Jy6czAC&pg=PA223
    What is Property?, by P. J. Proudhon (1840) 5:2:3:1
     http://www.gutenberg.org/files/360/360-h/360-h.htm#noteref-35
    『所有とは何か』「ブルードン」長谷川進・江口幹訳、三一書房299頁(改訳)
    柄谷行人『トランスクリティーク』現代文庫247頁、定本254頁
    Transcritique: On Kant and Marx: Kojin Karatani, Sabu Kohso p.167(直接引用をしていない)
     http://books.google.co.jp/books?id=mR1HIJVoy6wC&pg=PA167&lpg=PA167
    『財産とは何ぞや』(新明正道訳、405頁、大正十年、1921年、発禁)
    『跨越性批判一康德与马克思』中央编译出版社出版 127頁(『什么是所有权』蒲鲁东)
       http://book.douban.com/subject/5920564/ 中国語版は内山書店で購入可能

    4:28 午後  
    Blogger yoji said...

    スピノザ国家論8:25
    Et praeterea ne cuiquam liceat officium sive munus,
    さらに、それは廃止または職務である必要があります。

    9:03 午前  
    Blogger yoji said...

    8:30
    Hoc namque modo semper patriciorum una circiter duodecima pars, brevibus tantummodo interpositis intervallis, munus senatorium subibit; qui sane numerus una cum illo, quem syndici conficiunt, non multum superabitur a numero Patriciorum, qui annum aetatis quinquagesimum attigerunt.
    それは正確に、常に貴族にとって12分の1程度であり、短い時間間隔の間にある1つだけの一部です。

    上院議員

    受ける必要があります

    誰が、その数と同じ問題のシンジケートと一緒になり、50歳に達した貴族の数を超えることはあまりありません。

    9:05 午前  
    Blogger yoji said...

    ハート ガブリエル
    メイソン x

    4:43 午前  
    Blogger yoji said...


    人新世の「資本論」 (集英社新書) | 斎藤 幸平
    https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/10/amazon.html



    マルクス・ガブリエル(ハイデガー批判)& 未来への大分岐(脚注)
    https://nam-students.blogspot.com/2019/12/temporary-backup_5.html @

    4:45 午前  

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