メイヤスー『有限性の後で』:メモ
仏: "Après la finitude. Essai sur la nécessité de la contingence"(英: "After Finitude: An Essay On The Necessity Of Contingency")『有限性の後で』、2006年原書出版。
クァンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux、1967年 - )は、フランスの哲学者。パリ第1大学で教鞭を執る。思弁的実在論(Réalisme spéculatif)を牽引する重要な哲学者である。
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第一章冒頭を公開中(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえに私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」53頁
第三章 事実論性の原理 …89
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』108頁
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばならない。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』122頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』123頁
第四章 ヒュームの問題 …137
「ヒューム-カント的な推論は、《私たちの宇宙》内の出来事に適用された理論ではなく、《可能的宇宙の全体》における可能な事例として見なされる《私たちの宇宙》に適用された確率理論である。」163頁
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちよりも前に到来するとーー考えるからだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』204,5頁
訳者解説 …215
人名索引
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b211522.html
有限性の後で 偶然性の必然性についての試論
著者 カンタン メイヤスー 著
千葉雅也 大橋完太郎 星野太 訳 出版年月日 2016/01/23
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、
濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウが序文で述べるように、これは一種の「証明」の
試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性
があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」
へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第一章冒頭を公開中(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
「素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことが可能になる。」16頁
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえ
に私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存
在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」53頁
第三章 事実論性の原理 …89
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋
な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」108頁
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世
界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばな
らない。」122頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何
かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与
であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」123頁
第四章 ヒュームの問題 …137
「ヒューム-カント的な推論は、《私たちの宇宙》内の出来事に適用された理論ではなく、《可能的宇宙の全体》における可能な事例として見なされる《私たちの宇宙》に適用された確率理論である。」163頁
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、
前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちより
も前に到来するとーー考えるからだ。」204,5頁
訳者解説 …215
人名索引
内容説明
この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる。
人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。
序文:アラン・バディウ
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウが序文で述べるように、これは一種の「証明」の試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)
第一章冒頭を公開中です(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
Badiou Being and Event
ブランダムの推論主義はドゥルーズの言う自由間接話法みたいなもの
ただし、ヘーゲルを再評価するが同時に矮小化もしてしまっている
この辺りはドゥルーズやデリダの方がフェアだ…
そもそもブランダムもドゥルーズもメイヤスーもフレーゲのヒューム評価を読み違えている
一対一対応であるヒュームの原理は不可知論ではない
フレーゲの算術の基礎に立ち帰るべきだ
_________
ウィルフリド・セラーズはクワインと並んで20世紀アメリカを代表する哲学者であり、『経験論と心の哲学』は分析哲学のひとつの金字塔である。
ローティやデイヴィドソン、デネットといった面子もセラーズに対するリスペクトを隠さない。
ローティが選ぶ、分析哲学に重要な転換をもたらした三冊
1)クワイン『経験論の二つのドグマ』(1951)
2)ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(1953)
3)セラーズ『経験論と心の哲学』(1956)
「その中でもセラーズの著作が知られる度合い、論じられる度合いが最も小さい」byローティ
デネットは自身が属している学派である機能主義を創始したことをセラーズに帰しているし、
クワインの系譜に属するデイヴィドソンも「私はウィルフリド・セラーズによって概念化されていない所与なるものの愚劣さを説得された」と述べている。
にもかかわらず知名度は決して高くない。母国ですらクワインと比べれば地味な存在でありつづけた。それはなぜか。
1)クワインがアメリカの哲学界の権威だったハーバード大学だったのに対し、ピッツバーグ大学だったことが名声と影響力に差を生んだ
2)古代や大陸系の哲学の知識を駆使した晦渋な論述のスタイルが多くの分析哲学者を遠ざけた(ローティ談)
しかしピッツバーグのセラーズの弟子にあたるブランダムやマクダウェルの言及によって近年再評価高まる。
http://d.hatena.ne.jp/tsuka_ryo/comment/20101124
クァンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux、1967年 - )は、フランスの哲学者。パリ第1大学で教鞭を執る。思弁的実在論(Réalisme spéculatif)を牽引する重要な哲学者である。
有限性の後で - 株式会社 人文書院
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b211522.html
有限性の後で
偶然性の必然性についての試論
人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。
著者 カンタン メイヤスー 著
千葉 雅也 訳
大橋 完太郎 訳
星野 太 訳
出版年月日 2016/01/23 ISBN 9784409030905
判型・ページ数 4-6・236ページ 定価 本体2,200円+税
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
第三章 事実論性の原理 …89
第四章 ヒュームの問題 …137
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
訳者解説 …215
人名索引
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b211522.html
有限性の後で
偶然性の必然性についての試論
人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。
著者 カンタン メイヤスー 著
千葉 雅也 訳
大橋 完太郎 訳
星野 太 訳
出版年月日 2016/01/23 ISBN 9784409030905
判型・ページ数 4-6・236ページ 定価 本体2,200円+税
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
第三章 事実論性の原理 …89
第四章 ヒュームの問題 …137
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
訳者解説 …215
人名索引
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウ(注:#4でバディウ『存在と出来事』が参照される)が序文で述べるように、これは一種の「証明」の試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)215頁
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第一章冒頭を公開中(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえに私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」53頁
第三章 事実論性の原理 …89
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』108頁
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばならない。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』122頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』123頁
第四章 ヒュームの問題 …137
「ヒューム-カント的な推論は、《私たちの宇宙》内の出来事に適用された理論ではなく、《可能的宇宙の全体》における可能な事例として見なされる《私たちの宇宙》に適用された確率理論である。」163頁
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちよりも前に到来するとーー考えるからだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』204,5頁
訳者解説 …215
人名索引
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b211522.html
有限性の後で 偶然性の必然性についての試論
著者 カンタン メイヤスー 著
千葉雅也 大橋完太郎 星野太 訳 出版年月日 2016/01/23
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、
濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウが序文で述べるように、これは一種の「証明」の
試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性
があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」
へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第一章冒頭を公開中(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
「素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことが可能になる。」16頁
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえ
に私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存
在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」53頁
第三章 事実論性の原理 …89
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋
な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」108頁
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世
界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばな
らない。」122頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何
かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与
であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」123頁
第四章 ヒュームの問題 …137
「ヒューム-カント的な推論は、《私たちの宇宙》内の出来事に適用された理論ではなく、《可能的宇宙の全体》における可能な事例として見なされる《私たちの宇宙》に適用された確率理論である。」163頁
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、
前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちより
も前に到来するとーー考えるからだ。」204,5頁
訳者解説 …215
人名索引
内容説明
この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる。
人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。
序文:アラン・バディウ
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウが序文で述べるように、これは一種の「証明」の試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)
第一章冒頭を公開中です(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
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思弁的実在論への道。批判哲学批判。思弁的観念論であるヘーゲルに陥らない形でカント的超越論的観念論を超えるには?
ヒュームが再評価されるがこれではエッセイだ。フレーゲが参照されないと厳密な仕事にならない。
ただメイヤスーはドゥルーズ以上にボブ・ディラン*に近い。他の著作はドゥルーズをさらにSF化した印象だったが共感出来る。
『有限性の後で』の日本語版、100p前後の「事実性」についての議論が白眉だと思うけど、「~でなければならない。」という西田=京都学派的な文体が炸裂していてニヤニヤしてしまう。
@aimai_fuzzy メイヤスー『有限性の後で』の議論を「反=相関主義」とするのは根本的な誤解。メイヤスーは「強い相関主義」に立った上で、相関主義に絶対的なものを導入しようとする。メイヤスーの神論は、強い相関主義を認めた上でそれを反転する。
RT @masayachiba: なお、『有限性の後で』第一章の冒頭2ページくらい(一次性質と二次性質という概念についての考察)は、やや堅苦しい書き出しで、うっ!難しいと思ってしまうかもしれません。ですが安心してください。これはおそらくわざと「古典的」にした書き出しで、すぐ後か…
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちよりも前に到来するとーー考えるからだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』204,5頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』123頁
yakitori_yamada(焼鳥山)12時間前
7RT
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばならない。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』122頁
yakitori_yamada(焼鳥山)12時間前
1RT
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』108頁
yakitori_yamada(焼鳥山)13時間前
1RT
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえに私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』53頁
*
ボブ・ディラン、80年代インタビューより
http://yojiseki.exblog.jp/9513466/
− しかし、もし誰かが純粋に平和のために何かをしようとする場合はどうですか?
「地球上のすべての人の平和のために、何かをできる人はいない。そのことは(Man Of Peace)で歌っている。しかし、来世を信じている人には、こうしたことはすべてどうでもいいことだ。現世しか信じない人は、当惑させられるだろう。そこから抜け出す方法もない。この世の終わりを見ることができないので、おかしくなるだろう。じっとしていたいと思うかもしれないが、それもできない。しかしそれでも、違ったレベルで現世を見ることはできるだろう。人生を振り返って、『こうなっていたのか。ああ、どうしてあの時、わからなかったんだろう』と思うことはできる」
− それはとても、運命論的な見解ですね?
「ぼくは、実在論的だと思う。たとえ運命論的だとしても、それはただ単に、現世のレベルで運命論的だということだ。そしてどうせこのレベルはなくなるのだから、どちらでもかまわないと思う。運命論者だったらどうだと言うんだ?」
「地球上のすべての人の平和のために、何かをできる人はいない。そのことは(Man Of Peace)で歌っている。しかし、来世を信じている人には、こうしたことはすべてどうでもいいことだ。現世しか信じない人は、当惑させられるだろう。そこから抜け出す方法もない。この世の終わりを見ることができないので、おかしくなるだろう。じっとしていたいと思うかもしれないが、それもできない。しかしそれでも、違ったレベルで現世を見ることはできるだろう。人生を振り返って、『こうなっていたのか。ああ、どうしてあの時、わからなかったんだろう』と思うことはできる」
− それはとても、運命論的な見解ですね?
「ぼくは、実在論的だと思う。たとえ運命論的だとしても、それはただ単に、現世のレベルで運命論的だということだ。そしてどうせこのレベルはなくなるのだから、どちらでもかまわないと思う。運命論者だったらどうだと言うんだ?」
ただし、ヘーゲルを再評価するが同時に矮小化もしてしまっている
この辺りはドゥルーズやデリダの方がフェアだ…
そもそもブランダムもドゥルーズもメイヤスーもフレーゲのヒューム評価を読み違えている
一対一対応であるヒュームの原理は不可知論ではない
フレーゲの算術の基礎に立ち帰るべきだ
_________
ウィルフリド・セラーズはクワインと並んで20世紀アメリカを代表する哲学者であり、『経験論と心の哲学』は分析哲学のひとつの金字塔である。
ローティやデイヴィドソン、デネットといった面子もセラーズに対するリスペクトを隠さない。
ローティが選ぶ、分析哲学に重要な転換をもたらした三冊
1)クワイン『経験論の二つのドグマ』(1951)
2)ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(1953)
3)セラーズ『経験論と心の哲学』(1956)
「その中でもセラーズの著作が知られる度合い、論じられる度合いが最も小さい」byローティ
デネットは自身が属している学派である機能主義を創始したことをセラーズに帰しているし、
クワインの系譜に属するデイヴィドソンも「私はウィルフリド・セラーズによって概念化されていない所与なるものの愚劣さを説得された」と述べている。
にもかかわらず知名度は決して高くない。母国ですらクワインと比べれば地味な存在でありつづけた。それはなぜか。
1)クワインがアメリカの哲学界の権威だったハーバード大学だったのに対し、ピッツバーグ大学だったことが名声と影響力に差を生んだ
2)古代や大陸系の哲学の知識を駆使した晦渋な論述のスタイルが多くの分析哲学者を遠ざけた(ローティ談)
しかしピッツバーグのセラーズの弟子にあたるブランダムやマクダウェルの言及によって近年再評価高まる。
http://d.hatena.ne.jp/tsuka_ryo/comment/20101124
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