仏: "Après la finitude. Essai sur la nécessité de la contingence"(
英: "After Finitude: An Essay On The Necessity Of Contingency")『有限性の後で』、2006年原書出版。
クァンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux、
1967年 - )は、
フランスの
哲学者。
パリ第1大学で教鞭を執る。
思弁的実在論(Réalisme spéculatif)を牽引する重要な哲学者である。
有限性の後で - 株式会社 人文書院
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b211522.html
有限性の後で
偶然性の必然性についての試論
人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。
著者 カンタン メイヤスー 著
千葉 雅也 訳
大橋 完太郎 訳
星野 太 訳
出版年月日 2016/01/23 ISBN 9784409030905
判型・ページ数 4-6・236ページ 定価 本体2,200円+税
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
第三章 事実論性の原理 …89
第四章 ヒュームの問題 …137
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
訳者解説 …215
人名索引
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウ(注:#4でバディウ『存在と出来事』が参照される)が序文で述べるように、これは一種の「証明」の試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)215頁
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第一章冒頭を公開中(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえに私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」53頁
第三章 事実論性の原理 …89
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』108頁
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばならない。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』122頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』123頁
第四章 ヒュームの問題 …137
「ヒューム-カント的な推論は、《私たちの宇宙》内の出来事に適用された理論ではなく、《可能的宇宙の全体》における可能な事例として見なされる《私たちの宇宙》に適用された確率理論である。」163頁
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちよりも前に到来するとーー考えるからだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』204,5頁
訳者解説 …215
人名索引
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b211522.html
有限性の後で 偶然性の必然性についての試論
著者 カンタン メイヤスー 著
千葉雅也 大橋完太郎 星野太 訳 出版年月日 2016/01/23
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、
濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウが序文で述べるように、これは一種の「証明」の
試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性
があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」
へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)
目次
序文(アラン・バディウ)…1
第一章 祖先以前性 …9
第一章冒頭を公開中(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
「素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことが可能になる。」16頁
第二章 形而上学、信仰主義、思弁 …53
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえ
に私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存
在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」53頁
第三章 事実論性の原理 …89
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋
な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」108頁
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世
界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばな
らない。」122頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何
かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与
であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」123頁
第四章 ヒュームの問題 …137
「ヒューム-カント的な推論は、《私たちの宇宙》内の出来事に適用された理論ではなく、《可能的宇宙の全体》における可能な事例として見なされる《私たちの宇宙》に適用された確率理論である。」163頁
第五章 プトレマイオスの逆襲 …187
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、
前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちより
も前に到来するとーー考えるからだ。」204,5頁
訳者解説 …215
人名索引
内容説明
この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる。
人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。
序文:アラン・バディウ
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、濃密に書かれた書物だ。アラン・バディウが序文で述べるように、これは一種の「証明」の試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性があるということの証明である。カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)
第一章冒頭を公開中です(PDF)→★pp.9~21
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/intro_apres_la_finitude.pdf
______
思弁的実在論への道。批判哲学批判。思弁的観念論であるヘーゲルに陥らない形でカント的超越論的観念論を超えるには?
ヒュームが再評価されるがこれではエッセイだ。フレーゲが参照されないと厳密な仕事にならない。
ただメイヤスーはドゥルーズ以上にボブ・ディラン*に近い。他の著作はドゥルーズをさらにSF化した印象だったが共感出来る。
『有限性の後で』の日本語版、100p前後の「事実性」についての議論が白眉だと思うけど、「~でなければならない。」という西田=京都学派的な文体が炸裂していてニヤニヤしてしまう。
@aimai_fuzzy メイヤスー『有限性の後で』の議論を「反=相関主義」とするのは根本的な誤解。メイヤスーは「強い相関主義」に立った上で、相関主義に絶対的なものを導入しようとする。メイヤスーの神論は、強い相関主義を認めた上でそれを反転する。
RT @masayachiba: なお、『有限性の後で』第一章の冒頭2ページくらい(一次性質と二次性質という概念についての考察)は、やや堅苦しい書き出しで、うっ!難しいと思ってしまうかもしれません。ですが安心してください。これはおそらくわざと「古典的」にした書き出しで、すぐ後か…
「私たちは把握することができなくなるのだ。どういうことかと言えば、科学はまさしく、前に到来するものは前に到来するとーーそして私たちよりも前に到来するものは私たちよりも前に到来するとーー考えるからだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』204,5頁
「結局、信仰者とは、何かがあるということに驚嘆する者である。なぜなら、信仰者は、何かがあるということにはまったく理由がないと信じているからであるーー存在は純粋な贈与であり、あるいはそれは起こらなかったかもしれないのだ。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』123頁
「私たちは、生命が消えるのに伴ってあらゆるものが無に帰することはなく、あらゆる〈世界-への-関係〉が消滅してもそれ自体における世界は存続する、ということを証明せねばならない。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』122頁
「これに対して絶対的偶然性はーー今後はこれのみを「偶然性」と呼ぶことにするーー、純粋な可能性を指している。それは、決して実現されないかもしれない可能性である。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』108頁
「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえに私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。」カンタン・メイヤスー『有限性の後で』53頁
*
− しかし、もし誰かが純粋に平和のために何かをしようとする場合はどうですか?
「地球上のすべての人の平和のために、何かをできる人はいない。そのことは(Man Of Peace)で歌っている。しかし、来世を信じている人には、こうしたことはすべてどうでもいいことだ。現世しか信じない人は、当惑させられるだろう。そこから抜け出す方法もない。この世の終わりを見ることができないので、おかしくなるだろう。じっとしていたいと思うかもしれないが、それもできない。しかしそれでも、違ったレベルで現世を見ることはできるだろう。人生を振り返って、『こうなっていたのか。ああ、どうしてあの時、わからなかったんだろう』と思うことはできる」
− それはとても、運命論的な見解ですね?
「ぼくは、実在論的だと思う。たとえ運命論的だとしても、それはただ単に、現世のレベルで運命論的だということだ。そしてどうせこのレベルはなくなるのだから、どちらでもかまわないと思う。運命論者だったらどうだと言うんだ?」
ボブ・ディランの2010年来日公演が決定した。以下、彼の1980年代のインタビューより。
(略)
− あなたは、今でも平和を願っていますか?
「平和のためにできることなんて何もない」
− 平和のために働く価値もないと考えていますか?
「ない。そんなものは偽りの平和だ。例えば、ライフルには再び弾丸を込めることができる。そして弾丸を込めているその瞬間を平和と言うようなものだ。数年間、続くかもしれない平和だ」
− 平和のために戦うことも価値がないことですか?
「ない。すべて平和とは関係のないことだ。ラジオで誰かが、ハイチで何が起こっているかについて加われわれは今ハイチで起こっていることに目を向けなくてはならない。われわれは地球上の人間なのです』と話しているのを聞いた。われわれも同じ考え方をするように、し向けているんだ。つまりもはや、われわれはただ単にアメリカ合衆国だけではなく、地球上の国民であると。情報が瞬時に各家庭に伝わる時代なので、全世界レベルで物事を考えるわけだ。でも、このことはヨハネの黙示録に全部記されていることだ。だから誰かが平和のために何かしようとしていても、それが平和のためではないことが、わかるはずだ」
− しかし、もし誰かが純粋に平和のために何かをしようとする場合はどうですか?
「地球上のすべての人の平和のために、何かをできる人はいない。そのことは(Man Of Peace)で歌っている。しかし、来世を信じている人には、こうしたことはすべてどうでもいいことだ。現世しか信じない人は、当惑させられるだろう。そこから抜け出す方法もない。この世の終わりを見ることができないので、おかしくなるだろう。じっとしていたいと思うかもしれないが、それもできない。しかしそれでも、違ったレベルで現世を見ることはできるだろう。人生を振り返って、『こうなっていたのか。ああ、どうしてあの時、わからなかったんだろう』と思うことはできる」
− それはとても、運命論的な見解ですね?
「ぼくは、実在論的だと思う。たとえ運命論的だとしても、それはただ単に、現世のレベルで運命論的だということだ。そしてどうせこのレベルはなくなるのだから、どちらでもかまわないと思う。運命論者だったらどうだと言うんだ?」
− (License to Kill) の歌詞に「人間は自らの破壊をもたらした/最初の一歩は月に行くととだった」というくだりがありますが、あなたは本当にそう信じているのですか?
「そう信じている。どうしてぼくがあの歌詞を作ったのかわからないけど、あるレベルで、月は未知なるものへの入口のような存在なんだ」
− 人類は、進歩と前進をするべきだと思うのですが?
「しかし……月に行くことはない。月へ行くことの目的はなんだ? ぼくは、まるで意味のないことと思っている。そして今は、宇宙ステーションを打ち上げようとしているが、その費用が6000億ドルも7000億ドルもする。それでいったい誰が利益を得るんだ? 製薬会社は、いい薬を作ることができるようになるかもしれない。そんなことで筋が通るだろうか? 人が興奮するようなことなのだろうか? これが前進なのだろうか? ぼくは、より良い薬を開発できるとは思わない。より高価な薬を開発するだけだと思う。
今では何もかもコンピュータ化されている。ぼくはそれを終末の始まりと思う。何もかもが世界的規模になっていくのがわかるだろ。今では国籍も、自分が特定の何かだというものもない。『われわれはみんな同じだ、みんなでひとつの平和な世界を作るために働いているんだ……』というわけだ。
アメリカで何が起こっているのかを説明できる人が現われなければならない。アメリカが、海に囲まれた単なるひとつの島となってしまうのか、あるいは地球上のすべてのことと関わっているのか、ぼくは、断言できない。現時点では、関わっているように思うが、将来的には輸入にたよらずに自国で生産できる自給国となるべきだろう。
現在は、アメリカも他の多くの国も、ひとつの大きな地球規模の国を作るように努力しているみたいだ。ある場所から原料や素材を入手し、別の場所でそれを加工し、さらに別の場所でそれらを売る、しかもこうした過程を同じひとりの人間が管理するというものだ。まだ実現していないとしても、目ざしていることは確かだ」
− (Union Sundown)の歌詞の中で、あなたの運転するシヴォレーは、「アルゼンチンで、一日に30セント稼ぐ男によって組み立てられた」と歌っていますが、あなたは彼が一日に30セント稼がないほうが、しあわせだと思っているのですか?
「一日に30セントを何に使うというんだ? 彼は一日に30セントなんて要らない。つまり、人間は6000年もの間、後からやってきた人のために奴隷のような低賃金で働かなくても生きていたんだ。だから……実際それはただの植民地化だ。ぼくが生まれた場所では、鉱山で同様の取り引きをしていたから、ぼくはそれを直接知っている」
− あなたが育ったのはミネソタの鉄鉱地帯ですね?
「そうだ。ある時期、みんなが鉱山で働いていた。事実、第二次世界大戦で使われた鉄の90パーセントがあそこから掘り出されたものだった。しかし結局、『ここの鉄を掘るのは金がかかりすぎる。別のところで掘ることにしよう』と経営者たちは判断した。同じことが別の生産物にも起きると、ぼくは思う」
『ローリングストーン インタビューズ 80s』(pp.194-196)
「私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたに
せよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。
ボブ・ディランは「激しい雨」を唄いつづけていた。」
「私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたに
せよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。
石川さゆりは「津軽海峡冬景色」を唄いつづけていた。」
「私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたに
せよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深眠りに身を任せた。
SMAPは「世界に一つだけの花」を唄いつづけていた。」
「私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたに
せよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。
ちあきなおみは「喝采」を唄いつづけていた。」
Badiou Being and Event
ブランダムの推論主義はドゥルーズの言う自由間接話法みたいなもの
ただし、ヘーゲルを再評価するが同時に矮小化もしてしまっている
この辺りはドゥルーズやデリダの方がフェアだ…
そもそもブランダムもドゥルーズもメイヤスーもフレーゲのヒューム評価を読み違えている
一対一対応であるヒュームの原理は不可知論ではない
フレーゲの算術の基礎に立ち帰るべきだ
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ウィルフリド・セラーズはクワインと並んで20世紀アメリカを代表する哲学者であり、『経験論と心の哲学』は分析哲学のひとつの金字塔である。
ローティやデイヴィドソン、デネットといった面子もセラーズに対するリスペクトを隠さない。
ローティが選ぶ、分析哲学に重要な転換をもたらした三冊
1)クワイン『経験論の二つのドグマ』(1951)
2)ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(1953)
3)セラーズ『経験論と心の哲学』(1956)
「その中でもセラーズの著作が知られる度合い、論じられる度合いが最も小さい」byローティ
デネットは自身が属している学派である機能主義を創始したことをセラーズに帰しているし、
クワインの系譜に属するデイヴィドソンも「私はウィルフリド・セラーズによって概念化されていない所与なるものの愚劣さを説得された」と述べている。
にもかかわらず知名度は決して高くない。母国ですらクワインと比べれば地味な存在でありつづけた。それはなぜか。
1)クワインがアメリカの哲学界の権威だったハーバード大学だったのに対し、ピッツバーグ大学だったことが名声と影響力に差を生んだ
2)古代や大陸系の哲学の知識を駆使した晦渋な論述のスタイルが多くの分析哲学者を遠ざけた(ローティ談)
しかしピッツバーグのセラーズの弟子にあたるブランダムやマクダウェルの言及によって近年再評価高まる。
http://d.hatena.ne.jp/tsuka_ryo/comment/20101124
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