Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve polluti
Labii reatum
Sancte Johannes
(大意)
あなたの僕(しもべ)が
声をあげて
あなたの行いの奇跡を
響かせることができるように
私たちのけがれた唇から
罪を拭い去ってください
聖ヨハネ様。
このラテン語テキスト(祈祷文)は、もともとはパウルス・ディアコヌス(助祭パウルス、720頃~799) の作とされている。13世紀に書かれたヤコブス・デ・ ウォラギネによる『黄金伝説』第81章「洗者聖ヨハネの誕生」にはこの祈祷文の由来について次のように書かれている。
ランゴバルド人の歴史家、ローマ教会の助祭、モンテカシーノの 修道士であったパウルスは、あるときろうそくを聖別することになっ たが、いつもはなかなかののど自慢であったのに、急にのどがかす れて声が出なくなった。そこで、声がまた出るようになりますよう にと願って、聖ヨハネのために、「おお、おんみのしもべたちが、みわざをたたえる喜びの声を張り上げることができますように」という讃歌をつくった。この冒頭の詩句は、かつてザカリアに声がもどったように、わたしにも声をもどしてくださいますようにというパウルスの祈りなのである。(前田敬作、山口裕訳の人文書院版第2巻p.324)
グイドは、この祈祷文が、聖歌を歌う修道士の教育に適すると考えたと推定される。
第1節から第6節まで、その節の最初の音はそれぞれC - D - E - F - G - Aの音になっている。このことからグイド・ダレッツォはこの歌詞の初めの文字を音名として使用しようと考え、第1節から第6節までの歌詞を利用して"Ut - Re - Mi - Fa - Sol - La"の音名を発明した。これはそのままフランス語音名になった。なお、この聖歌の旋律は、音階を覚えやすくするためにグイドが作曲したとする説もある。
その後、発音が容易なようにと"Ut"は"Do"になった。
第7節の2つの語のそれぞれの頭文字をとると"SJ"となるがJはIの異字体とみなすことができるので、のちに"SI"に変化した。
これにより、7つのイタリア語音名「ドレミファソラシ」が成立した。
etsu.hateblo.jp/entry/2015/10/16/220634
グレゴリオ聖歌の『ヨハネ讃歌』がそれです。 Ut queant laxis. resonare fibris. Mira gestorum. famuli tuorum,. Solve polluti. labii reatum,. Sancte Ioannes. 下線を引いた歌詞がそれぞれ「ド」「レ」「ミ」「ファ」「ソ」「ラ」に相当し、実際その通りの音程で歌われます(「シ」だけは対応する歌詞が無いのですが、最後の行のSとIを組み合わせたものという説もあります)。 ある意味グレゴリオ聖歌がドレミの歌の原点と言えるかもしれませんね(?) では今回はこの辺で。 ↓グレゴリオ聖歌とドレミについての参考 ...
sntcc.la.coocan.jp/pps/index6.html
ドレミはラテン語の聖歌(グレゴリオ聖歌)の「歌詞」から採られています。 原典はカトリック教会での「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祝日、6月24日の第二晩課の時に歌われていた「ヨハネ讃歌」の歌詞の「一番」です。 Ut queant laxis resonare fibris Mira gestorum famuli tuorum, Solve polluti labii reatum, Sancte Ioannes. (汝のしもべが、弦をかきなでて、汝の妙なるわざをたたえ得るように、このけがれある唇の罪をのぞかせたまえ、聖ヨハネよ。) この太字で表されたところから「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」 という名称(音名・階名) ...
ja.wikipedia.org/wiki/グレゴリオ聖歌
グレゴリオ聖歌(グレゴリオせいか、グレゴリアン・チャント)は、西方教会の単旋律聖歌( プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、ローマ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽。 目次. [非表示]. 1 概要; 2 歴史. 2.1 初期聖歌の展開; 2.2 新しい聖歌の成立; 2.3 普及と覇権; 2.4 初期の史料と後代の改訂. 3 音楽的形態. 3.1 旋律の様式; 3.2 旋法; 3.3 音楽語法; 3.4 記譜法. 4 演奏. 4.1 テクスチュア; 4.2 リズム. 5 典礼での使用. 5.1 ミサの固有文; 5.2 ミサの通常文; 5.3 聖務日課. 6 影響. 6.1 中世及び ...
2 Comments:
バッハが、トマスカントールに在職していた間、即ち1724年から1749年までの受難曲演奏の記録が、次に示すとおり、かなり詳細に残っています。
1724年 《ヨハネ受難曲》第一稿(聖ニコライ教会)
1725年 《ヨハネ受難曲》第二稿(聖トーマス教会)
1726年 ラインハルト・カイザーの《マルコ受難曲》(聖ニコライ教会)
1727年 《マタイ受難曲》(聖トーマス教会)
1728年 ?
1729年 《マタイ受難曲》(聖トーマス教会)
1730年 作曲者不明の《ルカ受難曲》(聖ニコライ教会)
1731年 《マルコ受難曲》(聖トーマス教会)
1732年 《ヨハネ受難曲》第三稿(聖ニコライ教会)
1733年 選帝侯の崩御により演奏無し
1736年 《マタイ受難曲》改訂稿(聖トーマス教会)
1742年頃 《マタイ受難曲》改訂稿再演(おそらく聖ニコライ教会)
1743年~46年の
いずれかの年 《ルカ受難曲》再演
1746年~47年頃 ヘンデルの《ブロッケス受難曲》
1747年又は48年 混成受難曲(カイザーの《マルコ受難曲》+ヘンデルのアリア)
1749年 《ヨハネ受難曲》第四稿(聖ニコライ教会)
この他にも演奏されたのではないかと言われている曲が2~3曲ありますが、いずれもバッハ自身以外の作曲家の手になるものです。
http://www.prmvr.otsu.shiga.jp/ensemblevoce/Bach/Bach24.html
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