金曜日, 10月 19, 2018

アレクサンドル・コジェーヴ Alexandre Kojève


アレクサンドル・コジェーヴ Alexandre Kojève


坂井コジェーヴ論

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カント、ヘーゲル、ラカン

ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』ちくま文庫p112)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまくそうしたラカン仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明している。
以下の基本図形があり、

   A ---- 反対 ---- E 
   | \     /|
   大 矛  矛  大
   小    盾盾   小
   |  /    \ |
   I --- 小反対---- O 


カントでは:

1. 世界の時間的・空間的無限性
2. 物質の構造
3. 自由の存在
4. 神の存在

といった矛盾の内、最初の2つの数学的矛盾で「反対」に相当し女性性を表し、残りの力学的矛盾が「小反対」で男性性に相当する。
力学的矛盾は共に真であり得る。つまり〈小反対対当〉(subcontrariae)はI-O間の関係であって、一方が偽であれば他方は必ず真であるが、一方が真であるからといって他方は偽とは限らないからだ。

ヘーゲルの弁証法では以下のようになる(p326)。

    必然的---- 反対 ---- 不可能的
    | \     /|
  大 矛  矛  大
   小   盾盾   小
   |  /    \ |
  可能的       偶然的

ジジェクは以下のように述べる。「必然性と不可能性との対立は可能性の領域に解消する」、「それと共に消滅するものが(略)偶然的なものである。」(p326)

さらにラカンでは以下になる(p328)。

命ぜられたもの---- 反対 ---- 禁じられたもの
    | \     /|
  大 矛  矛  大
   小   盾 盾   小
   |  /    \ |
許されたもの      X


一義的にはXは「真実」であるが、これを前出の男性、女性の定義とつなげれば、「性」そのものをつかもうとすることはXをつかもうとするのと同じということになる。
念のためラカンによる性差の図式は以下である。  
http://www.ogimoto.com/ronbun/jack.html
a0024841_2210540.jpg


( 左が男性、右が女性を表し、反対と小反対が上下逆。)
左:
すべてのXに対してファロスの作用が及んでいる。下
ファロスの作用の及ばないXが少なくとも一つ存在する=父の名。上
(閉鎖集合)
右:
ファロスの作用はすべてのXに及んでいるわけではない。下
ファロスの作用が及ばないようなXは存在しない。上
(開放集合=すべての要素は数え上げられないし、数え上げられてもすべてではない。)*


参考図:
a0024841_11323882.jpg

(藤田博史『性倒錯の構造』p78より
「集合の図は四角で囲まれているが、実際は開放集合であるから、枠は頭の中で取り払って考えていただきたい。」p77)

ラカンの4つの式は、
I O
A E
として、
伝統的論理学の4つの命題、全称肯定命題(A)、全称否定命題(E)、特殊肯定命題(I)、特殊否定命題(O)のそれぞれに対応するものである。
ただしこう考えるとAを男性的、Oを女性的とした最初の指摘と矛盾する。これはXを認識し損ねているということだろう。
ややこしいが全称肯定命題(男性的)と全称否定命題(女性的)の対立(反対)は女性的で、特殊肯定命題(男性的)、特殊否定命題(女性的)の対立(小反対)は男性的ということか、、。詳しい分析をするにはジジェクが援用したコプチェク(『わたしの欲望を読みなさい』)の文脈を捉え直す必要がある。

アラン・ソーカルに言わせれば、ラカンの論理記号の使い方は間違っているということになるが、ファンクションのfをファルスにしている時点でラカンは確信犯だし、ジジェクに言わせれば論理記号自体の意味内容と表記法自体の裂け目に性差を見いだしたラカンは画期的だということになる。
そしてラカンの考察は昔ながらの論理学にも定位され得る真っ当な成果ということになる。

ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(p366,367)。
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へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
上記の図はハイデガーが『ツォリコーン・ゼミナール』冒頭で描いた以前紹介したの現存在の図と比べると面白いかもしれない。
(ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳p168)↓をヒントにしているに違いない。) 
a0024841_2147191.jpg

邦訳『ヘーゲル読解入門』p185-189参照。
プラトンの神学では円環的な知という大きな円に概念という小さな環があった(上)。それに対してスピノザは概念そのものが存在となることで自らが宇宙となり、図では大きな円である宇宙が消える(左下)。
ヘーゲルは概念から絶対知へ至ることで自ら神となる。図では概念の運動は消える(中央下)。以前紹介したジジェクの図とは違うが、アウフヘーベンすることで自ら登った階段を外すと考えれば妥当だと思う。
カントは仮説的に神の概念を想定するので、小さな円は実線ではなく点線で表される(右下)。
完全に納得できるわけではないが、カント哲学とスピノザ哲学の相補性がこれだとうまく説明できる。

コジェーヴ作製の図は他にもあり、ちなみにアリストテレスの多神論的神学は小さな円が数個プラトンのそれに書き加えられたものとなっている。

p168にあるその前段階の図も興味深い。
そこでは最初の図は直線となっている。
円環としての知という東洋では一般的な思考法に至るには、西欧哲学においては準備がいるということだろうか。



https://yojiseki.exblog.jp/7122305/

物自体及びスピノザの今日性

以前紹介したように、一般に感情的だと看做されがちなヤーコビ(1743-1819)は、メンデルスゾーンとの論争の後に出したヒューム論(1787)の中で、「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」という有名な言葉を述べ、スピノザの側からカントの弱点を指摘した。
これなどはカントの哲学体系(空間重視)とスピノザのそれ(実体重視)が対立するというより、ある一点で交わるということの証明でもあるだろう(以前述べたように互いの体系にお互いの体系が相互的に組み込まれているという解釈も可能だが)。
上記の発言は、英訳ではこうなっている。

"I must admit that I was held up not a little by this difficulty in my study of the Kantian philosophy, so much so that for several years running I had to start from beginning over and over again with the Critique of Pure Reason, because I was incessantly going astray on this point,viz. that without that presupposition I could not enter into the system, but with it I could not stay within it. "

'David Hume on Faith' "The Main Philosophical Writings and the Novel Allwill"Friedrich Heinrich Jacobi (Translated by George di Giovanni,McGILL QUEEN'S. pp.336)

カントは遺稿で、自然科学への関心を保ていた。カントの物自体は認識できないという立場からの引き算だが、これは例えばスピノザの言う無限と捉えることも出来るだろう。スピノザは有限空間の中に数学的な無限を見出していたが、このカントールの先駆け的な視点は、実はデカルトの文脈で言えば物理学的なものであり、カントの立場と照応可能なのだ。

ヘーゲルはスピノザとカントの両者に「留まれない」として逸脱したが、両者をアンチノミーとして維持したまま、生産的な思考を生みだすことは可能だ。

スピノザの視点は政治論的には、民衆による自治は可能かと言う展望に関わるし、それ以前のストア学派からの影響などを重視すれば、西欧哲学に受け継がれた下からの力、多様な力の哲学の系譜(ドゥンス・スコトゥス等)が含まれることになる。

例えば、イスラエルはヨーロッパがユダヤ人を思想的に市民社会のなかに内包することができなかったから追放されたひとたちの集団と考えることができる(経済的には石油確保のための欧米の拠点ではあるが)。

スピノザの汎神論をもう一度西欧哲学の主流のなかに位置づけることができなければ、いつまでもユダヤ人は追放されたままであり、アラブと言う他者(これはデータを読み上げる他者=物自体である)も見えないのである。

また、スピノザの哲学は有からスタートしている点において無からスタートする東洋思想とは違うが、東洋の哲学との一致点は数多くあり、東洋にすむ住む人間にとっても人ごとではないだろう。


追記:
以前、ジジェクのヘーゲル論を紹介した際に言及したが、コジェーヴがプラトンの神学との関係において、スピノザ、ヘーゲル、カントを図解していて興味深い。
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邦訳『ヘーゲル読解入門』p185-189参照。
プラトンの神学では円環的な知という大きな円に概念という小さな環があった(上)。それに対してスピノザは概念そのものが存在となることで自らが宇宙となり、図では大きな円である宇宙が消える(左下)。
ヘーゲルは概念から絶対知へ至ることで自ら神となる。図では概念の運動は消える(中央下)。以前紹介したジジェクの図とは違うが、アウフヘーベンすることで自ら登った階段を外すと考えれば妥当だと思う。
カントは仮説的に神の概念を想定するので、小さな円は実線ではなく点線で表される(右下)。
完全に納得できるわけではないが、カント哲学とスピノザ哲学の相補性がこれだとうまく説明できる。

コジェーヴ作製の図は他にもあり、ちなみにアリストテレスの多神論的神学は小さな円が数個プラトンのそれに書き加えられたものとなっている。

p168にあるその前段階の図も興味深い。
そこでは最初の図は直線となっている。
円環としての知という東洋では一般的な思考法に至るには、西欧哲学においては準備がいるということだろうか。

追記:
その後スピノザの図を書き換えてみた(ジジェクではないが、ヘーゲルとプラトンも逆のような気がしてならないが)。
カントはそのまま。
スピノザとカントが点線と実線の位置づけにおいて相補的となっている。
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小さな円の上下をどちらか逆にすればよかった。
そうすれば、空間重視の批判哲学と、実体重視の汎神論哲学の対比が明白になったろう。