土曜日, 10月 13, 2018

柄谷行人 書評



「国家権力縛る」基本は今日的

いま、憲法は「時代遅れ」か 〈主権〉と〈人権〉のための弁明著者:樋口 陽一出版社:平凡社ジャンル:法学・法律

価格:1620円 
ISBN: 9784582835205 
発売⽇: 
サイズ: 20cm/235p

個人と国家にとって、この天災と人災の時代を生きぬくために、いま、何が必要か? 日本の「憲法学」の権威である著者が、一市民の立場から、「憲法」の在り方とその活用を広い視野で…

評者:柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2011年07月10日

いま、憲法は「時代遅れ」か―〈主権〉と〈人権〉のための弁明(アポロギア) [著]樋口陽一

 本書はつぎのエピソードから始まっている。伊藤博文は明治の憲法制定に関する会議で、「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と発言した。この事実を、著者が法律関係者の多い聴衆に話したとき、衝撃をもって受けとめられた、という。
 立憲主義の基本は、憲法は、国民が国家権力を縛るものだという考えにある。それは、別の観点からいうと、国家は本性的に、専制的であり侵略的であるという認識にもとづいている。だから、憲法によって国家を縛らなければならない。明治時代に日本帝国を設計した政治家にとっても、それは自明であった。しかし、今や、法律関係者の間でさえ、この基本が忘れられている。
 たとえば、憲法9条にかんする議論がそうである。改憲論者はもっぱら国家の権利を論じる。そして、日本の憲法は異常だという。しかし、9条の趣旨は、伊藤博文の言葉でいえば、「国家の(戦争する)権利を制限し、(平和に暮らす)国民の権利を保全することにある」。確かに、立憲主義が始まった時期に、「戦争の放棄」という観念はなかった。しかし、それは、立憲主義の基本から見ると、正当かつ当然の発展である。
 憲法は国民が国家権力を縛るものだ、という観点から見ると、現行憲法は「時代遅れ」であるどころか、きわめて今日的である。憲法25条1項には、こうある。《すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する》。たとえば、震災でホームレスとなり職を失った人々を放置するのは、憲法に反する。また、放射性物質の飛散によって人々の生存を脅かすのは、憲法違反であり、犯罪である。本書は、多くの事柄に関して、憲法からそれを見るとどうなるかを、教えてくれる。憲法全文も付載された、最良の入門書である。
 評・柄谷行人(評論家)
     *
 平凡社・1575円/ひぐち・よういち 34年生まれ。国際憲法学会名誉会長。『近代国民国家の憲法構造』など。



インフレの都市で事件、華々しく

花の忠臣蔵著者:野口 武彦出版社:講談社ジャンル:小説・文学

価格:2376円 
ISBN: 9784062198691 
発売⽇: 2015/12/11 
サイズ: 20cm/318p

いつの世も、人はカネと意地のあいだで揺れる。誰も自分たちを見えない手で操るのが、貨幣経済のからくりであることを知らない−。正義感、勧善懲悪主義、責任感。日本人のプラス感情…

評者:柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2016年01月31日

花の忠臣蔵 [著]野口武彦

 私は著者が赤穂浪士について書いた本を20年ほど前に読んだことがある。そのとき私が学んだのは、この事件が最初から「忠臣蔵」として、つまり演劇や文学を通して知られていたということである。「史実」はむしろその後に見いだされた。日本人がこの事件を好んだ秘密もたぶんそこにある。それは演劇や文学によって培養され増幅されたものなのである。また、著者は赤穂浪士の討ち入りを、喧嘩(けんか)という観点から論じたことがある。つまり、それは忠義の観念による敵討ちであるよりも、より古い血讐(けっしゅう)のあらわれであり、それが人々をわくわくさせたのだ。
 本書はあらためて、この事件を包括的に論じたものである。つまり、忠臣蔵についての、これまでの論考の集大成だといってもいい。しかし、本書にはやはり、現在における著者の関心が色濃く反映されている。特に注目されているのは、元禄時代に貨幣経済が浸透したことである。「重金主義」がそこに生じた。貨幣改鋳による利得を狙ってインフレをもたらした将軍(徳川綱吉)。製塩業で繁栄し、藩札(紙幣)を発行するにいたった赤穂藩主(浅野内匠頭〈たくみのかみ〉)。
 この事件は、通常、封建時代に固有の事件だと思われている。しかし、主要な登場人物らは、それまで知られていなかった貨幣経済の華々しさと危うさの中に生きていた。たとえば、吉良上野介が浅野内匠頭に意地悪をしたのは、後者が賄賂を拒否したからではなく、正当である謝礼を払う際に、インフレを考慮せずに昔の価格ですまそうとしたからだといわれる。また、赤穂藩では、お家取りつぶしになるより前に、藩札をめぐる取り付け騒ぎが起こった。
 別の面からいえば、参勤交代のおかげで、赤穂藩の武士は江戸の文化になじんでいた。赤穂浪士には俳人が多かった。そのような都会性も、この事件を当初から華やかなものにしたのである。
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 講談社・2376円/のぐち・たけひこ 37年生まれ。文芸評論家。著書に『江戸の歴史家』『幕末気分』など。



貧富の逆転なぜ 変異を比較分析 朝日新聞読書面書評から

歴史は実験できるのか 自然実験が解き明かす人類史著者:ジャレド・ダイアモンド出版社:慶應義塾大学出版会ジャンル:歴史・地理・民俗の通販

価格:3024円 
ISBN: 9784766425192 
発売⽇: 2018/06/06 
サイズ: 20cm/272,41p

ポリネシアの文化進化、アメリカ・メキシコ・ブラジルの銀行制度、フランス革命の影響…。幅広い分野の専門家たちが、それぞれのテーマについて比較史、自然実験で分析した8つの研究…

評者:柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2018年07月28日

歴史は実験できるのか 自然実験が解き明かす人類史 [編著]ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン

 本書の原題は「歴史の自然実験」であるが、たぶん歴史の自然実験と聞けば、歴史は実験できるのかと問いたくなるだろう。実は、実験は可能である。ただし、それは科学実験室での操作的実験のようなものとは異なる。自然実験とは、多くの面で似ているが、その一部が顕著に異なるような複数のシステムを比較することによって、その違いが及ぼす影響を分析するものだ。たとえば、ダーウィンは、複数の島で異なる進化を遂げた鳥を比較研究した。同様に、歴史の自然実験とは、それを人類の社会史について行うことだといってもよい。
 本書には、歴史学、考古学、経済学、経済史、地理学、政治学にわたって、八つの研究が収録されており、それぞれが興味深いものである。その一つは、カリブ海の同一の島にあるハイチとドミニカ共和国の比較研究である。経済的に見て、前者が際立って貧しいのに、後者は相対的に豊かである。しかし、一九世紀まではその逆であった。この逆転がなぜ生じたかを見るのが、ジャレド・ダイアモンドによる「自然実験」である。さらに興味深かったのは、パトリック・V・カーチによる、太平洋のポリネシア諸島の間に生じた歴史的変異の比較分析である。
 これまでの考古学的研究では、ポリネシア人の故郷はトンガやサモア島で、彼らは東南アジアから渡来したと想定されている。彼らは紀元一〇〇〇年ごろに、周辺の諸島に移住を開始し、最果ての地、ハワイまで進出した。そのことは、彼らの言語がポリネシア祖語にもとづいていることからいえる。しかし、これらの諸島の間には、政治社会的組織の点で著しい差異がある。たとえば、ハワイでは王国が生まれた。では、なぜそのような差異が生じたのか。それらを考察する「実験」を通して、世界史一般において、政治社会的組織の変異がいかに生じたかを見ることができる。
 私がとりわけこの論文を面白く思ったのは、はるか前に柳田国男が同じようなことをいっていたからだ。彼は「実験の史学」(一九三五年)と題して、「郷土科学」の方法論を論じた。それはまさに「歴史の自然実験」であった。彼の考えでは、極東に位置する日本列島には、主として東南アジアからつぎつぎに渡来した人々が累積しており、そこに人類史におけるさまざまな段階が保存されている。その場合、彼が依拠したのは、言語地理学の仮説(方言周圏説)である。すなわち、日本の東西・南北の離れた地点で一致する言葉があれば、それを歴史的に古層にあると見なしてよい。つまり、柳田は日本列島を、日本人というより、人類史の実験室と見なしたのである。
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 Jared Diamond 1937年生まれ。進化生物学者。『銃・病原菌・鉄』など▽James A. Robinson 1960年生まれ。政治経済学者。共著に『国家はなぜ衰退するのか』。


フェティッシュとは何か その問いの系譜著者:ウィリアム・ピーツ出版社:以文社ジャンル:哲学・思想・宗教・心理

価格:2916円 
ISBN: 9784753103478 
発売⽇: 2018/08/16 
サイズ: 20cm/212p

西洋文明と「未開社会」の接触によって生まれた“フェティッシュ”と、その後、原始宗教として蔑まれた“フェティシズム”の誕生の歴史を検証。モノが信仰と欲望の対象となり、商品/…

評者:柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2018年09月29日

フェティッシュとは何か その問いの系譜 [著]ウィリアム・ピーツ

 フェティシズムという概念は、フランスの思想家ド・ブロスが『フェティシュ諸神の崇拝』(1760年)で定式化したもので、アフリカの住民の間で行われていた護符・呪物崇拝を意味していた。アダム・スミス以来経済学者が商品の価値をその生産に要した労働から来ると考えたのに対して、マルクスは『資本論』で、物の交換価値を、物に付着したフェティッシュ(霊の力)のようなものだと考えた。そして、それが商品から貨幣・資本に発展する姿を、「精神」(霊)の発展を論じたヘーゲル哲学に合わせて書いた。
 しかし、以後、このフェティシズムが重視されなかったことにはいくつかの理由がある。『資本論』第一巻初版(1867年)が刊行されてまもなく、エドワード・タイラーが『原始文化』を刊行し、そこで提起したアニミズムという概念が支配的となった。さらに、アルフレッド・ビネーがフェティシズムを性的倒錯の意味で使ったことも大きい。以来、フェティシズムはむしろ、嘲笑的なジョークとして扱われてきたのである。マルクス主義者もルカーチ以後、もっぱら物象化(人間と人間の関係が物と物の関係としてあらわれること)を論じ、フェティシズムについては真面目に考えなかった。
 本書が独自なのは、フェティシズムがいかに生じたかを理論的に考察するかわりに、フェティッシュという言葉がいかに出現したかを歴史的に考察したことである。〝フェティソ〟は、アフリカにあった言葉ではなく、ラテン語から作られた新造語であった。そして、それは、十五世紀に、ポルトガルの商人がアフリカ人と交易したことから生じた。彼らは、西洋人がガラクタと見なす物を得るために、アフリカ人がすすんで金を手放すのを見て、驚きあきれて、それをフェティッシュと呼んだのである。以来、一六世紀から一七世紀に、スペイン人、オランダ人が西アフリカに交易のために到来したが、その間にこの言葉が定着した。さらに、ド・ブロスがそれを一般理論化し、キリスト教でいう偶像崇拝と区別して、フェティシズムと呼んだ。
 本書が示すのは、フェティシズムが、アフリカあるいは未開社会にあったものではなく、それが西洋の商人資本主義と遭遇したときに見出されたということである。著者によれば、それは「キリスト教封建制、アフリカの氏族制、そして商業資本家的社会システム」という三角形の中で生まれた。思えば、フェティッシュという概念は、未開社会にあったというより、近代の西洋人をかきたてた、商品・貨幣の物神崇拝から生まれたのである。そして、それは今もますます、世界を席巻している。
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 William Pietz 1951年生まれ。哲学博士。米国各地の大学で講師を務めロサンゼルスの緑の党結成に尽力。