月曜日, 12月 03, 2018

100分de名著 スピノザ エチカ

          ( スピノザリンク:::::::::
100分de名著 スピノザ エチカ
スピノザ『エチカ』
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/

              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定)\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\____\善   /  
      \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/ /_\/_\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
     /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳./
               \/
              5自由 




②a コナトゥス 変状 欲望 感情
②b 感情 時代背景







デカルトとの比較
482 a[sage] 2018/12/27(木) 01:23:21.80 ID:0 
國分主著の主題である定義における起成原因の重要性に触れられなかったことと
疑いつつある、という書簡にあるフレーズが紹介されなかったのが残念

ヤンソン短編集所収の植物園にスピノザを読む登場人物が出てくる。
本が思考回路を「細切れ」にしてしまうことが批判される
これはエチカへの批判だろう
スピノザへのアンビバレンツな態度を含み秀逸

329 a[sage] 2018/12/29(土) 00:04:55.83 ID:0 
力は一定方向に限定されたベクトルだが
美は無方向、全方向性のものだ
脳科学レベルで言えると思うがうまく説明できない


 私はスピノザ哲学を講じる際 、学生に向けて 、よくこんなたとえ話をします 。
 ─ ─たくさんの哲学者がいて 、たくさんの哲学がある 。それらをそれぞれ 、スマホやパソコンのアプリ (アプリケ ーション )として考えることができる 。ある哲学を勉強して理解すれば 、すなわち 、そのアプリをあなたたちの頭の中に入れれば 、それが動いていろいろなことを教えてくれる 。ところが 、スピノザ哲学の場合はうまくそうならない 。なぜかというと 、スピノザの場合 、 O S (オペレ ーション ・システム )が違うからだ 。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには 、思考の O S自体を入れ替えなければならない … … 。

いよいよ本日12月3日夜10時25分よりスピノザ「エチカ」スタート。
1.善悪、(4)
2.本質、(3)
3.自由、(5)
4.真理   (2,1)
というサブタイトルは國分功一郎さんの発案。名著史上最も短いワードにはテーマが凝縮。企画者プロデューサーA氏も國分さんの言葉にならい「思考のOSが書き換えられるような体験だった」と。お楽しみに!


「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」とは良い悪いの区別について、すべては組み合わせ次第であり、そのもの(たとえば音楽)自体に善悪はない。
#100分de名著 #エチカ

#4序言
 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。事情はかくのごとくであるけれどもしかし、我々はこれらの言葉を保存しなくてはならぬ。なぜなら、我々は、眺めるべき人間本性の型として、人間の観念を形成することを欲しているので、これらの言葉を前に述べたような意味において保存するのは我々にとって有益であるからである。


参考:
「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
  デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他)

「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
  スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)

「私は思惟する事物である 」
  ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

《スピノザは、石がある衝撃によって空中を飛ぶとき、石に意識があれば、自分自身の意志で飛んで
いるのだと考えるだろう、と言っている[書簡六十二]。わたしはこれにさらにつけ加えて、石の考え
ていることは正しいとだけ言っておく。》ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」第24節より

《僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ! 僕には先駆者がいるのだ、なんという先駆者
だろう! 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザをもとめたというのは、ひとつの
「本能的な行為」であったのだ。彼の傾向がすべて、――認識をもっとも力づよい情熱とする――僕の
傾向にそっくりというだけではない。彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿をみたのだ。この最も異質
な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近い、――彼は意志の自由を否定する、目的を、道徳的
世界秩序を、非利己的なものを、そして悪を否定する。………つまりだね、高い高い山に登った時の
ように、ときどき僕の息を詰まらせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、少なくともいまは、
二人連れの孤独なのだ――ふしぎだね!》
(ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡。ちくま文庫ニーチェ全集別巻1上500頁より)








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おもわく。

「知性改善論」「神学政治論」といった哲学史に残る名著を著し、近世哲学の一つの潮流を生み出した17世紀の哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632 - 1677)。とりわけ彼の哲学は、現代思想にも巨大な影響を与え続け、人間の行為や感情、知性、ひいては社会のあり方にも深い洞察をもたらすものとして今も多くの人々の注目を集め続けています。そんなスピノザが最晩年、自らの哲学的な営為の集大成として、世に問おうとしたのが「エチカ」です。

現代でこそ哲学史上の名著とされる「エチカ」ですが、出版当初は無神論者による冒涜の書として黙殺されました。その理由は、常識を覆すあまりにも革新的なスピノザの思考法にありました。この世界のすべてのものは神のあらわれであり、神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。それをベースとして、「自由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、常識とは全く異なる考え方が導かれていきます。

私たちが漠然と前提しているものの見方がことごとく覆されますが、そこには不思議にも私たちが日常の中で見過ごしている物事の本質が浮かび上がってきます。とりわけ「意志」や「自由」に関するスピノザの洞察は、精神医療やケアの現場にも新たな知見を与えてくれることもあるといいます。幾何学の方法を徹底的に適用し一見冷めた非人間的な記述とも思えるスピノザの哲学は、深く読解していくと、「人間の幸福」「人生を正しい方向に導く方法」「真の善の発見」といったテーマが貫かれていることがわかっていきます。

哲学研究者、國分功一郎さんは、新自由主義が世界を席巻する中、人間の行為があらゆる領域でマニュアル化され、思考の自由が奪われつつある現代にこそ「エチカ」を読み直す価値があるといいます。スピノザの哲学には、現代では失われつつある思考の本来のあり方や自由の根源的な意味を考えるための重要なヒントが数多くちりばめられているというのです。

番組では、20年来スピノザを研究し続けている國分功一郎さんを指南役として招き、哲学史上屈指の難解さをもつという哲学書「エチカ」を分り易く解説。スピノザの哲学を現代社会につなげて解釈するとともに、「意志とは何か」「自由とは何か」「人間はどうやって真理を知りうるのか」といった根源的な問題を考えていきます。
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第1回 善悪

【放送時間】
2018年12月3日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月5日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月5日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子
「エチカ」を直訳すると「倫理学」。つまりこの本は「人はどうやって生きればよいか」を問うた本である。それは、要するに「生きていく上で、「善い」「悪い」の区別をどうするかという問題だ。スピノザは音楽を例にして説明する。「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」。すなわち、すべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はないという。その視点から善悪を再定義すると、その人の活動能力を増大させるものが善であり、減少させるものが悪だととらえることができる。第一回は、「エチカ」が生み出された背景やスピノザの人となりを紹介するとともに、スピノザが再定義した善と悪の見方から、私たちの行為の意味を捉えなおしてみる。
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第2回 本質

【放送時間】
2018年12月10日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月12日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月12日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子
古来ものごとの本質は「形」とされてきた。たとえば、馬と牛はその外形や解剖学的な差異で分類される。私たちの知は、本質を固定した「形」とすることで成り立っているのだ。しかし、スピノザは、本質を「力」とみることでこれまでとは違った見方を提示する。たとえば、同種の馬でも、環境や関係や歴史が違えば、野生馬、競走馬、家畜といった風に、自らの力を増大させるために異なった生態を生きることになる。人間もそうした視点でとらえてみると、決められた本質を目指すのではなく、それぞれの特性にあった「力」ののばし方を考えるべきだという発想に変わっていく。第二回は、あらかじめ固定された「形」ではなく、それぞれの環境で独自にのばしうる「力」として本質をとらえることで見えてくる、スピノザ独自の人間観に迫っていく。
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第3回 自由

【放送時間】
2018年12月17日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月19日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月19日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子
「力=活動能力の増大」がスピノザ倫理学の目標だが、言い換えると「自由」という言葉で表現できる。しかし、この自由は単に制約からの解放ではない。たとえば、魚は水という制約の中でこそ活動能力を発揮できる。水を離れては自由にはなれない。同じように、人間が自由になるとは、何の制約もなくなることではなく、その条件にうまく沿って生きることで活動能力が増大させることなのだ。さらにスピノザは「自由意志」をも否定する。私たちが一つの行為を選ぶとき、実際には非常に複雑な要因がからまっているにもかかわらず、自由意志が唯一無二の原因で選んでいると単純化してとらえてしまっているという。第三回は、固定観念で覆われ、私たちが見逃しがちな「自由」や「意志」の本来の意味を、スピノザの視点から照らし出す。
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第4回 真理

【放送時間】
2018年12月24日(月・祝)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月26日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月26日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子
スピノザ倫理学の肝「活動能力の増大と減少」。ではその増減をどう判定すればよいのか。近代科学は、「数値」「データ」といった他者と共有できる根拠のみを真理の判定基準としてきた。しかし、これは知識が扱えるものの範囲を非常に狭めてしまったと國分さんはいう。スピノザが提示するのは「体験」としての認識。他者と共有できなくても、体験自体が明々白々と真実性を語るような知のあり方が、科学の一方で、確かにありうるという。第四回は、近代が切り捨ててきた「体験」という知のあり方をスピノザにならって提示し、あらゆるものが数値化、マニュアル化する現代、もう一つの思考のあり方の可能性を考える。





____

13 Comments:

Blogger yoji said...

463 考える名無しさん[sage] 2018/12/04(火) 11:20:12.21 ID:0
たしかコレ孤独がEinsamkeitで「二人連れの孤独」がZweisamkeitなんだが
「前はひとりぼっちだったが、今はふたりぼっちだ」と訳した人がいてうまいと思った

7:20 午後  
Blogger yoji said...

https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/philo/1298297727/


プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。

「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
   しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意し
なくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われ
るのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情
に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)

742 :741:2014/03/27(木) 00:47:22.34 0
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は
『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピ
ックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最
後の言葉)。

ネグリ、フーコー、ドゥルーズらがプルードンに言及していないのは、マルクス主義的言説空間の中に彼らがいた
からだろう。サルトルはプルードンに言及している。

7:43 午前  
Blogger yoji said...

802 :考える名無しさん:2014/04/25(金) 13:10:02.07 0
「思想」No.1080 スピノザというトラウマ

カント遺稿関連論考が個人的には一番興味深かった。
ただしこのあたりは今後ニュートンあたりと一緒に総合的に検証するべきだろう。
対ユダヤ思想、対ライプニッツ、対カント、対現代フランス思想との関係等々、スピノザ自体よりも
こうした外側から切り崩した論考が集まるのは、日本の知識人に取り付いたカント批判哲学の
無意識の適用だろう。上野修編集ならホッブズあたりとの比較がもっと集まってよかった。

具体的にはところどころにあるスピノザ批判が興味深い。
マイモニデスの影響は検討するべきだろうが、、、ライプニッツによる批判は以下(本邦初訳のはず)、

<神だけが実体であり、他の一切は神の様態ないし偶有性である、と言いたい人々の誤謬をスピ
ノザが新たに呼び覚ましたが、この主張を洞察できたのがパルメニデスだった。かれらは、奇妙
にも、第一原因だけが活動し、第二原因は、その道具、もっとはっきり言えば、第一原因の機会
であると考える。>
Leibniz:N.421.De Religione Magnorum Virorum,偉大な人々の宗教について 1686
(邦訳は「思想」No.1080,松田毅「ライプニッツのアンビバレンス」107頁より)
原文 http://www.uni-muenster.de/Leibniz/DatenVI4/VI4c1.pdf http://www.uni-muenster.de/Leibniz/bd_6_4_2009.html

<すべて無くなるものは、本性上、それが変化する実体であることが帰結し、その理由によって、
われわれはスピノザとアヴェロエスの教条に陥る。かれらは、神だけが実体ないし自然であると
考え、被造物は神の様態に他ならないとする。しかし、それが正しいなら、被造実体を無にする
変化を神にも移しおくことにならざるをえない。神も持続せず、たえず生成消滅する。それゆえ、
何も全体として存在しない。すべてが同時に無になるなら、ここからそれを修復するものもない
からである。無から無が生じ、何も自発的には生じない。>
ライプニッツ N. 209 De realitate accidentium 偶有性の実在性について 1688
(邦訳は「思想」No.1080,松田毅「ライプニッツのアンビバレンス」108頁より)
http://www.uni-muenster.de/Leibniz/DatenVI4/VI4a2.pdf http://www.uni-muenster.de/Leibniz/bd_6_4_2009.html

7:45 午前  
Blogger yoji said...

https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/philo/1298297727/

7:46 午前  
Blogger yoji said...

>>363
参考
エチカ
①より
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1070283774590574592/pu/vid/1280x720/NM2o3gzZZtZOxunl.mp4

②より コナトゥス 変状 欲望 感情
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1072136359614136322/pu/vid/1280x720/gQPQ5QND7qY5QGxa.mp4

8:49 午後  
Blogger yoji said...

トーベヤンソン
植物園
主人公のベンチ取りのライバルが
読んでいるのがスピノザ

11:30 午後  
Blogger yoji said...

スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。

              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\_____\善   /  
      \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/ /_\/_\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
     /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳_/
               \/
              5自由

文字化けしているかもしれないし、妥当性に疑問があるかもしれないが、
肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいる。)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。

ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
(ラカンなら欲望とそれに対応するシニフィアンが大事だというだろうが、、、)
系列がなければドゥルーズはニーチェと同じ狂気に陥っていただろう。
(ドゥルーズはシネマ2第六章「偽なるものの力能」等でニーチェのツァラトゥストラ最終章の系列的思考を賞賛する。)
ドゥルーズの欲望も、欲望する諸機械(多元論的延長)vs. 器官なき身体(一元論的思惟)
ということで実は系列化され、相対化されているのがミソ。

國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。



 

4:51 午前  
Blogger yoji said...

コナトゥスを定義した定理が次のものです 。

おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。 (第三部定理七 )

文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているのがコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であるとスピノザが考えていることです 。

4:56 午前  
Blogger yoji said...


スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。

              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\_____\善   /  
      \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/ /_\/_\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
     /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳_/
               \/
              5自由

文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいる。内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。

ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
(ラカンなら欲望とそれに対応するシニフィアンが大事だというだろうが、、、)
系列がなければドゥルーズはニーチェと同じ狂気に陥っていただろう。
(ドゥルーズはシネマ2第六章「偽なるものの力能」等でニーチェのツァラトゥストラ最終章の系列的思考を賞賛する。)
ドゥルーズの欲望も、欲望する諸機械(多元論的延長)vs. 器官なき身体(一元論的思惟)
ということで実は系列化され、相対化されているのがミソ。

國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。

以下は國分NHテキストより

コナトゥスを定義した定理が次のものです 。

おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )

文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。

6:04 午前  
Blogger yoji said...


スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。

              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\_____\善   /  
      \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/ /_\/_\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
     /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳_/
               \/
              5自由

文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいる。内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。

ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。

以下は國分NHKテキストより

コナトゥスを定義した定理が次のものです 。

おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )

文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。

6:06 午前  
Blogger yoji said...


スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。

              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\_____\善   /  
      \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/ /_\/_\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
     /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳_/
               \/
              5自由

文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいるが、内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。

ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。

以下は國分NHKテキストより

《コナトゥスを定義した定理が次のものです 。

おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )

文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。》

6:07 午前  
Blogger yoji said...


スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。

              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\_____\善   /  
      \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/ /_\/_\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
     /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳_/
               \/
              5自由

文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいるが、内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。法学でいう自然権とも関わる。

ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。

以下は國分NHKテキストより

《コナトゥスを定義した定理が次のものです 。

おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )

文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。》

6:09 午前  
Blogger yoji said...

ちくま新書
自己を精錬する証明ただ 、問題は三つ目の証明があることです 。しかもそれは先の二つとは全く観点の異なるア ・プリオリと呼ばれる証明であり 、 『省察 』ですと 、 「再び神について 」と題された第五省察に現れます 。もちろん読者としては 、なぜ既に存在を証明しているのに 、 「再び 」証明しなければならないのか気になります 。第五省察のタイトルはそのような読者の感想を先取りしているかのようです 。そのア ・プリオリな証明とは 「神の存在は 、単に神の本性を考察するだけで認識される 」というものです 。拍子抜けしてしまうような証明ですが 、これはライプニッツによって三段論法として定式化された ─ ─そしてまた後にカントによってその無効を宣告された ─ ─存在論的証明と呼ばれるものに似ています 。ライプニッツの定式とは次のようなものです 。神の観念はすべての完全性を含んでいる 。ところで実在は完全性の一つである 。したがって神は実在する 。さて 、神の本性を考察すれば 、そこにすべての完全性が備わっていることが分かるという風に理解するならば 、デカルトのア ・プリオリな証明はこの存在論的証明の一例ということになるかもしれません 。しかし 、実際にデカルトのテキストを見ていくと 、ライプニッツの定式とは微妙に 、しかし決定的に異なる点のあることが見えてきます 。その点を明確に指摘した持田辰郎の論文 、 「デカルトにおける神の観念の精錬と 、神の実在のア ・プリオリな証明 」 ( 『現代デカルト論集 Ⅲ ─ ─日本篇 』勁草書房 )を参照しながらこの点を検討していきましょう 。持田はデカルトの提示したア ・プリオリな証明にはライプニッツの定式には見られない 「神の何たるかを充分精密に探究した後は 」という条件が付されていることに注目します 。これは三段論法という論理にとっては不要です 。論理的には不純な要素と言えるでしょう 。しかし 、実はデカルトにとってはこの要素こそが決定的に重要であったのです 。どういうことでしょうか 。

1:11 午前  

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