木曜日, 2月 14, 2019

エッジワース (Francis Ysidro Edgeworth), 1845-1926

エッジワース
エッジワース:メモ

ミルグロム:メモ



神取道宏『ミクロ経済学の力』(2014年、日本評論社):書評&目次より
http://nam-students.blogspot.jp/2015/02/blog-post_82.html
  (f) 交換経済の分析:エッジュワースの箱 219

二人の消費者による二つの財の資源配分を大きな箱の中の無差別曲線で表す。これを考案した経済学者F.Y.エッジュワースの名前をとってエッジュワースの箱という。

      図3.38 エッジュワースの箱
   _______⬅︎Bが消費する第1財_0B
  |          ____    |
⬆︎ |  Aの無差別  ___  \   |B
A | |   曲線  _  \  ↙︎  |が
が | |  |  |  \  ↙︎  \ |消第
消第| \  \  ↗︎   ↙︎  \  \|費2
費2|  \  ↗︎  \_ |  |  ||す財
す財|   ↗︎  \___  Bの無差別 |る
る |    \____      曲線 | ⬇︎
  |__________________|
 0A Aが消費する第1財➡︎
    (↗︎↙︎効用の上がる方向)神取220頁

          ||
          \/ 

 図3.38 エッジュワースの箱(パレート最適を加筆)
   ________⬅︎Bが消費する第1財__0B
  |                    |
⬆︎ |Bの無差別    |          |B
A |曲線  ____ |          |が
が |        \\          |消第
消第|         []    Aの無差別|費2
費2|          \\____  曲線|す財
す財|           |        |る
る |    ︎       |        | ⬇︎
  |____________________|
 0A Aが消費する第1財➡︎
(↗︎↙︎効用の上がる方向、[]パレート効率的な配分=パレート最適)


以下は、「資源配分の効率性とは何か」という条件を高度に一般的かつコンパクトにまとめたもの。

 X2
  |         |   これだけあれば、全員  
  |         | X の効用を現状の水準以
  |________ |   上にできる
  |        \\        
  |         []総消費点  
  |  Y       \\________ 
  | これだけ作れる   |        
  |    ︎       |        
  |____________________x1
 図D.6 パレート効率性は、改善集合Xと生産可能性Y
     が接していることを意味する(513頁)



A Collective Action Problem (囚人のジレンマ)
 ____________________
|      |____イケメン弟____| 
|______|__うそ__|__正直__|
|   |うそ|パレート最適| A1,B2|
|イケ |__|______|______|
|メン兄|正直| A2,B1|ナッシュ均衡|
|___|__|______|______|
参考文献

岡田章『ゲーム理論』有斐閣、1996年、pp406.

市場主義はナッシュ均衡点がパレート効率的であるようにする試みの一つである。

共有地の悲劇(多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって. 資源の枯渇を招いてしまう状況. 囚人のジレンマのひとつと解釈できる)。



消費の二面性(双対性):

x2
 |       
 |  o   
 |   
 |\ o  
 | \   
 |  \o  
 |   \ 
 |    ox
 |     \o      u(x)=u
 |  px=I\  o  o 
 |_______\________
                  x1

 x(p,I)  = x = _x(p,u)
現在の所得Iと価 現在の消費 現在の効用uを
格pの下で効用を       現在の価格pの下で
最大にするやり方       最も安上がりに
               達成するやり方

消費の二面性(双対性(そうついせい))

図1.31 神取ミクロ67頁

フランシス・イシドロ・エッジワース (Francis Ysidro Edgeworth), 1845-1926.

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Photo of F.Y. Edgeworthedgewsig.gif (2119 bytes)

 せわしないケンブリッジ大哲学科の学生フランシス・ビューフォート・エッジワースは、ドイツに向かう途中で立ち寄った大英博物館の階段で、カタロニア難民のティーンエージャーの女の子と出会って駆け落ちした。この結婚で生まれたものの一つが、イシドロ・フランシス・エッジワースだった(名前の順番は後に入れ替わった)。かれは19世紀で最も傑出した、もっとも変わり者の経済学者の一人となる。

 エッジワース家はアイルランドの大地主で、故郷の町までエッジワースタウンなる名前がついている。六人兄弟の五番目だったが兄弟は全員夭逝し、エッジワース自身も1926年に独身で他界した (一時的に、ビアトリス・ポッター/ウェッブに求愛したがまったく相手にされなかった) ことで、エッジワース家の家系は途絶えることになった。

 ダブリンのトリニティ大学からオックスフォードに進み、人文学部を主席で卒業しているが、その後の生活はあまりわかっていない。どこかで法律を勉強しており、また独学で数学や統計学を学んだらしい。ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズがご近所にいたことも影響したようだ。処女作『倫理学の新旧手法』 (New and Old Methods of Ethics (1877)) は、効用主義哲学の問題に数学、特に変分法とラグランジアンを適用するものだった。基本的に彼が目指していたのは、社会の幸福最大化をもたらすリソースの最適配分を考えた「厳密効用主義」でありSidgwickを引き継ぐものとなっている。平等性から出発しつつも、一部の人は他よりも幸福を感じる能力が高いという洞察をもとに、社会ダーウィニズムと露骨な優生学的議論が展開されているのが興味深いところ。

 彼は器用貧乏を絵に描いたような人物で、ギリシャ語から論理学、道徳科学など各種のテーマについてあちこちで貧乏講師を務めつつ、最高傑作と言われる独創的な『数理心理学』(Mathematical Psychics , 1881) を上奏した。その中でジェヴォンズの物々交換の理論を批判し、「再契約」制度の下では、実は解がたくさん出てきてしまい、「契約の非決定性」が生じると示したのだ。エッジワースの「最終調停の幅」は後にマーチン・シュービック (1959) がゲーム理論的な「the core」の概念として復活させた。また、後に「エッジワース仮説」、つまり経済におけるエージェントの数が増えれば、非決定性は下がるという説を唱えた。エージェントが無限にいる極限状態(「完全競争」)では、契約は完全に決定性を持ち、経済学者の「均衡」と等しくなると論じたのだ。この主張は、1960年代と70年代にはすさまじい関心を呼んだ。だが「完全競争」の状態はどんな社会でもたぶん実現できないので、エッジワースは 契約の非決定性を解決する唯一の方法は、最終的な調停の段階において、交易者たちの総効用を最大化するという効用主義の原則にしたがうことだと論じた。ちなみに、エッジワースが経済学に一般化した効用関数\(U(x, y, z,…)\)を持ち込み、初の「無差別曲線」を書いたのはこの本でのことだった。

 この重要な著作は、W. スタンレー・ジェヴォンズ (1881) とアルフレッド・マーシャル (1881) が、あまり熱のない書評をしたくらいだった。エッジワースは、いくつか論文を雑誌に発表して (e.g. 1884, 1889, 1891) 自分の理論を述べ直し、経済学者たちにわかってもらおうとした。マーシャルは、エッジワースの結果を自分の『経済学原理』 (1890) 教科書に拝借したが、そのときにこの発想をゆがめたため、1891年にはGiornale degli Economisti でちょっとした論争が展開された。残念ながら、それは報われなかった。マーシャルはちゃっかりこの一件を全部封印してしまい、その後八十年にわたりこの件はまったく顧みられなかった。

 どのみちエッジワースも関心を移していた。1883 年以降、エッジワースは確率理論と統計に対するすさまじい貢献を開始した。 1885 年の著書Metretikeで、エッジワースは平均値比較のための有意性検定の応用と解釈を示した。1892 年の一連の論文で、エッジワースは相関係数推計手法を検討した。その多くの成果の一つは「エッジワース理論」で、多次元正規分布の相関係数を与えるものだ。この業績でかれは1889年に、イギリス科学進歩協会セクションFの会長に選出され、後に王立統計学会の会長も務める (1912 〜1914)。

 1888 年に、友人や、ジェヴォンズ、マーシャルなどの巨人たちの推挙もあり、エッジワースはやっと初の専門職を得る。ロンドンのキングスカレッジにおける、経済科学と統計のトゥーク講師の座についたのだ。だがそれは第一歩でしかなかった。1891 年にはオックスフォードのオールソウルズカレッジにおける、ドラモンド記念教授とフェローに選出された。非常に渇望された地位であり、彼はそれを引退まで務める。

 1891 年にはまた、The Economic Journal の初代編集長にも選出された。これはできたばかりのイギリス経済学会 (後に王立経済学協会となる) の主要刊行物だ。この職をエッジワースはおどろくほど真面目に勤め上げ、1911 年にそれをジョン・メイナード・ケインズが引き継ぐまで続けた。そして 1919 年にケインズが多忙すぎたために共同編集者として復帰し、1926 年の死までその地位にとどまった。

 ちょうどこの頃、経済理論についての関心も復活した。1894 年にはEconomic Journalに、国際貿易理論に関するサーベイ論文を何本か発表した。その中で、主要な主張、たとえば「最適関税」などを説明するため、offer curve やcommunity 無差別曲線などを先駆的に使って見せた。同年、機会費用ドクトリンをめぐってオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクとちょっとした論争を展開している。

 1897 年には、税制に関する長いサーベイを刊行した。ここで彼は有名な「課税パラドックス」を説明する。これはつまり、ある財に課税すると、その価格が下がるかも知れない、という説だ。このパラドックスを、同時代人たちは信用せず、E.R.A. Seligmanの弁を借りれば「エッジワースさんのうっかりミス」と見なした。だが何年もたって、ハロルド・ホテリング (1932) がエッジワースの正しさを厳密に証明した。エッジワースはまた累進制の高い税率について、効用主義的な基盤を敷いた。税金の最適な分配は、「それぞれの納税者にもたらされる限界的な負の効用が同じになるようにすべきである」(Edgeworth, 1897)。

 これまた1897年に、エッジワースは独占価格に関する論文をGiornale に発表した。そこでは二極独占問題に関するクルノーの厳密な会を量的補正により批判し、二極独占モデルにおけるBertrandの「即時競争的」結果を価格補正により批判した。かわりに、エッジワースは容量制約を持つ2 企業の価格競争および限界費用曲線が非決定性につながることを示した。"Bertrand-Edgeworth" 二極独占モデルの現代的な分析については、 Levitan and Shubik (1972) を参照。

 限界生産性理論の批判者たるエッジワースの論文 (1904, 1911) は、新古典派分配理論をもっとしっかりした基盤で述べ直すのに貢献した。第一次世界大戦中に、エッジワースはことさら戦費捻出に興味を持ったが、きわめて独創的な彼の提案はちょっと理論的すぎて、思ったほどの現実的な影響力はなかった。

 また Economic Journal 編集者としてエッジワースは経済学の新刊を書評したがった。そしてすさまじい量の書評を書き、その一部はそれ自体が古典となっている。

 エッジワースの経済学への貢献は、独創性でも深みでも驚異的だった。だが、同時代人に理解できるような形でそれを表現するのもえらく苦手だった。書く文章(いや話す文も!)は長く入り組んでいて、しかもだれも知らない古典や文芸作品の引用まみれ。また造語が好きで、しかもそれをきちんと定義しない。さらに数学の利用は、もっと読者を無視したものだった。自分の手法を説明せず、難解きわまる散文から、同じくらい難解きわまる数式や分析へと平気で行ったり来たりするのだった。

 かれの人格についてもう一つ述べておこう。多くはエッジワースがあまりに権威に「媚び」たがると批判した。確かにかれは、べた褒めする「英雄」をたくさん持っていた。たとえばシジウィックジェヴォンズ、ゴールトンなどだ。そして論敵に対しても、なるべくあたりさわりのない対応をしようとした。そうした相手としては、たとえば J. S. ニコルソン、チャールズ・バスタブルセリグマン、アルフレッド・マーシャルなどだ。

 だがこうした「媚びた」面は、単にエッジワースが元来けんか好きではなかったというだけかもしれない。なかなか職を得られなかった不遇の日々も、こうした恐れを増大させたかもしれない。いくつか重要な論争に参加はしたが(これほど独創的な思想家であればやむを得ないことだ)、知的な対戦者がちょっとでも抵抗や不機嫌さを示したら、すぐに矛を収めた。そして退場するときには、とにかく悪感情を残さないように相手をべた褒めした。確かに論争相手の多くは、異様に好戦的ではあった。たとえばアルフレッド・マーシャルは、汚い論争術で悪名高く、勝つためなら脅しも辞さなかった。エッジワースがマーシャルを「大げさにアキレスになぞらえた」(これはシュムペーター (1954:p.831) に書かれている) のも、マーシャルの不興を買いたくはなかったからかもしれない。

 それでも、オックスフォード大学でも王立経済協会でも、エッジワースはマーシャルの手下と思われていた。オックスフォードでは、ジョン・A. ホブソンなど「望ましからぬ」非主流派教官の採用を阻止し、Economic Journal では全体としてマーシャル流新古典派の分析手法からはずれたものは不掲載にしたり、難癖をつけて脅したりした。 バローネなどローザンヌ学派経済学者たちや、イギリス歴史学派などはどんどん不掲載にされた。また自著でも、当時の過激な新古典派に対してマーシャル派の立場を擁護している。

 エッジワース自身は派閥を作らなかったし、アメリカではある程度評価されたものの、その成果を引き継ぐ者はいなかった。しかし 20 世紀になって、マーシャルと入れ替わるようにエッジワースの株は急上昇した。1930年代にはパレート派、たとえばハロルド・ホテリング、ジョン・ヒックス、アバ・ラーナーなどが彼の業績を発展させている。1960 年代から 1970 年代には、「エッジワース学派」ともいうべきものが開花した。その主導者としてはマーチン・シュービック、ハーバート・スカーフ、ジェラール・ドブリュー、ロバート・オーマン、ワーナー・ヒルデブランドといった数理経済学者たちが挙げられる。

F.Y.エッジワースの主要著作

エッジワースに関するリソース