そこそこの読書家であれば、一度は耳にしたことのあるクレイトン・クリステンセンの名著『イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press) [単行本]』(英題:『The Innovator's Dilemma: When New Technologies Cause Great Firms to Fail (Management of Innovation and Change) [ペーパーバック]』)。この本はこれはこれで素晴らしい本なのですが、ビジネス系の本にありがちな、事例集であり、背景となるメカニズムが仮説ベースにとどまっています。個人的にはビジネス系の本や言説の「かもしれない」という曖昧な部分に気持ち悪さを感じます。問いが問いのまま残っており、「で、結局どうなの?」となりがちです。その企業が成功した理由は、結局のところ「ビジネスモデル」なのか「同業者の失敗」なのか「意欲」なのか「経営者のリーダーシップ」なのか「運」なのか、なんなのか分からないことが多すぎます。



経済学的なモデルの素晴らしい部分は、問の設定をすることで、仮説を絞り込み、抽象化した上で、様々な可能性を削ぎ落としていけることです。仮に、その結論が凡庸に見えたとしても、その結論を生み出す過程での副次的な結果も含めて、有用であると私は思っています。本書は著者の伊神さんの博士論文で取り組んだ「なぜ既存企業のイノベーションは、新参企業よりも遅いのか?」そして「そのメカニズムを支配する3つの理論的「力」は、各々どれくらい大きいのか?」という原因究明型の問い抽象概念の実測を目的とする問いの解明について、解説するという本です。とりわけ、本書がページを割いているのは、問いから答えに至るまでの「プロセス」です。もっとも、強調すべきは個人的には、問いのモチベーションと設定であると思っておりますが。そういう意味では、本書は様々な立場の人に有益な本といっていいと思います。例えば、

  • 経済学の有用性について知りたい高校生や経済学部の1〜2年生(私が学部1〜2年生の頃にこういう本に出会いたかった)
  • 構造推定について学びたい経済学部3〜4年生や大学院生
  • M&Aに携わる実務家やベンチャー企業に務める方、VCの方々
  • 日本の産業振興・プラットフォーム作りに携わる政治家・官僚
などなど。私自身、現在働きながら、研究もしているので、本書の内容は非常に参考になります。かつ構造推定の和書は不足しているので、有難いところです(ずっと読みたいと思っていましたが、中々時間が見つかりませんね)。勿論、テクニカルな話は、実際の論文読んだり、サンプルコード動かさないと理解には至らないのでしょうが、障としてイメージを膨らませておくことも私は大事だと思っているので、こうしたプロの経済学者が噛み砕いて書いている本は貴重です。

やや深入りする形になりますが、本書および本論文(Estimating the Innovator’s Dilemma: Structural Analysis of Creative Destruction in the Hard Disk Drive Industry, 1981–1998)の行なっていることは、「1.需要側推定(共食い効果:Cannibalizaton)」「2.供給側推定(抜け駆け効果:Preemption)」を行うことで、同質財(新旧製品)の弾力性を求め、各期の利潤を求めます(実はこの需要推定で操作変数を上手くみつけているのは推定上結構キモではないかと思います)。そしてこれらの弾力性や限界費用、利潤の値を使うことで、ベルマン方程式を解くことで「3.動学的な投資ゲーム」を解明します(ベルマン方程式は最大化の基本となる動学方程式で、前後の期の価値関数をmax関数に組み込み、繰り返し計算させることで当期の最大化を測る方法論です)。なお、この価値関数を求めるために、後ろ向き帰納法という最終期から逆算してコストを算出します。ここはゲーム理論的な性格があり、確率的に新製品への参入・退出を既存企業と新参企業は選択しうるのかどうかをシミュレーションする際に重要な推定となります。
とまあ、テクニカルな部分の噛み砕いた解説は本書を読んでみることをオススメします。

実際のシミュレーションがどうだったかを見てみましょう。まずは、実際のデータとモデルのフィッティングをみてみます。下図をみると、かなり良いフィッティングであることがわかります。


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(From: Igami[2017], "Estimating the Innovator’s Dilemma: Structural Analysis of Creative Destruction in the Hard Disk Drive Industry, 1981–1998", JPE)

そして、構造推定の良いところは、反実仮想(Counter-factual)を考えることができることです。要は、「もし〜がなければ」「もし〜があれば」という「たられば」を考えることができるのです。本論文では、共食いがなかった場合、そして抜け駆けがなかった場合をまず推定しております。


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(From: Igami[2017], "Estimating the Innovator’s Dilemma: Structural Analysis of Creative Destruction in the Hard Disk Drive Industry, 1981–1998", JPE)


反実仮想では、より政策的な含意を含めた推定ができます。産業政策には色々あります。ざっと分けてみるならば、「1.金を出す政策」、「2.コストを肩代わりする政策」、「3.環境を整備する政策」。1つ目には、補助金やファンド(ファンドは1と3のミックスでしょうか)があります。ファンドといえば、経済産業省主導の官民ファンド(産業革新投資機構:JIC)の失敗が記憶に新しいですね(日本経済新聞, 2018/12/29, 「官民ファンド、傷深く JIC取締役が一斉退任」)。この失敗について、スタンフォード大の星岳雄教授とカリフォルニア大学デービス校の保田彩子教授が日本経済新聞の経済教室に論説を載せています(日本経済新聞, 2019/2/11,「官民ファンドのインセンティブ投資回収促す報酬体系を」)。

キャリー(成功報酬)の設計上重要な原則が2つある。第1にキャリーは、LP(Limited Partner)の受取額がファンド全体の投資元本を超えない限りゼロだ。仮に最初のエグジットが上場で10億円を100億円に増やしても、ファンド全体では元本の100億円を返しただけで、その時点ではGPは1円ももらえない。次の25億円エグジットでようやく20%の5億円がもらえる。第2にいったんファンド全体の元本を返還すれば、それを上回るエグジットについては報酬は青天井になる。
前身の産業革新機構(INCJ)には、致命的な欠陥があるといいます。1つには、期限の設定がないこと(米国VCには10年期限があり、10年以内に投資金額を回収しなければいけないというインセンティブをVCに与える)。そして、より決定的な欠点は、ファンド全体の元本返還原則が規定にないことです。元本返還達成以前にキャリーを支払い、ファンド解散時に過剰キャリーが判明したら、支払い済みキャリーを返還させる「クローバック条項」がないといいます。これがないことにより、全体では元本が毀損されても、既に支払われたキャリーは戻らない。さらに、INCJでは既にエグジットした投資案件だけをみて元本返還を達成すれば、全体の元本返還以前にキャリーが支払われるという仕組みのようで、すでに、ジャパンディスプレイ上場とルネサスエレクトロニクス株売却によって、キャリーが支払われてしまっています。この制度を修繕する議論が産業革新投資機構(JIC)でようやく行われているところ、JICの解散となってしまい、官民ファンドは頓挫してしまいました。
長らく脱線してしまいましたが、2つ目の政策としては、減税や税額控除の仕組みです。概念的には補助金と変わらない(外部(不)経済の文脈では、ピグー税とピグー補助金は裏表に近いところがあります)でしょうが、細かいところまで見ると、使途を定める・定めない補助金があり、一方で税金は対象となるものが税金によって異なります。そして、3つ目に「環境整備の政策」があります。このテーマであれば、知的財産権、産業政策・貿易政策(オフショアリングやアウトソーシングなども)のプラットフォーム作り、独占禁止法などが関係してきます。

その中で本論文は、知的財産権の一つである特許権(他には著作権なども知的財産権です)に注目しています。とりわけ、事前承諾型か事後承諾型かという切り分け方をしています。この2つの切り分けには、背景があり、米国のロダイム社が「3.5インチ型のHDD」の事後承諾型の特許権を盾に悪徳特許ビジネスをして泥沼の裁判が争われたという事例がありました。そして、この2つを反実仮想シミュレーションした結果が以下です。


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(From: Igami[2017], "Estimating the Innovator’s Dilemma: Structural Analysis of Creative Destruction in the Hard Disk Drive Industry, 1981–1998", JPE)

これを見ると、下の事後承諾型では、途中からただ一つの(種類の)企業しか残らないことがわかります。つまり独占体制になってしまいます。一方、上図の事前承諾型の特許であれば、6~7社の競争体制を生み出すことができることがわかります。寡占と非寡占のどちらがマクロ的に(生産者余剰と消費者余剰の総計)良いかどうかは直感的に(理論的にも)非寡占の状態ですよね。


この書評で魅力が十分に伝わるかどうかは怪しいですが、近年は経済学自体が昔よりも幅広に使えるようになってきており、仮説の提示だけでは価値が乏しいと言えるでしょう。それを証明して見せて初めて、なるほどと思えるような知識になっていくのです。私たちが賢くなり、能力を身に着ける他には生き残れないのですから。


【オススメの三冊】


(本書は勿論入ってきます。)


(産業組織論の入門的な教科書。伊神さんの研究も第10章で言及があります。他にもネットワーク効果など最新の議論も入っていて有難し。)


(ゲーム理論で話題の本といえば。)