スピノザ、ケインズ、マルクス
三宅義夫『マルクス信用論体系』1970
https://nam-students.blogspot.com/2020/01/1970.html
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“マルクス哲学、MMT、れいわ新選組(IV)資本、とは?|小料理屋おかみ|note” htn.to/25J1rotQRA
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https://twitter.com/kf0612/status/1214535848294662145?s=21
岩波文庫7
《重金主義(モネタルジュステム)は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金を嫌う The Scotch hate gold.」。紙券としては、諸商品が貨幣として存在することは、一つの単に社会的な存在(ダーザイン)である。聖列に加わらしめるものは、信仰である。商品の内在的霊魂としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自己自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての、個々の生産担当者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義は、重金主義の基礎から解放されない。》
宇野、熊野が引用した部分。
マルクスが引用文の前で述べたインドの金保有量はケインズが研究したものでもある。
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グレーバー(負債論)によれば5000年に及ぶ貨幣の歴史の中で世界的に「信用」よりも地金が支配的になる時代は紀元前800年~紀元後600年と大航海時代以後の1450年~1971年の2回で、どちらも戦乱と掠奪の時代で、現代のような国家による信用ネットワークは構築できない時代だったようです。 twitter.com/LucGov/status/…
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参考:
簿記
https://nam-students.blogspot.com/2019/09/abc.html★
スピノザ、マルクス、ケインズ
《真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。 》
スピノザ『エチカ』第一部公理六 http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。…》
ケインズ全集#5:4~5頁
- ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。そしてスピノザはマルクスに先行している。スピノザの心身論は金属主義のような属性の絶対化とは違う。むしろスピノザの平行論だけが商品貨幣論と信用貨幣論の平行関係を整理するだろう。カント関連純粋悟性の原則の体系第三節 純粋悟性のあらゆる総合的原則の体系的表現{2 知覚における予料〔先取的な知〕もしわたくしが十三ターレルを或る金銭量と称するとすれば、それは、わたくしがそれによって純銀一マルクの実質を解するかぎり正当である。けれどもマルクはもちろん連続量であり、そのいかなる部分も最小の部分をなさず、各部分は貨幣を構成しようが、それは、つねにもっと小さい部分に対する質料を含むものであろう。しかしもしわたくしが右の十三ターレルという呼び名によって、それだけの数の貨幣(その銀の実質がどうであろうと)としてのちょうど十三個の円いターレル貨幣を解するとすれば、わたくしがそれをターレルの量という語によって名づけるのは適当でなく、それは集合すなわち或る数の貨幣と呼ばれねばならない。〔A171〕ところで、あらゆる数においてやはり統一ということがその根柢になければならないから、統一としての現象は量であり、かつこのような量としてつねに連続体である。第三章 第四節 神の現実的存在に関する実体論的証明の不可能なゆえんについて〔B620〕〔A592〕あるということは明らかに何ら実在的述語ではない。…現実的なものの含むものが単に可能的なものにほかならないこととなる。現実の百ターレルの含むところは、可能的な百ターレル以上の何ものでもないこととなる。けだし可能的な百ターレルが概念を意味するに対し、現実の百ターレルは対象並びにその定立そのものを意味するわけであるから、現実の百ターレルが可能的な百ターレル以上のものを含むということになると、わたくしの概念が全対象を表わしておらず、したがってまたその対象に十分合致した概念ではないこととなろうからである。カント『純粋理性批判』しかし、カントはこうした神の存在論的証明を次のように批判する。なるほど神は純粋理性の理想ではあるが、それはやはり理念であって、その客観的な実在性を求めたとしても到達されえないものである。つまり、もっとも実在的な存在者であるという神の概念からその存在を導き出すことは不可能である。たとえば、百ターレルというものを考えてみると、現実の百ターレルも可能な百ターレルも、概念としては同じものである。しかし、私の財産状態においては、両者はまったく異なったものである。すなわち、その状態においては、「現実の百ターレルの方が百ターレルという単なる概念(すなわちその可能性)よりも多くを含んでいる」。どこに相違が存するかといえば、現実の対象は私の概念に「総合的に付け加わるもの」であるからである(K.d.r.S.572)。
独逸名目的貨幣理論の系譜 - Core
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ここでは筆をカントの貨幣理論に起し,それをフィヒテと対比しよう。 (1) 高田保馬博士,「 経済学新調」第三巻(貨幣の理論)昭和5 ...イマヌエル・カント(1724-1804)の貨幣論はその「法律学の形而上学的基本原理」のうち,「契約により取得する一切の権利の解釈的分類」の章下において論ぜられている。かれは契約を三種に分つ。(1)無償契約(2)有償契約ならびに(3)保証契約これであり,更に第二の有償契約を(1)譲渡契約(2)賃約に大別し,前者は財と賃幣の交換であり,そこに始めて貨幣が契 くの約分類表に占むる地位が与えられることになる。 かれの貨幣概念はかかる有償契約履行の要具とされ,その形式的解釈を次の如く試みる。「貨幣とはそれの使用がただこれを譲渡することによってのみ可能な物件である。この貨幣 (3) ウイルキユールの(アッヘンヴァルに従う)すぐれた名目上の説明,すなわち意欲のこの種の対象を他の一切から区別するに十分なものである。が,この説明はかような物件の可能性に関して何等の決断をも与えない。ただこれによって,第一にこの譲渡が取引において贈与としてでなく交 へ も も ヘ へ も へ互的取得のために(有償契約)企てられること,第二に貨幣は(隠る民族において)一般的にへ し も へ も も も セ セ へ も も も も へ も あ し へ も へ も ヘ ヘ へ も し ヘ へ も つ ヤ も も も も も ヘ へ喜ばれる一の商取引の手段であり,それ自身何らの価値を有せず,商品たる物件との対立にも ヘ ヘ ヘ ヒ も へ も へ も へ も へ も ヘ ヘ へ も ヘ へ も へ くりおいて考えられるから,それは一切の商品を代表することが明かである。」(傍点は筆者)かく レアルァブイニチオンカントは交換手段としての貨幣の機能を認め交換財たる特質を明かにし,更に実質的定義を掲げ,「それは人聞の勤労Fleiss der Menschenを相互に取引するための一般的手段である。」という。財の貨幣たるべき要件として,これを生産するためにまたこれを他人に与えるために,自ら勤労(労働)を投下したるものでなければならず,その費せる勤労は貨幣によって収得する商品(自然又は加工産物)とそれに対して交換せられる勤労とが等しくなければならぬ。何となれば「貨幣と呼ばれる素材を作ることが,商品を生産するより容易ならば,商 くの品が売出されるよりも多くの貨幣が市場に現われるであろう。」売主は買主よりも多くの勤 くの労を費さねばならぬから産業も富を衰頽しよう。カントは貨幣の実体をそれに投ぜられた労働であるとみなし労働を要せざる「銀行券やアヅシニや紙幣はたとい一時的に貨幣に代ると
真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。……国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。…
全集#5:4~5頁資本論重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディットジステール)は本質的に新教的である。…だが、新教が旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放されていない。》マルクス『資本論』3-35-1河出書房新社世界の大思想ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。そしてスピノザはマルクスに先行している。
真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。…ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。
…国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。…
全集#5:4~5頁資本論3:5:35:2《第三五章 貴金属と為替相場〔612〕第二節 為替相場(末尾)…重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディットジステール)は本質的に新教的である。…だが、新教が旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放されていない。》マルクス『資本論』3-35河出書房新社世界の大思想熊野資本論の思考712頁参照(結語)宇野弘蔵経済原論岩波全書版64頁岩波文庫版74頁(1:1:2)(冒頭に置いた宇野の洞察力は凄い)岩波文庫7経済原論=743:35:2ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。そしてスピノザはマルクスに先行している。
真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。この違いは、イギリス国王(それは誰であってもよい)とジョージ国王との違いのようなものである。一〇年後にイギリス国王の体重に等しい重量の金を支払うという契約は、現在ジョージ国王であるその個人の体重に等しい重量の金を支払うという契約と同じものではない。そのときになって誰がイギリス国王であるかを布告するのは、国家の役目である。ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。
全集#5:4~5頁646 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2019/08/29(木) 06:15:50.36 ID:NgG4Z2FF資本論3:5:35:2《第三五章 貴金属と為替相場〔612〕第二節 為替相場(末尾)…重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディットジステール)は本質的に新教的である。「スコットランド人は金貨をきらう。」(The Scotch hate gold.)紙幣としては、諸商品の貨幣定在はただ社会的な定在である。救済するものは信仰である。諸商品の内在的精霊としての貨幣価値を信仰すること、生産様式とその予定秩序とを信仰すること、自己じしんを増殖する資本の単なる人格化としての、生産の個々の代理者を信仰すること。だが、新教が旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放されていない。》河出書房新社世界の大思想熊野資本論の思考712頁参照ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。そしてスピノザはマルクスに先行している。
![]() | ISHIZUKA Ryouji (@ISHIZUKA_R) |
Tax-Driven Money の起源がアダム・スミスにあるとForstaterが書いていた。
それどころかマルクスも。 cfeps.org/pubs/wp-pdf/WP… |
![]() | シェイブテイル (@shavetail) |
@matsumotot68 MMTのみならず、MMTとは全く無関係の日本の研究者、建部正義氏も、国情、金融制度が多少違うのに、財政出動では「政府支出が先、預金発生は後」という同じ結論に到達しています。決して老人の預金が先ではありません。それは事実をみせられても松本さんの目から取れないウロコ、思い込みですよ。
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経済をやるなら簿記の基本も知っておこう ~ 政府の〇〇は民間の●● ~
https://twitter.com/tasan_121
「経済をわかるようになりたいなら、簿記の基本だけでも知っておこう」
一応経済系の学部を出ているんですが、簿記は知らないって言います。
これが本当なら、いわゆる国の借金(国債=政府の負債)を増やした方が、民間の資産は増える、ということです。同様に、政府が黒字を目指す、ということは、民間の赤字を目指す、ということが言えます。
簿記は仕訳をいっぱい書いて整理したもの
事務消耗品100円 / 現金100円
とメモします。これを仕訳と言います。終わり。
仕訳いっぱい書いて整理したのが簿記です。
左を借方(かりかた)、右を貸方(かしかた)
現金100円 / 売上100円
となります。左は入金(暗記)
誰かの費用は誰かの収益
売った人 「 現金100円 / 売上100円 」 ( 資産 / 収益 )
借りる人 「 現金 / 借入金 」 ( 資産 / 負債 )
貸した人 「 貸付金 / 現金 」 ( 資産 / 資産 )
というわけで、あなたの会社でも家計簿でもいいですが、それを仕訳して、
立場で大別すると民間と政府しかいない
民間のパイはマネーストックを見ます
結論:政府の〇〇は民間の●●
ということで
ニュースを見れば真逆ばかり
そもそも日銀と政府はひとつ
なお、ツイッターはこちらです。よかったら見てください。プロフからメディアに絞ると、グラフ画像とかいろいろ見れると思います
https://twitter.com/tasan_121
1837年11月の父への手紙に
カント法学を勉強して間違えたとある
学生時代
マルクスはカント哲学と近かった