ピエール・ジョセフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon フランス語;1809年1月15日-1865年1月19日)は、フランスの社会主義者、無政府主義者。
ヨーロッパ政治論
クーデター論 | クールベ論
________|______
財産とは何か | 連合の原理
交換銀行論 | 農工連合、恋愛論
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」37)。
プルードン:インデックス
http://nam-students.blogspot.com/2013/05/blog-post_4289.html@
プルードンの社会構想と組織論 (レジュメ) : 再掲
タルコット・パーソンズを研究中の作田啓一によるプルードン思想の図解が柄谷行人交換様式図の元ネタだろう。
つまりプルードンが大元。
プルードン交換銀行は信用貨幣論に依拠する。
価値形態論はCまたはBなので信用貨幣論が商品貨幣論を包括する。
『プルードン研究』48頁作田啓一作成の図
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgTDDkQxRZMds7-XOdxbs7qbG7MNk4csJhO52ZU_hUFBPQAdTMdwJhHxJlEPDglTLTRe6di9dN5owzQKB9g7Y1j7dUH5Bqd_X9JYxbH-XGOpcSTBTnVgXSK5jaIYwLjTIy1TBXVZQ/s217/EDC59497-D55C-4CE0-86E3-3FE529675E24.jpeg
資本と国家の位置が逆転だが
フリーアソシエーション: プルードン『日曜礼拝論』1839
De la célébration du dimanche Proudhon 1839https://freeassociations2020.blogspot.com/2023/05/proudhon-1839.html
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/04/blog-post_59.html
プルードンと国際政治
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/05/blog-post_27.html
映画『マルクス…』より
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1075247991760404480?s=21
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1075247138471260161/pu/vid/960x540/YMV1K7zyjROjM0KS.mp4
転形問題
http://nam-students.blogspot.com/2016/06/blog-post_11.html
人民に会計能力を!(プルードンの手紙:転載)
参考:
ジンメル『貨幣の哲学』(1999^1900)
プルードン語録:改訂版
https://nam-students.blogspot.com/2020/04/temporary-backup.html
- プルードン『所有とは何か』より
«Supprimez la propriété en conservant la possession; et, par cette seule modification dans le principe, vous
changerez tout dans les lois, le gouvernement, l'économie, les institutions : vous chassez le mal de la terre. »
《Suppress property while maintaining possession, and, by this simple modification of the principle,
you will revolutionize law, government, economy, and institutions; you will drive evil from the face of the earth.》
《所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、政治、経済、
諸制度の一切を変えるだろう。諸君は地上の悪を除きさるのだ》
《所有を維持し乍ら財産を抑圧せよ。そして、此単純なる原理の變換に依り、諸君は法律、政治、経済
及び組織を革命し、地表から害悪を一掃するのである。》
《诸位先生,保全所持而除所有,仅靠这种修正就可以改変法律、政治、経済和一切制度。
就可以消除地上的所有罪悪。》
参照:
Qu'est-ce que la propriété?: Premier mémoire: Recherches sur le principe du ... - Pierre-Joseph Proudhon
http://books.google.co.jp/books?id=iWbn2Jy6czAC&pg=PA223
What is Property?, by P. J. Proudhon (1840) 5:2:3:1
http://www.gutenberg.org/files/360/360-h/360-h.htm#noteref-35
『所有とは何か』「ブルードン」長谷川進・江口幹訳、三一書房299頁(改訳)
柄谷行人『トランスクリティーク』現代文庫247頁、定本254頁
Transcritique: On Kant and Marx: Kojin Karatani, Sabu Kohso p.167(直接引用をしていない)
http://books.google.co.jp/books?id=mR1HIJVoy6wC&pg=PA167&lpg=PA167
『財産とは何ぞや』(新明正道訳、405頁、大正十年、1921年、発禁)
『跨越性批判一康德与马克思』中央编译出版社出版 127頁(『什么是所有权』蒲鲁东)
http://book.douban.com/subject/5920564/ 中国語版は内山書店で購入可能
プルードンの手紙
プルードンの考えた社会革命(経済革命)とは一体どのようなものだったろうか?二月革命の三年前、一八四五年一〇月に彼は『ノート』にこう書いている。
「農・工業の標準価格表と一覧目録を作製すること。‥…/かつてローマ人が行ったように、各労働者に家族の帳簿ないし記録帖をつけることを教えること。それは彼らの入金・支出のすべて‥…を記入するためである」(藤田勝次郎『プルードンと現代』p22より)
ブザンソン市立図書館(Bibliothèque municipale de Besançon)
http://www.bm-besancon.fr
http://memoirevive.besancon.fr/
https://nam-students.blogspot.com/2018/12/bibliotheque-municipale-de-besancon_19.html
プルードン語録
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/blog-post_43.html
プルードンの墓
http://kajipon.com/haka/h-f-sisou.htm#proudhon
https://yojiseki.exblog.jp/2195718/
ヘーゲルの弁証法に対して、フーリエを源流の一つとする系列の思考があるのだ。
カントを現代的にしているのも系列の思考と言えるだろう。
NAMs出版プロジェクト: プルードン『貧困の哲学』(平凡社)上下
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
NAMs出版プロジェクト: プルードンの労働論
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_33.html
《労働者に…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…私は、これは彼の権利であるといいそえたい。》プルードン『経済教程』より
(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より,Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon. Sa vie et sa pense p.775)
プルードン : 別ブログ
http://yojiseki.exblog.jp/i14/
NAMs出版プロジェクト: プルードン交換銀行定款
http://nam-students.blogspot.jp/2008/12/blog-post_12.html
参考:
マルセル・モース(Marcel Mauss、1872 - 1950)
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/marcel-mauss-1872-1950-httpnam-students.html
ソレル 1847~1922
http://nam-students.blogspot.jp/2014/02/vs.html
地域通貨
http://nam-students.blogspot.com/2013/05/blog-post_9.html
イスラム金融関連
http://nam-students.blogspot.com/2016/02/blog-post_17.html
ユヌス Muhammad Yunus グラミン銀行 2006年ノーベル平和賞受賞
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/muhammad-yunus.html
NAMs出版プロジェクト: 『哲学の貧困』(マルクス)へのプルードンの書き込み(簡易版):再送
http://nam-students.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html?m=0
https://twitter.com/philo_shinkan/status/897220791401672704?s=21
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/l-ne-se-resout-pas.html
http://yojiseki.exblog.jp/i14/
NAMs出版プロジェクト: プルードン交換銀行定款
http://nam-students.blogspot.jp/2008/12/blog-post_12.html
参考:
マルセル・モース(Marcel Mauss、1872 - 1950)
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/marcel-mauss-1872-1950-httpnam-students.html
ソレル 1847~1922
http://nam-students.blogspot.jp/2014/02/vs.html
地域通貨
http://nam-students.blogspot.com/2013/05/blog-post_9.html
イスラム金融関連
http://nam-students.blogspot.com/2016/02/blog-post_17.html
ユヌス Muhammad Yunus グラミン銀行 2006年ノーベル平和賞受賞
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/muhammad-yunus.html
NAMs出版プロジェクト: 『哲学の貧困』(マルクス)へのプルードンの書き込み(簡易版):再送
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ラウル・ペック監督 映画『マルクス・エンゲルス』2017予告編
http://nam-students.blogspot.jp/2018/04/blog-post_24.html
ゲーテ Epigrammatisch エピグラム風に 警句的 より
http://nam-students.blogspot.jp/2016/07/epigrammatisch.html
NAMs出版プロジェクト: L'antinomie ne se resout pas(アンチノミーは解消されない)ゲーテ Epigrammatisch エピグラム風に 警句的 より
http://nam-students.blogspot.jp/2016/07/epigrammatisch.html
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/l-ne-se-resout-pas.html
- 「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスを
とる」
(プルードン『革命と教会における正義』☆未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
☆De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome I 1858
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
NAMs出版プロジェクト: プルードンの恋愛論
http://nam-students.blogspot.jp/2017/07/blog-post_5.html
NAMs出版プロジェクト: 階級闘争
http://nam-students.blogspot.jp/2017/01/blog-post_15.htmlNAMs出版プロジェクト: プルードン/マルクス往復書簡
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_10.html
グルントリッセ1857~8...(+資本論草稿関連)
http://nam-students.blogspot.com/2016/07/blog-post.html
NAMs出版プロジェクト: プルードンと集合力
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_2.html
NAMs出版プロジェクト: 『戦争と平和』とプルードン
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_7.html
プルードン関連資料:ベルンシュタイン 『社会主義の前提と社会民主党の任務』 第二章より
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_6357.html
NAMs出版プロジェクト: プルードンとユダヤ人
http://nam-students.blogspot.jp/2014/06/blog-post_15.html
NAMs出版プロジェクト: プルードンによるクールベ論
http://nam-students.blogspot.jp/2009/10/blog-post_28.html
プルードンとクールベ : 別ブログ
http://yojiseki.exblog.jp/6815104/
プルードンからソレルへ:権力vs.暴力の権利(再掲)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/02/vs.html
NAMs出版プロジェクト: 書評:『プルードン・セレクション』(平凡社ライブラリー)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/12/blog-post.html
NAMs出版プロジェクト: ラカン、ドストエフスキー等によるプルードン評:メモ再掲
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_1570.html
邦訳マルエン全集プルードン言及箇所(頁番号のみ)
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_16.html
ブリュメール18日とプルードン
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_8.html
プルードン(カテゴリー):別ブログ
http://yojiseki.exblog.jp/i14
NAMs出版プロジェクト: Pierre Joseph PROUDHON(関連動画)
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_09.html
返信削除プルードンの貨幣改革について ゲゼル研究会
http://grsj.org/colum/colum/prouhdon_kaheikaikakunitsuite.htm
「交換銀行」はその設立の趣旨や定款に賛同した人びとと銀行との間で交わされる契約によってこの銀行への参加が決まります。この銀行は、すべてがこの加入者の意志によって運営され、国家から完全に独立した自立的組織です。資本金をもちませんし、また営利を目的にしません。この銀行は、加入者の「受領ないし販売した生産物、また引き渡された、あるは近日引き渡されうる生産物の価値を表すあらゆる商業手形と交換に」「交換券」(bon d'echange)と名付けられた一種の銀行券を発行し、それを受け取った人は、それと引き替えに永続的にこの銀行に参加する別の人のもつ商品サーヴィスを手に入れることができますし、またその逆も可能となります。「交換券」には、20、100、500、1,000フラン券があり、端数だけが通常の通貨で支払われるほか、通貨は一切使用されません。また「交換銀行」は、さきに話しましたように営利を目的にするものではありませんので、「交換銀行」のサーヴィスを受けるには、参加者がほんのわずかの手数料、銀行業務を行うに必要な最低の経費にあたる手数料を支払うだけでよいとされます。
シルビオ・ゲゼル『自然的経済秩序』冒頭
返信削除http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo1-0-jp.html
なぜマルクスの資本理論がプルードンの学説を追い出せ、社会主義を独裁制にできたのだろうか。どうしてマルクスと彼の理論が世界のあらゆる新聞で語られるのか。マルクス主義の絶望とそのための無害性だという人がいる。ちょうど資本家がキリスト教の教義を恐れないように、資本家は彼の理論を恐れない。むしろ、マルクスやキリストについておおっぴらに話すのは資本家のためになる。マルクスは資本家を決して破壊できないが、それは彼が資本の性質を誤解しているからだ。しかし、プルードンに注意しよう。彼は徹底的に無視するに限る。妨害や擾乱、または中断なしに労働者が働ければ、資本家は資本の供給過剰(商品の生産過剰と混乱しないように)ですぐに窒息するという彼の主張は正当なものなので、彼は危険人物である。直ちに実行できるため、資本家の攻撃のためのプルードンの提案は危険なものである。マルクスのプログラムは最新の機械と道具を備えた現代の訓練された労働者の莫大な生産能力について語っている。マルクスはこの莫大な生産能力で何も始められない。プルードンの手にかかるとこれは資本家に対する武器となる。そのためプルードンを忘れてもらえるように、マルクスを喧伝せよ、と。
返信削除カエサル主義は、ローマ人のあいだでは貴族にたいする平民の勝利と、生活手段の保証としての世界の征服
が結びついたときに可能になった。……ローマの平民の消費と皇帝の安全のために諸国を組織的に強奪するこ
と、これこそカエサル主義である。……だが今日では事情が全くちがう。われわれは征服地を失った……、外
国からは一サンチームも引きだせない。ブルジョアジー、資本家、地主たちにたいして勝利をおさめるために、
勤勉で自由な中間階級を服従させ、下層民によって支配するために、彼征服国からえた戦利品で下層民を養う
ことはもはや問題外である。下層民に彼ら自身の生産物で生活させること、一言で言えば彼らを労働させるこ
とが問題なのである。(『一二月二日のクーデタによって証明された社会革命』La Révolution Sociale démontrée
par le coup d'État du Deux Décembre, Marcel Rivière, p.294)
プルードンはルイ・ナポレオンのクーデタを論じた書物(一八五二年)のなかで右のように記している。マルクス
と異なったやり方ではあるがプルードンもまた古代ローマと現代の社会的歴史的条件のちがいを説いて、労働者階
級の問題を、二月革命の新しい重要なスローガンであった「労働の権利」の文脈のなかで提起すると同時に、ボナ
パルトの政権がたどるであろう帝国主義的な政策にあらかじめ警告を与えている。現代のカエサル本義は歴史的必
然によって社会主義に導かれざるをえない、というのがプルードンのテーゼであった。プルードンは「カエサル主
義かアナルシズムか」という形で選択をせまっているのである。
(西川長夫『フランス近代とボナパルティズム』131-132頁)
返信削除……この時点のマルクスにとって、第一帝政と第三帝政は「悲劇」と「茶番」、真実態とパロディーのち
がいはあるが、いずれにせよ帝政という一つの歴史的な制度の初めと終りなのである。さらにつけ加えれば、悲劇
あるいは真実態としての帝政はその茶番とパロディーが現われることによって歴史から抹殺される。「皇帝のマン
トがついにルイ・ボナパルトの肩にかかるとき、ナポレオンの銅像はヴァンドームの円柱のてっぺんからころげお
ちるであろう」という末尾の言葉が意味しているのは、このことであろう。ボナパルティズムのこのような把捉の
仕方が必ずしも全面的に正しくないことは、後にマルクス自身も認めざるをえないところであるが、しかしマルク
スにとっては帝政全体あるいは帝政そのものが問題であるという点では変らないのである。
さらに私は、あなたの手紙の「実際の活動において」という言葉について、若干の批判をしなけれ
返信削除ばなりません。おそらくあなたは、いかなる改革もある奇襲----かつて革命と呼ばれたものがなければ
実際には可能ではないという考えを、いまだに守っているでしょう。しかし、革命とは率直に言って、
単なる揺れ動きにすぎません。私が抱き、弁明し、進んで異議を唱えもするかもしれないその考えを、
私自身も長いこと共有してきたのですが、私の最近の研究によってそうした考えから、私は完全に抜
け出したのです。成功するためには、私たちにはそうしたものは必要ではなく、社会改革の手段とし
て革命的行動を主張する必要はないと思います。なぜならば、この渇望された手段はただ単に力に、
専制に、要するに矛盾に訴えるものにすぎないからなのです。そういうわけで、私は自らに問題をこ
う設定してみます----ある経済的結合によって社会から引き出される富を、もう一つの経済的結合によ
って社会の中に回収させること。言い換えれば、あなた方もう一つのドイツ社会主義者たちが共同体
と呼び、私としては今のところ自由、平等と呼ぶにとどめたいものを生み出すように、所有に抗して、
所有の理論を政治経済学へと変えること、です。ところで、私はこの問題を短期に解決する方法を知
っています。それゆえ私は、所有者たちの聖バルテルミーの日を作ることによって、所有に新たな
力を与えるよりはむしろ、所有をジリジリと苦しめることのほうを選ぶのです。
我还要対您来信中的 "是行动的時候了" 一段,谈谈我的一
些見解。任何改革如果没有实力的行使,即以往所説的革命,或
者至少是动乱的协助,实际上都将是不可能的,您現在依然是这
样的想法吧。我个人長期以来也特有这样的看法,因此比較能够
理解,也愿意就此展开讨论,不过,我想坦白根据最近的研究我
完全放弃了这种視点。我想,这并不是我们成功所必需的东西。
就是説,我们不能把革命行动視为社会改革的手段。因为,这样
的手段只能換来強力和专制,总之是一个矛盾。所以,我的解決
問題的方案是这样的。即 "通过另外的経済组织把某个経済组织
从社会所摂取的財富再返还給社会"。換句話説,我们必須在経
済学上通过创造出你们徳意志社会主义者所説的共产主义——我
暫時称此为自由或平等——以所有来対抗所有的理論。另外,我
想最近我将发現解決達今同題的方法。就是説,与其対所有者采
取圣帕忒尼式的虐杀而使所有获得新的力量,不如选择用微火来
烧煮这个所有。
蒲鲁东:《給马克思的信》1846年5月17日
柄谷行人『世界史的构造』赵京华訳 中央编译出版社, 2012. 9
217-218頁
实=実、愿=願、谈=談、种=種、弃=棄、总=総、为=為、
专=専、并=並、协=協、创=創、过=過、另=別、发=発、
圣=聖、杀=殺、帕=PA、忒=TOKU、烧=焼、
选=選、择=択(选择=選択)、从=従(從)
さらに私は、あなたの手紙の「実際の活動において」という言葉について、若干の批判をしなけれ
返信削除ばなりません。おそらくあなたは、いかなる改革もある奇襲----かつて革命と呼ばれたものがなければ
実際には可能ではないという考えを、いまだに守っているでしょう。しかし、革命とは率直に言って、
単なる揺れ動きにすぎません。私が抱き、弁明し、進んで異議を唱えもするかもしれないその考えを、
私自身も長いこと共有してきたのですが、私の最近の研究によってそうした考えから、私は完全に抜
け出したのです。成功するためには、私たちにはそうしたものは必要ではなく、社会改革の手段とし
て革命的行動を主張する必要はないと思います。なぜならば、この渇望された手段はただ単に力に、
専制に、要するに矛盾に訴えるものにすぎないからなのです。そういうわけで、私は自らに問題をこ
う設定してみます----ある経済的結合によって社会から引き出される富を、もう一つの経済的結合によ
って社会の中に回収させること。言い換えれば、あなた方もう一つのドイツ社会主義者たちが共同体
と呼び、私としては今のところ自由、平等と呼ぶにとどめたいものを生み出すように、所有に抗して、
所有の理論を政治経済学へと変えること、です。ところで、私はこの問題を短期に解決する方法を知
っています。それゆえ私は、所有者たちの聖バルテルミーの日を作ることによって、所有に新たな
力を与えるよりはむしろ、所有をジリジリと苦しめることのほうを選ぶのです。
我还要対您来信中的 "是行动的時候了" 一段,谈谈我的一
些見解。任何改革如果没有实力的行使,即以往所説的革命,或
者至少是动乱的协助,实际上都将是不可能的,您現在依然是这
样的想法吧。我个人長期以来也特有这样的看法,因此比較能够
理解,也愿意就此展开讨论,不过,我想坦白根据最近的研究我
完全放弃了这种視点。我想,这并不是我们成功所必需的东西。
就是説,我们不能把革命行动視为社会改革的手段。因为,这样
的手段只能換来強力和专制,总之是一个矛盾。所以,我的解決
問題的方案是这样的。即 "通过另外的経済组织把某个経済组织
从社会所摂取的財富再返还給社会"。換句話説,我们必須在経
済学上通过创造出你们德意志社会主义者所説的共产主义--我
暫時称此为自由或平等--以所有来対抗所有的理論。另外,我
想最近我将发現解決達今同題的方法。就是説,与其対所有者采
取圣帕忒尼式的虐杀而使所有获得新的力量,不如选择用微火来
烧煮这个所有。
蒲鲁东:《給马克思的信》1846年5月17日
柄谷行人『世界史的构造』赵京华訳 中央编译出版社, 2012. 9
217-218頁
实=実、愿=願、谈=談、种=種、弃=棄、总=総、为=為、
专=専、并=並、协=協、创=創、过=過、另=別、发=発、
圣=聖、杀=殺、帕=PA、忒=TOKU、烧=焼、个=個、
选=選、择=択(选择=選択)、从=従(從)
返信削除對於您來信中提到的「行動的時機已屆」、我有一些見解、不得不説出来。
或許您至今句然抱持著這様的想法‥任何的改革、如果没有實力行使——往時被
為革命、但不過就是動 亂而已——的助力、實際上不可能實現。我本身也曽長
期抱持這様的想法、所以既能夠理解、也樂於討論。但是我必須向您坦白、最近
的研究使我完全放棄這様的見解。我認為、對於我們的成功來説、這様的東西是
不必要的。也就是説、我椚不能以革命的行動作為社會改革的手段。因為、這種
手段只會招來暴力輿専制、簡單來説、就是矛盾。因此我要如此界定問題、亦
即‥「把某個組織従社會奪取的財富、透過另外的組織還給社會」。換句話説、
我們必須透過——徳國社會主義者您為共産主義、我則您其為自由或平等——的
建立、在經済學上以財産的理論反過對抗財産。我相信近期内将會我到這個問
題的解決方法。也就是説、興其對財産所有者進行聖巴托羅缪大屠殺、賦予財
新的力量、我寧願選拝擇以微弱的火苗、将財産燒火成灰燼。
普魯東〈致馬克思的信〉、一八四六年五月十七日。
柄谷行人『世界史的結構』(心霊工坊 2013年2月 457〜458頁)
圣巴托罗缪之夜
返信削除维基百科,自由的百科全书
返信削除對於您來信中提到的「行動的時機已屆」、我有一些見解、不得不説出来。
或許您至今仍然抱持著這様的想法・・任何的改革、如果没有實力行使——往時被
為革命、但不過就是動亂而已——的助力、實際上不可能實現。我本身也曽長
期抱持這様的想法、所以既能夠理解、也樂於討論。但是我必須向您坦白、最近
的研究使我完全放棄這様的見解。我認為、對於我們的成功來説、這様的東西是
不必要的。也就是説、我椚不能以革命的行動作為社會改革的手段。因為、這種
手段只會招來暴力輿専制、簡單來説、就是矛盾。因此我要如此界定問題、亦
即・・「把某個組織従社會奪取的財富、透過另外的組織還給社會」。換句話説、
我們必須透過——徳國社會主義者您為共産主義、我則您其為自由或平等——的
建立、在經済學上以財産的理論反過對抗財産。我相信近期内将會我到這個問
題的解決方法。也就是説、興其對財産所有者進行聖巴托羅缪大屠殺、賦予財
新的力量、我寧願選拝擇以微弱的火苗、将財産燒火成灰燼。
普魯東〈致馬克思的信〉、一八四六年五月十七日。
柄谷行人『世界史的結構』(心霊工坊 2013年2月 457〜458頁)
従這封信之後・馬克恵開始丁對普魯東的批判—相對於普魯束的鰹漕革命圭
張・馬克恵認乱政治革命?—?也就是取得政治権力 是不可訣的—但是我椚不能
因乱這様的書信往返・就認乱馬克恵興普魯東的對立・来自政治革命或樫湾革命的
選拝≒馬克恵之所獄士張政治革命的右要A北不是因乱他是國家士義者・既然資本
干堂我樫潰受到法律制度腸国家政策的保護・乱丁停止国家的保護・那座右頂至少暫
够/夠(GOU/ゴウ 音読み:コウ):達する、足りる、十分ある
「仍」という字 音読みで「ジョウ」「ニョウ」 くんよみで「よ‐る」「しきり‐に」
返信削除對於您來信中提到的「行動的時機已屆」、我有一些見解、不得不説出来。
或許您至今仍然抱持著這様的想法・・任何的改革、如果没有實力行使——往時被
為革命、但不過就是動亂而已——的助力、實際上不可能實現。我本身也曽長
期抱持這様的想法、所以既能夠理解、也樂於討論。但是我必須向您坦白、最近
的研究使我完全放棄這様的見解。我認為、對於我們的成功來説、這様的東西是
不必要的。也就是説、我椚不能以革命的行動作為社會改革的手段。因為、這種
手段只會招來暴力輿専制、簡單來説、就是矛盾。因此我要如此界定問題、亦
即・・「把某個組織従社會奪取的財富、透過另外的組織還給社會」。換句話説、
我們必須透過——徳國社會主義者您為共産主義、我則您其為自由或平等——的
建立、在經済學上以財産的理論反過對抗財産。我相信近期内将會我到這個問
題的解決方法。也就是説、與其對財産所有者進行聖巴托羅缪大屠殺、賦予財
新的力量、我寧願選拝擇以微弱的火苗、将財産燒火成灰燼。
普魯東〈致馬克思的信〉、一八四六年五月十七日。
柄谷行人『世界史的結構』(心霊工坊 2013年2月 457〜458頁)
従這封信之後・馬克恵開始丁對普魯東的批判—相對於普魯束的鰹漕革命圭
張・馬克恵認乱政治革命?—?也就是取得政治権力 是不可訣的—但是我椚不能
因乱這様的書信往返・就認乱馬克恵興普魯東的對立・来自政治革命或樫湾革命的
選拝≒馬克恵之所獄士張政治革命的右要A北不是因乱他是國家士義者・既然資本
干堂我樫潰受到法律制度腸国家政策的保護・乱丁停止国家的保護・那座右頂至少暫
够/夠(GOU/ゴウ 音読み:コウ):達する、足りる、十分ある
與
「仍」という字 音読みで「ジョウ」「ニョウ」 くんよみで「よ‐る」「しきり‐に」
返信削除對於您來信中提到的「行動的時機已屆」、我有一些見解、不得不説出来。
或許您至今仍然抱持著這様的想法・・任何的改革、如果没有實力行使——往時被
為革命、但不過就是動亂而已——的助力、實際上不可能實現。我本身也曽長
期抱持這様的想法、所以既能夠理解、也樂於討論。但是我必須向您坦白、最近
的研究使我完全放棄這様的見解。我認為、對於我們的成功來説、這様的東西是
不必要的。也就是説、我椚不能以革命的行動作為社會改革的手段。因為、這種
手段只會招來暴力輿専制、簡單來説、就是矛盾。因此我要如此界定問題、亦
即・・「把某個組織従社會奪取的財富、透過另外的組織還給社會」。換句話説、
我們必須透過——徳國社會主義者您為共産主義、我則您其為自由或平等——的
建立、在經済學上以財産的理論反過對抗財産。我相信近期内将會我到這個問
題的解決方法。也就是説、與其對財産所有者進行聖巴托羅缪大屠殺、賦予財
新的力量、我寧願選拝擇以微弱的火苗、将財産燒火成灰燼。
普魯東〈致馬克思的信〉、一八四六年五月十七日。
柄谷行人『世界史的結構』(心霊工坊 2013年2月 457〜458頁)
够/夠(GOU/ゴウ 音読み:コウ):達する、足りる、十分ある
與
「仍」という字 音読みで「ジョウ」「ニョウ」 くんよみで「よ‐る」「しきり‐に」
http://www.kagomma.net/saito/travaux/durkheim_socialism.html
返信削除デュルケムと社会主義
斉藤悦則
2003年5月25日,「デュルケムとアソシアシオン」と題して,経済学史学会の全国大会(同志社大学にて)で報告したものを加筆修正した。
2003年9月5日,脱稿。
『日仏社会学会年報』第13号(2003年11月刊行予定)に投稿した。
[Summary]
Emile Durkheim and Socialism
Yoshinori SAITO
Durkheim's concept of "collective force" was profoundly inspired by Proudhon's sociological theory. "Society is not a mere sum of individuals." This is a well-known phrase commonly attributed to Durkheim, however, we can find an almost similar idea in Proudhon's writings, especially in his De la Justice (1858). Although Durkheim had been deeply studying on Proudhon's socialist idea for some time, he was very careful not to state his worship for Proudhon. It seems that he was too close to Proudhon to show his intimacy frankly.
Georges Sorel stands on the other side. Sorel confessed that he was a disciple of Proudhon. In his eyes, Durkheim was a coward, or a sort of deserter. He thought this kind of intellectuals was difficult to deal with. Sometimes they could be the most malicious enemy against socialism.
The apparent enmity between Sorel and Durkheim would be dissolved, if we observe their conceptual similitude about religious phenomenon. Durkheim's sociological concept of "collective effervescence" and Sorel's vital concept of "revolutionary myth", both praised people's irrational action based on their collective conscience. We can say that Durkheim and Sorel had the same root in proudhonien moral socialism.
デュルケムの著『社会主義およびサン・シモン』(以下『社会主義』と略す)は1895~96年にボルドー大学での講義の原稿を起こしたものである(刊行は1928年)。社会主義の歴史に関するデュルケムの講義は,次年度にフーリエとプルードンを,3年目にはラサールとマルクスを扱う予定であった。しかし,この企ては完遂されず,けっきょくサン・シモンをとりあげた1年間だけで終わった(註1)。
『社会主義』が本来の構想のほんの一部しか表現できず,未完に終わったことは,後のデュルケム解釈に大きく響くことになる。社会学史の研究者たちがデュルケムの社会主義観を語るとき,それはもっぱらサン・シモンの産業主義との近さ遠さを論じる類いのものとなってしまった。
一方われわれは,デュルケムが「集合存在」の一種独特(sui generis)な性格に着目し(註2),そしてその道徳的な力に期待を寄せている点において,むしろプルードンとのあいだに強い類縁性を見るのである。
本稿において,われわれはまずデュルケムがプルードンから学び取ったものの大きさを明らかにする。そして,それがデュルケム「独自」の社会主義の形成につながっていく流れを見る。最後に,同じくプルードンを拠り所に社会主義思想を構築したジョルジュ・ソレルがデュルケムをどう批判しているか,その批判の意味を検討する。
[注記]
本文中で,段落をわけてプルードン,デュルケム,ソレルからの引用を示したときは,それぞれ冒頭にゴシックでP,D,Sの略号を付した。書名の略号については「参考文献」を見られたい。引用文の末尾に「頁」とある場合は邦訳の該当頁をさす。
返信削除1.プルードンの集合力理論
「全体はその諸々の部分の総和とは異なるある別もの」(Reg. 195: 207頁)とは,俗に,これこそいかにもデュルケム的な言葉とされる。しかし,社会という集合存在の,一種独特の性格をリアルにつかまえようとした点では,デュルケムはプルードンの後続者の一人にすぎない。つまり,この点でデュルケムのオリジナリティを言い立てるべきではない。
プルードンが1846年に書いた『貧困の哲学――経済の矛盾の体系』は,生産力の増進や福祉の向上のための企てが,社会に貧困と悲惨をもたらす皮肉な成り行きを体系的に描き出した。プルードンは,集合存在の独自のメカニズムについての無知が社会の不幸の元凶だと考える。善意の行いでさえ逆に弊害を生む,つまり善が悪を生む,あるいは善が悪に転化する。このメカニズムをとらえるには新しい社会科学が必要である。個別の現象についての観察を積み重ねただけでは全体のメカニズムは見えてこない。個別のものを見るのと同じまなざしで全体を眺めてはならない。これがプルードンの基本的な主張であった。
プルードンは初期の著作,1840年の『所有とは何か』において,アダム・スミスの分業論をヒントに「集合力理論」を作り始めた。集合力 force collective は個々人の力の総和を大きく上回るのに,労働者への成果の還元は「個」の論理にもとづいてなされる。資本家による収奪の秘密はここにある,というのである。経済学のレベルでは素朴な理論だが,それを社会学的な集合存在の理論に高めていったのがプルードンの功績だといえよう。
1858年の大著『正義論』(リヴィエール版で全4巻)では,集合存在の道徳的な力が解明される。プルードンは,集合存在こそが自由であるとして,たとえばその第3巻で次のようにいう。
P「集団が存在すれば必ず,その集団を構成する個々の力とも異なり,それらの総和とも異なる集合力という結果が生じる。……人間の場合,それは自由である。……そして集合力によって,人間はあらゆる内的・外的な宿命から解放され,自らの自律的な生活の主人公となり,神のように絶対となる」(第8研究「良心と自由」第5章「自由の本質とリアリズム」,Jus III 408-409)
社会(集合存在)のメカニズムを科学的に明らかにすることによって人類は解放される,と考える点でプルードンもやはり時代の子ではあった。そして,自由の第一義を人間による自然の征服とする点で,プルードンもサン・シモンの影響下にあったことがわかる。しかし,財(biens=善きもの)の豊富さを幸福の度合いと相関させるサン・シモンと異なり,プルードンが志向するのは物質的な豊かさでなく,自由の獲得によって人間が「気高い」存在になることであった。宿命に翻弄されるのではなく,自分が主人公となって運命を切り開く,そういう人間の「崇高性」,これが自由の本義であった。
プルードンは続けていう。
P「自由の行き着くところ……それは,人類による自然の支配の結果としての普遍的な調和。そこから先は思いも及ばぬ。したがって,最良の意味における正義,これが自由の極地である。そして,両者はついに合体する」(同上第6章「自由の機能」,Jus III 423)
「自由とは何か。それは人間集合の力である。この力によって人間はあらゆる宿命から解放され,事物を従属させ,現実と観念の限界をこえて自らを気高く美しく成長させる」(同上,Jus III 432-433)
われわれにとって興味深いのは,このプルードンの主張をデュルケムが『社会分業論』(1893年)でほとんどそのまま繰り返していることである。その部分を以下に引用しよう。
D「じつは自由それ自体が規制の産物なのである。自由は社会的作用 action sociale の敵であるどころか,その結果なのである。……自由とは自然にたいする社会の征服である。……人間が一個の社会的存在となるかぎりにおいて,自由は少しずつ実現されるにすぎない。ぜなら,人間がもうひとつ別の世界を創造し,それによって自然を支配して,はじめて自然から脱却できるからである。この世界こそ,まさしく社会である。それゆえにもっとも進歩した社会の課題は,正義を創造することであるといってよい」(Div 380-381: 372-373頁)
自由の実現による「正義」の創造を主張するとき,デュルケムは完全にプルードンになりきっているかのようだ。しかし,デュルケムはまさしくこの道徳の領域においてプルードンの乗り越えを企てる。それによってデュルケムの「社会主義」思想は独自の色彩を帯びることになるのである。
返信削除マルクス ワルラス
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カレツキ x x
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ケインズーゲゼループルードン
マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスが近代経済学を始めたと言っても間違いではない
7:50 午前
yoji さんは書きました...
マルクス ワルラス
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ケインズーゲゼループルードン
マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスが近代経済学の祖と言っても間違いではない
返信削除マルクス ワルラス
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カレツキ \ / x
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ケインズーゲゼループルードン
マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
返信削除マルクス ワルラス
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カレツキ x l
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ケインズーゲゼループルードン
マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
上記図は
国家l国民
ーー+ーー
資本l X
という柄谷交換図に対応する
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
返信削除IS 曲線の導出-IS 曲線-LM 曲線-脚注
IS-LM分析. IS-LM分析(アイエスエルエムぶんせき)とは、国民所得と利子率を用いて 財市場と貨幣市場の同時均衡を分析することである。また、短期における価格硬直性を 仮定している。この分析では、政府の財政政策や中央銀行の金融政策の効果...
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
返信削除IS 曲線の導出-IS 曲線-LM 曲線-脚注
IS-LM分析. IS-LM分析(アイエスエルエムぶんせき)とは、国民所得と利子率を用いて 財市場と貨幣市場の同時均衡を分析することである。また、短期における価格硬直性を 仮定している。この分析では、政府の財政政策や中央銀行の金融政策の効果...
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
返信削除IS 曲線の導出-IS 曲線-LM 曲線-脚注
IS-LM分析. IS-LM分析(アイエスエルエムぶんせき)とは、国民所得と利子率を用いて 財市場と貨幣市場の同時均衡を分析することである。また、短期における価格硬直性を 仮定している。この分析では、政府の財政政策や中央銀行の金融政策の効果...
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
返信削除IS 曲線の導出-IS 曲線-LM 曲線-脚注
IS-LM分析. IS-LM分析(アイエスエルエムぶんせき)とは、国民所得と利子率を用いて 財市場と貨幣市場の同時均衡を分析することである。また、短期における価格硬直性を 仮定している。この分析では、政府の財政政策や中央銀行の金融政策の効果...
左右反転
返信削除貨幣市場が政治
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財が経済\
縦が利子率
横が国民所得
左右反転
返信削除貨幣市場が政治
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財が経済\
縦が利子率
横が国民所得
一般均衡理論 とは - コトバンク
返信削除ワルラスによって唱えられ、変動する現実をある一時点でせき止め、与件を固定化し、 競争を徹底的に行うと、社会全体がこれ以上変化しない均衡状態に至るとした理論。 ワルラスは、需要も、供給も、あらゆる財の価格に依存するとして、相互依存の関係を 関数 ...
kotobank.jp/word/一般均衡理論
返信削除ケインズ=ヒックスのIS–LM modelモデルも
財と貨幣の一般均衡理論と言える
返信削除流動性貨幣市場が政治
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投資財が経済\
縦が利子率
横が国民所得
上記図では
左右反転
返信削除マルクス ワルラス
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ケインズーゲゼループルードン
マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
(ケインズ=ヒックスのIS–LM modelモデルも
財と貨幣の一般均衡理論と言える)
上記図は
国家l国民
ーー+ーー
資本l X
という柄谷交換図に対応する
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
流動性貨幣市場が政治
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投資財が経済\
縦が利子率
横が国民所得
上記図では
左右反転
返信削除マルクス ワルラス
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ケインズーゲゼループルードン
マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
(ケインズ=ヒックスのIS–LM modelモデルも
財と貨幣の一般均衡理論と言える)
上記図は
国家l国民
ーー+ーー
資本l X
という柄谷交換図に対応する
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
IS-LM分析は
流動性貨幣市場が
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投資財が\
縦が利子率
横が国民所得
上記図では
左右反転し
流動性貨幣市場が政治\
投資財が経済/
と考えられる
返信削除マルクス ワルラス
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マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
(ケインズ=ヒックスのIS–LM modelモデルも、財と貨幣の一般均衡理論と言える)
上記図は、
国家l国民
ーー+ーー
資本l X
という柄谷交換図に対応する
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
通常IS-LM分析は
流動性貨幣市場が/
投資財が\
縦が利子率
横が国民所得
上記図では
左右反転し、
流動性貨幣市場が政治\
投資財が経済/
と考えられる
返信削除マルクス ワルラス
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ケインズーゲゼループルードン
マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
(ケインズ=ヒックスのIS–LM modelモデルも、財と貨幣の一般均衡理論と言える)
上記図は、
国家l国民
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という柄谷交換図に対応する
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
通常IS-LM分析は
縦軸が利子率
横軸が国民所得を表し、
流動性貨幣市場が/
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返信削除マルクス ワルラス
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マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
(ケインズ=ヒックスのIS–LM modelモデルも、財と貨幣の一般均衡理論と言える)
上記図は、
国家l国民
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という柄谷交換図に対応する
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
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縦軸が利子率
横軸が国民所得を表し、
流動性貨幣市場が/
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返信削除マルクス ワルラス
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マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの)
プルードン批判がキャリアの出発点である
ワルラスとケインズとではセーの法則に賛否が分かれるが
ワルラスがケインズに連なる近代経済学の祖と言っても過言ではない
(ケインズ=ヒックスのIS–LM modelモデルも、財と貨幣の一般均衡理論と言える)
上記図は、
国家l国民
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資本l X
という柄谷交換図に対応する
上記図の中央の交差は政治と経済のIS-LM分析とも呼べる
通常IS-LM分析は
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横軸が国民所得を表し、
流動性貨幣市場が/
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上記図では左右反転し、
流動性貨幣市場が政治\
投資財が経済/
千葉の鴨川といった具体的な地域にモデルを作る左翼は
返信削除世界革命を目指すマルクス主義ではなく、アナーキズムである
そしてアナーキズムは右翼とも相性がいい
ネトウヨは左翼に関して無知なのでそうした分節化ができないが、
国家から個人に直接繋がるよりも、間に「郷」が介在する考え方は
ネトウヨが見習うべき点だ
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
返信削除マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにはプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
返信削除マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにはプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
返信削除マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
返信削除マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
返信削除マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった
プルードンとベンヤミン
返信削除「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」*(プルードン『革命と教会における正義』、 斉藤悦則氏のHPより)
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』邦訳第4巻(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている(アルマン・キュヴィリエ Cuvillier,Armand「マルクスとプルードン」1937未邦訳より)。ベンヤミンは『パサージュ論』で20箇所くらいプルードンに言及しているが(マルクスの半分以下だろう)、孫引きが多い。ボードレール論を書く際にもその素材をフーリエやブランキを描写したようには活用しなかった。このことは再度書いてみたい。
返信削除労働権と財産権連合主義論
小野 重雄訳 プルードン著、社会思想研究会出版部、昭和24年
世界史の構造英語版によるとマルクスへの手紙は以下所収
返信削除http://www.amazon.co.jp/Anarchist-Reader-George-Woodcock/dp/0006340113/ref=reg_hu-rd_add_1_dp
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ペーパーバック: 384ページ
出版社: HarperCollins Distribution Services (1977/03)
言語: 英語, 英語, 英語
ISBN-10: 0006340113
ISBN-13: 978-0006340119
発売日: 1977/03
Anarchist Reader [ペーパーバック]
返信削除George Woodcock (編集)
1977
唯一の正しいマルクス理解があるというのは幻想に過ぎない
返信削除政治主義的に他者を否定することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい
プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ
返信削除唯一の正しいマルクス理解があるというのは幻想に過ぎない
政治主義的に他者を否定することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ
資本論のキーワードは二重性なのに
サルトルも行ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない
返信削除唯一の正しいマルクス理解があるというのは幻想に過ぎない
政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ
資本論のキーワードは二重性なのに
サルトルも行ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
返信削除また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ
資本論のキーワードは二重性なの
両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
唯一の正しいマルクス理解があるというのは幻想に過ぎない
政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ
資本論のキーワードは二重性なのに
サルトルも行ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
返信削除両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
唯一の正しいマルクス理解があるというのは幻想に過ぎない。
政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい。
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ。
資本論のキーワードは二重性なのに。
サルトルも行ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。
http://yojiseki.exblog.jp/6431576/
返信削除サルトルとプルードン:資料
『プルードン研究』(岩波書店)でも引用されていましたが、サルトルのプルードンへの言及をあらためて引用したいと思います。
ドゥルーズが晩年、サルトルを再評価していたのもうなづけます。
以下引用です。
「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちがいない。ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジーにすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていたが、パリ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとってどういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキシスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキシスムは教会になったのである。」
サルトル『文学とは何か』第三章「誰ために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より
日本の言説界に関して、多少厳しいことを言うなら、僕自身参加したNAMなども閉じられたマルクス主義の延命装置といった側面がありました(柄谷さんのプルードン再評価に誰もついていけなかった)。
集合力理論の素朴な力強さを痛感する昨今ですから、今からでもプルードン再評価が必要だと考えています。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
返信削除両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
唯一の正しいマルクス理解があるというのは幻想に過ぎない。
政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい。
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ。
資本論のキーワードは二重性なのに。
サルトルも言ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。
サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として正しい。
返信削除「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちが
いない。ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジー
にすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていた
が、パリ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利
は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に
単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとって
どういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキ
シスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革
し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しか
し、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキ
シスムは教会になったのである。」
サルトル『文学とは何か』第三章「誰ために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
返信削除もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、
両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
唯一の正しいマルクス理解があるというのは幻想に過ぎない。
政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい。
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ。
資本論のキーワードは二重性なのに。
サルトルも言ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。
サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として正しい。
返信削除政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい。
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ。
資本論のキーワードは二重性なのに。
サルトルも言ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。
サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として正しい。
返信削除政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい。
また正しいマルクスなどというのはそれこそマルクスのテクストの誤読というものだ。
資本論のキーワードは二重性なのに。
サルトルも言ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として正しい。
返信削除政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい。
サルトルも言ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。
サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として今も同じことが言える。
返信削除政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは
日本のマルクス主義の貧しさといってよい。
サルトルも言ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。
サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として今も
同じことが言える。
返信削除弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった
返信削除弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』邦訳第4巻(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
返信削除弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ
その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い
これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
返信削除マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、
両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
返信削除マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、
両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を
強固にするためにプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
返信削除マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、
両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから剽窃したことを隠蔽するために、
プルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
返信削除マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、
両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
剽窃したことを隠蔽するために、プルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
返信削除マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なもので有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、
両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
剽窃したことを隠蔽するために、プルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが現在、主体性の可能性として重要なのだ。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが現在、
主体性の可能性として重要なのだ。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除抽象化された労働価値説には弊害もある。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除抽象化された労働価値説には弊害もある。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除むしろ抽象化された労働価値説には弊害の方が大きい。例えば税制が、つまり国家が資本論から除外された。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除むしろ抽象化された労働価値説には弊害の方が大きい。例えば税制が、つまり国家が資本論から除外された。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機があるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してはやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
剽窃したことを隠蔽するために、プルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除むしろ抽象化された労働価値説には弊害の方が大きい。例えば税制が、つまり国家が資本論から除外された。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機を無理矢理見つけるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方がやはり諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してもやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
剽窃したことを隠蔽するために、プルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
返信削除むしろ抽象化された労働価値説には弊害の方が大きい。例えば税制が、つまり国家が資本論から除外された。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機を無理矢理見つけるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方がやはり諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してもやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
剽窃したことを隠蔽するために、プルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読める。
例えばヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を持っている人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットを展開せずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読める。
例えばヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を持った人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットを展開せずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読める。
例えばヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を握った人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットを展開せずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読めるし、
ヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を持っている人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットを展開せずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
弁証法を再定義するにはヘーゲルよりもカントに遡行すべきだろうがスピノザ、
ライプニッツの再評価が先だ。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読めるし、
ヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を持っている人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットを展開せずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
弁証法を再定義するにはヘーゲルよりもカントに遡行すべきだろうがスピノザや
ライプニッツの再評価が先だし、プラトンはニーチェによって転倒させられる
必要がある。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読めるし、
ヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を持っている人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットを展開せずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
弁証法を再定義するにはヘーゲルよりもカントに遡行すべきだろうがスピノザや
ライプニッツの再評価が先だし、プラトンはドゥルーズ、ニーチェによって転倒させ
られる必要がある。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読めるし、
ヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を持っている人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットな展開をせずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
弁証法を再定義するにはヘーゲルよりもカントに遡行すべきだろうがスピノザや
ライプニッツの再評価が先だし、プラトンはドゥルーズ、ニーチェによって転倒させ
られる必要がある。
例えばマルクスは相対的価値形態と等価形態の戦いで貨幣形態(gold)が勝ち残るのを
返信削除不可逆的かつ固定的に捉えている、、、、ように読めるし、
ヘーゲルがプラトンから抽出した弁証法は、主人と奴隷の戦いの後で現実的に権力
を持っている人間(=官僚)を追認する論理に成り果てた、、、ように思える。
ヘーゲルを救済するには元々の生物学的モデルを復権させる必要があるし、
マルクスを再生させるにはカレツキ経由でゲゼルとつなげる必要があるが、
そうしたアクロバットな展開をせずともプルードンに立ち返るのが手っ取り早いと思う。
弁証法を再定義するにはヘーゲルよりもカント(これは法廷モデルだが)に遡行すべきだろ
うがスピノザやライプニッツの再評価が先だし、プラトンはドゥルーズ、ニーチェによっ
て転倒させられる必要がある。
ANOVIS ANOPHELIS: 09/2010
返信削除franciscotrindade.blogspot.com/2010_09_01_archive.html
80 ANSART, Pierre – Marx et l'anarchisme, essai sur les sociologies de Saint¬ Simon, Proudhon, Marx, Paris, ...
95 CUVILLIER, Armand – "Marx et Proudhon" in A la Lumière du marxisme, obra colectiva (Tomo II), Paris, ...
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A la lumière du marxisme. Essais. Tome II: Karl Marx et la pensée moderne. Premiere partie. Auguste Comte, Les Utopistes français, Proudhon.,
Cornu, Auguste, Armand Cuvillier Paul Labérenne u. a.:
Published by Paris, Éditions Sociales Internationales,, 1937
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95 CUVILLIER, Armand – "Marx et Proudhon" in A la Lumière du marxisme, obra colectiva (Tomo II), Paris, Éditions sociales interna¬tionales, 1937, 240 p.
返信削除弁証法に関してもやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
返信削除「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ベンヤミンが参照したのは、
CUVILLIER, Armand – "Marx et Proudhon" in A la Lumière du marxisme, obra colectiva (Tomo II), Paris, Éditions sociales interna¬tionales, 1937, 240 p.
p.180
http://www46.atpages.jp/mzprometheus/free/493
返信削除(追記)
『世界史研究論叢』第2号の目次(一部)は以下の通りです。
〈2011年度シンポジウム要旨〉
科学技術と歴史学―3・11までの歴史を顧みる
Ⅰアメリカ的自由の再検討(青木信家)
Ⅱ東亜共同体リーダーの資格喪失(石塚正英)
Ⅲ歴史のハイアラーキー―近代の知の秩序(岡本充弘)
〈論 考〉
教科および教科外活動における国際政治の学習
―戦後初期ドイツの社会科と政治教育論、および平和教育論を中心に―(寺田 佳孝)
南アジアの核開発とアメリカ外交―アフガニスタン戦争期を事例に―(福井俊保)
マイネッケの政治思想―ヴァイマル共和国時代の理性の共和派の一系譜―(浜田泰弘)
19世紀フランスの「囚人文学」(梅澤 礼)
Adel und Hof im Deutschen Kaiserreich(ドイツ帝政期の貴族と宮廷)(伊藤 智央)
〈研究ノート〉
マネーレス・アソシエーション論の系譜―プルードン・ヴァイトリング・ゲゼル―(石塚正英)
足利学校とイエズス会(川島 祐一)
返信削除http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%
83%A0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82
%A4%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
1843年、ヴァイトリングは『貧しき罪人の福音』を完成させるが、その中ではトーマス・ミュンツァー的な千年王国論・メシア共産主義を説き、実践面では社会的匪族(Sozialbandit)による徹底的な所有権攻撃を提起した。ヴァイトリングはこの『福音』の起草のために、チューリヒ州警察に逮捕される。同年秋にはスイスからプロイセンへ護送され、翌1844年プロイセンからも追放され、同年8月ロンドンへ着く。
ヴァイトリングと彼の派は正義者同盟ロンドン本部のシャッパーと「革命か啓蒙か」の路線をめぐり討論を闘わせ、しばしば対立した。彼はまた1846年3月にロンドンからブリュッセルへ渡り、マルクス派とも連携を試みるが、マルクスとも革命論をめぐって対立する。いずれの論争も決裂に終わり、ヴァイトリングは1846年末、大西洋を渡ってニューヨークに上陸。解放同盟(Befreiungsbund)を設立することになる。
ヴァイトリングは、1848年革命勃発に際して一度ドイツへ戻るが、1850年にはニューヨークで移住ドイツ人労働者に向けて宣伝機関誌『労働者共和国(Republik der Arbeiter)』を発行し、1851年アイオワ州クレイトンで共産主義的なコロニー「コムニア」(1847年設立)の運営に参加、さらには1852年労働者同盟(Arbeiterbund)を結成する。こうしてヴァイトリングは、アメリカでも精力的に社会改革・労働運動を継続していくが、その際ニューヨークに来てからのヴァイトリングの思想と行動には、フランスの社会主義者・アナキストのピエール・ジョゼフ・プルードンの影響が俄然強烈に印象づけられる。それは、交換銀行と協同企業、一言で表現すれば労働者アソシアシオンの標榜である。労働者協同企業と交換銀行の連携によるアメリカ大陸横断鉄道の建設はそのハイライトである。しかし、アメリカ社会の激しい資本主義的転変の渦中で、労働者協同社会を展望するというヴァイトリングの構想は行き詰まり、1860年代には政治的・社会的活動から身をひく。1871年1月インターナショナル・ニューヨーク支部の親睦会に出席した直後、死去した。彼の死後、妻と6人の子供が残された。
プルードンに関しては日本人研究家がいる
横断鉄道はアイアンホースとして映画が有名
「プルードンとブザンソン」より引用
返信削除プルードンとブザンソン
http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/besac.html
斉藤悦則
『都市と思想家』I(法政大学出版局,1996年7月)pp.190~203.所収
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50024527.html?p=3
プルードンは私的なメモ帖のなかで、みずからの出自をつぎのように記している。
「フランシュ・コンテの農民の出。父は樽づくりの職人、母は料理女。わたしはまったく文字どおりの野生児であった。つまり、正真正銘の人間である。落ちぶれはててこうなったのではない。もとからこういう真人間として生まれたのである」(手帖、第10冊、501ページ(1854年4月)。手帖はプルードン研究者オプマンによって、第9冊目まで印刷刊行されている。したがって、ここでの引用はオプマンの博士論文『プルードン』による。(Pierre Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon, Sa vie et sa pensee (1809-1849), Paris, Beauchesne, 1982, p.14))
さて、ブザンソンをとりまく田園がプルードンに与えた影響について、もう少し述べておこう。それは都会生活の華美を虚飾と見、自然とともに質素に生きることこそが人間を本当に人間らしくさせるのだという思想である。つまり、生産力をどこまでも発達させることをかれは必ずしも進歩とはみなさない。足るを知るという思想、自然と融和した生き方と清貧を良きものと見る価値観、こうしたものはわれわれ日本人にとって妙になつかしくはないか。しつこいようだが、ふたたび『正義論』の一節を引用してみたい。
「[20才をすぎてブザンソンの印刷所で働いていたころ]わたしはきれいな空気を吸うために、ドゥ河をはさむ高い山々に登ったものだ。そして、そこで雷雨に見舞われたりすると、ますます景色にうっとりとするばかりだった。岩山のくぼみに身を寄せて、稲妻をじっと眺めるのが楽しかった[……]。稲光、雷鳴、風、雲、雨……、それがわたしだ。わたしはそう思った。ブザンソンでは、雷が光るとご婦人たちは十字を切る習慣がある。思うに、この敬虔なしぐさはある感情に根ざしている。すなわち、自然の異変はすべて人間の魂のなかで起こることを映し出したものにほかならないという気持ちである。それはわたしのうちにもあった」
「後には、わたしも文明化されてしまった。しかし、はっきり言うと、わたしは文明からわずかに何かを得たことすらおぞましい。偽善にみちたこの文明なるもの、そこでの生活には色彩もなければ味わいもない。ひとびとの情念には力強さもなければ誠実さもない。想像力はちじこまり、底の浅い気取ったスタイルがあるばかり。わたしは二階建てよりも高い家は嫌いだ。高い建物のなかでは、社会のヒエラルキーとは逆に、大物が下の方にいすわり、小物は上の方に追いやられる。わたしは刑務所が嫌いなのと同じくらい、教会や神学校や修道院が嫌いだし、兵舎や病院や養老院や乳児院を嫌悪する。それらはすべて人間からまっとうな精神を失わせるもののように思われるからである」(Proudhon, De la Justice, (Ed. Riviere), II, pp.407-408.)
追記:
プルードンの父親はビール職人及び樽職人で、製造工程にかかった費用しか対価を受け取らなかったという。こんなところにプルードンの利子への嫌悪のルーツがあるのかも知れない。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/besac.html
返信削除「絶対必要な教科書すら買えませんでした。ラテン語の勉強もすべて辞書なしで行いました。
ラテン語作文の宿題は授業中におぼえた言葉をたよりに、できるところだけすませ、わから
ないところは空白のままにして、学校に行ってからそのブランクを埋めたのです。教科書を
忘れたという罪で何度も叱られましたが、もともと持ってもいなかったのでどうしようも
ありません」(7)
「いま、われわれが研究しようとしているテーマについて、わたしが受けた教育の出発点は
階級に差があること、いいかえれば富が不平等に分配されていることであった」
「自分がほかの人々より下にいることがあからさまにされたとき、わたしの心に最初にわいてき
たのは恥の感情であった。自分の貧しさに、わたしはまるで何かの罰を受けているかのような恥ずかし
さをおぼえた。年老いた婦人がいった言葉の正しさが半分わかってきた。すなわち、『貧乏は犯罪では
ない。それよりももっと悪いものだ』。貧乏はわれわれを卑しくさせ、堕落させ、少しずつ貧乏にふさ
わしい人間にしていくというのである。
しかし、恥じてばかりはいられない。やがて憤りの感情がそれにとってかわった。はじめのうちは、
自分の腕と頭脳で、恵まれた人々と同じレベルに高まろうとがんばったものだ[……]。が、計算を
してみると、わたしが労働者の境遇にとどまるかぎり、けっして裕福になりえないことが明らかになった。そのとき、まじめにがんばる気持ちは怒
りに転じたのである。そして、わたしの場合、この怒りは[……]生活条件や財産の不平等の根源
をさぐりあてようという方向に向かった。
ほかの者は密輸業者や倉庫荒らしになった。臆病で敏感なやつは泥棒になった。経済のしくみは、
教会が無罪放免しており、[経済学者たちによれば]どうしても不平等を生み出さずにはおかない
ものだという。わたしはこのしくみを少しずつ徹底的に研究してみようと決意した」(8)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/besac.html
返信削除「絶対必要な教科書すら買えませんでした。ラテン語の勉強もすべて辞書なしで行いました。
ラテン語作文の宿題は授業中におぼえた言葉をたよりに、できるところだけすませ、わから
ないところは空白のままにして、学校に行ってからそのブランクを埋めたのです。教科書を
忘れたという罪で何度も叱られましたが、もともと持ってもいなかったのでどうしようも
ありません」(7)
「自分がほかの人々より下にいることがあからさまにされたとき、わたしの心に最初にわいてき
たのは恥の感情であった。自分の貧しさに、わたしはまるで何かの罰を受けているかのような恥ずかし
さをおぼえた。年老いた婦人がいった言葉の正しさが半分わかってきた。すなわち、『貧乏は犯罪では
ない。それよりももっと悪いものだ』。貧乏はわれわれを卑しくさせ、堕落させ、少しずつ貧乏にふさ
わしい人間にしていくというのである。
しかし、恥じてばかりはいられない。やがて憤りの感情がそれにとってかわった。はじめのうちは、
自分の腕と頭脳で、恵まれた人々と同じレベルに高まろうとがんばったものだ[……]。が、計算を
してみると、わたしが労働者の境遇にとどまるかぎり、けっして裕福になりえないことが明らかに
なった。そのとき、まじめにがんばる気持ちは怒りに転じたのである。そして、わたしの場合、
この怒りは[……]生活条件や財産の不平等の根源をさぐりあてようという方向に向かった。
ほかの者は密輸業者や倉庫荒らしになった。臆病で敏感なやつは泥棒になった。経済のしくみは、
教会が無罪放免しており、[経済学者たちによれば]どうしても不平等を生み出さずにはおかない
ものだという。わたしはこのしくみを少しずつ徹底的に研究してみようと決意した」(8)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/besac.html
返信削除プルードンは私的なメモ帖のなかで、みずからの出自をつぎのように記している。
「フランシュ・コンテの農民の出。父は樽づくりの職人、母は料理女。わたしはまったく文字どおりの野生
児であった。つまり、正真正銘の人間である。落ちぶれはててこうなったのではない。もとからこういう真
人間として生まれたのである」
「絶対必要な教科書すら買えませんでした。ラテン語の勉強もすべて辞書なしで行いました。
ラテン語作文の宿題は授業中におぼえた言葉をたよりに、できるところだけすませ、わから
ないところは空白のままにして、学校に行ってからそのブランクを埋めたのです。教科書を
忘れたという罪で何度も叱られましたが、もともと持ってもいなかったのでどうしようも
ありません」(7)
「自分がほかの人々より下にいることがあからさまにされたとき、わたしの心に最初にわいてき
たのは恥の感情であった。自分の貧しさに、わたしはまるで何かの罰を受けているかのような恥ずかし
さをおぼえた。年老いた婦人がいった言葉の正しさが半分わかってきた。すなわち、『貧乏は犯罪では
ない。それよりももっと悪いものだ』。貧乏はわれわれを卑しくさせ、堕落させ、少しずつ貧乏にふさ
わしい人間にしていくというのである。
しかし、恥じてばかりはいられない。やがて憤りの感情がそれにとってかわった。はじめのうちは、
自分の腕と頭脳で、恵まれた人々と同じレベルに高まろうとがんばったものだ[……]。が、計算を
してみると、わたしが労働者の境遇にとどまるかぎり、けっして裕福になりえないことが明らかに
なった。そのとき、まじめにがんばる気持ちは怒りに転じたのである。そして、わたしの場合、
この怒りは[……]生活条件や財産の不平等の根源をさぐりあてようという方向に向かった。
ほかの者は密輸業者や倉庫荒らしになった。臆病で敏感なやつは泥棒になった。経済のしくみは、
教会が無罪放免しており、[経済学者たちによれば]どうしても不平等を生み出さずにはおかない
ものだという。わたしはこのしくみを少しずつ徹底的に研究してみようと決意した」(8)
返信削除父親について、かれはこういった。「かれはまじめなビール作りですが、金儲けのためには
生産費以上で売らねばならないということを自分の頭に 信じこませることができない人間でし
た。かれは常にそのことを悪どい仕方で利益をえることだと主張しました。《私のビールは、
私の賃金こみでこれだけ経費がかかった。私はそれ以上に高く売ることはできないのです!》
とかれは繰り返しました。その結果はどうでしょうか。あっぱれな父親は貧困のなかで死に、
貧乏な子供たちをあとに残したのです」。
(平凡社ライブラリー『プルードン・セレクション』河野健二編 16頁より)
八頭両者の系列であった。ブルードンの甥のI人は犬革命期に万き久地方のジャコバン・クラ
返信削除ブのリドダーに八り、またフリーメイソンの首領になった。私たちの主人公は、この左派のプ
ルードン家に属した。しかし、七言よりもケルトド犬が影響をうけ久のは、はかたの祖父が示
し久叛骨ぶりであった。祖父は革命当時、山林地工率七の山番久礼の横暴とはげしく闘い、隣
人久礼に叛乱を呼びかける運動中に倒且たとレケドブルードンは、この祖父を誇りとし、また
祖父の血を承けた母親を生涯にわたって愛しつづけ久。
父親について、かれはこういった。「かれはまじめなビール作りですが、金儲けのためには
生産費以上で売らねばならないということを自分の頭に 信じこませることができない人間でし
た。かれは常にそのことを悪どい仕方で利益をえることだと主張しました。《私のビールは、
私の賃金こみでこれだけ経費がかかった。私はそれ以上に高く売ることはできないのです!》
とかれは繰り返しました。その結果はどうでしょうか。あっぱれな父親は貧困のなかで死に、
貧乏な子供たちをあとに残したのです」。
(平凡社ライブラリー『プルードン・セレクション』河野健二編 16頁より)
几ブルしドンは続けてこうつけ加える。「とはレえ、か
れは七の息子のI人を聯く’一とになる次の・奇妙な命題、ハ財産、それは盗みである!・》と同じ
原則に何の疑レも抱かなレで従ったのですI。
てI寇ごろまで、かれは田園の八かで暮らし久。農家の貧しい暮らしは、同時に自然との豊
かな接触を七つ日々であった。野良仕事や牛追いつかたわら、かれは草原をy}ろげ廻り、水浴
びをし、于づか人て果物を僕べた。古飾のなレ農民生活の喜びと力強さをか五は丁玉忘れなか
った。とレうより右かれば、働く農段平職人の充実感を根幹にすえることによって、文明社会
の全休を作りかえるOA%てぎるとレう哲学をしだレにわがものとしてゆくのである。特代と
燦境はちがってレだけれども、プルjドンはJ目J・ルソーがそうであったように、《山犬者
の哲旱)の実践者であった。
ルソjが生まれ故郷ツ、シュネーヅをHの五なく愛したように、ゾルードン右またブフンシ
ュ目コンテを愛した。フランレューjコづアは元来はフランス鎖であったが、・だ化心打こ、/
NぐI /≒ {』i?
……’yC・・71にっぅンノ缶てよくたが、ゾ九世記末にハプ
スブ千グ家白所領となり、一六既記の半ばにはスベィーンを支配するベフスブ千グの所領となっ
た。当時、最強最大を誇ったスベインはボルトガル、低諸国、ブアプノュ目コンテなどを粧し
て、フラ/ベドrド‐,s/11%’J X』一‘
7 ’‐&4 }191ZI /.¥
て、ブブノスやイギリスに対抗した.ブブプソュー‥コンテの住民はフラン
βi 14
上 ; …… ラ宍UEロフランスにたレして独ケ心
をもち、またゾサンソンは交通の要衝であるとともに、人号く湾曲するドゥJブ河に抱かれて
白然の苛察をなしてレたので、yくから高取山号が栄え、住民の・白立石も強かった。しかし、
フーヌ/フヘふよ一j/4'rご!./Z K X ¥is‐.,s
ブブyスは丁ハ匪紀末、アンリ四囲の時代からフランシュ目コンテに
一一‘・べ{4啄`s
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員上のよぅな出身地の影響を読石ころ入江多レ。
一
革命の主体か化において、
返信削除民族が分母で階級が分子。
日本の身分は分母にあたる
返信削除革命の主体化において、
民族が分母で階級が分子。
日本の身分は分母にあたる
坂本龍馬を考えると分かりやすい
武士の中で下
ただし商家として階級は上
返信削除革命の主体化において、
民族が分母で階級が分子。
日本の身分(士農工商)は分母にあたる
坂本龍馬を考えると分かりやすい
武士の中で下
ただし商家として階級は上
プルードンのいう集合力は、フーリエやオーウェンのような共同体主義ではなく
返信削除銀行、組合という形をとった
(だから個人資産は維持され、職人の子への相続も認められると考えた)
ここらへんの考え方は渡米後のヴァイトリングにも受け継がれた、、、、
(エンゲルスはオーウェンを尊敬していたようだが)
協同組合(プルードン側?)と労働組合(マルクス側?)とは利益が食い違うことが
あるということを指摘したのは、
自分が知る限り、数学者のラッセルしかいない
日本では同業組合が弱く、西欧では逆らしい
これは(逆の側から)グラムシが似たような指摘をしていたはず
協同組合社会(マルクスもこれを志向したと言える)をつくるうえで理論的な
課題がまだかなり残っている
教育の重要性は
返信削除外国人同士の協業で
言葉が通じない場合のケースの困難さを考えればわかる
その場合教育は社会資本であり
返信削除その場の言語レッスンは集合力に含まれる
教育の重要性は
返信削除外国人同士の協業で
言葉が通じないケースの困難さを考えればわかる
その場合教育は社会資本であり
その場の言語レッスンは集合力に含まれる
教育の重要性は
返信削除外国人同士の協業で
言葉が通じないケースの困難さを考えればわかる
その場合教育は社会資本であり
その場の即席の言語レッスンは集合力に含まれる
教育の重要性は
返信削除外国人同士の協業で
言葉が通じないケースの困難さを考えればわかる
その場合教育は社会資本であり
その場の即席の言語レッスンも集合力に含まれる
返信削除集合力=結合労働力という考え方自体はマルクスもプルードンから受け継いでいる。
資本論代第一部第11章 協業
「同じ生産過程において、あるいは、異なっているが関連している生産諸過程において、肩をならべ一緒に
なって計画的に労働する多くの人々の労働の形態を、協業と呼ぶ。」[☆344]
「結合労働日は、それと同じ大きさの、個々別々の個別的労働日の総和と比較すると、より大量の使用価
値を生産し、それゆえ一定の有用効果を生産するのに必要な労働時間を減少させる。……結合労働日の独
特な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力である。それは、協業そのものから生じる。
労働者 は、他の労働者たちとの計画的協力のなかで、彼の個人的諸制限を脱して、彼の類的能力を発展さ
せる。」[☆348-9]
「資本家は、100個の自立した労働力の価値を支払うが、100個という結合労働力に支払うわけではない。」
[☆354]
http://book.geocities.jp/kyawa2010/capital/vol1/ch10/ch11.htm
☆マルクス『資本論』原書頁数
問題はマルクスが、労働者が集合力を得るためには「オーケストラの指揮者」(第一巻11章)が必須だと
考えてしまった点だ。
訂正
返信削除「オーケストラの指揮者」は資本論第十三章。
https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter13/index.htm
(18) 全ての、大きな規模の結合された労働は、多かれ少なかれ、個々の活動の
作業の調和を確保するために、そして、個別の組織器官の活動とは違う、結合された組織
としてそれぞれが持つ普遍的な機能を発揮するために、指揮機能を要求する。一人のバ
イオリン奏者は、彼自身の指揮者ではあるが、オーケストラは明確な一人の指揮者を必要
とする。労働が資本の下に、協同作業となった瞬間から、作業の指示、監督、調整、が
資本の一つの機能となる。資本の機能が確立するやいなや、それが特別の性格を獲得する。
スミスには不変資本という考え方がなかった
返信削除それを付け加えたマルクスの功績は認める
ただこの不変資本は集合力としてプラスに再評価しなければならない
カレツキが表式の生産部門をさらに二つに分けたのは正しい
利潤、利子、地代に(同時に)対応する対抗運動がなければならない
(柄谷行人のNAMにおいては、それらはそれぞれ
関心系、センター事務局、地域系ということになる)
労働組合だけだと地域系が弱くなる
早い話、コミュ二ティは自給自足を目指すべきだ
(ドイデにおけるエンゲルスのヴィジョン!)
その土台がなければタイ米騒動、ナタデココ騒動みたいなものが延々続いて起こる
コミュ二ティ同士は自給の方法論自体をシェア、交換すればいい
訂正
返信削除「オーケストラの指揮者」は資本論第十三章ではなく第十一章。
https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter13/index.htm
(18) 全ての、大きな規模の結合された労働は、多かれ少なかれ、個々の活動の
作業の調和を確保するために、そして、個別の組織器官の活動とは違う、結合された組織
としてそれぞれが持つ普遍的な機能を発揮するために、指揮機能を要求する。一人のバ
イオリン奏者は、彼自身の指揮者ではあるが、オーケストラは明確な一人の指揮者を必要
とする。労働が資本の下に、協同作業となった瞬間から、作業の指示、監督、調整、が
資本の一つの機能となる。資本の機能が確立するやいなや、それが特別の性格を獲得する。
原書p.350
「政治機能は産業機能に還元される、社会秩序はたんに交換という事実にのみ由来する」
返信削除(プルードン「連合の原理」三一書房版選集第三巻339頁、定本『トランスクリティーク』274頁 、
現代文庫版267頁より孫引き)
“政治机能将还原为产业机能,社会的秩序仅源自于商贸和交易还一単纯的事实。(蒲鲁东《联合的原理》)”
(柄谷行人《跨越性批判一康德与马克思》中国語版140頁)
http://book.douban.com/subject/5920564/
"reducing political functions to industrial functions; and that a social order arises that forms
nothing but transactions and exchanges."
(Proudhon"The Principle of Federations#", trans. Richard Vernon. Tronto: University of Tronto Pres, 1970, p.11)
(KARATANI Kojin"Transcritique"英語版177頁)
http://www.ditext.com/proudhon/federation/federation.html#2
"les fonctions politiques étant ramenées aux fonctions industrielles, l’ordre social
résulterait du seul fait des transactions et des échanges."
(Pierre-Joseph Proudhon: Du principe Fédératif , 1863)
http://fr.wikisource.org/wiki/Proudhon_-_Du_Principe_f%C3%A9d%C3%A9ratif/Texte_complet p.29
http://fr.wikisource.org/wiki/Page%3AProudhon_-_Du_Principe_f%C3%A9d%C3%A9ratif.djvu/36
プルードンがマルクスに送った手紙(1846年)の定式をのちのプルードン自身の言葉で言えば以下になる。
返信削除「政治機能は産業機能に還元される、社会秩序はたんに交換という事実にのみ由来する」
(プルードン「連合の原理」原著1863年,三一書房版選集第三巻339頁、定本『トランスクリティーク』274頁 、
現代文庫版267頁より孫引き)
マルクスはこの言葉に沿って経済決定論を展開したといって良い。
つまりマルクスはプルードン主義者なのであり、すべてのマルクス主義者は未だ覚醒せざるプルードン主義者なのだ。
実践において政治権力奪取を一時的にでも目指すかが違うだけだ。
(狭義のマルクス主義でも権力奪取は臨時的なものだ)
利潤率が正なら剰余価値率も正。
返信削除これは当たり前に見える。
問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」137頁岩波全書版『経済原論』
体系としても剰余価値率の説明が第二篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解に記している。
利潤率が正なら剰余価値率も正。これは当たり前に見える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解に記している。
置塩や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に見える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解に記している。
プルードンがマルクスに送った手紙(1846年)の定式をのちのプルードン自身の言葉で言えば以下になる。
返信削除「政治機能は産業機能に還元される、社会秩序はたんに交換という事実にのみ由来する」
(プルードン「連合の原理」原著1863年,三一書房版選集第三巻339頁、定本『トランスクリティーク』274頁 、
現代文庫版267頁より孫引き)
マルクスはこの言葉に沿って経済決定論を展開したといって良い。
つまりマルクスはプルードン主義者なのであり、すべてのマルクス主義者は未だ覚醒せざるプルードン主義者なのだ。
実践において政治権力奪取を一時的にでも目指すかが違うだけだ。
(狭義のマルクス主義でも権力奪取は臨時的なものだが)
置塩や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に見える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解に記している。
返信削除宇野弘蔵は『経済原論』123頁で以下の表式を例示する。
1 6000=4000c+1000v+997m+1m+2m
2 2995.5=1997c+499.25v+498.25m+1m
流通過程で必須とされる媒介する金(gold)が、計3億、資本家の個人消費として控除される。
1で2億、2で1億、貨幣として蓄積される金がある。
カレツキの表式なら1は二つに分けられる。
流通に必要な金は消費手段生産部門における生産物として考えられる。
資本家の消費は総不変資本に編入されると考えられるのだ。
投資と消費が国民総生産を規定するのだから。
返信削除宇野弘蔵は『経済原論』123頁で以下の(この段階では単純再生産であって拡張再生産ではない)表式を例示する。
1 6000=4000c+1000v+997m+1m+2m
2 2995.5=1997c+499.25v+498.25m+1m
流通過程で必須とされる媒介する金(gold)が、計3億、資本家の個人消費として控除される。
1で2億、2で1億、貨幣として蓄積される金がある。
カレツキの表式なら1は二つに分けられる。
流通に必要な金は消費手段生産部門における生産物として考えられる。
資本家の消費は総不変資本に編入されると考えられるのだ。
投資と消費が国民総生産を規定するのだから。
単純再生産でも金流通分は拡張していなければならないというのが宇野の指摘。
http://yojiseki.exblog.jp/9432855/
返信削除ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」*
http://yojiseki.exblog.jp/5230243/
1848年二月革命。新聞『人民の代表』発刊。交換銀行を計画。補欠選挙でナポレオン三世(この大統領に当選)と一緒に国会議員になる。(「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」)。議会で歴史上ではじめてとされる「階級闘争」を宣言。
『人民の代表』発刊禁止。
*
『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』( S.モリニエ他 現代思潮社)より
Commented by yoji at 2010-07-18 02:45 x
レオン・ワルラスは『経済学と正義』(未邦訳)でプルードンの『革命と教会における正義』第三部財産、5、6章を批判している(佐藤茂行『プルードン研究』)。
後にこの本を書いているとき一般均衡理論を思いついたと語っているが、一般均衡理論は原理的にプルードンのアンチノミー論の
価格論的な形による剽窃である。
それはマルクスの「価値形態論」がプルードンの『経済的矛盾の体系』における「構成された価値」論の剽窃であるのと同じである。
ワルラスは経済学と正義、つまり価格と価値を分けるべきだと主張したのに対し、プルードンは労働価値を擁護するから話は噛み合ない。
結果は価格論の精密化だが、そこにプルードンの議論の焦点はもとよりない。
このワルラスの理論は需要-供給曲線として近代経済学(『純粹経済学要論』等)の基礎となったが、マルクス経済学も近代経済学もプルードン批判というよりプルードンからの剽窃が原点にあること(および価値論の捨象)がもっと知られていい。
マルクス経済学も近代経済学もプルードンへの批判とそこからの剽窃、つまりプルードンから倫理を差し引き、その理論を価格論的に展開したことが歴史的原点なのだ。
http://yojiseki.exblog.jp/9672848/
返信削除権力とは何か?
プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」*
http://yojiseki.exblog.jp/5230243/
*(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
ボブ・ディランの「イッツオーライトマ」のラストのようなセリフだが、ここに権力に対する
プルードンの感受性が見て取れる。
歴史的なライバル関係が存在する。
プルードンとナポレオン三世(マルクスでは断じてない)、チャップリンとヒトラー、エイゼン
シュテインとスターリン、このような一騎打ちに比べれば今日の権力闘争をめぐる言説は、(以下
のようなブログ記事**は例外だが)表層的なものである。
ちなみに、権力とは何かを知りたければ、エイゼンシュテインの『イワン雷帝』を観ることを薦める。
**佐藤優の眼光紙背
http://news.livedoor.com/article/detail/4543253/
本件は、基本的に「国家を支配するのは誰か」という問題をめぐり官僚と民主党の間で展開されてい
る権力闘争だ。国民とは関係のない「彼らの喧嘩」である(略)
この戦いに検察が勝利すると、国家を支配するのは、自民党政権時代と同じく官僚であるということが
確認される。当然、世の中は暗くなる。
ここで、小沢幹事長が勝利するとどうなるか? 小沢チルドレンをはじめとして、民主党の衆議院議員
返信削除プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、また高利の金融システムは市井のユダヤ人の
高利貸しによるものというよりも、フランスのブルジョアジーが結託した
高度なものだった(ユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない)。
明示された範囲で、プルードンのユダヤ人観、というよりユダヤ教観は以下の
ようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,つづいてわたくしが,
われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の
戒律が考えつかれたか,それはいかにして認められたか,それは人民の迎
合にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば,わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから上地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き
返信削除プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」
(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、また高利の金融システムは市井のユダヤ人の
高利貸しによるものというよりも、フランスのブルジョアジーが結託した
高度なものだった(ユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない)。
(彼の反ユダヤ発言が膾炙されているとすれば、フリーメーソンに入信した
親戚(甥)のプルードンと間違えられている可能性が高い。)
明示された範囲で、プルードンのユダヤ人観、というよりユダヤ教観は以下の
ようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,つづいてわたくしが,
われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の
戒律が考えつかれたか,それはいかにして認められたか,それは人民の迎
合にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば,わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから上地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き
返信削除プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」
(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、また高利の金融システムは市井のユダヤ人の
高利貸しによるものというよりも、フランスのブルジョアジーが結託した
高度なものだった(ユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない)。
彼の反ユダヤ発言が膾炙されているとすれば、フリーメーソンに入信した
親戚(甥)のプルードンと間違えられている可能性が高い。
明示された範囲で、プルードンのユダヤ人観、というよりユダヤ教観を引用
するなら、それは以下のようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,つづいてわたくしが,
われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の
戒律が考えつかれたか,それはいかにして認められたか,それは人民の迎
合にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば,わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから土地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き
Instructions for use
返信削除Title
フランスにおける企業金融:19世紀後半から第一次大戦まで
Author(s)
佐藤, 朋子
Citation
北海道大學 經濟學研究 = THE ECONOMIC STUDIES,
22(1): 103-139
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31238/1/22%281%29_P103-139.pdf
告
と呼ばれる俗入金数業者しか存在しなかった。しかし龍述したような第二
帝政下の室長業の発展,技術水撲の高度化・固定設備の毘大化は,路大な策幣資
本を必要とするよう
る。このような費幣資本需要に芯じて,社会的に散
在している小額資本,瞬時的な遊休資本建撃を集中し,
として機龍させ
ることを可能とする信用機関がより
してくる。プランスでは
1860
年
代に諾頚議室銀行
,
1870
年代には議事業銀行がつぎつぎと創設
d
れ,
P
機グlJr'f
114
(114)
経済学研究第
22
巻第
H
予
24)
H.
See
,
Id.
,
p.247
2
支ぴ
p.307.
企業組合的なものとして,
ほかに
J
えのものが
あげられるが,いずれもカルテル約な性格が薬事く,むしろ企業あ組合の性格た
もったものであるといわれる。
製鉄所委員会
Comite
des
forg
田)
1864
年,
第一次大戦前夜
t
こ参加企業
260
宏
教え,資本金
10
億プランを代
3
突して
L
、た。
災護主委民会
Comite
投開
houilleres
,
1888
塁手。
総済利益
i
言
1
緩む
ni
士
e
des
interets
economi
司
u
自衛こに撲の一般的科益企擁護す
る践的をもち,第一次大戦前夜において所得税の採浴の反対運動念行なった。
1910
みに誕生。
G.
Martin
,
Id.
,
pp.426-427.
及び
H.
See
,
Id.
,
p.307.
25)
佐々木建教被著,
f
ブラ
γ
スゑ議室資本成rI
3
遇穫をめぐる諮問題
J
,経健研究第
104-106
合併努,
p.173.
26)
ジ後ノレジュ・
7'
;:4プー務,
Id.
,
p.
156.
27)
株式会社と併用制度のかかわうについては絞近多数の論者によって研究・
されてし、る。この論文ではこの議論にはふれなかったので二今後の研究課題の
きた
}I!
栄治救援,
れまでのこの問題についての参考文絞め紹介と検討がなされている。
一
諸課行の発競と産業企業との関係
フラ
γ
スにおいて,第ニ帝政のはじめ
3
どでは議喪な金議機関としてはや央
銀行であるフランス銀行
Banque
de
Franc
告とオ...いノミング
haut
桂
banqu
告
と呼ばれる俗入金数業者しか存在しなかった。しかし龍述したような第二
帝政下の室長業の発展,技術水撲の高度化・固定設備の毘大化は,路大な策幣資
本を必要とするよう
る。このような費幣資本需要に芯じて,社会的に散
在している小額資本,瞬時的な遊休資本建撃を集中し,
として機龍させ
ることを可能とする信用機関がより
してくる。プランスでは
1860
年
代に諾頚議室銀行
,
1870
年代には議事業銀行がつぎつぎと創設
d
れ,
P
機グlJr'f
z
が
1870
年以後
f
全ての貨幣的資源、の単一の閉路-全鹿詩的市場が生まわした
J
と
いってし、るように,
1870
年代にフランスの銀行義警はほぼ完成したのである。
1
返信削除プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」
(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、また高利の金融システムは市井のユダヤ人の
高利貸しによるものというよりも、台頭するフランスのブルジョアジーが結
託した高度なものだった(オートバンクと呼ばれる個人金融業者内において
ユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない)。
彼の反ユダヤ発言が膾炙されているとすれば、フリーメーソンに入信した
親戚(甥)のプルードンと間違えられている可能性が高い。
明示された範囲で、プルードンのユダヤ人観、というよりユダヤ教観は以下の
ようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,つづいてわたくしが,
われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の
戒律が考えつかれたか,それはいかにして認められたか,それは人民の迎
合にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば,わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから上地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き
返信削除プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」
(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、また高利の金融システムは市井のユダヤ人の
高利貸しによるものというよりも、台頭するフランスのブルジョアジーが結
託した高度なものだった(オートバンクと呼ばれる個人金融業者内において
ユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない)。
彼の反ユダヤ発言が膾炙されているとすれば、フリーメーソンに入信した
親戚(甥)のプルードンと間違えられている可能性が高い。
明示された範囲で、プルードンのユダヤ人観、というよりユダヤ教観は以下の
ようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,つづいてわたくしが,
われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の
戒律が考えつかれたか,それはいかにして認められたか,それは人民の迎
合にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば,わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから土地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き
返信削除プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」
(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、また高利の金融システムは市井のユダヤ人の
高利貸しによるものというよりも、台頭するフランスのブルジョアジーが結
託した高度なものだった(オートバンクと呼ばれる個人金融業者内において
ユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない)。
彼の反ユダヤ発言が膾炙されているとすれば、フリーメーソンに入信した
親戚(甥)のプルードンと間違えられている可能性が高い。
明示された範囲でプルードンのユダヤ人観、というよりそのユダヤ教観を抜き
出すなら、それは以下のようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,つづいてわたくしが,
われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の
戒律が考えつかれたか,それはいかにして認められたか,それは人民の迎
合にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば,わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから土地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き
返信削除プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」
(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、当時のオートバンクと呼ばれる個人金融業者
内においてユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない。
彼の反ユダヤ発言が膾炙されているとすれば、フリーメーソンに入信した
親戚(甥)のプルードンと間違えられている可能性が高い。
明示された範囲でプルードンのユダヤ人観、というよりそのユダヤ教観を紹
介するなら、それは以下のようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,…‥わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(懸賞論文『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから土地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
(以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き)
プルードンはユダヤ教の戒律における平等主義を自らの集合力理論の根拠と
してその言論活動を開始したのだ。
返信削除プルードンがナポレオン三世と会談した際、次のような会話があったと言われている。
ナポレオン三世「いったい君はどのような社会を望んでいるのかね?」
プルードン「私は私が保守主義者としてギロチンにかけられる社会を夢見ています」
(『コンミューンの炬火 -ブランキとプルードン- 』S.モリニエ他 現代思潮社より)
プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、当時のオートバンクと呼ばれる個人金融業者
内においてユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない。
彼の反ユダヤ発言が膾炙されているとすれば、フリーメーソンに入信した
親戚(甥)のプルードンと間違えられている可能性が高い。
明示された範囲でプルードンのユダヤ人観、というよりそのユダヤ教観を紹
介するなら、それは以下のようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,…‥わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(懸賞論文『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから土地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
(以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き)
プルードンはユダヤ教の戒律における平等主義を自らの集合力理論の根拠と
してその言論活動を開始したことになる。
そのものずばり話そう。フランスのような〔大〕国に楯突くことは正気
返信削除な,先見の明ある政策だろうか? イギリスならそうもできよう,しか
し,ドイツにもベルギーにもそれは似つかかしいものではない。ひとはい
う,ローマはイタリア人たちのものだ,と。わたくしは答える,
ちょうど
ナボリがナボリ人たちのものでありバリがパリ人たちのものであるように
ローマはローマ人たちのものだ,イタリア人たちというのは,フランス人
たちと同様に,1つの抽象(une abstraction)であって,真実なのは
フランスという国をもつ政治的一大集団(une grande agglomeration
politique)が現時点に存在しているということである,しかしそうかとい
ってこの事実はアルプスのむこう側にその集団の対応物〔統一イタリア〕
を作り出すための理由では全然ない,まったく反対である,と。
「イタリアにおける連邦と統一(3)」後藤修三中京商学論叢通巻第43号1967年
105頁
そのものずばり話そう。フランスのような〔大〕国に楯突くことは正気
返信削除な,先見の明ある政策だろうか? イギリスならそうもできよう,しか
し,ドイツにもベルギーにもそれは似つかかしいものではない。ひとはい
う,ローマはイタリア人たちのものだ,と。わたくしは答える,
ちょうど
ナボリがナボリ人たちのものでありバリがパリ人たちのものであるように
ローマはローマ人たちのものだ,イタリア人たちというのは,フランス人
たちと同様に,1つの抽象(une abstraction)であって,真実なのは
フランスという国をもつ政治的一大集団(une grande agglomeration
politique)が現時点に存在しているということである,しかしそうかとい
ってこの事実はアルプスのむこう側にその集団の対応物〔統一イタリア〕
を作り出すための理由では全然ない,まったく反対である,と。
「イタリアにおける連邦と統一(3)」後藤修三中京商学論叢通巻第43号1967年
105頁
資料紹介ありがとうございます。
返信削除プルードンの「ユダヤ人」も完成されていたら、こうした呪詛にまみれていたかもしれません。
ただ、プルードンにとってあらゆるネーションが呪詛の対象でした。
「ひとはい
う,ローマはイタリア人たちのものだ,と。わたくしは答える,ちょうど
ナボリがナボリ人たちのものでありバリがパリ人たちのものであるように
ローマはローマ人たちのものだ,イタリア人たちというのは,フランス人
たちと同様に,1つの抽象(une abstraction)であって,真実なのは
フランスという国をもつ政治的一大集団(une grande agglomeration
politique)が現時点に存在しているということである,しかしそうかとい
ってこの事実はアルプスのむこう側にその集団の対応物〔統一イタリア〕
を作り出すための理由では全然ない,まったく反対である,と。」
(「イタリアにおける連邦と統一(3)」後藤修三中京商学論叢通巻第43号1967年 105頁)
返信削除資料紹介ありがとうございます。
プルードンの「ユダヤ人」も完成されていたら、こうした呪詛にまみれていたかもしれません。
ただ、プルードンにとってあらゆるネーションが呪詛の対象でした。
「ひとはい
う,ローマはイタリア人たちのものだ,と。わたくしは答える,ちょうど
ナボリがナボリ人たちのものでありバリがパリ人たちのものであるように
ローマはローマ人たちのものだ,イタリア人たちというのは,フランス人
たちと同様に,1つの抽象(une abstraction)であって,真実なのは
フランスという国をもつ政治的一大集団(une grande agglomeration
politique)が現時点に存在しているということである,しかしそうかとい
ってこの事実はアルプスのむこう側にその集団の対応物〔統一イタリア〕
を作り出すための理由では全然ない,まったく反対である,と。」
(「イタリアにおける連邦と統一(3)」後藤修三「中京商学論叢」通巻第43号1967年 105頁)
プルードンにとってあらゆるネーションが呪詛の対象だった。
返信削除「ひとはい
う,ローマはイタリア人たちのものだ,と。わたくしは答える,ちょうど
ナポリがナポリ人たちのものでありバリがパリ人たちのものであるように
ローマはローマ人たちのものだ,イタリア人たちというのは,フランス人
たちと同様に,1つの抽象(une abstraction)であって,真実なのは
フランスという国をもつ政治的一大集団(une grande agglomeration
politique)が現時点に存在しているということである,しかしそうかとい
ってこの事実はアルプスのむこう側にその集団の対応物〔統一イタリア〕
を作り出すための理由では全然ない,まったく反対である,と。」
(「イタリアにおける連邦と統一(3)」後藤修三「中京商学論叢」通巻第43号1967年 105頁)
「もはや、政治的意味にかける国籍や祖国は存在せず、ただ出生の土地があるだけとなる。人間は、どんな人種に属し、
返信削除どんな皮膚の色をしていようと、現実に、この普遍的世界の土着の住民であり、彼はどこででも市民権を手に入れ
る。自治体がその区域の境界内で国を代表し、その権限を行使するのと同じく、地球上の各国民はそれぞれ人類を
代表し、自然がこの国民に割り当てた境界内で、人類を代表して活動する。外交も、会談もなしに、諸国民のあい
だでは調和が支配する。以後、何ものもこの調和を乱すことはできないであろう。」
(『十九世紀における革命の一般理念』第七研究 三一書房303頁)
返信削除日本ではヘーゲル弁証法の弊害は指摘する必要がないかのように見える。
ヘーゲル自体が読まれておらず、その影響力自体が小さいからだ。
(ただしコジェーヴ経由でその影響は無意識裡に広がっている)
ただ世界的にはヘーゲルの論理は警戒されるべきだ。
柄谷が近著『帝国の構造』をヘーゲルと批判から始めたように。
個人的にはソクラテスの問答法あたりに遡行すべきだとは思う。
ヘーゲルの弁証法はトリアーデのフラクタル的適用で、プロクロス、
ダンテを始祖とする詩的なものだ
ヘーゲルという固有名は非合理なものを引き受ける形で拡大解釈され、
(ボルツァーノなどによる)合理的な批判は無効だ、という形でその影響は存続する。
以下の認識が今も正しい。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな
二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫
引きされている。
ドゥルーズの弱点は、弁証法に対抗した系列の哲学の実践者であるプルードンを
知らなかったことだった。
以下のプルードン経済学草稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機会」といった用語の使用法を想起させる。
返信削除普通は帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げるのはそれほど突飛なことではない。
『鹿児島県立短大紀要』第43号,1992年12月15日
プルードンの未発表手編『経済学』について
斉藤悦則
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたのである」37)。
37)Mss.2863, no.72.
オプマンは1971年に事故死したが,その少し前,プルードンの手稿群は家族からプルードンの生地ブザンソンの市立図書館に寄贈されている。Fonds Proudhonとしてそこに保管されている大量の手稿群のうち,『経済学』の束は当初 Pr-43 という番号であったが,1984年ようやく図書館員による整理が完了し,あらたに付された番号はMss. 2863~2867である。
以下のプルードン経済学草稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機会」
返信削除といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」37)。
37)Mss.2863, no.72.
オプマンは1971年に事故死したが,その少し前,プルードンの手稿群は家族からプルードンの生地ブザンソンの市立図書館に寄贈されている。Fonds Proudhonとしてそこに保管されている大量の手稿群のうち,『経済学』の束は当初 Pr-43 という番号であったが,1984年ようやく図書館員による整理が完了し,あらたに付された番号はMss. 2863~2867である。
返信削除以下のプルードン経済学草稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」37)。
返信削除以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」37)。
弁証法に対して、フーリエを源流の一つとする系列の思考があるのだ。
カントを現代的にしているのも系列の思考と言える。
返信削除https://mobile.twitter.com/de_la_misere/tweets
プルードンというとマルクス、ということになりますが、実はワーグナーは
プルードンで政治に開眼します。ドレスデン宮廷指揮者のポジションを捨て、亡命するのも、プルードンが原因のひとつ。もちろん借金もあったのですがw そのプルードンの主著が初めて平凡社ライブラリーより全訳!!
RT @Chisaka_Kyoji: アナキズムでは、グラムシ的陣地戦に対応するのはプルードンのアソシエーション論であり、レーニン的機動戦に対応するのはバクーニンの党的結社論と総破壊論になろう。
返信削除kysnkst(Give peace a chance)10月16日 20時39分
宇野重規責任編集『岩波講座 政治哲学3 近代の変容』(岩波書店)を読む。いずれ劣らぬ力のこもった論考揃いだが、現在の自分の関心からすると、ベンサム小畑、堤林コンスタン、高山トクヴィル、森プルードン、宇野プラグマティズム、田中連帯の思想、山本社会民主主義あたりが興味深かった。
返信削除mruzumakineko(Toshihiko Koike)10月16日 18時47分
「あのいまいましい少年ラファルグは、彼のプルードン主義で僕を悩ませている。僕がこの混血児の脳天に徹底的な一撃をくわえないかぎり、彼はおとなしくはならないだろう」(マルクスから娘ラウラへ、1866年3月20日、全集31巻)
返信削除P_Lafargue(「怠ける権利」bot)10月16日 1時43分
彼の注意は、当時最も重要で最も流布していた社会主義学説のプルードン主義に主として向けられた。そしてプルードンの「哲学の貧困」が世に出る以前にエンゲルスは既に仮借のない苛烈さと驚くべき深遠さとをもってプルードンの根本思想を批判している(『マルクスとエンゲルスの往復書簡』レーニン)
返信削除Engels_bot(Engels_bot)10月13日 8時17分
作田の図は資本が悪、かつつなぎ目になっている
返信削除柄谷の図と位置が違う
Perhaps we should be referring to Proudhon as the father of sociology: thinking through Mauss and Durkheim | Fieldnotes & Footnotes
返信削除https://fieldnotesandfootnotes.wordpress.com/2011/11/03/mauss-durkheim-and-perhaps-we-should-be-referring-to-proudhon-as-the-father-of-sociology/
From Mauss to Durkheim – while the latter was certainly no mutualist I’m almost-very-near-sure that he was influenced by Proudhon’s political sociology. To illustrate, in part, how or why I have come to this conclusion I have typed up a few excerpts from a paper by Aaron Nolan (1967, ‘Pierre Joseph Proudhon: Socialist as Social Scientist (in) American Journal of Economics and Sociology, Vol. 26, No. 3).
While these are about Proudhon one could almost be mistaken in thinking the author is writing of Durkheim:
‘The problem, in Proudhon’s view, was not to formulate a constitution for the social order on the basis of logic, or common sense, or personal wishes, or on the basis of generous sentiments such as fraternity or charity. The essence of the matter was not to legislate into existence the true order of society but to discover what are – and, indeed, have always been – the fundamental principles and processes that wereorganique, regulateur and souverain (see Proudhon 1858, ‘Justice in the Revolution and the Church’)’ (Nolan 1967, p. 317).
As society was, in Proudhon’s definition, “the sum total of human relationships”, the point of departure for an investigation into the nature of the social order must be man himself (see Proudhon 1840, ‘What is Property: An enquiry into the Principle and Right of Government’). But society was not just the sum total of individuals composing it in his mind:
‘It was an entity sui generis, possessing characteristics and sources of energy that were quite distinct from those of an individual; and yet a society was just as real, just as much a vital entity as a human being. A society was “a living being, endowed with an intelligence and activity appropriate to itself, governed by special laws that observation alone can discover and whose existence is manifested not in a physical form, but through the intimate, coordinated solidarity of all its members”. To use Proudhon’s metaphors, society was “un homme collectif, une personne collective,” and “intelligence, spontaneity, development, and life – all that constitutes in the highest degree the reality of the being – are all essential to society as to man” (see Proudhon 1846, ‘System of Economic Contradictions’) (Nolan 1967, p. 319).
返信削除Proudhon characterised society as an organism in many of his works, which is seen as a hallmark of Durkheim’s approach. When I read and cross-checked the following I was almost-convinced-once-and-for-all that Proudhon was a source of inspiration and influence for Durkheim and his sociological approach:
‘The creation of society altered the existential status of man and determined the line of his development by bringing into being new forms of energy, energies which Proudhon called collective force (force collective), ‘collective reason’ (raison collective), and ‘collective conscience’ (conscience collective). An examination of these notions takes us to the heart of Proudhon’s sociology’ (Noland, A 1967, p. 319).
As you can probably guess – for Proudhon the key variable that determines the line of development is the division of labor. This is, once again, something closely associated with Durkheim’s approach. Finally, last excerpt – which again, is about Proudhon but could very well be written of Durkheim:
‘When work became, with the creation of society, collective in character, the principle of the division of labor [..] came into operation. This development, in turn, was an important determinant in the structuring of society. To Proudhon, the division of labor was itself “founded on the speciality of vocations” (specialite des vocation), and its operation in society tended to promote the increasingly greater dependency of individuals upon one another and thus to make the intricate web of human relations ever more complication’ (Nolan 1967, p. 321).
デュルケムはプルードンに言及しているがモースは?
返信削除http://shikigami.net/gifteconomyPart2_japanese.html
伝統的なギフト経済には3つの義務があるとMarcel Maussは言う。「与える義務、受け取る義務、お返しをする義務」[Hyde] 僕達はみんな、僕達の美しい惑星の生命に、独自の貢献を出来るような形のギフトを貰っている。その義務を怠らないように僕達のギフトを気前よく差し出さなければならない。自分が愛することをせず、「お金のために」しなければいけないんじゃないかということをやることは、義務を怠るということになる。不適切な行動を起こすとギフト社会は壊れる。生き残ることへの不安を乗り越えること、貨幣化された保証の幻影を捨てること、そしてギフトをすべての生命の健康のために十分に捧げることがギフト社会へ戻る道となる。(お金は全く必要ないとは言わないが、自分の愛することをやってギフトを差し出せば、必要なお金は入ってくる。)
プルードン・セレクション
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ibooks化された
プルードン「マルクスへの手紙」一八四六年五月一七日
もしよければ、社会の諸法則やこれらの法則が実現される様式、われわれがそれにそって諸法則を発見するにいたる進歩を一緒に探究したいものです。しかし、あらゆる先験的独断論をしりぞけたあとで、こんどはわれわれが人民を自分の教義に従わせようなどとは決して考えないでおきましょう。カトリック神学を転覆した直後に、破門と呪詛を多用してプロテスタント神学をうちたてはじめたお国のマルチン・ルターのような矛盾に陥らないようにしましょう。ここ三百年というもの、ドイツはルターの塗り替えた漆喰を破壊することだけに専心させられてきたのです。新たな混乱によって人類に新たな仕事を課するようなことはやめましょう。私は、すべての意見を公にするというあなたの考えに心から拍手を送ります。われわれは実り多い真面目な論争をやりましょう。賢明で先見の明に満ちた寛容の模範を世界に示しましょう。しかしわれわれは一つの運動の先頭に立っているのですから、新たな不寛容の頭目になったり、新しい宗教の使徒を自任したりしないでおきましょう。たとえそれが論理の宗教や理性の宗教であったとしても、です。あらゆる異議を歓迎し、奨励しましょう。すべての排他性や神秘主義を払拭しましょう。いかなる問題でも決して解明され尽くした問題とは見なさないようにしましょう。そしてわれわれがとことんまで議論を尽くしたあとでも、もし必要なら、雄弁と皮肉でもってもう一度議論をやりはじめましょう。この条件でなら私は喜んであなたの同盟に加わりましょう。だが、もしそうでないのならおことわりします。
私はまた、あなたの手紙のなかの「行動の時には」というくだりについて、いくつかの見解を述べておかねばなりません。いかなる改革も、実力行使なしには、すなわち、かつては革命と呼ばれていたが、せいぜいのところ動乱でしかないものの助けなしには、実際には不可能だという考えを、たぶんあなたはまだ持っておられるようです。私自身この考えを長いあいだ持ち続けてきたわけですから、この考えを理解していますし、喜んで議論するつもりですが、私はごく最近の研究によってこの見解を完全に放棄したことを告白しておきます。それはわれわれが成功するために必要なものではないと思います。つまり、革命的行動を社会改革の手段と見なしてはならないのです。なぜなら、この手段なるものはたんに力や専制への呼びかけ、要するに矛盾にすぎないからです。だから私は問題をつぎのように立てましょう。すなわち「ある経済組織によって社会から取り上げられた富を、別の経済組織によって社会に返還すること」です。いいかえれば、われわれは経済学において、あなたがたドイツの社会主義者が共産主義と呼んでいるもの──私はさしあたりそれを自由とか平等とかと呼ぶだけにしておきますが──を作り出すことを通じて、所有の理論を所有に対抗させねばならないのです。ところで、私はこの問題を近いうちに解決する方法を知ることができると思っています。つまり、私は、所有者にたいして聖バルテルミーの虐殺を行って所有に新しい力を与えるよりもむしろ、所有をとろ火で焼き上げることを選ぶものです。
(「マルクスへの手紙」一八四六年五月一七日)
https://itunes.apple.com/jp/book/purudon-serekushon/id1038315012?mt=11
プルードン・セレクション
ピエール=ジョゼフプルードン, 阪上孝 & 河野健二
カテゴリ: 哲学/思想
2015.09.01
電子書籍化
返信削除1863~5
http://blog.goo.ne.jp/sekiseima/e/a863e997550323e25014394ead35d777
第一に、“マルクス経済学者”が理解しなければならないのは、「古典派経済学の欠陥はここではただ次の点にあるだけである。すなわち、第一には、このようなより多くの生きている労働とより少ない対象化された労働(貨幣のこと)との交換が、どのようにして商品交換の法則に、つまり労働時間による商品価値の規定に、合致するのかということを論証することができなかったということであり、したがってまた、第二には、流通過程における一定量の対象化された労働(貨幣のこと)と労働能力との交換と、生産過程で行われるところの生産手段の姿で存在する対象化された労働による生きている労働の吸収とを、直接に混同していることである。可変資本と労働能力との交換過程を、古典派経済学は不変資本による生きている労働の吸収過程(価値増殖過程のこと)と混同しているのである。」(1863~5『直接的生産過程の諸結果』、国民文庫、P62)というマルクスの言葉である。
同じ『直接的生産過程の諸結果』にはマルクスはプルードンについて次のように述べている。
「プルードンを困惑させるのも、やはりこれ(労働の生産性の増大は個々の商品の価格を低下させるにもかかわらず全体の剰余価値量は増大すること)に似たパズルである。というのは、彼はただ個々の独立な商品の価格を見るだけで、総資本の生産物としての商品を見ず、したがってまた、総生産物がその各個の成分の価格によって概念的に分けられる割合を考察しないからである。
「商品の価格を構成するために、商業において労働者の賃金に資本の利子(これは剰余価値中の特別に命名された一部分でしかない)がつけ加えられるので、労働者が自分の生産したものを買いもどしうるということはありえない。労働によって生活するということは、利子制度のもとでは、矛盾を含んでいる原則である。」(『信用の無償性。フレデリック・バスティア氏とプルードン氏との論争』、パリ、1850年、P105) *
プルードンは貨幣という商品に絞って改善策を出した。マルクスは利子の問題をそこまで深刻に捉えていない。地代の方を重視している。
*
Gratuité du crédit - Quatorzième lettre - Frédéric Bastiat à P. J. Proudhon
http://bastiat.org/fr/lettre14.html
GRATUITÉ DU CRÉDIT - QUATORZIÈME LETTRE - FRÉDÉRIC BASTIATÀ PJ PROUDHON
bastiat.org/fr/lettre14.html
7 mars 1850. La cause est entendue et le débat est clos, dit M. Proudhon, de partie se faisant juge. M. Bastiat est ... Il avait compromis la cause du crédit gratuit , voici que le pouvoir la relève en la plaçant sur le piédestal de la persécution.
SEPTIÈME LETTRE. P. J. PROUDHON À F. BASTIAT.
17 décembre 1849.
…
Il est impossible, dis-je, que, l’intérêt du capital s’ajoutant, dans le commerce, au salaire de l’ouvrier pour composer le prix de la marchandise, l’ouvrier puisse racheter ce qu’il a lui-même produit. Vivre en travaillant est un principe qui, sous le régime de l’intérêt, implique contradiction. La société une fois
(資本論第一部草稿 直接的生産過程の諸結果 、光文社古典新訳文庫解説421頁~で)
返信削除プルードンが総生産を無視しているというのは間違いだ。マルクスが引用した箇所のすぐ後でプルードンはフランスの労働者の日当の年間総量を二千億と仮定している。さらに要素として「所有権」「利子」「地代」等を挙げている(『プルードン3 所有とは何か』三一書房208頁)。
プルードンは集合力を重視する。だから剰余価値もそこから生まれるし、換算されるのは当然だ。
所有権に不変資本は入るだろう。
だから労働者は自分が生産した分全てを買い戻せないというのは間違いではない。そもそも引用が恣意的だ。
訳者は解説で草稿集邦訳2の説明を図入りで再現するが、プルードンの真意を理解していない。
ちなみに先述したように資本論1フランス語版1872にはプルードンの名前が一つもない。マルクスが削除した。
マルクスはプルードンからアイデアを得て1850年以降勉強してリカード流価値論で体裁を整えたにすぎない。アイデアを得てその後で隠蔽したのだ。
その再生産表式はレオンチェフ、より本質的にはカレツキによる読解を待つ必要があった。
再生産表式発見の陰にいたプルードン
返信削除**
(光文社新訳解説421頁~で)
プルードンが総生産を無視しているというのは間違いだ。マルクスが引用した箇所のすぐ後でプルードンはフランスの労働者の日当の年間総量を二千億フランと仮定している。さらに要素として「所有権」「利子」「地代」等を挙げている(『プルードン3 所有とは何か』三一書房208頁)。
プルードンは集合力を重視する。だから剰余価値もそこから生まれるし、剰余価値内に生産した分が換算されるのは当然だ。
所有権に不変資本は入るだろう。
だから労働者は自分が生産した分全てを買い戻せないというのは間違いではない。そもそも引用が恣意的だ。
訳者は解説で草稿集邦訳2(大月書店)の説明を図入りで再現するが、プルードンの真意を理解していない。
ちなみに資本論第一部フランス語版(1872年)にはプルードンの名前が一つもない。マルクスが削除した。
マルクスはプルードンからアイデアを得て1850年以降経済学を勉強してリカード流価値論で体裁を整えたにすぎない。アイデアを得てその後で隠蔽したのだ。
その再生産表式はレオンチェフ、より本質的にはカレツキによる読解を待つ必要があった。
返信削除追記:坂本龍馬とプルードンを比較したことがある。
「坂本龍馬とプルードン」
http://plaza.rakuten.co.jp/yojiseki/diary/200408110000/
プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳ほど若いが、彼らは同じ「敵」と戦った。
それは具体的にはナポレオン三世という名前で指し示され得る国内外の植民地主義と言えるだろう。当時ナポレオン三世のフランスは小栗らの幕府に軍艦を貸して、薩摩、長州と戦わせようとしていた。この計画が実行されれば、龍馬が画策した維新もなかったといわれている(日仏借款に関しては、日本側にそれほど危険はなかったという説もあるが、フランスのアジアの他地域における植民地政策を見ればそうは断言できない)。またナポレオン三世は、フランスではプルードンの社会革命を封じ込めようとしていた。
ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な経済取り引きにもとづく平等を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに政治革命ではなく、(自主管理を原則とする)社会革命を志向していたということである*。
プルードンと坂本龍馬、両者の連合の理論は共に経済的裏付けのあるものだ。
龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわれるが、そうした「法にもとづく平等(龍馬の用語でいえば「ナラシ」**)」も両者に共通した指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画していたという。海援隊が情報集団として再評価される所以である)***。
プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬も、剣=武力に頼った改革からはひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの相互主義と一致していると言える。
プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との同時代性を指し示すものだ。ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だったことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍の基礎ともいわれるが、同時にその商業のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に作った、海援隊の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。
思想的に龍馬がアナーキストだとは言えないが、龍馬が、トランスバーサルな指向を持っていたことと、『老子』を読んでいた形跡を考えると(龍馬は手紙で一度、老子を連想させる「自然堂」を号している。また、今日では『老子』はアナーキズムの源泉としてとらえられる)、プルードンと龍馬には同じアナーキーと言ってもよいような行動と思想を見出せる。両者の主要な思想は、その手紙からうかがえるというのも相互主義的な観点から見て興味深い共通点である。
今日、江戸の環境の視点からの見直しがすすんでいるが、龍馬の業績と33年の生涯(龍馬はプルードンの死の二年後の1867年に亡くなった)を振り返ったあとで見えてくるものは大きいに違いない。
追記(2009/12/15):
*
両者の目指したものは産業的民主主義とも言っていい。
**
黒鉄ヒロシの曾祖母が「均しの時代が来るぜよ」という龍馬の言葉を聞いている。
***
龍馬は韓非子の講義を聴いていたことがある。ろくに聞いていないのにそれはおかしいと講師の間違いを正確に指摘したと言う証言がある。ちなみに韓非子は老子に対して肯定的で、『韓非子』には老子に関する考察が多々見られる。
返信削除青木の他者論の251頁にプルードンに批判的な記述があったのでひと言。
基本的にプルードンは銀行を作ろうとした。それは共同体なき共同性の模索である。
プルードンが凡庸だとしたら今日の我々も凡庸だし今なおそこから始めるほかはない。
所有とは盗みだという言葉が誤解を生んでいるが、プルードンはほとんど近代経済学の
創始に位置する。マルクスもワルラスもプルードンを価格論的に批判することがその
経済学の出発点だった。プルードンの結論は所有とは不可能だということで
あり、再生産のためには自分達の銀行が必要だというものだ。
柄谷のNAMもプルードンの原理だがマルクスの看板で始めてしまった。
そこが間違いだった。ゲンロン4の浅田彰もわかっていない。
ドゥルーズもプルードンを知らなかった。
ベンヤミンもラカンもサルトルもプルードンに言及しているのに。
ケインズも薄々気づいていた。わかっていたのはゲゼルだけだ。
返信削除http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済の諸観念はたがいに絡み合い,浸透しあい,相互に規定しあっている。[…]したがって,出発点は労働か資本か,信用か価値か,交換か所有か,そんなことは理論を確かなものにし証明をクリアなものにする上で,どうでもよいことなのである。形而上学と同様,経済学においても,諸観念は他との関係でいずれが最初で,いずれが最後かというものではない。それらはすべて同時のものであり,ただ叙述上の都合で発生論的な外観を呈するにすぎない」34)。
新たな方法論とは何か。それは「定義」から出発しないということである。あるいは,とりあえず経済の諸観念は定義不能であるとの断言から出発することである。しかし,この新たな方法論の意義がどういうものであるのかを知るためにも,われわれはプルードンにおけるこうした転換が何を契機としたものであるかを確認しておきたい。
転換にとって決定的だったのは,52年と53年に出たコクラン編の『政治経済学辞典』35)である。プルードンはその4千項目を読み,読書ノートをつけ,「なかなか有益な考え方や貴重な教訓が含まれている」としながら,結論としては「しかし,科学は一歩も前進していない」36)と断ずる。そして,次のように述べる。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたのである」37)。
では,なぜその方がよいと考えたのであろうか。通常の,あるいは彼自身のそれまでのスタイルではどこが不都合なのであろうか。方法論の転換で彼は何を明らかにしようとしたのであろうか。プルードンはこう答える。
「二つ,あるいはそれ以上の異なる定義が付与されうる理念・事物・関係,これを私は定義不能のものと呼ぶ。[…]
変動し変化することを本性とし,さまざまの異なる視点,ときには相対立する視点から眺めることなしには完壁な理解は得られず,その神髄は系列的に追跡可能でありながら単一の定義ではつかまえることができない,そういう理念・事物・関係を私は定義不能のものと名づけるのである。[…]
こうした事物・関係・理念の十全かつ明瞭な理解にいたる第一条件は,したがって,その定義不能性を認めることである。この基本条件を抜きにしたのでは,ものごとの認識は外面の混沌のなかにおちこむしかなく,それらの間の関連や法則や体系を理性的に把握することはできない」38)。
こうしてプルードンにおける方法論転換の根拠が明らかとなった。それは「動くもの」を「動くもの」としてとらえるための転換であった。科学的であろうとして「定義」から出発しても,現実は定義づけられた瞬間にするりと身をかわしてしまう。それならば,むしろ初めから定義不能と観念して,可能なかぎり多元的な視点から眺めつつ,たしかな手ごたえのあるものをつかんでいくことの方がリアルな理解に近づけるといえよう。そして,手ごたえのたしかさを保証する装置としてプルードンは「公理」を位置づける。
ともかく,プルードンはここで彼本来の志向である「運動の理論」をさらに高度化させたことになる。このモチーフはいったん希薄化したように見えたけれども,『政治経済学辞典』を媒介としてふたたぴ姿をあらわしたのである。そして,もう一つのモチーフである「集合存在の理論」もこの手稿�の第2部第五編「社会集団」で登場する。したがって,まさしくこの手稿�こそ50年代前半のプルードン「経済学」構築の営みを総括するにふさわしい著作となる予定のものだったのである39)。
それでは,なぜこれほど重要な作業が公表されないままとなったのか。それが最後に残った問題である。これに対して,われわれはまた十分説得力のある説明をすることができない。繊密かつ膨大なプルードン伝記を書いたオプマンによる説明も,これに関してはきわめて貧弱である。すなわち,彼によれば,『経済学』の出版が予定されていた1855年の5月,ミルクールなる人物が誤謬と中傷にみちたプルードン伝記を発表し,これに大いに憤ったプルードンは反駁を準備し,それが後の大著『革命と教会における正義』(1858年)につながった。そのおかげで『経済学』はとうとう世に出ることがなかったというのである40)。
しかし,われわれは1855年以降に出されたプルードンの著作のなかに,この『経済学』で展開されたことがらの再現を見ることができない。なぜ彼がその後,経済学の体系構築をあきらめたのか,それはいぜんとして謎のままである。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
34)Mss.2863, no.86.
35)主だった執筆者の名前を列挙すれば,バスティア,ブランキ,シュルビュリエ,ミシェル・シュヴアリエ,デュノワイエ,ガルニエ,モリナリ,レオン・セイなど,当時一流の陣容である。
36)Mss.2863, no.10.
37)Mss.2863, no.72.
38)Mss.2863, no.71.
39)オプマンはわれわれと別の意味で『経済学』は『経済的諸矛盾の体系』の「結論」であったと述べているが,この言葉自体はまったくそのとおりである。Haubtmann,op・cit. p.127.
40)ibid. p-261.
(平成4年7月15日受理)
2001年10月25日にHTML文書化
『鹿児島県立短大紀要』第43号,1992年12月15日
返信削除プルードンの未発表手編『経済学』について 斉藤悦則
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済の諸観念はたがいに絡み合い,浸透しあい,相互に規定しあっている。[…]したがって,
出発点は労働か資本か,信用か価値か,交換か所有か,そんなことは理論を確かなものにし証明を
クリアなものにする上で,どうでもよいことなのである。形而上学と同様,経済学においても,諸
観念は他との関係でいずれが最初で,いずれが最後かというものではない。それらはすべて同時の
ものであり,ただ叙述上の都合で発生論的な外観を呈するにすぎない」34)。
新たな方法論とは何か。それは「定義」から出発しないということである。あるいは,とりあえず
経済の諸観念は定義不能であるとの断言から出発することである。しかし,この新たな方法論の意義が
どういうものであるのかを知るためにも,われわれはプルードンにおけるこうした転換が何を契機とし
たものであるかを確認しておきたい。
転換にとって決定的だったのは,52年と53年に出たコクラン編の『政治経済学辞典』35)である。
プルードンはその4千項目を読み,読書ノートをつけ,「なかなか有益な考え方や貴重な教訓が含まれ
ている」としながら,結論としては「しかし,科学は一歩も前進していない」36)と断ずる。そして,
次のように述べる。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義され
た諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えた
のである」37)。
都市と思想家〈1〉 (叢書・現代の社会科学) 単行本 – 1996/7
返信削除石塚 正英 (編集), 的場 昭弘 (編集), 柴田 隆行 (編集), & 1 その他
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プルードン『所有とは何か』より
返信削除«Supprimez la propriété en conservant la possession; et, par cette seule modification dans le principe, vous
changerez tout dans les lois, le gouvernement, l'économie, les institutions : vous chassez le mal de la terre. »
《Suppress property while maintaining possession, and, by this simple modification of the principle,
you will revolutionize law, government, economy, and institutions; you will drive evil from the face of the earth.》
《所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、政治、経済、
諸制度の一切を変えるだろう。諸君は地上の悪を除きさるのだ》
《所有を維持し乍ら財産を抑圧せよ。そして、此単純なる原理の變換に依り、諸君は法律、政治、経済
及び組織を革命し、地表から害悪を一掃するのである。》
《诸位先生,保全所持而除所有,仅靠这种修正就可以改変法律、政治、経済和一切制度。
就可以消除地上的所有罪悪。》
参照:
Qu'est-ce que la propriété?: Premier mémoire: Recherches sur le principe du ... - Pierre-Joseph Proudhon
http://books.google.co.jp/books?id=iWbn2Jy6czAC&pg=PA223
What is Property?, by P. J. Proudhon (1840) 5:2:3:1
http://www.gutenberg.org/files/360/360-h/360-h.htm#noteref-35
『所有とは何か』「ブルードン」長谷川進・江口幹訳、三一書房299頁(改訳)
柄谷行人『トランスクリティーク』現代文庫247頁、定本254頁
Transcritique: On Kant and Marx: Kojin Karatani, Sabu Kohso p.167(直接引用をしていない)
http://books.google.co.jp/books?id=mR1HIJVoy6wC&pg=PA167&lpg=PA167
『財産とは何ぞや』(新明正道訳、405頁、大正十年、1921年、発禁)
『跨越性批判一康德与马克思』中央编译出版社出版 127頁(『什么是所有权』蒲鲁东)
http://book.douban.com/subject/5920564/ 中国語版は内山書店で購入可能
返信削除弁証法の優先権〜Table of Dühring "Cursus der Philosophie als strengwissenschaftlicher Weltanschauung und Lebensgestaltung"1875 デュ ー リング 再考
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_3.html
NAMs出版プロジェクト: デューリング批判的歴史1871メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2017/10/inhalt.html@
1871『国民経済学および社会主義の批判的歴史(Kritische Geschichte der Nationalökonomie und des Socialismus)』(第二版1875)
“Rechtsbegriffe und Gerechtigkeit in derVolkswirthschaft.”
Dühring、Eugen. Sechster Abschnitt.“Kritische Grundlegung der Volkswirthschaftslehre.”
主に#6にプルードンへの言及があるが、エンゲルス、マルクスは無視している。
デューリングはプルードンの弁証法批判という重要な箇所を指摘している。
Proudhon bekennt, dass er durch die von ihm nun als irrthümlich bezeichnete Hegel'sche Dialektik früher verleitet worden sei, an die Bildung einer höheren Formation zu glauben. Indessen habe er nun erkannt, dass es sich in der Realität des Daseins nicht um aufzulösende logische Widersprüche, sondern um wirkliche »Balancen« handle. Die gegenseitige Gravitation der in entgegengesetzter Richtung wirkenden beiden Kräfte, von denen die eine das egoistische Eigenthum, die andere die comrau-. nistische Beschränkung desselben anstrebe, könne niemals aufhören und in einem höheren Gebilde aufgehen, da sonst das Motiv alles lebendigen Lebens fortfallen würde. Diese Emancipation Proudhons von der Hegel'schen Dialektik und diese Annäherung an den Gedanken des Gleichgewichts oder des statischen Verhaltens der Kräfte ist sehr verdienstlich.
Google 翻訳
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja?sl=de&tl=ja&u=http%3A//nam-students.blogspot.jp/2017/10/inhalt.html
Proudhonは、以前は彼が誤って指定したHegelian弁証法によって、より高い地層の形成を信じるように誘惑されたと自白している。 しかし、彼は現在、存在の現実は論理的な矛盾を解決する問題ではなく、実際の「バランス」の問題であることを認識しました。 反対方向に作用する2つの力の相互重力、そのうちの1つは自我主義的性質であり、もう1つは仲間である。 すべての生命の原動力が落ちるので、より高い構造で決して立ち上がることはできません。 このProudhonのHegelian弁証法の解放と、この力の平衡または静的な行動の考え方へのこのアプローチは非常に功績がある。
...
Proudhon
返信削除@proudhonbot
宗教における神、政治における国家、経済における所有、これこそ人類がそれによって自分自身にたいし他人になり、たえずみずからの手で自己を引き裂きつづけてきた三つの形態である。
午後5:15 · 2018年1月4日
1件のリツイート
国家 神
返信削除所有
政治宗教
経済
カテゴリーミステイクをしないために
経済と国家はレベル違い
返信削除所有と国家が正しい
上三つは歴史が浅い
返信削除Proudhon (@proudhonbot)
返信削除2018/01/17 13:15
権威の政府に対する関係は、思想が言葉、理念が事実、魂が肉体に対する関係と同一である。政府が実際上の権威であるように、権威は原理上の政府である。どちらかを廃止することは、もし廃止が真実のものであれば、両者を同時に破壊することを意味する。
プルードン『貧困の哲学』 (@de_la_misere)
2018/01/17 8:19
まず独占者がコストや利潤や利子で損得を計算し、賃金生活者=消費者はそのあとで自分たちの分を計算する。そのとき、賃金生活者は労働の契約で100もらう約束だったのに、じっさいには75しかもらっていないことに気づく。したがって、独占者は賃金生活者を破産においこむ。(『貧困の哲学』第6章)
Proudhon (@proudhonbot)
返信削除2018/01/17 7:15
私もまた、いわゆる政府なるものによってかえって秩序を乱している人々と同じ程度に、いや彼らより以上に秩序を欲する。だが私は自分の自由意志の結果として、私の労働の条件、さらに私の理性の法則として、秩序を欲するのである。
Proudhon (@proudhonbot)
返信削除2018/03/15 21:45
諸氏よ、宗教を復興するためには、教会を糾弾しなければなりません。
地域通貨花子1 (@TiikituukaHana)
2018/03/15 22:23
昔ケビン・コスナーあたりが愛国者は政府を批判しなければならない、と言っていた twitter.com/proudhonbot/st…
T
(マルクス、リンク:::::::::)
返信削除ラウル・ペック監督 映画『マルクス・エンゲルス』予告編
http://nam-students.blogspot.jp/2018/04/blog-post_24.html
"Der junge Karl Marx", im Original <>
プルードンが出てくる
クールベも出てくる
中央はバクーニン
https://www.iwanami-hall.com/movie/%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%82%af%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%82%b2%e3%83%ab%e3%82%b9
the young karl marx 2017 full movie
https://youtu.be/GtJnbJ_TfGk?t=22m
映画『マルクス・エンゲルス』予告編
https://youtu.be/6t5on9lZOJw
映画『マルクス・エンゲルス』英語題THE YOUNG KARL MARX、
独語題 Der junge Karl Marx
仏語原題 LE JEUNE KARL MARX
2016,2017年
1842年の入会権(後述*)の問題及び1843年から2月革命直前、1848年『共産主義者宣言』出版までが描かれる
1847年11月にヴァイトリングの正義者同盟(義人同盟)を主人公たちが「クーデター」でひっくり返す
ところがクライマックスだが
文化大革命のプロトタイプにしか見えない
大笑いすべきシーンだろう
(マルクスは唯物論と抽象力で仲間を論破するのだがこの両者は時に矛盾する)
劇中のヴァイトリングによるマルクスの批判的批判への批判への批判は的を射ている
何も残らないで矛盾だけが浮かび上がるのだ
評価すべきはプルードンを描いているところ
(黒沢清映画『ダゲレオタイプの女』に出ていた役者オリヴィエ・グルメ
Olivier Gourmetが演じている)
マルクス=プルードンの往復書簡がセリフに生かされている
英仏独語が飛び交うのを日本人なら客観的に見れるだろうが
ケン・ローチの影響を受けたハイチ出身の監督の切実さには敵わない
クールベとそのアトリエも少し描かれる
この映画でマルクスよりエンゲルスが魅力的なのは父親との確執が描かれているからだ
マルクスのユダヤ人由来はセリフで語られるだけだ
ラストタイトルロール前半でライクアローリングストーンが流れるがこの映画には合っていない
ディランのこの曲は思想的にはマルクス主義ではなくアナーキズムを体現しているからだ
(ちなみに自身のユダヤ出自にもディランは1980年代にインフイディルスで向き合っている)
岩波ホールのパンフレットに採録シナリオは入っていない
ヤング柄谷で今からシナリオを書いておこうか
*
参考:
柳田国男の「郷土研究」論 田中礼子
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/27169/2/h25zeo3.pdf 35頁~
「婦女幼若衰老の家々に於て、曾て辛うじて其家業を保持せんとした力は、同時に二つの側面から段々に狭められることになつた。田植え稲扱の日にも手間返しが出来ず、所謂落穂拾ひの余得が許されなくなると、後家などの生計は浅ましいものになり勝ちで、以前は恥を包んで幽かな生存を繋ぐ為に、唯一つの隠れ家は山林であつた。凶年には村を挙げて野山の物を求めた如く、この稍鷹揚なる入会権の利用が、多くの古田の村を支へて居た力は大であつた。」 『都市と農村』文庫全集29:493頁
山林の権利が売買される等、そのために入会権を享受できない農民が多数輩出された。彼によれば、内務省による部落有林野統一政策は、「其最後の一段落であつた」(#1農村「日本農民史」文庫全集29:255頁)。
映画『マルクス・エンゲルス』予告編
返信削除https://youtu.be/6t5on9lZOJw
映画『マルクス・エンゲルス』英語題THE YOUNG KARL MARX、
独語題 Der junge Karl Marx
仏語原題 LE JEUNE KARL MARX
1842年の入会権の問題及び1843年から2月革命直前、1848年『共産主義者宣言』
出版までが描かれる
1847年11月にヴァイトリングの正義者同盟(義人同盟)を主人公たちが「クーデター」でひっくり
返す
ところがクライマックスだが
文化大革命のプロトタイプにしか見えない
大笑いすべきシーンだろう
(マルクスは唯物論と抽象力で仲間を論破するのだがこの両者は時に矛盾する)
劇中のヴァイトリングによるマルクスの批判的批判への批判への批判は的を射ている
何も残らないで矛盾だけが浮かび上がるのだ
評価すべきはプルードンを描いているところ
(黒沢清映画『ダゲレオタイプの女』に出ていた役者オリヴィエ・グルメ
Olivier Gourmetが演じている)
マルクス=プルードンの往復書簡がセリフに生かされている
英仏独語が飛び交うのを日本人なら客観的に見れるだろうが
ケン・ローチの影響を受けたハイチ出身の監督の切実さには敵わない
クールベとそのアトリエも少し描かれる
この映画でマルクスよりエンゲルスが魅力的なのは父親との確執が描かれているからだ
マルクスのユダヤ人由来はセリフで語られるだけだ
ラストタイトルロール前半でライクアローリングストーンが流れるがこの映画には合っていない
ディランのこの曲は思想的にはマルクス主義ではなくアナーキズムを体現しているからだ
岩波ホールのパンフレットに採録シナリオは入っていない
「怠ける権利」bot (@P_Lafargue)
返信削除2018/05/18 3:06
「あのいまいましい少年ラファルグは、彼のプルードン主義で僕を悩ませている。僕がこの混血児の脳天に徹底的な一撃をくわえないかぎり、彼はおとなしくはならないだろう」(マルクスから娘ラウラへ、1866年3月20日、全集31巻)
「肉でも魚でもない」
返信削除日本サッカー代表監督オシムが発言したことで有名になった「肉でも魚でもない」という言葉は、ことわざかもしれないが、『精神現象学』の序文の終わり近くにある言葉でもある(平凡社ライブラリー版上p90)。
ヘーゲルは「詩でも哲学でもない」という言葉をならべて、どっちつかずという否定的意味をこの言葉に込めている。
オシムは旧ユーゴ出身で、一部ではマルクス(=ヘーゲル左派)主義者だと思われているが、あえて言えばへーゲリアンなのではないだろうか?これは同じユーゴ出身のへーゲリアン、ジジェクを思い出す。
ユーゴスラビアの自主管理には実はプルードン(*)が援用されたという間接的な証言があるが、一般的にはマルクスからヘーゲルに遡行することでソ連主導のマルクス主義による息苦しさを免れた部分があるかもしれない。
ヘーゲルにはもちろん後年の国家主義への傾斜など欺瞞的な部分もあるが、解釈によっては自由な読みが可能なのだ。
*ちなみに、サッカーにプルードンの相互主義を援用するなら、味方同士の一対一のコンビネーションを組み合わせていくことによる、個人と集団という二元論の回避ということになると思う。
また、工場ではすべての作業(全系列)を個人が体験するべきだというプルードンの労働作業論は、トータルフットボール(自主管理だから監督もいらない?)ということになると思う。
中西洋『〈自由・平等〉と《友愛》』
www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nakanishi.htm
岩田氏によれば、協議システムはユーゴの自主管理体制のみならず、競争的市場経済主導の西側諸国の ... 実際、中西氏が本論の最後に検討の対象としたプルードンの「 ミュチュアリテ」は「市場経済とは区別された ...
自主管理社会主義 - Wikipedia
返信削除ja.wikipedia.org/wiki/自主管理社会主義
自主管理社会主義(じしゅかんりしゃかいしゅぎ、セルビア・クロアチア語: .... チトー時代のユーゴスラビアではこの「自主管理制度」が社会システムの基礎であって、地域自治の基本組織であった「オプシュティナ」もこの「 ...
チトー主義 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/チトー主義
チトー主義(チトーしゅぎ、セルビア・クロアチア語: Titoizam、英語: Titoism、 ... 多様な社会主義のモデルを模索するマルクス主義思想家・運動家の間でもこの用語が認知された。 ... E.カルデリ(en)(山崎 洋, 山崎那美子訳)『自主管理社会主義と非同盟 ユーゴ ...
『自主管理の時代』(ピエール・ロザンバロン) - simply2complicated (id:hirokim21 / @hirokim21) http://d.hatena.ne.jp/hirokim21/20091027/1256618885
返信削除・一言でいえば、彼[マルクス]は、プルードンに依拠してラサールを批判し、ラサールに依拠してプルードンを批判したと要約することができるだろう。
返信削除プルードン多元主義と自主管理〈第1部〉 (1982年)1982/5
ジャン・バンカール、 藤田 勝次郎
プルードン多元主義と自主管理〈第2部〉実現形態 (1984年)1984/5
ジャン・バンカール、 藤田 勝次郎
-
¥ 2,800中古 & 新品(4 出品)
返信削除バンカール下で引用されたユーゴの自主管理へのゲランの言及
https://libcom.org/library/anarchism-daniel-guerin-conclusion
https://translate.google.com/translate?hl=ja?sl=auto&tl=ja&u=https%3A//libcom.org/library/anarchism-daniel-guerin-conclusion
https://www.amazon.co.jp/dp/B00MRWHCW8/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
Anarchism: From Theory to Practice Kindle版
Daniel Guerin (著), Noam Chomsky (序論, 寄稿), Mary Klopper(翻訳)
By Way of Conclusion
However, the very excesses of this system soon began to generate their own negation. They engendered the idea that paralyzing state centralization should be loosened up, that production units should have more autonomy, that workers would do more and better work if they had some say in the management of enterprises. What medicine calls “antibodies” were generated in one of the countries brought into servitude by Stalin.
しかし、このシステムの非常に過剰なものは、すぐに彼ら自身の否定を生成し始めた。 彼らは、国の中央集権化を麻痺させ、生産部門の自律性を高め、企業の経営に何らかの言動があれば、労働者はより多くの仕事をするだろうという考えを生み出した。 「抗体」と呼ばれる薬は、スターリンによって拘束された国の一つで生成されました。
Tito’s Yugoslavia freed itself from the too heavy yoke which was making it into a sort of colony. It then proceeded to re-evaluate the dogmas which could now so clearly be seen as anti-economic. It went back to school under the masters of the past, discovering and discreetly reading Proudhon.
ティトのユーゴスラビアはそれを一種の植民地にしていたあまりにも重いヨークから解放しました。 それは、今や抗経済的に見えるはずのドグマを再評価することに進んだ。 過去の巨匠のもとで学校に戻り、Proudhonを発見し、慎重に読んでいました。
It bubbled in anticipation. It explored the too-little-known libertarian areas of thinking in the works of Marx and Lenin. Among other things it dug out the concept of the withering away of the State, which had not, it is true, been altogether eliminated from the political vocabulary, but had certainly become no more than a ritual formula quite empty of substance. Going back to the short period during which Bolshevism had identified itself with proletarian democracy from below, with the soviets, Yugoslavia gleaned a word which had been enunciated by the leaders of the October Revolution and then quickly forgotten: self-management. Attention was also turned to the embryonic factory councils which had arisen at the same time, through revolutionary contagion, in Germany and Italy and, much later, Hungary. As reported in the French review Arguments by the Italian, Roberto Guiducci, the question arose whether “the idea of the councils, which had been suppressed by Stalinism for obvious reasons,” could not “be taken up again in modern terms.” When Algeria was decolonized and became independent its new leaders sought to institutionalize the spontaneous occupations of abandoned European property by peasants and workers. They drew their inspiration from the Yugoslav precedent and took its legislation in this matter as a model.
それは予期して泡立つ。マルクスとレーニンの思考のあまり知られていないリバタリアンの領域を探求しました。とりわけ、政治的な語彙から完全に排除されていない国の萎縮という概念を掘り起こしましたが、確かに実質的に空虚な儀式にはなりませんでした。ボルシェヴィズムが下からのプロレタリア民主主義を自分たちの身につけていた短期間を振り返ってみると、ユーゴスラビアは10月革命の指導者たちによって強調された言葉を集め、すぐに忘れ去られた。ドイツとイタリア、さらには後にハンガリーで、革命的な伝染によって同時に発生した胚工場協議会にも注意が向けられた。フランスのロバート・グイドゥッチ議員によるフランスの論評で報告されたように、「明らかな理由でスターリン主義によって抑圧された評議会の考え方」は、「現代的に再び取り上げることができない」という疑問が生じた。アルジェリア脱植民地化され独立した新しい指導者は、農民や労働者が放棄したヨーロッパの財産の自発的職業を制度化しようとした。彼らはユーゴスラビアの先例からインスピレーションを引き出し、この問題の法案をモデルとした。
革命と教会とにおける正義
返信削除Justice à la révolution et à l'église
返信削除横レスですが
返信削除マルクスもワルラスもその経済学者としての出発点にプルードン批判があります
マルクスは『貧困の哲学 』を批判し
ワルラスは『革命と教会とにおける正義』を批判しています
アンチノミーがあらゆるレベルであり
それが価格論のレベルでも維持されるということ(売り手と買い手)…
マルクスもワルラスもプルードンからコアなアイデアを剽窃しているのです
プルードンを位置付けないと近代経済学のわからないということになります
彼らを分かつのは国家観や協同組合観ですが
アンチノミーの価格論的展開が共通しているのです
プルードンの場合は人民銀行(交換銀行→人民銀行→永続博覧会銀行)の実践に
没頭しますから、そこに本筋がありますが
2018/12
返信削除日仏哲学会の『フランス哲学・思想研究』23、充実した内容で、学会の活力を感じます。同級生の伊多波宗周のプルードン論もある。
プルードンと社会契約論 ........................................................................ 伊多波宗周 116
返信削除シモンドンにおける「前個体的なもの」概念の再考 .................................... 宇佐美達朗 128
ドゥルーズ
返信削除ちくま新書
アナキズム入門より
プル ードンの著作も然り 。加えて 、プル ードンの晩年の草稿はブザンソン市立図書館の電子図書館からもアクセス可能だ ( http://culture-besancon.fr/) 。
2018
法権利」(Droit de la Force)の解読 (Adobe PDF) -htmlで見る
返信削除www.shukugawagakuin.net/wp-content/.../2014_10_itaba.pdf
28 日まで、フランス共和国、ブザンソン市立図書館. (Bibliothèque municipale de Besançon)にて、ピエ. ール=ジョゼフ・プルードン(Proudhon, P.-J.)の1861. 年頃の未発表手書き草稿「力の法権利」(Droit de la.
返信削除ブザンソン市立図書館. (Bibliothèque municipale de Besançon)
ちくま新書
アナキズム入門より
プル ードンの著作も然り 。加えて 、プル ードンの晩年の草稿はブザンソン市立図書館の電子図書館からもアクセス可能だ ( http://culture-besancon.fr/) 。
上urlは多分間違い
プルードンの未発表草稿「力の法権利」(Droit de la Force)の解読 神戸夙川学院大学観光文化学部 講師 伊多波 宗周
法権利」(Droit de la Force)の解読 (Adobe PDF) -htmlで見る
www.shukugawagakuin.net/wp-content/.../2014_10_itaba.pdf
28 日まで、フランス共和国、ブザンソン市立図書館. (Bibliothèque municipale de Besançon)にて、ピエ. ール=ジョゼフ・プルードン(Proudhon, P.-J.)の1861. 年頃の未発表手書き草稿「力の法権利」(Droit de la.
http://www.shukugawagakuin.net/wp-content/uploads/bulletin/2014_10_itaba.pdf
http://memoirevive.besancon.fr/
Adresse
27 rue de la République, 25000 Besançon
Site internet
http://www.bm-besancon.fr
Bibliothèque numérique
http://memoirevive.besancon.fr
Lien vers le RNBFD
http://ccfr.bnf.fr/
Type de bibliothèque
Bibliothèque municipale / intercommunale
返信削除ブザンソン市立図書館. (Bibliothèque municipale de Besançon)
ブザンソン市立図書館. (Bibliothèque municipale de Besançon)
ちくま新書
アナキズム入門より
《プル ードンの著作も然り 。加えて 、プル ードンの晩年の草稿はブザンソン市立図書館の電子図書館からもアクセス可能だ ( http://culture-besancon.fr/) 。》
上urlは多分間違い
Droit de la Force (Ms.2858
http://memoirevive.besancon.fr/
要flash
http://memoirevive.besancon.fr/ark:/48565/a011380371884LYGyAM
http://memoirevive.besancon.fr/ark:/48565/a011380371884LYGyAM/1/1
Bibliothèque municipale de Besançon — Wikipédia
fr.wikipedia.org/.../Bibliothèque_municipale_de_Besan...
La bibliothèque municipale de Besançon est la plus importante bibliothèque de la capitale comtoise, mais également le ...
Histoire-Les collections-Bibliothèque numérique
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www.facebook.com>...>Monument
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プルードンの未発表草稿「力の法権利」(Droit de la Force)の解読 神戸夙川学院大学観光文化学部 講師 伊多波 宗周
…フランス共和国、ブザンソン市立図書館(Bibliothèque municipale de Besançon)にて、ピエール=ジョゼフ・プルードン(Proudhon, P.-J.)の1861年頃の未発表手書き草稿「力の法権利」(Droit de la Force (Ms.2858)–A rapprocher de l’ouvrage La Guerre et la Paix (vers 1861), édition Tops / H.Tronquer, 1999)を解読した。
法権利」(Droit de la Force)の解読 (Adobe PDF) -htmlで見る
www.shukugawagakuin.net/wp-content/.../2014_10_itaba.pdf
28 日まで、フランス共和国、ブザンソン市立図書館. (Bibliothèque municipale de Besançon)にて、ピエ. ール=ジョゼフ・プルードン(Proudhon, P.-J.)の1861. 年頃の未発表手書き草稿「力の法権利」(Droit de la.
http://www.shukugawagakuin.net/wp-content/uploads/bulletin/2014_10_itaba.pdf
http://memoirevive.besancon.fr/
Adresse
27 rue de la République, 25000 Besançon
Site internet
http://www.bm-besancon.fr
Bibliothèque numérique
http://memoirevive.besancon.fr
Lien vers le RNBFD
http://ccfr.bnf.fr/
Type de bibliothèque
Bibliothèque municipale / intercommunale
https://gallica.bnf.fr/html/und/bibliotheque-municipale-de-besancon
<アソシアシオンは、相互性の原理によってより純化されたより簡単になりより正当なものになれば、容易に支えうるものになり、新たな発展をもたらすであろう>(プルードン)
返信削除<(社会革命は)もっとも散文的な事柄であり、革命的エネルギーや偉大な言葉にはもっともふさわしくない事柄>(プルードン)
返信削除《一工場内の20人ないし100人にのぼる労働者が労働者協議会をつくる 。名目的には,彼らが自分たちのため
返信削除の経営者を選ぶ。(企業役員として経験を積んだ人を求めて、広告募集することさえある!)彼らはその資本を、
中央のプールから借りる。(資本は時には最高入札者に「せり売り」されることもある。)企業は、自分で考
えて売れると思うものを生産するよう、自分で決めることができる。企業は,原料を外国から輪人してもよいし、
時にはそのために外国の信用供与を受けてもよい。企業による費用の削減は、所得や土地にかんする税を払った
あとに残った余剩を、ボーナスとして労働者に払うとか、あるいは企業に再投資するとかに利用できるという期待
のもとに行なうことができる。》
サミュエルソン新版経済学下932頁1981年、原著1980年第11版
ユーゴスラビアのチトーイズムの説明より
ただしこれはマルクス主義ではなくプルードンの名のないプルードン主義である
《所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、政治、経済、
諸制度のいっさいを変えるだろう。諸君は地上の悪を除き去るのだ。》(プルードン)
サード長嶋は三塁を所有しないポジションが三塁なだけだ…
協同組合は一人一票だがそれでも代表は存在する
チトーイズムの場合は経営者の選出が重要になるだろう
柄谷は選挙とくじ引きの併用を推薦している
<あらゆる社会問題は分配、流通、交換の問題であって、それ以外ではない>(プルードン)
返信削除フランス社会主義者語録@socialism_bot
返信 リツイート いいね 12/24(月) 11:17
<われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに競争が開かれることを要求するだけだ>(プルードン)
フランス社会主義者語録@socialism_bot
エンプロイー・バイアウト(Employee Buy-Out、従業員買収、略称:EBO)とは、会社の従業員がその会社の事業を買収したり経営権を取得したりする行為のこと。中小企業など中心に古くから盛んに行われている。日本では、村上ファンドが松坂屋及び従業員に対し提案したとされ、マスコミなどに取沙汰された。経営陣が行う場合はマネジメント・バイアウト(MBO)という。広義には、オーナーでない経営陣によるマネジメント・バイアウトも含む概念である。
返信削除目次
概説
日本における主な事例
日本におけるMEBOの事例
関連項目
脚注
概説 編集
従業員は本来、勤務先との間で雇用契約により業務に従事しているだけであって、勤務先の所有関係には関与していないのが通常である。その従業員が、自己資金や借入れなどにより、勤務先の株式を取得し経営に参加などするのがエンプロイー・バイアウトである。従業員が単独または複数によって買収する場合には、通常は、買収後の企業は株式の公開を行わない非公開会社となることから、外部からの企業買収に対する対抗策として用いられることもある。
規模が大きく従業員の借入れなどでは不十分な場合は、第三者が出資参加するなどの方法も可能で、上場企業のマネジメント・バイアウトなどの時には第三者の出資額が多い場合がほとんどである。第三者の出資比率が高い場合は、一定期間経営して企業価値を向上させた後の株式公開を前提としており、株式公開によって出資資本の回収を目的とする投資ファンドによるものが多い。同時に、EBOを行った従業員にとっても向上させた企業価値に対するリターンを得る場ともなる。
日本における主な事例 編集
エフモード - 2002年10月 [1]
ホテルセイリュウ 株式会社石切ゆめ倶楽部(大阪府東大阪市) - 2003年 [2]
旭電化 - 2000年6月[3]
ポッカコーポレーション - 2005年12月
ホームアドバイザー(現・オウチーノ) - 2006年12月
YOCASOL - 2007年7月
明光商会 - 2007年9月
ラクオリア創薬(旧・ファイザー製薬中央研究所) - 2008年2月
くめ・クオリティ・プロダクツ [4](金砂郷食品株式会社を新規設立 [5]) - 2009年9月
ハーキュリーズ(JVCエンタテインメントタレントマネジメント部門) - 2011年3月
シックス・アパート[6] - 2016年7月
日本におけるMEBOの事例 編集
サンスター - 一般ではMBOの事例として定着しているが、公式上ではMEBOの事例として発表している。
インクグロウ - 2011年2月[7] [8]
関連項目 編集
脚注 編集
^ インデックス、携帯ファッションサイトを EBO で買収[リンク切れ]
^ ホテルセイリュウ開業10周年 200人出席し祝賀会/大阪(トラベルニュース)
^ 実際は事実上の未遂。これは古河グループやみずほフィナンシャルグループをはじめとした株主・融資団による批評による。
^ 「くめ納豆」製品の販売にむけた基本合意について(株式会社ミツカン)
^ 金砂郷食品株式会社
^ 【重要発表】シックス・アパートはEBO(*)により再スタートを切りました! | シックス・アパート - CMSソフトウェア、サービスを提供
^ 「インクグロウ」って会社、知っていますか?(フランジャ)
^ C&I(9609)ベンチャーリンクがMEBO実施(M&Aキャピタルパートナーズ)
<アソシアシオンとは何か——機能と生産物に応じた産業諸力の組織化である>(プルードン)
返信削除<流通は真の普遍的協同組織である>(プルードン)
返信削除<所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、政治、経済、諸制度のいっさいを変えるだろう。諸君は地上の悪を除き去るのだ。>(プルードン)
返信削除人類は、ふらふらと左右に揺れて歩きながら、たえず本道に戻ってくる。人類の進歩は人類の伝統を再生させることにほかならない。さまざまの体制は、見かけのうえでは対立しあっているようでも、べつの観点から眺めれば、つねに同一の基盤をもつことが明らかになる。(『貧困の哲学』第14章)
返信削除<社会革命は、政治的団体の全体およびそのあらゆる諸部分において自発的に遂行される、一つの変革である。>(プルードン)
返信削除<人間はアソシアシオンに反撥する。協同していないかのように協同すること——これが問題だ>(プルードン)
返信削除<生産の組織化は、社会主義者の会議でおしゃべりをすることによっておこなわれるものではない。それは仕事に参加することによって、働くことによって、生産することによっておこなわれるのである>(プルードン)
返信削除<われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに競争が開かれることを要求するだけだ>(プルードン)
返信削除<アソシアシオンのあらゆる計画のなかには、何らかの程度でこの権威の観念が見出されるのであり、それはつねに、人間をもっと自由にするために人間を隷従させるという結論に行きつくのである>(プルードン)
<労働が個人的自由の同義語であること、交換の正義を別とすれば、労働の自由は絶対的であるべきこと、政府は自由な労働を規制したり制限したりするためではなくて、それを保護するために存在すること、これらのことを人びとは理解しようとしない>(プルードン)
<結合することが少なければ少ないほど、それだけ多く自由である>(プルードン)
<革命は普遍的にならなければ、フランスにおいてさえ崩壊するであろう>(プルードン)
<手労働の熟練は整備された設備にとってかわられ、人間と素材の役割は逆転している。精神はもはや労働者のなかにはなく、機械のなかに移っている>(プルードン)
<われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに競争が開かれることを要求するだけだ>(プルードン)
返信削除<アソシアシオンのあらゆる計画のなかには、何らかの程度でこの権威の観念が見出されるのであり、それはつねに、人間をもっと自由にするために人間を隷従させるという結論に行きつくのである>(プルードン)
<労働が個人的自由の同義語であること、交換の正義を別とすれば、労働の自由は絶対的であるべきこと、政府は自由な労働を規制したり制限したりするためではなくて、それを保護するために存在すること、これらのことを人びとは理解しようとしない>(プルードン)
<結合することが少なければ少ないほど、それだけ多く自由である>(プルードン)
<革命は普遍的にならなければ、フランスにおいてさえ崩壊するであろう>(プルードン)
<手労働の熟練は整備された設備にとってかわられ、人間と素材の役割は逆転している。精神はもはや労働者のなかにはなく、機械のなかに移っている>(プルードン)
<しかし私は、それ(公益のためにつくられた大規模なもの)がひとたび公衆にひきわたされれば、それらを国家の手中にとどめておく必要を決して認めない。私の考えでは、そのような中央集権化は、あまりにも過度の権力を形成する>(プルードン
<社会革命は、政治的団体の全体およびそのあらゆる諸部分において自発的に遂行される、一つの変革である。>(プルードン)
<生産の組織化は、社会主義者の会議でおしゃべりをすることによっておこなわれるものではない。それは仕事に参加することによって、働くことによって、生産することによっておこなわれるのである>(プルードン)
ワルラスもマルクスもプルードン批判から自らの経済学者としてのキャリアをはじめている
返信削除批判という形をとっているがそれによってプルードンからの剽窃が隠蔽されている
ワルラスはプルードンのアンチノミーを需要と供給の価格論に置き換えた
マルクスはプルードンの機械批判を唯物論的に展開した
再生産表式も
プルードンが再生産不可能と言ったということにして再生産の条件をマルクスが再提示したに過ぎない
プルードンを見ないと近代経済学はわからない
ナポレオン三世については研究は進んでいるがプルードンに関しては遅れている
(ナポレオン三世は近代都市計画、経済国有化の先駆だ)
ワルラスもマルクスもプルードン批判から自らの経済学者としてのキャリアをはじめている
返信削除批判という形をとっているがそれによってプルードンからの剽窃が隠蔽されている
ワルラスはプルードンのアンチノミーを需要と供給の価格論に置き換えた
マルクスはプルードンの機械批判を唯物論的に展開した
再生産表式も
プルードンが再生産不可能と言ったということにして再生産の条件をマルクスが再提示したに過ぎない
プルードンを見ないと近代経済学の始まりはわからない
ナポレオン三世については研究は進んでいるがプルードンに関しては遅れている
(ナポレオン三世は近代都市計画、経済国有化の先駆だ)
黒澤明は遺作のシナリオ『雨あがる』の最後のページを空白のままにした。
返信削除プルードンも遺作の『労働者の政治的能力』の最後のページを書かなかった。友人に託したのだ。
ここに両者に共通する構成的理念への嫌悪がある。後世への信頼がある。
黒澤明の座右の書『戦争と平和』の主人公はプルードンを意識して書かれたと言われる。
黒澤明とプルードンはどこかで繋がっている。
返信削除プルードンの考えた社会革命(経済革命)とは一体どのようなものだったろうか?
二月革命の三年前、一八四五年一〇月に彼は『ノート』にこう書いている。
「農・工業の標準価格表と一覧目録を作製すること。‥…/かつてローマ人が行ったように、各労働者に家族の帳簿ないし記録帖をつけることを教えること。それは彼らの入金・支出のすべて‥…を記入するためである」(藤田勝次郎『プルードンと現代』p22より)
河出書房新社『神もなく主人もなく1』より、人民銀行株券↓
(交換銀行に株券はない。)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/SUI3ASKfDaI/AAAAAAAAAFg/i5B8b0C8y7I/s1600-h/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E9%8A%80%E8%A1%8C%E6%A0%AA%E5%88%B8.jpg
仏版『社会問題の解決』より、人民銀行流通券↓(『人間の経済』78号森野栄一「プルードンの夢」に詳しい。)
http://2.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/SUI1t0fesVI/AAAAAAAAAFY/bIpENxyn-Do/s1600-h/a0024841_18539%E6%B5%81%E9%80%9A%E5%88%B8.jpg
《5フランシリーズ 人民銀行 No.***
5フラン流通券
加入者各位
一覧後、支払指図に対して、人民銀行が受領した総額5フランの、
諸君の産業の商品や生産物、用益で持参人に支払う
署名 P.J.PROUDHON et Co.
経理人 ****(署名)
18条(左端に記載)
通常の正貨で支払われる銀行手形と異なり人民銀行券は永遠の社会的性格を
もつ引渡指図であり、あらゆる組合員ないし全加入者によって、その事業や
職業の生産物あるいは用益によって支払われる。…》
プルードン『所有とは何か』より↓
《所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、
政治、経済、諸制度の一切を変えるだろう。諸君は地上の悪を除きさるのだ》
パリコミューンの失敗は銀行を接収しなかったプルードン派のせいにされているが、
人民にプルードンの言う会計能力、銀行運営能力を保持しておくことが重要だった。
シルビオ・ゲゼル『自然的経済秩序』冒頭↓
http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo1-0-jp.html リンク切れ
《なぜマルクスの資本理論がプルードンの学説を追い出せ、社会主義を独裁制に
できたのだろうか。どうしてマルクスと彼の理論が世界のあらゆる新聞で語ら
れるのか。マルクス主義の絶望とそのための無害性だという人がいる。ちょうど
資本家がキリスト教の教義を恐れないように、資本家は彼の理論を恐れない。
むしろ、マルクスやキリストについておおっぴらに話すのは資本家のためになる。
マルクスは資本家を決して破壊できないが、それは彼が資本の性質を誤解して
いるからだ。しかし、プルードンに注意しよう。彼は徹底的に無視するに限る。
妨害や擾乱、または中断なしに労働者が働ければ、資本家は資本の供給過剰(商品
の生産過剰と混乱しないように)ですぐに窒息するという彼の主張は正当なもの
なので、彼は危険人物である。直ちに実行できるため、資本家の攻撃のための
プルードンの提案は危険なものである。マルクスのプログラムは最新の機械と
道具を備えた現代の訓練された労働者の莫大な生産能力について語っている。
マルクスはこの莫大な生産能力で何も始められない。プルードンの手にかかる
とこれは資本家に対する武器となる。そのためプルードンを忘れてもらえるよう
に、マルクスを喧伝せよ、と。》
カール・マルクス 34
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1602940512/
13 考える名無しさん[] 2021/09/12(日) 18:45:00.59 ID:0
返信削除プルードン主義では、つまり貨幣革命では資本主義をその機能不全から
救うには不十分だろうってのがマルクスの考えでしょう?
労働者は資本主義社会ではその集合力を搾取されている。
自分たちが作ったものを額面通りに買い戻せていない。
(ここで再生産表式による拡大再生産という反措定が意義を持つ)
資本論は集合力を相対的剰余価値の技術的問題に繰り下げたからその認識が甘い。
いずれ労働者が権力を持ったとしてもマルクスの理論では何もできない。
プルードン主義はパリコミューンで銀行を接収せずに失敗したと批判される。
しかし貨幣革命が準備されていたら銀行の業務の奪還は容易だった。
プルードンの交換銀行の主な主体である職人たちは今日のネット社会の
プログラマー、SEのあり方に近い。手仕事が無くなることはないのだ。
労働組合は有意義だが、生産と消費、供給と需要はセットだ。
プルードンのように独自の販路を探すべきだ。
プルードンの農工連合は農民も工場労働者も自分たちで販路を探せということを意味する。
>>13
返信削除労働者は資本主義社会ではその集合力を搾取されている。
自分たちが作ったものを額面通りに買い戻せていない。
(ここで再生産表式による拡大再生産という反措定が意義を持つ)
資本論は集合力を相対的剰余価値の技術的問題に引き下げたからその認識が甘い。
いずれ労働者が権力を持ったとしてもマルクスの理論では何もできない。
プルードン主義はパリコミューンで銀行を暴力的に接収せずに失敗したと批判される。
しかし貨幣革命が準備されていたら銀行の業務の奪還は容易だった。
プルードンの交換銀行の主な主体である当時の職人たちは今日のネット社会の
プログラマー、SEのあり方に近い。手仕事が無くなることはないのだ。
労働組合は有意義だが、生産と消費、供給と需要はセットだ。
プルードンの農工連合は農民も工場労働者も自分たちで販路を探せということを意味する。
カール・マルクス 38
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1631023871/
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/01/1848.html
返信削除プルードンの手紙 1848 再掲
「革命は理念なしに行なわれた」プルードン1848年
("Carnets de P-J Proudhon" Tom.3,p.10 、藤田勝次郎『プルードンと現代』245頁より)
https://yojiseki.exblog.jp/7140637/
プルードンの手紙
プルードンの考えた社会革命(経済革命)とは一体どのようなものだったろうか?
二月革命の三年前、一八四五年一〇月に彼は『ノート』にこう書いている。
「農・工業の標準価格表と一覧目録を作製すること。‥…/かつてローマ人が行ったように、各労働者に家族の帳簿ないし記録帖をつけることを教えること。それは彼らの入金・支出のすべて‥…を記入するためである」(藤田勝次郎『プルードンと現代』p22より)
" Organiser la mercuriale et l'Ephéméride agricole et industrielle : cons'equence de l'établissement sur tous les points d'un bon système de comptabilité.
Apprendre à chaque ouvrier à tenir , comme autrefois les Romains, un registre ou carnet de famille, pour y inscrire en qq. mots toutes ses recettes, dépenses, les accidents heureux ou malheureux, et tous les événements domestiques qui peuvent intéresser, non pas l'Etat (chose absurde), mais la fammile."
("Carnets de P-J Proudhon" Tom.1,p.155 )
海運業者で会計を担当していたプルードンにとって、会計の重要性は明白だった。
もし絶対的な権力である国家官僚だけが会計能力を持っていたら、その会計監査はおおざっぱなものになってしまうだろう。
例えばそれ自身多様な自然エネルギーの自立分散的な総和よりも、ひとつの原子力発電所のエネルギーを選択するといった長い目で見て不経済な選択をしてしまうということも考えられるのだ。
上記に引用した言葉を紹介した研究者の藤田氏は、海運業時代の未刊行のプルードンの手紙を集めてそのファクシミリ版と活字版をセットで出版している(仏語版『プルードン未刊書簡集』全三巻、本の友社、1997年)。
二月革命を何の準備もなくむかえた民衆にいらだつプルードンの残した言葉とその筆跡もその手紙は伝えている。
プルードンの手紙_a0024841_23544444.jpg
プルードンの手紙_a0024841_23465921.jpg
(『未刊書簡集』第三巻、p421-422より)
「(略)革命は理念をまったくもっていません。‥…市民たちは、絶えず私の家のドアを叩きにやってきます。ひとは、私をこの貴重な商品の希な独占者の一人だと思っているのです。(略)私は、ひとつの目的しかありません。それは、民衆を理性的にすることなのです。やがて大きな社会的な議論が開始されるでしょう。その時、私のやったことが考慮されねばならないでしょう。」(aux frères,Paris, le 27 février 1848.)(藤田前掲書p243-244より)
「革命は理念なしに行なわれた」("Carnets de P-J Proudhon" Tom.3,p.10 、藤田前掲書p245)という一貫した認識は、プルードンにとってマルクスのようなファルス化へ向かうこと無く、とことん当事者でありつづけるのである。
以前別ブログで紹介したルソーの言葉のように広場に花を飾ればいいというわけにはいかないのだ。
交換銀行が彼の理念の形象化である。
「語られ、求められ、提案され合っているすべてのことを理解になれば、きっと不安になることでしょう。幸い政府はその無力を認め、立ち止まっているように思われます。私がいつもいっていたこと、社会革命は、政治革命からは生まれず、政治革命が社会革命から生まれる、ということや、そのために政令でことをはこぶことはできない、ということが少しずつ分かってきています。」
(à Victor, Paris, le 17 mars 1848.)(藤田前掲書p244より)
ナポレオン三世による新自由主義と馬上のサンシモン主義、国家統制経済の行き詰まり、こうした事象はまさに21世紀初頭を生きる我々の問題意識と完全に重なるのではないだろうか?
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が現代的である以上に、プルードンの思考は現代的なのである。