「箭の喩えの経」とカント:メモ
参考:
十二支縁起
http://nam-students.blogspot.jp/2018/05/blog-post_11.html
以下、末木剛博(すえきたけひろ)『東洋の合理思想』講談社現代新書33ー34頁より
「…カントはこれら三種(魂、宇宙、神)の問題に一定の解答を与えることは
不可能であることを論理的に証明している。したがってこれらの問題に関
する形而上学は論理的には成立しないといって、形而上学を排除したのである。
これを初期仏教の形而上学批判とくらべると、精粗の違いはあるが、主旨は
はなはだよく似ている。初期仏教では形而上学の立場を前述のように常見と
断見との二種に大別しているが、さらにカントのあげた諸問題とほとんど
同じ問題を論じている場合もある。たとえば『中阿含経』の一部の「箭喩経
(せんゆきょう)」では次の諸問題があげられている。
(A) 自我および世界は時間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(3)無限かつ有限である。
(B)世界は空間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(C)魂と肉体とは、
(1)同一である。
(2)別異である。
(D)如来(完全な悟りを得た者)は死後に、
(1)生存する。
(2)生存しない。
これらの問題は、カントのあげた問題とは多少のずれがあるが、それは時代と国土
にもとづく関心のちがいである。しかし、たとえば(A)と(B)とは、カントの
第一および第二の問題とほとんど同じであり、(D)の如来の問題とカントの第三の
神の問題とも類似している。
相違点を挙げれば、初期仏教は(A)の問題に対して四種の解答を用意しているのに対し、
カントは、(1)無限であると(2)有限であるとの二つだけを用意し、その二者択一を
せまるのである。
『箭喩経』では四種の解答を(A)の問題だけにそろえてあるが、他の文献では、あらゆる
問題に対してそろえている場合もあり、そのほうが論理的には完全なわけである。それで
後世には、この四種の解答、つまり一問題に対する(1)肯定、(2)否定、(3)肯定
かつ否定、(4)非肯定かつ非否定、の四つを四句分別と名づけている。
ともかく、カントの提出した問題と、形の上では多少の差はあるが、本質的にはほとんど同じ
問題をかかげて、しかもカントと同様にこれらの問題に対しては何らの解答も与えられない、
と言うのである。したがって形而上学批判に関しては初期仏教はカントの批判哲学と本質的に
一致するのであり、哲学上は一種の批判主義である。」
参考:四句ベン図他
http://labo.wikidharma.org/images/7/77/四句.jpeg
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E5%9B%9B%E5%8F%A5.jpeg
http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/mn.html
『中阿含経』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552019920&tid=ja965a4ca4f2bfa1a9&sid=552019920&mid=641
『中阿含経』「人は死後存在するとか…」(長尾責任編集『世界の名著1』中央公論社p473
以下、『阿含経』より
http://space.geocities.jp/buddha_res/2.html (リンク切れ)
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130505/p2
「…マールンクヤプッタよ、世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常なりとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老いはあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える」
「…マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にもなお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」
(増谷文雄訳『阿含経典』p52)
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僧侶のたくらみ 毒矢のたとえ
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…
尊者マールンキャープッタは人影のないところへ行って静思していたが、
こころに次のような思考が起こった。
「これらの見解を世尊は説いておらず、捨てておかれ、無視されている。すなわち、
『世界は永遠である』とも、『世界は永遠でない』とも、
『世界は有限である』とも、『世界は無限である』とも、
『生命と身体とは同一である』とも、『生命と身体とは別異である』とも、
『如来は死後存在する』とも、『如来は死後存在しない』とも、
『如来は死後存在しながらしかも存在しない』とも、
『如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない』とも。
こういうこれらのさまざまな見解を世尊はわたしに説かなかった。
世尊がわたしに説かなかったということは、わたしにはうれしいことではない。
わたしには堪えられることではない。
わたしは世尊のもとへ行って、その意味を尋ねよう。
もし世尊が、答えて下さるなら、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しよう。
もし世尊が、答えて下さらないなら、
わたしは修学を放棄して、世俗の生活に戻ることにしよう。」
そこでマールンキャープッタは、
夕方、静思の座から立ち上がって、世尊のところへやってきた。
やってきて世尊にあいさつしてかたわらにすわった。
かたわらにすわったマールンキャープッタは世尊にいった。
「尊師よ、もし世尊が、『世界は永遠であるかないか』、『世界は有限か無限か』、
『生命と身体とは同じか別か』、『如来は死後存在するかしないか』、
ということについて知っているなら、世尊はわたしに説いてください。
もし世尊が知らないなら、知らない者、わからない者にとり、
『わたしは知らない、わたしはわからない』というのが正しいことです。」
「マールンキャープッタよ、
たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。
もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、
ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、
または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったり、またもしかれが、
『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、
動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、
キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、
ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、
あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、
シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、
水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、
ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、
カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、これとまったく同様に、
『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、
『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、
『生命と身体とは同一である』とか、『生命と身体とは別異である』とか、
『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、
世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、
という人がおれば、マールンキャープッタよ、
世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
『それらの答えがあれば、清らかな行ないを実修するであろう』というのは正しくない。
それらの答えがあっても、
しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは現実に現世においてこれらを制圧することを説く。
マールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
マールンキャープッタよ、『これは苦である』とわたしは説く。
『これは苦の生起する原因である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅に導く道(実践)である』とわたしは説く。
マールンキャープッタよ、なぜにそれをわたしは説くのか。
なぜならこのことは目的にかない、清らかな行ないの初歩であり、
世俗的なものを厭離すること、情欲から離れること、煩悩を消滅すること、
こころの平静、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃のために役に立つ。
それゆえわたしはそれを説いたのである。
それゆえマールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。」
世尊は以上のように説いた。
尊者マールンキャープッタは歓喜し、世尊の教説を信受した。
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
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僧侶のたくらみ 毒矢のたとえ
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/blog-entry-691.html
…
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
…
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
「マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の
行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存
するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にも
なお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するとき
にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、
いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」(増谷文雄訳『阿含経典』p52)
追記:
カントのカテゴリーにそれぞれ対応する。*
1量 2質
3関係4様相
1不増不減d2不垢不浄c
3不生不滅b4諸法空相a
参考:
カント、純粋理性のカテゴリー(厳密にはさらにそれぞれが3つの契機に分かれる)
量(単一性、多数性、全体性d)
質( 実在性c、否定性、限界性)
関係(実体性、 因果性b、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性a)
カントが挙げているアンチノミーには、(カテゴリー順に)四つ(a-d)ある(それぞれの
テーゼにアンチテーゼが対応)。**
1 世界は有限(時間的、空間的に)である。←→世界は無限である。
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている。←→単純なものなど存在しない。
3 世界には自由な原因が存在する。←→自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する。←→必然的な存在者など存在しない。
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html
*
空海(『般若心経秘鍵』角川文庫、及びちくま文庫空海コレクション2所収)の解説だとこ
の部分は法相宗及び三論宗の教義(両者間で論争があった。空海は後者側で般若心経肯定派)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/51/2/51_2_649/_pdf
**
般若心経は全てにおいてアンチテーゼ、懐疑論の立場に常に立つ。
独断論の立場には立たない。
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
色\ /空
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/ 1/3 \2 \
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三つの領域に区分される。「色であり、かつ空でない」領域1、「空であり、かつ色ではない」領域2、「色であり、かつ空である」領域3の三者である。…
有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
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| 識 |
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/ 色 /\ 空 /\ 行 \
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| 受 \ / 想 |
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あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経:改訂版
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_05.html