土曜日, 12月 27, 2014

存在論的リスト、『差異と反復』より(ドゥルーズ:メモ)


  (リンク::::::::::『差異と反復』アンチ・オイディプスノート本頁

ドゥルーズ『差異と反復』はドゥルーズ流哲学史だ。シュミラクルのシステムもデカルト(5)→スピノザ(4)→ライプニッツ(1,2,3)→ヘーゲル(6)→ニーチェ(7)の順に解釈及び書き換え可能だ(ベルクソンの逆円錐は全体のモデルとしては有効だが、横からではなく上下から見る形が重視される)。


《要するに、見せかけ(シュミラクル)のシステムは、表象=再現前化の諸カテゴリーとは、はじめから、きわめて異なるように思われる諸概念によって、記述されなければならないのだ。
(1)諸強度〔差異〕がそこで組織される、深さ、スパティウム〔強度的空間〕。
(2)諸強度によって形成される、齟齬する諸セリー、諸強度によって描き出される、個体化のもろもろの場(個体化の諸ファクター)。/
 (3)諸強度を連絡の状態に置く、「暗き先触れ」。/
(4)カップリング、内的共鳴、そこから生じる強制運動。
(5)そのシステムにおける受動的自我と幼生の主体との構成、および、時-空的純粋力動の形成。
 (6)そのシステムの二重の異化=分化を形成し、それらのファクターを覆ってくる、質と広がり、種と部分。
 (7)質と延長が展開された世界において、それでもなおその諸ファクターの執拗な持続を証示する、包み込みの中心。
見せかけ(シュミラクル)のシステムは、発散〔分岐〕と脱中心化を肯定する。》
邦訳単行本『差異と反復』412~3頁、結論、見せかけ、より

《まずは(1)と(2)の概念が創造の母胎、/
(3)の概念が媒介者、/
(4)から(7)が生起のメカニズムという点を押さえればよい。》
哲学の歴史、鈴木泉640頁


1,2ニーチェ

4スピノザ

5デカルト

3,5,7文学



1,2,3,6,7ニーチェ

4,スピノザ

5,デカルト


(5)そのシステムにおける受動的自我と幼生の主体との構成、および、時-空的純粋力動の形成。【デカルト】
(4)カップリング、内的共鳴、そこから生じる強制運動。【スピノザ】*
(1)諸強度〔差異〕がそこで組織される、深さ、スパティウム〔強度的空間〕。
(2)諸強度によって形成される、齟齬する諸セリー、諸強度によって描き出される、個体化のもろもろの場(個体化の諸ファクター)。【ライプニッツ?】***
 (3)諸強度を連絡の状態に置く、「暗き先触れ」。
 (6)そのシステムの二重の異化=分化を形成し、それらのファクターを覆ってくる、質と広がり、種と部分。【ヘーゲル?】
 (7)質と延長が展開された世界において、それでもなおその諸ファクターの執拗な持続を証示する、包み込みの中心。【ニーチェ】
見せかけ(シュミラクル)のシステムは、発散〔分岐〕と脱中心化を肯定する。》
邦訳単行本『差異と反復』412~3頁、結論、見せかけ、より


The ontological list

1the depth or spatium in which intensities are organized; 2the disparate series these form, and the fields of individuation that they outline (individuation factors); 3the “dark precursor” which causes them to communicate; 4the linkages, internal resonances and forced movements which result; 5the constitution of passive selves and larval subjects in the system, and the formation of pure spatio-temporal dynamisms; 6the qualities and extensions . . . which form the double differenciation of the system and cover over the preceding factors; 7the centres of envelopment which nevertheless testify to the persistence of these factors in the developed world of qualities and extensities.

Intensive Science and Virtual Philosophy (Bloomsbury Revelations) 
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 まず『差異と反復』の全体像を把握するためにドゥルーズ自身の言葉をみる。

 《差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させられているかぎり、それ自身において思考されていないし、それ自身において思考される可能性もない。<差異は「つねに」それらの諸要請に服従させられていたのか、そうだとすればどのような理由で>という疑問は、当然注意深く検討してみるべきものである。しかし、純然たる齟齬するものたちが、わたしたちの表象=再現前化的な思考には近づくことのできない或る神的な知性の天上の彼岸を、あるいは非類似の《大洋》の、わたしたちには測深できない手前にある冥府を形成しているということも明らかである。いずれにせよ、それ自身における差異は、その差異を思考されうるものに仕立てあげてしまうような、異なるものと異なるものとのあらゆる関係を拒絶するように思われる。まさしく思考されうるものへと、それ自身における差異が生成するのは、飼い馴らされる場合、すなわち、表象=再現前化の四重の首伽〔諸要請〕──概念における同一性、述語における対立、判断における類比、知覚における類似──に服従される場合でしかないと思われる。》(『差異と反復』結論、冒頭391頁)

別訳:
《(1)諸強度(=内包量)がそこで組織される強度的(=内包量)空間(スパティウム)
 (2)諸強度(=内包量)が形成する齟齬する諸系列(セリー)、諸強度(=内包量)が描き出す、個体化のもろもろの場(個体化の諸要因)/
 (3)諸強度(=内包量)を交通させる暗き先触れ/
 (4)そこから生じるカップリング、内的共振、強制運動
 (5)システムにおける受動的自我と幼生的主体との構成、および時-空的純粋ダイナミスムの形成
 (6)システムの二重の分化=差異化を形成し、先の諸要因を覆う、質と広がり、種と部分
 (7)質と延長が展開された世界において、それでもなお、それらの諸要因の執拗な持続を告げる包み込みの中心。…
…まずは(1)と(2)の概念が創造の母胎、/
(3)の概念が媒介者、/
(4)から(7)が生起のメカニズムという点を押さえればよい。》(哲学の歴史、鈴木泉639~640頁)

上記前半部分は、邦訳単行本『差異と反復』412~3頁、結論、見せかけ、とは別訳。

The ontological list

1the depth or spatium in which intensities are organized; 2the disparate series these form, and the fields of individuation that they outline (individuation factors); 3the “dark precursor” which causes them to communicate; 4the linkages, internal resonances and forced movements which result; 5the constitution of passive selves and larval subjects in the system, and the formation of pure spatio-temporal dynamisms; 6the qualities and extensions . . . which form the double differenciation of the system and cover over the preceding factors; 7the centres of envelopment which nevertheless testify to the persistence of these factors in the developed world of qualities and extensities.

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《 (1)諸強度〔差異〕がそこで組織される、深さ、スパティウム〔強度的空間〕。
  (2)諸強度によって形成される、齟齬する諸セリー、諸強度によって描き出される、個体化のもろもろの場(個体化の諸ファクター)。
  (3)諸強度を連絡の状態に置く、「暗き先触れ」。
【ライプニッツ】
 (4)カップリング、内的共鳴、そこから生じる強制運動。【スピノザ】
(5)そのシステムにおける受動的自我と幼生の主体との構成、および、時-空的純粋力動の形成。【デカルト】
   (6)そのシステムの二重の異化=分化を形成し、それらのファクターを覆ってくる、質と広がり、種と部分。【ヘーゲル】
    (7)質と延長が展開された世界において、それでもなおその諸ファクターの執拗な持続を証示する、包み込みの中心。【ニーチェ】
 見せかけ(シュミラクル)のシステムは、発散〔分岐〕と脱中心化を肯定する。》
(邦訳単行本『差異と反復』412~3頁、結論、見せかけ、より)

【】内には引用者が恣意的に哲学者名を入れた。間違っているかもしれないが、『差異と反復』を哲学史として読む試みの一環である。数字は時系列ではない。遡行した後再び流れ出す。この哲学史は思考のモデルになる。《…まずは(1)と(2)の概念が創造の母胎、(3)の概念が媒介者、(4)から(7)が生起のメカニズムという点を押さえればよい》(鈴木泉、哲学の歴史、639~640頁)。アガンベンの図も参考になる。


以下、
アガンベンの『思考の潜勢力(La Potenza del pensiero)』の最後で紹介されている哲学史的見取り図(邦訳単行本では、雑誌掲載時と違いニーチェとドゥルーズとの間に線が追加訂正されている)。

   超越           内在

  カント          スピノザ
    |            |
  フッサール        ニーチェ
      \       /  |
        ハイデガー    |
       /     \   |
レヴィナス、デリダ   フーコー、ドゥルーズ


 TRASCENDENZA                    IMMANENZA


                      Kant                    Spinoza

                       |                           |

                Husserl                     Nietzsche

                           \                    /     |

                              Heidegger       |

                           /                    \     |

     Lévinas, Derrida                  Foucault, Deleuze



《Se tale è la ricchezza e, insieme, l'ambiguità contenuta nel diagramma testamentario L'immanence: une vie..., la sua assunzione come compito filosofico implicherà retrospettivamente la ricostruzione di un tracciato genealogico che distingua chiaramente nella filosofia moderna – che è, in un senso nuovo, in gran parte una filosofia della vita – una linea dell'immanenza da quella della trascendenza, secondo uno stemma approssimativamente di questo tipo: 》(Pagina 377 L'immanenza assoluta )


「(略)彼(引用者注:ドゥルーズ)の遺書を哲学の使命として引き受けるとともに、近代哲学
〜その大部分は、新たな意味での「生の哲学」である〜を内在の線と超越の線ではっきり区別す
るような系譜図を遡及的に再構成してゆくという仕事も、その一端として必然的に課されるので
ある。それはたとえば、このような概略的な系統図が目安になるだろう。」
(アガンベン「絶対的内在」邦訳『現代思想2002.8』邦訳改訂版『思考の潜勢力』再録

///////////


ドゥルーズ『批評と臨床』より


 第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について          


1「〈時間〉の蝶番がはずれている……」        

──シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場 

…『純粋理性批判』とは、北方の王子たるハムレットの本なのだ。カントは、この逆転の全射程を把握することを可能にする歴史的状況の中にいる。…[邦訳単行本『差異と反復』第2章146頁参照]


2「〈私〉とは他者である……」        

──ランボー、一八七一年五月イザンバール宛て書簡、        

一八七一年五月十五日ドゥムニー宛て書簡。

…概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、それは、もはや鋳造[moulage]ではなく変調[modulation]を構成するような〈私─自我〉関係によって二重化されているのである。…[邦訳『シネマ2』第6章213~4頁参照]


3「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか! 

……というのも、それらの法の性質は        

かくしてその内容について秘密を要求するからである」

──カフカ『万里の長城』*

…『実践理性批判』において、カントは法と〈善〉の関係の逆転を行なっており、かくして、純粋にして空虚な単一性にまで法を押し上げている。〈法〉の告げることが善であり、善は法に従属するのであって、その逆ではない。…[*邦訳『カフカ』(第五章87頁^)185頁の訳者解説によると、「法の問題について」(「掟の問題」邦訳『カフカ・コレクション ノート2』147~8頁)が正確な出典元。]


3「あらゆる感覚の錯乱[dérèglement]によって未知なるものへ        

到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、        

あらゆる感覚の錯乱によって」

──ランボー、前掲書簡。

…不協和音の解放、不調和な調和──これこそが、『判断力批判』の偉大なる発見であり、カントの最後の転倒である。…[錯乱については同じく『批評の臨床』第1章「文学と生」に《文学は錯乱である。だが、錯乱は父─母にかかわる事態ではない。民衆=人民、人種、部族の数々を経由せず、世界史に憑依しないような錯乱は存在しない。あらゆる錯乱は歴史─世界的なものであり、「人種と大陸の数々の移動」なのである。文学とは錯乱である。そしてこの資格において、それはみずからの運命を錯乱の二つの極のあいだに賭ける。》とある。]


ハムレットとオイディプスはアンチノミーの関係だ。


「…してみると、カント哲学はもしかして、オイディプスの後継者ではないだろうか。」(財津訳『差異と反復』、単行本版、p.144)。


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ドゥルーズと柄谷にあって吉本にないもの、それはカント**への遡行である。


 「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」(ドゥルーズ『批評と臨床』より)

1「〈時間〉の蝶番がはずれている……」──シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場 
《…『純粋理性批判』とは、北方の王子たるハムレットの本なのだ。カントは、この逆転の
全射程を把握することを可能にする歴史的状況の中にいる。…》

2「〈私〉とは他者である……」──ランボー書簡。
《…概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、それは、もはや鋳造[moulage]
ではなく変調[modulation]を構成するような〈私─自我〉関係によって二重化されて
いるのである。…》

3「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか! 
……というのも、それらの法の性質はかくしてその内容について秘密を要求する
からである」──カフカ『万里の長城』***
《…『実践理性批判』において、カントは法と〈善〉の関係の逆転を行なっており、かくして、
純粋にして空虚な単一性にまで法を押し上げている。〈法〉の告げることが善であり、善は
法に従属するのであって、その逆ではない。…》

3「あらゆる感覚の錯乱[dérèglement]によって未知なるものへ
到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、
あらゆる感覚の錯乱によって」──ランボー、前掲書簡。
《…不協和音の解放、不調和な調和──これこそが、『判断力批判』の偉大なる発見であり、
カントの最後の転倒である。…》

この場合、カントはアソシエーションと同義だ。カントは自律性を模索した。吉本の自立に自律性はなかった。

***邦訳『カフカ』(87^)185頁の訳者解説によると、「法の問題について」が正確な出典元。


**


///////////


第17章 スピノザと三つの『エチカ』


《『エチカ』は三つの要素を呈示している。それらは内容であるのみならず、表現の形式でもある。すなわち、〈記号〉あるいは情動[affect]、〈概念〉あるいはコンセプト[concept]、〈本質〉あるいは知覚対象[percept]がそれである。これらは認識の三つのジャンルに対応しており、このジャンルとは、実存および表現の様態でもある。》


《スピノザがライプニッツから本質的に区別されるのは、ライプニッツが、バロック的インスピレーションに近いと言うべきだが、〈暗きもの〉(《fuscum subnigrum》)のうちに、ある母胎を、ある前提を見てとるから──明─暗が、さまざまな色彩が、そして光さえもがそこから生じてくることになる、そんな母胎を、前提を見てとるからである。スピノザにおいては、反対に、すべては光であり、〈暗きもの〉も影にすぎない。》


《様態とは投影=射影のことである。…

 光の投影としての様態は、同様にして色彩であり、色彩を与える原因である。さまざまな色彩は補完性とコントラストの関係に入り、この関係は、一つひとつの色彩が限界においては全体を構成し、またすべての色彩が組み合わせの秩序にしたがって、あるいは、そこから分解の秩序へと抜け出すことによって、白(無限の様態)のうちに再び結び合うようにするのである。》


《…証明三〇は、一種の崇高な三角形を──だが点描で──描いている。その頂点が光の形象(私、〈世界〉、そして神)であり、距離としてのその辺が、今度は最大のものとして開示される絶対的速度で踏破される、そんな崇高な三角形を。第五部の特殊な性質、先行する部の方法を乗り越えるそのやり方が差し向けるのはつねにここだ。すなわち、光の諸形象の絶対的速度。

  諸々の定義、公理、公準、証明、そして系からなる『エチカ』は、みずからの流れを展開する大河─としての書物である。だが、注解の数々からなる『エチカ』は、火の、地下に隠れた書物である。第五部の『エチカ』は大気の、光の書物であり、稲妻によってそれは事を行なうのだ。記号の論理、コンセプトの論理、本質の論理。すなわち〈影〉、〈色彩〉、〈光〉。三つの『エチカ』のそれぞれは、その本性の差異にもかかわらず、他のものと共存し、他のものの中にみずからを延長している。それは唯一にして同じ世界なのだ。たがいを隔てる空虚を踏み越えるために、それぞれがブリッジを差し伸べているのである。》


http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p30

 定理三〇 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。

 証明 永遠性とは神の本質が必然的存在を含む限り神の本質そのものである(第一部定義八により)。ゆえに物を永遠の相のもとに考えるとは、物を神の本質を通して実在的有として考えること、すなわち物をその存在が神の本質の中に含まれているとして考えることである。したがって我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに考える限り必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り云々。Q・E・D・


吉本隆明はマルクス主義の行き詰まりをヘーゲルに遡行することで打開しようとしたわけだから、比較すべきはドゥルーズではなくて同様の試みをしているジジェクだ。反反核などは戦前の科学観への回帰だが、ジジェクのレトリックと同種で、政治主義的な倒錯なのだ。ヘーゲルからは保守も革新もとり出せるという一例だ。
ドゥルーズは68年の敗北を哲学的に回収したと言えるが、実は本人的には第二次大戦が大きい(だから『シネマ』が主著と言える)。吉本も同じだが、日本にはコジェーヴにあたる人がいないから状況的には孤立して、哲学的な深化は無理だった。吉本の思考は最近の柄谷が受け継いでいてこちらは倒錯ではない。

柄谷にあって吉本にないのはカントへの遡行だ(この場合のカントはアソシエーションと同義だ)。ドゥルーズもカントやハイデガーなど一見敵側に思える哲学者に関する論考が優れている。敵の歌を歌うのが上手いのだ(柄谷のカント賛美は本気だが)。ベルグソンとは資質的に異質だ…方向が違うと言うべきか? 連続ではなく離散的なのだ。ドゥルーズのカント論稿はレトリカルな部分もあるが哲学史を押さえているので筋が通っている。

柄谷がドゥルーズの哲学にスピノザを見たのは正しい。観念と概念を十字に見たのだが、スピノザの場合これは観念を頂点とする三角形になる。概念は観念(頂点)と向かい合う辺になる(バーバラ・ミント流のピラミッド↓になる)。こうしてできたレンズに光を通す写像は次の段階である。吉本はスピノザにヘーゲル以前の神学を見出すが(ハイイメージ論2)これはネグリ以前の認識で起成原因に着目した柄谷に及ばない。吉本は文学作品は読めるが思想に興味はないのではないか?ヘーゲルのスピノザ論を真に受けただけかもしれないが。



***
■ライプニッツ著作集 第II期[1]哲学書簡  酒井潔+佐々木能章監修  2015年3月 刊行予定 
 電話もeメールもない時代に1300人もの哲学者・数学者・神学者、さらには政治 
 家や貴婦人たちと手紙を交わしていたライプニッツ。書簡を精選し、バロックの 
 哲人の思想形成プロセスを甦らせる。待望の『ライプニッツ著作集 第II期』全3巻、ついに刊行開始。 

  チャート図:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』  
             ______|________はじめに:
        差異__|__反復             |/同一性
     ___|__     |序論:    差異の哲学 / の哲学
    |      |  反復と差異     ハイデガー/|ヘーゲル
 一: |      |  __|_反復と         |美しき魂
 それ自身における差異| |   一般性の区別 反復=イデア|
    |      | |  __|__    普遍性  |
 ショーペンハウアー | | |  |  |  一 | 特 |
    |      | |行動  法  概念 般ー十ー殊 |
    | アリストテレス|    /  |  性 | 性 |
    |   類的差異、|キルケゴール_|_  単独性  |
    |  カテゴリーと|    _|_  |      |
    |   種的差異 |   |   | 留保(阻止) |
    |      | |  着衣___裸        |
 一義性と差異    |(時間)リズム| 拍子(空間)   |
 スコトゥス、    | |     |          |
 スピノザ、     | |   二:|     ヒューム |
 ニーチェ      | |それ自身へ向かう反復 ベルクソン|
    | ライプニッツ |___時間の総合 デカルト   |
    |ヘーゲル、カント      |    カント☆  |
    |______|      現在__過去__円環  |
       |     マルクス  |   |   |  |
     ハイデガー   フロイト(習慣__潜在_死の本能)|
 プラトン『ソピステス』    見せかけ   |______|デカルト
       |     理念     ベルクソン|   カント
 四:差異の理念的総合 =多様体  三:思考のイマージュ プラトン
    カント|_________________|障害としての諸公準 256頁
 ライプニッツ         |         /自然的or哲学的
 微分       五:感覚されうるものの___    
   潜在的      非対称的総合      |      表象批判
 可能的+実在的  他者 /良識、共通感覚  結論:差異と反復 存在=
   現働的     ダーウィン           ニーチェ 差異
        個体的差異 個体化 強度の  一義性を永遠回帰における
         強度的 巻き込み  特徴   反復として実現すること 449頁

種的差異アリストテレス63頁
類的差異
個体的差異ダーウィン371頁

習慣156頁
良識208,336,339頁 

マルクス『ブリュメール十八日』150頁,『資本論』283,313頁

 __________

目次図☆☆☆、→シネマ1シネマ2アンチ・オイディプス千のプラトー 
0=はじめに、
  序 論:反復と差異 
1=第1章:それ自身における差異
2=第2章:それ自身へ向かう反復 ☆
3=第3章:思考のイマージュ 
4=第4章:差異の理念的総合 
5=第5章:感覚されうるものの非対称的総合 
6=結 論:差異と反復 

スピノザ『エチカ』について

時間のない人は、

第四部終わりの付録から読むのがいいかも知れないが、岩波文庫版だと

第三部が上巻にあるから4から3へ遡りにくい

内容的に1,2と3,4,5で二巻に分かれている方がいい

合本ならなおいいが、、、、

電子書籍版でも2巻本は検索しにくい

ドゥルーズ『千のプラトー』電子版のように合本版を別途出して欲しい



https://mitizane.wordpress.com/2013/03/24/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%

80%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%

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差異と反復
ジル・ドゥルーズ
財津 理 訳
河出書房新社 ISBN4-309-23029-6
pp.143-144.

第二章 それ自身へ向かう反復

ひび割れた《私》、受動的な自我、そして時間の空虚な形式

デカルトは、《コギト》を瞬間に帰し、時間を排除することによって、あるいは連続創造を行う神にその時間を委ねることによって、はじめて結論を出すことができた。 一般的に言うなら、〔デカルトにおける〕《私》の前提的な同一性の保証は、神自身の一性にほかならないのである。 そのようなわけで、《私》が、まさしく神に負っている同一性を保持するかぎり、〔中世的な〕「神」の視点のかわりに〔近代的な〕《私》の視点を〔デカルトが〕用いたということの重要性は、世間で言われているよりもはるかに小さいのである。 《私》が、神との類似を余すところなく表現するおのれの存続、単純性、同一性を所有するかぎり、神は生き続けるということになる。 逆に言うなら、神が死ねば、《私》の同一性は存続せず、反対に、《私》のうちにおいて、本質的な非類似が、「印の消去(デマルク)〔投げ売り用の商標外し〕」が、神の印(マルク)〔商標〕あるいは刻印のかわりに創設され内化されるのである。 これこそ、カントが、少なくとも一度は、つまり『純粋理性批判』において、きわめて深く見抜いたことである。 すなわち、合理的神学と合理的心理学の同時的消滅、および神の思弁的な死が《私》の亀裂を惹起するその仕方。 〔『純粋理性批判』における〕先験的哲学の最高の主導性が、思考そのものに時間の形式を持ち込むことにあるとするならば、今度はこの形式が、純粋で空虚な形式であるかぎりにおいて、死んだ神と、ひび割れた《私》と、受動的な自我を、破棄できないかたちで意味するのである。 カントはその主導性を徹底していない、というのは確かである。 というのも、神と《私》は、〔『実践理性批判』における〕実践的な復活を体験するからである。 しかも〔『純粋理性批判』における〕思弁的な領域においてさえ、その亀裂は、新たな形式の同一性によって、つまり能動的な総合的同一性によってたちまち埋め合わされてしまい、その一方において受動的な自我は、受容性によって定義されるにすぎず、そのかぎりにおいて、いかなる総合の力能もそなえていないからである。 反対に、すでにわたしたちが見たとおり、もろもろの触発を受け取るキャパシティーとしての受容性は、ひとつの結果でしかなく、そして、受動的な自我は、それ自体受動的な総合(観照-縮約)によって、さらに深いところで構成されるのである。 もろもろの印象や感覚を受け取る可能性は、そうした受動的な総合に由来しているのだ。 カントによる総合と受動性の割りふりは、表象=再現前化の世界を救うための至高の努力である以上、それを維持するわけにはいかないのである。 すなわち、カントによるそのような割りふりにおいて、総合は、能動的なものとして考えられ、《私》における新しい形式の同一性に依拠し、受動性は、総合なき単純な受容性として考えられている。 いま言及したカント的な主導性が繰り返されうるのは、そして時間の形式が死んだ神とひび割れた《私》を同時に維持するのは、受動的な自我に関するまったく別の評価においてである。 そうした意味において、カント哲学の帰趨は、フィヒテあるいはヘーゲルにではなく、ひとりへルダーリンのみにあると言ってよい。 というのも、ヘルダーリンは、純粋時間の空虚〔な形式〕を発見し、この空虚のなかに、神的なものからの連続的な逸脱〔転回〕と、《私》に走る長い亀裂と、そして《自我》を構成する受苦〔受動〕を同時に発見しているからである。ヘルダーリンは、そのような時間の形式のなかで、オイディプスの悲劇と冒険の本質とを、相補的な諸形態をそなえたひとつの死の本能として見てとったのである。 してみると、カント哲学はもしかして、オイディプスの後継者ではないだろうか。


國分功一郎@lethal_notion

そのドゥルーズ没後20年に合わせて、大きなものを出します。ドゥルーズが死後発表を条件に収録したインタビュー映像『アベセデール』のDVD(全三枚)、その日本語版を僕の監修で発売します。最高のチームが翻訳を進めています。作業は終盤に入っています。

発売日も近いうちに発表されるでしょう。 

         現実性(アクチュアリティ)

実在性(リアリティ)+  可能性(ポッシビリティ)


         潜在性(ヴァーチャル)


http://yojiseki.exblog.jp/6300419/
実在性(リアリティ)と可能性(ポッシビリティ)
に、
     現実性(アクチュアリティ)
    と潜在性(ヴァーチャル)
が対立した軸として交差する。
これは柄谷行人『探求2』*における特殊/普遍と個別/一般の区別に相当する。
(リアリティとアクチュアリティの訳語が東浩紀に習って逆になっている。)


         B現実性(アクチュアリティ)

A実在性(リアリティ)+  可能性(ポッシビリティ)


          潜在性(ヴァーチャル)


カント、プラトンは両義的な読みが可能なためABがある。
『差異と反復』はAからBへの読み替えを可能にする運動としてある。

差異と反復5 
   潜在的      
 可能的+実在的  
   現働的     
 

潜在的なものは実在的でもあり得る(左下)、ということ。

訳語は普遍論争と同じで定着していない。

差異と反復5 
   可能的      
 現働的+潜在的  
   実在的     

   現働的      
 可能的+実在的  
   潜在的       

柄谷交換図に対応するのは上図かも知れないが(ヴァーチャルリアリティーがD)、下図もあり得る。

   現働的      
 実在的+可能的  
   潜在的  

ヴァーチャルリアリティーが資本主義なら、ヴァーチャルポッシビリティーがアソシエーションか?

http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY2/9.html
《●垂直方向にアクチュアル/ヴァーチュアルの軸を引く。それは下方(潜在性)から上方(現実性)への力の矢印となるだろう。C.S.パースにならって普遍(確定されないもの)から個別(確定されたもの)へと言ってもいいし(『ヨーロッパ精神史入門』第7章)、木村敏の言葉を借りて「ディオニューソス的ゾーエー」から「アポロン的ビオス」(『関係としての自己』序論)へと言い換えてもいい。リアル/ポッシブルの軸はこの垂直軸(生成軸)に直角に交差する水平軸(存在軸もしくは認識軸)をなす。それは(離人症患者でないかぎり)アクチュアリティとリアリティが表裏一体のものとして現象する世界の界面である。そしてこの二軸の交点において「私」が制度化される。 
 この図式はフェリックス・ガタリが『分裂分析的地図作成法』(49頁)で示した「四つのカテゴリーの交差行列」と相同である。》

ドゥルーズのウィト嫌いはABCを見るまで半信半疑だった。ショーペンハウアー経由で重なるし、ドゥルーズは分析哲学というか論理学(主にライプニッツ関連)から得ているものもあるから水と油ではないはず。


ドゥルーズのABC「左翼について」2/2



以前紹介したドゥルーズのyoutube動画が消されていたので再投稿いたします。

「左翼政権なるものは存在しない」という発言は動画の3分頃。
「(日本人が住所を書く時のように)遠くの知覚から始める」という発言もその後にある。

自己統治の問題を知覚の問題に接続するには? 
自己統治を他者へのシンパシーと両立させるには? 
具体的な判例を重視するには?

プルードンなら貸方借方という複式簿記を自己の内面に持つことが、生成変化を可能にすると言うだろう。


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