新・重元寛人「フロイト全集」を読む 自我とエス新・重元寛人「フロイト全集」を読む
自我とエス
ここに示したのはもちろん、「自我とエス」(1923年)に出てくる図である。今回は、独語版全集のものをとりこんでみた。「続・精神分析入門講義」(1933年)の図と比べると、大きく違うところが二箇所ある。ひとつは「超自我」がここには描かれていないが、「続」の図では表示されていること。もうひとつは、「聴覚帽(Hörkappe, 図では"akust."と表示されている)」である。
この聴覚帽、後の図では消えてしまっているし、他のところでもあんまり出てこないようだが、いったい何なんなんだろう[邦訳著作集訳者注によれば、失語症の研究(1891年)における大脳の聴覚葉を念頭に置いているという。また超自我がその位置から伸びたと解釈も出来る]。
もうひとつ付け加えておくと、自我は、「聴覚帽」を被っており、しかも脳解剖学によって証明されているように、それ は片一方の側だけに限られている。(18-19)
1933年
www.burogu.com/2014_03_01_archive.html
Consistent with the Western tradition in the diagram in "Das ich unt das Es" ( Freud, 1923) (literally "The I and the It", ... is sometimes translated as in the above diagram by "耳殻'(lit outer part of the ear) or "聴覚帽" acoustic cap.
しかし、一緒にそれを抑圧フローは彼の一部でしかありません。 自分が知られている - - 精神的な装置の表面層を我々はすぐに認識し、私たちが向かって病理の扇動で説明し、ほぼすべての偏析は、にのみ関連します。 我々は、これらの比率の図面を設計することができ、しかし、提示の輪郭があり、特別な解釈を取るべきではありません。 約我々は片側のみに脳の解剖学の証言によると、 "自我が「Hörkappeを身に着けていることを追加します。 彼女はそれが間違っていたで彼を座っています。
1 Comments:
blogu.comの武本Timothyです。自由連想をさせていただきます!フロイトは書いていませんが、耳と目の両方の機能は超自我にあるかと思います。どれが母であり、どれが父であるかは文化によって異なるかもしれません。欧米という父が家庭の中でも強い文化では母は黙って聞く耳と化するが、日本というアマテラスの国では母は「共に見ている」(北山修)目としてシミュレーションされています。また、精神内でありながらも、面(和辻)を見るものですし、頭の外にあると感じられています。きゃりぱみゅぱみゅはパンパンパンで目玉を飲み込んだ(あるいは吐き出す)が母らしきものは窓から見ています。女性なろ目との関係には自己愛がありますが、日本においては通常、性的な関係がありません。母は母としてかわいい自己をみてくれています。残念ながら我々欧米人は内面化された耳とは恋愛的な関係を築いており、これは聖書の罪でしょうと思います。「知る」木の見を食べたのはこのことを表しているでしょう。「知る」はセックスをするという意味もあります。
古事記神話ではスサノオの尊は「斑馬」を「逆はぎにはぎて」服屋になぎ入れることがあります。もしかしたら「逆にはぐ」は逆のダジャレかと思います。まだらうま→まうらだま。男根のマラは古くは「まうら」だそうですので、いずれにせよ、性的な行為・罪でしょう。また、芸能の神様のアメノウズメの踊りのときに服を陰部まで下していますので、これが同時にスサノオの踊りであれば、自分の性器は服によって隠されていますから、「逆剥ぎされた斑馬を福屋に入れる」と「女装して踊る」との間には、かなりの類似性があるように思います。もしかしたら笑いによって救われています。想像・視覚会での自己性愛は笑えるものですが、聴覚的記号界では性的な自己愛という罪・グロを隠ぺいできます(c.f. DerridaのThe Post Card)。
なんちゃって
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