A.O補遺より
《バスター・キートンは、すべての部屋がひとつの部屋の中にある彼の家-機械を、母なき家として提示していた。すなわち、ここでは、あらゆることが欲望機械によって生み出される。たとえば独身者たちの食事(『案山子』一九二〇年)。》
《バスター・キートンは、『海底王キートン』において、巨大機械を個人的な、またはカップルや小グループの目的に適応させるという問題を提起することができた。》
《ティンゲリの〈ロトザザ〉のように、機械が組織的にそれ自身の対象を破壊することもある。》
参考:
Jean Tinguely
CH (Pierre Joseph Proudhon), 1986
Iron, wood, grapevine, electric motor
78 X 31 1/2 X 27 1/2 inches
(198 X 80 X 70 cm)
《シュヴィッタースの作品〈メルツ〉Merz は、この絵に描かれている〈コメルツ〉Komerz の最後の音綴である。これらの欲望機械の有用性または無用性、可能性または不可能性について問うことは無駄なことである。》
独kommerz、英commerce
MoMA | Kurt Schwitters. Merz Picture 32 A. The Cherry Picture. 1921
http://www.moma.org/learn/moma_learning/kurt-schwitters-merz-picture-32-a-the-cherry-picture-1921
MoMA | Kurt Schwitters. Merz Picture 32 A. The Cherry Picture. 1921
参考:
Jean Tinguely Museum in Basel 哲学者のドゥルーズが、ほぼ遺作となった著作のなかで、動く彫刻群↑で知られるティンゲリーの「哲学者たち」シリーズについて触れています。 ドゥルーズはその連作にティンゲリーの作品の中ではそれほど高い評価を与えているわけではありませんが、ティンゲリーの造る動くオブジェとドゥルーズの連結していくテクストのイメージはかなり近いと思われます。 ちなみにティンゲリーの動く彫刻は宮崎駿の『ハウルの動く城』↓にも似ています。http://jp.youtube.com/watch?v=VfjnVV4uDHM&feature=related 同時性を連結した装置として体験させる手法はこの三者に共通しているかも知れません。 以下引用です。 <最近、ティンゲリーが、哲学者たちの記念碑的な機械状の肖像をいくつか展示した。それらは、音と、閃光とによって、さらには湾曲した複雑な平面に即した存在の質料および思考のイメージとによって、連言的もしくは選言的な、そして折り畳まれることと広げられることが可能な、様々な力強い無限運動を遂行する作品である。しかし、かくも偉大な芸術家にいささか批判の言を呈してよいとするなら、彼の試みは、いまだ完成の域に達していないように思われる。ティンゲリーは、『ニーチェ』以外の作品においては、たいへんうまくもろもろの機械をダンスさせることができたにもかかわらず、作品『ニーチェ』においては、何もダンスをするものがない。〔根拠律の〕四つの《根》すなわちマーヤのヴェールは、意志と表象としての世界という二面的な平面をいまにも占拠してしまいそうに見えていたのに。作品『ショーペンハウアー』は、わたしたちに、決定的なものは何も与えてくれない。作品『ハイデガー』は、まだ思考をおこなっていない思考の平面の上で、(隠蔽性・非隠蔽性〔真理性〕)をまったく保持していない。機械として描かれる内在平面と、その機械の部品として創造される諸概念に、おそらくいっそうの注意を向ける必要があったのだろう。そのような観点からすれば、かの錯覚を含むカントの機械状の肖像を思い描くことができるだろう(前ページの図を見られたい)。 (画像はドゥルーズがティンゲリーをまねて描いたと思われるカントの「機械状の肖像」。クリックすると拡大します。) 1-音響装置をつけて、《自我》《自我》と絶えず反復する、牛の頭部をそなえた「私は思考する」。 2-普遍概念としてのカテゴリー(四つの大きな表題)、この図では、3の円運動に応じて外に伸びたり引っ込んだりする四つの軸。 3-〔超越論的〕図式の可動式の車輪。 4-それほど深くない水の流れ、すなわち、図式の車輪がそこに潜ったりそこから浮上したりするその内面性の形式としての《時間》。 5-外面性の形式としての《空間》、この図では、岸と底。 6-それら二つの形式の接合としての、流れの底にある、受動的自我。 7-時空を走り抜ける総合判断の諸原理。 8-《私》に内在する、可能的経験の超越論的野(内在平面)。 9-三つの《理念》、あるいは超越の錯覚(絶対的地平において回転する円環、《魂》、《世界》、《神》)。 ここで生じてくる多くの問題は、哲学史ばかりでなく哲学にもかかわっている。内在平面のもろもろの薄層は、或る場合には、互いに対立するほどまでに、またそのひとつひとっがあれこれの哲学者に適合するほどまでに、たがいに離れ、或る場合には反対に、少なくともかなり長い期間通用するようになるために寄り集まる。そのうえ、ひとつの前・哲学的平面〔内在平面〕の創建と、哲学的諸概念の創造とのあいだの関係は、それら自身複雑なものである。長期間にわたって、いく人かの哲学者は、おのれの師として援用するひとりの先行的な哲学者と同じ平面の上にとどまりながらも、また彼と同じイメージを前提としながらも、いくつかの新たな概念を創造することができるー(以下略) > 『哲学とは何か』ドゥルーズpp82-84より
ちなみに下はティンゲリーが制作したプルードンです。 jean tinguely les Philosophes 1999 p27より 哲学者シリーズ クロポトキン
Jean Tinguely
Martin Heidegger
Philosopher
1988
ーーー
histoirart.free.fr/Texteart/tinguely.pdf - このページを訳す
390 × 520 - 1. En 1967, dans un quotidien bâlois, Tinguely évoque la pensée de Lao Tseu et affirme : « Le mou est plus fort que le dur, la langue qui est molle subsiste, les dents qui sont dures se brisent le définitif est provisoire et le chaos est ordre.
//////
ドゥルーズA.O補遺注より(文庫版より。単行本版にはなかった。)
(13) ライヒの生物宇宙論的あるいは生物発生論的な最後の研究の全体は、『オルガスムの機能』の終りにまとめられている。La Fonction de l'orgasme, ch.9. 発生や生殖に対する性の優位は、この場合、細胞分裂を伴う性のサイクル(力学的緊張-電気的充電、等々)を根拠としている (p. 224-227)。しかし、ライヒは彼の著作で、きわめて早い時期から、フロイトが性的な立場を放棄したことを非難している。性的な立場を断念したのは、フロイトの批判者ばかりではない。ある意味ではフロイト自身である。最初は、フロイトが死の本能を導入して、性愛の代りに〈エロス〉について語り始めるときである (Reich, pp. 103-104〔『オルガスムの機能』上、178ページ〕)。ついでフロイトが不安を、性的抑圧の原因とみなし、もはやその結果とはみなさなくなるときである (Reich, pp113-114〔同、上、188-189ページ〕)。もっと一般的にいえば、フロイトが性愛に対する生殖の優位という伝統的見解にもどるときである。(Reich, p. 225.〔同、下、399ページ〕「生殖は性愛の一機能であって、ひとが主張していたように、その逆ではない。性的な観念と生殖的な観念を分けたとき、フロイトは、心理-性愛に関して、すでにこのことを前提としていた。ところが、私には全く不明な理由から、かれは、生殖に奉仕するものとして、思春期の中に性器体制を新たに位置づけたのである」)。ライヒは、明らかに、フロイトのショーペンハウエル的、あるいはワイスマン的なテクストを考えている。そこで性愛は、種と生殖質に依存するものになっているのである。例えば、〈Pour introduire le narcissisme〉, in La Vie sexuelle , P. U. F., pp. 85-86.〔「ナルシシズム入門」懸田克躬・吉村博次訳、『フロイト著作集』5、113-114ページ〕
ライヒ邦訳著作集1,175☆,192☆☆,381頁
☆快楽原則の彼岸(1920年),175頁(自我とイド(1923年))
☆☆抑圧と症状と不安(1926年),191,193頁
著作集
ナルシシズム入門(1914年)5
快感原則の彼岸(1920年)6
自我とイド(1923年)6
抑制、症状、不安(1926年),制止、症状、不安6
全集
ナルシシズムの導入にむけて13
快原理の彼岸17
自我とイド18
制止,症状,不安19
NAMs出版プロジェクト: "My name is Sigmund Freud"
http://nam-students.blogspot.jp/2010/10/my-name-is-sigmund-freud.html
アンチ・オイディプス: 第一章 欲望機械 (15) 第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族 (99) 第三章 未開人、野蛮人、文明人 (263) 第四章 分裂分析への序章 (113)下 マルクス フロイト 2 1 + 3 4
ニーチェの哲学1962「とは何か?」→「誰?」(280頁)
↓
差異と反復1968、ドラマ化
↓
A.O1972、機械
追記:
http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/ao.html
チャート図:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』 ______|________はじめに: 差異 __|__反復 |/同一性 ___|__ |序論: 差異の哲学 / の哲学 | | 反復と差異 ハイデガー/|ヘーゲル 一: | | __|_反復と |美しき魂 それ自身における差異 | | 一般性の区別 反復=イデア | | | | __|__ 普遍性 | ショーペンハウアー | | | | | 一 | 特 | | | |行動 法 概念 般ー+ー殊 | | アリストテレス | /キルケ | 性 | 性 | | 類的差異、 | ゴール _|__ 単独性 | | カテゴリーと | 裸__|_ 空間 | | | 種的差異 | 拍子 | 物質 留保(阻止) | | | | 着 衣 | 一義性と差異 | 時間 リズム / +++++ | スコトゥス、 | | | | スピノザ、 | | 二: | ヒューム | ニーチェ | |それ自身へ向かう反復 ベルクソン | | ライプニッツ |___時間の総合 デカルト | |ヘーゲル、カント | カント | |______| 現在__過去__円環 | | マルクス | | | | ハイデガー フロイト(習慣__潜在_死の本能) | プラトン『ソピステス』他 見せかけ |______|デカルト | 理念 ベルクソン| カント 四:差異の理念的総合 =多様体 三:思考のイマージュ プラトン カント|_________________|障害としての諸公準 ライプニッツ | /自然的or哲学的 微分 五:感覚されうるものの ___ 潜在的 非対称的総合 | 表象批判 可能的◇現実的 他者 /良識、共通感覚 結論:差異と反復 存在= 実在的 ダーウィン ニーチェ 差異 個体化 個体的差異 強度の 一義性を永遠回帰における 強度的 巻き込み 特徴 反復として実現すること 2、時間の総合3はシネマ1,2に通じる。 4、この章で時空概念を提出。次章プラトン『ティマイオス』(邦訳単行本350頁)数学論に繋がる。 5、冒頭カントB序引用は重要。5、 冒頭カントB序引用は重要。
チャート図:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』
______|________はじめに:
差異 __|__
反復 |/同一性
___|__ |序論: 差異の哲学 / の哲学
| | 反復と差異 ハイデガー/|ヘーゲル
一: | | __|_
反復と |美しき魂
それ自身における差異 | |
一般性の区別 反復=イデア |
| | | __|__ 普遍性 |
ショーペンハウアー | | | | | 一 | 特 |
| | |
行動 法 概念 般ー+ー殊 |
|
アリストテレス |
/キルケ | 性 | 性 |
|
類的差異、 |
ゴール _|__ 単独性 |
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カテゴリーと |
裸__|_ 空間 | |
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種的差異 |
拍子 |
物質 留保(阻止) |
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着 衣 |
一義性と差異 |
時間 リズム / +++++ |
スコトゥス、 | | | |
スピノザ、 | | 二:| ヒューム |
ニーチェ | |それ自身へ向かう反復 ベルクソン|
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ライプニッツ |___時間の総合 デカルト |
|
ヘーゲル、カント | カント |
|______| 現在__過去__円環 |
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マルクス | | | |
ハイデガー フロイト (習慣__潜在_死の本能)|
プラトン『ソピステス』他 見せかけ |______|デカルト
|
理念 ベルクソン |
カント
四:差異の理念的総合
=多様体 三:思考のイマージュ プラトン
カント|_________________|
障害としての諸公準
ライプニッツ |
/自然的or哲学的
微分
五:感覚されうるものの ___
潜在的
非対称的総合 | 表象批判
可能的◇現実的
他者 /良識、共通感覚 結論:差異と反復 存在=
実在的
ダーウィン ニーチェ 差異
個体化 個体的差異 強度の 一義性を永遠回帰における
強度的 巻き込み 特徴 反復として実現すること
2、時間の総合3はシネマ1,2に通じる(第一の総合マルクスとフロイトがA.Oへ)。
4、この章で時空概念を提出。次章プラトン『ティマイオス』(邦訳単行本350頁)数学論に繋がる。
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