根井雅弘氏の『市場主義のたそがれ』によると、「外生説」は〈中央銀行が「マネー・サプライ」を決定することができる〉と説明されています。「内生説」は〈マネー・サプライが貨幣需要(有効需要または所得に依存する)から独立ではなく、需要に対して消極的に調整される〉と説明されています。
ざっくりと見通すと、「内生説」が有力で、「外生説」が間違っているような気もしますが、そうとは言い切れない要因もあると思うんですよね。
自分の経験にそくして、二つの違和感を説明してみます。
一つ目は、外生説の代表格であるマネタリストの貨幣数量説です。
貨幣数量説とは、「社会に流通している貨幣の総量とその流通速度が物価の水準を決定しているという理論。流通速度が一定の場合、貨幣の過剰発行によりインフレーションが生じると主張する」という考え方です。この考え方は、厳密には間違っているとは思います。しかし、完全に間違っているわけではないのではないか? いや、完全に間違っているとは、どういう状態なのか? という疑問が浮かんだわけです。貨幣の総量は、社会に何らかの影響を及ぼすのではないか? と思ったわけです。
二つ目は、2009年の定額給付金です。この制度でお金を手にすることで、何らかの需要が生まれたのではないか? という疑問です。この制度でお金を手にしたことから、いつもは買わないはずの何かを買ったという人は多いのではないでしょうか? この経験から、マネタリストの「ヘリコプター・マネー論」には、何らかの効果があるのではないかと考えてしまうのです。
誤解のないように言っておきますが、私はマネタリストには否定的です。「ヘリコプター・マネー論」についても否定的ですが、「内生説」によって理論的には否定できないのではないか? そもそも、「ヘリコプター・マネー論」は原理的には可能なのではないか? 民主政体では、世論の支持次第で「ヘリコプター・マネー論」的な政策が実施されることはありえるのではないか? そのような政策は、社会に何らかの影響を及ぼすのではないか? といった疑問が浮かぶわけです。
ゆたろ君が紹介してくれた↓でも、「ヘリコプター・マネー論」が批判されています。
しかし、ここでの批判は、なぜ論理的にダメなのかという批判ではなくて、馬鹿にするという批判のように読めるわけです。「内生説」において展開されたように、ストラクチャリストによるホリゾンタリストへの論理的な批判とは違うと思うのです。
論理的な批判なら受け入れますが、馬鹿にするという批判の仕方については、私は与することができません。歴史に学ぶなら、ケインズの『若き日の信条』でしょうね。…
貨幣数量説に関しては、数式化した数量方程式、MV=PTにおいては、VとTが安定的ないしは固定的であるとされます。しかしながら、VやTは変化しますのでMとP間の安定的関係は存在しないと言われます。