NAMs出版プロジェクト: 思想の散策 2015~7 柄谷行人
NEWS - 柄谷行人
岩波『図書』連載、柄谷行人「思想の散策」2015/09~20017/04
[2015年]
9月 1.思うわ、ゆえに、あるわ 毎日の言葉#19(デカルト『方法序説』)
10月 2.実験の史学 実験の史学#27
11月 3.山人と山地民 山の人生#4
12月 4.遊牧民と武士 家の話#20(増田義郎『太陽と月の神殿』)
[2016年]
1月 5.海上の道 海上の道#1、海上文化#2(イブン・ハルドゥーン『歴史序説 1』)
2月 6.原無縁と原遊動性 (網野善彦『無縁・公界・楽』、マルクス『資本論 序文』)
3月 7.原父と原遊動性 (フロイト「戦争と死に関する時評」「自我とエス」)
4月 8.山人と山姥 山の人生#4(水田宗子『山姥たちの物語』)
5月 9.山人の歴史学 山人外伝資料#4(赤坂憲雄、岡正雄『異人その他』)
6月 10.山人の動物学 山人外伝資料#4(平岩米吉『狼ーその生態と歴史』)
7月 11.固有信仰と普遍宗教 (藤本透子『現代アジアの宗教』、ニコラス・デ・ラーンジュ『ユダヤ教入門』、ライプニッツ「中国自然神学論」、晴佐久昌英神父『あなたに話したい』)
8月 12.双系制と原遊動性 先祖の話#13(ライプニッツ「中国自然神学論」、フォーテス『祖先崇拝の論理』)
9月 13.続双系制 実験の史学#27(エマニュエル・トッド『家族システムの起源』)
10月 14.夫婦喧嘩の文化 故郷七十年(エマニュエル・トッド『家族システムの起源』)
11月 15.歴史意識の古層 (丸山眞男「歴史意識の『古層』」)
12月 16.インドの山地民と武士 家の話#20(臼田雅之「モハッシェタ・デビ『ドラウパディー』解説」、臼田雅之『近代ベンガルにおけるナショナリズムと聖性』)
[2017年]
1月 17.二つの妖怪 小さき者の声#22、遠野物語#4(村上重良『日本史の中の天皇』)
2月 18.明治憲法と固有信仰 氏神と氏子#14、日本の祭#13
3月 19.柳田国男と島崎藤村 故郷七十年、同拾遺(島崎藤村『夜明け前』)
4月 20(了). 柳田と国学 故郷七十年、『神道と民俗学』自序#13、
日本の祭#13、神道私見#13、海上の道#1
#は引用された作品のちくま文庫巻数
()は柳田以外の参照文献
「故郷七十年」の所収は以下、
旧全集別巻3 1964.9.25 故郷七十年(改訂版)
柳田國男(最新)全集21 故郷七〇年
柄谷は思想の散策#4,#16で柳田國男の武士=山人説を紹介している。
(家の話、九州南部…参照)
柳田國男は農民から分化した後を武士と呼んでいるが。
これは切腹がアイヌの文化だという説とつながる。
参考:
【日露】ロシアの声「刀も腹切りも元はアイヌ文化」:2012/02/07(火) ソース(ロシアの声)
…
腹切りもアイヌ人によって考えられたものなのです!私たちの信仰によれば、魂はお腹の
なかに住んでいると考えられています。そして それは細い糸によって結び付けられていま
す。死んで魂を解放するためには、腹を開いて、その糸を切る必要があります。そうしない
と 人間は生まれ変わることができません。
…
柄谷は山人説をインドに展開、対応させていて興味深い。
遊動論2:1より
神官に向けての講演で、柳田は平田派神道を痛烈に批判した。《古書その他外部の材料を取って現実の民間信仰を軽んじた点、村々における神に対する現実の思想を十分に代表しなかったという点においては、他の多くの神道と古今その弊を一にしているのであります》(「神道私見」)。《要するに神道の学者というものは、不自然な新説を吐いて一世を煙に巻いた者であります。決して日本の神社の信仰を代表しようとしたものではありませぬ》(同前)。さらに、柳田は、「村々における神に対する現実の思想を十分に代表」することによって、いいかえれば、「固有信仰」を明らかにすることによって、「真の神道」を見出す必要がある、そのためには、民俗学が不可欠だ、と説いたのである。
。。。。
《平田の 神道は出來得る限り外國の分子を排除するばかりでなく、更に進んで此方から侵略的態度に出で、天竺の神も大已貴、少彥名であるとか、支那の大乙神も高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の御事であるというようなことを言って、空なる世界統一論者に悦ばれました》(神道私見)
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NAMs出版プロジェクト: ちくま文庫『柳田国男全集』全32巻:目次
8月 12双系制と原遊動性 #13先祖の話
9月 13続双系制 #27実験の史学
10月 14夫婦喧嘩の文化 故郷七十年☆
11月 15歴史意識の古層
12月 16インドの山地民と武士 #20家の話
[2017年]
1月 17二つの妖怪 小さき者、遠野物語
2月 18明治憲法と固有信仰 #14氏神と氏子,#13日本の祭
3月 19柳田国男と島崎藤村 故郷七十年、同拾遺
4月 20(了) 柳田と国学 故郷七十年、#13『神道と民俗学』自序、
日本の祭、#13神道私見、海上の道
#14
三重・和歌山の二県などは、神の森に樟や樅・杉の巨木があったために、大阪辺の商人が
背後から合祀の運動をするなどという悪評さえあった。 私は直接関係しなかったが、南方熊楠という植物学者などは、これに憤慨してあばれまわり、刑事問題までも引き起した、
その記録は今も保存せられている。 『氏神と氏子』(昭和二ー年、定本〕
(現代仮名遣いへ変換)
#13
日本の祭
参詣と参拝
一 これまで神社制度の研究者たちに、とかく見残されようとしていた一つの問題は…
…
六
…
個人各自の信心というものが、人生のために必要だという経験は、通例仏教によって得たもののように説かれているが、私などはむしろ人が家郷の地を出てあるくということが、もっと大きな機会であったろうとまで想像している。少なくとも一門一郷党が集合して、氏の神だけをお祭り申ししている間は、そういう一種の抜け駆けのような祈願は、もとは試みる余地はなかったはずである。
http://www.iwanami.co.jp/tosho/back.html
図書/バックナンバー
「思想の散策」201509~
[2015年]
9月(第799号) 思うわ、ゆえに、あるわ 柄谷行人
わ
私は
一人称代名詞
関西
柳田説
ちくま文庫『柳田国男全集』全32巻:目次
第19巻 1990.7.31
蝸牛考………………………………………… 7
西は何方…………………………………… 177
毎日の言葉………………………………… 417 「知ラナイワ」
*解説(真田信治)……………………… 559
*解題……………………………………… 569
☆
旧全集別巻3 1964.9.25
故郷七十年(改訂版)……………………… 1
柳田國男(最新)全集21 故郷七〇年
《先師と言えば、外国より入って来るものを異端邪説として蛇蝎のように憎み嫌った人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々より万ずの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象のことごとく皇国に御引寄せあそばさるる趣を能く考え弁えて、外国より来る事物はよく選み採りて用うべきことで、申すも長きことなれども、これすなわち大神等の御心掟と思い奉られるでござる」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物が入って来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。》
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CRISIS AND CRITIQUE
Critique of Political Economy
Past issues
2016
Volume 3, issue 3, 16-11-2016
Edited by Frank Ruda & Agon Hamza
精神としての資本、 柄谷行人のCapital as Spirit 2016
《フィリップ・ジェームズ・ハミルトン・グリアソンは、古典派作品「サイレントトレード」(1903)で世界中の静かな取引を研究し、次のように結論づけた。 静かな貿易のために選ばれた場所は中立を保つ必要があります。 例えば聖所が適しています。 これらの場所は市場に成長しました。 市場は外部者や外国人を歓迎し、保護し、多様な個人や地域社会を結びつけ、結果として特別な社会空間を作り出します。 一般に、市場の商品取引所からお金が出てきたと言われています。 それは間違っていません。 しかし市場は非常に特徴的な空間であり、いかなる聖職者や国家による略奪や侵略を妨げる「聖なる中立的な社会空間」であったことに留意すべきである。》 173.google-translate
- The Silent Trade(1903) 日本語訳『沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説』 中村勝訳、ハーベスト社、1997年。グリアスン 表記
Google 翻訳
柄谷行人のCapital as Spirit 2016 は、内容的には、
トランスクリティーク 2:2:4 貨幣の神学・形而上学 (シェークスピア(『アテネのタイモン』経哲草稿経由)関連)itc332頁
世界史の構造 1:2:2 呪術と互酬(モース関連)76頁
と重なる。
『世界史の構造』以降の成果として、グリアスン『沈黙交易』に触れているのが新しい。
《市場は…「聖なる中立的な社会空間」であったことに留意すべきである。 》
ヘーゲルとマルクスの体系、というよりは自身の交換体系を踏まえてマルクスに回帰
しているところがトランスクリティークと違う。
トランスクリティークは交換体系を見つける過程だったので今回は体系から遡行する。
状況的にマルクスが必要だと考えているのだろう。
カント、フロイトの議論のレイヤーを一旦忘れてみたという内容。
(こちらは2017年に刊行予定の定本4の英語版がカバーするだろう)
追記:
弁証法こそ最大のフェティシズムであってこれがゲゼルの解決策を無視させ続けている。
意識的に弁証法の危険を察知したのはプルードンが最初でドゥルーズでさえ怪しい。
『沈黙交易』1997,1903,邦訳40項、122頁より
《しかし他方では、市場に出入りする者は、そこに滞在するあいだは業務遂行上お互いに交流しあいながらともかくも安全である。というのはその場所それ自体が中立的であり、場合によっては聖地と目されるからである。言いかえれば、「平和」という概念がここには樹立されてきた。》
『沈黙交易』1997,1903
目 次
序 言
第一章 序 説
第一節 本書の主題と方法
第二節 集団とその隣人
第三節 異 人
第四節 要 約
第二章 沈黙交易と原初的市場
第一節 沈黙交易
第二節 原初的市場
第三節 論 評
第三章 原初的歓待
第四章 結 論
解説「市場史研究の人類学的方向―H・グリアスンに学ぶ――」中村 勝
典拠引用文献
索 引
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「選挙がどういうわけでこの国ばかり、まっすぐに民意を代表させることができぬかというような、さし迫った一国共通の大問題なども、必ず理由は過去にあるのだから、これに答えるものは歴史でなければならぬ。」(11ページ 柳田国男「実験の史学」からの孫引き)
「まっすぐに民意を代表させる」などということがほんとうに実現した国はあったのかと言えば怪しいものであり、「この国ばかり」などというのは、今になってみれば、柳田の情報不足にほかならないわけだが、もちろん、こんなことは、今だから言える後知恵にほかならない。
選挙のことを言うのは、選挙を通して、日本の国がずんずんとよくなっていくことを期待しているのにほかならない。柳田は、明治以降の日本を、よりよい国にしたい、そういう思いを抱いていた。
「彼は、農商務省に就職し、その後民俗学を志したきっかけをつぎのように述べている。《飢饉と言えば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の経験に導いた一つの理由ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持ちが、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入る動機にもなったのであった》。」(47ページ)
日本の国民が、飢えに苦しむことなく、日常の生活を心配なく送れる、そういう国を作りたかった。
経世済民である。世の中をうまく経営して、民の生活が問題なく送れるように取り計らっていく。もともと経済という言葉は、この経世済民を略した言葉である。柳田国男は、優秀な官僚として、政策を通して国民を救う、経世済民を志したのだ。そして、そのために民俗学を追求したのだという。
明治以降の日本の国の成り立ち、明治国家を作った構想、でっちあげられた理念、といっては言い過ぎなのだろうが、明治政府がひとつの構想のもとに創り上げられたものであるということは確かなことである。
その出来上がりかたが、良かったのかどうか。大筋ではよかったはずであるが、当然のことながらそこにはさまざまな問題がある。たとえば、天候が悪ければ飢饉は起こる。選挙で、必ずしも選良が選ばれない。そういう様々な問題に対して、いちど、過去を振り返って、組み立てなおそうとする。江戸時代以前の日本のありようを参照しようとする。明治の当時の統治のありように疑問を呈する、その材料を、維新以前の時代に求めようとする。
明治国家を作った理念の一方は、西洋からきている。欧米列強の政治的軍事的圧力を背景にした西洋の科学、哲学、思想、学問。もう一方で、日本古来の伝統の見直しもあった。江戸将軍の幕藩体制を超える統治の正統性を天皇に求めた。天皇制と神道の純化、確立。江戸時代よりもっと前、武士が実権を握る中世よりももっと前、古代からの面々と続く日本の伝統、日本らしさ。
そういう意味で、明治国家を作った構想の原作者のひとりは、江戸時代の神道学者平田篤胤であるといって間違いないようだ。かれは明治以降の神道の確立に大きな影響を与えた人物であり、その基礎を作ったといってよい。その平田篤胤であるが、
「たとえば、平田篤胤は漢訳聖書を読んで、神道の改革を行った。」(170ページ)
現在の神道は、決して神代の昔から、自然に形成されたというようなものではないらしい。仏教の影響は言うまでもないが、キリスト教の影響も大きく受けて、神道は創り上げられた。神代の昔から、というように、古来から自然の経過でもって形成されてきた、そういう側面は確かにあるのだが、江戸時代に、平田篤胤らによって、仏教やキリスト教の影響を受けて創り上げられたもの、教義が整えられたものなのだ。
柳田は言う。
「要するに神道の学者というものは、不自然な新説を吐いて一世を煙に巻いたものであります。決して日本の神社の信仰を代表しようとしたものではありませぬ。」(170ページ、柳田「神道私見」から孫引き)
___
柳田は、氏神信仰の歴史的な変遷過程の解明と、日本人の信仰形態の復原とを、同時におこなった。柳田は、「私は折口氏などとちがって、盆に来る精霊も正月の年神も、共に家々の祖神だろうと思って居るのである」と、折口との差異を強調するような発言もしている。その折口信夫は、「柳田先生のやうな優れた、何百年に一人か二人しかないやうなお方だと、人間生活のもつ複雑性をうまく見抜れますが、普通の人には、なかなかそれが出来ないのです」(「山の生活」)とも言っているが、しかし彼もやはり熱烈に神を求めた人である。『民族史観における他界観念』はその豊かな成果であった。折口の求めた神は、柳田のそれとはどこか異なっている。一口に言えば、柳田の求めた神は、折口のもとめた神より大きかった。柳田の神の「探究」は、次の歌に示されるような、ある意味でグロテスクな文学的支えを必要としなかった。
神ここに 敗れたまひぬ
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ
(折口信夫『近代悲傷集』「神 やぶれたまふ」)
むろんこの二人の考えは根本的に同質でありいわば伴信友と平田篤胤が同じである程度に同じだった。柳田は『神道私見』(大・10)で既に次のように語っている。
「所謂平田派の神道と云ふものは、ごく危ない二つの仮定を基礎として立っている。その二つの仮定と申しますのは、一つは喜式時代までの千五百年間には日本の神道には何等の変遷が無かったと云ふこと、第二にはその後の八、九百年間には非常に激しい混乱があったと云ふこと、此二つの仮定を立脚地として居るのであります。(中略)……玄に於てか自分が衷心より景慕の情を表せざるのを得ぬのは伴信友であります。伴翁は平田翁と同じ時分に世に出て、同じ様な学風に浸って居られながら、而も其研究の態度は別であった。どうしても解釈のつかないことは斯う云う事実があるが理由は分からぬ。又はこの點は斯うかもしれぬが確かには言へないと云う風で、断定を避けて専ら材料の蒐集に心を用ゐられた」。
ここで柳田は、国学の方法について語ると同時に、民俗学の方法についても語ろうとしているのは明白である。国学と目的・志向を同じゅうするがゆえに新国学と名づけられた柳田の学問と、宣長の学問の違いも実はこの方法的差異が主なものである。宣長の国学が中心に置いたのは文献資料であり、それは『古事記』その他であった。いっぽう、柳田は「現実に残って居るものならば、至って幽かな切れ切れの記憶と言ひ伝へ、寧ろ忘れそこなひと謂ってもよい隅々の無意識伝承を、少しも粗末にせず湛念に拾い合せて、今まで心づかづに居たことを問題にして行く」(「鼠(ねずみ)の浄土」)という方法を採った。
宣長も柳田も、共に日本の固有信仰の原形を求めて過去へと遡る。しかし、宣長の文献学的な遡行には、決定的な限界があった。書かれたものだけを方法的に問題としたという点で宣長は、自分が批判した儒教の学者と同じ近世的偏見を免れてはいない。両者の争いは、学問の正当性がどの書物によって保証されるか、という本末転倒の議論に堕する危険性を常にはらんでいた。両者は共に、文献資料で確定される限りの過去しか問題にしえなかったのである。しかも、神典の解読が学の中心に置かれ続ける限り、その仕事は、たとえ上首尾にやりおおせたとしても、文芸批評家の仕事以上に出ることはできない。事実、国学は歌学への関心から出発している。儒学もまた、儒書の注釈がその本来の仕事(ワーク)である。
「都鄙遠近のこまごまとした差等が、各地の生活相の新旧を段階づけて居る。その多くの事実の観測と比較とによって、もし伝わってさえ居てくれるならば、大体に変化の道程を跡付けられるものである」(『先祖の話』)
つまり、柳田は民衆生活の「残留資料(フォークロア)」の空間的分布の比較分析によって、段階的に何処までも時間を遡って行く方法を編み出した。柳田は編み出したその方法によって、いわば学を「言語空間」の枠から開放し、国学的古代研究のレベルから、決定的に飛躍したのである。
「実は自分は現代生活の横断面、すなわち毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみに拠って、立派に歴史は書けるものだと思って居る」(『明治大正史世相篇』)とは、その方法に対する特異な自信の程をのぞかせる発言である。(ただしその試みは「失敗した」とこの書に関しては述べている。おそらく日本民俗学の方法論を典型的に示した成功例は古語の退縮過程を検証した『蝸牛考』であると思われる。)
宣長も柳田も、一国の固有の伝統を総体として問題にしたという点で、共通の志向に貫かれていた。しかし、以上のべたように、後者(新国学)は前者(国学)の批判の契機を本質的に内包していたのである。
16 Comments:
柄谷行人 書評委員が選んだ「今年の3点」
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2016122500010.html?guid=on
2016年12月25日
(1)家族システムの起源 1 ユーラシア 上・下(エマニュエル・トッド著、石崎晴己監訳、
藤原書店・上4536円、下5184円)
(2)セカンドハンドの時代(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、松本妙子訳、岩波書店・
2916円)
(3)世界マヌケ反乱の手引書(松本哉著、筑摩書房・1404円)
◇
書評ではトッドの『シャルリとは誰か?』(文春新書)を取り上げたが、私はその後刊行された
(1)を推したい。というのも、彼の現状分析の根底に、家族構造を世界史的に考究した本書の
認識があるからだ。たとえば、近代的と思われている核家族が人類最古の家族制度であること、
また、母系制は父系制が確立した後に反動として生まれたことなど、多くの画期的な考えが提示
されている。(2)は、ソ連時代にひどい目にあったが、その後の資本主義の中で再び、別種の
ひどい状況に置かれた人々の「声」を拾い上げた。もはや出口はないが、人々には苦悩する力が
ある。それが新たな活路を見いだすことになるだろう。それは日本の社会でも同じだ。(3)は
いわば、活路を「マヌケ」に見いだしたのである。
◇
今までの仕事(講演集成および坂口安吾論)をまとめ、来年は「Dの研究」を一から書き直す
予定
Dの研究#4ATプラス26(201611)
「抑圧されたもの 」は殺された原父ではなくて 、 「原遊動性 」 ( U )である 。そして 、それはむしろ 、決して原父のようなものの出現を許さない兄弟同盟を作り出す 。それが国家の出現を妨げる 。したがって 、氏族社会はたんに禁止によって縛られた抑圧的な社会ではない 。1971
この当時、エジプトの政治情勢はエジプトの宗教に対して持続的に影響を及ぼすようになり始めていた。偉大なる征服者トトメス三世の戦功によってエジプトは世界的国家となり、南はヌビア、北はパレスティナ、シリア、そしてメソポタミアの一部まで帝国の支配下に属するようになっていた。この帝国主義が宗教においては普遍主義と一神教として現れるようになった。いまやファラオはエジプト外部のヌビアやシリアをも包括的に配慮しなければならなくなり、神性もまたその民族的な限定を放棄せざるをえなくなった。そして、ファラオがエジプト人に知られていた世界の唯一かつ絶対の支配者であったことと軌を一にして、エジプト人の新たな神性もまた、おそらく、唯一かつ絶対にならざるをえなかったのだろう。これに加えて、帝国の支配領域拡大とともにエジプトが外国からのもろもろの影響に身を曝すようになったのも自然の成り行きであった。王の妃の多くはアジアの王女たちであったし(12)、おそらくは、一神教への動きを進める直接的な刺激すらもシリアから入り込んできたのであろう。
( 「モ ーセという男と一神教 」 『フロイト全集 2 2 』岩波書店 、 p . 2 2 )ちくま文庫と同一 2001
エリア ーデによれば 、そのとき 、アトン神だけでなく 、イクナ ートン自身が神として崇められていた ( 『世界宗教史 』 ) 。2004
《世界帝国への進行は常にまた世界神への進行である 》 ( 『道徳の系譜 』木場深定訳 、岩波文庫 、 p . 1 0 9 ) 。2030
10:34地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 10:35わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 10:36そして家の者が、その人の敵となるであろう。 10:37わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 10:38また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 10:39自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
10:40あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 10:41預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。 10:42わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
(マタイ10章34節から42節)
Matthew / マタイによる福音書 -10 : 聖書日本語 - 新約聖書 口語訳
https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/10.htm#0
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
Matthew / マタイによる福音書 -12 : 聖書日本語 - 新約聖書
https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/12.htm
46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。
49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。2070
ロ ーマ人が都市化していた世界が農村化する 。道路 、工房 、倉庫 、潅漑設備 、耕作地が廃墟となる 。技術が退行し 、とりわけ石が使われなくなって主要建築資材は木材にもどる 。 … …都市(ウルブズ)の代わりに 、大所領ウィッラ [自給自足型の要塞化した農場 ]が登場し 、これが経済と社会の基本要素となる 。 … …貨幣経済は衰退し 、物々交換が増加する 。広域貿易は 、塩のような必需品をのぞいてほぼ消滅する 。 (ジャック ・ル ゠ゴフ 『ヨ ーロッパは中世に誕生したのか ? 』 (菅沼潤訳 、藤原書店 、 p p . 7 7 –7 8 )2105
ヨ ーロッパを若がえらせたのは 、ドイツ人特有の民族的特性ではなく 、たんに ─ ─彼らの未開性 、彼らの氏族制度だったのである 。
彼らの個人的なたくましさと勇気 、彼らの自由精神と 、すべての公務を自分自身の仕事と見る民主主義的本能 、要するに 、ロ ーマ人がなくしてしまい 、しかもそれだけがロ ーマ世界の泥土から新しい諸国家をつくりだし新しい民族体を成長させることができたすべての特性 、 ─ ─これは 、高段階の未開人の特徴でなくて 、彼らの氏族制度の果実でなくてなんであったろうか ? ( 「家族 、私有財産および国家の起原 」 ( 『マルクス ゠エンゲルス全集 2 1 』 p . 1 5 5 )2133
ウェーバープロ倫 2178
修道院が始めたことを 、中世の同業組合が成しとげた 。同業組合は 、工芸と商業における連合組織の新しい基礎を置いただけでなく 、宗教によって条件づけられた美的 、道徳的価値を仕事に復活したからであり 、生活の他の面もそれらの価値によって支配された 。 ( 『機械の神話 』樋口清訳 、河出書房新社 、 p . 3 8 1 )2186
カウツキ ーは書いている 。 《まさに修道院が他の経済経営体より経済的に優れていたからこそ ( … … ) 、高貴の保護者から富と力を授からなくても 、早晩富と勢力を得るにいたったに違いなかった 。ところで 、勢力と富とは他人の労働を自由に使役することである 。そこで修道士や修道女は自分自身の労働に頼ることをやめて 、他人の労働で暮せるようになり 、この可能性を利用したのはいうまでもない 。そこで修道院は生産協同組合から搾取協同組合になった 》 ( 『中世の共産主義 』栗原佑訳 、法政大学出版局 、 p . 1 6 5 ) 。2192
ノ ーマン ・コ ーンは 、千年王国主義の特徴をつぎのようにまとめている 。
1千年王国主義は 、彼岸的でなく 、現世的であること 。
2共同体を実現すること 。
3絶対的に完全な社会が実現されること 。
4超自然的な力によって奇跡的に実現されること 。
5終末論的 ・緊迫的であること 。
( 『千年王国の追求 』江河徹訳 、紀伊國屋書店 )2224
"最初の「始め」のユートピアは、たんなる「太古」の先史的なものから脱したがっている。この「太古」とは、救いがたく過ぎ去り失跡してしまっているものか、さもなければ中断させられた未成の内実を内包したものかの、どちらかである。そして、これらロマン主義的な名称を付された内実の、依然として残されている意義は、みずからロマン主義的にではなく、未成のもの、まだ成っていないものの志向からのみ、要するに、とどめられている過去からではなく、おしとどめられている未来の道からこそ、明らかにされるのだ。(ブロッホ『この時代の遺産』(池田浩士訳、水声社、p.177)"2262
《十字軍という巨大事業は長期にわたって民衆のメシア運動の温床となった 》 ( 『千年王国の追求 』 p . 8 3 ) 。本来の十字軍とは別に 、さまざまな民衆十字軍が形成された 。コ ーンは 、それは 《一種の千年王国運動の最初の試みであった 》という (同前 p . 9 7 ) 。2270
坂口安吾と中上健次 (批評空間叢書)
出版社: 太田出版 (1996/02)
1998年
5月
『坂口安吾全集』全17巻(関井光男との共編・筑摩書房〜2006年・完結の予定)、
『Meiange』『坂口安吾全種月報』に「坂口安吾について1〜17」を連載(〜1前掲)
8月
「坂口安吾の普遍性をめぐって」(関井光男との対談)を『「国文学解釈と鑑賞」別冊・坂口安吾と日本文化』に発表
1999年
10月
東洋大学井上円了記念学術センター主催の坂口安吾をめぐるシンポジウムで講演(「坂口安吾について」)
2000年
5月
1日、「安吾とフロイト」を坂口安吾『堕落論』新潮文庫の解説として発表
2001年
12月
「入れ札と籤引き」を『文学界』新年号に発表
京都の花園大学で行われた坂口安吾研究会の大会で講演(「坂口安吾とアナーキズム」)
2016年
111年目の坂口安吾」 佐藤優 柄谷行人
(『文学界』 2017年1月号)
Dの研究#4 ATプラス26(201611)
7世界帝国と普遍宗教
1
ウェーバー
2
フロイト 1930
「抑圧されたもの 」は殺された原父ではなくて 、 「原遊動性 」 ( U )である 。そして 、それはむしろ 、決して原父のようなものの出現を許さない兄弟同盟を作り出す 。それが国家の出現を妨げる 。したがって 、氏族社会はたんに禁止によって縛られた抑圧的な社会ではない 。1971
3
この当時、エジプトの政治情勢はエジプトの宗教に対して持続的に影響を及ぼすようになり始めていた。偉大なる征服者トトメス三世の戦功によってエジプトは世界的国家となり、南はヌビア、北はパレスティナ、シリア、そしてメソポタミアの一部まで帝国の支配下に属するようになっていた。この帝国主義が宗教においては普遍主義と一神教として現れるようになった。いまやファラオはエジプト外部のヌビアやシリアをも包括的に配慮しなければならなくなり、神性もまたその民族的な限定を放棄せざるをえなくなった。そして、ファラオがエジプト人に知られていた世界の唯一かつ絶対の支配者であったことと軌を一にして、エジプト人の新たな神性もまた、おそらく、唯一かつ絶対にならざるをえなかったのだろう。これに加えて、帝国の支配領域拡大とともにエジプトが外国からのもろもろの影響に身を曝すようになったのも自然の成り行きであった。王の妃の多くはアジアの王女たちであったし(12)、おそらくは、一神教への動きを進める直接的な刺激すらもシリアから入り込んできたのであろう。
( 「モ ーセという男と一神教 」 『フロイト全集 2 2 』岩波書店 、 p . 2 2 )ちくま文庫と同一 2001
エリア ーデによれば 、そのとき 、アトン神だけでなく 、イクナ ートン自身が神として崇められていた ( 『世界宗教史 』 ) 。2004
《世界帝国への進行は常にまた世界神への進行である 》 ( 『道徳の系譜 』木場深定訳 、岩波文庫 、 p . 1 0 9 ) 。2030
4
マタイ2035
Matthew / マタイによる福音書 -19 : 聖書日本語 - 新約聖書
https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/19.htm#0
21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
Acts / 使徒言行録 -4 : 聖書日本語 - 新約聖書
https://www.wordproject.org/bibles/jp/44/4.htm#0
32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。
33 使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。
34 彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、
35 使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。
カウツキー2035
10:34地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 10:35わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 10:36そして家の者が、その人の敵となるであろう。 10:37わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 10:38また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 10:39自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
10:40あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 10:41預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。 10:42わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
(マタイ10章34節から42節)
Matthew / マタイによる福音書 -10 : 聖書日本語 - 新約聖書 口語訳
https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/10.htm#0
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
Matthew / マタイによる福音書 -12 : 聖書日本語 - 新約聖書
https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/12.htm
46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。
49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。2070
ロ ーマ人が都市化していた世界が農村化する 。道路 、工房 、倉庫 、潅漑設備 、耕作地が廃墟となる 。技術が退行し 、とりわけ石が使われなくなって主要建築資材は木材にもどる 。 … …都市(ウルブズ)の代わりに 、大所領ウィッラ [自給自足型の要塞化した農場 ]が登場し 、これが経済と社会の基本要素となる 。 … …貨幣経済は衰退し 、物々交換が増加する 。広域貿易は 、塩のような必需品をのぞいてほぼ消滅する 。 (ジャック ・ル ゠ゴフ 『ヨ ーロッパは中世に誕生したのか ? 』 (菅沼潤訳 、藤原書店 、 p p . 7 7 –7 8 )2105
ヨ ーロッパを若がえらせたのは 、ドイツ人特有の民族的特性ではなく 、たんに ─ ─彼らの未開性 、彼らの氏族制度だったのである 。
彼らの個人的なたくましさと勇気 、彼らの自由精神と 、すべての公務を自分自身の仕事と見る民主主義的本能 、要するに 、ロ ーマ人がなくしてしまい 、しかもそれだけがロ ーマ世界の泥土から新しい諸国家をつくりだし新しい民族体を成長させることができたすべての特性 、 ─ ─これは 、高段階の未開人の特徴でなくて 、彼らの氏族制度の果実でなくてなんであったろうか ? ( 「家族 、私有財産および国家の起原 」 ( 『マルクス ゠エンゲルス全集 2 1 』 p . 1 5 5 )2133
5
5
アウグスティヌス 2133
ウェーバープロ倫 2178
修道院が始めたことを 、中世の同業組合が成しとげた 。同業組合は 、工芸と商業における連合組織の新しい基礎を置いただけでなく 、宗教によって条件づけられた美的 、道徳的価値を仕事に復活したからであり 、生活の他の面もそれらの価値によって支配された 。 ( 『機械の神話 』樋口清訳 、河出書房新社 、 p . 3 8 1 )2186
カウツキ ーは書いている 。 《まさに修道院が他の経済経営体より経済的に優れていたからこそ ( … … ) 、高貴の保護者から富と力を授からなくても 、早晩富と勢力を得るにいたったに違いなかった 。ところで 、勢力と富とは他人の労働を自由に使役することである 。そこで修道士や修道女は自分自身の労働に頼ることをやめて 、他人の労働で暮せるようになり 、この可能性を利用したのはいうまでもない 。そこで修道院は生産協同組合から搾取協同組合になった 》 ( 『中世の共産主義 』栗原佑訳 、法政大学出版局 、 p . 1 6 5 ) 。2192
6
ノ ーマン ・コ ーンは 、千年王国主義の特徴をつぎのようにまとめている 。
1千年王国主義は 、彼岸的でなく 、現世的であること 。
2共同体を実現すること 。
3絶対的に完全な社会が実現されること 。
4超自然的な力によって奇跡的に実現されること 。
5終末論的 ・緊迫的であること 。
( 『千年王国の追求 』江河徹訳 、紀伊國屋書店 )2224
"最初の「始め」のユートピアは、たんなる「太古」の先史的なものから脱したがっている。この「太古」とは、救いがたく過ぎ去り失跡してしまっているものか、さもなければ中断させられた未成の内実を内包したものかの、どちらかである。そして、これらロマン主義的な名称を付された内実の、依然として残されている意義は、みずからロマン主義的にではなく、未成のもの、まだ成っていないものの志向からのみ、要するに、とどめられている過去からではなく、おしとどめられている未来の道からこそ、明らかにされるのだ。(ブロッホ『この時代の遺産』(池田浩士訳、水声社、p.177)"2262
《十字軍という巨大事業は長期にわたって民衆のメシア運動の温床となった 》 ( 『千年王国の追求 』 p . 8 3 ) 。本来の十字軍とは別に 、さまざまな民衆十字軍が形成された 。コ ーンは 、それは 《一種の千年王国運動の最初の試みであった 》という (同前 p . 9 7 ) 。2270
注
バルト「イエス・キリストと社会運動」
教会と国家〈1〉「赤い牧師」・「弁証法神学」時代から反ナチズム・教会闘争時代へ (バルト・セレクション) 文庫 – 2011/3
カール バルト (著), Karl Barth (原著), 天野 有 (翻訳)
参考:
『現代思想』2015年1月臨時増刊号より、
佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第109回 教会論(2-1)
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2015/01/post-136.html
「イエスとは社会運動であり社会運動とはイエスである」であるというバルトの発想は、スイスという国家が誓約共同体国家であるという文脈を抜きに考えることができません。柄谷氏が言う、未だ実現されていない交換様式Dをマルクスは共産主義という名で表そうとしました。キリスト教徒が「神の国」や「千年王国」という名で表現しようとしたものと、マルクスの考えた共産主義が、本質において同じ事柄ではないかというのが柄谷氏の問題意識です。私は、バルトが考える「神の国」は、柄谷氏の言う交換様式Dと言い換えることができると考えます。
もう少し、柄谷氏の議論を細かく追っていきましょう。
〈柄谷 バルトはドイツの大学で教えた人だし、私は漠然とドイツの文脈で読んでいたのですが、社会主義といっても、キリスト教といっても、ドイツとスイスでは違う。キリスト教という面では、ドイツはルター派で、スイスはカルヴァン派です。社会民主党という面では、ドイツでは第一次世界大戦に参加したのに対して、スイスでは拒否している。そもそもスイスは国家として中立でしたが。しかし、私はこういう違いを考慮していなかったので、バルトに関しても読み方が浅かったと思います。例えば、ドイツでは社会民主党は非宗教的でしたが、それはエンゲルスやカウツキーが宗教を斥けたからではない。彼らは宗教批判をしていない。むしろその逆です。宗教否定というのはレーニン主義以降ではないでしょうか。
コーン
アンサーリー
https://www.amazon.co.jp/dp/431401086X
イスラームから見た「世界史」 単行本 – 2011/8/29
タミム・アンサーリー (著), 小沢千重子 (翻訳)
#19
201703
…
藤村がキリスト教徒となったのは、父を裏切ることであった。事実、『夜明け前』では、半蔵が最後に狂気に陥った原因は、息子が父の信じる平田神道を見棄てたことであるように見える。それについて、藤村自身悩んだであろう。が、『夜明け前』を書く時点では、それを解決する考えに達していたと思われる。彼はそれを、篤胤の師である本居宣長の著作に見出した。宣長は、自分の説に従う者らに、今後によい考えがあったら、師の説にこだわらず、その考えを広めよ、といった。道を明らかにすることがすなわち師を用うことだ、と。
そうだとしたら、キリスト教に向かうことは、別に父を裏切ることではない。実は、平田篤胤の神道自体、彼が宣長の説にこだわらず「よい考え」を導入したことで形成されたのである。篤胤は、中国で布教したイエズス会宣教師マテオ・リッチの著作を読んで、キリスト教教理を研究したのだ。『霊の真柱』、『古史伝』では、全能の創造神、三位一体、原罪、死後審判の考えを導入した。たとえば、天之御中主神が唯一神であるが、高皇産霊神、神皇産霊神も三位一体をなすのだと彼は考えた。
また、宣長が世の悪を「禍津日神」というカミに帰しているのに対して、篤胤はそれを人間の責任にした。そのように、篤胤はキリスト教のような「外」の思想を受け入れて、それまでの神道を変えてしまった。と同時に、キリスト教や儒教を、日本から輸出された思想だという「本地垂透説」を唱えたのである。そこから、彼の排外主義、さらに平田派の排外主義が生じた。
しかし、『夜明け前』を書いた時点では、藤村は篤胤についてつぎのような見解に達していたのである。主人公青山半蔵は、平田篤胤の遺著『静の岩屋』を読んで驚いたことを回想する。
先師と言えば、外国より入って来るものを異端邪説として蛇蝠のように憎み嫌った人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々より万ずの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象のことごとく皇国に御引寄せあそばさるる趣を能く考え弁えて、外国より来る事物はよく選み採りて用うべきことで、申すも長きことなれども、これすなわち大神等の御心掟と思い奉られるでござる」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物が入って来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。(『夜明け前』岩波文庫。第二部下)
(からたにこうじん。思想家)
島崎藤村 夜明け前 第二部下
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1507_14593.html
六
…
先師平田篤胤の遺著『静しずの岩屋いわや』をあの王滝の宿で読んだ日のことは、また彼の心に帰って来た。あれは文久三年四月のことで、彼が父の病を祷いのるための御嶽おんたけ参籠さんろうを思い立ち、弟子でしの勝重かつしげをも伴い、あの山里の中の山里ともいうべきところに身を置いて、さびしくきこえて来る王滝川の夜の河音かわおとを耳にした時だった。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎だかつのように憎みきらった人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々とつくにぐにより万よろづの事物ものごとの我が大御国おおみくにに参り来ることは、皇神すめらみかみたちの大御心おおみこころにて、その御神徳の広大なる故ゆえに、善よき悪あしきの選みなく、森羅万象しんらばんしょうのことごとく皇国すめらみくにに御引寄せあそばさるる趣を能よく考へ弁わきまへて、外国とつくにより来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏かしこきことなれども、是これすなはち大神等おおみかみたちの御心掟みこころおきてと思い奉られるでござる、」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保てんぽう年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物がはいって来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。
言葉もまた重要な交通の機関である。かく万国交際の世の中になって、一切の学術、工芸、政治、教育から軍隊の組織まで西洋に学ばねばならないものの多いこの過渡時代に、まず外国の言葉を習得して、自由に彼と我との事情を通じうるものは、その知識があるだけでも今日の役者として立てられる。今や維新と言い、日進月歩の時と言って、国学にとどまる平田門人ごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得なかった。ただ半蔵としては、たといこの過渡時代がどれほど長く続くとも、これまで大和言葉やまとことばのために戦って来た国学諸先輩の骨折りがこのまま水泡すいほうに帰するとは彼には考えられもしなかった。いつか先の方には再び国学の役に立つ時が来ると信じないかぎり、彼なぞの立つ瀬はなかったのであった。
先師の書いたものによく引き合いに出る本居宣長の言葉にもいわく、
「吾われにしたがひて物学ばむともがらも、わが後に、又またよき考への出いで来きたらむには、かならずわが説にななづみそ。わがあしき故ゆえを言ひて、よき考へを弘ひろめよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせむとなれば、とにもかくにも道を明らかにせむぞ、吾を用ふるにはありける。道を思はで、いたづらに吾を尊とうとまんは、わが心にあらざるぞかし。」
書評・最新書評 : 本音で語る沖縄史 [著]仲村清司 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011082800012.html
2011年08月28日
本音で語る沖縄史 [著]仲村清司
[評者]柄谷行人(哲学者)
[ジャンル]歴史ノンフィクション・評伝
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表紙画像
著者:仲村 清司 出版社:新潮社
■複眼的視点、世界史の中で通観
昨年まで普天間基地の移転をめぐる騒動があったことは、震災後に忘れられている。しかし、近い将来、沖縄の問題がもっと深刻な争点になることはまちがいない。これは、その危険が明らかなのに、事故が現実に起こるまでは、それを見ないできた原発の問題と似ている。歴史的に、沖縄の問題は、中国、日本、そして、ペリー来航以後はアメリカがからんでいる。別の観点からいうと、日本、中国、アメリカとの間に対立が生じるとき、それは必ず沖縄(尖閣諸島もふくめて)の問題にかかわるのである。
沖縄の問題を考えるためには、その歴史を知らなければならない。戦後の米軍基地、戦争末期の事件、明治時代の琉球処分、明・清朝と薩摩に二重帰属した琉球時代、さらに、それ以前の、アジアとの交易によって自立的な地域世界を築いた時代に関して、いろんな本があり、くわしい研究もある。しかし、全体として沖縄の歴史を世界史の中において通観する、しかも平易に書かれた本を探そうとすると、難しい。そのような要望を満たす本として、私は本書を推薦したい。
著者は「沖縄人二世」として大阪に育ち、中年になって沖縄に渡り住むようになった人である。たぶん、そのことが本書に、ユーモラスで複眼的な視点をもたらしている。沖縄の困難はたんに外から来るのではない。たとえば、琉球王朝は薩摩藩に支配される一方、他の島(宮古・八重山など)を苛酷(かこく)に支配してきた。そのため、琉球王朝の滅亡を歓迎する人たちがいたし、また、今も沖縄人は一体的となりにくい。「歴史に学ぶとすれば、沖縄に残された選択肢は、まことに険しい道のりではあるものの、やはり『自立』に向けて自らの将来像を描く道を模索するほかないのではないか」と、著者はいう。沖縄の「自立」のためには、「本音で語る」歴史を踏まえなければならない。
◇
新潮社・1470円/なかむら・きよし 58年生まれ。96年に那覇市に移住。作家、沖縄大学非常勤講師。
岩波『図書』連載、柄谷行人「思想の散策」17、2017/1
『夜明け前』の主人公、青山半蔵が王政復古を渇望したのは、山林を古代のように共有地とすることを実現する
ためであった。彼は森林の使用を制限する尾張藩を批判し、明治維新に希望を抱いた。しかし、維新後に彼が見たのは、
近代西洋化(文明開化)であり、山林の国有化によって一切の伐採を禁じるという仕打ち柄谷行人であった。しかも、
ここには、藤村が書かなかった問題がある。それは、山林の国有化が皇室財産である御料林を増やすためになされたと
いうことにある。村上重良は、つぎのようにいっている。
たとえば尾張藩では、本曾のヒノキの山は御留め山という扱いで藩の所有であり、周辺の住民はそこへ入って下草を
刈ったり下枝を取ったりする入会権を伝統的に認められていた。しかし御料林への編入にさいしては、そういう既得権を
いっさい認めず、立ち入り禁止とした。また所有関係が曖昧なものも、御料林に編入してしまった。そういうことで、北
は北海道から南は九州まで、広大な面積の御料林が設定された。(『日本史の中の天皇』講談社学術文庫)
村上[重良]によれば、明治初期に「ごく小規模の資産しかなかった皇室は、明治維新からわずか七十数年のうちに、
世界有数の富豪といわれるまでに資産を拡大した」のである。明治維新のころ、国学者も農民も、王政復古によって
尾張藩時代からあった山林問題が解決されるだろうと期待した。が、復古した「王政」は、古代を復古させるどころで
はなかった。近年まで存在した「古代」の痕跡である共同所有を一掃したのである。
このことで私が想起するのは、若いマルクスが学者の道を断念して「ライン新聞」の記者となったときに書いた論説
(一八四二年)である。彼は当時ライン州で頻発した「木材窃盗」事件をとりあげた。窃盗といっても、貧しい人々が
森で木材や枯れ枝を集める慣習的行為が、私有財産制の発達の下で、窃盗として取り締まられるようになっただけである。
マルクスはむろん農民を擁護しようとしたのだが、この問題をたんに法律的に考えたため、有効な結論を出せなかった。
しかし、後に彼自身が述べているように、この事件が、彼の視点を経済学の分野に向ける一契機となった。つまり、これ
は貨幣経済の一般的浸透によって生じた事件なのである。
したがって、このような事件は、別にドイツに限定されない。日本でも、明治以後、各地で「入会地」にかかわる紛争
が起こった。今でも続いているところがある。『夜明け前』のケースでは、森林は国有化された。が、国有は私有財産制に
反するのではなく、逆に、後者の一形態なのだ。私有・国有の反対概念は、共同所有である。島崎藤村の父にとって、
この共同所有をとり戻すことが、「復古」であり平田神道の道であった。
一方、柳田国男は農政学者として最初から、「協同組合」に取り組んだ。本来、協同組合は産業資本主義に対抗する
「協同自助」的な運動であり、 一九世紀の半ばに、イギリスでロバート・オーウェンなどによって推進され、他の
地域にも広がった。だが、ドイツでは、それは国家主導で組織されるものとなり、それが「産業組合法」として日本に
導入されたのである。それに対して、柳田の考えはイギリスの協同組合論に立ち帰るものである。また、それは晩年に
社会主義を唱えた自由主義者、J・S・ミルの考えに近いものであった。ただ、重要なのは、柳田がそれをたんに輸入
するのではなく、同様の試みを日本や中国の近代以前の社会に見ようとしたことである。
岩波『図書』連載、柄谷行人「思想の散策」17 、2017/1
『夜明け前』の主人公、青山半蔵が王政復古を渇望したのは、山林を古代のように共有地とすることを実現する
ためであった。彼は森林の使用を制限する尾張藩を批判し、明治維新に希望を抱いた。しかし、維新後に彼が見た
のは、近代西洋化(文明開化)であり、山林の国有化によって一切の伐採を禁じるという仕打ち柄谷行人であっ
た。しかも、ここには、藤村が書かなかった問題がある。それは、山林の国有化が皇室財産である御料林を増やす
ためになされたということにある。村上重良は、つぎのようにいっている。
たとえば尾張藩では、本曾のヒノキの山は御留め山という扱いで藩の所有であり、周辺の住民はそこへ入って
下草を刈ったり下枝を取ったりする入会権を伝統的に認められていた。しかし御料林への編入にさいしては、そう
いう既得権をいっさい認めず、立ち入り禁止とした。また所有関係が曖昧なものも、御料林に編入してしまった。
そういうことで、北は北海道から南は九州まで、広大な面積の御料林が設定された。(『日本史の中の天皇』
講談社学術文庫)
村上[重良]によれば、明治初期に「ごく小規模の資産しかなかった皇室は、明治維新からわずか七十数年の
うちに、世界有数の富豪といわれるまでに資産を拡大した」のである。明治維新のころ、国学者も農民も、王政
復古によって尾張藩時代からあった山林問題が解決されるだろうと期待した。が、復古した「王政」は、古代を
復古させるどころではなかった。近年まで存在した「古代」の痕跡である共同所有を一掃したのである。
このことで私が想起するのは、若いマルクスが学者の道を断念して「ライン新聞」の記者となったときに書い
た論説(一八四二年)である。彼は当時ライン州で頻発した「木材窃盗」事件をとりあげた。窃盗といっても、
貧しい人々が森で木材や枯れ枝を集める慣習的行為が、私有財産制の発達の下で、窃盗として取り締まられる
ようになっただけである。マルクスはむろん農民を擁護しようとしたのだが、この問題をたんに法律的に考えた
ため、有効な結論を出せなかった。しかし、後に彼自身が述べているように、この事件が、彼の視点を経済学の
分野に向ける一契機となった。つまり、これは貨幣経済の一般的浸透によって生じた事件なのである。
したがって、このような事件は、別にドイツに限定されない。日本でも、明治以後、各地で「入会地」にかか
わる紛争が起こった。今でも続いているところがある。『夜明け前』のケースでは、森林は国有化された。が、
国有は私有財産制に反するのではなく、逆に、後者の一形態なのだ。私有・国有の反対概念は、共同所有であ
る。島崎藤村の父にとって、この共同所有をとり戻すことが、「復古」であり平田神道の道であった。
一方、柳田国男は農政学者として最初から、「協同組合」に取り組んだ。本来、協同組合は産業資本主義に
対抗する「協同自助」的な運動であり、 一九世紀の半ばに、イギリスでロバート・オーウェンなどによって
推進され、他の地域にも広がった。だが、ドイツでは、それは国家主導で組織されるものとなり、それが「産
業組合法」として日本に導入されたのである。それに対して、柳田の考えはイギリスの協同組合論に立ち帰る
ものである。また、それは晩年に社会主義を唱えた自由主義者、J・S・ミルの考えに近いものであった。
ただ、重要なのは、柳田がそれをたんに輸入するのではなく、同様の試みを日本や中国の近代以前の社会に
見ようとしたことである。
柳田は報徳社を無意味に攻撃することで江戸から連続する協同組合の芽を摘んでしまった
柳田は明治官僚の枠を出られなかった
ちなみに木材窃盗事件は映画マルクス=エンゲルスの冒頭で描かれる
岩波『図書』連載、柄谷行人「思想の散策」17 、2017/1
『夜明け前』の主人公、青山半蔵が王政復古を渇望したのは、山林を古代のように共有地とすることを実現する
ためであった。彼は森林の使用を制限する尾張藩を批判し、明治維新に希望を抱いた。しかし、維新後に彼が見た
のは、近代西洋化(文明開化)であり、山林の国有化によって一切の伐採を禁じるという仕打にであった。しかも、
ここには、藤村が書かなかった問題がある。それは、山林の国有化が皇室財産である御料林を増やすためになされ
たということにある。村上重良は、つぎのようにいっている。
たとえば尾張藩では、本曾のヒノキの山は御留め山という扱いで藩の所有であり、周辺の住民はそこへ入って
下草を刈ったり下枝を取ったりする入会権を伝統的に認められていた。しかし御料林への編入にさいしては、そう
いう既得権をいっさい認めず、立ち入り禁止とした。また所有関係が曖昧なものも、御料林に編入してしまった。
そういうことで、北は北海道から南は九州まで、広大な面積の御料林が設定された。(『日本史の中の天皇』
講談社学術文庫)
村上[重良]によれば、明治初期に「ごく小規模の資産しかなかった皇室は、明治維新からわずか七十数年の
うちに、世界有数の富豪といわれるまでに資産を拡大した」のである。明治維新のころ、国学者も農民も、王政
復古によって尾張藩時代からあった山林問題が解決されるだろうと期待した。が、復古した「王政」は、古代を
復古させるどころではなかった。近年まで存在した「古代」の痕跡である共同所有を一掃したのである。
このことで私が想起するのは、若いマルクスが学者の道を断念して「ライン新聞」の記者となったときに書い
た論説(一八四二年)である。彼は当時ライン州で頻発した「木材窃盗」事件をとりあげた。窃盗といっても、
貧しい人々が森で木材や枯れ枝を集める慣習的行為が、私有財産制の発達の下で、窃盗として取り締まられる
ようになっただけである。マルクスはむろん農民を擁護しようとしたのだが、この問題をたんに法律的に考えた
ため、有効な結論を出せなかった。しかし、後に彼自身が述べているように、この事件が、彼の視点を経済学の
分野に向ける一契機となった。つまり、これは貨幣経済の一般的浸透によって生じた事件なのである。
したがって、このような事件は、別にドイツに限定されない。日本でも、明治以後、各地で「入会地」にかか
わる紛争が起こった。今でも続いているところがある。『夜明け前』のケースでは、森林は国有化された。が、
国有は私有財産制に反するのではなく、逆に、後者の一形態なのだ。私有・国有の反対概念は、共同所有であ
る。島崎藤村の父にとって、この共同所有をとり戻すことが、「復古」であり平田神道の道であった。
一方、柳田国男は農政学者として最初から、「協同組合」に取り組んだ。本来、協同組合は産業資本主義に
対抗する「協同自助」的な運動であり、 一九世紀の半ばに、イギリスでロバート・オーウェンなどによって
推進され、他の地域にも広がった。だが、ドイツでは、それは国家主導で組織されるものとなり、それが「産
業組合法」として日本に導入されたのである。それに対して、柳田の考えはイギリスの協同組合論に立ち帰る
ものである。また、それは晩年に社会主義を唱えた自由主義者、J・S・ミルの考えに近いものであった。
ただ、重要なのは、柳田がそれをたんに輸入するのではなく、同様の試みを日本や中国の近代以前の社会に
見ようとしたことである。
岩波『図書』連載、柄谷行人「思想の散策」17 、2017/1
《『夜明け前』の主人公、青山半蔵が王政復古を渇望したのは、山林を古代のように共有地とすることを実現する
ためであった。彼は森林の使用を制限する尾張藩を批判し、明治維新に希望を抱いた。しかし、維新後に彼が見た
のは、近代西洋化(文明開化)であり、山林の国有化によって一切の伐採を禁じるという仕打にであった。…
村上[重良]によれば、明治初期に「ごく小規模の資産しかなかった皇室は、明治維新からわずか七十数年の
うちに、世界有数の富豪といわれるまでに資産を拡大した」のである。明治維新のころ、国学者も農民も、王政
復古によって尾張藩時代からあった山林問題が解決されるだろうと期待した。が、復古した「王政」は、古代を
復古させるどころではなかった。近年まで存在した「古代」の痕跡である共同所有を一掃したのである。
このことで私が想起するのは、若いマルクスが学者の道を断念して「ライン新聞」の記者となったときに書い
た論説(一八四二年)である。彼は当時ライン州で頻発した「木材窃盗」事件をとりあげた。窃盗といっても、
貧しい人々が森で木材や枯れ枝を集める慣習的行為が、私有財産制の発達の下で、窃盗として取り締まられる
ようになっただけである。マルクスはむろん農民を擁護しようとしたのだが、この問題をたんに法律的に考えた
ため、有効な結論を出せなかった。しかし、後に彼自身が述べているように、この事件が、彼の視点を経済学の
分野に向ける一契機となった。つまり、これは貨幣経済の一般的浸透によって生じた事件なのである。
したがって、このような事件は、別にドイツに限定されない。日本でも、明治以後、各地で「入会地」にかか
わる紛争が起こった。今でも続いているところがある。『夜明け前』のケースでは、森林は国有化された。が、
国有は私有財産制に反するのではなく、逆に、後者の一形態なのだ。私有・国有の反対概念は、共同所有であ
る。島崎藤村の父にとって、この共同所有をとり戻すことが、「復古」であり平田神道の道であった。
一方、柳田国男は農政学者として最初から、「協同組合」に取り組んだ。…》
岩波『図書』連載、柄谷行人「思想の散策」17 、2017/1
《『夜明け前』の主人公、青山半蔵が王政復古を渇望したのは、山林を古代のように共有地とすることを実現する
ためであった。彼は森林の使用を制限する尾張藩を批判し、明治維新に希望を抱いた。しかし、維新後に彼が見た
のは、近代西洋化(文明開化)であり、山林の国有化によって一切の伐採を禁じるという仕打にであった。…
村上[重良『日本史の中の天皇』]によれば、明治初期に「ごく小規模の資産しかなかった皇室は、明治維新から
わずか七十数年のうちに、世界有数の富豪といわれるまでに資産を拡大した」のである。明治維新のころ、国学者
も農民も、王政復古によって尾張藩時代からあった山林問題が解決されるだろうと期待した。が、復古した「王政」
は、古代を復古させるどころではなかった。近年まで存在した「古代」の痕跡である共同所有を一掃したのである。
このことで私が想起するのは、若いマルクスが学者の道を断念して「ライン新聞」の記者となったときに書い
た論説(一八四二年)である。彼は当時ライン州で頻発した「木材窃盗」事件をとりあげた。窃盗といっても、
貧しい人々が森で木材や枯れ枝を集める慣習的行為が、私有財産制の発達の下で、窃盗として取り締まられる
ようになっただけである。マルクスはむろん農民を擁護しようとしたのだが、この問題をたんに法律的に考えた
ため、有効な結論を出せなかった。しかし、後に彼自身が述べているように、この事件が、彼の視点を経済学の
分野に向ける一契機となった。つまり、これは貨幣経済の一般的浸透によって生じた事件なのである。
したがって、このような事件は、別にドイツに限定されない。日本でも、明治以後、各地で「入会地」にかか
わる紛争が起こった。今でも続いているところがある。『夜明け前』のケースでは、森林は国有化された。が、
国有は私有財産制に反するのではなく、逆に、後者の一形態なのだ。私有・国有の反対概念は、共同所有であ
る。島崎藤村の父にとって、この共同所有をとり戻すことが、「復古」であり平田神道の道であった。
一方、柳田国男は農政学者として最初から、「協同組合」に取り組んだ。…》
ただし、柳田は報徳社を無意味に攻撃することで江戸から連続する協同組合の芽を摘んでしまった
柳田は明治官僚の枠を出られなかった
ちなみに木材窃盗事件は映画マルクス=エンゲルスの冒頭で描かれる
ただし柳田は報徳社を無意味に攻撃することで江戸から連続する協同組合の芽を摘んでしまった
信用組合が弱いのは貨幣を多く持たないなら当たり前だ
柳田は明治官僚の枠を出られなかった
ちなみに木材窃盗事件は映画マルクス=エンゲルスの冒頭で描かれる
まさにトマス·モアが書いた『ユートピア」とつながっ
は、
羊毛をオランダに輸出するために、
地方の民風」『柳田國男全集gil筑
ユートピア(どこにもない場所)は、実は、現存したのです。一六世
農地から農民を追い出し
彼がここでいう「ユートピア」
ています。
モアにとって、
これに憤激し
スでは
主らが、
Tae末のイ~矛リ
込み)と呼ばれるものです。
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ェンクロージャー」(囲い
!s A!"
それが
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たトマス
イギリスでは羊が人間を喰っていると書いた。
モアは、
そのとき、
的に、
所有社会を
彼はそれと対照
ブラジル地域の先住民の共同
アメリゴ·ヴェスプッチが
「新世界』
という本で伝えた、
「ユートピア」として見出したわけです。
同様の意味で、椎葉村は柳田にとって、「ユートピア」でした。といっても、彼はそれを西
洋の経験や思想だけから得たのでありません。なぜなら、「協同自助」を実現する運動が日本
にもあった、というより、彼の身近にあったからです。例えば、それは、木曽山林の平田神道
派の運動です。藤村の父はそれに取り組んだ。その息子が晩年に『夜明け前』を書いたのです
が、
彼自身はこのような問題に取り組むことはなかった。
..
それに比べると、柳田にはむしろ、
つ
その行動において、
平田派の活動家に近いものがあります。
そもそも木曽山林の農民運動には、もっと普遍的な歴史的背景があるのです。トマス·モア
がイギリスで経験したような変化は、その後に、別の地域でも起こりました。その一例は、一
八四○年代のドイツです。例えば、マルクスは学位論文を終えたあと、ライン新聞の記者とな
ったのですが、彼が最初に出会った事件が、まさに「材木窃盗罪」に関するものでした。それ
まで農民は共有地で薪などを自由に得ていたが、その頃になって、それが「窃盗罪」とみなさ
れるようになったのです。同じことが木曽山林地帯にもあったはずです。マルクスは当初、こ
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