土曜日, 12月 10, 2016

marx@AO

AO#1:2
《「相対的剰余価値が資本主義に特有な体系の中で発展し、それによって社会的労働の生産性が増大するに従って、労働の生産諸力と社会的諸連関は、生産プロセスから切り離されて、労働の領域から資本の領域から資本の領域へと移行するようにみえる。こうして、資本はきわめて神秘的な存在になる。というのは、あらゆる生産諸力は、資本の胎内から生じ、資本に属しているように見えるからである(11)。」

(11) Marx, Le Capital , III, 7, ch. 25(Pléiade II, p, 1435).〔「資本論」、『マルクス・エンゲルス全集』25b、岡崎次郎訳、大月書店、1965、1060ページ〕Cf. Althusser, Lire le Capital , les commentaires de Balibar, t. II, pp. 213 sq., et de Macherey, t. I, pp. 201 sq.(Maspero, 1965).〔バリバール「史的唯物論の根本概念について」、マシュレー「『資本論』の叙述過程について」、『資本論を読む』各下、上巻、今村仁司訳、ちくま学芸文庫、1996〕》

3:48:3?
《本来の独自的・資本制的生産様式における相対的剰余価値の発展につれて、──それにつれて労働の社会的生産諸力が発展するのだが、直接的労働過程における労働のこの生産諸力および社会的諸関連は、労働から資本に移置されたものとして現象する。これだけでも資本はきわめて神秘的なものとなる。というのは、労働のあらゆる社会的生産諸力が、労働としての労働にでなく資本に属する諸力、しかも資本じしんの胎内から生まれでる諸力、として現象するからである。》河出

AO#3:8
《マルクスは、歴史が抽象的なものから具体的なものに移る様式が存在することを認めていた。「単純な諸カテゴリーはもろもろの関係を表現し、この関係において十分に発展していない具体的なものがおそらく実現されたが、これらの諸カテゴリーはもっと複雑な関連や関係を措定してはいなかった。こうした複雑な関係は、もっとも具体的なカテゴリーの中で理論的に表現されるものなのだ。ところが、他方、いっそう発展した具体的なものは、この同じカテゴリーをあるひとつの従属的な関係として存続させている(70)。」国家はまず、別々に作動する部分集合を統合する抽象的な統一体であった。いまやそれは、諸力の場に従属して力の流れを調整し、諸力がたがいに支配し従属し合う自律的な諸関係を表現する。国家はもはや、煉瓦状に維持されたもろもろの領土性を超コード化することでは満足しない。

(70) Marx, Introduction générale à la critique de l'économie politique , Pléiade I, p. 256.〔「経済学批判への序説」、『マルクスエンゲルス全集』13、629ページ〕》

AO#3:9
《(マルクスが描いた悪魔の契約のようなものである。「産業的宦官」よ、それゆえ、もしそうなら、これはおまえのものだ…(75))。

(75) Marx, Economie et philosophie , 1844, Pléiade II, p. 92.〔『経済学・哲学草稿』150ページ〕》

《マルクスが言っているように、抽象労働は、まさに生産活動において最も単純で最も古い関係であるが、それがそのようなものとして現われ、実際に真実になるのは、近代の資本主義機械の中においてである(78)。

(78) Marx, Introduction générale à la critique de l'économie politique , Pléiade I, p. 259.〔「経済学批判への序説」、『マルクスエンゲルス全集』13、631ページ〕》

《「漸進的価値、たえず発芽し成長する貨幣、こうしたものが資本である……。この価値は、突然、自分自身で運動する実体として現われる。これにとっては、商品も貨幣もただの形式にすぎない。この価値は、自分自身において、その原価値とその剰余価値を区別する。その仕方は、神が自分自身の位格において父と子を区別し、父と子が一体であり年齢も同じである仕方と同じである。なぜなら、最初に前貸しされた一〇〇ポンドが資本になるのは、一〇ポンドの剰余価値によってでしかないからである(79)。」資本は、ただこうした諸条件においてのみ充実身体となり、新しい社会体となり、あらゆる生産力を…

(79) Marx, Le Capital , I, 2, ch. 4, Pléiade I, p. 701.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23a、202ページ〕》

Nous avons vu que: dans la circulation simple, il s’accomplit une séparation formelle entre 
les marchandises et leur valeur, qui se pose en face d’elles sous l’aspect argent. 
Maintenant, la valeur se présente tout à coup comme une substance motrice d’elle-même, et pour laquelle marchandise et argent ne sont que de pures formes. Bien plus, au lieu de représenter des rapports entre marchandises,elle entre, pour ainsi dire, en rapport privé avec elle-même. 

Elle distingue an soi sa valeur primitive de sa plus-value, de la même façon que Dieu distingue en sa personne le père et le fils, et que tous les deux ne font qu’un et sont du même âge, car ce n’est que par la plus-value de 10 l. st. que les 100 premières l. st. avancées deviennent capital; et dès que cela est accompli, dès que le fils a été engendré par le père et réciproquement, toute di

《単純な流通においては、商品の価値は、その使用価値に対してたかだか貨幣という自立的形態を受けとるのであるが、いまや価値は、とつぜんに、過程しつつある・みずから運動しつつある・実体としてあらわれるのであって、この実体にとっては、商品と貨幣とは二つの単なる形態にすぎない。しかも、それだけではない。価値はいまや、商品関係を表示するかわりに、いわば、それ自身にたいする私的関係に入りこむ。それは、みずからを本源的価値として剰余価値としての自分じしんから・みずからを父なる神として子なる神としての自分じしんから・区別するのであるが、父子の両者は同じ年齢であり、しかも実は一個の人格にほかならない。というわけは、投下された一〇〇ポンドは一〇ポンドの剰余価値によってのみ資本となるのであり、そしてそれが資本となるや否や──子が、そして子によって父が、生みだされるや否や──両者の区別区別はふたたび消失して、両者が一考、すなわち一一〇ポンドなのだからである。》河出1:4:1
(79) Marx, Le Capital , I, 2, ch. 4, Pléiade I, p. 701.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23a、202ページ〕》

《この円環がもし完結することがあるとすれば、それは、剰余価値が単に生産され、あるいは収奪されるばかりではなくて、吸収され、あるいは現実化される場合においてのみである(88)、と。

(88) Marx, Le Capital , III, 3, conclusions, Pléiade II, p. 1026.〔「資本論」『マルクスエンゲルス全集』25a、306-307ページ〕》

#3:10(93~)
《剰余価値の形態としての剰余労働は、労働の流れとは質的かつ時間的に区別される流れを構成し、したがって、非経済的な諸因子をともなう、それ自体質的な複合物の中に入らなければならないからである(98)。

(98) Cf. Marx, Le Capital , III, 6, ch. 24, Pléiade II, p. 1400.「このような条件において、名目上の土地所有者のための労働を実行することを彼らに強制するためには、どんな性質のものであれ経済外的な理由がなければならない。」〔「資本論」、『マルクス・エンゲルス全集』25b、1014ページ〕》

《「資本としての貨幣の循環は、それ自身の中に自分の目的をもっている。なぜなら、たえず更新されるこの循環の運動によってのみ価値は価値であり続けるからである。それゆえ、資本の運動極限をもたない(99)」。

(99) Marx, Le Capital , I, 2, ch. 4, Pléiade I, p. 698. P.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23b、198ページ〕》
《これに反し、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、この、たえず更新される運動の内部にのみ実存するからである。だから、資本の運動は限度なしである。 》河出1:4:1


《「資本家が尊敬されうるものであるのは、ただ彼が人間となった資本であるからである。こうした役割において、彼は、守銭奴のように、抽象的な富、つまり価値への盲目的な情念によって支配される。しかし、守銭奴においては個人的な偏執に見えるものが、資本家においては社会的メカニズムの効果であり、資本家はこのメカニズムの歯車でしかない(102)。」ひとはこういうかもしれない

(102) Marx, le Capital , I, 7, ch. 24. Pléiade I, p. 1096.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23b、771-772ページ〕》

1:22:3
《資本の人格化としてのみ、資本家は尊敬すべきものである。こうしたものとしては、彼は貨幣蓄蔵者と同じように、絶対的な致富衝動を有する。だが、貨幣蓄蔵者のばあいに個人的狂望として現象するものが、資本家のばあいには、社会的機構──そこでは彼は一個の動輪にすぎない──の作用である。》河出


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経済学関連:

AO#3:9

《第九節 文明資本主義機械 

ある革新が採用されるのは、利潤率のせいである。つまり、この革新のための投資が、生産コストの低下を通じてどれだけの利潤率を実現するのかが問題なのだ。もし生産コストが下がらないなら、資本主義は現存の設備を維持し、これと併行して他の領域に投資するほかはない(86)。


(86)Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , 1966, tr. fr. Maspero, pp. 96-98.〔ポール・バラン、ポール・スィージー『独占資本』小原敬士訳、岩波書店、1967、112-118ページ〕》116~118頁
スウィージーは1:15:9資本論を参照している。


《アンドレ・ゴルツが「科学的技術的労働者」を描いた二重のポートレートは、まったく意味深いものだ。彼は、知識、情報、教育の流れの先生であるが、しかしあまりにもみごとに資本の中に吸収されているので、公理系に組み入れられ組織化された愚昧の逆流に完全に巻き込まれることになる。このため、この労働者は、晩になって自分の家に帰ってから、テレビをいじりながらやっと自分の小さい欲望機械を取りもどすというわけなのだ。ああ、何という絶望(89)。確かに学者は、あるがままでは何ら革命的な力をもってはいない。彼は、統合作用に統合される最初の手先であり…
(89) A. Gorz, Stratégie ouvrière et néo-capitalisme , Ed. du Seuil, p. 57.〔アンドレ・ゴルツ『労働者戦略と新資本主義』小林正明訳、合同出版、1970、118ページ〕》

《Alors que la croissance du secteur des serviees a partiellement compensé l effets « destructeurs d'emploi de lIa teclmologie mo de e, celle-ci I(en conjonction avec des phénomènes induits) a ajouté une dimension nouvelle à la deshumanisation du processus de travail en régime capitaliste. Il n'est guère besoin de répéter ici ce qui a été tellement souligné dans les ch'apitres précédents, à savoir qu'une partie de plus en plus grande du produit de la société de capitalisme monopoliste est, - d'après des critères fondés sur les véritables besoins humains, - inutile, super ue ou bien franchement destructrice. L'illustration la plus frappante de eeci se trouve dans le

fait que des dizaines de milliards de dollars de biens et services sont engloutis tous les ans par l'appareil militaire, dont le seul but est d'empêcher les peuples du monde de résoudre leurs problèmes par l'unique moyen véritablement effieace, par le socialisme révolution naire. Cependant, ceux qui actionnent et qui approvisionnent l'ap pareil militaire ne sont pas les seuls à être engagés dans une entreprise anti·humaine. Les millions d'ouvriers qui produisent (ce qui créent une demande pour) des biens et services inutiles sont également. et à

des degrés divers, concernés. Les divers secteurs et branches de l'éco. nomie sont tellement interdépendants que presque tout le monde se trouve impliqué d'une façon ou d'une autre dans une activité anti· humaine ; le fermier fournissant des produits alimentaires aux trou· pes luttant contre le peuple vietnamien, les fabricants des instruments complexes nécessair à la création d'un nouveau modèle automobile, les fabricants de papier, d'encre ou de postes de télévision dont les produits sont utilisés pour contrôler et empoisonner les prits des gens, et ainsi de suite.  
仏訳303~4

《このようなシステムにおいては、生産システム全体に生気を吹き込む反生産の活動との結びつきを誰ものがれることはできない。「軍事的装備を稼働させ補給する人びとだけが、反人間的な企てにかかわっているわけではない。何百万もの労働者が無用の財や仕事を生産し(このことがまたこれらに対する需要を創りだす)、さまざまな度合で、このことにかかわっている。経済の異なる諸分野や諸部門は深く相互依存しあっているので、ほとんど全世界の人びとが何らかの仕方で反人間的な活動の中に巻き込まれている。ヴェトナム人民と戦争する軍隊に食糧品を供給する農夫。新しい自動車の型を創造するのに必要な、複雑な道具を作る製造者たち。人びとの精神を統制し腐敗させるために用いられる製品となる紙、インク、テレビの製造者たち。以下同様(90)。」こうして、たえず拡大する資本主義的再生産の三つの線分が完結し、これはまた、それの内在性の三つの様相を規定する。1、労働の脱コード化した流れと生産の脱コード化した流れとの微分の比の関係から、人間による剰余価値を引きだし、また中心から周縁へと移動しながらも、やはり中心に膨大な残滓的地帯を保持しているという様相。2、中心の「最尖端」の個所において、科学的技術的コードのもろもろの流れの公理系から、機械による剰余価値を引きだしてくるという様相。3、流れの剰余価値のこれら二つの形態の創出を保証し、生産装置の中にたえず反生産を注入することによって、これらの二形態を吸収し、あるいは現実化してゆく様相。ひとは周辺において分裂症化するが、しかし中心や中間においてもやはり分裂症化するのである。
 剰余価値の定義は、可変資本資本に由来する〈人間による剰余価値〉とは区別される〈機械による剰余価値〉との関連において、また流れの剰余価値全体の測定不可能な性格をも考慮に入れて、手直しされなければならない。剰余価値は、労働力の価値と労働力によって創造される価値との差異によって定義されうるものではない。そうではなくて、これら二つの流れがたがいに内在し合っているにもかかわらず、この二つの間に通約不可能性があることによって定義される。一方の流れは真の経済の力を測り、他方の流れは「収入」として規定される購買力を測るものであるからである。第一は莫大な脱領土化した流れであり、この流れは資本の充実身体を構成するものである。ベルナール・シュミットのような経済学者は、無限負債のこの流れを特徴づけるために、〈瞬時の創造的流れ〉といった抒情的な奇妙なことばを見いだしている。銀行は自発的に自分自身への負債としてこのような流れを創造する。銀行のこの創造は無からの創造であって、これは支払い手段としてあらかじめ準備された貨幣を流布させるのではなく、負の貨幣(銀行の債務として登記された負債)を充実身体の一方の極に深く埋めこみ、正の貨幣(生産経済が銀行に対してもつ債権)を他方の極に突出させる。これは「突然変異の力をもつ流れ」であるが、この流れは収入の中には入らず、購買には向けられない。つまり純粋な待機であって、所有物でもなく、富でもない(91)。これに対して、貨幣のもうひとつの様相は、貨幣が次のように還流する事態を表わしている。すなわち、貨幣が労働者たちや生産諸因子に分配され収入として配分されて購買力を獲得することになると、たちまち貨幣はもろもろの財と関係をもつことになり、この収入が現実の財に変換されると直ちに、この貨幣は財との関係を喪失するのである(この場合、すべては新しい生産によって再開されるが、新しい生産はまず貨幣の第一の様相において生まれてくる……)。ところで、流れと還流というこの二つの様相の通約不可能性は次のことを示している。名目賃金は国民の収入の全体を包括するものであるが、賃金労働者は、企業によって捕獲された大量の収入を漏出させるのである。今度はこの収入が連接によって合流し、新たに粗利益の連続的流れを形成し、この合流は「ひとつの流れとして」、たとえその割り当てはもろもろに異なるにしろ(利息、配当金、管理職給与、生産財購入、等々)、充実身体の上を流れるひとつの不可分な量を構成することになる(92)。事情に通じていない観察者は、この経済的図式そのもの、この歴史そのものが深く分裂的であるという印象をもつ。こうした理論の目的は自明である。しかし、この理論は、あらゆる道徳的関心をみずからに禁じているのだ。〈誰が盗まれるのか〉という疑問…

(90) Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , p. 303.〔『独占資本』〕邦訳416~7頁、#11:2
http://digamo.free.fr/barans68.pdf フランス語訳全336p
(91) Bernard Schmitt, Monnaie, salaires et profits , P. U. F., 1966, pp. 234-236.  
(92) ib. p. 292.》

独占資本

https://www.amazon.co.jp/dp/B000JA8YO0/

独占資本―アメリカの経済・社会秩序にかんする試論 (1967年) , 1967

P.バラン (著), P.スウィージー (著), 小原 敬士 (翻訳)


P. A. Baran and P. M. Sweezy; Monopoly capital, an essay on th...1966

https://www.mysciencework.com/publication/show/09659988ecc15cc90f317a8f0ee58144
本書の主要な 内容構成はつぎのとおりである。 
1. 序論 
 2.巨大株式会社 
 3.余剰の増大傾向 
4.余剰の吸収。資本家の消費と投資。 
5.余剰の吸収。販売努力。
6.余剰の吸収。 市民政府。 
7.余剰の吸収。軍国主義と帝国主義 。  
8.独占資本主義の歴史 。
 9.独占資本主義と人種問題。 
10独占資本主義社会の質的側面。
11. 不合理な体制。 
(岩波とは別訳)





《このようなシステムにおいては、生産システム全体に生気を吹き込む反生産の活動との結びつきを誰ものがれることはできない。「軍事的装備を稼働させ補給する人びとだけが、反人間的な企てにかかわっているわけではない。何百万もの労働者が無用の財や仕事を生産し(このことがまたこれらに対する需要を創りだす)、さまざまな度合で、このことにかかわっている。経済の異なる諸分野や諸部門は深く相互依存しあっているので、ほとんど全世界の人びとが何らかの仕方で反人間的な活動の中に巻き込まれている。ヴェトナム人民と戦争する軍隊に食糧品を供給する農夫。新しい自動車の型を創造するのに必要な、複雑な道具を作る製造者たち。人びとの精神を統制し腐敗させるために用いられる製品となる紙、インク、テレビの製造者たち。以下同様(90)。」こうして、たえず拡大する資本主義的再生産の三つの線分が完結し、これはまた、それの内在性の三つの様相を規定する。》

(90) Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , p. 303.〔『独占資本』〕邦訳416~7頁、#11:2

http://digamo.free.fr/barans68.pdf フランス語訳全336p


独占資本#3ではカレツキも参照される。



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人類学関連:

#1:1
《レヴィストロースは器用仕事を規定するとき、緊密に結びついた諸特性の総体としてそれを提案している。すなわち、多数のチグハグな、限られたストックやコードを具えていること、もろもろの断片を、たえず新しい断片化に導く能力をもつこと。したがって生産する働きと生産物は区別されず、用いる道具の全体と、実現すべき仕事の全体も区別されない(8)。


(8) Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage , Plon, 1962, pp. 26 sq. 〔レヴィストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、1976、28ページ〕》


AO#3:9:2
《精神において展開する構造と関係づけて、原始共同体における親族関係を解釈するとき、ひとはいつも、縁組を支配的な出自に従属させる大きな線分のイデオロギーに陥ってしまう。しかし、このイデオロギーは実践によって否認される。「不均衡な縁組システムにおいては、交換の一般化への、つまり交換のサイクルの閉鎖への根本的傾向が存在するのかどうかを問題にする必要がある。私は、ムル族の人びとに、このような問題を何ひとつ見いだすことはできなかった……。すべてのひとは、あたかも、サイクルの閉鎖によって生じるような補償などまったく知らないかのように行動し、債権者-債務者の行動を強調しながら、不均衡な関係を強化している(8)。」親族のシステムが閉じられたものとして現われるのは、ひとがこのシステムを経済的政治的な座標から切断するからでしかない。経済的政治的座標は、このシステムを開かれたものとして維持し、縁組はこれによって、結婚の階層と出自の系譜を調整するのではなく別のものと考えられることになる。

(8) L. G. Löffler,〈L'Alliance asymétrique chez les Mru〉, L'Homme , juillet 1966, pp. 78-79. リーチは、『人類学再考』において、カチン族の結婚に関して、イデオロギーと実践の間の差異を分析している(pp. 140-141)。彼は、閉じられたシステムとしての親族関係という発想を、徹底的に批判している(pp. 153-154) 。》


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