臨済録
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SUZUKI Daisetz 鈴木大拙 NHK婦人の時間 聞き手犬養道子
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禅とは、サンスクリットdhyāna[ディヤーナ]あるいはパーリ語jhāna[ジャーナ]の音写語として用いられた禅那[ぜんな]の略。これは、「考える」などを意味する√dhyaiからの派生語で「沈思」から「思想」、そして仏教においては「瞑想によって獲得された心の特定の状態」を意味する言葉。
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年
┃
慧可大祖 487~593年
┃
(3代略)
┃
慧能大観 638~713年
┏━━━┻━━━┓
青原行思 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┃ ┏━━┻━━━━━┓
(以下略) ┃ 南泉普願 748~834年
百丈懐運 ┃
┣━━━━┓ 趙州従諗
黄檗希運 潙山霊祐
┃ ┃771~853年
臨済義玄 香厳智閑
?~867年 ?~898年
(曹洞宗) (臨済宗)
~~~~
釈迦牟尼仏
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(27代略)
┃
菩提達磨
┃
慧可大祖
┃
(3代略)
┃
慧能大観
┏━━━┻━━━┓
青原行思 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一
┃ ┏━━┻━━┓
(以下略) ┃ 南泉普願
百丈懐運 ┃
┃ 檀林義空
黄檗希運
┃
臨済義玄
(曹洞宗) (臨済宗)
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l
師は、二代目である徳山和尚が説法で、言うことが出来れば三十棒、言うことが出来なくても三十棒、と言っているのをうわさに聞きます。師は樂普に指示して (徳山のもとに) 質問するために行かせますが、「言うことができたら、なんのために三十棒を受けるのですか? 」 と聞けばそのとき徳山はおまえを打つはずだから、はじめに肩に触れたとき、そのくっついた棒を押さえて (動かないようにして)、徳山がどうするか見て来なさい。
樂普は徳山のところに到り、教えられたとおりに問い、徳山が即座に棒で打とうとすると、樂普は棒が肩に触れたところで押さえてしまい (注37)、徳山はすぐに方丈に帰ってしまいました (注38)。
樂普が帰って来て師に報告すると、師は、わたしは以前からあの男がそれを身に付けているのでは? と疑っていたよ。そんなわけだが、おまえは徳山の様子をどう見たのかね? 樂普が固まってしまうと、師はすぐに打ちます。
(注37) 棒は叩かれたときにほとけが出るので、叩く前に肩で固定されてしまうと叩けなくてほとけを出せません (注38) 仕方がないので、自分でほとけを表現しますが、帰るのは何処去 (どこへ去るのか?) の質問でおなじみの、こころのふるさとへ帰るようです (認識が空っぽになった意識の状態)
徳山行棒 Deshan Uses His Stick
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「行録」編
「勘弁」編の延長のような章であるが、但ひとつ違うのは、これが修業時代の言行を集めたものである点である。しかも、 一応年代順に並べてあるらしい。
そこで「行録」編を読む第一の興味は、臨済の見解を得た由来ということになる。まず第一話を注釈してみよう。
「師、初め黄檗の会下(えか)に在って、行業純一なり。首座(しゅそ)乃ち歎じて曰く、是れ後生なりと雖も、衆と異なる こと有り、と。」
そこである時、首座が臨済に問うた。
「上座、此に存ること多少時ぞ。」
三年という答えである。
「首座云く、曽つて参問すや也無や。」
未だしという返事。何を問うていいか分らないというのである。要領の悪い男である。だが首座の認めたのは、まさにこ の中途半端で茶を濁そうとしない点であったろう。
「首座云く、汝、何ぞ去って、堂頭和尚に、如何なるか是れ仏法的的の大意、と問わざる。」
そこで言われた通り、臨済は黄檗に問うた。するとその声の終らぬうちに、黄檗に打たれる。戻って来た臨済に首座が問 う。
「問話作麼生(そもさん)。」
どうであった。臨済は答える。
「某甲(それがし)、問声未だ絶えざるに、和尚便ち打つ、某甲会せず。」
分らなくてあたりまえである。が首座は再度行ってみよと言う。三度同じ事を繰り返して、遂に失望した臨済は、首座に 言った。
「幸いに慈悲を蒙って、某甲をして和尚に問訊せしむ。三度問を発して三度打たる。自ら恨む、障縁あって深旨を領せざる を。今且く辞し去らん。」
首座は、出ていくなら和尚に挨拶して行けと臨済に言った後、黄檗に会って言う。
「問話底の後生、甚だ是れ如法なり。若し来たって辞せん時は、方便して他を接せよ。向後、穿鑿して一株の大樹と成さば、 天下の為に陰涼と作(な)り去ること在らん。」
見込まれたものである。そこで黄檗は、別れの挨拶に来た臨済に、こう言った。
「別処に往き去ることを得ざれ、汝、高安灘頭、大愚の処に向って去れ、必ず汝が為に説かん。」
さて、大愚のところに行った臨済は、事情を語る。
「某甲、三度、仏法的的の大意を問うて三度打たる。知らず、某甲過(とが)有りや過無しや。」
大愚が言った。
「黄檗与麼(よも)に老婆なり。汝が為に徹困たることを得たり。更に這裏(しゃり)に来たって、有過か無過かと問う、と。」
聞くや否や、臨済は大悟した。
「元来黄檗の仏法多子なし。」
ここに至って、我々にも黄檗の行為の意味が少しは分ってくる。黄檗は、仏法的的の大意は何かと問う、その発想が全く 無意味であることを体感させようとした。そして、それこそがつまり黄檗の仏法の核心であったのである。首座は、そこが 分っていた。だから、いきなり核心を示すなどという飛躍よりは、先ず方便を以てすべきではないかと黄檗に忠告したので ある。ところが臨済は、打たれたことを、単に自分が叱責されたものとのみ思い込み、それがひとつの表現であることに思 い至らなかった。ものの姿にのみ目が向き、もの自体のはたらきに気付かなかったと言ってもよい。大愚の言は、臨済に見 方の転換をもたらした。すると、黄檗の意図も自ずと体感されたのである。
この姿かたちから全く吹っ切れた臨済の面目は、すぐに発揮される。大愚が臨済の見解(けんげ)の真偽を試さんとして、 首筋を掴んで問い詰めた時、臨済は大愚の腰に、拳骨を三発食らわせた。この自由さに、大愚も臨済の見解を認めたのであ る。
第二話も、臨済の面目躍如といったところで、実に面白い。
臨済が松を栽えているところに黄檗が来た。
「深山裏に許多(そこばく)を栽えて、什麼(なに)か作(せ)ん。」
こんな深い山の中、あたりに見えるのは木ばかりだというのに、いったいどういう了見だ。すると臨済が言う。
「一には山門のために境致と作し、二には後人のために標榜と作さん。」
言い終って、鍬で地面を三度打ったのは、自分はただ仕事をするだけだという意気を示したのであろう。その様子を見て、 黄檗は言う。
「然も是(かく)の如くなりと雖も、子(なんじ)已に吾が三十棒を喫し了れり。」
お前なら、そんな月並な言葉は吐かぬ筈だが。もう少し気の効いた答えが返ってくるかと思っていた。あるいは先の臨済 の言葉は、何かの折に黄檗自身が修業者に向って言ったものであったのかもしれない。すると臨済はどうしたか。また鍬で 地面を三打したかと思うと、ふうっと息を吐いた。買いかぶってくれたものだ、という意味であろうか。
最後に黄檗がひとこと、
「吾が宗、汝に至って大いに世に興らん。」
師に向って少しはいいところを見せようとするのが人情だが、師への人惑も断ち切った臨済は、やはり見事という他はな い。黄檗の感嘆も当然である。
黄檗と臨済とのやりとりを記した話は、ひとつも見逃したくない。そこで次は第四話である。ある日総出で畑を耕してい る時、黄檗が来たのを見て、臨済は鍬によりかかって立っていた。黄檗が言う。
「這の漢、困するや。」
疲れたのか。すると臨済がこう答える。 「钁(かく)も也(また)未だ挙せず、箇の什麼をか困せん。」
鍬も持ち上げていないのに、どうして疲れますか。失礼な言い草である。黄檗は打とうとした。すると臨済はその棒を受 け取め、ひといきに押し倒した。黄檗は維那(いのう)を呼ぶ。維那とは寺務を総括する僧のことである。
「維那、我を扶起せよ。」
維那がそばによって来て、たすけ起して言った。
「和尚、争(いか)でか這の風顛漢の無礼たるを容(ゆる)し得ん。」
すると、やっと立ちあがった黄檗は維那を打った。臨済は地を耕しつつ言う。
「諸方は火葬、我が這裏は一時に活埋せん。」
この場面の臨済には、一種、不良少年のような趣きがあるのが面白いのだが、何にしても、お互いがやり取りを楽しんで いることを見逃しては、この話を読んだことにはならない。お陰で、まじめに怒った維那が打たれる破目になった。黄檗の 始めの言葉など、楽しくて仕方がないといった様子ではないか。
ついでだから言っておくが、こうした畑仕事が寺の自給自足体制をささえているのである。彼等は必要だから畑仕事を行 う。が、そろそろ畑仕事それ自体が自己目的化している気配もある。いや、生きるということにどうしてそれほど必死にな らねばならぬのか。生きるのが当り前だから生きるという以上のものではなかった筈。ならばどうして余ったものを売りに 出すほど畑仕事をせねばならぬか。臨済がなんとなくふてくされているのは、その辺りにも理由がありそうな気がする。
- 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし[8]
- 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
- 秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
- 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
- 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
- 世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
- 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
そんな中途半端な見方ですが私流にはこんな解釈が成り立ちます。
そこで、雲門禅師は洞山に尋ねます。「お前はどこにいたのか」。
洞山は答えます。「査渡(さど)におりました」。
雲門禅師は洞山に再び尋ねます。「この夏は何処で修行したのか」。洞山は答えます。「湖南の報恩寺です」。
雲門禅師は三度洞山に尋ねます。「いつ、そこを発ってきたのか」
洞山は答えます。「8月25日です」
雲門禅師が言います。「お前に三頓(60)の棒叩きを与える」
翌日、洞山は再びやってきて、師に問います。
「昨日、三頓(60)の棒叩きに遭いましたが何か過ちがあったのでしょうか。私にはわかりません」
雲門禅師が叫びます。「この穀つぶしめが。江西湖南をそのようにうろつきまわっていたのか。」
ここにおいて洞山は大悟(悟りきること)した。』
これが公案である。お前は、何と答える。と質問され、坐禅をし、時には何年も考え続けるのです。
宗純さんの答えは次の言葉でした。
無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
雨ふらば降れ 風ふかば吹け】
というのが本当のところでしょう。
解釈はいろいろあり、どれも正しいように思えるかもしれません。
どれも、一休宗純さんの真理には、ほど遠いのかもしれません。
しかし、なんとなくこの言葉に惹かれ、どうしても一休宗純さんに近づきたいと考えてしまいます。
そこで、自分流の解釈をすることになります。
こんな、勝手な解釈ができました。
有漏路(うろじ)というのは、迷い(煩悩)の世界のことです。
これにたいし無漏路(むろじ)というのは、悟り(仏)の世界のことです。
「この夏は何処で修行したのか」;有漏路(うろじ)と無漏路(むろじ)の途中です。
「いつ、そこを発ってきたのか」;有漏路(うろじ)をでるときです。
公案(課題);《人間とは何者か、お前は答えてみよ。》という師の質問が出されたと宗純は考えました。
宗純の回答;《人間とは、悟り(仏)の世界に帰るほんの短い間、迷い(煩悩)の世界であるこの世にいる、仮の存在である。すべては空である》、と答えた。
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l
訓読 五灯会元 全三巻セット 大型本 – 2006/12/8
禅 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/禅六祖壇経と禅の隆盛
『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』は、神会が六祖慧能を掲げて説いた新しい坐禅と禅定の定義とされる。これを元に後の中国禅宗は確立・発展した。
さらに『景徳傳燈録』に載せる、慧能の弟子の南嶽懐譲(677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一(709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。
この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。
般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。
中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。
やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した五家の観念が一般化して五家(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐派の勢力が伸長し、五家と肩を並べるまでになり、この二派を含めて五家七宗(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。
さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学・陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。
慧能以降の法嗣
慧能(六祖、曹渓山宝林寺・南宗)
└ 青原行思 (不詳 - 740年、禅の二大祖師)- 石頭希遷(石頭宗)
└薬山惟儼 - 雲巌曇晟 - 洞山良价(807年 - 869年、曹洞宗開祖)
└天皇道悟 - 龍潭崇信 - 徳山宣鑑 - 雪峰義存 -
└玄沙師備 - 羅漢桂琛 - 清涼文益(885年 - 958年、法眼宗開祖)
└雲門文偃(864年 - 949年、雲門宗開祖)
└南嶽懐譲(677年 - 744年、禅の二大祖師) - 馬祖道一(洪州宗) -
└百丈懐海 -
└黄檗希運 - 臨済義玄(生年不詳 - 867年、臨済宗開祖)-
└三聖慧然
└興化存奨 - 南院慧顒 - 風穴延沼 - 首山省念 -
└汾陽善昭 -
└石霜楚円 -
└楊岐方会(楊岐派)
└黄龍慧南(黄龍派)
└瑯琊慧覚
└広慧元漣
└石門蘊聡
└潙山霊祐 (771年 - 853年) - 仰山慧寂(804年 - 890年、潙山とともに潙仰宗開祖)
└南泉普願 - 趙州従諗
└荷沢神会(荷沢宗開祖)
ラベル: 禅
8 Comments:
レナード・コーエン
zip2000.server-shared.com › leonard-co...
異端のシンガー・ソングライター、レナード・コーエンは、世界中に散らばる彼のファンたちによって、50歳を過ぎてからロック .... それは日本人の臨済宗(禅仏教の代表的宗派) 伝道師、佐々木承周老師という人物です。
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
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(27代略)
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菩提達磨 ?~528年
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慧可大祖 487~593年
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(3代略)
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慧能大観 638~713年
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青原行思 南獄懐譲
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石頭希遷 馬祖道一 709~788年
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(以下略) ┃ 南泉普願
百丈懐運 ┃
┣━━━━┓ 趙州従諗
黄檗希運 潙山霊祐
┃ ┃770~853年
臨済義玄 香厳智閑
?~867年 ?~898年
(曹洞宗) (臨済宗)
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釈迦牟尼仏
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(27代略)
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菩提達磨
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慧可大祖
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(3代略)
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慧能大観
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青原行思 南獄懐譲
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石頭希遷 馬祖道一
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(以下略) ┃ 南泉普願
百丈懐運 ┃
┃ 檀林義空
黄檗希運
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臨済義玄
(曹洞宗) (臨済宗)
禅の全盛期も短いことがわかる
浅田彰のいうモダンジャズなどと同じだ
『そもさん』『せっぱ』 どういう意味ですか?
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知恵コレ
プロフィール画像
kohedojimaさん2008/10/2311:33:22
『そもさん』『せっぱ』 どういう意味ですか?
ベストアンサーに選ばれた回答
hekiru80さん 2008/10/2311:43:07
そもさんは漢字で「什麼生」と書き、中国宋代の俗語で「さあどうだ?」とか「いかに?」といった感じの言葉らしいです。
せっぱは「説破」と書き、「答えてやろう」って感じの言葉みたいですね。
つまり、意訳すると
そもさん=これから出す問題に答えられるか?
せっぱ=おう、答えてやろう!!
って感じかな?
喝 - 茶席の禅語選
https://zengo.sk46.com/data/katsu01.html
喝
喝かつ
『臨済録』上堂
僧問、如何是佛法大意。師便喝。僧禮拜。
僧そう問とう、如何いかなるか是これ仏法ぶっぽうの大意たいい。師し便すなわち喝かつす。僧そう礼拝らいはいす。
『新版 禅学大辞典』には、「大きなこえで言うこと。禅宗では種々の意味をもつ。(1)叱りつける。大喝一声。(2)唱えること。(3)師家が学人を導く手段」とある。【喝】
入矢義高監修/古賀英彦編著『禅語辞典』には、「大声でどなること。『カーッ』と発声することではない」とある。【喝】
柴山全慶編『禅林句集』には、「言葉では表現し難い悟りの境地を提示する禪的作用はたらきとしての激しい叫び。又學人を教導する激しい叱咤の叫び。一切を喝破する聲」とある。【喝】
『禅語字彙』には、「叱咤の聲。禪門にて唱ふる喝は、理盡き情亡じて眞機を露呈するところの玄旨あり、臨濟四喝の如く種々の玄機を含む、參じて知るべし。……」とある。【喝】
世界大百科事典 第2版の解説
かつ【喝 hè】
大声でどなりつけること。叱る意。中国の禅宗で,師が弟子を導くのに,経典の講義や説法のほか,日常の挨拶や対話を重視して,言葉で叱り,棒で打つなど,直接行為に訴えるのがそれで,徳山の棒,臨済の喝はもっとも有名だが,そうした喝と棒をあわせて棒喝といい,禅の特殊教育の語となる。大喝一声,一喝を与えるなど,必ずしも叱るのではなくて,いきなり相手の仏性を喚起する場合もあり,そうした種々の用例を,
金剛王宝剣(仁王の刀),探竿影草(魚をさそう),
踞地金毛(獅子のねらい),不作一喝(声をださぬ喝)
という,四つに分類する。
動 静
潜在的 踞地金毛(獅子のねらい),探竿影草(魚をさそう),
現勢的 金剛王宝剣(仁王の刀),不作一喝(声をださぬ喝)
井筒
意識と本質
☆
禅における…
「僧 肇 は『天地と我とは同根。万物は我れと一体』と言っているが、私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人にたいして、南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつつ「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」と言った(碧巌録、四十)。世人の目に映る感覚的花は花性をその本質として動きのとれぬように固定されたものである。花の花的側面だけはありありと見えているが、花の非花的側面は全
趙州録からなど
禅の引用多数
意識と本質 東洋哲学の共時的構造化のために
本 質 直 観イスラーム哲学断章
禅における言語的意味の問題 ☆
対話と非対話禅問答についての一考察
井筒俊彦
岩波文庫
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