土曜日, 3月 11, 2017

臨済録

            (リンク:::::::::仏教

NAMs出版プロジェクト: 臨済録
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_11.html  @

参考:
ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/double-bindbateson-g1956.html

NAMs出版プロジェクト: 『血脈論』以心伝心、不立文字

http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_67.html

NAMs出版プロジェクト: 『伝心法要』直指人心、見性成佛

http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_64.html

NAMs出版プロジェクト: 大正新脩大蔵経(諸宗部)

http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_9.html

NAMs出版プロジェクト: 無門関
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_57.html
NAMs出版プロジェクト: 碧巌録
 NAMs出版プロジェクト: 『宗門葛藤集』父母未生以前本來面目
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_76.html
NAMs出版プロジェクト: 白隠 隻手音声
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_21.html
NAMs出版プロジェクト: 義経記 巻第八(十牛図)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/blog-post_14.html
十牛図 Daisetz Teitaro Suzuki「Manual Of Zen Buddhism」 
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/daisetz-teitaro-suzukimanual-of-zen.html

SUZUKI Daisetz 鈴木大拙 NHK婦人の時間 聞き手犬養道子

http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/suzuki-daisetz-nhk.html


http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/sikan/dhyana.htm
禅とは、サンスクリットdhyāna[ディヤーナ]あるいはパーリ語jhāna[ジャーナ]の音写語として用いられた禅那[ぜんな]の略。これは、「考える」などを意味する√dhyaiからの派生語で「沈思」から「思想」、そして仏教においては「瞑想によって獲得された心の特定の状態」を意味する言葉。

禅の系譜:(影山純夫『禅画を読む』126頁他参照)

     釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
       ┃
     (27代略)
       ┃
      菩提達磨 ?~528年
       ┃
      慧可大祖 487~593年
       ┃
     (3代略)
       ┃
      慧能大観 638~713年
   ┏━━━┻━━━┓
 青原行思    南獄懐譲
   ┃       ┃
 石頭希遷    馬祖道一 709~788年
   ┃    ┏━━┻━━━━━┓
 (以下略)  ┃        南泉普願 748~834年
       百丈懐運      ┃
        ┣━━━━┓   趙州従諗
       黄檗希運 潙山霊祐
        ┃    ┃771~853年
       臨済義玄 香厳智閑
        ?~867年  ?~898年

(曹洞宗) (臨済宗)

~~~~

     釈迦牟尼仏
       ┃
     (27代略)
       ┃
      菩提達磨
       ┃
      慧可大祖
       ┃
     (3代略)
       ┃
      慧能大観
   ┏━━━┻━━━┓
 青原行思    南獄懐譲
   ┃       ┃
 石頭希遷    馬祖道一
   ┃    ┏━━┻━━┓
 (以下略)  ┃    南泉普願
       百丈懐運   ┃
        ┃    檀林義空
       黄檗希運
        ┃
       臨済義玄

 (曹洞宗) (臨済宗)

《『臨済録 』…に記されているのは 、唐の時代に生きていた臨済禅師 (八〇六 ? ~六七年 )の言葉です 。臨済 (臨済義玄 )は元来 、戒律や経論などを研究する学僧でしたが 、それに飽き足らず 、気性の激しい修行で知られていた湖南省の黄檗禅師のもとに飛びこみました 。
 そこで多年 、修行のあと 、黄檗から印可を受けたのですが 、なぜか遥か北方の河北省鎮州に移ってしまい 、そのうちに地元軍閥の帰依を受けるようになりました 。当時 、鎮州は北方から攻め入ってくる蛮族に対する防御の前線になっており 、軍事的緊張度の高い地域でした 。弟子の指導に棒喝 (叱咤したり棒で打つこと )を頻繁に使った臨済の家風には 、名将が馬上から三軍を指揮するような威風堂々たるものがあったため 、臨済将軍と呼ばれていました。》
 生きてるだけでいいんだよ ― 『臨済録 』自由訳による ―町田宗鳳 より


喝  (喝) 〈臨済録〉    
【解説】 喝とは声で叫ぶことです。禅門でいい始めたのは唐代以後で、馬祖道一禅師が百丈懐海禅師に放ったのが最初といわれています。
喝には四種ある。
禅語事典より

道得也三十棒、道不得也三十棒
出典は臨済録勘弁。宗門葛藤集が元ネタだが、臨済録の方がダブルバインドを理解した言葉遣いになっている。

臨済録勘弁#12(中公通し番号#23)
師聞第二代徳山埀示云、道得也三十棒、道不得也三十棒。
 (岩波文庫163~4頁に現代語訳あり)勘弁は2,3,10など棒が頻出。

Thomas Yuho Kirchner, Nelson Foster & Ueda Shizuteru「Entangling Vines」
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l 
宗門葛藤集 Case 194  徳山行棒 Deshan Uses His Stick

無門関【洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)】にも似ている。

道元は座禅派だから両者に批判的だが…

「臨済の喝、徳山の


師聞第二代徳山埀示云、道得也三十棒、道不得也三十棒。師令樂普去問、道得爲什麼也三十棒、待伊打汝、接住棒送一送、看他作麼生。普到彼、如教而問。徳山便打。普接住送一送。徳山便歸方丈。 普囘擧似師。師云、我從來疑著這漢。雖然如是、汝還見徳山麼。普擬議。師便打。

師は、二代目である徳山和尚が説法で、言うことが出来れば三十棒、言うことが出来なくても三十棒、と言っているのをうわさに聞きます。師は樂普に指示して (徳山のもとに) 質問するために行かせますが、「言うことができたら、なんのために三十棒を受けるのですか? 」 と聞けばそのとき徳山はおまえを打つはずだから、はじめに肩に触れたとき、そのくっついた棒を押さえて (動かないようにして)、徳山がどうするか見て来なさい。

樂普は徳山のところに到り、教えられたとおりに問い、徳山が即座に棒で打とうとすると、樂普は棒が肩に触れたところで押さえてしまい (注37)、徳山はすぐに方丈に帰ってしまいました (注38)。

樂普が帰って来て師に報告すると、師は、わたしは以前からあの男がそれを身に付けているのでは? と疑っていたよ。そんなわけだが、おまえは徳山の様子をどう見たのかね? 樂普が固まってしまうと、師はすぐに打ちます。

(注37) 棒は叩かれたときにほとけが出るので、叩く前に肩で固定されてしまうと叩けなくてほとけを出せません (注38) 仕方がないので、自分でほとけを表現しますが、帰るのは何処去 (どこへ去るのか?) の質問でおなじみの、こころのふるさとへ帰るようです (認識が空っぽになった意識の状態)


臨済録 - Wikipedia
臨済録(臨濟錄、りんざいろく)は、中国唐代の禅僧で臨済宗開祖の臨済義玄の言行をまとめた語録。一巻(編によっては二巻)。詳しくは『鎮州臨済慧照禅師語録』。四家語録の1つ。

目次
概要 編集
臨済の弟子の三聖慧然によってまず編纂された。その後も円覚宗演によって増補され、宣和2年(1120年)に印刷された。その後、広く流布し、「語録の王」と呼ばれている。

北宋の馬防による序文の
「序」、弟子たちとの問答集の
「上堂語」、弟子への講義録の
「示衆」、他の禅僧との問答集の
「勘弁」、伝記の
「行録」、
「眞定十方臨濟慧照玄公大宗師道行碑」
「臨濟正宗碑銘」の碑文2つの
「塔記」から構成される。

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白隠禅師が用いた禅の「公案」 ~別冊太陽より~ | 野沢龍雲寺ブログ
http://ryuun-ji.or.jp/blog/?p=457

片手の音を聞け
白隠が六十三、四歳の時に創作した有名な公案であり、現在、臨済宗の道場では「無字」などとともに最初の関門とされている。「両手をうてば声がするが、隻手(せきしゅ)(片方の手)には何の音があるか」というものである。白隠が富郷賢媖という女性に宛てた法語『藪(やぶ)柑子(こうじ)』には次のように書かれている。
この五六年以来は、考えるところがあって、「隻手の声を聞き届けよ」ということを教えているのですが、これまでとは異なって、どなたも格別に疑団が起こりやすく、工夫を進めやすいようで、従前の公案とくらべ、その効果には雲泥の差があるように感じております。(中略)隻手の工夫とはどういうことか。今、両手を相い合わせて打てば、パンという音がするが、ただ片手だけをあげたのでは、何の音もしない。

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徳山行棒 Deshan Uses His Stick

Thomas Yuho Kirchner, Nelson Foster & Ueda Shizuteru「Entangling Vines」
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l

宗門葛藤集 Shūmon kattōshū (Entangling Vines)
http://terebess.hu/zen/entangling.html#b
Case 194: 徳山行棒 Deshan Uses His Stick 

At an informal lecture Deshan Xuanjian said, “Tonight I’ll answer no questions. Anyone who asks will get thirty blows.” At that moment a monk stepped forward and bowed. Deshan immediately struck him.

道得也三十棒 道不得也三十棒 ( 哲学・思想 ) - 九十九蓮 ブログ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/bairi3567/67714092.html?__ysp=5b6z5bGx6KGM5qOS
道得也三十棒 道不得也三十棒


道い得るも也三十棒 いいえるもさんじゅうぼう

道い得ざるも也三十棒 いいえざるもまたさんじゅうぼう


禅門においては、
臨済の、「喝」
徳山の、「棒」といわれるほどに、
唐代の禅匠、臨済義玄禅師は
修行者との禅問答において 「一喝」を飛ばして導き、

徳山宣鑑(とくさんせんかん)和尚は来る修行者には
棒を以って打ち据えて、少々荒っぽく、厳しく導いたという。


きちんと答ええても三十棒を食らわせ、
答えがなければ また三十棒を打つ。

応えても応えられなくても許すことがなかったというのは一般的感覚では理解できがたいことであるが、ここが徳山和尚の真の親切心なのである。


「徳山行棒(ぎょうぼう)」 の公案には


徳山小参に云く
「老僧、今夜、答話せず。問話の者あらば三十棒」。

時に僧あり、出でて礼拝す。山、すなわち打つ。

僧云く、
「それがし、話も未だ問わるざるに和尚、なんによってそれがしを打つ」


山云く、「汝はこれ什麼(いづれ)のところの人ぞ」。


云く、「新羅の人なり」。


山云く、
「汝、未だ船舷(せんげん)を跨(また)がざる時に
三十棒を与うるに好し」。  

僧、此処において省あり。




ある夜の小説法の時、徳山和尚は

今夜は何も言うまい、
何か聞きたいことが事あれば言うがよい。
             三十棒を以って応えよう」 と。

その時一人の僧が
問答をせんと進み出て礼拝したところ、
徳山はすかさず一棒を食らわす。


僧はびっくり

「和尚私はまだ何の問いかけもしてはおらぬのに、なぜ打つのか」
…と。


徳山はそんなことはお構いなしに


「お前さんは何処の出身の人かな」


僧云く、 「新羅から来ました」


徳山云く、
「さようか、汝がまだ新羅を出る船の船板を渡らぬ前に
             三十棒を食らわせておくべきだったよ」 …と。


僧はそこで始めて徳山の真意を解して悟った。


禅問答では理屈はいらない、
きちんと応えても、また応え切れなければ勿論、棒が飛ぶ。


なぜどうしてと言う理解を超えた処の
心証の見解(けんげ)でなければならないのだ。


一見むちゃくちゃな仕打ちに見えるかもしれない。

右でもなければ左でもない、
有でもなければ無でもない。

すべてを否定し、否定し否定しつくした
絶対的境涯を引き出す三十棒なのである。

打つ者も真剣、
者打たれる も真剣なるがゆえになりたつ境涯のぶっかり合いなのだ。

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ダブルバインドの作用
 禅の修業において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。そのなかの一つに、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言うのだ。「この棒が現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在しないと言うのなら、お前をこれで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ。」分裂症者の人間はたえずこの弟子と同じ状況に身を置いているという感触をわれわれは抱いている。しかし彼は「悟り」とは逆の、「混乱」の方向へと導かれる。禅の修業僧なら、師から棒を奪い取るという策にも出られるだろう。そしてこの対応を、師が「よし」と認めることもぁるだろう。しかし分裂症者がそのような選択をとることは不可能だ。相手との関係に対して大胆になることは彼は許されていないし、彼の母親と禅師とでは、その目的も意識も大きく違っているのだ。
(ベイトソン「…理論化に向けて」『精神の生態学』2000年297頁)

参考:
《…徳山 (宣鑑 ・七八〇 ―八六五 )は堂に来る時 、必ず長い棒を携えていた 。そして言う 、 「道い得るも三十棒 、道い得ざるも三十棒 」と 。これが彼の弟子達に言ったすべてであって 、彼はこれ以外何事も言わなかった 。》
(鈴木大拙「大肯定の禅」『禅学入門』より)

臨済録勘弁
師聞第二代徳山埀示云、道得也三十棒、道不得也三十棒。

Thomas Yuho Kirchner, Nelson Foster & Ueda Shizuteru「Entangling Vines」
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l 
宗門葛藤集 Case 194  徳山行棒 Deshan Uses His Stick

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前章にもどる

「行録」編



「勘弁」編の延長のような章であるが、但ひとつ違うのは、これが修業時代の言行を集めたものである点である。しかも、 一応年代順に並べてあるらしい。
 そこで「行録」編を読む第一の興味は、臨済の見解を得た由来ということになる。まず第一話を注釈してみよう。
「師、初め黄檗の会下(えか)に在って、行業純一なり。首座(しゅそ)乃ち歎じて曰く、是れ後生なりと雖も、衆と異なる こと有り、と。」
 そこである時、首座が臨済に問うた。
「上座、此に存ること多少時ぞ。」
 三年という答えである。
「首座云く、曽つて参問すや也無や。」
 未だしという返事。何を問うていいか分らないというのである。要領の悪い男である。だが首座の認めたのは、まさにこ の中途半端で茶を濁そうとしない点であったろう。
「首座云く、汝、何ぞ去って、堂頭和尚に、如何なるか是れ仏法的的の大意、と問わざる。」
 そこで言われた通り、臨済は黄檗に問うた。するとその声の終らぬうちに、黄檗に打たれる。戻って来た臨済に首座が問 う。
「問話作麼生(そもさん)。」
 どうであった。臨済は答える。
「某甲(それがし)、問声未だ絶えざるに、和尚便ち打つ、某甲会せず。」
 分らなくてあたりまえである。が首座は再度行ってみよと言う。三度同じ事を繰り返して、遂に失望した臨済は、首座に 言った。
「幸いに慈悲を蒙って、某甲をして和尚に問訊せしむ。三度問を発して三度打たる。自ら恨む、障縁あって深旨を領せざる を。今且く辞し去らん。」
 首座は、出ていくなら和尚に挨拶して行けと臨済に言った後、黄檗に会って言う。
「問話底の後生、甚だ是れ如法なり。若し来たって辞せん時は、方便して他を接せよ。向後、穿鑿して一株の大樹と成さば、 天下の為に陰涼と作(な)り去ること在らん。」
見込まれたものである。そこで黄檗は、別れの挨拶に来た臨済に、こう言った。
「別処に往き去ることを得ざれ、汝、高安灘頭、大愚の処に向って去れ、必ず汝が為に説かん。」
 さて、大愚のところに行った臨済は、事情を語る。
「某甲、三度、仏法的的の大意を問うて三度打たる。知らず、某甲過(とが)有りや過無しや。」
 大愚が言った。
「黄檗与麼(よも)に老婆なり。汝が為に徹困たることを得たり。更に這裏(しゃり)に来たって、有過か無過かと問う、と。」
 聞くや否や、臨済は大悟した。
「元来黄檗の仏法多子なし。」
 ここに至って、我々にも黄檗の行為の意味が少しは分ってくる。黄檗は、仏法的的の大意は何かと問う、その発想が全く 無意味であることを体感させようとした。そして、それこそがつまり黄檗の仏法の核心であったのである。首座は、そこが 分っていた。だから、いきなり核心を示すなどという飛躍よりは、先ず方便を以てすべきではないかと黄檗に忠告したので ある。ところが臨済は、打たれたことを、単に自分が叱責されたものとのみ思い込み、それがひとつの表現であることに思 い至らなかった。ものの姿にのみ目が向き、もの自体のはたらきに気付かなかったと言ってもよい。大愚の言は、臨済に見 方の転換をもたらした。すると、黄檗の意図も自ずと体感されたのである。
 この姿かたちから全く吹っ切れた臨済の面目は、すぐに発揮される。大愚が臨済の見解(けんげ)の真偽を試さんとして、 首筋を掴んで問い詰めた時、臨済は大愚の腰に、拳骨を三発食らわせた。この自由さに、大愚も臨済の見解を認めたのであ る。

 第二話も、臨済の面目躍如といったところで、実に面白い。
 臨済が松を栽えているところに黄檗が来た。
「深山裏に許多(そこばく)を栽えて、什麼(なに)か作(せ)ん。」
 こんな深い山の中、あたりに見えるのは木ばかりだというのに、いったいどういう了見だ。すると臨済が言う。
「一には山門のために境致と作し、二には後人のために標榜と作さん。」
 言い終って、鍬で地面を三度打ったのは、自分はただ仕事をするだけだという意気を示したのであろう。その様子を見て、 黄檗は言う。
「然も是(かく)の如くなりと雖も、子(なんじ)已に吾が三十棒を喫し了れり。」
 お前なら、そんな月並な言葉は吐かぬ筈だが。もう少し気の効いた答えが返ってくるかと思っていた。あるいは先の臨済 の言葉は、何かの折に黄檗自身が修業者に向って言ったものであったのかもしれない。すると臨済はどうしたか。また鍬で 地面を三打したかと思うと、ふうっと息を吐いた。買いかぶってくれたものだ、という意味であろうか。
 最後に黄檗がひとこと、
「吾が宗、汝に至って大いに世に興らん。」
 師に向って少しはいいところを見せようとするのが人情だが、師への人惑も断ち切った臨済は、やはり見事という他はな い。黄檗の感嘆も当然である。

 黄檗と臨済とのやりとりを記した話は、ひとつも見逃したくない。そこで次は第四話である。ある日総出で畑を耕してい る時、黄檗が来たのを見て、臨済は鍬によりかかって立っていた。黄檗が言う。
「這の漢、困するや。」
疲れたのか。すると臨済がこう答える。 「钁(かく)も也(また)未だ挙せず、箇の什麼をか困せん。」
 鍬も持ち上げていないのに、どうして疲れますか。失礼な言い草である。黄檗は打とうとした。すると臨済はその棒を受 け取め、ひといきに押し倒した。黄檗は維那(いのう)を呼ぶ。維那とは寺務を総括する僧のことである。
「維那、我を扶起せよ。」
 維那がそばによって来て、たすけ起して言った。
「和尚、争(いか)でか這の風顛漢の無礼たるを容(ゆる)し得ん。」
 すると、やっと立ちあがった黄檗は維那を打った。臨済は地を耕しつつ言う。
「諸方は火葬、我が這裏は一時に活埋せん。」
 この場面の臨済には、一種、不良少年のような趣きがあるのが面白いのだが、何にしても、お互いがやり取りを楽しんで いることを見逃しては、この話を読んだことにはならない。お陰で、まじめに怒った維那が打たれる破目になった。黄檗の 始めの言葉など、楽しくて仕方がないといった様子ではないか。
 ついでだから言っておくが、こうした畑仕事が寺の自給自足体制をささえているのである。彼等は必要だから畑仕事を行 う。が、そろそろ畑仕事それ自体が自己目的化している気配もある。いや、生きるということにどうしてそれほど必死にな らねばならぬのか。生きるのが当り前だから生きるという以上のものではなかった筈。ならばどうして余ったものを売りに 出すほど畑仕事をせねばならぬか。臨済がなんとなくふてくされているのは、その辺りにも理由がありそうな気がする。

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代臨済宗大徳寺派詩人。説話のモデルとしても知られる。

  • 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし[8]
  • 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
  • 秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
  • 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
  • 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
  • 世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
  • 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

      一休さんと風狂の世界(その2)

(その1から続く)
 さて、公案についてですが、禅問答というものは難しく、決まった答えがある訳でもありません。また、修行僧ですらなかなかよい答えができず、簡単には認可してもらえないと聞きます。
この一休宗純さんの公案とその答えについてどう理解すればよいか、が若い日の一休宗純さんの考え方の秘密を解くカギになりそうです。
その、公案そのものについては中国から伝えられていますので、誰にでも判り易いのですが、答えの解釈については一休宗純、華叟宗曇の二人からは何も残されていません。ですから、答えに対する解釈は、一休研究家の解釈で勉強するか、または、素人が勝手に考える浅はかなもので満足するかくらいになってしまいます。
自分なりのものを見つけるのもまた、楽しいのかもしれません。
そんな中途半端な見方ですが私流にはこんな解釈が成り立ちます。
まず、公案ですが
【洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)】
とは、次のような意味です。
『唐の時代に、雲門禅師のところに何千kmも離れたとこるから、洞山という僧が参禅のため訪ねてきた。
そこで、雲門禅師は洞山に尋ねます。「お前はどこにいたのか」。
洞山は答えます。「査渡(さど)におりました」。
雲門禅師は洞山に再び尋ねます。「この夏は何処で修行したのか」。洞山は答えます。「湖南の報恩寺です」。
雲門禅師は三度洞山に尋ねます。「いつ、そこを発ってきたのか」
洞山は答えます。「825です」
雲門禅師が言います。「お前に三頓(60)の棒叩きを与える」
翌日、洞山は再びやってきて、師に問います。
「昨日、三頓(60)の棒叩きに遭いましたが何か過ちがあったのでしょうか。私にはわかりません」
雲門禅師が叫びます。「この穀つぶしめが。江西湖南をそのようにうろつきまわっていたのか。」
ここにおいて洞山は大悟(悟りきること)した。』
これが公案である。お前は、何と答える。と質問され、坐禅をし、時には何年も考え続けるのです。
どうでしょうか。公案(課題)の意味は何となく判りますが、これに対し、禅でいう悟りになる“答え”はなんなのか、こう質問されたら何と答えていいのやら、私たちにはさっぱりわかりません。
一体なんと答えていいのでしょう。
宗純さんの答えは次の言葉でした。
【有漏路(うろじ)より
  無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
         雨ふらば降れ 風ふかば吹け】
う~ん、これは難しくて判らない。
というのが本当のところでしょう。
臨済宗の何人もの高僧が挑んだ解釈です。
解釈はいろいろあり、どれも正しいように思えるかもしれません。
どれも、一休宗純さんの真理には、ほど遠いのかもしれません。
しかし、なんとなくこの言葉に惹かれ、どうしても一休宗純さんに近づきたいと考えてしまいます。
そこで、自分流の解釈をすることになります。
こんな、勝手な解釈ができました。
有漏路(うろじ)というのは、迷い(煩悩)の世界のことです。
これにたいし無漏路(むろじ)というのは、悟り(仏)の世界のことです。
「お前はどこにいたのか」;有漏路(うろじ)におりました。
「この夏は何処で修行したのか」;有漏路(うろじ)と無漏路(むろじ)の途中です。
「いつ、そこを発ってきたのか」;有漏路(うろじ)をでるときです。

つまり、こう自分流の解釈をしました。

公案(課題);《人間とは何者か、お前は答えてみよ。》という師の質問が出されたと宗純は考えました。
宗純の回答;《人間とは、悟り(仏)の世界に帰るほんの短い間、迷い(煩悩)の世界であるこの世にいる、仮の存在である。すべては空である》、と答えた。
仮の世で一休み(ひとやすみ)している存在、それが【一休宗純そのもの】なのだと、悟ったのではないでしょうか。
一休さんが生きた時代は激動の時代と言ってもいいかもしれません。華美な室町文化が花開き、一方では戦乱が続きました。一休宗純晩年のころには、11年にも及ぶ、応仁の乱がおきており、戦国時代へ移り変ってゆく時代でもありました。
民衆は苦しみ、仏教も形式ばかりが重んじられ、僧侶は堕落していたともいわれます。
悟りを得た、一休宗純さんが【風狂】の生活を送ったのは、このような時代に、形骸化し、権威ばかり重んじ、自己の保身と富に眼が眩んだ仏教界に、痛烈な批判と、行動を通じての抵抗をしたのかもしれません。

凡人には到達できない、“一切は空である”と悟りを得たからこその、清貧に徹し、物欲に溺れない、しかし一切の形に捉われない破天荒の生涯を送ったのかもしれないのです。
だからこそ、〈絶対の悲しみ〉は、形を変えて、短歌や、書や、逸話に残されたように思うのです。

没して後、江戸時代になって意外なところから一休宗純さんが見直され、評価されました。
茶の湯です。茶室に文人、墨客の掛け軸を飾ることが流行し、一休宗純さんの掛け軸が愛好されました。
非常に能筆であり、沢山の書を残したと言われておりますので、人気が集まりこぞって粋人たちに書画が用いられたということです。
また、同時に戒律や、形式にとらわれない人間臭い生き方は多くのとんち話を生み出す元となり、“一休さんのとんち話”が出来上がりました。
“一休さん”として、民衆に再び人気が出てきました。

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 一休さん研究室~一休宗純
・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)について 
 
一休さん(第一話より)

 一休宗純(幼名・千菊丸~周建~宗純~一休)(A.D.1394-1481)
   京都大徳寺第47世。1392年、義満は南北朝合一を達成する。その2年後のことであった。
 一休さんは、1394年(応永元年)元旦に誕生したとされる。父は第100代 後ご小松こまつ天皇てんのう、母は伊予いよの局つぼね(アニメでは)となっている。が、いろんな本を読んでいると、母は「藤氏(とうし)」という藤原氏の流れの人らしい。この二人が同一人物なのかは定かでない。母が南朝方だったため周りの嫉妬しっとのいい攻撃材料になり、朝廷を追われ、一休さんは、京都嵯峨さがの天竜寺のちかくで生まれたそうだ。幼名、千菊丸(せんぎくまる)は6歳になるまで、母とくらした。
 さて、ここまでは大体アニメは通説と異ならないのだ。ここからである。
 アニメでは、6歳になった千菊丸は、「かそう禅師」(一休生涯最大の師で、京都堅田かただの祥瑞寺の住職。)のところに母に連れられ、「一休」と名付けられる。その足で外観和尚の安国寺で剃髪をされ、仏に仕える身になる。(第1話)
 これが、全編にわたって禍根を残す、誤りの元であった。なぜなら、安国寺で一休さんはまだ「周建(しゅうけん)」という名だったからだ。「一休」と名乗るのは、「宗純そうじゅん」をへて、24歳(数えで25)になったときだ。「洞山とうざん三頓さんとんの棒ぼう」という「無門漢むもんかん」という禅書の難しい公案こうあん(問題)をとき、かそう禅師から、一休さんが作った歌から名を取り、「一休」という法名を授かったという。
 
うろじより むろじへ帰る 一休み
      雨ふらば降れ 風ふかば吹け


虎の屏風の前のりりしい一休さん(オープニングの歌より)
 さて、はたして、アニメ「周建さん」で、人気が出ただろうか?それは、矢吹プロデューサーも考えただろうが、疑問がのこる。そもそも坊主が主人公のアニメなんてのが前代未聞である。折角のネームヴァリューがむだになるし、マイナーなイメージがのこる。「周建」?だれ?それ?ってな具合である。そこで、史実とは異なっても「一休さん」としたのだろう。
 なにしろ「さん付け」で呼ばれるのは「一休さん」と「良寛りょうかんさん(良りょう寛大愚かんたいぐ)」くらいなものだから。
一休さん研究室表紙にもどる


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徳山行棒 Deshan Uses His Stick
徳山宣鑑 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳山宣鑑
徳山 宣鑑(とくざん せんがん、780年 - 865年)は、中国代の禅僧。 俗姓は周氏、剣南(四川省)の出身である。
古来、禅者の間では徳山の峻厳な禅風を表す「徳山の棒」は「臨済の喝」と並んで有名である。
Deshan Xuanjian - Wikipedia

碧巌録が徳山の晩年の姿を伝えていて秀逸。

https://books.google.com/books?isbn...
Daisetsu Teitaro Suzuki, Richard M. Jaffe - 2014 - プレビュー - 他の版
As to the use of a stick, there is one master noted for his liberal application of this instrument. Tokusan ( Deshan, 790–865)4 used to say, “When you say 'Yes,' you get thirty blows of my stick; when you say 'No,' you get thirty blows of my stick just the same.” The Zen monks generally carry a long staff in traveling from one ...

道得也三十棒、道不得也三十棒
出典は臨済録勘弁。宗門葛藤集が元ネタだが、上記の臨済録の方がダブルバインドを理解した言葉遣いになっている。


Thomas Yuho Kirchner, Nelson Foster & Ueda Shizuteru「Entangling Vines」
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l

宗門葛藤集 Shūmon kattōshū (Entangling Vines)
http://terebess.hu/zen/entangling.html#b
Case 194: 徳山行棒 Deshan Uses His Stick 

At an informal lecture Deshan Xuanjian said, “Tonight I’ll answer no questions. Anyone who asks will get thirty blows.” At that moment a monk stepped forward and bowed. Deshan immediately struck him.

道得也三十棒 道不得也三十棒 ( 哲学・思想 ) - 九十九蓮 ブログ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/bairi3567/67714092.html?__ysp=5b6z5bGx6KGM5qOS
道得也三十棒 道不得也三十棒


道い得るも也三十棒 いいえるもさんじゅうぼう

道い得ざるも也三十棒 いいえざるもまたさんじゅうぼう


禅門においては、
臨済の、「喝」
徳山の、「棒」といわれるほどに、
唐代の禅匠、臨済義玄禅師は
修行者との禅問答において 「一喝」を飛ばして導き、

徳山宣鑑(とくさんせんかん)和尚は来る修行者には
棒を以って打ち据えて、少々荒っぽく、厳しく導いたという。


きちんと答ええても三十棒を食らわせ、
答えがなければ また三十棒を打つ。

応えても応えられなくても許すことがなかったというのは一般的感覚では理解できがたいことであるが、ここが徳山和尚の真の親切心なのである。


「徳山行棒(ぎょうぼう)」 の公案には


徳山小参に云く
「老僧、今夜、答話せず。問話の者あらば三十棒」。

時に僧あり、出でて礼拝す。山、すなわち打つ。

僧云く、
「それがし、話も未だ問わるざるに和尚、なんによってそれがしを打つ」


山云く、「汝はこれ什麼(いづれ)のところの人ぞ」。


云く、「新羅の人なり」。


山云く、
「汝、未だ船舷(せんげん)を跨(また)がざる時に
三十棒を与うるに好し」。  

僧、此処において省あり。




ある夜の小説法の時、徳山和尚は

今夜は何も言うまい、
何か聞きたいことが事あれば言うがよい。
             三十棒を以って応えよう」 と。

その時一人の僧が
問答をせんと進み出て礼拝したところ、
徳山はすかさず一棒を食らわす。


僧はびっくり

「和尚私はまだ何の問いかけもしてはおらぬのに、なぜ打つのか」
…と。


徳山はそんなことはお構いなしに


「お前さんは何処の出身の人かな」


僧云く、 「新羅から来ました」


徳山云く、
「さようか、汝がまだ新羅を出る船の船板を渡らぬ前に
             三十棒を食らわせておくべきだったよ」 …と。


僧はそこで始めて徳山の真意を解して悟った。


禅問答では理屈はいらない、
きちんと応えても、また応え切れなければ勿論、棒が飛ぶ。


なぜどうしてと言う理解を超えた処の
心証の見解(けんげ)でなければならないのだ。


一見むちゃくちゃな仕打ちに見えるかもしれない。

右でもなければ左でもない、
有でもなければ無でもない。

すべてを否定し、否定し否定しつくした
絶対的境涯を引き出す三十棒なのである。

打つ者も真剣、
者打たれる も真剣なるがゆえになりたつ境涯のぶっかり合いなのだ。

http://blogs.yahoo.co.jp/chilyarennjiyanoyasai/35481377.html    ←7・16・1317以降表示作品



ダブルバインドの作用
 禅の修業において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。そのなかの一つに、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言うのだ。「この棒が現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在しないと言うのなら、お前をこれで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ。」分裂症者の人間はたえずこの弟子と同じ状況に身を置いているという感触をわれわれは抱いている。しかし彼は「悟り」とは逆の、「混乱」の方向へと導かれる。禅の修業僧なら、師から棒を奪い取るという策にも出られるだろう。そしてこの対応を、師が「よし」と認めることもぁるだろう。しかし分裂症者がそのような選択をとることは不可能だ。相手との関係に対して大胆になることは彼は許されていないし、彼の母親と禅師とでは、その目的も意識も大きく違っているのだ。
(ベイトソン「…理論化に向けて」『精神の生態学』2000年297頁)

参考:
《…徳山 (宣鑑 ・七八〇 ―八六五 )は堂に来る時 、必ず長い棒を携えていた 。そして言う 、 「道い得るも三十棒 、道い得ざるも三十棒 」と 。これが彼の弟子達に言ったすべてであって 、彼はこれ以外何事も言わなかった 。》
(鈴木大拙「大肯定の禅」『禅学入門』より)

臨済録勘弁
師聞第二代徳山埀示云、道得也三十棒、道不得也三十棒。

Thomas Yuho Kirchner, Nelson Foster & Ueda Shizuteru「Entangling Vines」
https://itun.es/jp/Hpt1Y.l 
宗門葛藤集 Case 194  徳山行棒 Deshan Uses His Stick



芳賀幸四郎 - 1956 - スニペット表示 - 他の版
徳山の、臨済の喝、禾山の解銥、石鞏の弓はいづれも接得の鞏の為人度生の作略のことである。石鞏は修行者が入室してくるといっも、満月のようにしぼった弓に箭をっがえて修行者ある。石紫の弓とは、もと讯師であったが馬祖道一に偶然相見したのが縁 ...

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訓読 五灯会元 全三巻セット 大型本 – 2006/12/8




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六祖壇経と禅の隆盛編集

六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』は、神会が六祖慧能を掲げて説いた新しい坐禅と禅定の定義とされる。これを元に後の中国禅宗は確立・発展した。

師衆に示して云く、
「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。
此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。
善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。
外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。
只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。
善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。
菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』
善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。

— 『六祖壇経』坐禅第五

さらに『景徳傳燈録』に載せる、慧能の弟子の南嶽懐譲677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。

開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
師是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
一(道一)曰く「仏と作るを図る」
師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
一曰く「師、什麼をか作す」
師曰く「磨きて鏡と作す」
一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
「坐禅して豈仏と成るを得んや」
一曰く「如何が即ち是れなる」
師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是れ、牛を打つ即ち是れ」
一、対無し。
師又曰く「汝坐禅を学ぶは、坐仏を学ぶを為すや。若しは坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若しは坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、取捨に応ぜず。汝若しは坐仏、即ち是れ仏を殺し、若しは坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。

— 『景德傳燈錄』巻第五

この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。

般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。

中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。

やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した五家の観念が一般化して五家(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐派の勢力が伸長し、五家と肩を並べるまでになり、この二派を含めて五家七宗(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。

さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。

慧能以降の法嗣編集

慧能以降の主な法嗣の系統は、以下の通り。太字五家七宗

慧能(六祖、曹渓山宝林寺・南宗
└ 青原行思 (不詳 - 740年、禅の二大祖師)- 石頭希遷(石頭宗)
  └薬山惟儼 - 雲巌曇晟 - 洞山良价807年 - 869年曹洞宗開祖)
  └天皇道悟 - 龍潭崇信 - 徳山宣鑑 - 雪峰義存 -
    └玄沙師備 - 羅漢桂琛 - 清涼文益(885年 - 958年法眼宗開祖)
    └雲門文偃864年 - 949年雲門宗開祖)
南嶽懐譲677年 - 744年、禅の二大祖師) - 馬祖道一洪州宗) -
  └百丈懐海 -
    └黄檗希運 - 臨済義玄(生年不詳 - 867年臨済宗開祖)-
      └三聖慧然
      └興化存奨 - 南院慧顒 - 風穴延沼 - 首山省念 -
        └汾陽善昭 -
          └石霜楚円 -
             └楊岐方会(楊岐派
             └黄龍慧南(黄龍派
          └瑯琊慧覚
        └広慧元漣
        └石門蘊聡
    └潙山霊祐 (771年 - 853年) - 仰山慧寂804年 - 890年、潙山とともに潙仰宗開祖)
  └南泉普願 - 趙州従諗
荷沢神会荷沢宗開祖)







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8 Comments:

Blogger yoji said...

レナード・コーエン
zip2000.server-shared.com › leonard-co...
異端のシンガー・ソングライター、レナード・コーエンは、世界中に散らばる彼のファンたちによって、50歳を過ぎてからロック .... それは日本人の臨済宗(禅仏教の代表的宗派) 伝道師、佐々木承周老師という人物です。

5:30 午後  
Blogger yoji said...

     釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
       ┃
     (27代略)
       ┃
      菩提達磨 ?~528年
       ┃
      慧可大祖 487~593年
       ┃
     (3代略)
       ┃
      慧能大観 638~713年
   ┏━━━┻━━━┓
 青原行思    南獄懐譲
   ┃       ┃
 石頭希遷    馬祖道一 709~788年
   ┃    ┏━━┻━━━━━┓
 (以下略)  ┃        南泉普願
       百丈懐運      ┃
        ┣━━━━┓   趙州従諗
       黄檗希運 潙山霊祐
        ┃    ┃770~853年
       臨済義玄 香厳智閑
        ?~867年  ?~898年
(曹洞宗) (臨済宗)

~~~~

     釈迦牟尼仏
       ┃
     (27代略)
       ┃
      菩提達磨
       ┃
      慧可大祖
       ┃
     (3代略)
       ┃
      慧能大観
   ┏━━━┻━━━┓
 青原行思    南獄懐譲
   ┃       ┃
 石頭希遷    馬祖道一
   ┃    ┏━━┻━━┓
 (以下略)  ┃    南泉普願
       百丈懐運   ┃
        ┃    檀林義空
       黄檗希運
        ┃
       臨済義玄

 (曹洞宗) (臨済宗)

5:29 午前  
Blogger yoji said...

禅の全盛期も短いことがわかる

浅田彰のいうモダンジャズなどと同じだ

5:41 午前  
Blogger yoji said...

『そもさん』『せっぱ』 どういう意味ですか?
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kohedojimaさん2008/10/2311:33:22
『そもさん』『せっぱ』 どういう意味ですか?



ベストアンサーに選ばれた回答

hekiru80さん 2008/10/2311:43:07
そもさんは漢字で「什麼生」と書き、中国宋代の俗語で「さあどうだ?」とか「いかに?」といった感じの言葉らしいです。
せっぱは「説破」と書き、「答えてやろう」って感じの言葉みたいですね。
つまり、意訳すると
そもさん=これから出す問題に答えられるか?
せっぱ=おう、答えてやろう!!
って感じかな?

6:57 午後  
Blogger yoji said...

喝 - 茶席の禅語選
https://zengo.sk46.com/data/katsu01.html

喝かつ
『臨済録』上堂
僧問、如何是佛法大意。師便喝。僧禮拜。
僧そう問とう、如何いかなるか是これ仏法ぶっぽうの大意たいい。師し便すなわち喝かつす。僧そう礼拝らいはいす。
『新版 禅学大辞典』には、「大きなこえで言うこと。禅宗では種々の意味をもつ。(1)叱りつける。大喝一声。(2)唱えること。(3)師家が学人を導く手段」とある。【喝】
入矢義高監修/古賀英彦編著『禅語辞典』には、「大声でどなること。『カーッ』と発声することではない」とある。【喝】
柴山全慶編『禅林句集』には、「言葉では表現し難い悟りの境地を提示する禪的作用はたらきとしての激しい叫び。又學人を教導する激しい叱咤の叫び。一切を喝破する聲」とある。【喝】
『禅語字彙』には、「叱咤の聲。禪門にて唱ふる喝は、理盡き情亡じて眞機を露呈するところの玄旨あり、臨濟四喝の如く種々の玄機を含む、參じて知るべし。……」とある。【喝】

1:17 午前  
Blogger yoji said...

世界大百科事典 第2版の解説
かつ【喝 hè】

大声でどなりつけること。叱る意。中国の禅宗で,師が弟子を導くのに,経典の講義や説法のほか,日常の挨拶や対話を重視して,言葉で叱り,棒で打つなど,直接行為に訴えるのがそれで,徳山の棒,臨済の喝はもっとも有名だが,そうした喝と棒をあわせて棒喝といい,禅の特殊教育の語となる。大喝一声,一喝を与えるなど,必ずしも叱るのではなくて,いきなり相手の仏性を喚起する場合もあり,そうした種々の用例を,

金剛王宝剣(仁王の刀),探竿影草(魚をさそう),
踞地金毛(獅子のねらい),不作一喝(声をださぬ喝)

という,四つに分類する。

1:19 午前  
Blogger yoji said...

      動           静

潜在的  踞地金毛(獅子のねらい),探竿影草(魚をさそう),
現勢的  金剛王宝剣(仁王の刀),不作一喝(声をださぬ喝)

1:22 午前  
Blogger yoji said...



井筒
意識と本質


禅における…

「僧 肇 は『天地と我とは同根。万物は我れと一体』と言っているが、私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人にたいして、南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつつ「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」と言った(碧巌録、四十)。世人の目に映る感覚的花は花性をその本質として動きのとれぬように固定されたものである。花の花的側面だけはありありと見えているが、花の非花的側面は全

趙州録からなど

禅の引用多数


意識と本質 東洋哲学の共時的構造化のために
本 質 直 観イスラーム哲学断章
禅における言語的意味の問題 ☆
対話と非対話禅問答についての一考察

井筒俊彦
岩波文庫

11:39 午後  

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