金曜日, 3月 10, 2017

Joyce, Beckett, Artaud ( paranoid, hebephrenic, catatonic)妄想、破瓜、 緊 張型

ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956

NAMs出版プロジェクト: What's the difference?:再々投稿

http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/whats-difference.html


ダブルバインドの反復により発症する分裂症の症例の分類:
言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)1
言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型[解体型])2
コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)3

ベイトソンの1956年に発表した論文「精神分裂症の理論化に向けて」
(『精神の生態学 』新思索社,299~308頁)参照
「疫学の見地から見た精神分裂」(1955,1971)同287頁も参照。

浅田彰『ダブル・バインドを超えて』(1985)では、
1がジョイス、2がベケット、3がアルトーに対応するとされている(浅田64,87~8頁)。

《 …ベイトソンが分裂症の発生因であるとしたダブル・バインド状況の定義…

①そこから逃げることのできない人間関係の場において、

②一定のメッセージが与えられ、

③しかもそのメッセージを否定するメタメッセージが同時に与えられる状況をダブル・バインド状況といい、

④それが反復されると分裂症を生む…》

(浅田76頁)


Joyce 妄想型 paranoid
https://i.imgur.com/2biUldM.gif Ulysses メタファー

Beckett 破瓜(はか)型 hebephrenic

Artaud 緊張型 catatonic
https://i.imgur.com/rwKgu01.gif La coquille et la clergyman カット・オフ


《…ベイトソンは…バリへ行き、ともすれば暴力の突出

につながりがちなニューギニアの社会とは対極的な、エネルギーを小刻

みに高く保つ術にたけた柔軟な社会を、そこに見出します。で、それを

分析する途中、事実上ダブル・バインドに触れているんですね。一九四

九年に出た「バリ:定常状態の価値体系」という論文の中では、母親が

子供を愛撫し、子供が興奮して抱きついてくると急に冷たいそぶりを見

せる、という状況が描写されています。こうして適度のダブル・バイン

ドをくぐりぬけることにより柔軟な性格が形成される。それが、クライ

マックスの突出を避け、エネルギーを小刻みに高く保とうとする文化を

生み出す。おおよそ、こういうことになるでしょう。蛇足ながら、ベイ

トソンはそういう高エネルギー定常状態を「プラトー」と呼んでおり、

そこからドゥルーズとガタリの書物が『ミル・プラトー』と名付けられ

ることになります。》

(『ダブル・バインドを超えて』100~1頁)


参考:

http://nomadicartsfestival.com/wp-content/uploads/2015/02/Gregory-Bateson-Ecology-of-Mind.pdf

p.121~2

邦訳(2000),178頁



paranoid,  hebephrenic,  or  catatonic

(Joyce,Beckett,Artaud)
paranoid,  
ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882年2月2日 – 1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがある。

  hebephrenic,
サミュエル・ベケット(Samuel Beckett, 1906年4月13日 - 1989年12月22日)は、アイルランド出身のフランス劇作家小説家詩人不条理演劇を代表する作家の一人であり、小説においても20世紀の重要作家の一人とされる。ウジェーヌ・イヨネスコと同様に、20世紀フランスを代表する劇作家としても知られている。1969年にはノーベル文学賞を受賞している。


 catatonic.
アントナン・アルトー(Antonin Artaud, 1896年9月4日 - 1948年3月4日)は、フランスの俳優・詩人・小説家・演劇家。

. If  he  didn't  become  suspicious  of  metacommunicative  messages or  attempt  to  laugh  them  off,  he  might  choose  to  try  to  ignore  them. Then he would find it necessary  to see and hear less and less of what went  on  around  him,  and  do  his  utmost  to  avoid  provoking  a response  in  his  environment.  He  would  try  to  detach  his  interest from   the  external   world  and  concentrate  on  his  own  internal processes  and,  therefore,  give  the  appearance  of  being  a  withdrawn, perhaps  mute,  individual. 
 This  is  another  way  of  saying  that  if  an  individual  doesn't  know what  sort  of  message  a  message  is,  he  may  defend  himself  in  ways which  have  been  described  as  paranoid,  hebephrenic,  or  catatonic. These  three  alternatives  are  not  the  only  ones.  The  point  is  that  he cannot  choose  the  one  alternative  which  would  help  him  to  discover what  people  mean;  he  cannot,  without  considerable  help,  discuss  the messages  of  others.  Without  being  able  to  do  that,  the  human  being is  like  any  self-correcting  system  which  has  lost  its  governor;  it spirals into  never-ending, but always  systematic, distortions.


paranoid,  hebephrenic,  or  catatonic

Joyce, Beckett, Artaud ( paranoid, hebephrenic, catatonic)

Joyce 妄想型
 

Beckett 破瓜型
 


Artaud 緊張型
 

カタトニーはパゾリーニ豚小屋にも出てくる。

Ulysses by James Joyce: Nausicaa Chapter 1967

https://youtu.be/3S7hJdYdnpw

Samuel Beckett Quad

https://youtu.be/LPJBIvv13Bc

【画質向上版】ジェルメーヌ・デュラック「貝殻と僧侶」Part1 - nicozon

http://www.nicozon.net/watch/sm17169119

CinemaScape/貝殻と僧侶(1927/仏)

http://cinema.intercritique.com/movie.cgi?mid=12490

貝殻と僧侶 (1927/仏)


La coquille et la clergyman


[Short]

監督 ジュルメーヌ・デュラック

脚本 アントナン・アルトー

撮影 ジョルジュ・ペリナール

出演 アリクス・アリン

あらすじ 僧侶(アレックス・アラン)が寺院の回廊を抜けて行った部屋では軍人(ルシアン・バタイユ)と女(ジェニカ・アサナシュー)が居た。僧侶は理想の女が他の男といたので嫉妬の余り男を殺してしまうのだが…。アベル・ガンスの『ナポレオン』やカール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』にも出演したシュールレアリズムの詩人アントナン・アルトーの脚本を女流監督ジュルメーヌ・デュラックが監督した最初のシュールレアリズム映画と称される映画。 (けにろん)


http://movie.walkerplus.com/mv13461/

ホーマーの叙事詩『オディッセイ』の色彩映画化である。脚色にはフランコ・ブルザーティ、マリオ・カメリーニ、エンニオ・デ・コンチーニ、ヒュー・グレイ、ベン・ヘクト、イーヴオ・ペリッリ、アーウィン・ショーの七人が当り、ヴェテラン、マリオ・カメリーニが監督に当った。製作はカルロ・ポンティとディノ・デ・ラウレンティス、一九五四年度作品である。撮影は「オズの魔法使」のハロルド・ロッスン、音楽は「陽気なドン・カミロ」のアレッサンドロ・チコニーニ。「アンナ」のシルヴァーナ・マンガーノと「死の砂塵」のカーク・ダグラスが主演し、「指紋なき男」のアンソニー・クイン、新進女優ロッサナ・ポデスタ(貴女は若すぎる)、ジャック・デュメニル、ダニエル・イヴェルネル、シルヴィ、フランコ・インテルレンギ、エレナ・ザレスキ、リュドミラ・ドゥダロヴァなどが共演する。

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トロイ戦役は終った。勝ったギリシア軍は凱旋の途についた。木馬を発明してトロイを陥落させたイタカ国の主ユリシーズ(カーク・ダグラス)もその中の一人だった。ユリシーズの后ペネロペ(シルヴァーナ・マンガーノ)は、夫の留守中、腹黒い王族から再婚を強いられていた。ユリシーズは部下とともに故郷へ向けて出帆したが、海神の怒りにふれて暴風雨に会い、船を失って見知らぬ国に漂着した。そして意識を失ってしまった。ここは航海と商業の民フェアーチ人の島、王はアルチノオ。その姫ナウシカア(ロッサナ・ポデスタ)は海岸で失神したユリシーズを発見し、王宮に連れ帰った。ユリシーズはすべての記憶を喪失していた。ナウシカアは彼に思いを寄せ、二人は結婚することに決った。式当日ユリシーズは漂着した海岸に行き記憶をとり戻した。そして、王宮で王とナウシカア姫に凱旋途上経験した冒険を語った。--トロイを出帆、チコーニ人と戦い、ロトファージ人の追撃を逃れたのち、一行は山羊の群れる島についた。島の洞窟のなかで、住民チクローピ人の頭である一つ目の巨人ポリフェーモに捕えられた。だが、ユリシーズは巨人を酒に酔わせ、辛うじて虎口を脱した。それからかずかずの冒険ののち、ある晴れた島に上陸した。ここに住む魔女チルチェ(シルヴァーナ・マンガーノニ役)は波の部下を豚にしてしまった。ユリシーズは彼女の妖しい魅力のとりことなった。やけるような陶酔の日日がすぎて行った。しかし、ユリシーズは故国を思い出し、チルチェに帰国を願って承諾を得た。--ユリシーズの物語は終った。アルチノオ王は、彼こそラエルテの子ユリシーズなることを知り、帰国の船を与えた。愛人を失うナウシカアの歎きは深かった。かくてユリシーズは故国イタカに着き王族たちの陰謀を知った。そして乞食に身をやつし、息子テレマコに復讐の計画を打明けた。王族の頭アンチノオ(アンソニー・クイン)の矢の催促に耐えられず、ペネロペは弓技の勝利者と結婚すると、止むを得ず約した。弓技の日、一番の強弓を持った乞食は満場を沸かせた。ボロをかなぐり捨てるとユリシーズであった。王族は恐怖にふるえ、ペネロペは最愛の夫のもとにかけよった。忽ち起る乱闘は、王子テレマコと忠臣に援けられたユリシーズの勝利に終った。アンチノオは倒された。ユリシーズは妻ペネロペを胸に抱いた。

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作品データ

原題 Ulisse

製作年 1954年

製作国 イタリア

配給 イタリフィルム=NCC



ユリシーズ(1967) | 映画-Movie Walker

http://movie.walkerplus.com/mv9318/

ユリシーズ(1967)

1967年公開

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ジェームズ・ジョイスの原作をジョセフ・ストリックとフレッド・ヘインズが脚色、これまではオフ・ハリウッド映画を作っていた<ニューヨーク派>のジョセフ・ストリックが製作・監督にあたった。撮影はウォルフガング・スシツキー、音楽はスタンリー・マイヤーズが担当した。出演は、アイルランドの舞台俳優ミロ・オシア、英国の舞台女優バーバラ・ジェフォード、他にモーリス・ローヴス、T・P・マッケンナ、ジョー・リンチなど。

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ダブリン市の郊外に、マーテロ塔という古い塔がある。小学校教師のスティーブン(モーリス・ローヴス)は医学生のマリガン、大学生のヘインズとともに、この塔に住んでいた。彼はまた、母の死に会えなかったことを深く悔やんでいるナイーブな詩人でもあった。学校が終わったあと、1人海岸を歩くスティーブンの頭には人間の誕生、革命家のこと、ヘソのないイブなど、まったく関連のないものが浮かんでは消えていった。一方、レオポルド・ブルーム(ミロ・オシア)は、妻モリー(バーバラ・ジェフオード)のために朝食の支度をするような中年男。モリーの恋人ボイラン(ジョー・リンチ)のことで、いつも頭を悩ましている。その日ブルームの生活は、友人の葬式に行くことに始まり、次に自分が広告取りをしている新聞社に、まわった。そこで彼はスティーブンと顔を合わせた。午後1時、昼食をすましたブルームは、図書館に行った。そこで彼はボイランを見かけたり、シェークスピア論をやっているスティーブンたちに会ったりした。その後、街へ出て妻のために「罪の甘さ」という本を買い、4時、ホテルで食事しながら、文通している恋人に甘い手紙を書く。そこへ、またもや来合わせたボイランを見て、ブルームは、彼と妻モリーとの関係を妄想し、頭を悩ますのだった。8時。海岸で3人の女たちを見たブルームは、そのうちの1人の挑発的なポーズに悩まされ、その後、再び街に出た。彼は死んだ息子を思わせるスティーブンを見かけると後を追い、2人して酔っぱって夜の街を歩きまわり、売春宿に入りこみ、さまざまな幻想にふけった。制の倒錯、権力への憧れ、そして劣等感などの想念がうずまく。夜ふけ。家へ帰ったブルームは、ベッドに入ってから、妻と交わりを持つ男たちのことを夢想する。この夫婦は、息子を亡くしてからというもの、関係をもっていない。一方モリーは、夫のこと、ボイランのこと、少女時代のことなどを夢想する。そして自分たち夫婦の、かつての、若くて汚れない日々の愛を、夢の中で想い起こすのだった。

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原題 James Joyce's Ulyses

製作年 1967年

製作国 アメリカ

配給 コロムビア

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スタッフ

監督 ジョセフ・ストリック

脚色 ジョセフ・ストリック 、 フレッド・ヘインズ

原作 ジェームズ・ジョイス

製作総指揮 Walter Reade Jr.

製作 ジョセフ・ストリック

撮影 ウォルフガング・スシッキー

音楽 スタンリー・マイヤーズ

全てを見る(8)


浅田彰1985年より


《 しかし本当はそんな生やさしいものじゃない。龍樹の『中論』をS F

的に極端化すれば、有と無の対立からおりて中1に至り、しかし中1に執

着することも許されないので有-無と中1の対立からおりて中2に至り、

以下無限におり続けて{中i}の極限としての中∞に至ったところが即ち

空になのだと。こういう風にもいえるんだから、やはり問題は絶対矛盾的

な極限なのだというべきでしよう。それはしかし、仏教的な思考の中

のー割方にすざないんじゃないかと思います。

 むしろ、問題は、絶対矛盾的自己同ーというより絶対矛盾的自己差異

化とでもいったものでしょう。今までいくつか述べてきたことからして

も、極限としての空というのは、同一的な場所というより、分節構造す

なわち差異体系がたえず自らの上に折り重なってきては自らを差異化し

つづける、そういうメビウス的な生成の過程としてとらえるべきもので

はないかと思います。いいかえれば、アナログな連続体などという大人

しいものじゃない、デジタルな分節構造がメビウス的に自己回帰しつづ

けるハイパーデジタルな運動体とでもいうのかな。それは、ノッペリし

た場所であるどころか、分節として固定される以前の微細な粒子が捩れ

を孕みながら超高速で旋回している、そういう恐るべき時空なのでしょ

う。ダブル・バインド状況から絶対矛盾的にワープした果てに見出され

るのは、そんな光景ではないかと思います。》109~110頁




Ernest Becker - 1961 - スニペット表示 - 他の版
If you say this stick is not real, I will strike you with it. If you don't say anything I will strike you with it." To resolve this crushing frustration, the disciple can very easily seize the stick — a response which the Zen master might accept.



Full text of "Zen A Rational Critique"

https://archive.org/stream/zenarationalcrit029023mbp/zenarationalcrit029023mbp_djvu.txt



 In some mondo accounts the student slaps the master, and both laugh naturally and easily. One mondo which is held to reflect a perfect resolution of ambivalence is the following: the master holds a stick over the pupil's head and says, "If you say this stick is real, I will strike you with it. If you say this stick is not real, I will strike you with it. If you don't say anything I will strike you with it.” To resolve this crushing frustration, the disciple can very easily seize the stick a response which the Zen master might accept. The ambivalence would thus be resolved with a spontaneously shocking solution.



CHAPTER 3 

Bibliographic Notes

Albert Stunkard first detailed those aspects of Zen which
have a counterpart in therapeutic practice in "Some Inter-
personal Aspects of an Oriental Religion," Psychiatry,
XTV a (1951), 419-31.

Erich Fromm's discussion of Zen appeared in "Psycho-
analysis and Zen Buddhism," Psychologia, I, No. 2 (June,
1959), 79-99 (Kyoto, Japan). It also appeared later in
186



Notes

Zen Buddhism and Psychoanalysis. New York: Harper,
1960 (with D. T. Suzuki and Richard De Martino).

References

(1). G. W. Allport, The Individual and His Religion.

New York: Macmillan, 1950, 83-84.
(2). Fromm, "Psychoanalysis and Zen Buddhism/'
(3). Silvano Arieti. Interpretation of Schizophrenia. New
 

York: Brunner, 1955. 



Albert Stunkard

Some Interpersonal Aspects of an Oriental Religion: Psychiatry: Vol 14, No 4


 アルバー・スタンカードは鈴木大拙と交流があったようだ

ベイトソンの禅関連の元ネタ?
ベイトソン初出は1956なので出典ではないかも知れない
(その後Bateson1956年雑誌掲載版にも禅記述を確認した)
フロム(夫妻)が源流か?

禅と精神分析 (現代社会科学叢書) 単行本 – 1992/6  (1960初版)


1 John Sullivan, an experimental psychologist, in a review of L. S. 
Kubie's Neurotic Distortion of the Creative Process (University of
Kansas, 1959) cites Kubie's vigorous attack on the thesis that the
unconscious is the source of creativity. Sullivan agrees that this thesis
is a "ridiculous" doctrine. Saturday Review (July 11, 1959), p. 31.
178

鈴木大拙館について | 鈴木大拙館

http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/about.html#panel-2

英著 Essays in Zen Buddhism, First Series(1933[昭和8]年 Second Series、1934[昭和9]年 Third Series)

1938(昭和 13)年 英著 Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture(邦訳『禅と日本文化』北川桃雄)

1939(昭和 14)年 著書『無心と言ふこと』

1944(昭和 19)年 著書『日本的霊性』

1948(昭和 23)年 著書『東洋と西洋』

1949(昭和 24)年 英著 Living by Zen(邦訳『禅による生活』北川桃雄、小堀宗柏)

1959(昭和 34)年 英著 Zen and Japanese Culture(Zen Buddhism and its Influence on Japanese Cultureの改訂)



ドゥルーズにとってダブルバインドは決定的な概念だ。器官なき身体と欲望する諸機械もそれぞれダブルバインドである。両者合わせてダブルダブルバインドでさえある。 

____

フロムは『禅と精神分析』邦訳1960年214頁で鈴木大拙経由で徳山行棒を引用し*、フロイトのアンビバレンツの概念と繋げている(1957年の講演録)。ベイトソンの原著は1956年だからフロムは一年遅いがダブルバインド理論の今日的源流のひとつはフロム(『愛するということ』)にあると言える。  


Or:"In Zen there is nothing to explain by means of words, there is nothing to be given out as a holy doctrine. Thirty blows whether you affirm or negate. Do not remain silent; nor be discursive."

An Introduction to Zen Buddhism by D. T. Suzuki  p.49

http://terebess.hu/zen/mesterek/Suzuki-DT-Introduction-Zen-Buddhism.pdf 1964,日1940,英1934
(現行kindle:co.jp版と内容が違う)
ユングによる序文付き

別訳:
邦訳は「禅は虚無主義か」『禅学入門』所収
《また言う 、 「禅には文字で説くべきものはない 、聖教として珍重すべきものはない 。たとい道い得るとも三十棒 、道い得ざるとも三十棒 。黙するも得ず 、説くも得ず 」と 。》



ベイトソンはフロムの妻の研究を参照している。

フリーダ・フロム=ライヒマン - Wikipedia

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フリーダ・フロム=ライヒマン

フリーダ・フロム=ライヒマン

フリーダ・フロム=ライヒマン(Frieda Fromm-Reichmann、1889年10月23日 - 1957年4月28日[1])は、アメリカ合衆国の心理療法家。精神科医フロイト派。

カールスルーエで誕生。ユダヤ人銀行家の家庭であった。

心理学者エーリヒ・フロムと結婚。離婚後も交友関係は続いた[2]。ナチスによるユダヤ人迫害が増すと、アメリカへ亡命した。

分裂病を作る母(Schizophrenogenic mother)」概念の提唱者として名を馳せ今は批判されている[3]

目次

著作編集

共著・寄稿編集

  • 精神病者の魂への道 [単行本] G.シュヴィング(みすず書房) 序文を担当

関連人物

関連項目編集

出典編集

  1. ^ 『世界女性人名事典』 日外アソシエーツ
  2. ^ 夫フロムの略歴から
  3. ^ [1]あるいは、岡田尊司『統合失調症』(PHP新書)☆

外部リンク編集



《こうした理論の多くは統合失調症の原因というよりも、パーソナリティ障害を理解するのに有用である。統合失調症として治療され回復したケースには、少なからず統合失調症と誤診されたパーソナリティ障害が混じっていたという事情もあるだろう。》



グレゴリー・ベイトソン書付 | 『Myus's memory』

http://sealbikjei.blog.myuss.jp/m=s-283/

治療的ダブルバインドはダブルバインドを積極的に利用することで精神治療に役立てようとするもの。矛盾する指示に対する二者択一的な状況に、相手を置く点では通常のダブルバインドと同じであるが、そのどちらを選んでもよい結果となる(勝つ)ようにする点が異なる。またもう一つの違いは、医者自身は自己存在を賭けたぎりぎりの闘争に関わっていないということ。したがって医者は、患者にとって苦痛の少ないダブルバインドを仕掛け、そこから患者が徐々に抜け出してくることを手助けしていくことが可能となる

c-例

フリーダ・フロム=ライヒマン博士の担当した患者は、強度の分裂症をきたした若い女性で、七歳のときから、たくさんの恐るべき神々が世界に住みついて自分を支配するという、複雑な宗教を編み出していた。治療を始めようにも、「神Rが、あなたと話をしてはいけないと言います」といって拒否される。ライヒマン博士はこう答えた。「はっきりさせましょう。わたしにとっては神Rは存在しないし、あなたの考えている世界も一切存在しない。でもあなたにとっては存在するわけで、それをあなたから取ってしまおうとは思わない。思ってもできるはずはないでしょう。あなたの世界のことはまるで見当もつかないのだから。だからあなたの世界に合わせて話をしようと思うの。ただ、あなたに分かってほしいのは、私がそうするのは、わたしにとってあなたの世界が存在しないことを、あなたに理解してもらうためだということ。さあ神Rのところへ行って、わたしたちは話し合わなくてはならないと言ってらっしゃい。そうすれば許しがもらえるはずです。わたしが医者だと言いなさい。それからあなたは七歳から十七歳まで九年間も彼の王国にいたけれど、助けてはもらえなかったともね。そうしたら神Rは必ず、おまえたち二人にそんなことができると思うならやってみろと、許しをくれるにちがいない。わたしは医者で、それをやりたがっているんだって話してらっしゃい。」ここで治療医が患者を治療的ダブルバインドに追いやったという点を確認しておきたい。この患者がもし、自分の神の存在に疑いを抱くようになれば、それはすでに博士の言うことを聞き入れて治療に同意したことと等しい。逆に彼女の神の実在を言い張れば、その神のところに行って、彼より強力だと主張する医者のことを告げなくてはならない。どのみち、博士と関係することを認めることになってしまうわけだ。

(2000年,317頁)



邦訳『積極的心理療法』1964,1950、108~9頁に母を原因とするダブルバインドの事例が紹介される。


《ある日面接にさいして,患者は「今夜パーティーにいこうとおもっている」とのべた。医師は患者の決断にしめされた進歩を喜んで「結構ですね」と答えた.つぎの面接のとき,医師は患者がパーティーにいかなかったのを知って,その理由をたずねた.すると患者は,医師が母親がよく使ったのと同じやり方で,「結構ですね」といったからだと答えたのである.患者のすることがなにか気にいらなかった場合でも,母親はすぐ表だってこれに反対しようとはしなかったのである.だから患者は,医師がのべた,「結構ですね」という言葉の背後にある動機に不信をいだいたのであった.だからこのことをのべることによって,患者は自分の反応がパラタクシックな性格をもっていたことを理解したのである.》108~9頁



parataxicの意味 

http://dictionary.goo.ne.jp/ej/669268/meaning/m0u/

[形容詞]

1〔心理〕 歪曲わいきょくされた,ゆがめられた.

2〔心理〕 錯行動的な:同一の人であるが,態度,考え方などに調和が取れていない.



《ドイツの哲学者ニーチェの言葉が心理療法的に有益であることがある。それは「自殺念慮は多くの生命を救っている」との言葉である。つまり,人生の重荷が耐え難いものになったとき,人間は自分の人生を閉じる自由をもっているという知識が,生活上の情緒障害に対処しようとしている多くの人びとを救ったのである.》210頁


[《#4:一五七  自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされる。》ニーチェ『善悪の彼岸』岩波文庫]




[妄想型]統合失調症のジャズトランペッター トム・ハレル(動画あり) | マージナルウーマンのライフ&ハックス

http://kosmoceras.com/blog/famous-person-with-schizophrenia-tom-harrell/

心の病気と有名人VOL4 妄想と戦う天才トランペッター [メンタルヘルス ...

allabout.co.jp>...>メンタルヘルス>(読み物) 有名人と心の病気

トム・ハレルは、統合失調症と二十代で診断されましたが、その症状を乗り越え、類稀な 音楽の創造性を発揮し、過去30年間における最高のトランペッターとまで言われるように なりました。

統合失調症のジャズトランペッター トム・ハレル(動画あり) | マージナル ...

ちょっと前に統合失調症の前衛芸術家を紹介しましたので、今度はミュージシャンで。 トム・ハレルはジャズトランペッターです。とりあえずこちらのライブ映像がかっこいい ので聴いてみて下さい。どうでしたか?自分の演奏でない時のトム・ハレル ...




――――――――――――――

《 lecture3 分裂症の三類型
 その上であえていうならば、妄想型に近いのがジョイスで、破瓜型に近いのがベケット、そして緊張型というのはむしろアルトーのようなものではないだろうか。
 たとえば、ジョイスの場合には、一つの言葉が投げ出されるやいなや、それがブワーッと横に繁茂していって、ほかの言葉から繁茂してきたものと干渉しあったり、異種交配を起こしたり、とめどもなく複雑化していくわけです。『フィネガンズ・ウェイク』なんてその典型ですね。これは妄想型に対応するといっていいかもしれない。
 それに対して、べケットの場合は、それこそ何の含みもない痩せた言葉が、ただシンタグマティックな関係だけにすがって、何の意味もなくツルツルツルツルと縦に流れていく。『ワット』では、上体を傾け、右脚を上げ、云々と、歩くことだけをえんえんと記述したり、『モロイ』では十六個の小石の規則正しいしゃぶり方を九ページにわたって詳述したり、しかもそこには何のメタフォリカルな含みもないわけでしょう。それはある意味で破瓜型に対応するところがあるわけです。
 こういうふうにジョイスとベケットは実に対照的な形で出てくるんですが、実際この二人は、精神医学的に見た場合、複雑な関係にある。ジョイスはベケットの文学上の父といっていいのだけれど、ジョイスの娘がベケットに恋し、しかもベケットにふられることで破瓜型分裂症になっちゃうんですね。まあその辺のことはカッコに入れるとして、作品そのものを見る限りでも、この二人の間にはまったく対照的な関係が見られると思います。
 ところが、アルトーにまで行ってしまうと、これはもうそのどちらでもない。残酷演劇における身体というのは、一見コミュニケーションをカット・オフして自己の内的過程に集中するように見えるのだけれど、その過程が恐るべき強度を課され極端に加速されることによって、レヴェルの差も何もなくなって、すべてが振動しながら自熱して溶けた水銀の流れのようになっていく、で、そういういわばシンクロトロンのような状態の中から、言葉とか身ぶりがひき自にかけられた破片のようになって素粒子のシャワーのようにパッパッパッと飛び出してくる、その飛び散っていく軌跡を辛うじて霧箱の写真のように捉えたものがアルトーのテクストであると考えられます。これが緊張型に対応しているわけで、こうしてみると緊張型というのはベイトソンの沈黙にもかかわらず非常に興味深く思われてくるのですが、それについて語る前に、とあえずこうして見てきたダブル・バインド理論を現代の理論的パースペクティヴの中で評価しておく必要があります。》
87~90頁    

《 lecture2 ダブル・バインドとは何か

   さて、ベイトソンが分裂症の発生因であるとしたダブル・バインド状況の定義から復習していくことにしましょう。

   簡単にいえば、①そこから逃げることのできない人間関係の場において、②一定のメッセージが与えられ、③しかもそのメッセージを否定するメタメッセージが同時に与えられる状況をダブル・バインド状況といい、④それが反復されると分裂症を生む、と考えられます。

76頁



三番目の戦略
*佐藤良明
そう言えば、ベイトソンの『精神と自然』の中に、ダーウィンじゃなくてウォーレスの考
え方が支配的であったらその後の物の見方が変わっいたはずだという一節がありますね。
ウォーレスの進化についての語り方にサイバネティックスの萌芽のような考え方があって、
もしもそれが支配的になっていたらサイバネティックスは百年早く始まっていただろう、
というわけです。
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アルフレッド・ラッセル・ウォレス - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/アルフレッド・ラッセル・ウォレス

アルフレッド・ラッセル・ウォレスAlfred Russel Wallace1823年1月8日 - 1913年11月7日)は、イギリス博物学者生物学者探検家人類学者地理学者アマゾン川マレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした19世紀の主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる。

心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった。イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』として出版され、19世紀の科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった。

アルフレッド・ウォーレスになっている場合もある。

ウォレスとダーウィンの違い編集

ダーウィンはウォレスの論文が基本的に自分のものと同じであると考えたが、科学史家は二人の差異を指摘している。ダーウィンは同種の個体間の生存と繁殖の競争を強調した。ウォレスは生物地理学的、環境的な圧力が種と変種を分かち、彼らを地域ごとの環境に適応させると強調した。他の人々はウォレスが種と変種を環境に適応させたままにしておく一種のフィードバックシステムとして自然選択を心に描いているようだと指摘した。

この原理の働きは、全く蒸気機関の遠心調速機のようである。いかなるイレギュラーもそれが顕著になる前にチェックし修正する。そして同様に動物界ではアンバランスな欠陥はそれ自身の存在が危うくなり、ほとんどはすみやかに絶滅するために著しい規模に達することができない。


《 形式論理学においてはクラスとそのメンバーとの間の非連続性を維持しようとする企てがあるけれども、現実的なコミュニケーションの心理学において、この非連続性はつねに不可避的に破られると、われわれは主張する。そして、アプリオリに、われわれは、そのようなロジカル・タイプの侵害が母と子の間のコミュニケーションにある形式的なパターンで生じるとき、病理が人間に生じると考えねばならない、と主張する。この病理が極端な場合分裂病と分類されるような形式的特徴をもった症候をもつと、われわれは主張する。(Gregory Bateson. Steps to an Ecology of Mind, Paradin, 1973)》

柄谷定本2巻、104~5頁
引用元は、ベイトソン『精神の生態学』邦訳旧版上296頁「精神分裂病の理論家に向けて」より

《 たとえば、禅問答において、師が弟子の頭上に杖をふりあげ、「もしこの杖がリアルだといったら、お前をこの杖で打つ。リアルでないといったら、お前をこの杖で打つ。もし何もいわなかったら、お前をこの杖で打つ」というようなものがある。ベイトソンはこのような状態をダブル・バインド(二重拘束)とよぶ。しかし、禅においては、弟子は自分の意志でそれを受け入れている。また、弟子は師から杖をとりあげることができるし、師はそれを「悟り」として受けいれるかもしれない。禅の公案にはつねにおかしさがあるが、このおかしさはロジカルなパラドックスと結びついているとともに、そのメタレベルに立ちうることから来ている。》

ベイトソン精神の生態学邦訳新版296頁、
臨済録「勘弁」、
鈴木大拙『禅学入門』「禅は虚無主義か」
フロム『禅と精神分析』「精神分析学と禅仏教」

柄谷はド・マンの引用の後にベイトソンを引用している。


以下2000年新訳、

《形式論理学では、クラスとその構成メンバーとの間のこの不連続性を終始維持していこうとする。しかしコミュケーションの現場、人間の心理の現実を問題とした場合、両者の不連続は絶えずかつ不可避的に破られるものなのだ。[Bateson1955a]ここの不連続性を破る一定の形式を持ったパターンが、母と子の間に見られる場合、アプリオリに、その当人においてある病理が現われることが予測される。その病理の症状は、極端に進行したときには、精神分裂症 Schizophrenia に分類するのが妥当な形式的特性をもつ。》


2000年289~290頁別訳

_____

追記:
鈴木大拙『禅学入門』kindleレビュー:
本書は鈴木大拙の英語著作を基にしている(“An Introduction to Zen Buddhism”~ただし同名書籍日本発売英語kindleはなぜか不完全版である)。1934年に出ているので現代禅学の源流と言っていい。
(この日本語版は本人監修の二度目の邦訳で、経緯から岡倉天心の『茶の本』1906を想起させる。)
フロムは『禅と精神分析』(邦訳1960)で本書から多く引用している。

《 「禅には文字で説くべきものはない 、聖教として珍重すべきものはない 。たとい道い得るとも三十棒 、道い得ざるとも三十棒 。黙するも得ず 、説くも得ず 」と 。》「禅は虚無主義か」『禅学入門』より

これは臨済録などにも再録された徳山宣鑑(780~865)の公案で、ベイトソンも「精神分裂病の理論化に向けて」『精神の生態学』で引用し、ダブルバインドの肯定的例としている。

柄谷行人はさらに「自然脳」『隠喩としての建築』で笑いと分裂病を分けるものとして上を引用しゲーデルを踏まえた論を展開している。

徳山 宣鑑(とくざん せんがん、780年 - 865年)は、中国代の禅僧。 俗姓は周氏、剣南(四川省)の出身である。
古来、禅者の間では徳山の峻厳な禅風を表す「徳山の棒」は「臨済の喝」と並んで有名である。
宗門葛藤集が元ネタだが、臨済録の方がダブルバインドを理解した言葉使いになっている。碧巌録は晩年の徳山の姿を伝える。


まとめ:

とてもわかりやすいし、よくまとまっている。内容が古いという判断で復刊していないのかもしれないが、再読に値する。

《 …ベイトソンが分裂症の発生因であるとしたダブル・バインド状況の定義…
①そこから逃げることのできない人間関係の場において、
②一定のメッセージが与えられ、
③しかもそのメッセージを否定するメタメッセージが同時に与えられる状況をダブル・バインド状況といい、
④それが反復されると分裂症を生む…》
(浅田彰『ダブル・バインドを超えて』1985年76頁)

ダブルバインドの反復により発症する分裂症の症例の分類:
言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)1
言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型[解体型])2
コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)3

ベイトソンの1956年に発表した論文「精神分裂症の理論化に向けて」(『精神の生態学 』新思索社,299~308頁)参照。

浅田彰『ダブル・バインドを超えて』では、
1がジョイス、2がベケット、3がアルトーに対応するとされている(浅田64,87~8頁)。

Joyce 妄想型 paranoid メタファー
Beckett 破瓜(はか)型 hebephrenicリテラル
Artaud 緊張型 catatonic カット・オフ

ただし、破瓜型は近年では解体型と呼ばれ、また、ダブルバインドのような理論の多くは統合失調症の原因というよりも、パーソナリティ障害の原因らしい。母なるものを批判的に扱うことも批判される(岡田尊司『統合失調症』PHP新書)。

《…ベイトソンは…バリへ行き、ともすれば暴力の突出
につながりがちなニューギニアの社会とは対極的な、エネルギーを小刻
みに高く保つ術にたけた柔軟な社会を、そこに見出します。で、それを
分析する途中、事実上ダブル・バインドに触れているんですね。一九四
九年に出た「バリ:定常状態の価値体系」という論文の中では、母親が
子供を愛撫し、子供が興奮して抱きついてくると急に冷たいそぶりを見
せる、という状況が描写されています。こうして適度のダブル・バイン
ドをくぐりぬけることにより柔軟な性格が形成される。それが、クライ
マックスの突出を避け、エネルギーを小刻みに高く保とうとする文化を
生み出す。おおよそ、こういうことになるでしょう。蛇足ながら、ベイ
トソンはそういう高エネルギー定常状態を「プラトー」と呼んでおり、
そこからドゥルーズとガタリの書物が『ミル・プラトー』と名付けられ
ることになります。》
(『ダブル・バインドを超えて』100~1頁)


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