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Manual of Zen Buddhism by D.T. Suzuki 1935 便覧:解読
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/manual-of-zen-buddhism-by-dt-suzuki.html第七十九則 投子一切仏声
見ずや僧問ふう、如何なるか是れ仏。投子云く、仏。如何なるか是れ道。投子云く、道。如何なるか是れ禅。云く、禅。
第七十九則 投子一切仏声
本則・挙す、僧、投子に問ふ、一切声は是れ仏声と。是なりや否や。(也虎鬚を撫ずることを解す。晴天霹靂を轟かす。自尿臭きを覚えず。)投子云く、是。(一般の人をれんー貝に兼ー殺す。身を売りて汝に与へ了れり。一辺に拈放す。是れ什麼の心行ぞ。)僧云く、和尚とくー尺に豚の月なしー沸碗鳴声すること莫れ。(只錐頭の利を見て、鑿頭の方を見ず。什麼と道ふぞ。果然として敗缺を納る。)投子便ち打つ。(著。好打。放過せば則ち不可。)又問ふ、そー鹿三つー言及び細語、皆第一義に帰すと、是なりや否や。(第二回虎鬚を撫ず。臓を抱いて屈と叫んで什麼か作ん。東西南北、猶ほ影響の有る在り。)投子云く、是。(又是れ身を売りて汝に与へ了れり。陥虎の機。也是れ什麼の心行ぞ。)僧云く、和尚を喚んで一頭の驢と作し得てん麼。(只錐頭の利を見て、鑿頭の方を見ず。逆水の波有りと雖も、只是れ頭上に角無し。血を含んで人にそそぐ。)投子便ち打つ。(著。放過す可からず。好打。柱杖未だ折るに到らず、什麼に因ってか便ち休し去る。)
投子山大同、青原下三世。一切声はこれ仏声と、そ言及び細語皆第一義に帰す=涅般経に出ずと、声という声は仏の声であると、ただこう知って本当には知らぬ、それじゃなんにもならぬ、釈迦牟尼仏の声と姿とと知れるときに、一切ものみな無音に消えて、正に成仏とも云わず、かつて省みるなし、涙することわずかにあり。是非のらち外です。是なりや否やと聞く、すでにしてそ言、敗北。(虎の鬚をなでる、知らぬが仏ですかあっはっは。知ってなずるはかつて未だし。青天の霹靂を轟かす、うっふっふそりゃまたご苦労さん、自分の小便臭さを弁えずとさ、打つによし。)投子云く、是と、そうだよと云って、わなを仕掛けるんですか、是であるから是と、わなにはまるのは向こうの勝手、是にあらずの分をひっかかる。(一般の人をれん殺す、乗り合いバスの全員を馬鹿にした、是というすべからく是、知らぬまんまの三百代言を量産ですか、まあさ。身を売りて汝に与え了れり、さあどうするっていうんです、虎がおっかぶさった、寸毫の隙なし、命ないんです。)僧云く、とく沸は下痢のびちびち、碗鳴はお碗に熱湯を注ぐとじゅうじゅう鳴る、仏声という乙にすましやがって、かくの如くをなんとするってんです、はい、とく沸碗鳴声という代わりにぶっ叩いた、(錐の頭だけを見て、鑿の頭を見ず、のこぎりの談というのがある、我のこぎりの山、汝のこぎりの谷、どこまで行ってもらちあかんというのへ、我はさにあらずとだけ。敵をやっつける気鋭という、そんなものが仏教じゃないんです、敗缺これ。)投子便ち打つ、(根本に出直せという、壁立万仞です、わかりますか、うっふわかったら三十棒。)又問ふ、そー鹿が三つで騒々しいんですか、言、細語愚にも付かぬ2チャンネル語ですか、たいてい意味をなさんです、蚊の泣くようなぴいぴい声、第一義廓然無聖ですか、これが他にはなく、是なりや否や。(二回虎の鬚をなでる、どあほ。臓物を抱いて屈託です、人間みなこれをやっている、坐って姿勢をまっすぐにして矯正も、わがものと身心をよこしまにするあれば、不自然屈託です、仏に帰す、彼岸にわたって下さい、ぱーらみーたー。東西南北、猶ほ影響の有る在りでは不都合。)投子云く、是。(また身を売って与え了る、陥虎の機、心行なしほど恐ろしいんです、間髪を入れず。)僧云く、和尚を喚んで驢となし得てんや、そんじゃ馬鹿と呼んでもいいんかいって、うっふっふこの僧けっこう面白いや、馬鹿顔ぬうっと差し出そうか。(逆水の波、帰り打ちするには頭上に角なし、虎退治には龍だってのにさ。血を含んで人にそそぐ、太公望云く、風に因って火を吹く、力を用いること多少。血を含んで人にそそぐ、先ずその口汚れと。まあさ、はいご苦労さんてこと。意図ありゃおしまいなんですよ、見え見え。)投子すなわち打つ。(よく見よという、こは何事か、放過すべからず、まさにもって悟るによし。だがこれ未だ決着つかず、打ってのち如何、タレントの記者会見じゃないんだよってさ。)
頌・投子投子。(灼然。天下這の実頭の老漢無し。人家の男女を教壊す。)機輪阻無し。(什麼の他を奈何ともする処か有らん。也些子有り。)一を放って二を得たり。(汝が眼晴を換卻す。什麼の処にか投子を見ん。)彼に同じく此に同じ。(恁麼に来るも也棒を喫し、不恁麼に来るも也棒を喫す。闍黎他に替るも、便ち打たん。)燐むべし限りなき潮を弄するの人。(叢林の中一箇半箇を放出す。這の両箇の漢を放出す。天下の衲僧恁麼に去らんことを要す。)畢竟還って潮中に落ちて死す。(可惜許。争奈せん這の圏簣を出で得ざることを。愁人愁人に向かって説くこと莫れ。)忽然として活せば、(禅床震動。山僧を驚殺して、也倒退三千ならしむ。)百川倒流して閙かつー活のまんなかに耳ーかつたらん。(嶮。徒に佇思するに労す。山僧敢て口を開かず、投子老漢也須らく是れ柱杖を拗折して始めて得べし。)
投子尋常道ふ、汝総に道ふ、投子実頭なりと。忽然として山を下ること三歩せんに、人有りって汝に問ふうて、如何なか是れ投子実頭の処と道はば、汝作麼生か抵対せんと。見ずや僧問ふう、如何なるか是れ仏。投子云く、仏。如何なるか是れ道。投子云く、道。如何なるか是れ禅。云く、禅。また問ふ、月未だ円ならざる時如何。投子云く、三箇四箇を呑卻す。円なる後如何。七箇八箇を吐卻すと。投子かくの如くとは如何、こりゃものすごい、舌を巻いてわずかに投子投子と、こんな師家と倶に有る、他何をか云わんや、ぶった切られて死す。(灼然、真っ赤っかです、天下箇の実頭の老漢なし、かつてもまさに無し、今の世さらに皆無、もって人家の男女を教壊す、人あり家ありのぬるま湯ですか、どうしようもないです、首くうくる縄もなし年の暮れ、ちったあ爪の垢。)機輪阻てなし、だれがどうだから、道の進捗を思慮ってなどいう紆余曲折ないんです、もとまったく紆余局曲折なし。(些子有り、ちったあ効き目ありってね、どうです、効いたか。)一を放って二を得たり、是と応じて、相手の臓物屈託をさらけだす、もはや元へ復さず、痛烈一回に知る。(いずれの処にか投子を見ん、ぶち抜くとはこれ。)彼に同じく此に同じ、細言そ語も驢となしえてんやも、まったく同じ、臭い懐総まくり、払い切るんです。(投子にもの云う、てめえのことをさらけ出すだけなんです、醜悪もってする、棒を喫す、その醜悪をしゃっ面に貼り付け。)あわれむべし限りなき潮を弄するの人、潮ですか、とくふつ碗鳴声すること莫れ、一頭の驢と作し得てんやと、噂の問題、仏の話題ですか、もとそんなものないんです、投子便ち打つ、投子投子と、雪竇ならずも舌を巻く所以、(叢林にあって一箇半箇を放出す、うさんくさいのを追い出す、湊泊し難し、さあやって下さい、真正面ついに投子を見ず。)畢竟かえって潮中に落ちて死す、噂の中に溺れ死ぬ連中ばかりが、うっふ。(惜しいかなって云うんです、けんきはわな、わなにはまらずに死ぬんなら、大往生。てめえの仕掛けた罠ですか、そりゃあ本望ってね。)忽然として活せば、大死一番です。(禅床震動、わしを驚殺して、倒退三千ならしむ、はいまさにかくの如く。)百川倒流して閙かつかつたらん、いっぺんに世界中の音声です、かつは流水の声、閙はさわがしい。おっちでつんぼが人間満足に返るさま。(嶮。だからさ佇思することなかれ、行けったら行けばいい、投子柱杖を折って始めて得べし、ものみな叩く要なし、さあて仏とは何か、糠に釘ですか、だったら道へ。)
維摩経 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/維摩経維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。
たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。
これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。
「碧巌録・第88則 《玄沙の三種の病人》」|野狐禅RRPGのブログ
https://ameblo.jp/realroleplaying/entry-11630318436.html【第88則 玄沙接物利生】
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【本則】
玄沙が大衆に説法した。
「各地の長老方はみな、衆生を導き、利を与えよと言う。
もし三種の病人が来るのに出会ったら、どう教化したらいいのか?
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一巻 続蔵2-15、『少室六門』 二、『禅門撮要』 上 |
「碧巌録・第88則 《玄沙の三種の病人》」|野狐禅RRPGのブログ
https://ameblo.jp/realroleplaying/entry-11630318436.html【第88則 玄沙接物利生】
垂示に云う、
初心者向けの方便は、どれも決まった型を打ち砕くものである。
道理に深く立ち入って論ずるには、自由自在に動き回れるためのものでなければならない。
相手の核心をずばり突いて、金の錠前とその奥のカンヌキを撃破した上で、法令を守りながら、きれいさっぱりと片付ける。
さて、入り組んだところはどこにあるか?
真理を見抜く目を持つ者は、取り上げてみなさい。
**
【本則】
玄沙が大衆に説法した。
「各地の長老方はみな、衆生を導き、利を与えよと言う。
もし三種の病人が来るのに出会ったら、どう教化したらいいのか?
盲者には、鎚を手にして払子を立てたとしても、彼には見えない。
聾者には、言葉を尽くして論じても、彼には聞こえない。
唖者には、しゃべらせたとしても、彼はしゃべれない。
どのように教化するのか?
もし彼らを教化できないとしたら、仏法には霊験がないことになるぞ」
*
僧は、雲門に教えを乞うた。
雲門が言った、
「礼拝しなさい」。
僧は礼拝して立ち上がった。
雲門は挂杖で突こうとすると、僧は後退した。
雲門が言った、
「お前は、盲者ではない」。
次に雲門は言った、
「近寄りなさい」。
僧が近づくと、雲門が言った、
「お前は、聾者ではない」。
さらに、雲門が言った、
「解ったか?」。
僧が言った、
「解りません」。
すると雲門、
「お前は、唖者ではない」。
僧はここで、はっと悟った。
**
【頌】
盲聾瘖唖、
査絶機宣。
天上天下、
堪笑、堪悲。
離婁不辯正色、
師曠豈識玄糸。
争如独坐虚窓下、
葉落花開自有時。
復云、還会也無、
無孔鉄槌。
*
頌って云う、
盲や聾や唖には、
対応する手段がない。
しかし、天地のあらゆるところで、
盲であっても、盲でないかもしれない。
盲でなくても、盲であるかもしれない。
視力が優れているからといって、正しい色が判別できるわけではない。
張力が優れているからといって、奥深い調べがわかるのだろうか?
音も色も形もない窓辺に一人坐ると、
季節に合わせて、葉が落ちて、花が咲く。
自分とは関係がないけれど、こちらの方がましだ。
雪竇はさらに言う。
「この意味がわかるだろうか? 穴がなくて棒を挿せないハンマーだ」
When gates and courts are established, then there are twos, there are threes, there is a realm of multiplicities; when a deep discourse is carried on on the highest subjects of intuition a world of sevens and eights is thoroughly broken through. In whatever ways views and opinions may be presented, they are crushed to pieces so that the barricades even when they are of golden chains are successfully brushed aside. When orders are given from the highest quarters, all traces are wiped off, leaving nothing whereby trailing is made possible. When do we come across such a koan? Let one who has an eye on the forehead see to it.[2]
Gensha gave the following sermon:
"It is asserted by all the worthy masters of the present time that they are working for the benefit of all beings. [--Each keeps a shop according to his means.--Some are rich and others are poor.]
"This being the case, what will you do if there suddenly appear before you three kinds of invalids? [--By beating up the weeds, we mean to frighten snakes out.--As for me, it makes my eyes open wide and my mouth close.-We all have to beat a retreat even for three thousand 1i.]
"Those who are blind fail to see you even when you
[1. Hsuan-sha, 835-908. The following is a literal translation of Case LXXXVIII of the Pi-yen Chi, which is one of the most important and at the same time the most popular of Zen texts. The words in brackets in the "Illustrative Case" and in Seccho's verse are those of Yengo. As to the nature and composition of the Pi-yen Chi, see my Zen Essays, Series II, p. 237 et seq.
2. The Remark purposes to make the reader abandon his usual relative point of view so that he can reach the absolute ground of all things.]
hold up a mallet or a hossu. [--Blind to the very core.--This is no other than 'benefiting all beings'.--Not necessarily failing to see.]
"Those who are deaf fail to hear you even when you talk volubly enough. [--Deaf to the very core!--This is no other than 'benefiting all beings'.--Not necessarily altogether deaf.--That something is still unheard.]
"Those who are dumb fail to speak out, whatever under. standing they may have inwardly. [--Dumb to the very core!--This is no other than 'benefiting all beings'.--Not necessarily altogether dumb.--That something is still left untold of.]
"What treatment are you going to accord to such people? If you do not know how to go on with them, Buddhism must be said to be lacking in miraculous works." [--Quite true, this world-I am ready to give myself up with my hands folded.--"Benefiting" already accomplished!--"He then struck."]
A monk asked Ummon (Yun-men) to be enlightened. [--It is also important to go about and inquire.--Hit!]
Said Ummon, "You make bows." [--As the wind blows, the grass bends.--Ch'ua!]
When the monk rose from making bows, [--This monk's staff is broken!]
Ummon poked him with a staff, and the monk drew back. Said Ummon, "You are not blind then?" [--Blind to the very core!--Do not say that this monk has a failing eye-sight.]
Ummon now told him to approach, and the monk approached. [--Washed with a second dipperful of dirty water.--Kwan-non is come! To give a "Kwatz!" was better.] Said Ummon, "You are not deaf then?" [--Deaf to the very core!--Do not say that this monk is deaf in his ears.]
Ummon further continued, "Do you understand?" [--Why does he not feed him with the right forage?--Pity that he then uttered a word at all.]
"No, master, I do not," was the reply. [--A double koan!--What a pity!]
Ummon said, "You are not dumb then?" [--Dumb is to the very core!--What eloquence!--Do not say that this monk is dumb.]
The monk now grasped the point. [--Stretching the bow when the burglar is off.--What old bowl is he after?]
Gensha gives this sermon from his standpoint where he is now able to sit, after years of his study of Zen, in absolute nakedness with no trumpery trimmings about him, altogether shorn of imaginations and free from conceptualism. In those days there were many Zen monasteries each of which rivalled the others. Gensha used to give this sermon to his monks:
"It is asserted by all the worthy masters of the present time that they are working for the benefit of all beings. This being the case, what will you do if three kinds of invalids suddenly appear before you here? Those who are blind fail to see you even when you hold up a mallet or a hossu. Those who are deaf fail to hear you even when you may talk volubly enough. Those who are dumb fail to speak out whatever understanding they may have inwardly. What treatment are you going to accord to such people? If you do not know how to go on with them, Buddhism must be said to be lacking in miraculous works."
If people understand him here as merely making reference to the blind, to the deaf, to the dumb, they are vainly groping in the dark. Therefore, it is said that you are not to search for the meaning in the words which kill; you are requested to enter directly into the spirit itself of Gensha, when you will grasp the meaning.
As Gensha ordinarily tested his monks with this statement, a monk who was staying for some time with him one day accosted him when he came up to the Dharma-hall, and asked: "Will you allow me to present my way of reasoning about your sermon on the three invalids?" Gensha said, "Yes, you may go on." Whereupon the monk remarked, "Fare thee well, O master!" and left the room. Gensha said, "Not that, not that." We can see that this monk has fully grasped Gensha.
Later on, Hogen (Fa-yen, died 958) made this statement: "When I listened to Master Jizo (Ti-tsang) making reference is to this monk's remark, I was enabled to understand Gensha's sermon on the three invalids."
I ask you now. "[Here is a puzzle for you, O monks!] If that monk did not understand Gensha, how was it that Hogen made this statement of his? If that monk understood Gensha, why did the latter declare, 'Not that, not that'?"
One day Jizo said to Gensha, "I am told that you have given a sermon on the three invalids, is that so?" Gensha answered, "Yes." Jizo then said, "I have my eyes, cars, nose, and tongue; what treatment would you give me?" Gensha was quite satisfied with this request on the part of Jizo.
When Gensha is understood, you will realize that his spirit is not to be sought in words. You will also see that those who understand make themselves naturally distinguishable from the rest.
Later when a monk came to Ummon (Yun-men, died 949) and asked him about Gensha's sermon, Ummon was ready to demonstrate it in the following way, for he thoroughly understood Gensha. Said Ummon to the monk, "You make bows." When the monk rose from making bows, Ummon poked him with a staff, and the monk drew back. Said Ummon, "You are not blind then?" Ummon now told him to approach, and the monk approached. Said Ummon, "You are not deaf then?" Finally, he said, "Do you understand?" "No, master", being the reply, Ummon remarked, "You are not dumb then?" This made the monk grasp the point.
If this monk of Ummon's had any sort of understanding about Gensha, he would have kicked up the master's chair when he was told to make bows, and no more fussing would have been necessary. In the meantime let me ask you whether Ummon and Gensha both understood the problem in the same way, or not. I tell you that their understanding is directed to one point. That the ancient masters come out among us and make all kinds of contrivance is because they wish to see somebody bite their hook and be caught up. They thus make bitter remarks in order to have us see into the great event of this life.
My own master Goso (Wu-tsu, died 1104) had this to say: "Here is one who can talk well but has no understanding; here is another who understands but is unable to talk about it. When these two present themselves before you, how will you distinguish the one from the other? If you cannot make this discrimination, you cannot expect to free people from their bondage and attachment. But when you can, I will see to it that, as soon as you enter my gate, I put on a pair of sandals and run through the inside of your body several times even before you realize. In case, however, you fail to have an insight in this matter, what is the use of hunting around for an old bowl? Better be gone!"
Do you wish to know what is the ultimate meaning of these complications in regard to the blind, deaf, and dumb? Let us see what Seccho says about it.
Blind, deaf, dumb! [--Even before any word is uttered.--The three sense-organs are perfectly sound.--Already finished is one paragraph!]
Infinitely beyond the reach of imaginative contrivances! [--Where do you wish to hunt for it?--Is there anything here which permits your calculations?--What relationship have they after all?]
Above the heavens and below the heavens! [--Perfectly free is the working of Truth.--Thou hast said!]
How ludicrous! How disheartening! [--What is it that is so ludicrous, so disheartening?--Partly bright and partly dark.]
Li-lou does not know how to discriminate the right colour. [--Blind fellow!--A good craftsman leaves no trace.--Blind to the very core!]
How can Shih-k'uang recognize the mysterious tune? [--Deaf in his ears!--There is no way to appreciate the greatest merit.--Deaf to the very core!]
What life can compare with this?--Sitting alone quietly by the window, [--This is the way to go on.--Do not try to get your livelihood in a cave of ghosts.--Break up all at once this cask of coal tar!]
I observe the leaves fall and the flowers bloom as the seasons come and go. [--What season do you think it is now?--Do not regard this as doing-nothingness.--Today, morning is followed by evening; tomorrow, morning is followed by evening.]
Seccho now remarked: "Do you understand, or not?" [--"Repeated in the gatha."I
An iron bar without a hole! [--Coming up with your own confession!--Too bad that he was released too easily,--"Then he struck."]
"Blind, deaf, dumb!
Infinitely beyond the reach of imaginative contrivances!"
In this, Seccho has swept everything away for you what you see together with what you do not see, what you hear together with what you do not hear, and what you talk about together with what you cannot talk about. All these are completely brushed off, and you attain the life of the blind, deaf, and dumb. Here all your imaginations, contrivances' and calculations are once for all put an end to, they are no more made use of this is where lies the highest point of Zen, this is where we have true blindness, true deafness, and true dumbness, each in its artless and effectless aspect.
"Above the heavens and below the heavens!
How ludicrous! how disheartening!"
Here Seccho lifts up with one hand and with the other puts down. Tell me what he finds to be ludicrous, what he finds to be disheartening. It is ludicrous that this dumb person is not after all dumb, that this deaf one is not after all deaf; it is disheartening that the one who is not at all blind is blind for all that, and that the one who is not at all deaf is deaf for all that.
'Li-lou does not know how to discriminate the right colour."
When he is unable to discriminate between blue and yellow, red and white, he is certainly a blind man. He lived in the reign of the Emperor Huang. He is said to have been able to discern the point of a soft hair at a distance of one hundred steps. His eye-sight was extraordinary. When the Emperor Huang had a pleasure-trip to the River Chih, he dropped his precious jewel in the water and made Li fetch it up. But he failed. The Emperor made Ch'ih-kou search for it, but he also failed to locate it. Later Hsiang-wang was ordered to get it, and he got it. Hence:
"When Hsiang-wang goes down, the precious gem shines most brilliantly;
But where Li-lou walks about, the waves rise even to the sky."
When we come up to these higher spheres, even the eyes of Li-lou are incapacitated to distinguish which is the right colour.
"How can Shih-kuang recognize the mysterious tune?"
Shih-kuang was son of Ching-kuang of Chin in the province of Chiang in the Chou dynasty. His other name was Tzu-yeh. He could thoroughly distinguish the five sounds and the six notes, he could even hear the ants fight on the other side of a hill. When Chin and Ch'u were at war, Shih-kuang could tell, by merely quietly playing on the strings of his lute, that the engagement would surely be unfavourable for Chu. In spite of his extraordinary sensitiveness, Seccho (Hsueh-t'ou) declares that he is unable to recognize the mysterious tune. After all, one who is not at all deaf is really deaf in his ears. The most exquisite note in the higher spheres is indeed beyond the ear of Shih-kuang. Says Seccho: "I am not going to be a Li-lou, nor to be a Shih-kuang, but
"What life can compare with this?--Sitting alone quietly by the window,
I observe the leaves fall, the flowers bloom as the seasons come and go."
When one attains this stage of realization, seeing is no-seeing, hearing is no-hearing, preaching is no-preaching. When hungry one eats, when tired one sleeps. Let the leaves fall, let the flowers bloom as they like. When the leaves fall, I know it is the autumn; when the flowers bloom, I know it is the spring. Each season has its own features.
Having swept everything clean before you, Seccho now opens a passageway, saying: "Do you understand, or not?" He has done all he could for you, he is exhausted, only able to turn about and present to you this iron-bar without a hole. It is a most significant expression. Look and see with your own eyes! If you hesitate, you miss the mark for ever.
Yengo (Yuan-wu, the author of this commentary note) now raised his hossu and said, "Do you see?" He then struck his chair and said, "Do you hear?" Coming down from the chair, he said, "Was anything talked about?"
看脚下(かんきゃっか) | |
『碧巌録』第二二則の頌に「象骨巖高人不到。到者須是弄蛇手。稜師備師不奈何。喪身失命有多少。韶陽知。重撥草。南北東西無處討。忽然突出拄杖杖頭。〓(才尢力)對雪峰大張口。大張口兮同閃電。剔起眉毛還不見。如今藏在乳峰前。來者一一看方便。師高聲喝云。看脚下。」(象骨は巌高くして人到らず、到る者はすべからく是れ蛇を弄する手なるべし。稜師、備師、いかんともせず。喪身失命多少かある。韶陽知って、重ねて草を撥う。南北東西討ぬるに処なし。忽然として拄杖頭を突き出し、雪峰に放対して大いに口を張る。大いに口を張るや閃電に同じ、眉毛を剔起るも還た見えず。如今、蔵して乳峰の前に在り、来る者は一一方便するを看よ。師、高声に喝して云く、脚下を看よ。)とある。象骨(ぞうこつ);福州(福建省)象骨山。『祖庭事苑』に「象骨、即雪峰之別山、以形似而稱。」(象骨、すなわち雪峰の別山、形似るを以って称す。)とある。稜師(りょうし);中国唐五代の禅僧・長慶慧稜(ちょうけいえりょう:854~932)。備師(びし);中国唐五代の禅僧・玄沙師備(げんしゃしび:835~908)。韶陽;雲門のこと。雲門大師が韶州雲門山に住するによる。剔起眉毛(てつきびもう);目を見開くこと。乳峰(にゅうほう);雪竇山のこと。『五燈會元』の五祖法演禪師章に「三佛侍師於一亭上夜話。及歸燈已滅。師於暗中曰。各人下一轉語。佛鑑曰。彩鳳舞丹霄。佛眼曰。鐵蛇橫古路。佛果曰。看脚下。師曰。滅吾宗者。乃克勤爾。」(三仏、師に侍し一亭上に夜話す。帰るに及び灯已滅す。師、暗中に曰く、各人一転語を下せと。仏鑑曰く、彩鳳、丹霄に舞う。仏眼曰く、鉄蛇、古路に横たわる。仏果曰く、脚下を看よ。師曰く、吾宗を滅する者は、すなわち克勤のみ。)とあり、圜悟克勤がその師五祖法演に示したところから特に喧伝されるようになる。三佛;五祖法演の弟子で「五祖下三佛」といわれる、佛果克勤、佛鑑慧懃、佛眼清遠の三人。「演門二勤一遠」ともいう。 | |
ラベル: 禅
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以下、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770- 1831)が1801年、大学で講義資格を得るための討論に際して事前に提出した12ヶ条からなる「討論テーゼ(Dissertationi philosophiae. De orbitis Planetarum decía en su segunda tesis)」(あるいはドイツ語で"Hegel's Habilitationsthesen")。ローゼンクランツが伝記で触れているが、残念ながら討論そのものの内容は残されていない(参考『ヘーゲル哲学の基本構造』中野肇308頁より)
参考サイト:
http://books.google.co.jp/books?id=uY4OAAAAQAAJ&pg=PA253&dq#v=onepage&q=&f=false
1. Contradictio est regula veri, non contradictio falsi.
2. Syllogismus est principium Idealismi.
3. Quadratum est lex naturae, triangulum mentis.
4. In Arithmetica vera nee additioni nisi unitatis ad dyadem, nee subtractioni nisi dyadis a triade neque triadi ut summae, neque unitati ut differentiae est locus.
5. Ut magnes est vectis naturalis, ita gravitas planetarum in solem pendulum naturale.
6. Idea est synthesis infiniti et finiti et philosophia omnis est in ideis.
7. philosophia critica caret ideis et imperfecta est Scepticismi forma.
8. Materia postulati rationis, quod philosophia critica exhibet, Cam ipsam philosophiam destruit, et principium est Spinozismi.
9. Status naturae non est injustus et eam ob causam, ex illo exeundum.
10. Principium scientiae moralis est reverentia fato habenda.
11. Virtus innocentiam tum agendi tum patiendi excludit.
12. Moralitas omnibus numeris absoluta virtuti repugnat.
1. 矛盾は真理の規則にして、非矛盾は虚偽の規則なり
2. 推論は観念論の原理なり
3. 四角形は自然の法則にして、三角形は精神の法則なり
4.真なる算術にては、一を二に加うるほかに加法はなく、三より二を引くほかに滅法はなし。また三は和と考うベからず、一は差と考うベからず
5. 磁石が自然の梃子であるように、太陽に向かう諸惑星の重力は自然の振り子である
6. 理念は有限と無限の総和にして、全哲学は理念のうちにあり
7. 批判哲学は理念を欠くがゆえに懐疑論の不完全なる形式なり
8. 批判哲学の樹立せる理性の要請なるものは、まさしくこの哲学そのものを破壊し、スピノザ主義の原則なり
9.自然状態は不義にあらず、さればこそこれより脱れ出でざるべからず
10. 道徳学の原理は運命に捧げられるべき畏敬なり
11. 徳は能動および受動いずれの無罪潔白をも排除す
12. すべてにおいて絶対的なる道徳は徳と矛盾す
和訳と対照しやすいように記述順をあらためると、
1. Contradictio est regula veri, non contradictio falsi.
1.矛盾は真理の規則にして、非矛盾は虚偽の規則なり
2. Syllogismus est principium Idealismi.
2.推論は観念論の原理なり
3. Quadratum est lex naturae, triangulum mentis.
3.四角形は自然の法則にして、三角形は精神の法則なり
風に吹かれて : 「投機」が禅語だなんて、信じられます・・・(@_@;)。
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51265113.html
「投機」が禅語だなんて、信じられます・・・(@_@;)。5
カテゴリ自転車日記宗教のこと
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株価小学館の日本国語大辞典によると、「投機」は・・・
1.仏語。禅宗で、修行者が仏祖の教えの要諦にかなって大悟すること。また学人(がくにん)の機と師家(しけ)の機とが一致すること。
2.機会をうまくとらえること。
3.偶然の利益・幸運をねらう行為。やま。「投機心(熟)」
4.市価の変動によって生じる差額を利益として得るために行う商取引。相場。「投機市場」
「投機」という言葉の変遷がよくわかる記述だが、禅の教えである「投機」を「相場」に応用した先人こそ、江戸時代の出羽国(山形県)の酒田(西廻り航路の港として繁栄していた)の天才相場師の本間宗久のようだ・・・酒田の本間家を豪商に導いたのは、宗久の投機の成功によるものだが、宗家から相場の危険故に追放された後、江戸の米相場で失敗し全財産を失う。
ここで宗久は故郷に戻り、禅寺で「非風非幡(幡=旗がはためくのは風が吹くからか?)」という公案(禅問答)に取り組んだ挙句、相場必勝法「三位(さんみ)の法」を編み出し、以後「百戦百勝」する・・・「ローソク足」の株価チャートも、「酒田五法」と言われる相場必勝の秘伝も、宗久が基盤を築いた故、酒田から発祥したのであり、「執着心をさらりと捨てて、平常心で事をなす」という禅の「無の境地」が相場への投機でも、根本の心得となるのである。
「武士は食わねど高楊子」というように、「穢銭思想(お金はキタナい)」という儒教と言霊信仰が結びついたせいで、日本人にとって投機や先物取引は「悪」であるとの思いが強い・・・先物取引は、現物取引では採算割れする可能性がある商品を、先だって取引することで、わずかな頭金だけで相場が上がっても下がっても、利益を出しうる価格で入手できるというメリットがあり、単なるギャンブラーを除けば、経済として必要な制度なのである。
「相場」という「泥沼」から、見事な「蓮華=ハス」の花が咲く・・・江戸時代の商人道は、本場シカゴに百年以上先だって、大阪の堂島にデリバティブの先物相場を形成したのである。
今朝は雨で、路面の乾いた昼前から、金武~高崎~愛宕山。
本日の走行距離:29km
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偈頌
詳細は「偈」を参照
偈頌(げじゅ、単に偈、または頌とも)とは、仏の教えを漢詩で書いたもの。内容は法語に似ているが、法語が散文体であるのに対し、偈頌は五言・七言の韻文体で表現している。遺偈・餞別偈・道号頌・投機偈(とうきのげ、師僧からの公案に対して修行僧が悟りの心境を詠んだ漢詩)などに細分される。古林清茂の『送幽禅人偈頌』、宗峰妙超の『渓林偈・南嶽偈』、無学祖元の『与長楽寺一翁偈語』などがある[3][4][14][63][68]。
以心伝心
伝心法要#12
以心伝心、不立文字
菩提達磨血脈論にあるが、六祖慧能禅師「六祖壇経」が最初らしい8-9c
六祖壇経
http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/data_f00a_053.html
http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/data_f00d3_t2007.html
世界古典文学全集 第36巻 A 禅家語録
出版者 筑摩書房
出版年 1972.12
大きさ等 23cm 519p 図版1枚
NDC分類 908
NDC分類 188.84
件名 禅宗-語録 ≪再検索≫
内容 内容:達摩二入四行論(柳田聖山訳) 六祖壇経(柳田聖山訳) 頓悟要門(平野宗浄訳
) 黄檗伝心法要(入矢義高訳) 臨済録(秋月竜☆訳) 趙州録(秋月竜☆訳) 各編
解題(柳田聖山)
書誌番号 3-0190166927
世界古典文学全集 第36巻 B 禅家語録
出版者 筑摩書房
出版年 1974.2
大きさ等 23cm 514,9p
注記 付(図1枚):中国禅宗地図
NDC分類 908
NDC分類 188.84
件名 禅宗-語録 ≪再検索≫
内容 内容:寒山詩 西谷啓治著. 三祖信心銘・永嘉証道歌 大森曹玄訳. 参同契・洞山宝
鏡三昧 鏡島元隆訳. 洞上五位頌 平田精耕訳. 〔イ〕山警策 梶谷宗忍訳. 十牛
図 柴山全慶訳. 坐禅儀 大森曹玄訳. 碧巌録 苧坂光龍ほか訳. 無門関 平田精
耕訳. 解説 西谷啓治著
書誌番号 3-0190123677
#84
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維摩経
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。
サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。
目次
概要 編集
維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。
内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。
維摩が病気[3]になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。
維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。
一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
般若経典では一般に「空」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。
不二法門 編集
維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。
たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。
これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。
この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。
原典・主な訳注 編集
渡邊海旭 『國譯維摩詰所説經』(國譯大藏經 第十巻 解題・原文) 国民文庫刊行会、1917年、原文は弘教藏より収録
同上(復刻) 第一書房、1974年 ISBN 978-4-8042-0251-8
長尾雅人 『維摩経、首楞厳三昧経』(新版) 中央公論社「大乗仏典7」、中公文庫、2002年 ISBN 978-4122040786、チベット語訳からの現代語訳、後者は丹治昭義と共訳。
『梵蔵漢対照 維摩經』、『智光明莊嚴經』解説、大正大学綜合仏教研究所梵語佛典研究会編、大正大学出版会、2004年 ISBN 4-924297-16-X
『梵蔵漢対照 維摩経』大正大学綜合仏教研究所梵語佛典研究会編、大正大学出版会、2004年 ISBN 4-924297-17-8
高橋尚夫[4]・西野翠[5] 『梵文和訳 維摩経』 春秋社、2011年 ISBN 978-4-393-11308-0
植木雅俊 『維摩経 梵漢和対照・現代語訳』 岩波書店、2011年 ISBN 978-4-00-025413-7(パピルス賞受賞)
石田瑞麿 『維摩経 不思議のさとり』 平凡社東洋文庫、1966年、ISBN 978-4582800678 漢訳仏典に基づく。
主な解説講話 編集
鎌田茂雄 『維摩経講話』 講談社学術文庫、1990年 ISBN 978-4-06-158919-3
紀野一義 『維摩経』 大蔵出版〈佛典講座〉 新装版、2004年 ISBN 978-4804354514
菅沼晃 『維摩経をよむ』 日本放送協会出版〈NHKライブラリー〉、1999年 ISBN 978-4140841020
増補改訂版 『誰でもわかる維摩経』 大法輪閣、2011年 ISBN 9784804613208
『ひろさちやの『維摩経』講話』 春秋社、2012年 ISBN 9784393135525
長尾雅人 『『維摩経』を読む』 岩波現代文庫(新版)、2014年 ISBN 978-4-00-600320-3。初刊は岩波書店、1986年
注・出典 編集
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^ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説・説教」のこと。
^ それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に大正大学学術調査隊によって、チベット・ラサのポタラ宮のダライ・ラマの書斎で発見された。
^ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。
^ 大正大学教授
^ 大正大学総合仏教研究所研究員
関連項目 編集
居士
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趙州録からなど
禅の引用多数
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