土曜日, 3月 25, 2017

フランソワ・ケネー(François Quesnay)

フランソワ・ケネー - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/フランソワ・ケネー

フランソワ・ケネー

フランソワ・ケネー
重農主義
フランソワ・ケネー
生誕1694年6月4日
メレフランス
死没1774年12月16日(満80歳没)
ヴェルサイユフランス
テンプレートを表示

フランソワ・ケネー(François Quesnay、1694年6月4日 - 1774年12月16日)は、フランス医師重農主義経済学者[1] 1758年に、重農主義の考え方の基礎を提供した"Tableau economique"(『経済表』)を出版したことで知られる。これは、分析的手法で経済活動についての説明を試みる、恐らくは最初の活動であり、経済思想への最初の重要な貢献の1つと見ることができる。

1718年外科医となり、1749年からは宮廷医師としてヴェルサイユ宮殿で暮らした。1752年貴族に列せられるが、50歳代で経済学の研究を志し、農業の生産力を高めることが重要であると説いた経済表を発表し、重農主義経済学の祖と仰がれた。ケネーの経済表のアプローチは、マルクス再生産表式ワルラス一般均衡理論ケインズ有効需要の原理レオンチェフ産業連関表ミルトン・フリードマンアンナ・シュワルツの貨幣供給理論に受け継がれた。

目次

生涯
編集

ケネーはパリ近郊、今日のウール県にあるメレで、弁護士である小地主の息子として生まれた。16歳で外科医に弟子入りすると間もなくパリへ行き、そこで内科と外科を学んで外科医長の資格を得ると、マントで開業した。1737年にフランソワ・ジゴ・デ・ラ・ペイロニーにより設立された外科アカデミーの終身事務局長に任命され、国王の常勤外科医となった。1744年に薬学博士の免状を得た。彼は国王の常勤内科医となり、その後国王の第一顧問内科医となって、ヴェルサイユ宮殿で暮らした。彼の部屋は中二階にあり、「中二階の会」(Reunions de l'entresol)はその名を取ったものである。ルイ15世はケネーをとても尊敬し、ケネーを自分の思想家と呼んでいたものである。ケネーを貴族に叙したとき、国王はケネーの腕に3本のパンジー(フランス語で思想を意味するパンセ(pensée)からの派生)を、ラテン語の標語である"Propter ex cogitationem mentis"を添えて与えた。

ケネーは、彼の周りで絶えず行われていた宮廷の陰謀に加担することなく、主に経済学の研究に専念した。1750年頃、ケネーはジーン・C・M・ド・グールネー(1712-1759)と知り合った。グールネーもまた、経済分野の熱心な探究者だった。そして、この2人の著名人の周りに、次第に経済学者達の、または区別のための後の呼び方では重農主義者達の、学派が形成されていった。このグループの中で最も著名な人物は、大ミラボー(『人間の友』(1756-60年)、そして『農業哲学』(1763年)の作者)、ニコラ・ボードー(『経済哲学入門』(1771年))、ギョーム=フランソワ・ル・トローヌ(『社会秩序』(1777年))、アンドレ・モルレ小麦粉戦争の間、穀物取引の自由についてフェルディナンド・ガリアーニと交わした論争で知られる。)、メルシェ・ラリヴィエール、それにデュポン・ド・ヌムールである。1764年から1766年にアダム・スミス小バクルー公デュークと大陸に滞在する間にパリで過ごしたことがあり、そこでケネーやその信奉者達と面識を持った。スミスは彼の『諸国民の富』に関するケネーらの科学的応対に高い敬意を払った。[2]

ケネーは1774年12月16日に死去したが、長命な彼は偉大な生徒を持つことができた。財務総監となったジャック・テュルゴーである。ケネーは1718年に結婚して、息子と娘がいた。前者による孫息子は最初の立法議会のメンバーとなった。

業績編集

Tableau economique, 1965

1758年にケネーは、重農主義の考え方の基礎を提供する"Tableau economique"(『経済表』)を出版した。これは、分析的手法で経済活動についての説明を試みる、恐らくは最初の活動であり、経済思想への最初の重要な貢献の1つと見ることができる。

ケネーが彼の体系について著述した著作は次の通りである。ディドロダランベールの『百科全書』(1756年、1757年)の、「農家」と「穀物」に関する2つの記事。デュポン・ド・ヌムールの『重農主義』の、自然法則に関する会話。『農業王国の経済的政府の一般的方針』(1758年)、そして同時に出版された『経済表とその説明、またはシュリによる国王の経済の要約』(有名な標語、「貧しい農民は貧しい王国。貧しい王国は貧しい国王。」とともに)、『商業と職人の労働に関する対話』、そしてその他のより小さな断片。

『経済表』はその無味乾燥さと抽象的形態のため、世間一般の支持はほとんど得られなかったが、学派の主要な宣言書とみなせるかもしれない。それはケネーの信奉者によって、人類の知恵による主要な生産物に列し得ると考えられた。アダム・スミスに引用されたところでは、[2]文字と貨幣と並ぶ、国家社会の安定に最も寄与した3つの偉大な発明品の1つであると大ミラボーが述べている。

その目的は、完全に自由な状態において、唯一の富の源泉である農業生産物が共同体の数個の階級(土地所有者の所有階級、農民の生産階級、そして職人と商人を含む不産階級)の中に分配される方法をある定式によって示すこと、そして政府の抑制と規制のシステムの下での他の配分モデルの定式が、自然の秩序からの違反の異なり具合から、社会全体に良くない結果をもたらすことを描くことである。ケネーの理論的な視点から判断すると、現実的な経済学者と政治家が配慮してしかるべきことは、純生産物の増加ということになる。そして彼はまた、後にスミスが断じたように、全く同じ土地ではなくても、地主の利息は厳密かつ堅固に社会の一般的利息に関連していることを推論する。

この作品と他の小片を伴った小さい豪華な版は、1758年に国王直接の監督下にあったヴェルサイユ宮殿で印刷されたが、その数枚は国王の手で手刷りされたと言われている。この本は既に1767年には流通から消え、現在はその複製品も入手不可能である。しかしその内容はミラボーの『人間の友』、そしてデュポン・ド・ヌムールの『重農主義』に保存された。

彼の経済学上の著作は、ユジェーヌ・デールによる序文と注釈をつけて、パリのギョーマン社から発行された『主要経済学者』の第2巻に集められている。また彼の『経済学と哲学の著作集』は、オーギュスト・オンケンの序論と注釈をつけて集められた(フランクフォート、1888)。『経済表』の元の原稿からのファクシミリ復刻は、イギリス経済協会から発行された(ロンドン、1895)。彼の他の著作は、『百科全書』の「証拠」という記事と、1773年の『幾何学の新しい要素の草案』を伴った『幾何学的真実の証拠の探究』であった。ケネーの演説は、グランジャン・ド・フーシュにより科学アカデミーで文書化された。(アカデミーの選集、1774年、134頁参照。)またF.J.マルモンテルの『回想録、デュ・オセ夫人の回想録』、H.ヒッグズの『重農主義』(ロンドン、1897)を参照のこと。

型破りな歴史観編集

ケネーの経済理論の記述は通常、今日の主流である新古典派理論の観点から読まれるテキストに基づいている。同時代の古典派経済理論の歴史的背景と観点の中で理解すると、これらのテキストは異なった内容を明らかにする。ケネーの考えは1628年にウィリアム・ハーヴェイによって再発見された血液の体系的循環で形成されている。ケネーは解剖学の銅板を刻むことで勉学の資金を調達していたため、彼は内科医が何について話しているかを理解していた。当時内科医はガレノスに従って瀉血を説明した。感染は、感染から離れた適切な場所の血圧を下げることにより回復することができる。ケネーはチューブのシステムを用いて、圧力を減少させるためには場所が無関係であることを実演した。外科医により提出されたこの証拠[3]は、内科医の社会的地位を全く低下させ、内科医たちをいらだたせた。しかし、それは1749年にポンパドゥール夫人のかかりつけの内科医になった国家外科医のケネーに名声を与えた。

この論争は些細なものではなかった。それは医学のパラダイムの衝突だった。瀉血は、ガレノス(紀元前129年 - 紀元前200年)によって推奨された。彼の理論は千年以上にわたって西洋医学を支配したが、西欧医師達が触れることができる彼の本来のテキストは、唯一ルネサンス初期のギリシア語からラテン語への翻訳のみとなった。ガレノスによれば、血液には心臓から血液が消費される器官までの一方的な流れがある。ケネーの主張はウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)によって1628年に再発見された血液の体系的循環に基づいていたが、[4]この説は1661年にマルピーギ毛細血管を発見したときに唯一決定的なものになった。そのためケネーの主張では、ガレノスの体系では理解できないが、血液が再生されたと推測した。それは耳が聞こえない者同士の議論だった。しかし、経済理論には興味深い類推がある。[5]ガレノスによれば、心臓から出る動脈血と肝臓から出る静脈血はすべての器官によって消費されるが、ハーヴェイによれば、血液は再生される。同様に新古典派経済学によれば、商品には個人の効用を生産することで破壊されるための一方的な流れがあるが、古典派経済学によれば、少なくとも「生産的」な労働の出力は次の経済循環の入力となる。

ケネーの経済学への興味は、彼の60代前半には、彼の宮廷での地位によりフランスが国の倒産に直面したことを突きつけられた1750年頃に起きた。肺の役割がまだ理解されなかったとき、彼は商品の経済循環が肺循環を省いた血液循環と同様であると考えた。ラヴォアジエ酸素に関する実験は、少し後で始まった。ケネーは心臓が器官のために特別な重要性を持っているのと同様に、農業が社会と経済の制度に特別な重要性を持っていると考えた。

歴史的に、フランス国王は貴族達に対して弱い位置にあった。彼の独立性を高めるため、国王は貴族達が宮廷にいて贅沢さを互いに競うことを強制し、彼等の資産を軽視することで、貴族達を疲弊させた。ヴェルサイユ宮殿はこの伝統で造られた。人口の0.5%[6](ゲルマン征服者とキリスト教会から伝わる高い威厳を誇り、貴族と暮らす)が国の純所得のほとんどを受領していた。そのため、職人と工業的サービスへの需要のほとんど全部が、循環的な経済の流れに全く入力しない社会的部門から来ていた。そして、もし貴族と聖職者が経済の再生産と無関係であったとすれば、そのために働いている者は、職人だった。

アダム・スミスからジョン・スチュアート・ミルまでの古典派経済学は、「非生産的労働」に関するケネーの議論を、その中心的主張と捉えた。彼の『経済表』の中でケネーは、地主階級(貴族と僧職)は農業と工業のサービスを得るが、土地を農民に賃貸することは別として何も生産することなく、職人は自分が生産したものと同じだけのものを農業と他の職人に支払い、唯一農民だけが、生産費を補充し、地主階級と職人達に供給した後で純利益を保有したことを示している。

無論ケネーは、地主階級とそれらのために働くすべてが寄生体であったと公然と表明することはできなかった。彼は、彼が守ろうとした体制を批判することはできなかった。同じことを言う政治的に正しい方法は、職人と製造業者を「不産階級」と表明することだった。そのためケネーは、職人と農民の仕事の間には違いがあると断言する。工業製品の価格は、再生産の費用で決定する。競争は高目の価格をこの「自然な」基準に平準化するだろう。農産物価格は再生産の価格を超えているので、他の部門が単に再生産的であるのに対し、唯一農業だけが富を生産する。増加する農産物供給が価格を下げない理由の1つは、無制限に近い需要である。

  • 「原材料の結合を経た増加および1世代でのこの種の増加の前から存在した物への消費の拡大と、再生された富の更新と真の成長によって形作られる富の創造とは、区別しなければならない。」[7]

ケネーによる農業と工業の価格の区別は、これらの部門のイギリスの非常に異なった区別により理解できる。デヴィッド・リカードは、より少ない生産性の高い土地が耕されるため、農業生産の増加は物価を上昇させると説明している。しかし工業製品の増産は、1つ当たりの生産費を下げ、それにより価格を引き下げるだろう。ケネーにとって、これはもう一つの循環路と、歴史的に全く正しい。

市場の拡大が生産の増加と単価の減少を引き起こすというアダム・スミスの有名な主張は、労働力の分割の深化と誘発される発明により、大量生産にのみ言及している。しかし、フランスの職人には、オーダーメイドの生産があった。通常、高級品の生産は規模の経済を全く提供しない。ケネーは経済循環について議論するため、アダム・スミスをパリで指導し、スミスはケネーが亡くなる前に『諸国民の富』をケネーに捧げようとした。[8]しかし富の分配に明らかに影響する、イギリスと非常に異なったフランスの状況に対する彼らの特別な関係のため、スミスでさえもいくつかの重農主義の考えは理解できなかった。

中国の発明品を採用した農業革命によって、イギリスの産業革命は先行した。--無論受け入れられている訳ではないが。[9]イギリスの系列に続いて、フランス北部で既に資本主義的農業の例が見られた。フランス全体に対してイギリスモデルを採用することは、将来の工業開発の前提条件として、生産性の高まりを約束した。フランスの未来は農業開発の中にあり、現在の産業構造の拡大の中には無いというケネーの主張は、等しくない分析的なマスターピースである。

工業製品のためのこの将来の資本主義的農業に対する需要は、フランス工業に新しい市場を提供する。この市場が供給されると、出力が次の経済循環の入力となるため、フランスの工業と貿易は「生産的に」なるだろう。そしてこの工業生産は「費用逓減」を示すだろう。それゆえ工業と工芸を「不産階級」と呼ぶことは一般的には誤りだが、この歴史的状況においてのみ正しいと言えよう。

財務総監」のテュルゴーとともに、1774年に重農主義プログラムの第一歩が実施された。しかし多くの名士やグループが先の財政的混乱から自分達の利益を上げたことで、テュルゴーの改革に対する抵抗が噴出した。フランスにおける穀物の関税を廃止することで、固定額を国王に支払ってその3倍以上を集めていた多くの貴族の税収者達に打撃を与えた。1774年の不作は小麦価格を上昇させた。そして税収者達は、自由貿易で今や国王までもが小麦粉投機で利益を得ているという噂を広めた。人々はヴェルサイユの宮門へ行進した。1776年にテュルゴーが、すべての特権を廃止するための第一歩として農村の賦役と都市のギルドを撤廃するよう提案したとき、国王は彼の敵に同調し、テュルゴーの辞職を求めた。彼の敵のジャック・ネッケルが財務長官になり、ネッケル夫人が主宰していたパリ市民のサロンではすぐに、重農主義的考えはすべての重要性を失った。フランスの負債とアメリカ独立革命へのフランスの関与に資金を供給するために増税することよりむしろ、さらに多くの借金がフランス革命への道を開いた。

中国の影響編集

中国の思想と概念がケネーに与えた影響を忘れるべきではない。生前彼はヨーロッパの孔子として知られていた。[10]レッセフェールの教義とその名 前さえもが中国の無為の概念に啓発されたものかもしれない。[11][12]

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ Cutler J. Cleveland, "Biophysical economics"Encyclopedia of Earth, Last updated: September 14, 2006.
  2. a b Smith, Adam, 1937, The Wealth of Nations, N. Y.: Random House, p. 643; first published 1776.
  3. ^ Traité de la suppuration, 1764, http://gallica2.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k281948s
  4. ^ Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus published in Frankfurt.
  5. ^ Sraffa, P., 1960, p. 93: "It is of course in Quesnay's Tableau Économique that is found the original picture of the system of production and consumption as a circular process, and it stands in striking contrast to the view presented by modern theory, of a one-way avenue that leads from 'Factors of production' to 'Consumption goods'".
  6. ^ Schvarzer, J., El modelo Japonés, Buenos Aires: Ciencia Nueva, p. 7
  7. ^ »Sur les travaux des Artisans – Second Dialogue», pp. 526-554 in: «Œuvres Économiques et Philosophiques de F. Quesnay», edited by A. Oncken, Francfort/Paris 1888, page 531; http://visualiseur.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k72832q.pdf.
  8. ^ Dugald Stewart, Preface to: Essays on Philosophical Subjects by The late Adam Smith, LL. D., Fellow of the Royal Societies of London and Edinburgh, Basil, Printed for the Editor of the Collection of English Classics, Sold by James Decker, 1799.
  9. ^ John M. Hobson: The Eastern Origins of Western Civilisation, Cambridge University Press, 2004, pp. 201-6.
  10. ^ FORERUNNERS OF HENRY GEORGE by Samuel Milliken, Online source
  11. ^ "Wu-Wei in Europe" by Christian Gerlach
  12. ^ "The Eastern Origins of Western Civilization", John M. Hobson, p.196

関連項目編集

参考文献編集

  • Hobson, John M. (2004), The Eastern Origins of Western Civilization, Cambridge University Press, ISBN 0521547245