チャールズ・チャップリンの「独裁者」は、アメリカがナチスドイツと戦うより前の1940年に公開された映画です。
この映画が公開された頃には、ナチス・ドイツのオーストリア併合(1938年)や ポーランド侵攻(1939)が起きていたにもかかわらず、世界はヒトラーとナチスの危険性について十分には認識していませんでした。
たとえば、アメリカでもケネディ大統領の父親や、リンドバーグ、ディズニーなど、ヒトラーを擁護する者も多かったのです。
そんな中、その鋭い感受性でナチズムの危険性に気づき、全身全霊でヒトラー批判の映画を作ったのが無声映画の雄、喜劇王チャールズ・チャップリンでした。
1952年9月19日、アメリカ法務長官が
映画「ライムライト」のプレミアのためロンドンに向かっていた
チャールズ・チャップリンのアメリカへの再入国を禁止した。
いわゆる「赤狩り」であった。
ハリウッドでの赤狩りは、マッカーシー議員の起こした
反共現象マッカーシズムとは少し異なり
下院の非米活動委員会が行ったハリウッド・テンの告発投獄に始まる。
しかしハリウッドの赤狩りが本格化し、裏切りや密告が横行し、
1951年の第24回聴聞会からはマッカーシズムとリンクする形で
異なる意見を拒否する風潮が蔓延して行く。
ハリウッド・テンの中にダルトン・トランボなる脚本家がいた。
他の映画人に比べ撮影の現場に顔を出す必要のない脚本家は
偽名を使う事で仕事を続けることが出来た。
彼は映画界を追放後も、協力してくれる人物の助けで
密かに脚本を書き続け歴史的名作「ローマの休日」を生んだ。
この脚本がトランボのものだと分かったのは後の事である。
こうした中に政府の反共活動に協力した人物もいた。
映画「エデンの東」の監督エリア・カザンである。
1998年にエリア・カザンがアカデミー名誉賞を受賞した時
集まっていた半数以上のハリウッドスター達は
拍手も送らず拒否態度をとっていた。
俳優のリチャード・ドレイファスは、
彼の受賞に抗議して式への出席を止めると宣言文を発表するほどだった。
この光景に赤狩りの遺恨は映画界に根強く残っている事を感じた。
「赤狩り」というくだらない政策はハリウッドから優れた人材を失い、
当たり障りのない娯楽映画しか作れない場所になって行く。
そんなハリウッドに新たな風が吹くのは20年後、
ご都合主義に嫌気がさした若者が起ち上げる
ニューシネマ時代である。
赤狩りの象徴的な事件となったチャップリンの追放劇は、
アメリカの一般国民の反感をかい、名声を利用しようとした世界各国の
右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。
アメリカを去ったチャップリンはスイスのブドウ畑を臨む邸宅に移り住み、
妻ウーナや8人の子供達と幸せな晩年を送る。
世界的な名士として尊敬され、
先日他界した山口淑子らとも親密な交友関係を築いた。
それは時代に翻弄された者同志の絆であったのだろう。
チャップリンが再びアメリカの土を踏んだのは20年後の1973(昭和48)年、第44回アカデミー特別賞(名誉賞)を受けたときであり、授賞式のフィナーレで、彼がオスカー像を受け取る際、会場のゲスト全員で歌詞の付いた「スマイル」の曲が歌われた。
チャップリン自伝下310頁#22
やっと彼が着いた。腰布をたくし上げながら、タクシーから降りてくると、たちまちまわりからは、万歳、万歳の声が湧き上った。このごみごみした狭い貧民街で、いま一人の外国人が群衆の歓呼を浴びながら、わびしい小さな家に入って行く。なんともそれは妙な光景だった。彼は三階にあがると、すぐに窓から顔を出乳言通りの群衆に手をふったのである。
ソファに並んで坐ると、たちまちフラッシュの一斉射撃を受けた。わたしは彼の右手に坐わっ教いだ蒔ない相い一″%腱獄「削堀現れい』靱凱わ静なけ餞舞赫砂漱械¨嗅わには蹴に精い婦人が坐っていて、しきりになにかくどくどと話しかけてくる。だが、わたしのほうはガンジーと話す話題のことばかり夢中になって考えているのだから、そんな話など一言も耳にははいっていない。ただフンフンと肯ぐかけだつた。さてヽいよいよ口火を切らなくてはならないのだが、といって、わたしの最近作、どうごらんになりましたか? などと訊きだすのも、相手がガンジーとあっては、変なものにきまっている、――第一、彼が映画など見るかどうか、そのほうがまず問題だった。だが、そのうちに一人のインド婦人が、突然高飛車に例の若い婦人のおしゃべりを封じてしまった。「あなた、いいかげんにおしゃべりおやめになったらどう? チャップリンさんとマハトマとのお話を伺いましょうよ」
ぎっしりつまった部屋の中が、 一瞬シーンとなった。仮面のようなガンジーの顔が、わたしの言葉を待って緊張した。おそらく同時に、全インド人の緊張ででもあったのだろう。わたしは、まずせきばらいを一つした。「もちろん、わたしは、自由を求めるインド、そしてまた、そのために闘っているインドに対して、心からの共鳴を感じていますよ。しかし、あなたのあ
の機械嫌いというのには、どうもちょっとこだわりますね」
彼は軽く笑ってうなずいた。わたしは、なおもあとをつづける。「要するにですよ、機械というものが、世のため、人のためということで使われさえすれば、これは人間を奴隷の状態から解放し、労働時間を短縮し、それによって、知性の向上、生活のよろこびというものを、増進するのに役立つことはきまってるんですからね」
「おっしゃることはよくわかります」彼は静かに言った。「しかしですよ、インドでは、それらの目的を達成する前に、まずイギリスの支配から解放されなければならないのです。現に過去において、わたしたちは機械のおかげでイギリスの奴隷になってしまったのです。したがって、もしその隷属状態から脱却しようと思えば、唯一の途は、まず機械で作られる一切の商品をボイコットすること、それ以外にはないのです。わたしたちインド人が、自分の糸は自分で紡ぎ、自分の布は自分で織るということ、それをすべての国民の愛国的義務であると規定したのも、実はそのためなのです。これがイギリスのような強大国家に対する、わたしたちの攻撃法なのです――もちろん、ほかにもまだ理由はいろいろありますがね。たとえばインドとイギリスとでは、風土がちがいます。習慣や欲望もちがいます。イギリスでは寒いために骨の折れる勤労や複雑な経済が必要でしょう。あなた方にはナイフやフォークなど食器を作る工業が必要でしょうが、わたしたちは指で食べます。そうしたことが、そのままいろんな相違になって現われてくるわけです」
なるほど、よくわかつた。自由のために闘っているインドの闘争、そのいわば用兵作戦における立派な実物教訓を示されたようなものだった。そしてそれは、逆説めいて聞えるかもしれぬが、鉄のような実行意志をもった、きわめて現実的、かつ男性的な理想家によって鼓舞されているのだった。彼はまた、こんなことも言った。最高の独立とは、 一切の不要なものをふりすてることであり、また暴力は、必ず結局において自滅するというのだった。
報道陣が引きあげると、彼は、しばらく残って彼らの礼拝を見て行かないかと言った。まずガンジーが床にあぐらをかいて坐ると、五人のインド人たちも、彼を囲んで丸くなって坐る。ロンドン貧民街のどまんなか、六人の人間が小さな部屋の床に
賜だらをかいて坐っている。サフラン色の太陽がはるか屋根のかなたにみるみる沈んでゆく。敬虔な祈りの声がしずかに流れる。そしてわたしひとりがソフアに坐って、彼らを見おろし漿熟弔げ檄膨雄銀飾つ妙綺勁崎げ度っけ孵熟掛隷れ瑚い凛畔Ⅷ行制げ鑑一改資け篠は凛い和稀榊りの声を聞いていると、すべて霧のように消えてしまうのだった。なんという大きな逆説だろう。