ヤコービ『スピノザの学説に関する書簡』知泉書館 2018/4/15 [Über dieLehre des Spinoza 1785]
ヤコービ『スピノザの学説に関する書簡』知泉書館 2018/4/15 [Über die Lehre des Spinoza 1785]
http://nam-students.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html
キルケゴールとスピノザ
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/blog-post_26.html
キルケゴールとスピノザ
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F.H.ヤコービ 著 田中 光 訳 2018/4/15 |
スピノザの学説に関する書簡

凡例
日本語版への序言(ビルギッド・ザントカウレン)
第 I 部 スピノザの学説に関する書簡
第三版序文
スピノザの学説に関するモーゼス・メンデルスゾーン氏宛の書簡
献呈の詞
第一版への序文
第二版への序文
人間の拘束性と自由についての予備的命題
第一章 人間は自由ではない
第二章 人間は自由である
スピノザの学説に関して
一 エリーゼ・ライマールスとヤコービの書簡
二 レッシングとヤコービ
三 メンデルスゾーンとヤコービ
四 メンデルスゾーンの異論
五 スピノザの学説の第一の叙述
六 スピノザの学説の第二の叙述
七 スピノザ主義に関する六つの命題
第 II 部 スピノザの学説に関する書簡へのもろもろの付録
第一付録 ノラのジルダーノ・ブルーノからの抜粋――『原因・原理・一者について』
第二付録 無神論について――ディオクレスからディオティーマへ
第三付録 「別の世界の事物」――ハーマンの言葉
第四付録 ヘルダーの「神」について
第五付録 ヘルダーのスピノザ主義への批判
第六付録 スピノザとライプニッツ
第七付録 思弁哲学の歴史――スピノザ主義の成立
第八付録 キケロ『義務について』
『スピノザ書簡』第三版と第一版・第二版との異同について
ヤコービの生涯と著作(田中 光)
一 生い立ちとジュネーヴ留学
二 留学からの帰国と結婚
三 『ドイツ・メルクール』誌とゲーテとの出会い
四 八〇年のレッシングとの対話
五 『スピノザ書簡』出版
六 革命を逃れて
七 北からミュンヘンへ
訳者あとがき
文献表
ヤコービ年譜
索引
日本語版への序言(ビルギッド・ザントカウレン)
第 I 部 スピノザの学説に関する書簡
第三版序文
スピノザの学説に関するモーゼス・メンデルスゾーン氏宛の書簡
献呈の詞
第一版への序文
第二版への序文
人間の拘束性と自由についての予備的命題
第一章 人間は自由ではない
第二章 人間は自由である
スピノザの学説に関して
一 エリーゼ・ライマールスとヤコービの書簡
二 レッシングとヤコービ
三 メンデルスゾーンとヤコービ
四 メンデルスゾーンの異論
五 スピノザの学説の第一の叙述
六 スピノザの学説の第二の叙述
七 スピノザ主義に関する六つの命題
第 II 部 スピノザの学説に関する書簡へのもろもろの付録
第一付録 ノラのジルダーノ・ブルーノからの抜粋――『原因・原理・一者について』
第二付録 無神論について――ディオクレスからディオティーマへ
第三付録 「別の世界の事物」――ハーマンの言葉
第四付録 ヘルダーの「神」について
第五付録 ヘルダーのスピノザ主義への批判
第六付録 スピノザとライプニッツ
第七付録 思弁哲学の歴史――スピノザ主義の成立
第八付録 キケロ『義務について』
『スピノザ書簡』第三版と第一版・第二版との異同について
ヤコービの生涯と著作(田中 光)
一 生い立ちとジュネーヴ留学
二 留学からの帰国と結婚
三 『ドイツ・メルクール』誌とゲーテとの出会い
四 八〇年のレッシングとの対話
五 『スピノザ書簡』出版
六 革命を逃れて
七 北からミュンヘンへ
訳者あとがき
文献表
ヤコービ年譜
索引
内容
本書は1785年に刊行され,ヘーゲルなどに大きな影響を与え,カント,ゲーテをはじめドイツ思想界を巻き込んだ「汎神論論争(スピノザ論争)」発端の書である。
ヤコービ(1743-1819)との対話において,レッシング(1729-81)が〈一にして全〉を支持したことにより,「スピノザ主義者」であることを告白した。汎神論的立場を表すスピノザ主義を標榜することは無神論者と見なされかねなかった。レッシングの死後,ヤコービがメンデルスゾーン(1729-86)に「レッシングはスピノザ主義者だった」と書き送った。それに対しレッシングの友人であったメンデルスゾーンが異論を呈し,「レッシングはスピノザ主義者だったのか?」,さらに「スピノザ主義とは何か?」という問題へ発展していった。本書はこれら一連の書簡と関連する8つの付録からなる。
フィヒテからシェリングを経てヘーゲルへ,といった従来の「ドイツ観念論」という見方は再検討されており,同時代の他の思想家との関連をも含めて「ドイツ古典哲学」という新たな枠組みが示されつつある。そのような状況のなか,本書はドイツ近世哲学を見直すために必読の文献となろう。
巻末には訳者によるヤコービの紹介と年譜,『スピノザ書簡』各版の異同情報を付す。
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注目新刊:ヤコービ『スピノザの学説に関する書簡』知泉書館、ほか : ウラゲツ☆ブログ
『スピノザの学説に関する書簡』F.H.ヤコービ著、田中光訳、知泉書館、2018年4月、本体7,000円、A5判上製496頁、ISBN978-4-86285-273-1
★ヤコービ『スピノザの学説に関する書簡』は初版が1785年に刊行された『Über die Lehre des Spinoza』の第三版(1819年刊のヤコービ著作集第四巻に収録)の翻訳で、凡例によれば「巻頭のケッペンの読者宛ての文と「メンデルスゾーンの非難に抗して」は割愛した」とあります。訳文は『モルフォロギア』に20年来掲載してきたものが元になっているとのことです。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。周知の通り「汎神論論争(スピノザ論争)」のきっかけとなった高名な古典であり、ヤコービがユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn, 1729-1786)に対して送った書簡集が中心となっています。
★また巻末には、各版の異同情報を記した「『スピノザ書簡』第三版と第一版・第二版との異同について」、訳者による解説「ヤコービの生涯と著作」(363~426頁)や、ヤコービ年譜、文献表、索引(人名・事項・文献)と充実しています。
★巻頭の「日本語版への序言」はヤコービ研究の第一人者ビルギッド・ザントカウレン教授(ボーフム大学)が寄稿されたものです。彼女が「時代の影の実力者」(ix頁)と評した哲学者ヤコービ(Friedrich Heinrich Jacobi, 1743-1819)は「一人でスピノザを研究し、ゲーテの時代で一番スピノザを理解していた人」(訳者あとがき)で、当時カントの論敵として名高かったはずのメンデルスゾーンに対して、憶することなくスピノザ哲学への理解度について論難しています。二人の共通の友人にレッシングがいたわけですが、レッシングの死去によって論争がもたらされることになり、「ドイツの知識人は〔…〕根底から震撼させられ」たといいます(「日本語版への序文」viii頁)。
★ヤコービによるスピノザ理解は第Ⅰ部「スピノザの学説に関する書簡」内の「スピノザの学説に関して」でまとめられているテクストのうち、特に「六 スピノザの学説の第二の叙述」と「七 スピノザ主義に関する六つの命題」に端的に表れています。前者にはヤコービ自身が「この説明に私の精神の力すべてを傾け、その際いかなる苦労も忍耐も厭わないと固く決心し」た(155頁)と書いた44項目のテーゼが含まれています。訳者による「ヤコービの生涯と著作」で二度にわたり惹かれているテーゼ39が印象的です。以下に引用します。
★「すべての個物は互いを前提とし、また互いに関係しあっている。したがって、どの個物も残りすべての個物なしでは、またすべての他の個物もおのれ以外の個物なしでは存在することも、考えることもできない。すなわち、すべての個物は協力して一つの切り離すことのできない全体を形づくっている。〔…〕」(163頁)。また、「人間の拘束性と自由についての予備的命題」にはこうも書かれています。「私たちに知られているすべての個々の事物の存在の可能性は、他の事物との共存に支えられ、関係している。したがって私たちはそれ自体で存立している有限な存在者を思い描くことはできない」(47頁)。
★「ドイツ古典哲学にとっても、近代哲学全体にとっても一つの新しい時代」(「日本語版への序文」viii頁)への導入となった本書の翻訳をきっかけに、ヤコービが日本においても再発見されることになるのではないかと感じます。
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参考:
http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
ヤコービ『スピノザ書簡』からの引用
http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
a) 伊坂青司氏「有限と無限――あるいはヤコービとヘーゲル」の第2節「ヤコービと『汎神論論争』」(『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』所収、ミネルヴァ書房、1994年)
b) 栗原隆氏「IV ヤコービ/ヘルダー」(『哲学の歴史 第7巻 理性の劇場』所収、中央公論新社、2007年)
拙訳(LS, S. 54/* 22-23)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングと私(ヤコービ)の会話を、メンデルスゾーンに報告しています。]
レッシング:神性についての正統派的な考えは、もう私には関係ないものです。そうした考えには、満足できないのです。「ヘン・カイ・パン [一にして全。一即全]」、これしか私は知りません。この [ヤコービが持ってきた] 詩も、またそこへと向かっていますね。この詩は大変気に入ったと、白状せざるをえません。
私:では、あなたはスピノザに、かなり同意できるのかもしれませんね。
レッシング:私が誰かの信奉者ということでしたら、彼以外にいません。
私:私もスピノザは、素晴らしいと思います。しかし、私たちは彼に無い物ねだりをしがちです。
レッシング:ええ、もしそう言いたいのであれば・・・だが・・・よりいいものがあるでしょうか? [省略は原文]
● 『哲学の歴史 第7巻』230-231ページでの引用
拙訳(LS, S. 55-57/* 23-25)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングとヤコービ(私)のやりとりを報告しています。]
翌朝、私は朝食をとった後、服を着るために自室へ戻りました。しばらくして、レッシングがやって来たのです。私がすわって髪を整えさせていたので、その間レッシングは、部屋の片隅の机に静かに体をもたせていました。私たち2人だけになり、レッシングが体をもたせている机の別の側に私がすわると、彼は語りだしました:
「私が来たのは、あなたに私の信じる『ヘン・カイ・パン』について、お話ししたいためです。昨日は、あなたは驚かれたことでしょう」。
私:あなたにはビックリさせられました。さぞかし青ざめたり赤くなったりしたことでしょう。困惑してしまったものですから。でも恐慌をきたしたわけではないのです(注1)。まさかあなたがスピノザ主義者、つまり汎神論者だったとは、思いもよりませんでした。しかも、あっさりとそう打ち明けられたものですから。私がここにやって来たのは、およそあなたからスピノザに抗するための援助を、得るためだったの
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_6805.html
http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
ヤコービ『スピノザ書簡』からの引用
http://ntaki.net/di/In/goya_8.htm
a) 伊坂青司氏「有限と無限――あるいはヤコービとヘーゲル」の第2節「ヤコービと『汎神論論争』」(『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』所収、ミネルヴァ書房、1994年)
b) 栗原隆氏「IV ヤコービ/ヘルダー」(『哲学の歴史 第7巻 理性の劇場』所収、中央公論新社、2007年)
拙訳(LS, S. 54/* 22-23)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングと私(ヤコービ)の会話を、メンデルスゾーンに報告しています。]
レッシング:神性についての正統派的な考えは、もう私には関係ないものです。そうした考えには、満足できないのです。「ヘン・カイ・パン [一にして全。一即全]」、これしか私は知りません。この [ヤコービが持ってきた] 詩も、またそこへと向かっていますね。この詩は大変気に入ったと、白状せざるをえません。
私:では、あなたはスピノザに、かなり同意できるのかもしれませんね。
レッシング:私が誰かの信奉者ということでしたら、彼以外にいません。
私:私もスピノザは、素晴らしいと思います。しかし、私たちは彼に無い物ねだりをしがちです。
レッシング:ええ、もしそう言いたいのであれば・・・だが・・・よりいいものがあるでしょうか? [省略は原文]
● 『哲学の歴史 第7巻』230-231ページでの引用
拙訳(LS, S. 55-57/* 23-25)
[以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングとヤコービ(私)のやりとりを報告しています。]
翌朝、私は朝食をとった後、服を着るために自室へ戻りました。しばらくして、レッシングがやって来たのです。私がすわって髪を整えさせていたので、その間レッシングは、部屋の片隅の机に静かに体をもたせていました。私たち2人だけになり、レッシングが体をもたせている机の別の側に私がすわると、彼は語りだしました:
「私が来たのは、あなたに私の信じる『ヘン・カイ・パン』について、お話ししたいためです。昨日は、あなたは驚かれたことでしょう」。
私:あなたにはビックリさせられました。さぞかし青ざめたり赤くなったりしたことでしょう。困惑してしまったものですから。でも恐慌をきたしたわけではないのです(注1)。まさかあなたがスピノザ主義者、つまり汎神論者だったとは、思いもよりませんでした。しかも、あっさりとそう打ち明けられたものですから。私がここにやって来たのは、およそあなたからスピノザに抗するための援助を、得るためだったのです。
レッシング:では、あなたはスピノザのことを知っているのですね?
私:彼をよく知る数少い一人だと、思っています。
レッシング:それなら、あなたにはそのような援助など、必要ないでしょう。むしろ、完全にスピノザの友人になりなさい。スピノザ哲学以外に、哲学はありません。
私:そうかも知れません。決定論者は、自説を貫こうとすれば、宿命論者にならざるをえないのですからね。その後は、自由の問題もおのづと片付こうというものです。(注2)
レッシング:私たちは分かり合えるようですね。あなたがスピノザ主義の根本思想と考えているものを、ますますお聞きしたくなりました。ここでスピノザ主義というのは、スピノザ自身が考えていたもののことですが。
私:彼の根本思想は、おそらく古語にいう「無からは何も生ぜず(a nihilo nihil fit)」だと思います。スピノザは、カバラ哲学者達や彼以前の哲学者達よりも、より抽象的な考え方でもって [nach abgezogenern Begriffen] この古語を考察したのです。この考え方によって、彼が見出したのは、「無限なもののうちに何かが生じるときには、その何かをいかように表現したところで、何かが無から措定されてしまう。また、無限なもののうちに何らかの変化が起きるときも、同様である」ということでした。
したがってスピノザは、無限なものから有限なものへのいかなる移行も退けたのです。一般的にすべての移行原因 [Causas transitorias] を、それが2次的なもの [secundarias] であろうと遠隔的なもの [remotas] であろうと、退けました。そして彼は、ただ内在的な「神」 [Ensoph, エンソーフ。カバラ主義における無窮の神(英和辞典『リーダーズプラス』)] を、流出するものの代わりに措定したのでした。つまり世界の、内在的にして自らのうちで永遠に変わることなき1つの原因を、措定したのです。この原因は、そのすべての結果ともどもに――、一つの同じものなのでしょう。・・・ [省略記号は原文]
この内在的で無限な原因そのものは、明らかなことですが、悟性をも意思をも持っていません。なぜならこの原因は、その超越論的一性 [Einheit] と一様な絶対的無限性によって、思考と意欲のいかなる対象も持ちえないからです。それにまた、
・概念 [の存在] 以前の概念を生みだす能力とか、あるいは、
・その概念が対象とするもの以前に存する概念、つまり、自ら自身だけが原因となって [対象が原因となったのではなく] 生じたような概念――こうした概念を生みだす能力とかは、
・意欲に働きかけて、全く自らを規定する意思同様、
まったく馬鹿げたことだからです。
____
笹澤 豊
講座ドイツ観念論5ヘーゲル~時代との対話 1990より
《ヤコービもヘーゲルも、スピノザ主義における「自由」の否認を、この思想の難点として
指摘していた。だが見落としてはならないのは、スピノザが人間の「自由」を全面的に
否定しているわけではなく、むしろ(「意志の自由」に代わる)新たな「自由」概念を
提示しているのだということ、そしてヤコービもヘーゲルもこの「自由」概念を決して
看過していたわけではないということである。スピノザは、「意志は自由原因ではない」
として「意志の自由」を否定するが☆、他方「自由な人間」の在り方について言及し、
このような人間とは「理性に従っている人間」☆☆あるいは「理性の指図によってのみ生きる
者」☆☆☆であるとしている。スピノザがこのように考えるのは、彼が自由を「自己の本質に
のみ従うこと」であると考え、この本質の認識機能を理性におくからにほかならない。》
☆『エチカ』第一部定理三二、『エチカ』第二部定理三五注解
☆☆『エチカ』第四部定理六六注解
☆☆☆『エチカ』第四部定理六七証明
エチカ
☆
1:32
定理三二 意志は自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる。
証明 意志は知性と同様に思惟のある様態にすぎない。したがって(定理二八により)個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因もまた他の原因から決定され、このようにして無限に進む。もし意志を無限であると仮定しても、それはやはり神から存在および作用に決定されなくてはならぬ。そしてこれは神が絶対に無限な実体である限りにおいてではなくて、神が思惟の無限・永遠なる本質を表現する一属性を有する限りにおいてである(定理二三により)。ゆえに意志はどのように考えられても、つまり有限であると考えられても無限であると考えられても、それを存在および作用に決定する原因を要する。したがってそれは(定義七により)自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的なあるいは強制された原因とのみ呼ばれうる。Q・E・D・
系一 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということになる。
系二 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定理二九により)が神に対する関係と同様であるということになる。なぜなら、意志は、他のすべての物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定する原因を要するからである。そしてたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても、神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起するもののために(というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する)神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である。ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さないで、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによって一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものと、まったく同様な関係に立っているのである。
証明 意志は知性と同様に思惟のある様態にすぎない。したがって(定理二八により)個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因もまた他の原因から決定され、このようにして無限に進む。もし意志を無限であると仮定しても、それはやはり神から存在および作用に決定されなくてはならぬ。そしてこれは神が絶対に無限な実体である限りにおいてではなくて、神が思惟の無限・永遠なる本質を表現する一属性を有する限りにおいてである(定理二三により)。ゆえに意志はどのように考えられても、つまり有限であると考えられても無限であると考えられても、それを存在および作用に決定する原因を要する。したがってそれは(定義七により)自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的なあるいは強制された原因とのみ呼ばれうる。Q・E・D・
系一 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということになる。
系二 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定理二九により)が神に対する関係と同様であるということになる。なぜなら、意志は、他のすべての物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定する原因を要するからである。そしてたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても、神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起するもののために(というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する)神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である。ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さないで、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによって一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものと、まったく同様な関係に立っているのである。
2:35
定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。
証明 観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない(この部の定理三三により)。しかし虚偽は(認識の)絶対的な欠乏には存しえない(なぜなら、誤るとか錯誤するとか言われるものは精神であって身体などではないのだから)。だからといってそれは絶対的無知にも存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。 それゆえ虚偽〔誤謬〕とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。Q・E・D・
備考 この部の定理一七の備考の中で私はいかなるわけで誤謬が認識の欠乏に存するかを説明した。しかしそのことをいっそう詳細に説明するために例を挙げよう。
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、(すなわち彼らか自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である。
同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。
証明 観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない(この部の定理三三により)。しかし虚偽は(認識の)絶対的な欠乏には存しえない(なぜなら、誤るとか錯誤するとか言われるものは精神であって身体などではないのだから)。だからといってそれは絶対的無知にも存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。 それゆえ虚偽〔誤謬〕とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。Q・E・D・
備考 この部の定理一七の備考の中で私はいかなるわけで誤謬が認識の欠乏に存するかを説明した。しかしそのことをいっそう詳細に説明するために例を挙げよう。
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、(すなわち彼らか自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である。
同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。
☆☆
4:66
定理六六 理性の導きに従って我々は、より小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりはより小なる現在の悪を欲求するであろう。
証明 もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対しても現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう(この部の定理六二により)。ゆえに我々が理性そのものを念頭に置く限り〜〜この定理で我々はそうした場合を仮定しているのである〜〜より大なる善ないし悪が未来のものと仮定されようと現在のものと仮定されようとそれは同じことである。このゆえに(この部の定理六五により)我々はより小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりは云々。Q・E・D・
系 理性の導きに従って我々は、より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し、またより大なる未来の悪の原因たるより小なる現在の善を断念するであろう。この系は前定理に対して、定理六五の系が定理六五に対するのと同一の関係にある。
備考 そこでもしこれらのことをこの部の定理一八までに感情の力について述べたことどもと比較するなら、感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。なお自由人の心境および生活法について以下に若干の注意をしてみたい。
証明 もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対しても現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう(この部の定理六二により)。ゆえに我々が理性そのものを念頭に置く限り〜〜この定理で我々はそうした場合を仮定しているのである〜〜より大なる善ないし悪が未来のものと仮定されようと現在のものと仮定されようとそれは同じことである。このゆえに(この部の定理六五により)我々はより小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりは云々。Q・E・D・
系 理性の導きに従って我々は、より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し、またより大なる未来の悪の原因たるより小なる現在の善を断念するであろう。この系は前定理に対して、定理六五の系が定理六五に対するのと同一の関係にある。
備考 そこでもしこれらのことをこの部の定理一八までに感情の力について述べたことどもと比較するなら、感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。なお自由人の心境および生活法について以下に若干の注意をしてみたい。
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