東京帝国大学で言語学、民俗学を講義
ラムステットは、有名な東アジア研究者でフィン・ウゴル学会の外国人会員でもあった白鳥庫吉東京帝国大学名誉教授の紹介により、同大学でしばしば招待講師として講義を行った。講義内容は、フィン・ウゴル人、アルタイ比較言語学、民俗学、地方語や方言などだった。彼の講義を受けた人物の中には、当時農林省の役人であった柳田国男(1875~1962)がいた。国際連盟がジュネーブで会議を開き、オーランド諸島のフィンランドまたはスウェーデンへの帰属問題を討議した際、柳田は日本代表団の一員であった。ラムステットによれば、国際連盟が1921年に同諸島のフィンランドへの帰属を決定するにあたっては、柳田のフィンランド支持は極めて大きな意味を持つものであった。後に柳田は、日本における文化人類学・民俗学の第一人者として知られるようになり、民族伝承の研究を行うため、数年間欧州にも暮らした。ラムステットに刺激を受けた柳田は、日本の方言に関心を抱くようになり、学生を動員して方言の資料収集のためのフィールド・ワークを行い、それに関して夥しい数の著作を著した。彼はまた、民俗学の専門誌『民俗』の編集に携わったが、これにはラムステットも1926 年に寄稿している。
ラムステットに啓発された学者は他に、アルタイ言語学の新村出(1876~1967)、アイヌ語研究の金田一京介(1882~1971)、朝鮮研究の小倉進平(1882~1944)等がいる。
ラムステットは講義の中で、フィンランド民族叙事詩カレワラにも触れ、未だにその日本語訳がないことを指摘した。その後外交任務を終え、既にフィンランドに帰国していたラムステットは、偶然彼の講義を聞いていた森本覚丹が、カレワラの日本語完訳版と専門家によるその書評を持って公使館を訪れたことを、後任のヴィンケルマン(Winckelman)公使から聞かされる。彼は森本のことを覚えてはいなかったが、1937年に刊行された日本語版へ快く序文を寄せた。
1926 年12月、ラムステットは東京国際クラブで農業についての講演を行った。講演の最後に彼は「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った。唯一人その場に残ったのは、花巻農学校職員の宮沢賢治(1896~1933)であった。彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った。宮沢は、自らの文学作品の中で好んで方言を使用したので、2人はすぐに方言という共通の話題を見出した。
柳田國男、宮沢賢治との出会いと交流
フィンランドの代理大使はフィンランド・エスペラント学会会長でもあることが新聞で報道されると、ラムステットの滞在先である築地精養軒に日本エスペラント学会の代表らが訪れた。ラムステットが到着してからわずか2日後のことであった。2月25日には本郷の燕楽軒で歓迎会が催された。ラムステットは熱心に日本エスペラント学会の月例会に出席し、フィンランドの紹介に努めた。日本のエスペランティストとの交流の上でもっとも重要であった人物、何盛三(1884~1948)は日本全国のエスペランティストにラムステットを紹介した。フィンランドを広く報らしむる上でエスペランティスト達は重要なネットワークであった。ラムステットは仙台、横浜、横須賀、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、福岡、長崎等で、エスペラント語で講演した。1922年1月、金沢では4日間にわたってフィンランドについて講演、地元県知事を含む千人あまりの聴衆が参加した。反対に静岡県知事は日本文化への脅威ととらえ、エスペラント語に反対した。また知事は県内でのエスペラント協会の活動を禁止した。こうした事情を知っていたが、ラムステットは静岡県で開かれる講演会への招待を受け入れた。講演会は警察の介入もなく、順調に進んだ。その後、当地のエスペラント協会は活動を再開できるようになった。こうしてフィンランド代理大使は知事の態度を軟化させることに一役買った。
さらにラムステットの影響を受けた柳田国男はエスペラント語に関心を持つようになった。また宮沢賢治は自作の詩をエスペラント語にするため、エスペラント語を学習しようと考えた。ラムステットのエスペラント語の講演会で今一人影響を受けた人物、川崎直一は後に言語学教授になった。
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