火曜日, 10月 21, 2014

ライプニツィアーナ (内井惣七『空間の謎・時間の謎』160頁より)

ライプニッツ:インデックスリンク:::::::::本頁


かくして、バーバーによれば、ニュートンとライプニッツの争いは次のように調停される。

  これにより、絶対運動と相対運動について論争したニュートンとライプニッツの立場の間で、意外な調停がもたらされた。どちらも正しかったのである! 要点は、われわれの宇宙のように多くの物体を含む宇宙においては、互いに他から事実上切り離された部分系が無数にありうるということである。[中略]各々の部分系は、それだけを考えると、ゼロでないエネルギーと角運動量をもちうる。しかし、宇宙が有限であれば、その部分系の個々のエネルギーと角運動量を加え合わせていくとゼロとなりうる。ニュートンの諸法則によって支配されている宇宙では、そうなることはありそうにない偶然であろう。しかし、宇宙がマッハ的法則に支配されているのであれば、そうなることは必然である。それはこの法則の直接の帰結である。さらに、マッハ的法則によれば、大きな宇宙においては、すべての十分に孤立した部分系は、まさにニュートンが予測したように振る舞うであろうという予測が出てくる。とくに、そのような部分系はゼロでないエネルギーと角運動量をもつことができ、それゆえ絶対空間と絶対時間においてニュートンの法則に従っているように見える。ところが、ニュートンにとっては不変の絶対的な枠組みに見えたものが、マッハ流の理論では宇宙全体とそれを支配する一つの法則からの結果にすぎないということを示せるのである。(Barbour 2000, 119)

内井168~9頁


以上の図を描いた大前提は、この惑星系が宇宙全体であるということである。これは多くの人が誤解しやすい点なので、念には念を入れて強調しておきたい。関係説では、この大前提があれば、惑星系全体の運動は、図46のようにプラトニアにおける直線で表現されて、これで話は終わりである。





関係説による古典力学の再構成で明らかになったように、宇宙全体の運動を決める法則がわかれば、距離の測定によって時間がわかる。最もわかりやすい例は、すでにガリレオのところで現れた慣性運動と慣性の法則である。慣性の法則を仮定してよければ、「時間の等しさ」は「距離の等しさ」に還元できる。同じことをもっとスケール大きくいえば、「究極の時計は宇宙全体の運動だ」ということになる。バーバーが極端な主張をする一つの理由は、「宇宙の運動は、プラトニアの測地線から決まり、プラトニアには時間軸がないのだから、結局理論的な時間は消去できる」ということになろうか。いずれにせよ、距離の同一性から時間の同一性が出るという洞察は銘記しておく必要がある。


プラトニア(ライプニツィアーナ 160頁)↓


            BC+CA=AB
    ________________________
    \           l          /
     \                    /  
      \                  /
       \                /
        \              /
 CA+AB=BC\/          \/AB+BC
=CA
          \          /
           \        /
            \      /   
             \    /
              \  /
               \/
プラトニアの切り口が正三角形の面は三角形の可能なすべての形(寸法は無視)を表せるスペースである。

ちなみに、プラトニアや形空間では、どの点も必ず違うものを表しており、同じものを表す二つの点は決して存在しない。この主張、どこかですでに見たはずである。関係説力学では、ライプニッツの不可識別者同一の原理が厳密に成り立っているのである。この事実に鑑み、わたしは「プラトニア」というバーバーの命名よりも「ライプニツィアーナ」という命名のほうが適切だと考える。プラトンは偉大な哲学者ではあるが、関係説力学には無関係である。

形空間における軌跡 160頁
              

    (AB)  
    |   
    |
    |____
   /  (CA)
 (BC)

ライプニッツとニュートンの争いは、現代でも決して単なる歴史のエピソードや他人事ではないのである。159頁


参考:

内井惣七『空間の謎・時間の謎』


    ________________________
    \                      /
     \                    /  
      \                  /
       \                /
        \              /
         \            /
          \          /
           \        /
            \      /   
             \    /
              \  /
               \/
              

…現代の「ストリング(ひも)理論」の発想は、ライプニッツが晩年にたどり着いた思想の再現にほかならない。いまから三〇〇年も前にこのような発想をしていたとは、まさに「ライプニッツおそるべし!」81頁

参考:
時間の終わり
ジュリアン・バーバー 邦訳なし

Amazon.co.jp: The End of Time: The Next Revolution in Our Understanding of the Universe: Julian B. Barbour: 洋書

http://www.amazon.co.jp/The-End-Time-Revolution-Understanding/dp/0753810204

7 Comments:

Blogger yoji said...


《空間と時間も(モナドの世界には物理的時空はない)、モナドの知覚の中ではじめて成立する概念である。このように、あるモナドと別のモナドが他方を「映す」(知覚する)とか、他方に「映される」という関係を基本に据えたのは、宇宙のすべてが互いに関係しあっていることを強調し、宇宙の変化を情報の流れから解明しようという野心的な試みのためだったことがわかるのである。また、電子や陽子など、「素粒子」と見なされた対象を、微少なひもの振動から生まれる現象だと見なす現代の「ストリング(ひも)理論」の発想は、ライプニッツが晩年にたどりついた思想の再現にほかならない。いまから三○○年も前にこのような発想をしていたとは、まさに「ライプニッツおそるべし!」。》(81頁)

http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20060304

9:50 午前  
Blogger yoji said...


5つ星のうち 5.0 「ライプニッツおそるべし」,
2014/9/16

レビュー対象商品: 空間の謎・時間の謎―宇宙の始まりに迫る物理学と哲学 (中公新書) (新書)
帯に採用された「ライプニッツおそるべし」という記述は、本書で2度現れる。
ニュートン(絶対説、古典力学)に敗北したかに思われたライプニッツ(関係説)が、ミンコフスキー、バーバーらの時空論をへて批判的に再検証、再評価される。
柄谷『帝国の構造』でもライプニッツが政治思想的に再評価されていたが、この流れは正しいだろう。
ただし、著者により敬遠されたカント哲学は今もなお重要だ。
なぜならバーバーによるニュートンとライプニッツの調停(168頁)はカントのアンチノミーの力学に対応するからだ。
(重要なのはカント哲学はライプニッツを捨象しない、出来ないということだ)

9:54 午前  
Blogger yoji said...

ライプニッツの認識論と無意識について
http://www.furugosho.com/precurseurs/leibniz/perception.htm
 デカルトは、「我思う」という内省的な思考のはたらきをもたない動物を人間から厳然と区別し、動物は機械だとしたが、ライプニッツは連続律を適用して、人間と他の生物のあり方をつなげていく(たとえば動物にも魂を認める)。佐々木能章氏によれば、ライプニッツは犬や猿だけでなく、メダカやミミズ、さらにはクラゲやバラやキノコにも「意識」が存在することを認めているという。
 「人間は必ずしもいつも自分がしていることを意識しているとは限らない。夢中になって何かにとり組んでいるようなときには、文字通り「我を忘れている」ほどである。眠り込んでいるとき、意識が朦朧となっているとき、完全に意識を失っているようなときもある。デカルトは、このようなときには自分は(広い意味での)思考活動をしていないので、その限りは自分が存在することを断言できないとまで言う(「省察」第二部)。いついかなる場合でも「私」というフィルターを通過させなければ確実性を認めることができない質であった。ライプニッツはその逆の発想をする。ある人に何らかの意図的な行為が認められるならば当然そこには意識が働いていると言える。しかし意図的な行為が観察されないからといってそこに意識が働いていないとは言えない。無自覚にとった行動は決して筋肉の反射運動だけによるものだとは限らない。自覚に上がってこない何らかの隠れた意図の仕業かもしれない。20世紀に無意識と呼ばれることになる潜在的な力が介在しているとも言える。「無意識」とは意識がないことではなく、自覚されない意識のことなのだ。ある人の意識が全くない状態にあるということは断言しがたいことである。このことは他人に対しても自分自身に対しても同じように言える。一般的に言って、ある個体にとって意識内容が存在していることは、当の個体がその意識内容を自覚しているかどうかとは別の問題だということである。自覚しているかいないかにかかわらず、どの個体も他者とのつながりがある。このようなつながりをライプニッツは「表象」と呼んだ。」(佐々木能章氏「ライプニッツ術ーーモナドは世界を編集する」、工作舎、2002年)
 ライプニッツ自身の言葉で、それは次のように簡潔に表現される。
 「「一」すなわち単純実体において、多を含み、かつ多を表現している推移的状態が、いわゆる表象に他ならない。」(ライプニッツ「モナドロジー」、邦訳「ライプニッツ著作集」第9巻、工作舎)
 ここで「表象」と訳されているのはperceptionという語であり、一般的には「知覚」と訳される。しかし、perceptionという概念を取りあげるとき、ライプニッツはいわゆる「知覚(知るはたらき)」を問題としておらず、外的事象は、あくまでも個(モナド)のなかに自動的に映し出されるにすぎない。したがって佐々木氏は、この語に対して「映し込み」という訳語をも提案しているのだが、ともかくこの作用は個の内部の「表象」のみを指しているのだ。そこに「意識」が介在する余地はない。
 同様のことを、井上龍介氏は外的実体の存在とからめながら、次のように指摘している。
 「ライプニッツは宣言する。モナドの他には、またモナドを超えては、実体は考えられず、他の一切はモナドによって表出された形象であり、「現れ」の領域に属する、と。たとえば、ここにあるこのコーヒーカップが今「私」の精神に現れているのは、精神の外部にあるなにか物理的実在が「私」の感官を刺激/触発した結果なのではなく、精神自身が、まさにこのようにコーヒーカップを表象/表出しているからこそ、それは今ここに現れているのである。だから、この現実的形象の内的構造は、そのまま、それがそこにおいて現象しているところの、精神の、表出の構造にほかならない。ここには、色彩、硬さ、芳香、熱などが存在しているが、それらは皆精神の内にのみある。それらは「明晰だが乱雑な」表象の様式であって、精神の恒常的活動である無数の「微細表象」(petites perceptions)の集合的効果である。」(井上龍介氏「ライプニッツ<試論>」、晃洋書房、1999年)
 こうした意味を与えられたperceptionに対し、ライプニッツは、今ひとつapperception(意識的表象)という概念をもち出す。
 「物質の集塊が非存在に近いのは、表象=現象が、「モナドの内的状態」あるいは、モナドの「移ろいゆく状態」にほかならないからである。物体は、根源的な意味においては、実体の生み出した「思想」(pensees)であり、霊魂の「変様」(modifications)である。だから、先に指摘されたように、物体のいわゆる第一

10:55 午後  
Blogger yoji said...

性質も第二性質も、モナドの表出に内在するもろもろの差異に還元されうるし、またそこから派生しもする。この種の表象は相互に区別して認知されうるので明晰であるが、そこに含まれている諸成素は識別不能であり、おそらく複雑できわめて微細な形状と運動との、無限に多数の表象/表出なのである。これらの表象はわれわれの認知能力の限界を凌駕しているかぎりにおいて、「乱雑な表象」と呼ばれる。つまり感覚は、われわれが無数の微細表象を或るまとまりとして混乱した仕方で意識することにより、生じるわけである。ここには雑多な、或る意味で無意識的な「表象/表出」と、それを貫きつつ明るみへともたらす「意識」(conscience)との区別がある。意識の光に照らされないかぎり、乱雑な表象は識閾を超えないのであるから、この膨大な規模の感覚は、明晰な意識活動(s'appercevoir)の意図せざる所産であることになる。このように表象作用は内的に差別化され、原則的に意識の圏域の外なる実体的活動としてのたんなる表象/表出と、この没意識的活動の自己照明である「統覚」(apperception)とが措定されている。」(井上龍介氏、前掲書)
 したがって佐々木氏のように、これを次のようにまとめることも可能になる。
 「「表象」は外的事物を表現する一般的なはたらきであるのに対し、「意識的表象」は、その意識の反省的認識だとされている。わざわざ「意識的」という断り書きを付け足すことで、単なる表象とは違う段階にあることが予想される。しかし、「反省的」といわれたからといって、「意識的表象」を自我に対する反省的意識と限定する必要はない。たしかにそれも含むが、もっと広く、表象の内容や作用そのものに自覚的であればよい。」(佐々木能章氏、前掲書)
 つまり、デカルトと違って、ライプニッツは外界を認識するはたらき(表象)を人間以外の生物にも認めたために、逆に人間の認識作用を動物とも共通する表象一般から区別する必要が生じてくる。別のいい方をすれば、無意識的(無自覚的)なものを意識から切り捨てるのではなく、無意識的であるのが意識の一般的あり方とすると、今度は(意識的な)意識とは何かを説明しなくてはならないわけだ。
 「人間の表象は反省的な段階にまで高まることがある。そうなっていないときは、ただの表象ということになる。意識的表象が表象の中でレベルが高いものだとすると、それ以外の大部分の表象はそれより低いレベルにあることになる。だが、低いレベルとはどういうことだろうか。多くを映していない状態のことだろうか。そうではない。表象は基本的には宇宙のすべてを映しているものである。レベルが低いのはその映し方に問題がある。いわば、宇宙を映す鏡が曇っている状態が低いレベルの表象なのである。意識的表象は、いわば磨きぬかれた鏡であって、対象を細部に至るまでくっきりと映しだす。曇った鏡も対象を映してはいるのだが、映像はぼんやりとしていて鮮明ではない。輪郭がぼやけ、ときには歪んでもいる。このぼやけ方がどんどんひどくなり何を映しているのかがわからなくなるほどまでに曇ってしまったような表象を、ライプニッツは「微小表象」と呼んでいる。」(佐々木能章氏、前掲書)
 より具体的に、微小表象(微細表象)とはどのようなものであろうか。
 「われわれの内には、われわれには区別ができないような微小な表象が無数にある。たとえば群衆の全体が発するざわめきのような轟々たる騒音は、一人一人の人間の小さなささやき声が集まったものであり、人はそれを一つ一つ聴き分けることはできないものの、感覚はしている。そうでなければ全体の音を感覚することなどできないだろう」(ライプニッツ「唯一の普遍的精神の説について」、邦訳「ライプニッツ著作集」第8巻、工作舎)
 「微小表象がもっと意味のある存在となるのは、(クラゲと人間の意識を比較したような場合ではなく;註・引用者)意識程度が高い段階にそのときの表象のいわば裏打ちとして働く場合である。別の言い方をするなら、多少なりとも自覚的に他や自分を表象している段階でも、その方向性を定めるような流れとして、微小表象が背後で働いている場合である。少し前に「無意識」という言葉を持ち出したが、微小表象という考え方は無意識という発想とかなりのところまで共通している。サブリミナル効果と言われているような現象とも通じるところがある。これを身体性もからめて理解するならば、暗黙知と言われるものともつながるだろう。」(佐々木能章氏、前掲書)
 続いて、佐々木氏はライプニッツから次の文章をひく。
「それゆえこれらの微小表象は、考えられているよりもずっと大きな効力をもつ。集合的全体では明晰だが、部分としては錯然としているあの何とも言えぬもの、好み、感覚的性質の諸形象を形成するのはこれら微小表象である。われわれを取り巻く物体のなす、無限を包み込んだ印象や、各存在が宇宙の他のすべてとの間にもつ繋がりを形成するのもこれら微小表象である。これら微小表象の結果として、現在は未来を孕みかつ過去を担っているとさえ言えるのだ。」(ライプニッツ「人間知性新論」、邦訳「ライプニッツ著作集」第4巻、工作舎)
 ライプニッツによれば、世界全体は微小表象というかたちで、各個(モナド)に表象されている。したがって、この微小表象は、世界知(一切知)と意識や行動のかかわりを説明するものでものでもある。  
「モナドの本性は表現的であることだから、何ものもそれに制限を加えて事物の一部分しか表現しないようにすることはできない…。ただし、この表現は宇宙全体の細部では混雑しているしかなく、判明なのは事物のごく小部分、すなわちそれぞれのモナドに対する関係からいって最も近いものとか最も大きいものにおいてでしかない。さもないとどのモナドも神になってしまう。モナドが制限をうけるのは、その対象についてではなく、対象を認識するさまざまの仕方においてである。どのモナドも混雑した仕方で無限へ向かい、全体へ向かっている。しかし、どれも制限をうけており、表象の判明さの度合いによって区別されている」(ライプニッツ「モナドロジー」、邦訳「ライプニッツ著作集」第9巻、工作舎)
 佐々木氏によれば、ここでは「モナドの区別が、その対象によってではなく、対象を認識する仕方によるという点が重要である。対象は全宇宙でみな共通だから、それによっては区別ができない。しかし認識の仕方はそれぞれ違っている。その違いをここでは「制限」と表現し、表現の判明さの度合によるとしている」(佐々木能章氏、前掲書)という。
 以上簡単にみてきたが、ライプニッツのなかで、認識の問題を[全体-個]の問題と切り離して考えることはできない。個が全体を認識するとするころから、意識されない認識の問題が生じてくる。そういう意味では、ライプニッツの微小表象は形而上学的な要請ともいえよう。

註1) apperceptionおよびs'appercevoirは、aperceptionおよびs'apercevoirのライプニッツ当時の綴り。s'appercevoirは、ジョン・ロック「人間知性論」の仏訳者ピエール・コストがperceiveの訳語として使い、ライプニッツがそれを名詞化したという。(井上龍介氏、前掲書)

註2) 「人間知性新論」「モナドロジー」など、ライプニッツの主要な哲学的著作が刊行されたのは、1765年以降であるが、この時期の思想界では、フランスを中心に感覚論、機械論的な論調が強くなっており、18世紀には、テクストに依拠したライプニッツ思想の正確な解明はほとんど行われなかった。
2003・7・14
 

「17世紀人物誌」~ライプニッツの項へ

参考:ドルバック「自然の体系」第12章

10:56 午後  
Blogger yoji said...

【宇宙】ビッグバンによって、時間が逆方向に流れる「鏡の宇宙」が、私たちの宇宙と同時に誕生した ©2ch.net
1 :野良ハムスター ★@転載は禁止 ©2ch.net:2014/12/12(金) 23:01:02.39 ID:???0
英国の物理学者ジュリアン・バーバー博士らは、宇宙と時間に関する新しい理論を提唱している。
ビッグバンによって私たちの宇宙が始まったとき、同時に「鏡の宇宙(ミラー・ユニバース)」が生まれ、
そこでは私たちの宇宙とは逆方向に時間が流れているという。

バーバー博士「すべての物理法則は、基本的には、時間の向きがどちらであっても
同じように成り立つように見えます。しかし、私たちの宇宙では時間は一方向にしか流れません」

「鏡の宇宙」でも、私たちの宇宙と同様の物理法則が成り立つため、惑星、恒星、銀河といった
秩序を持った構造が形成され、知的生命体が誕生する可能性がある。
私たちが「鏡の宇宙」を観測するとき、「鏡の宇宙」では時間が逆方向に向かって流れていくように見える。
「鏡の宇宙」にいる知的生命体が私たちの宇宙を観測した場合にも、彼らからは時間が逆方向に流れて見える。

19世紀末には、エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)に基づき、
宇宙はやがて完全な無秩序状態である「熱的死」を迎えることになると予想された。
しかし、重力を考慮すれば、この理論は正しくないように見える。
時間とは「秩序が増大していく方向」であると定義するならば、時間の流れは二つあり、
それぞれビッグバンの混沌状態から互いに反対の方向へと伸びていくという。

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/12/10/23F00EF600000578-0-image-a-6_1418207299615.jpg
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2868238/Did-Big-Bang-create-mirror-universe-time-moves-BACKWARDS-New-theory-explain-past-future.html

8:04 午前  
Blogger yoji said...

ライプニッツのピラミッド : 関本洋司のブログ
http://yojiseki.exblog.jp/7724741/
ライプニッツのピラミッド
編集 | 削除
「ライプニッツは、欺かない神についてのデカルトの推論をかなり警戒し、これに不共可能性の水準で新しい根拠を与えている。神は戯れるが、戯れの規則を与えるのだ(略)。この規則とは可能世界は神が選んだ世界と不共可能的ならば、存在にたどりつくことがないということだ。ライプニッツによれば*『アストレー』のような小説だけが、われわれにこのような不共可能的**なものの理念を与えるのである。」(ドゥルーズ『襞 ライプニッツとバロック』邦訳p110)

*(Lettre a Bourguet,decembre 1714)
**または「共不可能的(incompossible)」
≪compossible-incompossible≫
『差異と反復』:共可能-非共可能
『意味の論理学』(宇波):共通可能-共通不可能 および両立可能-両立不可能
小沢訳:共存可能-非共存可能

オノレ・デュルフェ作の『アストレ(ー)』は17世紀パリの貴婦人に流行ったロマン小説で、日本では無名だが、今度エリック・ロメールによって(小説の一部が)映画化され2009年に公開される。

ストーリーは映画の公式サイトに詳しい。
http://www.alcine-terran.com/wagaai/trailer.html(公式サイト予告編)

可能世界なるものがデカルトのような推論によって本質に回収されるのを嫌ったライプニッツがラブストーリーを念頭においていたというのは面白い。

僕だったら黒澤の『乱』のストーリーを不共可能性を扱った代表作にあげたい。

最近、ライプニッツの論理学信奉と、黒澤とタルコフスキーのような芸術家による論理学不信奉の違いはあっても、『弁神論』のラストで触れられた底辺が無限のピラミッドと『乱』のラストで城跡に逆説的に浮かび上がるピラミッドのような美しさは同じものだったのではないかと考えている。


追記:
以下のようなスタッフの証言が実は不共可能性をうまく説明しているかもしれない。
http://www.unifrance.jp/festival/report_view.php?number=657&langue=JAPANESE
「一番好きなのは、お城の迷宮のような庭園でニンフの女ボスのガラテと僕が口論をするシーンなんだ。このロケ地は最後の最後に見つけた場所なんだが、撮影段階になってロメール監督は素晴らしいアイデアを思い付いたんだ。城を出て行くと言い張る僕を引き止めようとしたガラテは、迷路の壁にぶち当たってしまう。このシーンを撮ることによって監督は、状況が硬直状態に陥り、壁にぶち当たったことと現実の動きをドッキングさせて見せているんだ。」

http://movie.felista.jp/e319.html
「私は原作を完全に自分のものにし、なんの気がねもなくのびのびと扱うことができた。ここではっきりとさせておくが、私の脚本はズカが残した脚本とはかなり異なるものである。今回、私は彼の脚本を一切活用しなかった。あとで読み比べてみて、2作に共通のセリフがたったひとつしかないことを確認してニヤリとしたほどである。とは言え、この作品を彼に捧げることは私には重要だった。」


メモ:
ちなみに、ライプニッツの主要論理原則を、ドゥルーズ『襞 』(邦訳p99)を参照して、カントのカテゴリー論と照合すると以下になる。


量         質 
類似の原理      同一律、矛盾律
結合法則       アルファベット 

関係        様相
十分な理由の    識別不可能原理
原理        モナド1/∞ 
微分積分dy/dx  


追記の追記:
フーリエは『アストレ』からセラドニーCeladonieという概念を抽出し展開している。この造語は精神的ないし感傷的な恋愛情念を意味するらしい。その精神的愛はフーリエの唱える共同体では重要度を増すという。

ところで、フーリエはこの精神的愛を概念化し、官能的愛の次に続くものとして系列的に展開しているが、冒頭で触れた20世紀をハイデガーとともに代表する哲学者のドゥルーズはこうしたフーリエやプルードンの系列的思考法にどれくらい意識的だったのだろうか?

ドゥルーズはマルクスに関しては意識的だったが、いわゆる空想社会主義にはあまり関心がなかったのではないか?
それは当時のフランスの思想界が、マルクスとフロイトにあまりにも支配されていたためでもあるだろう。

フーリエ、プルードン、そしてドゥルーズが採用したアンチノミーが揚棄されずに二項が進行する系列的思考は無意識的なフランス的伝統ということかもしれない。


補記(2009.4.12):
その後映画を見た感想としては、この映画においてロメールはモラルというよりも「私の許可なく二度と姿をみせないで!」という主人公セラドンとアストレーとの相互契約を守りつつ、映画としてはエモーション=肉感的欲望を手放さないという離れ業に挑み、その課題に見事に成功しているのではないか?というものだ。

一見些末なエピソードのように見える登場人物による神々の説明、肉体的愛に対する精神的愛の優位などなど、映画のところどころでロメール先生による間接的授業(とはいえカメラは常に登場人物と水平に位置され、決して権威的ではない)が展開されているが、これらは映画のなかで内容としてのモラルの描写として成功している。

おそらく賛否が分かれるであろう部分は、リアリティーを無視した時代描写および自然描写であり、何よりも女装したセラドンとの和解であるラブシーンを描いたラストだ。場内の失笑とともに観客である自分の胸にわき上がったのは、先述したライプニッツ的なモラル=論理を守りつつジャン・ルノワール的欲望を同時に肯定することに成功したロメールの巧みさへの賛美だ。

蓮実重彦はそこにハワード・ホークス的映画装置の作動、つまり映画の自同律を見出しているようだ。たしかにその装置の作動は形式としてのモラル(この場合は映画の自同律)の展開でもあるが、それ以上にそうした形式を主演俳優同士の官能の描写と背理させなかったロメールの手腕が称揚されるべきであり、そこに彼のデビュー作『獅子座』からの一貫性を見るべきだろう。

4:33 午前  
Blogger yoji said...

時間の非実在性 (講談社学術文庫) | ジョン・エリス・マクタガート, 永井均 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon2017
https://www.amazon.co.jp/dp/B06WVBJ9MC/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
マクタガートの「時間の非実在性」は、A系列(過去、現在、未来)・B系列(より前、より後)のふたつの概念を導入し、時間が実在しないことを証明した論文として名高い。これまで日本には全訳がなかったが、ついに、本書が本邦初訳となって登場した。本書は、それだけではない。訳者・永井均氏が、段落ごとに詳細な注解と論評を加えている。訳者独自の付論も掲載。全訳とともに、こちらも必読。まさに「時間の哲学」の決定版だ!

9:46 午後  

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