http://www.freeassociations.org/
IDEAS that is | |
DESIGNATIONS or TERMS or CONCEPTS | STATEMENTS or PROPOSITIONS or THEORIES |
may be formulated in | |
WORDS | ASSERTIONS |
which may be | |
MEANINGFUL | TRUE |
and their | |
MEANING | TRUTH |
May be reduced, by way of | |
DEFINITIONS | DERIVATIONS |
to that of | |
UNDEFINED CONCEPTS | PRIMITIVE PROPOSITIONS |
The attempt to establish (rather than reduce) by these means their | |
MEANING | TRUTH |
leads to an infinite regress |
//////////
スピノザについてよく言われる平行論なる命名はドゥルーズによればライプニッツが初めて行ったもので、スピノザ自身の用語ではない*。
さらにライプニッツの並行論は悪口ではない。
ライプニッツも自身を並行論者と考えていたからだ。
ただスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(8:132)。
ライプニッツはこんな図を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
「魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。」
「魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。」
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)
http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~mt/ningen/docs/F.%20IMAI.pdf
『...事物相互間の感歎すべきしかも間違いのない一致によって、この身体自身の法
則は、意志が丁度そのことへ向かう瞬間に、同時にはたらく。...』私にはこれは、
「私の意志が私の手の運動の機会原因で、神がその事象的原因である」と称する人々
の言っているのと同じことをただ違う言葉で言っているように思われる。あの人々
も「私が手を挙げようと思うごとに、神は新しい意志をもち、その意志によって神
は丁度その時に手を挙げさせる」とは言っていない(107 G II 84, C.A. 15(『形而上学叙説』342–343 頁) )。
機会原因説を主張する人たちは、誰かが手を上げようとする度ごとに神がそのつど新た
に決心しなおして、人間に手を上げるよう命じていると主張しているわけではない。むし
ろ、彼らは、神は宇宙に必要だと予見したすべてのことを一貫した永遠の意志に基づいて
行うといっているとアルノーは述べる(『形而上学叙説』342–343 頁)。
ライプニッツは1687年4月の書簡で、アルノーが機会原因説と予定調和説を同一視する
理由を、物体は延長だとするデカルトの考え方のみをアルノーが前提としており、物体が
自身の力で運動することを否定しているからだと指摘する(『ライプニッツ著作集 第八卷』320 頁)。
*(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)
属性と様態
この実体を中心にして、世界の一切を因果関係における必然性として演繹する。
(完全なる論理的・数学的徹底による説明)
実体は神であり、自然であり、したがって一切であり、すべては実体の中に包摂される。
それゆえ、実体は無限の属性を含む。
しかし、我々に認識されるのは、思惟と延長の二つである。
実体の持つ無限性そのものを知ることができず、ただ思惟と延長の二つを通してしか知ることができない。
http://tetsugaku.me/?page_id=69
スピノザⅠ
スピノザ
スピノザは、デカルトを追って、哲学を、数学を範として、従来の乱雑性から脱出させようとした哲学者の一人である。
また彼は真の論理的徹底を実現した哲学者である。
→幾何学的順序に従って証明した倫理学
学体系は実体、属性、様態の三つの根本概念から成り立っている。
その他の問題はすべて、この三つから数学的必然をもって演繹される。
ex)「エチカ」
実体は唯一
まずデカルトの実体という概念から出発する。
実体とは、その存在によって他の何ものをも必要としない。
その意味で、実体は唯一でなければならない。したがって、実体は神である。
「実体即神」ということは定義から必然的に導かれる
自己に原因を有し、原因そのもの、つまり自因と及ばれるものを含んでいるのが実体である
そして、自因とは、その本質が存在を含めるもの、即ち、本性上、存在せりとの外は考えることが出来ないものである。
というわけで、神は「存在す」ということの外は考えることができないもの、つまり自因であり、実体である。
自己によって存在し、自己によってのみ理解される実態は他のなんらの制約をも受けない
実体には時間や空間は通用しなく、むしろ、その意味で実体は永恒無限であるといえる。
だから、「神即自然」であって、神の本質そのものから、自然が出てくる。
また、スピノザは神を能産的自然と名づけ、所産的自然と呼んだ。
汎神論…神が自然に超越せず存在して内在し、自然の法則を祖として神の法則は無いという考え方
(→スピノザの神には人格がなかった)
次に神と自然との関係において、スピノザは神が自然に内在し、
自然の法則を外ににして神の法則はないという凡神論の立場を取った。
神の本質そのものから自然は出てくる、これを神即自然といい、神を能産的自然であり、自然を所産的自然と呼んだ。
属性と様態
この実体を中心にして、世界の一切を因果関係における必然性として演繹する。
(完全なる論理的・数学的徹底による説明)
実体は神であり、自然であり、したがって一切であり、すべては実体の中に包摂される。
それゆえ、実体は無限の属性を含む。
しかし、我々に認識されるのは、思惟と延長の二つである。
実体の持つ無限性そのものを知ることができず、ただ思惟と延長の二つを通してしか知ることができない。
デカルトとの比較
デカルト・・・精神と物体とは二義的ではあったが実体であった。 そして、思惟と延長がこの実体のそれぞれの属性である。
スピノザ・・・二つの属性をただひとつの実体たる神に即した
個物の説明
個物は実体の様態であるという 属性が実体の本質であるならば、その出没転変する変化の姿である。
しかし、実体と様態が離れているわけではなく、相即不離である。
実体は単独で自存するが、様態は実体なくしてはありえない。
様態は偶然的であるといえる。
精神と物体とは様態である。
精神と物体の関係
精神と物体とは完全に異なる属性の様態であるから、両者はお互いに因と果の如き関係を持つことが出来ない。
しかし、思惟と延長とは、元は、同一実体の属性である。
したがって両者は決して二個の延長ではなく、同一実態の二方面である。
単に見方の相違であるといえる。
つまり、延長の方面から見ると、物体として現われ、思惟の方面から見ると精神として現われるのである。
定義六
六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで、「絶対に無限な」と言う。なぜなら、単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することができる〈(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)〉が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである。 38
思惟と延長は無限の属性の中の二つにすぎない
ただエチカでは1定義6に出てくるとはいえわかりにくい
書簡?など他の著作を読む必要がある
無限の属性が措定されることで逆に無限の論理的遡行、悪無限は回避される
著書[編集]
1660 - 『知性改善論』De Verhandeling over de verbetering van het verstand
1667 - 『小論』De Korte Verhandeling
1663 - 『デカルトの哲学原理』Principia(直訳「原理」)
1663 - 『形而上学的思想』Cogitata metaphysica
1670 - 『神学・政治論』Theologisch-politiek traktaat
1677 - 『国家論』(または翻訳によって『政治論』)Politiek traktaat
1677 - 『エチカ』(『倫理学』)Ethica(voluit: Ethica ordine geometrico demonstrata)
1677 - 『スピノザ往復書簡集』Epistolae
1677 - 『ヘブライ語文法綱要』Compendium Grammaticae Linguae Hebraeae
1677 - 『偶然の計算』Reeckening van kanssen
デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫) スピノザ、
知性改善論 (1968年) (岩波文庫) スピノザ、
スピノザ往復書簡集 (1958年) (岩波文庫)
デカルトの哲学原理 (1959年) (岩波文庫) スピノザ、
国家論 (1976年) (岩波文庫) スピノザ、
神学・政治論 上巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫) スピノザ、Benedictus de Spinoza、
神学・政治論 下巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫) スピノザ、Benedictus de Spinoza、
エチカ〈上〉―倫理学 (1951年) (岩波文庫) スピノザ、
エチカ〈下〉―倫理学 (1951年) (岩波文
神・人間及び人間の幸福に関する短論文 (岩波文庫) スピノザ、
デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫) スピノザ、
知性改善論 (1968年) (岩波文庫) スピノザ、
スピノザ往復書簡集 (1958年) (岩波文庫)
デカルトの哲学原理 (1959年) (岩波文庫) スピノザ、
国家論 (1976年) (岩波文庫) スピノザ、
神学・政治論 上巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫) スピノザ、Benedictus de Spinoza、
神学・政治論 下巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫) スピノザ、Benedictus de Spinoza、
エチカ〈上〉―倫理学 (1951年) (岩波文庫) スピノザ、
エチカ〈下〉―倫理学 (1951年)
マルチチュード、様態の逆襲
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ネグリのスピノザ論『野生の異例性』(水声社から刊行予定)におけるスピノザ擁護の根拠となる箇所は以下だ。
「これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。」(『エチカ』2:13備考)
ちなみにこの箇所は以下の第5部定理1と関連している。
「思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して、身体の変状あるいは物の表象像は身体ので秩序づけられ・連結される。」
ここでスピノザは唯一の実体優先の公理主義的な傾向から、様態の再評価に移行したとネグリは解釈するのである。これを「様態の逆襲」と命名することができるだろう。
だが、これはスピノザの公理主義を評価仕切れていないことから来るものである。
下村寅太郎も、スピノザの無限に関する考え方に数学史的な根拠があると考えたし、柄谷行人もスピノザの観念による概念の批判は公理主義を必然的にすると考えている。
スピノザの考える観念とは、公理系の中で無矛盾な概念のことであり、さらに創造の軌跡を再確認(=起成原因,causa efficiens、起成因、動力因、作用因とも訳される)を可能にするものである。
例えば三角形の観念は、三角形の作図を可能にするものでなければならないという(『探究2』文庫版p166、スピノザ『書簡』60、『知性改善論』72,77,95節、『エチカ』1:25参照)。
ネグリのスピノザ論(「野生の異例性」とは17世紀のブルジョア的言説に対抗するスピノザの「様態」としての「逆襲」のことだ)はドゥルーズのそれを引き継いだ精緻なものだが、マルチチュードの根拠としては曖昧なものである(マルチチュードの用例はエチカ5:20備考内4にある)。
それはマルチチュードそのものが曖昧だということだ。
エチカでは冒頭では、同じ人間が20人集まるということはそれを束ねる外部の概念が必要だと書かれている(1:8備考2)。
これは、マルチチュードにも外部にそれを束ねる権力あるいは官僚制度が必要になるということではないだろうか?
ライプニッツのモナドのように一つ一つが違うなら自主的な管理も可能なのだろうが、ネグリのマルチチュードはマルクスの共産主義宣言を受けいだものでその多様性を可能にするものではない。
ネグリの解釈にも関わらず、思惟と延長の二元性は様相によって一挙に逆転し様相に一元化するものではない。その多様性を考えるならばスピノザの公理である思惟と延長の並行性は様々な組み合わせ(ドゥルーズなら概念の発明と情動の開放を結びつけることと言うだろう)を可能にするがゆえに、むしろ個々の様相の多様性を根拠づけるのに必要な公理なのだ。
その意味では、(人間に認識できるふたつの属性である)思惟と延長の並行を維持しつつも、同一図形内部における線分の交点のあり方が無限にあると言うスピノザの無限論(無際限ではない)は十分示唆的である。
だから、マルチチュードを可能にするものとして多様性を可能にするスピノザの公理の再評価が必要になるし、その中でもスピノザの無限の認識は全体のなかに解消される微分的なライプニッツのそれ以上にその鍵となると考えられる。
…ネグリの否定する公理の中にこそ、マルチチュード生成の可能性があるということだ。
エチカ
1定義六
六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで、「絶対に無限な」と言う。なぜなら、単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することができる〈(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)〉が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである。 岩波文庫上p.38
思惟と延長は無限の属性の中の二つにすぎない
無限の属性が措定されることで逆に無限の論理的遡行、悪無限は回避される
ただエチカでは1定義6に出てくるとはいえわかりにくい
書簡↓など他の著作を読む必要がある
「書簡二 スピノザからオルデンブルク」より。
私は神を、各々が自己の類において無限で最高完全な無限数の属性から成る実有であると定義します。この際注意していただきたいのは、私が属性ということを、それ自身において考えられるいっさいのものと解していること、従ってそうした物の概念は他の物の概念を含まないということです。例えば、延長はそれ自身に依ってまたそれ自身において考えられますが、運動はそうではありません。運動は他の物の中において考えられ、その概念は延長を含むからです。尚、神についての上述の定義が真であることは、私が神を、絶対に最高完全で無限な実有と解することが明らかであります。そしてこうした実有が存在することは、その定義から容易に証明されます。(p16)
http://n-shikata.hatenablog.com/entry/20110119/p6
批判編集
カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、かりになんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した[30]。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している[31]。
^ 『果てしなき探求――知的自伝』岩波現代文庫, 2005年、上巻、26頁
^ 同書
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/バールーフ・デ・スピノザ
観 念
つまり
指示項または名辞 言明または命題
または概念 または理論
は
言 葉 主 張
において定式化されえ、それらは
有 意 味 真
でありえ、それらの
意 味 真 理 性
は
定 義 導 出
によって
無定義概念 原 始 命 題
のそれに還元されうる
_________________________________
このような手段によって、それらの
意 味 真 理
を(還元ではなく)確立しようとする
企ては、無限後退におちいる
!
yoji さんは書きました...
観 念
つまり
指示項または名辞 言明または命題
または概念 または理論
は
言 葉 主 張
において定式化されえ、それらは
有 意 味 真
でありえ、それらの
意 味 真 理 性
は
定 義 導 出
によって
無定義概念 原 始 命 題
のそれに還元されうる
_________________________________
このような手段によって、それらの
意 味 真 理
を(還元ではなく)確立しようとする
企ては、無限後退におちいる
!
客観的知識―進化論的アプローチ 単行本 – 2004/10/1
カール・R. ポパー (著), Karl Raimund Popper (原著), & 1 その他
16 人中、13人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
寛容への第一歩
投稿者 Char_Liberte 投稿日 2008/9/12
1・2章で帰納と科学についての論考が見られる。読んで良かったと久々に思った。
帰納的推論は論理的に正当化づけることはできない。今日まで太陽がずっと東から昇って西に沈んだとしても、明日はそうだとどうして言えるのか。ヒュームは自然の斉一性を導入したけど、ずっと帰納という方法については懐疑的だった。でも人間は帰納から得た知識を使って、生活を営んでいる。合理化できない推論から知識を得ていることが不満だったヒュームは、ついには人間の知識は不合理から来ていると思うようになってしまった。
でも、ポパーはそれを違うという。彼は世界を三つに分ける。一つは物質からなる世界、一つは人間の体験からなる世界、最後に論理的な計算がものをいう世界。「客観的知識」は三番目の世界にあり、その真理の正当性は二番目の世界で問われる人間の心理状態とはなんら関係がないのだ。この二つを混同してしまったことに間違いがあるとしている。
といって、人間の理性が自然に法則を押し付けたというカントの見解にもいちゃもんをつける。三番目の客観的な世界はそれ自体が法則をもっている自律的なものであり、人間はそれを「発見」しようとして常に仮説を作るのだ。一回こっきりってわけではなく、何度も何度も。
帰納の問題、科学と疑似科学の境界設定の問題、批判的合理主義。これらの彼の業績は密接に関連していることがわかる。
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6 人中、3人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
凡庸な内容を無類の博学で語る
投稿者 古本屋A 投稿日 2013/12/8
どうして凡庸かというと、「誤りから学ぶ」とか「理論とはすべて仮説だ」という著者なりの結論的な標語の詰らなさ〜それは、欧米のがちがちの理論派なら、虚を衝かれて、はっとなった時代もあっただろうが、元もと柔構造的な理解力を基盤にしている日本人からみると、むしろ常識に近い。というだけでなく、哲学者とは思えない、幼稚で無反省な発想が厭になる。たとえば、世界1は物理的物質的世界、世界2は人間の心の世界、主観の世界、世界3は客観的世界・理論の世界、とやっているが、こういう設定をやっているとき、当の本人は、自分の認識的立場を棚上げして、世界1とか世界2とか言っている。ヘーゲル、マルクス、だけでなく、多くの20世紀の哲学者、廣松渉に至るまで、世界とは、物そのものとかそんなのではなく、意味や判断が実体・実在とともなった世界であって、素のままの物質とかそんなのはないことを的確に指摘している。だから、敢えてポパー的な言い方をすると、世界3のなかでしか、ありようがなく、三世界論自体が、大変幼稚な発想に思える。コリングウッドについては、自分と多くを似ており、特に「状況」を問題視した点を評価しているが、しかしコリングウッドが「心理学的な」「追体験」に傾斜したことは間違いだと批判している。だが、ポパーのいう、それとは異なる「状況分析」とは何だろうか?全く積極的な言明はない。しかも、コリングウッドは単に「追体験」を主張したのではなく、資料や遺跡による「証拠」の問題を取りあげており、その証拠から、事実として他に判断しようのない明証的な状況を明らかにすることを説いており、「歴史」とは、人間の行為(思考を含む)の織りなす世界であることを考えると、当事者の思考を「追体験」するとともに、当事者のその「思考」と当事者が「事実と見たであろう事実」との関係を考察し、さらにそれを解釈する自身の思考をも検討することを論じている。これがコリングウッドの歴史哲学である。この方法論の妥当性は、後世、フーコーの「知の考古学」に抵触する弱点はあるが、ポパーがここで論じている理解は皮相で、嘗てヘーゲルやプラトンを論じた粗雑きわまる皮相な誤解と変わらない。結局ポパーに至る科学哲学系の哲学者とは、当時の現代科学の知識を利用して、過去の哲学をぶん殴ることで、優越感に浸るが、しかし、科学には何の貢献も出来ない「遅れてきた」人たちに過ぎず、かといって上記のとおり、過去の哲学的遺産の理解も下らない水準である。本書はそういう或る時期流行った哲学の考え方を比較的分かりやすく論じた論文集であり、それは学説史的に、一読に値すると思う。
右辺に内容
世界2,3がありポパーは3を信奉する
しかし左辺右辺を統合する全体論的なものをポパーは世界3としているのか?
実は曖昧である
ボルツァーノは右辺と左辺の中間を命題自体とした
(三木清全集2)
ポパーは臨機応変またはいい加減な立場を取る
プラトンを仮想敵にすることでしか立場は得られない
政治的なのだ
道
┏━┻━┓
絶対の道 相対の道/政治(*)
┏━━┳┻━┓ ┏┻━┳━━┓
範囲 体 用 人の道 不道 非道
: *
: ┏━┻━┓
天下を得る方 天下を得たる後/修身(**)
: ┏━┻━┓
: 積極的 消極的
: ┏━┻━┓ ┏┻┳━┳━┓
: 方針 教育 法 兵 刑 ┃
: ┃ ┏━┻━┓ ┃
:.柔弱等 無欲 無智 ┃
: ** **
: ┃ ┏━━┳┻━┓
:........嬰児 学問 行為 多言
< 道 >
┏━┻━┓
絶対の道 相対の道
┏━━┳┻━┓ ┏┻━┳━━┓
範囲 体 用 人の道 不道 非道
: ┃
: <政 治>
: ┏━┻━┓
天下を得る方 天下を得たる後
: ┏━┻━┓
: 積極的 消極的
: ┏━┻━┓ ┏┻┳━┳━┓
: 方針 教育 法 兵 刑 ┃
: ┃ ┏━┻━┓ ┃
:.柔弱等 無欲 無智 ┃
: ┃ ┃
: <修 身> <修 身>
: ┃ ┏━━┳┻━┓
:........嬰児 学問 行為 多言
< 道 >
┏━┻━┓
絶対の道 相対の道
┏━━┳┻━┓ ┏┻━┳━━┓
範囲 体 用 人の道 不道 非道
: ┃
: <政 治>
: ┏━┻━┓
天下を得る方 天下を得たる後
: ┏━┻━┓
: 積極的 消極的
: ┏━┻━┓ ┏┻┳━┳━┓
: 方針 教育 法 兵 刑 ┃
: ┃ ┏━┻━┓ ┃
:.柔弱等 無欲 無智 ┃
: ┃ ┃
: < 修 身 >
: ┃ ┏━━┳┻━┓
:........嬰児 学問 行為 多言
< 道 >
┏━┻━┓
絶対の道 相対の道
┏━━┳┻━┓ ┏┻━┳━━┓
用 体 範囲 人の道 不道 非道
: ┃
: <政 治>
: ┏━┻━┓
:..天下を得る方 天下を得たる後
: ┏━┻━┓
: 積極的 消極的
: ┏━┻━┓ ┏┻┳━┳━┓
: 方針 教育 法 兵 刑 ┃
: ┃ ┏━┻━┓ ┃
:.......柔弱等 無欲 無智 ┃
: ┃ ┃
: < 修 身 >
: ┃ ┏━━┳┻━┓
:..............嬰児 学問 行為 多言
< 道 >1
┏━┻━━━┓
絶対の道 相対の道
┏━━┳┻━┓ ┏┻━━┳━━━┓
用 体 範囲 人の道 不道 非道
42 41 25?,45? 48,77,81 30,55 53
57 62,25,4
: ┃
: <政 治>
: ┏━┻━┓
:..天下を得る方 天下を得たる後
67,32 60
: ┏━┻━┓
: 積極的 消極的
: ┏━┻━┓ ┏┻┳━┳━┓
: 方針 教育 法 兵 刑 ┃
75 74 31 57
: ┃ ┏━┻━┓ ┃
:.......柔弱等 無欲 無智 ┃
36,66 12 3,57
: ┃ ┃
: < 修 身 >
: ┃ ┏━━┳┻━┓
:..............嬰児 学問 行為 多言
28 30,48 5 5,47
道 ┳絶対の道
┃ ┣(一)範 囲 ┳無限 25?,45?
┃ ┃ ┣無始
┃ ┃ ┗無終 62,25,4
┃ ┣(二)体(無為)┳無形 41
┃ ┃ ┣無声 41(希声) ,25(寂兮寥兮)
┃ ┃ ┗無臭 4,25,14,35,21
┃ ┗(三)用(有為)┳生万物 42
┃ ┣無意識にして法あり 57?
┃ ┗柔にして屈する能はず 34,51,40,42,79,73,37
┗相対の道
┣ 人之道(損不足奉有余) 48,77,81
┣ 不 道(壮者必老) 30,55
┗ 非 道(盗夸[とうか]) 53
修身┳(ア)無為 <消極的> 2(無爲),3,10,38,43,48,57,63,64
┃ ┣(一)学問を廃す┳(甲)講修学理するを廃す 20
┃ ┃ ┗(乙)致知格物の観察を廃す 48
┃ ┃
┃ ┣(二)行為を廃す┳(甲)道徳上
┃ ┃ ┃ ┣仁 5,(18),19
┃ ┃ ┃ ┣義 (18),19
┃ ┃ ┃ ┣礼 (38)
┃ ┃ ┃ ┗智 5,18,19,38
┃ ┃ ┣(乙)美術上…音楽等 12
┃ ┃ ┗(丙)肉体の快楽…衣食の賛沢等 20
┃ ┃
┃ ┃ (たげんなればしばしばきゅうす)
┃ ┗5,47(三)多言を廃す(多 言 数 窮 5
┃ (せいじんはふげんのおしえをおこなう)
┃ 又云聖人行不言之教) 47
┃
┃ (えいじにふっきす)
┗(イ)復帰於嬰児 <積極的?> 28
┣(一)足ることを知れ 46
┣(二)柔を守り物と争ふなかれ 76,78,66,68
┗(三)静に安んじて下に居れ 61,16,26
政治┳天下を得る方
┃ ┣(一)不敢為天下先〔敢えて天下の先と為らず〕 67
┃ ┗(二)能守道〔能く道を守る〕 32
┃
┗天下を得たる後…施悶々之政〔悶々の政を施す〕 60
┣(一)消 極 的┳徐刑罰[刑罰を除く] 74
┃ ┣撒甲兵[甲兵を撒す] 57,31
┃ ┗廃法令忌諱[法令忌諱を廃す] 57,(65)
┃
┗(二)積 極 的┳教 育┳無 智┳不尚賢[賢を不尚(たっと)ばず] 3
┃ ┃ ┣毀利器[毀利器毀(こぼ)つ] (57)
┃ ┃ ┗已技巧[技巧を已(や)む] (57)
┃ ┃
┃ ┗無 欲┳不貴難得之財〔得難きの財を貴ばず〕 3
┃ ┗去耳目之楽〔耳目の楽を去る〕 (12)
┃
┗方 針┳守倹軽負〔賦〕収斂〔倹を守り賦斂(ふれん)を軽くす〕
┣善下民〔善く民に下る〕 66 75,67,(57吝嗇)
┣柔弱自居〔柔弱にして自ら居る〕 36(柔弱),76
┗因物性禦之〔物の性に因(よ)り之を禦す〕 51?(万物),64?
第五十七章
以正治國。以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然哉。以此。 天下多忌諱、而民彌貧。民多利器、國家滋昏。人多智慧、邪事滋起。法令滋彰、盗賊多有。 故聖人云、我無爲而民自化、我好靜而民自正、我無事而民自富、我無欲而民自樸。
正を以って国を治め、奇を以って兵を用い、無事を以って天下を取る。吾れ何を以って其の然るを知るや、此れを以ってなり。 夫れ天下に忌諱(きき)多くして、民彌々(いよいよ)貧しく、民に利器多くして、国家滋々(ますます)昏(み)だれ、民に智慧多くして邪事滋々(ますます)起こり、法令滋々(ますます)彰(あきら)かにして、盗賊多く有り。 故に聖人は云う。我れ無為にして民自ら化し、我れ静を好みて民自ら正しく、我れ無事にして民自ら富み、我れ無欲にして民自ら樸なりと。
静けさによって国を指導せよ。 めずらしい作戦で戦争を行え。 何もしないで天下を勝ち取れ。 どうしてそれがわかるかといえば、 拘束と制限が多くなればなるほど、人々はますます貧しくなる。 人々が武器を多くもてばもつほど、国はますます混乱する。 こざかしいぺてん師が多くなればなるほど、奇妙なものはますます生じる。 法令と命令の押しつけが厳しくなればなるほど、盗賊と悪漢はますます多くなる。 だから、賢人はいう。 「私は行動しない。 そうすると、人々はおのずから教化される。 静寂にしていると、人々はおのずから落ち着いてくる。 何も干渉しなければ、人々はおのずから富み栄える。 私が欲望をなくしておれば、人々はおのずから本来の簡潔さに戻る。」
57. Conquer with Inaction
Do not control the people with laws, Nor violence nor espionage, But conquer them with inaction.
For:
The more morals and taboos there are, The more cruelty afflicts people; The more guns and knives there are, The more factions divide people; The more arts and skills there are, The more change obsoletes people; The more laws and taxes there are, The more theft corrupts people.
Yet take no action, and the people nurture eachother; Make no laws, and the people deal fairly with eachother; Own no interest, and the people cooperate with eachother; Express no desire, and the people harmonize with eachother.
印象-観念
知覚
ヒューム、バークリー
熊野哲学史より
< 道 >
┏━┻━┓
絶対の道 相対の道
┏━━┳┻━┓ ┏┻━┳━━┓
用 体 範囲 人の道 不道 非道
: ┃
: <政 治>
: ┏━┻━┓
:..天下を得る方 天下を得たる後
: ┏━┻━┓
: 積極的 消極的
: ┏━┻━┓ ┏┻┳━┓
: 方針 教育 法 兵 刑
: ┃ ┏━┻━┓ ┃ ┃ ┃
:.......柔弱等 無欲 無智 ┃ ┃ ┃
: ┻━┻━┳━┻ ┻┳┻━┻
: ┃ ┃
: < 修 身 >
: ┃ ┏━┻┳━━┓
:.............嬰児 学問 行為 多言
試作図:
< 道 >
┏━┻━┓
絶対の道 相対の道
┏━━┳┻━┓ ┏┻━━┳━━┓
用… 体… 範囲… 人之道 不道 非道
: ┃
: <政 治>
: ┏━━┻━━┓
:..天下を得る方 天下を得たる後
: ┏━┻━┓ ┏━━┻━━┓
: 能守道 不敢為 積極的 消極的
: 天下先┏━┻━┓ ┏┻┳━┓
: 方針 教育 法、兵、刑罰を除く
: ┃ ┏┻┓ ┃ ┃ ┃
:......柔弱等 無欲 無智┃ ┃ ┃
: ┃ ┻┳┻ ┃ ┃ ┃
: ┻━┳━┻ ┻┳┻━┻
: < 修 身 >
: ┃ ┏━┻┳━━┓
:.........嬰児 学問、行為、多言を廃す
http://nam21.sakura.ne.jp/tao/#notei 目次
_____我--「同語反復」カント
_____思 l
_____う l
「疑いつつ+ある」スピノザ
_____我\
_____あ \
_____り 「私は思惟する事物である 」
デカルト ライプニッツ
_____我--「同語反復」カント
_____思 l
_____う l
「疑いつつ+ある」スピノザ
_____我\
_____あ \
_____り 「私は思惟する事物である 」
____デカルト ライプニッツ
ポパーが自伝冒頭でスピノザを本質主義として批判している(wikiのスピノザ参照。自伝はヴィトゲンシュタインへの言及がある
ことで有名だが、ボルツァーノへの言及が興味深い*)。
以下の図はその関連で紹介された。
右の意味づけが大事だというが、これはスピノザの起成原因が大事だということと重なる。またライプニッツの図と本質は変
わらない。どちらも無限遡行を恐れ、回避(ライプニッツはモナドによって、ポパーは社会的位置づけによって)するのである。
*論理学史的にはカントを批判的に継承したボルツァーノ(本人はカントよりライプニッツに近い)の命題自体によって世界3が開
け、それはポパーの立場に近い。
a table of ideas
観 念
つまり
指示項または名辞 言明または命題
または概念 または理論
は
言 葉 主 張
において定式化されえ、それらは
有 意 味 真
でありえ、それらの
意 味 真 理 性
は
定 義 導 出
によって
無定義概念 原 始 命 題
のそれに還元されうる
_________________________________
このような手段によって、それらの
意 味 真 理
を(還元ではなく)確立しようとする
企ては、無限後退におちいる
http://2.bp.blogspot.com/-YMi6eNaJ8k8/VE3s9YWkxFI/AAAAAAAAm5A/CrGB1DFh820/s1600/popper%2Btable.jpg
岩波現代文庫上33頁より
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
ポパーは自伝冒頭でスピノザを本質主義として批判している。
以下の図はその関連で紹介された。
右の意味づけが大事だというが、これはスピノザの起成原因が大事だということと重なる。またライプニッツの哲学と本質は変
わらない。どちらも無限遡行を恐れ、回避(ライプニッツはモナドによって、ポパーは社会的位置づけによって)するのである。
a table of ideas
観 念
つまり
指示項または名辞 言明または命題
または概念 または理論
は
言 葉 主 張
において定式化されえ、それらは
有 意 味 真
でありえ、それらの
意 味 真 理 性
は
定 義 導 出
によって
無定義概念 原 始 命 題
のそれに還元されうる
_________________________________
このような手段によって、それらの
意 味 真 理
を(還元ではなく)確立しようとする
企ては、無限後退におちいる
http://2.bp.blogspot.com/-YMi6eNaJ8k8/VE3s9YWkxFI/AAAAAAAAm5A/CrGB1DFh820/s1600/popper%2Btable.jpg
岩波現代文庫上33頁より
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
ポパーは自伝冒頭でスピノザを本質主義として批判している。以下の図はその関連で紹介された。
右の意味づけが大事だというが、これはスピノザの起成原因が大事だということと重なる。
またライプニッツの哲学と本質は変わらない。どちらも無限遡行を恐れ、回避(ライプニッツは
モナドによって、ポパーは社会的位置づけによって)するのである。
a table of ideas
観 念
つまり
指示項または名辞 言明または命題
または概念 または理論
は
言 葉 主 張
において定式化されえ、それらは
有 意 味 真
でありえ、それらの
意 味 真 理 性
は
定 義 導 出
によって
無定義概念 原 始 命 題
のそれに還元されうる
_________________________________
このような手段によって、それらの
意 味 真 理
を(還元ではなく)確立しようとする
企ては、無限後退におちいる
http://2.bp.blogspot.com/-YMi6eNaJ8k8/VE3s9YWkxFI/AAAAAAAAm5A/CrGB1DFh820/s1600/popper%2Btable.jpg
岩波現代文庫上33頁より
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
バディウ 推移的存在論 Alain Badiou Court traité d’ontologie transitoire
12月新刊
バディウ 推移的存在論
http://www.suiseisha.net/blog/?p=9985
【目次】
プロローグ 神は死んだ
第1章 今日の存在の問題
第2章 数学とは思考である
第3章 超限‐存在としての出来事
第4章 ドゥルーズの生気論的存在論
第5章 スピノザの閉じた存在論
第6章 プラトン主義と数学的存在論
第7章 アリストテレス的方向づけと論理学
第8章 論理学、哲学、「言語論的転回」
第9章 トポス概念についての初等的注解
第10章 論理学についての初等的な暫定的テーゼ
第11章 数の存在
第12章 カントの減算的存在論
第13章 群、カテゴリー、主体
第14章 存在と現れ
原著
Court traité d’ontologie transitoire, Paris, 1998
I'm reading 1998. Badiou, A. Court traité d'ontologie... on Scribd.
Check it out:
https://ja.scribd.com/document/132880237/1998-Badiou-A-Court-traite-d-ontologie-transitoire
Table
Prologue : Dieu est mort
1. La question de l'être auiourd'hui
2. La mathématique est une pensée
3. L'événement comme trans-être
4. L'ontologie vitaliste de Deleuze
5. L'ontologie fermée de Spinoza
6. Platonisme et ontologie mathématique.
7. L'orientation aristotélicienne et la logique
8. Logique, philosophie, 《tournant langagier 》
9. Premières remarques sur le concept de topos
10. Premières thèses provisoires sur la logique
11. L'être du nombre
12. L'ontologie soustractive de Kant
13. Groupe, catégorie, sujet
14. L'être et l'apparaître
Annexe
Textes publiés utilisés-comme matériau dans
la composition de ce livre
Table
Prologue : Dieu est mort
1. La question de l'etre auiourd'hui
2. La mathematique est une pensee
3. L'evenement comme trans-etre
4. L'ontologie vitaliste de Deleuze
5. L'ontologie fermee de Spinoza
6. Platonisme et ontologie mathematique.
7. L'orientation aristotelicienne et la logique
8. Logique, philosophie, 《tournant langagier 》
9. Premieres remarques sur le concept de topos
10. Premieres theses provisoires sur la logique
11. L'etre du nombre
12. L'ontologie soustractive de Kant
13. Groupe, categorie, sujet
14. L'etre et l'apparaitre
L'ˆEtre et l'apparaˆıtre
http://www.entretemps.asso.fr/Badiou/98-99.pdf 上より詳細なその後の講演録、図解入り、最後の記事参照
Annexe
Textes publies utilises-comme materiau dans
la composition de ce livre
Briefings on Existence: A Short Treatise on Transitory Ontology (Suny Series, Intersections: Politics And Critical Theory) (英語) 2006/3/1
Alain Badiou (著)
#5
スピノザ論
2:21,1:公理6のカップリング(couplage 99頁)に着目していてさすが
ただし#12カント論の方がバディウの本質だろう
ハイデガーの第一批判初版称揚を批判している
訳者解説によると減算なる用語(存在ではなく出来事の属性)はメイヤスーに引き継がれた
バディウの存在と出来事(#3-p.69に要約あり)の不在は
構造主義なきポスト構造主義という日本の状況を象徴している
バディウは集合論を導入することで風通しのいい存在論、推移的存在論が可能となり
そこで捉えられない減算的な出来事が政治となるという
(バディウはドゥルーズと違い1=多の等価性、つまり政治的集合論を楽観視する)
バディウの論理はそうした枠組みでいいと思うが
日本人の感覚としては論理学は国語で数学は算数だから
ゲーデルを導入しない限り両者はまったく別々で
バディウ以上に存在と出来事の間の壁は大きい
むしろ壁は大き過ぎて無意識化もしくは麻痺している
バディウの文脈なら先述したカップリングをヒュームの原理とを同一とみなして
論理と存在の基礎に据えることが
結局遠回りに見えるが案外近道だろう
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
「真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。」スピノザ『エチカ』第一部公理六
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p21
定理二ー 精神のこの観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。
証明 精神が身体と合一していることを我々は身体が精神の対象であることから明らかにした(この部の定理一二および一三を見よ)。したがってこれと同じ理由により、精神の観念も、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方でその対象と、言いかえれば精神自身と、合一していなければならぬ。Q・E・D・
参考:
ポパーは自伝冒頭でスピノザを本質主義として批判している。以下の図(a table of ideas)はその関連で紹介された。
右の意味づけが大事だというが、これはスピノザの起成原因が大事だということと重なる。バディウの邦訳近刊書では
カップリング(couplage)自体が大事だ。
またライプニッツの哲学と本質は変わらない。どちらも無限遡行を恐れ、回避(ライプニッツは
モナドによって、ポパーは社会的位置づけによって)するのである。
観 念
つまり
指示項または名辞 言明または命題
または概念 または理論
は
言 葉 主 張
において定式化されえ、それらは
有 意 味 真
でありえ、それらの
意 味 真 理 性
は
定 義 導 出
によって
無定義概念 原 始 命 題
のそれに還元されうる
_________________________________
このような手段によって、それらの
意 味 真 理
を(還元ではなく)確立しようとする
企ては、無限後退におちいる
http://2.bp.blogspot.com/-YMi6eNaJ8k8/VE3s9YWkxFI/AAAAAAAAm5A/CrGB1DFh820/s1600/popper%2Btable.jpg
『果てしなき探求』(上)岩波現代文庫33頁より。『客観的知識』森博訳143頁と訳語は同じ。
https://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/at/popper.htm
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
ポパーがスピノザと似ていると言うのはどうでもいい
まず何よりも先にマルクスの体系をスピノザの体系内に回収しなければならない
(ラサールへの手紙を信じてはならない)
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
参考:
ポパーは自伝冒頭でスピノザを本質主義として批判している。以下の図(a table of ideas)はその関連で紹介された。
右の意味づけが大事だというが、これはスピノザの起成原因が大事だということと重なる。
バディウの邦訳近刊書の用語で言えばカップリング(couplage)自体が大事だ。
またライプニッツの哲学とも本質は変わらない。どちらも無限遡行を恐れ、回避(ライプニッツは
モナドによって、ポパーは社会的位置づけによって)するのである。
観 念
つまり
指示項または名辞 言明または命題
または概念 または理論
は
言 葉 主 張
において定式化されえ、それらは
有 意 味 真
でありえ、それらの
意 味 真 理 性
は
定 義 導 出
によって
無定義概念 原 始 命 題
のそれに還元されうる
_________________________________
このような手段によって、それらの
意 味 真 理
を(還元ではなく)確立しようとする
企ては、無限後退におちいる
http://2.bp.blogspot.com/-YMi6eNaJ8k8/VE3s9YWkxFI/AAAAAAAAm5A/CrGB1DFh820/s1600/popper%2Btable.jpg
『果てしなき探求』(上)岩波現代文庫33頁より。『客観的知識』森博訳143頁と訳語は同じ。
https://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/at/popper.htm
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
ただしポパーがスピノザと似ていると言うのはどうでもいい
まず何よりも先にマルクスの体系をスピノザの体系内に回収しなければならない(ラサールへの手紙を信じてはならない)
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
826 考える名無しさん[] 2019/02/27(水) 21:43:42.70 ID:0
ポパー英語版:
https://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/at/popper.htm
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
…ただしポパーがスピノザと似ていると言うのはどうでもいい
まず何よりも先にマルクスの体系をスピノザの体系内に回収しなければならない(ラサールへの手紙を信じてはならない)
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
ヒュームの懐疑論について言っておかなければならない
ヒュームは一対一対応を基礎にしているのであって単なる不可知論ではない
カップリングが大事だとバディウが言った時、意識せずにヒュームの原理をバディウは述べているのだ
「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、
我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)
その関連でマルクス経済学のアポリアを言うなら価格と価値が一致していない…
帰納と演繹は同じことを別の方向から述べているに過ぎない
ヒュームの人性論に唐突にスピノザが出てくるのはそうした理由がある
アインシュタインはヒュームに影響を受けつつスピノザの神を信じた
決定論の最大の課題は正確な測量ができないということだ
これはアインシュタインが量子力学との論争で課題となった部分だ
それ自体相対性理論ではあるのだが
資本と国家は一対一対応している
だが国家は資本に追いつかないし
資本は国家に肝心な部分を頼る
マルクスの経済決定論は愚かだ
肝心なところで政治的になるから
スピノザの精神と身体が国家と資本に対応する
この対応を見るのが決定論である
一方を捨象することは決定論を無効にさせる
ミルの論理学:
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
|| /|\ /\
\/ | \ ||
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
帰納と演繹は同じことを別の方向から述べているに過ぎない
ヒュームの人性論に唐突にスピノザが出てくるのはそうした理由がある
アインシュタインはヒュームに影響を受けつつスピノザの神を信じた
決定論の最大の課題は正確な測量ができないということだ
これはアインシュタインが量子力学との論争で課題となった部分だ
それ自体相対性理論ではあるのだが
資本と国家は一対一対応している
だが国家は資本に追いつかないし
資本は国家に肝心な部分を頼る
カレツキの指摘するように資本と国家は相務的なのだ
マルクスの経済決定論は愚かだ
肝心なところで政治的になるから
スピノザの精神と身体が国家と資本に対応する
この対応を見るのが決定論である
一方を捨象することは決定論を無効にさせる
参考
ミルの論理学:
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
|| /|\ /\
\/ | \ ||
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、
実質的な帰納法(図:右側)を重視した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
普 遍 法 則
↓(大前提)
deduction /|\ induction
演 繹 法/ | \↑帰 納 法
/__|__\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
帰納と演繹は同じことを別の方向から述べているに過ぎない*
ヒュームの人性論に唐突にスピノザが出てくるのはそうした理由がある
アインシュタインはヒュームに影響を受けつつスピノザの神を信じた
決定論の最大の課題は正確な測量ができないということだ
これはアインシュタインが量子力学との論争で課題となった部分だ
それ自体相対性理論ではあるのだが
資本と国家は一対一対応している
だが国家は資本に追いつかないし
資本は国家に肝心な部分を頼る
カレツキの指摘するように資本と国家は相務的なのだ
マルクスの経済決定論は愚かだ
肝心なところで政治的になるから
スピノザの精神と身体が国家と資本に対応する
この対応を見るのが決定論である
一方を捨象することは決定論を無効にさせる
*
参考
ミルの論理学:
普 遍 法 則
↓(大前提)
deduction /|\ induction
演 繹 法/ | \↑帰 納 法
/__|__\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)もやはり上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、
実質的な帰納法(図:右側)を重視した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、ミル『推理論』(白水社)35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
帰納と演繹は同じことを別の方向から述べているに過ぎない*
ヒュームの人性論に唐突にスピノザが出てくるのはそうした理由がある
アインシュタインはヒュームに影響を受けつつスピノザの神を信じた
決定論の最大の課題は正確な測量ができないということだ
これはアインシュタインが量子力学との論争で課題となった部分だ
それ自体相対性理論ではあるのだが
資本と国家は一対一対応している
だが国家は資本に追いつかないし
資本は国家に肝心な部分を頼る
カレツキの指摘するように資本と国家は相務的なのだ
マルクスの経済決定論は愚かだ
肝心なところで政治的になるから
スピノザの精神と身体が国家と資本に対応する
この対応を見るのが決定論である
一方を捨象することは決定論を無効にさせる
*参考
ミルの論理学:
普 遍 法 則
↓(大前提)
deduction /|\ induction
演 繹 法/ | \↑帰 納 法
/__|__\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)もやはり上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、
実質的な帰納法(図:右側)を重視した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、ミル『推理論』(白水社)35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
現代思想2019年3月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー――『ジェンダー・トラブル』から『アセンブリ』へ Kindle版
ジュディス・バトラー (著), 清水 晶子 (著), クレア・マリィ (著), 合田 正人 (著), 佐藤 嘉幸 (著), 廣瀬 純 (著), 清水 知子 (著), 新田 啓子 (著), 岡野 八代 (著), 北田 暁大 (著)
T i t l e : T h i s L i f e , T h i s T h e o r y
A u t h o r : J u d i t h B u t l e r © J u d i t h B u t l e r
この生 、この理論
ジュディス ・バトラ ー /坂本邦暢訳
私はここにいることを大変光栄に思っており 、東京 、そしてとりわけ明治大学への訪問を可能にしてくれたすべての人に感謝いたします 。私は自分の哲学上の歩みについて話せないかと頼まれました 。私は回想録や自叙伝を書こうと思ったことは一度もありません 。なぜなら 、私の自己は 、私にとって最も不透明なものかもしれないからです 。私の自己が 、著者として語る私の声にたいしてもっている関係は 、少なく見積もっても大変に
スピノザいわく 、人間の場合 、人間の精神 (神の属性と考えられています )の観念は 、なにか存在するものとリンクしていなければならず 、その存在するものと独立にあるということはないのです 。このことがスピノザを二つの重要で驚くべき定理に導きます 。第一に 、人間の精神の観念は 、必然的に身体についての観念であるという定理です 。身体は 、人間の精神に対応して存在しているのです 。第二の定理は 、精神の観、精神の観念というのは 、触発される過程で形づくられるというものです (これは 、神によって触発されることだと考えられるでしょう 。これが観念をもたらすのです ) 。さらに 、人間の精神が別の個体を触発できるのは 、精神に対応して存在しているもの 、すなわち身体を通してだけだということがいえます 。スピノザは精神と身体を区別して話していますが 、それらがダイナミックな統一体をなしていることは 、はっきりさせています 。人間の身体は 、私たちが知覚するようにそれが存在している限りで 、精神の対象です 。しかし人間の身体というのは 、精神が現実的に存在するあり方でもあるのです 。精神が存在するにあたっては 、身体として具体化するといってよいでしょう 。さらに身体は触発され 、他のも
訳註
[ 1 ]スピノザ 『エチカ 』第二部公理二 、三 、畠中尚志訳 、岩波文庫 、二〇一一年改版 、上巻 、一一三ペ ージ (訳語を変更した ) 。
[ 2 ]スピノザ 『エチカ 』第二部要請五 、一四一ペ ージ (訳語を変更した ) 。
[ 3 ]スピノザ 『エチカ 』第二部要請四 、一四一 ─一四一ペ ージ (訳語を変更した ) 。
[ 4 ]スピノザ 『エチカ 』第三部定理七 、二一四ペ ージ (訳語を変更した ) 。
[ 5 ]スピノザ 『エチカ 』第三部定理一九 、二二九ペ ージ 。
現代思想2019年3月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー
T i t l e : T h i s L i f e , T h i s T h e o r y
J u d i t h B u t l e r
この生、この理論
ジュディス・バトラー/坂本邦暢訳
私はここにいることを大変光栄に思っており、東京、そしてとりわけ明治大学への訪問を可能にしてくれた
すべての人に感謝いたします。私は自分の哲学上の歩みについて話せないかと頼まれました。私は回想録や
自叙伝を書こうと思ったことは一度もありません。なぜなら、私の自己は、私にとって最も不透明なものか
もしれないからです。私の自己が、著者として語る私の声にたいしてもっている関係は、少なく見積もっても
大変にぎこちないものなのです。…
…スピノザいわく、人間の場合、人間の精神(神の属性と考えられています)の観念は、なにか存在する
ものとリンクしていなければならず、その存在するものと独立にあるということはないのです。このことが
スピノザを二つの重要で驚くべき定理に導きます。第一に、人間の精神の観念は、必然的に身体について
の観念であるという定理です。身体は、人間の精神に対応して存在しているのです。第二の定理は、精神の
観、精神の観念というのは、触発される過程で形づくられるというものです(これは、神によって触発さ
れることだと考えられるでしょう。これが観念をもたらすのです)。さらに、人間の精神が別の個体を
触発できるのは、精神に対応して存在しているもの、すなわち身体を通してだけだということがいえます。
スピノザは精神と身体を区別して話していますが、それらがダイナミックな統一体をなしていることは、
はっきりさせています。人間の身体は、私たちが知覚するようにそれが存在している限りで、精神の対象です。
しかし人間の身体というのは、精神が現実的に存在するあり方でもあるのです。…
訳註
[1]スピノザ 『エチカ 』第二部公理二、三、岩波文庫、2011年改版、上巻、113ページ(訳語を変更した)。
[2]スピノザ 『エチカ 』第二部要請五、141ページ 。
[3]スピノザ 『エチカ 』第二部要請四、141~141ページ 。
[4]スピノザ 『エチカ 』第三部定理七、214ページ 。
[5]スピノザ 『エチカ 』第三部定理一九、229ページ。
*この記事は 、二〇一八年一二月六日 、明治大学にて行われた講演会の発表原稿を載録したものです 。
『ジェンダー・トラブル』の著者、カリフォルニア大学バークレー校修辞学/比較文学科教授の
ジュディス・バトラー(Judith Butler)氏 特別講演会
◆ 講演会「This Life,This Theory」
日時:2018年12月6日(木)13:30~
会場:明治大学 駿河台キャンパス リバティタワー1F リバティホール
言語:英語(通訳あり)
http://www.meiji.ac.jp/bungaku/info/2018/6t5h7p00000tf8do-att/a1543882965377.pdf
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/571042/b3bf0d486cc6094518b39653d98a56cc_0d8333648bd0af07fca2efb63e29635f.jpg
2018年11月26日
明治大学
『ジェンダー・トラブル』の著者であり、世界屈指の哲学者
ジュディス・バトラー氏に「明治大学名誉博士学位」を授与
12月11日、駿河台キャンパスで贈呈式、講演会
ジュディス・バトラー (Judith Butler)氏 ≪略歴≫1984年イェール大学にて博士(哲学)の学位を取得、1998年ジョーンズ・ホプキンス大学等で教鞭を執った後、カリフォルニア大学バークレー校修辞学/比較文学科教授に就任、2009年アンドリュー・W・メロン財団より、功労賞を授与、著書に『ジェンダー・トラブル』など
ジュディス・バトラー (Judith Butler)氏 ≪略歴≫1984年イェール大学にて博士(哲学)の学位を取得、1998年ジョーンズ・ホプキンス大学等で教鞭を執った後、カリフォルニア大学バークレー校修辞学/比較文学科教授に就任、2009年アンドリュー・W・メロン財団より、功労賞を授与、著書に『ジェンダー・トラブル』など
明治大学は、カリフォルニア大学バークレー校修辞学/比較文学科教授のジュディス・バトラー(Judith Butler)氏に対し、12月11日(火)、駿河台キャンパスにおいて、「明治大学名誉博士学位」を授与します。同日には、学内関係者を対象とした講演会も行います。
この度の学位授与は、同氏が、世界的哲学者として、暴力、差別、迫害、戦争、テロリズムなどの諸現象を哲学的に解明し、それを阻止するための方途を精緻な言語と果敢な行動によって提示することで、世界が抱える数多の難題の解明に多大な社会的貢献をなしてきたことを高く評価したものです。
過去の名誉博士学位授与者は、元首相であり本学卒業生である三木武夫氏、元ソヴィエト連邦大統領ミハエル・ゴルバチョフ氏、元フランス保健相シモーヌ・ヴェイユ氏などがおり、直近では、第9代国連事務総長のアントニオ・グテーレス氏へ2014年に授与しています。ぜひ、式典・講演会を取材いただき、お取り上げいただきますよう、よろしくお願いいたします。
ジュディス・バトラー氏への名誉博士学位贈呈式
日時 12月11日(火)14:30~15:00
会場 駿河台キャンパス リバティタワー23F
岸本辰雄ホール (千代田区神田駿河台1-1) ※一般の方の参加は不可
ジュディス・バトラー氏 名誉博士学位授与記念講演会
「非暴力・哀惜と個人主義批判」
日時 12月11日(火)15:30~17:00
会場 明治大学 駿河台キャンパス
リバティタワー1F リバティホール
言語 英語(同時通訳あり) ※一般の方の参加は不可
また、下記内容でも講演会を実施いたします。
ジュディス・バトラー氏 講演会
「ある哲学的道程—スピノザの存続」
日時 12月6日(木)13:30~
会場 明治大学 駿河台キャンパス リバティタワー1F リバティホール
言語 英語(逐次通訳あり) ※一般の方の参加も可能(申し込みはbungaku@mics.meiji.ac.jpまで)
1
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2a2
二 人間は思惟する〈、あるいは他面から言えば、我々は我々が思惟することを知る〉。
三 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。
2
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2post5
五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。
3
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2post4
四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。
4
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p7
定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。
証明 おのおのの物の与えられた本質から必然的にいろいろなことが生ずる(第一部定理三六により)。また物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえない(第一部定理二九により)。ゆえにおのおのの物が単独であるいは他の物とともにある事をなしあるいはなそうと努める能力ないし努力、言いかえれば(この部の定理六により)おのおのの物が自己の有に固執しようと努める能力ないし努力は、その物の与えられた本質すなわち現実的本質にほかならない。Q・E・D・
5
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p19
定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが鮭持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。
証明 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものを(この部の定理一二により)、言いかえれば(この部の定理一三の備考により)自分の愛するものを、できるだけ表象しようと努める。ところが表象力は物の存在を定立するものによって促進され、また反対に物の存在を排除するものによって阻害される(第二部定理一七により)。ゆえに愛するものの存在を定立する事物の表象像は、愛するものを表象しようと努める精神の努力を促進する、言いかえれば(この部の定理一一の備考により)精神を喜びに刺激する。これに反して愛するものの存在を排除する事物の表象像は、精神のこの努力を阻害する、言いかえれば(同じ備考により)精神を悲しみに刺激する。 ゆえに自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう、云々。Q・E・D・
2019年
【12月11日発売予定】
『スピノザ よく生きるための哲学』(フレデリック・ルノワール著 ポプラ社)
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スピノザ よく生きるための哲学 単行本 – 2019/12/11
フレデリック・ルノワール (著), 田島 葉子 (翻訳)
その他()の形式およびエディションを表示する
単行本
¥2,750
¥2,750 より 1 新品
ポパーが自伝冒頭でスピノザを本質主義として批判している(wikiのスピノザ参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6#%E6%89%B9%E5%88%A4
自伝はヴィトゲンシュタインへの言及があることで有名だが、ボルツァーノへの言及が興味深い)。
以下の図はその関連で紹介された。
右の意味づけが大事だというが、これはスピノザの起成原因が大事だということと重なる。
またライプニッツが並行論の図解として描いた図と本質は変わらない。
ライプニッツはこんな図式を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
「魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。」
「魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。」
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)
どちらも無限遡行を恐れ、
回避(ライプニッツはモナドによって、ポパーは社会的位置づけによって)するのである。
http://2.bp.blogspot.com/-YMi6eNaJ8k8/VE3s9YWkxFI/AAAAAAAAm5A/CrGB1DFh820/s1600/popper%2Btable.jpg
https://lh3.googleusercontent.com/-sVKImNzd1go/VE4Rtji255I/AAAAAAAAm5Q/rpPz5f0gt-o/s640/blogger-image--984074448.jpg
岩波現代文庫上33頁より
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
批判[編集]
カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、かりになんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した[28]。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している[29]。
^ 『果てしなき探求――知的自伝』岩波現代文庫, 2005年、上巻、26頁
29^ 同書[要ページ番号]
ポパーが自伝冒頭でスピノザを本質主義として批判している(wikiのスピノザ参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6#%E6%89%B9%E5%88%A4
自伝はヴィトゲンシュタインへの言及があることで有名だが、ボルツァーノへの言及が興味深い)。
以下の図はその関連で紹介された。
右の意味づけが大事だというが、これはスピノザの起成原因が大事だということと重なる。
http://2.bp.blogspot.com/-YMi6eNaJ8k8/VE3s9YWkxFI/AAAAAAAAm5A/CrGB1DFh820/s1600/popper%2Btable.jpg
https://lh3.googleusercontent.com/-sVKImNzd1go/VE4Rtji255I/AAAAAAAAm5Q/rpPz5f0gt-o/s640/blogger-image--984074448.jpg
岩波現代文庫上33頁より
ポパーはスピノザを批判しつつスピノザ的なのだ(演繹主義と実在論をポパーは信奉する)。
またライプニッツが並行論の図解として描いた図と本質は変わらない。
ライプニッツはこんな図式を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
「魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。」
「魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。」
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)
どちらも無限遡行を恐れ、
回避(ライプニッツはモナドによって、ポパーは社会的位置づけによって)するのである。
批判[編集]
カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、かりになんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した[28]。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している[29]。
^ 『果てしなき探求――知的自伝』岩波現代文庫, 2005年、上巻、26頁
29^ 同書[要ページ番号]