http://www.freeassociations.org/
以前影武者について書いたがそれは脇の主題についてだった。
柄谷との比較は主題に関わる。
柄谷はアウグスティヌス経由(アウグスティヌス自身はキケロ『国家論』3経由)でアレクサンドロス大王と海賊のやりとりを紹介している。
あるとき、アレキサンダー大王は、海賊を捕らえた。
大王が海賊に、「海を荒らすのは、どういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」と答えたのである。(アウグスティヌス『神の国』第1巻、272頁、岩波文庫)
http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200805/article_6.html
(帝国95頁参照)
http://booklog.jp/users/touxia/archives/1/B000UH4TUA
冒頭 信玄 信康 影武者 3人の会話で始まる。
その構図が 絵になっている。
逆さ磔にされる盗人 があまりにも信玄に似ているので
つれてこられたということから・・・はじまる
影武者は、
『たかが 5貫10貫 盗んだ 小どろぼう・・・
国をとるために かぞえきれない人を殺したものに
悪人呼ばわりされる筋合いはない』という。
信玄は
『何なりと申すがよい。
確かに わしは強欲非道の大悪人じゃ。
実の父を追放し わが子も殺した。
天下を盗むためにはなにごとも辞さぬ覚悟じゃ。』
ただしその後信玄に殉ずる影武者の論理は交換様式Aである(244頁参照7-6)。
(チャップリン『殺人狂時代』の最後のセリフも想起させるが、こちらは権力の主題はない。チャップリンは交換様式Cを主題としている。ディランのスウィートハートは宗教的でAの高次の回復だ。)
「小さきもの」を擁護しつつも、アレクサンドロスの拡大主義を柄谷は支持しているようだ
アリストテレスは老子と同じで小国主義だ。Aになる(老子とCは漢代につながった)。
アリストテレスはアレクサンドロスの師ではあるが、Bを邁進したアレクサンドロスと対立したとされる(95頁参照)。
アレクサl影武者
ンドロスl
ーーーー+ーーーーー
殺人狂時l
代 l
黒澤明のメッセージは動くなだが、柄谷は移動を勧める。
かつて柄谷のマクベス論と蜘蛛の巣城は呼応したが、柄谷は福田恒存に近かった。
黒澤明は近代的自我を認めない。黒澤明の方がより過激なのだ。
柄谷は黒澤明に追いついた。
「正義がなくなるとき、王国は大きな盗賊団以外のなにであろうか。盗賊団も小さな王国以外のなにでもないのである。盗賊団も、人間の集団であり、首領の命令によって支配され、徒党をくんではなれず、団員の一致にしたがって奪略品を分配するこの盗賊団という禍いは、不逞なやからの参加によっていちじるしく増大して、領土をつくり、住居を定め、諸国を占領し、諸民族を征服するようになるとき、ますます、おおっぴらに王国の名を僭称するのである。そのような名が公然とそれに与えられるのは、その貪欲が抑制されたからではなく、懲罰をまぬがれたからである。ある海賊が捕らえられて、かのアレキサンデル大王にのべた答はまったく適切で真実をうがっている。すなわち、大王が海賊に、『海を荒らすのはどういうつもりか』と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、『陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さな舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです』と答えたのである(1)。
(1)この話はノニウス・マルケルルスによって語られ、マルケルルスはキケロからそれを借りてきている(キケロ『国家論』三)。」(1巻273)アウグスティヌス[服部英次郎訳]『神の国』第四巻第四章 全(岩波文庫1,273~4頁1982-1991)
脚注を除いた全文を柄谷は引用している(『帝国の構造』95頁)。
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_03/9/notes/ja/GFK2006-tanaka1.pdf
黒澤明『影武者』冒頭は以下、
ちなみに黒澤明『影武者』冒頭に以下、のセリフがある、
「フフフフ、俺は、たかだか五貫十貫の小銭を盗んだ小泥棒だ。国を盗るために、数え切れねぇほど人
を殺した大泥棒に、悪人呼ばわりされる覚えはねぇ!」
(中略)
信玄「…たしかにこの儂は強欲非道の大悪人だ。 実の父を追放し、わが子も殺した。儂は天下を盗るためな
ら何事も辞さぬ覚悟だ。
しかしな、血で血を洗う今の世に、何者か 天下を盗り天下に号令せぬ限り、 その血の河の流れは尽きず、屍
の山は築かるるばかりぞ」
(チャップリン『殺人狂時代』の最後のセリフも想起させるが、こちらは権力の主題はない。チャップリン
は大恐慌など交換様式Cを主題としている。)
「血の河の流れ」と「屍の山」は、信玄の戒め(「動くな」)を守らない勝頼によって、長篠の戦いの結
果、現実化してしまう。信玄のセリフは映画のラストにつながっているのだ。
近親を罰する信玄の論理は交換様式B(に近いの)だが、その後信玄に殉ずる影武者の論理は交換様式Aである(244頁参照7-6)。
肉親(わが子)の情を頼り、上からの連合を提示するには秀虎(A)は、まず馬印という象徴と起請文を要求する太郎(B)に裏切られ、さらに妻や裏切り者を交渉で手に入れる次郎(C)にも裏切られるが、「何もいりませぬ」という三郎(D)の愛に最終的に気づかされることになる。
『影武者』が冒頭で3(人の男)を提示しているのに対し、『乱』が冒頭で4(人の騎士)提示しているのも興味深い。
6 Comments:
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監督公認のバージョン違いがある作品は少なくて
七人の侍も最終的には一つではないか?
デルスはソ連が勝手にカットして黒澤を激怒させたし
フジテレビ版は監督公認
ドイツ版とは日本語解説字幕と上杉謙信のシーンの有無だけが違うと思う
影武者だけは編集の時間が少なかった
それはルーカスも指摘している
肝心の現行日本版と影武者と現行日本版との違いは
前述上杉謙信のシーンがカット
戦場に騎馬隊が入ってくるシーンの前半がカット
合戦シーンのロングショットをカット
騎馬隊の断末魔の後編をカット
(記憶違いでなければ)立て札のロングショットとクローズを前後逆に
等々
細かいが的確な編集だと思う
問題はこの最高のバージョンを日本人が気軽に見ることが出来ない点だ
(ドイツは第二次対戦中検閲が厳しかったがその分、検閲の検証も厳格、というような伝統がある)
アメリカ版は日本版を第三者がカット、処理したのではないか?
どちらにせよドイツ版とは違う
現時点で影武者はクライテリオン版がいい
https://www.amazon.co.jp/dp/B002AFX52S/
日本版がいいという人もいるだろうが…
フジテレビ版との比較検証は専門家に聞きたい
現時点で影武者はクライテリオン版がいい
https://www.amazon.co.jp/dp/B002AFX52S/
日本版がいいという人もいるだろうが…
フジテレビ版との比較は専門家の検証を待ちたい
あるとき、アレキサンダー大王は、海賊を捕らえた。
大王が海賊に、「海を荒らすのは、どういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆すところ
なく、「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので盗賊とよばれ、
陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」と答えたのである。
(アウグスティヌス『神の国』第1巻、272頁、岩波文庫。柄谷行人『帝国の構造』95頁参照)
このエピソードに対応するのは以下だ。
影武者の冒頭は、信玄 信康 影武者 3人の会話で始まる。
盗賊「俺は小泥棒だ。国を盗るため数え切れねぇほど人を殺した大泥棒に
悪人呼ばわりされる覚えはねえ!」
信玄「確かにワシは強欲非道の大悪人だ。
ワシは天下を盗るためなら何事も辞さぬ覚悟だ。
血で血を洗う今の世に、何者か 天下を盗り、天下に号令せぬ限り、
その血の河の流れは尽きず、屍の山は築かるるばかりぞ」
…
ちなみに「血の河の流れ」の「屍の山」は、長篠の戦いの結果、現実化してしまう。
信玄のセリフは映画のラストにつながっている。
黒澤明の監督作全30本網羅したDVDマガジン創刊、付録は復刻パンフレット - 映画ナタリー
https://natalie.mu/eiga/news/264909
2018年1月16日(火)創刊 隔週火曜日発売
2018年1月15日 12:30
黒澤明の監督作全30本を網羅したDVDマガジン「黒澤明DVDコレクション」が創刊。
1月16日より隔週火曜日に刊行される。
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マガジンでは作品解説や世界各国で制作されたポスター、チラシを収めたシネマギャラリー、
黒澤の生涯を振り返るバイオグラフィーのほか、各界で活躍する著名人が黒澤に対する思い
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第2号「七人の侍」
第3号「赤ひげ」
第4号「椿三十郎(1962年)」
第5号「天国と地獄(1963年)」
第6号「羅生門」
第7号「乱」
第8号「隠し砦の三悪人」
以下続刊 ※第9号以降の刊行順は未定
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