http://www.freeassociations.org/
ジョー・ブスケ
ブスケは、彼の身体の奥深くに抱える傷を、それにもかかわらず、また、それだけますます、傷の永遠真理において純粋出来事として理解する。『意味の論理学』上巻 p.258
ブスケは述べている。「私の死の趣味は、意志の挫折であった。それを私は死ぬことへの切望で置き換えるだろう。これが意志の光栄である」。趣味から切望へ。何も変わっていないとも言える。ただし、意志の変化、その場での全身の一種の跳躍があって、有機体の意志を霊的な意志に取り替えてしまう。いまや精確には、霊的な意志は、到来することを意志するのではなく、到来することの中の何ものか、到来することに符号して来たるべき何ものか、ユーモアの曖昧な符号の法則に従って来たる何ものか、すなわち〈出来事〉を意志する。運命愛(Amor fati)が自由な人間の闘争の一つとなるのは、この意味においてである。 上 p.260
ブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。 上 p261
ひとが君に求めるのは、生きることの恩寵をこのうえなく現実的に感じること、ただそれだけである。君が描きだす現実は、現実それ自体を補完する筆致を呼び寄せる。なぜなら、別個の意識から見れば、現実は現実でしかないからである。この現実は完成されなければならない。 p.25
夜、病、苦痛をやりすごす有用な方法。諸感情を記号で名指さないこと。苦痛とは何の関係もない苦痛もある。 p.44
私の語法が、私のうちで沈黙の権利しか与えられなかったものの全存在であればよい。 p.46
六月十一日、日曜日。真実にしがみつくこと……困難であるのは、真実をとらえることではなく、とらえた真実を手放さないことである。 p.68
いかにして光は、みずからが行きわたらせている奇跡に気づくことができるのか? 光それ自体の思考のうちには死が含まれているはずである。われわれに思考をもたらすという恩寵を、思考それ自体によって見定めるために。生が想像可能であるのはただ、生の不在が精神をおののかせるかぎりにおいてであり、そのおののきのなかで精神は壮麗なる生へと開かれていくのである。ならば、この事実それ自体は、いかにして私のもとに到来したのか? 生を信じることをさまたげる出来事にもかかわらず、君がその特異性を感じ取るために、君はどんな草を噛んでいるか? p.79
神秘はごく軽快な手つきで取り扱われるべきである。 p.85
君の孤独を愛の一世界となせ。 p.95
君に実存を開示してくれた出来事に、君の実存を従属させて、君の自由を回復せよ。無益な会話をふっかけていつも君を苦しめる連中のことを、拷問者と呼んでやれ。君の耳を聾するとめどない騒音を悪魔と命名してやれ。君の生が生きられる宇宙をつくりだせ。 p.110
「よい」という語は何を意味するのか? 愛するものの糧でありたいという欲求を、君はどこで手に入れたのか? 君は生きとし生けるものの意識でありたいと望む。宇宙の美しさは君のうちにみずからの報酬を手にするだろうか?世界が私の優しさを糧に生きてくれればよいと思うし、世界が私に返してくれるだろう愛の甘美さを私の生のうちに感じ取りたいと思う。わが生はわが心の陶酔であるだろう。君にわかるだろうか?――永遠に幼年期のままの可哀そうな心よ。それは君のなかで押し殺すように、恥じるように息をひそめている。それは、君が愛そうとはしない世界の夜である。 pp.110-111
人間は万物の実存のなかの一点ではない。人間は一点における万物の実存である。 p.178
君が全身全霊を賭して君自身の言葉に分け入る術を心得ていない限り、君は神に話しかけてはならない。 p.178
「生はよきものである」。これは不幸なものの言葉である。生が神々しいものであることを想い起こさせてくれ。君を包み込む事物は、わずかであれ君が存在している以上に存在している。 p.234
DRは強度を外から捉えていて、LSは意味を内部から捉える。*
AOは社会に留まり、MPは飛び立つ。
Foucaultは基礎となるダイアグラムを準備する。
懐疑論はHumeにある。
アプリオリな総合はLeibnizにある。
Bergson的な時間とともにシーニュはProustにある。
Nietzsche、Spinozaはこれらを横断する。
Cinemaは狂気の断絶(1945,1968)を系譜、系列として歴史化する。
【 分 析 】
\ アンチ /
オイディプス/
フーコー \ | /ヒューム
\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
/|\ (修辞学?)
ライプニッツ | \ベルグソン
/千のプラトー
/【 総 合 】\
これらはカント体系【 】とずれながらも一致していると考えていい。
*《「意味」は『差異と反復』のどこにあるのか。「強度」は『意味の論理学』の
どこに行ったのか。》(宇野邦一『没後~』120頁)。
「意味の論理学」ではなく「意味の修辞学」とすべきだ。
( 分 析 )
\ アンチ・ /
オイディプス/
フーコー \ | /ヒューム
\|/
(規定)差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学(反省)
/|\ [修辞学?]
ライプニッツ | \ベルグソン
/千のプラトー
/( 総 合 )\
個体 分
析
規定 + 反省
総
合 人格
LS
#16「ライプニッツの劇場に常に立ち帰る必要がある。」16:上205
#17「個体は、無限の分析命題…人格は、有限な総合命題…論理学的発生と存在論的発生の間にあるのは、平行関係ではなく…あらゆる種類の不一致と混信を伴うリレーである。」17:上212~3
実際にはライプニッツは無限の総合命題を打ち立てたのではないか? 『襞』での高い評価はそれを示す。
弁神論〜神の善意、人間の自由、悪の起源 Essais de Theodicee:ライプニッツ,1710
http://nam-students.blogspot.jp/2013/11/1710.html
ヒューム:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_07.html
ルイス・キャロルの論理ゲーム:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html
NAMs出版プロジェクト: マルコフ連鎖:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_54.html
NAMs出版プロジェクト: アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症:目次
http://nam-students.blogspot.jp/2012/12/blog-post_5039.html
目次、図☆☆☆、→、
目次、図☆☆☆、→シネマ1、シネマ2、アンチ・オイディプス、千のプラトー、☆
7[一五六]
私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、より純粋に、よ
り美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。
1870年末-1871年4月
(ニーチェ全集第一期第一巻白水社267頁より)
My philosophy is inverted Platonism: the further a thing is from true being, the purer, the lovelier, the better it is. Living in illusion as a goal!
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Friedrich Nietzsche
Friedrich Nietzsche (1844–1900), German philosopher, classical scholar, critic of culture. Friedrich Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische Studienausgabe, vol. 7, p. 199, selection 7[156], eds. Giorgio Colli and Mazzino Montinari, Berlin, de Gruyter (1980). Unpublished fragments dating to Late 1870April 1871.
Read more at http://quotes.dictionary.com/my_philosophy_is_inverted_platonism_the_further_a#TmdyV95MBcGQGdYT.99
http://www.capurro.de/platonismus.htm
"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)
http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
…存在の一義性の第三の契機はニーチェによるものである。…
「永遠回帰とは存在の一義性のことであり、この一義性の現実的な実在化
のことである。」(ドゥルーズ『差異と反復』p77)
…
現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)
…
(プラトンにおける)弁証法(問答法)はイロニーであるのだが、この
イロニーは、問題および問いに関する技術である。」(p109)
…
(p114)「プラトンは最初にプラトンを転倒させるもの」であり、ソピ
ステスにおいて「見せかけを深く究めることによってその見せかけがオリ
ジナルあるいは範型から区別できないということを証明している。」
http://blogs.yahoo.co.jp/saru107f/archive/2011/11/23
本来芸術は感性にもとづくものであり、この感性にもとづく生産能力から旧来の価値体系を転倒しようとする。感性とは時に激情であり、「力への意志」の「力」も「意志」も本質的に激情であるとハイデッガーは説明している。この芸術のもつ感性は超感性的なプラトニズムと正反対なものであり、超感性的なプラトニズムを転倒する基本原理であると言っている。
現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)
文庫上169
487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』Vorträge und Aufsätze
http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:
"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)
Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.
https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger
現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)
文庫上169
487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』Vorträge und Aufsätze
http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:
"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)
Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.
https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger
Vorträge und Aufsätze. (書籍, 1954) [WorldCat.org]
http://www.worldcat.org/title/vortrage-und-aufsatze/oclc/1167373
Aufsatzsammlung
その他のフォーマット: Online version:
Heidegger, Martin, 1889-1976.
Vorträge und Aufsätze.
Pfullingen, G. Neske [1954]
(OCoLC)654695923
ドキュメントの種類: 図書
すべての著者/寄与者: Martin Heidegger
この著者についてさらに詳しく:
OCLC No.: 1167373
物理形態: 283 pages 21 cm
コンテンツ: Die Frage nach der Technik.--Wissenschaft und Besinnung.--Überwindung der Metaphysik.--Wer ist Nietzsches Zarathustra?--Was heisst Denken?--Bauen, Wohnen, Denken.--Das Ding--" ... Dichterisch wohnet der Mensch ..."--Logos (Heraklit, Fragment 50)--Moira (Parmenides, Fragment viii, 34-41)--Aletheia (Heraklit, Fragment 16).
ハイデッガー全集 - 創文社
www.sobunsha.co.jp>ホーム>書籍検索
1 | 2 ≫. 書 名, 著訳編者名, シリーズ, 刊行年月, 本体価格.
ハイデガーにおけるエルンスト・ユンガーへの取り組みの再検討 ... - nifty (Adobe PDF) -htmlで見る
homepage3.nifty.com/h~hasegawa/study/data.../20120630.pdf
例えばハイデガーは、ユンガーの七十歳記念論文集に対する寄稿「こ. の<線> ... 簡体 論文「存在の問いへ」のなかで、次のように述べております。 ... であり、他には 1954 年刊の『講演と論文』(全集第 7 巻)に収められた「形而上学の超克」.
CiNii 図書 - 形而上学の克服 : 近代哲学の終焉
ci.nii.ac.jp/ncid/BA75212503
形而上学の克服 : 近代哲学の終焉 ... Die Überwindung der Metaphysik : zu einem Ende der neuzeitlichen Philosophie .... 第4章 形而上学の個人的な記述(ウィトゲン シュタイン); 第5章 形而上学の自己記述(ハイデッガー); 第6章 形而上学の克服; 第7 ...
付論I シミュラークルと古代哲学
1 プラトンとシミュラークル
《プラトニズムの転倒》は何を意味するのか。それがニーチェの規定した哲学の仕事、或いはもっと一
般的には未来の哲学の仕事である。この表現の意味は、本質の世界と仮象の世界の廃棄であるように見え
る。しかし、こうした企画はニーチェ特有のものではない。本質と仮象の両方を否定することはヘーゲル
に、或いはカントにまでさかのぼる。一一―チェがそれと同じことを言おうとしたのかどうかは疑わしい。
さらに、こうした転倒という表現は抽象的であるという欠点がある。それはプラトニズムの動機付けを隠
してしまう。逆に、プラトニズムの転倒はこの動機付けをあばくこと、プラトンがソフィストを追いつめ
たように、この動機付けを《追いつめる》ことを意味しなければならない。
きわめて一般的に言うならば、イデアの理論の動機は、選択し分類する意志の側に求められなくてはな
らない。差異を作ることが重要である。《事物》そのものとそのイマージュ、 オリジナルとコピー、 モデ
ルとシミュラークルを区別しなければならない。しかし、これらの表現のすべては価値があるのだろうか。
プラトンの意図が本当に現われるのは、分割の方法にわれわれがかかわるばあいに限られる。なぜならこ
の方法は、弁証法の手続きのひとつではないからである。この方法は、弁証法のすべての力を集めて、
別の力でそれを溶解させ、それによってすべてのシステムを表象する。最初は、この方法はひとつの類を対
立する種に分けて、適切な種に求められている事物をあてはめることだと言うだろう。つまり、魚釣りの
定義を求めるのに、種の分類を続けるようなものだと言うかもしれない。しかしそれは、分類の表面的な
様相、そのイロニー的な様相にすぎない。もしこの様相をまともに認めるならば、アリストテレスの反対
がまったく妥当なものだということになるだろう。つまり、この分割は間違った、不当な三段論法になる
だろう。なぜならば、たとえば魚釣りは獲得の技術、生けどりによる獲得の技術と同じようなものだとわ
れわれに結論させるような中間項が欠けているからである。
分割の本当の目的は、ほかのところに求められなくてはならない。「政治家」のなかに最初の定義があ
る。つまり、政治とは人間の牧者であるという定義である。しかし、医師・商人・労働者といったあらゆ
る種類のライバルが現われて、《人間の牧者は私だ》と言う。「パイドロス」において重要なのは、錯乱を
定義することであり、もっと明確には、充分に根拠のある錯乱と本当の愛とを区別することである。ここ
でも多くの求婚者が現われて、《霊感を受けた者、愛されている者は私だ》と言う。したがって、分割の
目的は類を種に分割することなどではなく、もっと深く、系統を選ぶことである。つまり、求婚者たちを
区別すること、純粋なものとそうでないもの、本当のものとそうでないものを区別することである。その
ために、分割を金の分析にたとえるメタファーがいつも行なわれる。プラトニズムは哲学的な「オデュッ
セイア」である。プラトン的な弁証法は、矛盾や対立の弁証法ではなく、対抗(amphisbetesis)の弁証法
であり、競争者もしくは求婚者たちの弁証法である。分割の本質は、類から種を確定するという大きさの
なかにはなく、系統の選択という深さのなかにある。主張を選別し、本当の求婚者とにせの求婚者を区別
すること。
311-312
《フッサール的な意味の付与は、徐々に退行する同質のセリーから、その次には異質のセリーから成るひと つの組織から―― それはノエシスのセリーとノエマのセリーであ って、(ウルドクサと何らかの対象という)二つの面の決定機関が浸透しているものだが――適切な仮象を借りてくることである(4)。しかしそれは、 真の生成についての、またセリーのなかで実現されることによって生成を規定しなければならない意味の付与についての、さらには、準原因として作用し、この意味付与を支配しなくてはならない二重のナンセンスについての、合理的な、もしくは合理化された戯画にすぎない。実際、内在的な準原因に基づく意味 の付与、命題の他の次元にとって結果する静的な生成は、サルトルが 一九三七年に書いた、決定的な意義のある論文のなかで提起した条件に対応する、先験的な領域のなかでのみなされうる。それは、非人称的な先験的な領域であって、綜合的な個人の意識、主体的な同一性という形式を持ってはいない。むしろ主体がつねに構成されている(5)。基礎は、それが基礎付けるものとまったく類似していない。
…
4 フッサール #100-101,102sq
5 Cf.Sartre,《La Transcendance de l'Ego》 .in Recherches phslosophiques, 1936-1937. puls ed.Vrin.自我としての私を生産するものである《非人称的もしくは前人称的な》先験的領域という考え方は、きわめて重要である。サルトルのばあい、この考え方が展開してあらゆるその帰結が生まれるのを妨げているのは、非人称的な先険的領域が、まだ意識の領域として規定されているからである。この意識の領域は、その結果として、それ自体によって、私なしで、志向性もしくは純粋な留保によって統一されなくてはならないものである。》
ドゥルーズ意味の論理学#14,邦訳127~8,425頁
サルトル自我の超越
サルトル全集〈第23巻〉哲学論文集 (1957年) - – 古書, 1957
http://www.eleutheria.com/philo/autoaffection/sartre/ego.html
ここで追いかけているのは、自己触発の形象なのであるが、それはまた受動性能動性の脱臼というものにも関係している。このことが最も明瞭に見て取れるのは一見してキルケゴールに従うハイデッガーではなく、サルトルである。(その『自我の超越』に注目するドゥルーズが同じく受動能動の脱臼状態(『差異と反復』)、あるいは受動能動の彼方にある意味(『意味の論理学』)に拘るということは、意義深く見える。)
『自我の超越』はカントの自我論、つまり実体としての自我の拒否論から始まる。そしてカントが人間精神の英知体に唯一認める<自発性>の領域をフッサールの超越論的意識に求める。
「この地平では、現われが絶対なのだから、可能的なものと現実的なものとのあいだに、もはや区別はない。また障碍もなければ限界もなく、意識を意識自身からかくすいかなるものももはやない。そのとき意識は、意識の自発性の宿命とでも呼び得るものに気づいて、とつぜん不安になる。この絶対的な、癒し難い不安、この自己恐怖こそ、わたくしたちには純粋意識を構成しているもののようにおもわれるし、これこそ、さっきかたった神経衰弱的な混乱の鍵をあたえるものなのである。」(『自我の超越』、人文書院『哲学論文集』所収、239)
もはや何ものにもつなぎとめられない自発性、能動性は精神の病の構成契機なのだが、同時に<純粋意識>をも構成する。とはいえ、この部分は叙述があらかた済んでからのもので、当初はこうではなかった。
サルトルがフッサールの超越論的意識に見ていたものは、<我>の人称性も<自我>の実体性もない、まさに純粋能動意識であるが、それがそうであるのはしかし、<対象>への志向性というおきまりの格言が持つ受動能動体が保証する平安な領野においてのことである。
確かに自己触発という表現は出てこないにせよ、次のような表現は他の哲学者なら自己触発と呼ぶかもしれない事態を示していよう。
「意識自身が自分で自分を統一づけるのであり、しかも具体的に、過去の意識の具体的現実的な把持(retentions)である<横>の指向性の作用によって統一づけるのだ。したがって、意識は絶えず自分自身へと投げ返すものであって、<一つの意識>について語ることはとりもなおさず一切の意識についてかたることになるのだし、この特異な特性は、他の点で意識が<我>とどんな関係を持つにしても、もともと意識それ自身に帰属するものなのである。フッサールは『デカルト的省察』において、時間のなかで自分を統一づける意識というこうした概念を、完全に保有していたようにおもわれる。一方、意識の個性も、あきらかに意識の性質から生まれるものだ。意識は、ただ自分自身によってしか限界づけられない―――スピノザの実体のように。」(184)
こうした意識が<非反省的意識>とされ、それに対する<反省意識>が、いわばこの根源的受動能動たる自己触発性から、ハイデッガー的に言えば<頽落>する。
ハイデッガーにおいては、実存と非実存の共通項が時間における受動(事実性)能動(超越)体として記述され、実存は「将来的既在的瞬間」として、非実存は「予期的忘却的没頭」とされ、かくて同じ受動能動性が、未来の先取りとしての予期や、過去の事実性が誘う忘却や、現在の世界内部性への没頭によって<頽落>する。
サルトルにあっては、超越論的意識の自己触発的運動が、我やエゴの構成によって「退化する」。したがってここには「退化した受動能動についての論」があることになる。
もっともサルトルは自発性の退化というだろう。ただここではその前場面として、超越論的意識があり、その意識は「自己についての意識」であり、「己自身によって限界づけられる」というその限界づけ「られる」相を、私はサルトルがそれ以上言及しない<受動性>とみなしているのである。
自らが無意味と断定するその対象に自己が付随していることに無自覚でありつづけるよりも、
以下のようなドゥルーズの分析が重要だろう。
《ナンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するか たちであり、もうひとつは分離的
綜合に対応するかたちである 。》
ドゥルーズ意味の論理学#11,邦訳単行本88頁
柄谷行人の村上春樹論などはこうしたナンセンス論に対応している。非政治性に意義があった時代はあった。
しかし、政治主義の敗北は歴史的なものでその意味に無反省なものの言説は無意味だ。
自らが無意味と断定するその対象に自己が依拠していることに無自覚でありつづけるよりも、
以下のようなドゥルーズの分析が重要だろう。
《ナンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するか たちであり、もうひとつは分離的
綜合に対応するかたちである 。》
ドゥルーズ意味の論理学#11,邦訳単行本88頁
柄谷行人の村上春樹論などはこうしたナンセンス論に対応している。非政治性に意義があった時代はあった。
しかし、政治主義の敗北は歴史的なものであり、その意味に無反省なものの言説は無意味だ。
自らが無意味と断定するその対象に自己が依拠していることに無自覚でありつづけるよりも、
以下のようなドゥルーズの分析が重要だろう。
《ナンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するか たちであり、もうひとつは分離的
綜合に対応するかたちである 。》
ドゥルーズ意味の論理学#11,邦訳単行本88頁
柄谷行人の村上春樹論などはこうしたナンセンス論に対応している。非政治性に意義があった時代はあった。
しかし、政治主義の敗北は歴史的なものであり、その意味に無反省なものの言説もまた無意味だ。
自らが無意味と断定するその対象に自己が依拠していることに無自覚でありつづけるよりも、
以下のようなドゥルーズの分析が重要だろう。
《ナンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するか たちであり、もうひとつは分離的
綜合に対応するかたちである 。》
ドゥルーズ意味の論理学#11,邦訳単行本88頁
柄谷行人の村上春樹論などはこうしたナンセンス論に対応している。非政治性に意義があった時代は確かにあった。
しかし、政治主義の敗北は歴史的なものであり、その意味に無反省なものの言説もまた無意味だ。
自らが無意味と断定するその対象に自己が依拠していることに無意識でありつづけるよりも、
以下のようなドゥルーズの分析が重要だろう。
《ナンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するか たちであり、もうひとつは分離的
綜合に対応するかたちである 。》
ドゥルーズ意味の論理学#11,邦訳単行本88頁
柄谷行人の村上春樹論などはこうしたナンセンス論に対応している。非政治性に意義がある時代は確かに
あった…
しかし、政治主義の敗北もまた歴史的なものであり、その意味に無反省なものの言説もまた無意味だ。
かばん語 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/かばん語
かばん語(かばんご)あるいは混成語(こんせいご)とは、複数の語のそれぞれの一部を 組み合わせて作られた語である。語の一部 ... この単語は、『鏡の国のアリス』の作中 において、旅行カバンと関連付ける形で作成された、ルイス・キャロルによる造語である。
語源-日本語の場合-構成-脚注
「かばん語(Portmanteau)」って?【知っているとちょっと ... - マイナビニュース
news.mynavi.jp>ニューストップ>キャリア>英語スキルアップ
2つ、またはそれ以上の語の1部を組み合わせて作った語のことを「portmanteau( かばん語)」と言います。これは、ルイス・キャロルが「鏡の国のアリス」で、ハンプティ・ ダンプティのせりふとして「slithyという言葉は、滑らか(lithe)で ...
かばん語 (かばんご)とは【ピクシブ百科事典】
dic.pixiv.net>...>一般>生活>日常>コミュニケーション>言語>日本語
この単語は、1871年に発表されたルイス・キャロルの児童小説『鏡の国のアリス』の作 中の一説に由来している。 ... かばん語」という名称は英語の“portmanteau word”を 訳出したもので、その語源は英語のporter(カバン)+フランス語のmanteau(外套)+ ...
Portmanteau かばん語 | Yuzuwords
www.yuzuwords.com/2014/10/14/portmanteau かばん語/
ポートマント-」という言葉はルイス・キャロルの造語。『鏡の国 ... 英語版のWikiには、 かばん語の例として「Gerrymandering」や「brunch」が紹介されている。 ... 複数の単語 の一部ずつをつなぎあわせて、全く新しい概念を表すのがかばん語。
プラトニズムの転倒とは、まず第 一に本質を廃棄して、特異性の噴出としてのできごとをそこに代置することである。
二重の闘争の目的は、できごとが本質と独断的に混同すること、できごとが偶発事故と経験的に混同することを
すべて妨げることにある。
…
できごとは それ自体で問題設定的であり また問題設定をするものである。
LS#9
特異点 (数学)
数学において、特異性(とくいせい、英: singularity)とは、適当な枠組みの下で考えている数学的対象が「定義されない」「よく振舞わない」などと言ったことを理由に除外されること、もの、およびその基準である。特異性を示す点を特異点(とくいてん、singular point)という。
これに対して、ある枠組みの中で、よく振舞う (well-behaved) ならば非特異 (non-singular) または正則 (regular) であると言われる。
目次
1 実解析における特異性
2 複素解析における特異性
3 代数幾何における特異性
4 函数方程式論における特異性
5 微分幾何における特異性
6 関連項目
7 外部リンク
実解析における特異性
実解析においては、実函数に対してしばしば連続性を基準に取り、函数の連続性に関して正則な振舞いをする点を連続点、特異な振舞いをする点を不連続点と呼ぶ。実函数の不連続性には二つの種別があり、またそれぞれの種別はそれぞれ二通りに細分される。
第一種不連続点:
可除不連続点
跳躍不連続点
第二種不連続点:
無限不連続点
真性不連続点
複素解析における特異性
複素解析においては、複素函数に対してしばしば微分可能性あるいは解析性を基準として、正則性、特異性を論じる。
孤立特異点 (isolated singularity): 特定の点における函数の有界性からのズレを示すもの
可除特異点 (removable singularity)
極 (pole)
真性特異点 (essential singularity)
分岐点: 解析接続に関して一価の函数が多価性を示すこと
代数幾何における特異性
代数幾何における特異性は、多様体あるいは環の局所化が正則局所環とはならないこと。
fill in: 結節点、重複点、尖点、孤立特異点
「特異点解消」も参照
函数方程式論における特異性
fill in: 確定特異点、動く特異点
微分幾何における特異性
微分がランク落ちするような点を臨界点、フルランクの点を正常点とする
関連項目
特異点論
超局所解析 (microlocal analysis)
ローラン展開
外部リンク
京都大学 数理解析研究所講究録 1546巻 2007年 pp.88-103
東工大生協 研究室紹介冊子 50号 石井研究室(代数幾何学)
PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)ペンパイナッポーアッポーペン/PIKOTARO(ピコ太郎)
https://youtu.be/0E00Zuayv9Q
ドゥルーズ『意味の論理学』より
11.ナンセンスについて(カバン語)
11.ナンセンスについて
…カバン語それ自体が二者択一の原理であり、この原理によってカバン語は二つの関係項を作る(frumieux=fumant〔湯気が立つ〕+furieux〔怒った〕、 もしくは furieux+fumant)。こうした語のそれぞれの潜在的な部分は、他の部分の意味を指示するか、逆にその部分を指示する他の部分を表現する。この形式のもとでも、語の全体はそれ自体の意味を語り、この新しい資格でナンセンスである。実際、意味を与えられた名の、第二の通常の法則は、それらの名の意味は、それらの名が入って行く二者択一を決定できないということである。したがって、ナンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するかたちであり、もうひとつは分離的綜合に対応するかたちである。
こうしたことのすべては、何を語ろうとするものでもないという反対論がある。定義によって、ナンセンスには意味がないのであるから、ナンセンスがそれ自体の意味を語るとするのは駄洒落だというのである。こうした反対論には根拠がない。ナンセンスには意味がないという意味があると語るのは、ことばのたわむれである。しかし、われわれの仮説はそんなことではない。ナンセンスがそれ自体の意味を語るというとき、われわれはむしろ意味とナンセンスは、真偽の関係を写すものではありえない特別な関係、つまり、単なる排他関係とは考えられえない関係を持っていると言いたいのである。これが、意味の論理学の最も一般的な問題である。真実の領域から意味の領域へと上昇したとしても、もしもそれが意味とナンセンスとのあいだに、真と偽とのあいだにあるものと似た関係を見出すためであるならば、何の役にも立たないだろう。われわれはすでに、可能性の単なる形式として、条件付けられたものと類推して条件を考えるために、条件付けられたものから条件へと上昇することがむだであることを指摘しておいた。条件とその否定との関係は、条件付けられたものとその否定との関係と、同じタイプのものではありえない。
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鏡の国のアリス#6ハンプティ・ダンプティ
…「なるほど、よくわかります」とアリス。「では『ぬなやかな』は?」 「うむ、『ぬなやかな』は、『しなやか』──『しなやか』は『活発に動いている』という意味だが──かつ『ぬるぬるしている』ということだ。つまり、旅行カバンみたいなもんでね、二つの意味がひとつの言葉におさまっているわけだ。」…河合訳
Lewis Carroll
THROUGH THE LOOKING-GLASS
And what Alice found there 1872
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かばん語 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%B0%E3%82%93%E8%AA%9E
かばん語(かばんご)あるいは混成語(こんせいご、英: portmanteau)とは、複数の語のそれぞれの一部を組み合わせて作られた語である。語の一部ではなく全部を組み合わせたものは合成語である。その語源からポートマントーとも。
目次
語源
日本語の場合
構成
脚注
関連項目
語源 編集
この単語は、『鏡の国のアリス』の作中において、内部が2つに分かれた「portmanteau」という旅行カバンと関連付ける形で作成された、ルイス・キャロルによる造語である。作中でハンプティ・ダンプティは以下のように発言している。
「さよう、粘滑ねばらか (英: slithy) とは、滑らかで粘っこい (lithe and slimy) 様子じゃ。この言葉は旅行カバン(portmanteau)のようじゃろう — 2つの意味が、1つの言葉に詰め込まれておる」
キャロルはこのようなかばん語を、ハンプティ・ダンプティがアリスに説明する「ジャバウォックの詩」を代表とする自作の詩の中に、ユーモラスな効果を狙って使用した。
英語においては、 これらの単語を示す本来の用語は(1990年代初頭に出版された辞書に記載されている通り)「portmanteau word」であったが、かばん語という用語と、かばん語が指し示す用語の形式が広く一般に用いられるようになり、この用語は単純に「portmanteau」と省略されるようになった。さらにこの形式の旅行カバンが廃れたことにより、現在[いつ?]の英語で「portmanteau」という用語が本来の意味で使用される事は滅多に無くなった。
ジェイムズ・ジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』において、広く混成語を使用した。
日本語の場合 編集
日本語、殊に大和言葉においては、正規の語法として用いられることは少ない。かなり古くから用いられた例として「やぶく」(「やぶる」と「さく」から)、「とらまえる」(「とらえる」と「つかまえる」から)などがあるが、これらは誤って二つの単語が混同されたものとして扱われることが多い[1]。現代人が比較的目にしやすいかばん語は商品名に用いられているものであり「熱さまシート」(熱さまし+シート、小林製薬)、「ネスプレッソ」(ネスレ+エスプレッソ)などがこれにあたる[2]。昆虫の「コロギス」も混成語である。
三字の漢語については、「青少年」(「青年」と「少年」から)、「国公立」(「国立」と「公立」)のような例が散見されるが、漢字の表意的性格により、個々の字義から意味が明らかであるため、辞書に載らない暫定的な造語であることが少なくない。
構成 編集
混成語は、以下の手法の内のいずれかにより作成される。
上記の「slithy」のように、原型となる各単語成分の発音の一部が、各語の意味のほとんどを保存したまま混合される。この手法はルイス・キャロルの好むところであり、他の手法はほとんど使用していない。
「breakfast」(朝食)と「lunch」(昼食)で「brunch」(ブランチ)のように、第一の語の前半と第二の語の後半が連結される。この手法は混成語を作成する最も基本的な手法である。
両方の単語成分が共通する文字や発音の配列を有している。作成されるかばん語は、第一の語の前半と共通部分、第二の語の後半から構成される。この手法で生成される混成語は少数である。
脚注 編集
^ ただし、ここで取り上げられた「やぶく」は歴とした方言でラ行活用がカ行活用化した音便である(やぶれる→やぶける)。
^ 「ことば遊びの読み解きと鍵」西脇沙織(慶應義塾大学大学院) 2010 [1] P.27
関連項目 編集
新語
合成語
形態論
合成地名
ハイブリッドの言葉
意味の論理学ジル・ドゥルーズ岡田弘/宇波彰訳
法政大学出版1987
LS
#3命題について
むしろ、表出作用は指示作用を可能にし、推理が組織的な統一体を形成して、そこからさまざまな連合が派生する。ヒュームはそのことを洞察していた。ヒュームによれば、原因から結果へという連合においては、関係そのものよりも《関係による推理》が先行する。こうした表出作用の優位は、言語学的な分析によって立証される。なぜなら、命題のなかには、特別な分子としての《表出するもの》があるからである。それは、私・君・明日・つねに・ほかに・いたるところに、などである。そして、固有名詞が特権的な指示語であるのと同様に、私は、基本的な表出するものである。私に依存しているのは、単にその他の表出するものだけでなく、指示語の全体が私に関係する。指示作用は、個体的な事物の状態、個々のイマージュ、特別な指示するものを含む。しかし、私を出発点とする表出するものは、可能なすべての指示作用にとって原理の役割をする人格的なもの(le personal)の領域を構成する。最後に、指示作用から表出作用へは、コギトによって表象される論理的価値の転位が生ずる。つまり、真実か虚偽かではなく真実性と欺晴が問題になる。蜜蝋のかたまりについての有名な分析のなかで、デカルトは蜜蝋のなかに残っているものを探求するのではなく――デカルトはこのテクストのなかではその問題の提起さえもしていない――、 コギトにおいて表出されている私が、蜜蝋の確認の根拠となる指示作用の判断をどのように基礎付けているかを示している。
ヒューム人性論
1:3:4
第四節 原因と結果に関する推論を構成する諸部分について 原因あるいは結果から推論する際、心は現に見ている対象もしくは思い出す対象を越えたところに視線を向けるのではあるが、しかし、そうした対象をけっ…
LS
#3命題について
むしろ、表出作用は指示作用を可能にし、推理が組織的な統一体を形成して、そこからさまざまな連合が派生する。ヒュームはそのことを洞察していた。ヒュームによれば、原因から結果へという連合においては、関係そのものよりも《関係による推理》が先行する。こうした表出作用の優位は、言語学的な分析によって立証される。なぜなら、命題のなかには、特別な分子としての《表出するもの》があるからである。それは、私・君・明日・つねに・ほかに・いたるところに、などである。そして、固有名詞が特権的な指示語であるのと同様に、私は、基本的な表出するものである。私に依存しているのは、単にその他の表出するものだけでなく、指示語の全体が私に関係する。指示作用は、個体的な事物の状態、個々のイマージュ、特別な指示するものを含む。しかし、私を出発点とする表出するものは、可能なすべての指示作用にとって原理の役割をする人格的なもの(le personnel)の領域を構成する。最後に、指示作用から表出作用へは、コギトによって表象される論理的価値の転位が生ずる。つまり、真実か虚偽かではなく真実性と欺晴が問題になる。蜜蝋のかたまりについての有名な分析のなかで、デカルトは蜜蝋のなかに残っているものを探求するのではなく――デカルトはこのテクストのなかではその問題の提起さえもしていない――、 コギトにおいて表出されている私が、蜜蝋の確認の根拠となる指示作用の判断をどのように基礎付けているかを示している。
1:16 午前 削除
Blogger yoji さんは書きました...
ヒューム人性論
1:3:4
第四節 原因と結果に関する推論を構成する諸部分について 原因あるいは結果から推論する際、心は現に見ている対象もしくは思い出す対象を越えたところに視線を向けるのではあるが、しかし、そうした対象をけっ…
〈それ(エス)〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。
AO冒頭、呼吸が真っ先に出てくるのは喘息の悪化を表していると蓮實重彦は言っていた気がする。
《ソクラテス以前のひとたちは、洞窟のなかに思考を位置させ、深層に生活を置
いた。彼らは水と火を探った。彼らは、像を砕くエンペドクレスのように、地質
学者・洞窟学者の斧をふるって哲学を作った。火と水との氾濫のなかで、エトナ
山はエンペドクレスからただひとつのもの、鉛のサンダルだけを吹き上げた。
プラトン哲学でいう魂の翼に、エンペドクレスのサングルが対立する。このサンダ
ルは、彼が大地の者であり、地下、土着の者であったことを立証している。プラト
ン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。》
(『意味の論理学』第18セリーより)
*
火口に飛びこむ際、エンペドクレスは履いていたサンダルを脱ぎ、きちんと揃えていたという。
http://mimizun.com/log/2ch/philo/1272258024/180
180 :考える名無しさん:2010/07/21(水) 22:53:53 0
ちなみにドゥルーズは自らエトナ火山に身を投げたエンペドクレス*を評価していた。
「プラトン哲学でいう魂の翼に、エンペドクレスのサンダルが対立する。」
「プラトン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。」
(『意味の論理学』第18セリーより)
*エンペドクレスはサンダルを脱いで火山に身を投げたとされる。
《哲学はわが身の微小さと孤独さを感じてしまうわけですが、しかし、たとえ哲学が死ぬことになったとしても、
それはまず笑い死にでしょうね。》哲学について、記号と事件
〈それ(エス)〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。
AO冒頭、呼吸が真っ先に出てくるのは喘息の悪化を表していると蓮實重彦が言っていた気がする。
《哲学はわが身の微小さと孤独さを感じてしまうわけですが、しかし、たとえ哲学が死ぬことになったとしても、
それはまず笑い死にでしょうね。》哲学について、記号と事件
『哲学とは何か』に至るまで、ドゥルーズはエンペドクレス*を評価していた。
《ソクラテス以前のひとたちは、洞窟のなかに思考を位置させ、深層に生活を置
いた。彼らは水と火を探った。彼らは、像を砕くエンペドクレスのように、地質
学者・洞窟学者の斧をふるって哲学を作った。火と水との氾濫のなかで、エトナ
山はエンペドクレスからただひとつのもの、鉛のサンダルだけを吹き上げた。
プラトン哲学でいう魂の翼に、エンペドクレスのサングルが対立する。このサンダ
ルは、彼が大地の者であり、地下、土着の者であったことを立証している。プラト
ン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。》
(『意味の論理学』第18セリーより)
*
火口に飛びこむ際、エンペドクレスは履いていたサンダルを脱ぎ、きちんと揃えていたという。
昇・下降の運動のある、哲学そのものの躁鬱病的な形態である。躁病がプラトンに霊感を与え、彼を導く。問答法はイデアの逃走合計8h【RF)であり、プラトンが言うように、観念は《逃走するか消滅する……》。そして、ソクラテスの死においてすら、鬱病的な自殺のようなものがある。
おそらく、ディオゲネス=ラエルティオスは、その著作のなかの最良のベージにおいて、思考の逸話でもある生活のアフォリズム、つまり哲学者の行動を発見するという方法を予感したのであろう。エンペドクレスとエトナ山、ここにひとつの哲学的な逸話がある。この逸話はソクラテスの死に匹適するが、明確に言えば別の次元でなされている。ソクラテス以前の哲学者は洞窟から外へ出ず、逆にひとびとが洞窟にかかわらず、そこに入りたがらないのだと考える。彼がテセウスを非難するのは糸のことについてである。《君の道が昇り坂であろうと、 君の糸が外へ通じようと、幸福と美徳に通じようとわれわれには何のかかわりもない……君はわれわれをその糸で救うつもりか。お願いだからそれで首をつってくれ!》ソクラテス以前のひとたちは、洞窟のなかに思考を位置させ、深層に生活を置
いた。彼らは水と火を探った。彼らは、像を砕くエンペドクレスのように、地質学者・洞窟学者の斧をふるって哲学を作った。火と水との氾濫のなかで、 エトナ山はエンペドクレスからただひとつのもの、鉛のサンダルだけを吹き上げた。プラトン哲学でいう魂の翼に、エンペドクレスのサングルが対立する。このサングルは、彼が大地の者であり、地下、土着の者であったことを立証している。プラトン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。プラトン哲学の回心に対する、前ソクラテス学派の転倒。閉じ込められた深層は、ニーチェにとっては哲学の本当の方向決定、思考でもある生活と、身体でもある言語とのあらゆる力をもって、未来の哲学のなかからふたたび汲み上げようとする、前ソクラテス学派の発見であるように思われる。《すべての洞窟の裏に、もっと深い洞窟がある。そこにはもっと深い別の洞窟、もっと広く、もっと異様で、もっと豊かな世界、あらゆる根底の底、あらゆる底の下にあるひとつの深淵が、表層の下にあるはずだ。》最初に精神分裂病がある。つまり、前ソクラテス学派の哲学は、まさに哲学的な精神分裂病であり、身体と思考のなかに穿たれた絶対の深層であって、それがニーチェに先立ってヘルダーリンにエンペドクレスを発見させたのである。エンペドクレスの思想の有名な交替論、憎悪と愛の相互補足性において、われわれは一方では憎悪の身体、漉し器的で細分化された身体、《頸部のない頭、肩のない腕、額のない眼》に出会い、他方では、輝かしく、器官のない身体、四肢も声も性もない《真に一体となったかたち》に出会う。同じようにディオニソスは、われわれに対して、二つの顔、開かれ、裂かれたその身体、無感覚で器官のない顔を向ける。分断されたディオニソス、しかも不可入のディオニソスである
昇・下降の運動のある、哲学そのものの躁鬱病的な形態である。躁病がプラトンに霊感を与え、彼を導く。問答法はイデアの逃走であり、プラトンが言うように、観念は《逃走するか消滅する……》。そして、
ソクラテスの死においてすら、鬱病的な自殺のようなものがある。
…
プラトン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。
LS#18
…
ソクラテスの死においてすら、鬱病的な自殺のようなものがある。
…
プラトン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。
LS#18
《…ソクラテスの死においてすら、鬱病的な自殺のようなものがある。
…
プラトン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。
…
前ソクラテス学派の哲学は、まさに哲学的な精神分裂病であり、身体と思考のなかに
穿たれた絶対の深層であって、それがニーチェに先立ってヘルダーリンにエンペドクレスを
発見させたのである。》
LS#18
《…ソクラテスの死においてすら、鬱病的な自殺のようなものがある。
…プラトン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。
…前ソクラテス学派の哲学は、まさに哲学的な精神分裂病であり、
身体と思考のなかに穿たれた絶対の深層であって、それがニーチェに
先立ってヘルダーリンにエンペドクレスを発見させたのである。》
LS#18
PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)ペンパイナッポーアッポーペン/PIKOTARO
(ピコ太郎)
https://youtu.be/0E00Zuayv9Q
ドゥルーズ『意味の論理学』より
11.ナンセンスについて(カバン語)
11.ナンセンスについて
…カバン語それ自体が二者択一の原理であり、この原理によってカバン語は二つの関係項を
作る(frumieux=fumant〔湯気が立つ〕+furieux〔怒った〕、 もしくは furieux+fumant)。こうした
語のそれぞれの潜在的な部分は、他の部分の意味を指示するか、逆にその部分を指示する
他 の部分を表現する。この形式のもとでも、語の全体はそれ自体の意味を語り、この新しい
資格でナンセンスである。実際、意味を与えられた名の、第二の通常の法則は、それらの名
の意味は、それらの名が入って行く二者択一を決定できないということである。したがって、ナ
ンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するかたちであり、もうひ
とつは分離的綜合に対応するかたちである。
こうしたことのすべては、何を語ろうとするものでもないという反対論がある。定義によって、
ナンセンスには意味がないのであるから、ナンセンスがそれ自体の意味を語るとするのは
駄洒落だというのである。こうした反対論には根拠がない。ナンセンスには意味がないという
意味があると語るのは、ことばのたわむれである。しかし、われわれの仮説はそんなことでは
ない。ナンセンスがそれ自体の意味を語るというとき、われわれはむしろ意味とナンセンスは、
真偽の関係を写すものではありえない特別な関係、つまり、単なる排他関係とは考えられえ
ない関係を持っていると言いたいのである。これが、意味の論理学の最も一般的な問題であ
る。真実の領域から意味の領域へと上昇したとしても、もしもそれが意味とナンセンスとのあい
だに、真と偽とのあいだにあるものと似た関係を見出すためであるならば、何の役にも立たな
いだろう。われわれはすでに、可能性の単なる形式として、条件付けられたものと類推して条
件を考えるために、条件付けられたものから条件へと上昇することがむだであることを指摘し
ておいた。条件とその否定との関係は、条件付けられたものとその否定との関係と、同じタイ
プのものではありえない。
2017/01/28(土) 20:21:02.18 0
鏡の国のアリス#6ハンプティ・ダンプティ
…「なるほど、よくわかります」とアリス。「では『ぬなやかな』は?」 「うむ、『ぬなやかな』は、
『しなやか』──『しなやか』は『活発に動いている』という意味だが──かつ『ぬるぬるしてい
る』ということだ。つまり、旅行カバンみたいなもんでね、二つの意味がひとつの言葉におさまっ
ているわけだ。」…河合訳
Lewis Carroll
THROUGH THE LOOKING-GLASS
And what Alice found there 1872
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かばん語 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%B0%E3%82%93%E8%AA%9E
かばん語(かばんご)あるいは混成語(こんせいご、英: portmanteau)とは、複数の語のそれ
ぞれの一部を組み合わせて作られた語である。語の一部ではなく全部を組み合わせたものは
合成語である。その語源からポートマントーとも。
ジェイムズ・ジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』において、広く混成語を使用した。
http://tenhare.hatenablog.com/entry/2015/06/30/154812
事実問題と権利問題というのがあって、カント哲学では区別して考える。
事実問題は事実の確定に関わる問題で、権利問題は法律がその一例で、所謂べき論である。
僕は哲学も法律も専門ではないが、「働いていない」は事実問題で、「働いていないからダメだ」は権利問題になる。
働いていないかどうかは調べればわかるが、働いていないからダメかどうかは議論の余地がある。
両者を混同すると、話しがかみ合わない。
(だから事実と意見は区別しなければならない。)
7:34 午後 削除
Blogger yoji さんは書きました...
真実は事実問題、
意味は権利問題、ということになる
ドゥルーズは後者を重視した
これはドゥルーズのヴィトゲンシュタイン(分析哲学)嫌いを上手く説明する
『哲学とは何か?』ではもう少し踏み込んで可能世界の問題として論じている
潜在性は事実としてある、というのがドゥルーズの主張だ
意味の論理学 (法政大学出版局) - 著者:ジル・ドゥルーズ(1/2) - 吉本隆明による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
https://allreviews.jp/review/981
この本でドゥルーズは、ルイス・キャロルの童話作品『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』を引きあいにだしている。ドゥルーズの「意味」という概念が、言葉のどんな国から、またどんな運用の仕方から産みだされてくるか、その究極の典型のひとつ(もうひとつの典型はアントナン・アルトーだといっている)を、この古典となった作品にみているわけだ。そこでこの書評もそんな口調から入りこんでゆくことにする。
不思議の国のアリス / ルイス・キャロル
不思議の国のアリス
著者:ルイス・キャロル出版社:亜紀書房装丁:単行本(208ページ)発売日:2015-04-25ISBN:4750514284
※書店によっては、在庫の無い場合や取り扱いの無い場合があります。あらかじめご了承ください。
※詳しい購入方法は、各ネット書店のサイトにてご確認ください。
鏡の国のアリス (集英社文庫) / 広瀬 正
鏡の国のアリス (集英社文庫)
著者:広瀬 正出版社:集英社装丁:文庫(395ページ)発売日:2008-10-01ISBN:4087463664
※書店によっては、在庫の無い場合や取り扱いの無い場合があります。あらかじめご了承ください。
※詳しい購入方法は、各ネット書店のサイトにてご確認ください。
およそこの世界に存在している事柄、いろいろな物体、それからかんがえられるイメージや表象のような非物体などは、表層とその下にかくされている深層とからできている。そして「できごと」が起ったり、事物の生成変化が生じたりするのは、すべてこの表層で行われるものだとかんがえるとする。「できごと」や事物の生成変化ばかりでなく、わたしたちの言葉、会話、書記、いろいろな記号の表出もまた、この表層のうえで飛び交い、気脈を通じあい、強い意味の衝撃が伝達されたりしている。この存在の表層には特異な性質がいくつかある。さしあたってひとつだけ挙げておくとすれば、ここでは「できごと」も生成変化も言葉も、すべてが共通の平面に入り込んでしまうような個所が、どこかにかならずあって特異点を作っている。「できごと」や生成変化や言葉のうち、表層では充たされずに、深層に入り込みたいという欲求があったとしても、なかなか深層に入り込むことはゆるされない。その代りこの表層には、深さへの欲求が、直接性とか如実性に変換されるという原則が働いている。アリスの不思議の国とおなじように、これが表層で実現される不思議なのだ。たとえば空也上人が「南無阿彌陀仏」という念仏称名の言葉を口から吐きだしたとする。このばあい表層がもっている究極の直接性や如実性とは、この念仏称名が音声として空也上人の口からとびだしてくることではなく、六波羅蜜寺の木像のように、つぎつぎに小さな阿彌陀仏のじっさいの像が、空也上人の口からじかにとびだしてくることだ。これが表層の重要な性質のひとつと考えられている。そこでこの表層は物体も非物体も事柄も無限に多様な姿で渦巻いている。もちろん『不思議の国のアリス』に出てくるトランプ・カードの王様や女王みたいに、厚さのない平べったい存在などは、この表層の性質にいちばんよく適合してしまうのだ。
著者ドゥルーズはつぎのようにかんがえる。いまこの表層に飛びかう存在を、あるまとまったモチーフごとに、命題1、命題2、命題nといった名前をつけるとする。この命題には、いくつかの似ているようで異った関係が通用することがわかる。ドゥルーズの数えているとおり挙げれば、(1)は指示作用。これは存在する事物の状態をイマージュで思い浮べ、それと命題に含まれたモチーフとを言葉で関係づける作用である。(2)は表出作用。これは命題と対応する話し言葉を表現する主体に関係づける作用で、主体の側が欲求や信念を言表しようとすることから成り立っている。(3)は意味作用。この作用は、言葉とそれに対応する概念の内質から成り立つ領域である。
この本の著者は、この三つの関係のほかにもうひとつ、第四番目に設定される関係を考えている。それが(4)意味なのだ。
ここでいう意味とはなにか? この問いがこの本の第一の要めになっている。ドゥルーズは、誤解をまねかないように丁寧に説明している。わたしがフッサール=ドゥルーズの意味規定を誤解していないとすればつぎのようになる。いまここに指示された実在の樹木がある。燃やしたり、何かに利用したり、見たりできるその樹木だ。これはこのままでは樹木のノエマ(意味)ではない。この樹木は視点と作用を変えると、それに応じてたくさんのノエマ面(意味指向)をもっている。この樹木がミドリの枝葉を繁らせているとする。このばあいミドリは樹木の感覚的な色彩である。ところで夏になってミドリを繁らせはじめたこの樹木の状態を「ミドリになった」とかんがえたとき、この生成変化をあらわす「ミドリになった」は、ノエマ的な(意味的な)色彩だといえよう。べつの言い方をすれば、この樹木の色の(色彩的)意味ということだ。だがまだ樹木そのものの意味ではない。このばあいこの樹木の意味とは何を指すのか? ドゥルーズは、この樹木がこの樹木になること(この樹木であること)、それがこの樹木のノエマ(意味)だと言っている。樹木のノエマ(意味)とは樹木という「できごと」そのものを指している。そして大切なことは、この樹木のノエマ(意味)である樹木という「できごと」は、表層の上の「できごと」であり、この樹木がそう見えるその通りのこと(外見)を指しているということだ。ここでもうひとつ大切なことは、この樹木がそう見えるその通りのこと(外見)がノエマ(意味)だという言い方をすれば、知覚的な、あるいは感覚的な存在のように受け取られるおそれがあるが、そうではない。観念的な客体としてそう見えることを指している。
意味の論理学 (法政大学出版局) - 著者:ジル・ドゥルーズ(2/2) - 吉本隆明による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
https://allreviews.jp/review/981?page=2
ここまできてわたしたちは、はじめて著者ドゥルーズが意図している通りに、意味の論理学をたどれることになる。ドゥルーズはしだいにフッサールの意味概念に異を立てながら、意味が発現する瞬間の位置を決定しようとする。これは何でもないようで、とても重要なことだ。ドゥルーズによれば、わたしたちが何かを指示しようとしたり、命題について語りはじめようとしたりする瞬間には、もう意味はわたしたちの内部で理解されたり、あらかじめ想定されたりして、すでにそこにあるものだと見倣される。ベルグソンがいうように音から映像へ、映像から意味へと移行するのではなく、一挙に意味のなかに身をおくというのが、意味発現の在り方だということになる。そしてこの意味発現の瞬時に、意味は、事物と命題、実詞と動詞(主体と述語)、指示作用と表現とが対立する境界線のところで、それを切断したり、分節したりして、差異を作るものを指している。
意味がどんな条件のところで発現しやすいかについて、ドゥルーズは興味深い場面をふたつ指摘している。ひとつは構造が考えられる場所だ。このばあいの構造は、命題がモチーフによって集合をつくっている表層の場所と受け取ってよいのかもしれない。また事物がひとつの系列をつくっている個所かもしれない。ドゥルーズ的な言い方をすれば「構造は非物体的な意味を生産する機械」なのだ。もうひとつ意味が発現しやすい現場がある。それはナンセンスがいつも移動している表層の個所だ。このばあいナンセンスというのは無意味ということではなく、自体を欠如しているものとしてのナンセンスが、その欠如によって過剰な生産を行っているものを指している。
いいかえれば意味付与にほかならない。このようにナンセンスは、意味の不在と対立しながら過剰を生産しており、それは意味として発現されることになる。
ドゥルーズのこの本はどんな本だといえばいいのだろう。わたしには古典近代期の哲学概念を使い直して、フッサールの意味概念を改訂しようとしたものだとおもえる。ある側面では文学作品といっていいほど意味概念の緻密化が行われているし、別の側面からは、フッサールよりもはるかに古典的な概念に意味がおき代えられている気がする。キャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』は、キャロルの変形の病的な任意性、出たとこまかせの空虚さを覗かせた奇妙な童話作品だ。が、ドゥルーズは、この奇妙さを見事に哲学の概念におきかえている。存在の表層に循環する空孔に意味の発生現場をみようとするドゥルーズの意味論の運びを微細にするのに、キャロルの作品は、たくさんの示唆を与えているようにみえる。表層以外に作品の場所を設定しなかった作者キャロルの、心理の深層については、『口唇性について』が優れた解析をやっているとおもえる。
なぜそんなにも意味なのか? ひとつにはソシュールの意味概念があまりに古典的で単純だからだ。それからまだある。ドゥルーズによれば、本質という概念が現在では衰弱し、アルトーのような表層が崩れてしまって、臓器をむき出しにしなければ集体=言語を行使できなくなってしまった思想でなければ、深刻が足りない、本質がないなどと喰いつくものもいなくなってしまった現在という時代に、意味と存在の表層の場面だけが、本質に取って代りうるものだと主張したかったからだ。古典近代期の哲学者たちの頭脳に宿った観念によれば、理性を行使するものとしての「神と人間」とは、かつては、意味を生産し、その意味を光あるものにしうる存在だった。ドゥルーズの言葉では「神と人間」のコンビは、存在の表層を測量する機械仕掛けであり、すくなくとも近代の開明をひらくものでありえた。いまはどうなのか。すでに「神と人間」は、もうそれほどの力をもちえなくなっているとしかおもわれない。意味をつくり出し、つくり出すことが新しい機械装置をつくり出すことでもあるような手段は、どうやれば手に入れることができるのか。意味の論理学は、べつにそれを問いただし、解答を与えることなど要らないはずなのに、ドゥルーズはそれを問いにだし、またそれに答えようとしている。
ほんとうはこの本はかなり愉しい本なはずだ。いくつかの個所では古典近代期の哲学的な範疇からも、切実で息苦しい意味の存在理由からも解放されて、文体の密度とモチーフの大きさとが、ぴったりと重なって快く流れてゆくのに遭遇する。そういう個所では、この本の著者は偉大だなとおもったりする。
だがドゥルーズは一種の使命感で、新しい機械装置をこしらえて新しい意味を生産しなくてはならないと説く。存在の表層にはチェスの空いた目のような空孔があり、古典近代期の「人間」が夢みたこともないし、「神」が構想したことがないような循環や反響や「できごと」が、現在そこを貫通している。そこに循環作用を起こさせること。要するにその空孔から「人間」のものでもなく、「神」のものでもないような意味を生産させること。ドゥルーズは、それが現在ということであり、現在の仕事だと語りかけている。
【新版】
意味の論理学〈上〉 (河出文庫) / ジル ドゥルーズ
意味の論理学〈上〉 (河出文庫)
著者:ジル ドゥルーズ出版社:河出書房新社装丁:文庫(307ページ)発売日:2007-01-06ISBN:4309462855
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1968DRは劇場モデル
1969RSは機械モデル
テクスト論で内在的にやろうとするとポリコレ批判にせよネオリベ批判にせよ
自己言及のパラドックスを避けられない
柄谷みたいに自覚的にやるならばいいが
この件についてはドゥルーズが決定的なことを言っている
《ナンセンスには意味がないという意味があると語るのは、ことばのたわむれである。
しかし、われわれの仮説はそんなことではない。ナンセンスがそれ自体の意味を語る
というとき、われわれはむしろ意味とナンセンスは、真偽の関係を写すものではありえ
ない特別な関係、つまり、単なる排他関係とは考えられえない関係を持っていると言
いたいのである。》意味の論理学#11
これはもう意味の倫理学である。論理学では倫理は語れないということ
ナンセンス=ASD