日曜日, 10月 04, 2015

単純再生産再考(花田清輝と吉本隆明)

市場経済と資本主義経済の違いがわからないと安易なイデオロギー論争になる。
マルクス的には単純再生産と拡大再生産(教育格差を含む)の違いであり、
カレツキ、ケインズ的には有効需要、再投資の有無と言える。
国家と資本の双頭性を指摘したのが柄谷の功績だが、
再生産表式軽視も宇野弘蔵から受け継いでしまったので厳密な議論にならない。

自給自足、循環型社会を目指す老子的アナキズムが、世界共和国の構成要素として必要だ。

花田清輝はユートピアを単純再生産社会と定義したがこの辺りが本気で検討されないと
吉本隆明みたいになる。

(ジジェクのようにヘーゲルに還るのはいいが、
吉本によって唯物論、官僚主義として排除、否定されたものの中にこそ可能性がある。
花田清輝、ドゥルーズ、柄谷、反核…
吉本の限界は江戸っ子の限界だ。)

《 いったいユートピアが、フライアーのいうように「政治的な島」であり、それ自身の空間に存在する完結的な体系であるとするならば、我々の時代におけるユートピアは、経済的には、単純再生産の表式によって正確に表現されるでもあろう。周知のように、単純再生産の正常な進行のためには、生産手段の生産部門(Ⅰ)における可変資本(Ⅴ)と剰余価値(m)との和が消費資料の生産部門(Ⅱ)における不変資本(C)にひとしくなければならず──したがって、I.1000V+1000m=II.2000Cなる表式の成立が、不変の諸事情の下におけるユートピア社会の誕生のためには欠くべからざるものであろう。この単純な表式は、ピランデルロの聖母子像よりも、はるかに我々にたいして切実であり、このような非情な数字によって、その存在の前提条件が示されるならば、ユートピアはかならずしも時代遅れな感じを我々にあたえないですむのではなかろうか。いまもなお我々は、たしかにユートピアの実現をねがっているにちがいない。現代の課題は、資本制社会の枠内において、まず、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ。とはいえ、我々のユートピアもまた氷山の頭のごときものであり、それが、なんらの陰影もみとめられない極度に明確な表式によってとらえられるにいたったことは、かえって我々の極度の混乱を暗示するものにほかならなかった。むろん、この種の抽象的な表式は、我々のユートピアにのみ特有のものではなく、あらゆるユートピアにみいださるべきものであり、たとえば、レッセ・フェールによって基礎づけられたユートピアとしての原始社会や未来社会のばあいにおいても、表式は、我々のユートピアにのみ特有のものではなく、あらゆるユートピアにみいださるべきものであり、たとえば、レッセ・フェールによって基礎づけられたユートピアとしての原始社会や未来社会のばあいにおいても、表式の成立は、それとは意識せず予定されているのであった。いや、過去においてもユートピアのもつ再生産過程が、まったく気づかれずにいるわけではなく、すでに『支那の専制政治』にユートピアをみいだしていたケネーは、また『経済表』の作者でもあった。我々のばあいは、その表が表式にまで精密化されているにすぎない。多かれ、少かれ、いつの時代にも混乱はあったのだ。
 そこで我々の問題は、このような表式をはっきり意識している人びとによって、いかなるユートピアが追求されているかをみることにある。骨組を知って肉づけをする芸術家は、それを知らないで肉づけをする芸術家より
も、はるかに巧緻な作品を生みだすはずであろう。しかるに、いささか意外なことに、かれらの思い描いているユートピアは、倫理的=社会的な、いわば精神的ユートピアとでも称すべきものであった。…》
(花田清輝「ユートピアの誕生」『復興期の精神』講談社文芸文庫iBooksより。初版1947年。)

《『女の論理』から『楕円幻想』にいたるエッセイの大部分は、第二次世界大戦中、文化再出発の会の機関誌『文化組織』に発表された。ヨリ正確にいえば、昭和十六年(一九四一)三月から昭和十八年(一九四三)十月におよぶ期間である。》同新版あとがきより


参考:
ハンス・フライヤー(フライアー)Hans Freyer はドイツの社会学者。ヘーゲル研究などがある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Freyer
Die politische Insel. Eine Geschichte der Utopien von Platon bis zur Gegenwart, 1936
http://memim.com/hans-freyer.html
The political island. A history of utopias from Plato to the present. Bibliographer. Inst, Leipzig 1936 ☆

 邦訳:
 社会学入門 (1943年) ハンス・フライヤー、 阿閉 吉男
 資本制経済思想の発展 (1943年) - ハンス・フライヤー (著), 立野 保男 (翻訳)
 現実科学としての社会学 (1944年)ハンス・フライヤー、 福武 直

花田清輝・吉本隆明論争 (その 2、「ユートピアの誕生」(『復興期の精神』より)) - わが忘れなば
http://wagawasurenaba.hatenablog.com/entry/2013/04/07/213747

マルクス再生産表式&経済表:再考 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/52121991.html

以下、花田清輝「ユートピアの誕生」『復興期の精神』(三一書房、全一冊シリーズ、p679)より
(略)ユートピアは、いまでもほろびてはゐない。(略)
 いつたいユートピアが、フライエルのいふやうに「政治的な島」であり、それ自身の空間に存在する完結的な体系であるとするならば、我々の時代におけるユートピアは、経済的には、単純再生産の表式によつて正確に表現されるでもあらう。周知のやうに、単純再生産の正常な進行のためには、生産手段の生産部門(Ⅰ)における可変資本(V)と剰余価値(m)との和が消費資料の生産部門(Ⅱ)における不変資本(C)にひとしくなければならず、したがつて、Ⅰ.1000v+1000m=Ⅱ.2000c なる表式の成立が、不発の諸事情の下におけるユートピア社会の誕生のためには欠くべからざるものであらう。この単純な表式は、ビランデルロの聖母子像よりも、はるかに我々にたいして切実であり、このやうな非情な数字によつて、その存在の前提條件が示されるならば、ユートピアはかならずしも時代遅れな感じを我々にあたへないですむのではなからうか。いまもなほ我々は、たしかにユートピアの実現をねがつてゐるにちがひない。現代の課題は、資本制社会の枠内において、まづ、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ。とはいへ、我々のユートピアもまた氷山の頂のごときものであり、それが、なんらの陰影もみとめられない極度に精確な表式によつてとらへられるにいたつたことは、かへつて我々の極度の混乱を暗示するものにほかならなかつた。むろん、この種の抽象的な表式は、我々のユートピアにのみ特有のものではなく、あらゆるユートピアにみいださるべきものであり、たとへば、レッセ・フエールによつて基礎づけられたユートピアとしての原始社会や未来社会のばあひにおいても、表式の成立は、それとは意識せず準備されてゐたのであつた。いや、過去においてもユートピアのもつ再生産過程が、まつたく気づかれずにゐたわけではなく、すでに「支那の専制政治」にユートピアをみいだしてゐたケネーは、また、「経済表」の作者でもあつた。我々のばあひは、その表が表式にまで精密化されてゐるにすぎない。多かれ、少かれ、いつの時代にも混乱はあつたのだ。

絓秀実が指摘するように(『吉本隆明の時代』作品社)、吉本隆明はこの記述をマルクスのテクストを参照せずに、花田を誤読し、官僚制の証として責め立てた。「重層的決定」といった政治的な用語で、マルクスの分析がうやむやにされていったフランスの場合と同じだ。
ただ、マルクスも経済表では消費部門を1に据えていたのに、再生産表式では生産部門を1に据えている。そして、全体の1/10ほどが交換に廻されるという但し書きを削ってしまっている。こうした自らの理論を純化せんがための現実からの遊離、状況に合わせるための変節があったために後続の者達にこうした不毛な論争が引き継がれたとも考えられる。
環境問題等を考えると、花田は重視していないが「島」という点が重要で、ユートピアに置ける単純再生産は、生命地域主義的に循環及び独立している所に重点があるのだ。その点でケネーの経済表に還るべきかもしれない(自給自足のための技術的方法論や情報は世界市場で交換、流通されるので、マルクスのような世界経済の一元的把握が不毛であるという訳ではないし、CO2排出などへの世界的な対策等にも有効ではあるが)。

花田の読みは消費部門におけるCに対して生産部門のV(給料)が足りないではないか、といった単純な読み(「資本論第2.3巻を読む」(宮川彰著)など)をとっていない点は特筆すべきだ。

マクロ経済のミクロ的裏付けはもう一度別の形で行うべきだろう。


2000年にドイツで再刊されているようだ。

2 Comments:

Blogger yoji said...

info:ndljp/pid/1882489
タイトル
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882489
資本制経済思想の発展
著者
ハンス・フライヤー 著[他]
出版者
経済図書
出版年月日
1943
請求記号


資本制経済思想の発展 1943 フライヤー
・ 標題
・ 目次
・ 譯者序文/1
・ 序說(主題の提立と限界)/3
・ 第一章 經濟の自然的體系/17
・ 第二章 人文主義の經濟理想/41
・ 第三章 浪曼派の國民經濟學/65
・ 第四章 勞働の哲學/93
・ 第五章 マンチェスター派の哲學/119
・ 第六章 國民的經濟有機體/147
・ 第七章 技術と精神/175
・ 第八章 資本主義的人間の克服/205
・ 註/229
・ 人名原語對照及び索引表/(1)
・ フラィヤー著作目錄/(7)

7:32 午前  
Blogger yoji said...

市場経済と資本主義経済の違いが定位されないと安易なイデオロギー論争になる。
マルクス的には単純再生産と拡大再生産の違いということになる。
カレツキ、ケインズ的には有効需要、再投資の有無と言える。
国家と資本の双頭性を指摘したのが柄谷の功績だが、
再生産表式軽視も宇野弘蔵から受け継いでしまったので厳密な議論にならない。
花田清輝はユートピアを単純再生産社会と定義したがこの辺りが本気で検討されないと
吉本隆明みたいになる。

《 いったいユートピアが、フライアーのいうように「政治的な島」であり、それ自身の
空間に存在する完結的な体系であるとするならば、我々の時代におけるユートピアは、
経済的には、単純再生産の表式によって正確に表現されるでもあろう。周知のように、
単純再生産の正常な進行のためには、生産手段の生産部門(Ⅰ)における可変資本(Ⅴ)と
剰余価値(m)との和が消費資料の生産部門(Ⅱ)における不変資本(C)にひとしくな
ければならず──したがって、I.1000V+1000m=II.2000Cなる表式の成立が、不変の諸事情の
下におけるユートピア社会の誕生のためには欠くべからざるものであろう。》

(花田清輝「ユートピアの誕生」『復興期の精神』講談社文芸文庫より。初版1947年。)

参考:
ハンス・フライヤー(フライアー)Hans Freyer はドイツの社会学者。ヘーゲル研究などがある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Freyer
Die politische Insel. Eine Geschichte der Utopien von Platon bis zur Gegenwart, 1936
http://memim.com/hans-freyer.html
The political island. A history of utopias from Plato to the present. Bibliographer. Inst, Leipzig 1936

11:46 午前  

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