http://www.freeassociations.org/
NAMs出版プロジェクト: マルクス 1850年9月15日の中央委員会会議、議事録より
http://nam-students.blogspot.jp/2016/02/blog-post_10.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: 『世界史の構造』参考文献表
http://nam-students.blogspot.jp/2010/06/blog-post_9796.html#refc4>>678では、普通選挙についてのエンゲルスの言及を引用しましたが、
今度はマルクスの言及です。ちょっと長め。
https://www.marxistsfr.org/archive/marx/works/1852/08/25.htm
Free Trade and The Chartists by Karl Marx
「自由貿易とチャーチスト」カール・マルクス
{But Universal Suffrage a is the equivalent for political power for the working class of England,
where the proletariat forms the large majority of the population,
where, in a long, though underground civil war,
it has gained a clear consciousness of its position as a class,
and where even the rural districts know no longer any peasants,
but only landlords, industrial capitalists (farmers) and hired laborers.
The carrying of Universal Suffrage in England would, therefore,
be a far more socialistic measure than anything which has been honored
with that name on the Continent.}
投稿者訳
「しかし普通選挙はイングランドの労働者階級にとって政治的な権力と同等です。
プロレタリアートが人口の大部分を構成し、長い間、地下の市民闘争ではあるが、
一つの階級としての地位の明確な自覚を獲得してきており、
それどころか、地方自治体が、地主、産業資本家、雇われ労働者以外に、
もはや一人も農民を把握せぬところでは。
イングランドにおける普通選挙の伝搬は、
したがって、大陸でその名で栄誉をずっと与えられてきているものよりも
はるかに社会主義的な尺度になります。」
ここでマルクスは、普通選挙がイングランドの労働者階級にとって
政治的権力であるも同然だと言っています。
そしてそれはイングランドではプロレタリアートが人口の大部分を占め、
かつ、彼らが明確な階級意識をもつに至っているからだというわけです。
>>663の2つの条件にもう一つ階級意識を加えるべきでしたね。
http://d.hatena.ne.jp/sasaki_makoto/20100311
『マルクス=エンゲルス全集』(大月書店)によればマルクス=エンゲルスの連名である。
意外にも「権力を国家権力の手中にもっとも徹底的に集中させよ」と言っている。
また「時を同じくして」を同時革命と解す事もできる。
『マルクス=エンゲルス全集 第7巻』(村田陽一訳、大月書店)
マルクス=エンゲルス 一八五〇年三月の中央委員会の同盟員への呼びかけ
中央委員会から同盟員へ
さらに、民主主義者は、あからさまに連邦共和制をめざしてつとめるか、あるいは、単一
不可分の共和国がどうしても避けられない場合には、せめて市町村や州をできるだけ自主
的で独立的なものとして、中央政府を無力化することにつとめるであろう。労働者はこの
計画に対抗して、単一不可分のドイツ共和国をめざしてつとめるだけでなく、この共和国
内でも、権力を国家権力の手中にもっとも徹底的に集中することを目標として、つとめな
ければならない。…
ドイツの労働者は、かなりに長い革命的発展を完全に経過しつくさないうちは、支配権
をにぎることもできず、彼らの階級利益をつらぬくこともできないが、こんどは、すくなく
とも、この来たるべき革命劇の第一幕がフランスにおける彼ら自身の階級の直接の勝利と
時を同じくして起こり、それによって大いにはやめられることを、確実に知っている。
しかし、労働者が最後の勝利を得るためには、彼ら自身がいちばんに努力しなければ
ならない。すなわち、自分の階級利益を明らかに理解し、できるだけはやく独自的な党的
立場を占め、一瞬間といえども民主主義的小ブルジョアの偽善的な空文句にまよわされず
に、プロレタリアートの党の独立の組織化をすすめなければならない。彼らの戦いの鬨の声
はこうでなければならない――永続革命、と。
ロンドン、一八五〇年三月
注解
中央委員会の共産主義者同盟員への呼びかけは、一八五〇年三月末にマルクスとエンゲルスが
執筆して、亡命地やドイツにいる共産主義者同盟員のあいだに非合法に配布したものである。
上の半年後
マルクス 1850年9月15日の中央委員会会議、議事録より
《私はつねにプロレタリアートの一時的な意見には反対してきた。われわれは、党自身にとってしあわせなことにまだ
まさに権力につくことのできない党に身をささげている。もし権力をにぎるようなことになるなら、プロレタリアートは、
直接プロレタリア的ではなく、小ブルジョア的な方策をとることになるだろう。わが党は、四囲の事情が党の見解を
実現することを可能にするようになったときにはじめて、権力をにぎることができるのである。ルイ・ブランは、時期
尚早に権力をにぎった場合にはどうなるかを示す最良の実例を提供している。もっともフランスではプロレタリアは単独
で権力をにぎるのではなく、彼らとともに農民と小ブルジョアが権力をにぎるであろう。そしてプロレタリアは自分の
方策を実行せざるをえなくなるであろう。パリのコミューヌは、なにかを実行するためには政府にくわわる必要はない
ことを証明している。》
(マルクス 一八五〇年九月一五日の中央委員会会議議事録、マルエン全集8,586頁より)
参照:
世界史の構造386~7頁、at1,7頁、atプラス27(Dの研究第5回,201602)160頁
(柄谷行人)
(21) マルクス「共産主義者同盟中央委員会会議議事録」(一八五〇年九月一五日)、『マルクス=エンゲルス全集』第八巻、五八五─五八六頁。
第三部 近代世界システム
第四章 アソシエーショニズム
7 永続革命と段階の「飛び越え」
上の半年後
マルクス 1850年9月15日の中央委員会会議、議事録より
《私はつねにプロレタリアートの一時的な意見には反対してきた。われわれは、党自身にとってしあわせなことにまだ
まさに権力につくことのできない党に身をささげている。もし権力をにぎるようなことになるなら、プロレタリアートは、
直接プロレタリア的ではなく、小ブルジョア的な方策をとることになるだろう。わが党は、四囲の事情が党の見解を
実現することを可能にするようになったときにはじめて、権力をにぎることができるのである。ルイ・ブランは、時期
尚早に権力をにぎった場合にはどうなるかを示す最良の実例を提供している。もっともフランスではプロレタリアは単独
で権力をにぎるのではなく、彼らとともに農民と小ブルジョアが権力をにぎるであろう。そしてプロレタリアは自分の
方策を実行せざるをえなくなるであろう。パリのコミューヌは、なにかを実行するためには政府にくわわる必要はない
ことを証明している。》
(マルクス 一八五〇年九月一五日の中央委員会会議議事録、マルエン全集8,586頁より)
参照:
世界史の構造386~7頁、at1,7頁、atプラス27(Dの研究第5回,201602)160頁
これ以後のマルクスは、歴史的段階の「飛び越え」に対しては非常に慎重になった。
後述するように、「ザスーリチへの手紙」においても、それは明らかである。(柄谷行人)
>>40
「真の民主制においては政治的国家は亡くなる」
(マルクス『ヘーゲル国法論の批判』1-232)
「パリのコミューヌは、なにかを実行するためには政府にくわわる必要はない
ことを証明している。」
(マルクス「 一八五〇年九月一五日の中央委員会会議議事録」8-586)
民主制においては政治的国家は,この内容に己れを併置してこの内容から己れを区別.するものである以上,それは国民の一つの特......政治的国家から市民社会へと公共事を取り戻すということ,そして市民社会の成員が「原子論殊な定在形式であるとともに,それ自体,た.....だたんに一つの特殊な内容であるにすぎな的在り方」に抽象されることなく,「現実的な公民」として政治的行為に参加すること,すなわい。…(中略)…近代のフランス人たちはこ.....のことを,真の民主制においては政治的国家.....ち「真の民主制」の実現を意味しているのである。さて,では実現された「真の民主制」,すなわち市民社会と政治的国家の分離が止揚された社会とはどのようなものだろうか。まず,「真の民主制」においては「『人間(der Mensch)』が体制の原理」(MEW1-218)になる,と述べられる。「民主制はあらゆる国家体制の本質,社会化された人間........(der sozialisierte Mensch)が一つの特殊な国家体制としは亡くなるというふうに理解した。これは政治的国家は政治的国家としては,体制として..............とは,もはや全体的なものとして通用しないいう点で正しい」(MEW1-232傍点引用者)。「国家が『公共事』,したがって現実的には『もろもろの公共事』なのである」(MEW1323)え
「民主制においては政治的国家は, この内
容に己れを併置してこの内容から己れを区別
するものである以上, それは国民の一つの特
殊な定在形式であるとともに,それ自体,た
だたんに一つの特殊な内容であるにすぎない
い。(中略)…近代のフランス人たちはこ
のことを,真の民主制においては政治的国家
は亡くなるというふうに理解した。これは政
治的国家は政治的国家としては,体制として
は、もはや全体的なものとして通用しないと
いう点で正しい」(MEW1-232傍点引用者)。
「国家が「公共事』,
したがって現実的には
『もろもろの公共事』なのである」(MEW1-
323)
>>40
「真の民主制においては政治的国家は亡くなる」
(マルクス『ヘーゲル国法論の批判』1-232)
「パリのコミューヌは、なにかを実行するためには政府にくわわる必要はない
ことを証明している。」
(マルクス「 一八五〇年九月一五日の中央委員会会議議事録」8-五八六)
現実には国家が市民的生活によってまとめられているのに,市民的生活は国家によってまとめ
られるべきであると,いまどき想像するのは,政治的迷信だけである。(『聖家族』2-126)
アナーキスト・マルクス
http://www.kagomma.net/saito/travaux/anarmarx.html
社会の自己組織能力
社会には秩序を自己創出する能力が潜在すると見るのがアナーキストの観点である。
バクーニンはいう。「正義と公共の秩序がおのずから……生まれてくるし,国家は……もはや単なる事務所,社会に奉仕する一種の中央組合にすぎなくなるだろう」(『連合主義・社会主義・反神学主義』,著作集5-120)。市民社会が自己充足するとき,媒介の体系(国家体制)は不要となり,政治的なものは社会的なもののなかに吸収される。政治は消滅する。国家は死滅する。
マルクスが『ヘーゲル国法論の批判』で「真の民主制においては政治的国家は亡くなる」(1-232)といい,「議会的要素は市民社会の政治的幻想である」(1-299)というとき,かれはこの観点を共有している。また,上記のテキストCはさらに明確に社会における自生的秩序の存在を肯定する。国家というかさぶたの下に息づく「現実の社会」というイメージをマルクスはプルードンから受け継いだのである。
『共産党宣言』の文言:「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの結合社会が現れる」(4-482)や,『資本論』における共産主義の定義:「各個人の完全で自由な発展を基本原理とするより高度の社会形態」(23b-771)にみられる「個人の自由な発展」の賞揚も,人間の本質的な共同性,人間集団内部に潜在する秩序構築能力,いいかえればアナーキーへの信頼がなければありえない発想だといえる。
「真の民主制においては政治的国家は亡くなる」
(マルクス『ヘーゲル国法論の批判』1-232)
「パリのコミューヌは、なにかを実行するためには政府にくわわる必要はない
ことを証明している。」
(マルクス「 一八五〇年九月一五日の中央委員会会議議事録」8-五八六)
「現実には国家が市民的生活によってまとめられているのに,市民的生活は国家によってまとめ
られるべきであると,いまどき想像するのは,政治的迷信だけである。」(『聖家族』2-126)
「今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的に
つくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。」(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳) 国民文庫
「今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的に
つくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。」(『ゴータ綱領草案批判』1875、山辺健太郎訳) 国民文庫
「近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない。」共産党宣言1948
「今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的に
つくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。」(『ゴータ綱領草案批判』1875、山辺健太郎訳) 国民文庫
「近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない。」共産党宣言1948
「今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的に
つくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。」
(『ゴータ綱領草案批判』1875、山辺健太郎訳) 国民文庫