木曜日, 12月 01, 2016

仏教:メモ(ニーチェ、法句経、スッタニパータ関連)


              (リンク:::::::::仏教ニーチェ

  NAMs出版プロジェクト: 仏教:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/12/blog-post_1.html


《怨は怨によりて消すを得べからず、忍辱のみ能くこれを消す。これ即ち古来の掟なり。》オルデンベルク『仏陀』2:3邦訳244~5頁
法句経第5句より
Na hi verena veranisammantidha kudacanamaverena ca sammanti. esa dhammo sanantano. (パーリ語)

パーリ語版『ダンマパダ』は、以下の全26章から構成される。

第1章 - 双(Yamaka-vaggo)☆
第2章 - 不放逸(Appamāda-vaggo)
第3章 - 心(Citta-vaggo)
第4章 - 花(Puppha-vaggo)
第5章 - 愚者(Bāla-vaggo)
第6章 - 賢者(Paṇḍita-vaggo)
第7章 - 尊者(Arahanta-vaggo)
第8章 - 千(Sahassa-vaggo)
第9章 - 悪(Pāpa-vaggo)
第10章 - 罰(Daṇḍa-vaggo)
第11章 - 老い(Jarā-vaggo)
第12章 - 自己(Atta-vaggo)
第13章 - 世界(Loka-vaggo)
第14章 - ブッダ(Buddha-vaggo)
第15章 - 楽(Sukha-vaggo)
第16章 - 愛(Piya-vaggo)
第17章 - 怒り(Kodha-vaggo)
第18章 - 汚れ(Mala-vaggo))
第19章 - 法行者(Dhammaṭṭha-vaggo)
第20章 - 道(Magga-vaggo)
第21章 - 雑多(Pakiṇṇaka-vaggo)
第22章 - 地獄(Niraya-vaggo)
第23章 - 象(Nāga-vaggo)
第24章 - 渇愛(Taṇhā-vaggo)
第25章 - 比丘(Bhikkhu-vaggo)
第26章 - バラモン(Brāhmaṇa-vaggo)

Hatred never conquers hatred. Only non-hatred conquers hatred. 

 

Na hi verena verani

sammantidha kudacanam

averena ca sammanti

esa dhammo sanantano

 

Never here by enmity

are those with enmity allayed,

they are allayed by amity,

this is a timeless Truth.


idha:in this world , verani : hatred (enmity),

verena :through hatred , kudacanam : at no time,

na hi sammanti: not subsided, averena ca: only by non-hatred,

sammanti: are pacified,

eso: this (is),

sanantano: ageless,

dhammo: wisdom.



Sacred Books of the East, Vol. 10: The Dhammapada and Sutta Nipata: The Dhammapada: Chapter I. The Twin-Verses.

http://www.sacred-texts.com/bud/sbe10/sbe1003.htm
   5. For hatred does not cease by hatred at any time: hatred ceases by love, this is an old rule.

ダンマパダ 和漢英巴対照 法句経

国立国会図書館デジタルコレクション - ダンマパダ : 和漢英巴対照 法句経

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2991035

na hi verna verani sammantidha kudacanam
averena ca sammanti esa dhammo sanantanao.



怨恨は病人にとって御法度そのもの彼の悪であり、困ったことには、彼のもっとも自然な性向でもあるのだ。このことを理解していたのが、あの深遠な生理学者仏陀である。彼の「宗教」は、むしろ一種の衛生学と呼んだほうが、キリスト教などのような哀れむべきものとの混同を避けるためによいのだが、その教えは、怨恨の克服ということをその功徳の基としている。魂を怨恨から解放することこれが快癒への第一歩である。「敵意によって敵意はやまず、友愛によって敵意はやむ」これが、仏陀がまっさきに教えることだがこう語っているのは道徳ではなく、生理学である。怨恨感情は、弱さから生まれた場合は、他の誰にとってよりもその弱者にとっていちばん有害なのである。ところが、それとは違って、ゆたかな天性をもっている人間の場合には、怨恨感情というのは一つの贅肉的感情であり、この感情をのさばらせないでおくことが、ほとんどその人物のゆたかさの証明になるのである。わたしの哲学は、復讐や遺恨の感情と戦闘を始め、ついには「自由意志」説にまで矛先を向けたのだがキリスト教との戦闘はその一例にすぎないその戦闘における真剣さを知るひとなら、なぜわたしが実生活におけるわたし自身の態度、わたしの本能の確かさを、ここでわざわざ公表するかを、理解してくれよう。
(ニーチェ『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか」#6より。『反キリスト者』#20では『法句経』#5からの引用の後段が略されていた。)

この、「倫理」でも「永遠の教え」でもなく、「生理学」という認識がニーチェをカントよりもスピノザ、フロイトに近づける…


スピノザ『エチカ』:

 3:13:備考 …憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p48
 3:定理四八 愛および憎しみは、憎しみが含む悲しみおよび愛が含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には消滅する。
 3:感情: 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。



参考:

《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(五)*」


   これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもっている発言です。 

 ここで思い出すのは、第二次世界大戦のあとで講和条約が締結され、世界の諸国はわが国に賠償を要求したのですが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しましたが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、この法句経のことばを引いているのです。

 なぜか。その時、スリランカの政府首脳たちは、仏典のこの文句をひいて言いました。「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。》


中村元『原始仏典』



*ダンマパダ法句経より


新田章『ヨーロッパの仏陀』233頁によれば、同箇所をニーチェは以下の書からの孫引きで『反キリスト者』(#20, (—“enmity never brings an end to enmity”: the moving refrain of all Buddhism …. ))に引用している。

オルデンベルク『仏陀』(書肆心水)原著1881年刊行

http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm


新田訳:

「なぜなら、敵意によりては敵意は終わらず、敵意無きことによって敵意は終わる、これが昔からの秩序だからである」


法句経 電子書籍: 荻原 雲来訳:

https://www.amazon.co.jp/dp/B009MAANEW

世の中に怨は怨にて息むべきやう無し 。無怨にて息む 、此の法易はることなし 。」


敵意そのものの消滅を平和の条件としたカントの永遠平和論を想起させる。
平和とは一切の敵意が終わることで…》永遠平和のために、岩波文庫


英語訳は無怨の語の代わりにloveが使われているようだ。

The Japanese Peace Treaty - J.R. Jayewardene (1951 Sep 01)

https://youtu.be/e0FTwGA9H0E

日本を救ったブッダの教え「憎しみは、愛によって消える」(にしゃんた) - 個人 - Yahoo!ニュース

http://bylines.news.yahoo.co.jp/nishantha/20140905-00038868/

再びサンフランシコ講和会議に話を戻したい。9月6日は、会議においてJ.R.ジャヤワルダナ、スリランカ代表がまさに演説を行った日である。スリランカ代表は、自ら対日賠償請求権を放棄し、諸外国にも同じようにするよう訴えた。同時に旧ソ連から提案されていた日本分断案に真っ向から反対し、今の国の形を守ったまま日本に返す必要があると強く求めた。

この演説で最も評価されている部分が何かというと、それは、ブッダの言葉であるダッマパーダ(法句経)5を用いた「Hatred ceases not by hatred but by love (人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない)という部分である。さらにジャヤワルダナ代表は、この思いはアジア共通文化として今もなお存在していると強調したことも忘れてはならない。

演説に対して吉田茂首相は深く感銘し涙したと伝えられている。大日本帝国憲法下の日本の最後の総理大臣となり、戦後直後からの安定的な政権の元に諸外国と共に日本の復興に尽力した吉田茂と後にスリランカの初代大統領となったJ.R.ジャヤワルダナの絶大なる友好および信頼関係はやり取りされた手紙からもうかがわれる。



____

ニーチェの仏教観(2015・12・26) satoruのブログ/ウェブリブログ

http://37073327.at.webry.info/201512/article_2.html

ニーチェの仏教評価

ここ(ツァラトゥストラ)では仏教思想については直接触れていない。彼は幾つかの
論文ではキリスト教と対比して論じている。『反キリスト者』に
おいて仏教はインド古代社会における永い哲学運動から生まれ
神を立てず「キリスト教より百倍も現実主義的」、また「歴史が
私たちに示す唯一の本来的に実証主義的」な宗教だとする。

そしてキリスト教の根底には弱者のルサンチマン(恨み、フランス
語)があり、イエスの弟子はその恨みを晴らすべく教理を作ったと
パウロの書簡等挙げる。

一方、仏教は「敵意によって敵意はやまず、友愛によって敵意は
やむ
」と最初に教える。これは原始仏典・ダンマパダ第5偈の
引用であるが感動的なリフレインだと言う。『反キリスト者』での
引用は前句のみであるが『この人を見よ』の中では後句も引用
している。(なお、筆者のダンマパダ原文(パーリ語)からの訳を
示す。

「実にこの世において、怨みに怨みを以ってせば、ついに息む
ことなし。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理なり」。筆者
ブログの別掲「法句経第5偈を巡って」参照)

ニーチェはルサンチマンの克服を説く仏教に対し称賛しながらも、
同じ『反キリスト者』の論文中で次のように評する。「仏教は老成
した人にとっての、苦悩をあまりにもやすやすと甘受するところ
の、善良・温和なきわめて精神化されてしまった種族にとっての」
宗教、また「文明の終末と倦怠にとっての」宗教だと論じ、そう
した柔和な、寛大な仏教をヨーロッパは「受け入れるまでに成熟
していない」と言う。

さらに仏教の求める涅槃は「無への憧憬」(『悲劇の誕生』)と
断じ、仏教は「非存在への道」(『力への意思』)を求めている
とも言う。仏教を神を立てない現実主義的な宗教と評価しながら
も同じ『反キリスト者』の中で「無,彼岸、神、真の生,涅槃・・・
の無邪気な修辞」は「生に敵対する」ものだと論じる。仏教の
一面を鋭くついてはいるが、涅槃についてニーチェは明らかに
誤解していると思う。


____
ニーチェはダンマパダだけに惹かれたわけではない…

《第三経 犀の角  三五 あらゆる生きものに対して暴力をふるうな。何ものをも苦しめるな。息子を欲しがるな。友人などはいうまでもない。犀の角のように、ただひとり行動せよ。》

(世界の大思想版スッタニパータより)

Having abandoned the practising of violence towards all objects, not doing violence to any one of

them, let one wish not for children.  Why wish for a friend? Let one walk alone like a rhinoceros. 




以下wikiより

『スッタニパータ』(巴: Sutta Nipāta)は、セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された経典のこと。

「スッタ」(Sutta)はパーリ語で「経」の意、「ニパータ」(Nipāta)は「集まり」の意、あわせて『経集』の意となり、『南伝大蔵経』のようなパーリ語経典日本語訳の漢訳題名でも、この名が採用されている。

文字通り古い経を集めたものであり、その一部に対応する漢訳経典としては『義足経』(大正蔵198)がある。第4章と第5章に対する註釈として、サーリプッタ(舎利弗)の作と伝承される同じく小部に収録されている『義釈』がある。


『スッタニパータ』は、以下の全5章から成る。

(第一章は一二経よりなり、その第一経が「蛇」であるところから、第一章ぜんたいの名称となった。)


第1章 - 蛇(Uraga-vagga)
第2章 - 小(Cūḷa-vagga)
第3章 - 大(Mahā-vagga)
第4章 - 八(Aṭṭhaka-vagga)
第5章 - 彼岸道(Pārāyana-vagga)


内容:

『ダンマパダ』は初学者が学ぶ入門用テキストであるのに対し、『スッタニパータ』はかなり高度な内容を含んでいるため、必ずしも一般向けではない。

有名な「犀の角のようにただ独り歩め」というフレーズは、かなりの程度、修行の進んだ者に向けて語られたものである。

南方の上座部仏教圏では、この経典のなかに含まれる「慈経」、「宝経」、「勝利の経」などが、日常的に読誦されるお経として、一般にも親しまれている。

成立:

最初期に編纂された最古の仏典のひとつとされ、対応する漢訳は一部を除いて存在しない(第4章『八つの詩句』/支謙訳:仏説義足経(大正蔵198))。現代では日本語訳として『南伝大蔵経』の中におさめられている。ただし、『スッタニパータ』の中にも、新旧の編纂のあとが見られ、パーリ語の文法に対応しない東部マガダ語とみられる用語が含まれていることから仏典の中でも最古層に位置づけられている。

また『スッタニパータ』の注釈書として『ニッデーサ』(義釈)が伝えられている。『スッタニパータ』の第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから、この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている。

『ニッデーサ』は文献学的に『スッタニパータ』と同時代に成立したと考えられている。

日本への伝来:

スッタニパータ全体の漢訳は存在しないため、日本に伝来することもなかった。近代にはいってからは以下の翻訳がある。

「諸経要集」『国訳大蔵経 経部第11巻』 立花俊道訳、国民文庫刊行会、1935年(原著1927年)。
『釈迦牟尼聖訓集 : 巴利文スツタニパータ』 荻原雲来訳、大東出版社、1935年。
「経集」『南伝大蔵経』小部経典2、水野弘元訳、大蔵出版、1939年。
「スッタニパータ」『世界の大思想』II-2、渡辺照宏訳、河出書房、1969年。
『ブッダのことば』 中村元訳、岩波文庫、1984年。
書誌情報 編集

日本語訳:
正田大観 『ブッダその真実のおしえ スッタニパータ第四章 和訳と注解』 シーアンドシー出版、2000年2月。ISBN 4-434-00065-9
正田大観 『ブッダのまなざし スッタニパータ第四章・第五章 和訳と注解』上、アムリタ書房、2001年9月。ISBN 4-434-01296-7。 - スッタニパータの第四章「八つの偈」の和訳と注解。
正田大観 『ブッダのまなざし スッタニパータ第四章・第五章 和訳と注解』下、アムリタ書房、2001年9月。ISBN 4-434-01296-7。 - スッタニパータの第五章「彼岸への道」の和訳と注解。
『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳、岩波書店〈岩波文庫 青301-1〉、1984年5月。ISBN 4-00-333011-0
『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳、岩波書店〈ブッダのことばシリーズ〉、1984年5月。ISBN 4-00-001989-9
『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳、岩波書店〈ワイド版岩波文庫〉、1991年1月。ISBN 4-00-007007-X。
『ブッダの教え スッタニパータ』 宮坂宥勝 訳、法蔵館、2002年10月。ISBN 4-8318-7235-0
『原始仏典』第7巻 (ブッダの詩 1)、梶山雄一ほか 編、講談社、1986年7月。ISBN 4-06-180677-7。 - 「スッタニパータ(釈尊のことば)」を集録。
『スッタニパータ 釈尊のことば 全現代語訳』 荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄 訳、講談社〈講談社学術文庫 2289〉、2015年4月。ISBN 4-0629-2289-4。 - 『原始仏典 7』(1986年刊)の抜粋。



http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html 
 ニーチェの読んだ『スッタニパータ』は、 

Sutta Nipata by M. Coomaraswamy 
Keywords: Buddhism; Pali; Canon; Tipitaka; Tripitaka; Khuddaka; Nikaya; Sutta; Nipata; translation Pages: 187 
http://static.sirimangalo.org/pdf/coomaraswamysuttanipata.pdf 


キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著) 
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html 
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107 
 19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳 
  
『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは 
「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では 
仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいで 
しょう。』 

『仏教が注意しているのは、次の二つです。 
一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、 
苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的な 
ものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中に 
ずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。』 

『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。 
ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほ 
がらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。 
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによって 
です。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的 
処方箋なのです』
44 :
考える名無しさん
2016/12/03(土) 09:52:32.27 0
 《僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernの 
ひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる 
結句のひと  つを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの 
用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、 
ときには僕の心に迫 ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。 
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト 
教的な言い回しと結びつけないで ね。 
 ――(三行略)―― 
 生に執着してはいけないということ、これは明白なことなのだ。だが、実際にもうなに 
ものも意志しないということになったら、どこで僕たちは生に耐えていけるのだろうか? 
認識せんと 意志することは、生の意志の最後の領域として、意志することと、もはや意志 
しないことの、つまり煉獄の領域と涅槃の領域の中間地帯として、残されているように僕は 
思うのだ。一方 には、不満を覚え、軽蔑しながら生をふりかえるかぎり、煉獄があり、 
他方には、精神(ゼーレ)が生によって純粋観照の状態に近づくかぎり、涅槃があるのだ。》 
             (理想社ニーチェ全集第十五巻「書簡集Ⅰ」塚越敏訳)


____

考える名無しさん
2016/11/22(火) 23:18:49.83 0
『虚無の信仰 ― 西洋はなぜ仏教を怖れたか』ロジェ=ポル・ドロワ(2002)

西洋で仏教が知られる様になったのは、せいぜいこの200年ぐらい。

ブッディズム(仏教)に該当する語が用いられた最初の例は、
1817年フランスのミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーによる
『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』で、
「ブッディスム(bouddisme)」と綴られた。

その後も仏教は、ニヒリズムや虚無の信仰であると誤解され、様々な論争を引き起こした。

    1820年頃 西洋でブッディズム(仏教)が知られるようになる
    ↓
    ↓ 1819年 ショーペンハウアーが仏教に言及
    ↓ 1827年 ヘーゲルが仏教に言及
    ↓ 1848年 マルクス「共産主義という妖怪がヨーロッパを歩き回る」共産党宣言
    ↓
    1860年頃 仏、英、独で虚無の信仰を巡る論争がピークを迎える
    ↓
    ↓ 1866年 マラルメ「仏教を知ることなしに、無(ネアン)に至った」カザリス宛書簡
    ↓ 1871年 ニーチェ「悲劇がわれわれを仏教から救い出す」断片
    ↓
    1890年頃 仏教が虚無の信仰でないことが理解され始める
    ↓ 
    ↓ 1895年 フロイト『ヒステリーの研究』

この時期は、
マルクス、ニーチェ、フロイトなど現代思想の胎動期とも重なる。 
21 : 
考える名無しさん
2016/11/22(火) 23:19:06.88 0
ここで注意されたいのは、
仏教の中心概念は、無(nothingness)ではなく空(emptiness)であること。

よく混同されるが、
空は非有非無、つまり有でも無でもないものと定義される。

西洋では、パルメデニス以来ヘーゲルやハイデガーに至る2000年以上もの間、
それらの存在論は有(存在)と無を論じてきた。

空はそこにない視点を提供する。 
22 : 
考える名無しさん
2016/11/23(水) 11:37:47.40 0
それ以前には、仏教は偶像崇拝や秘密の教団として考えられるに過ぎなかった。
ザビエルは日本における釈迦の信仰についての記録を残している。 
23 : 
考える名無しさん
2016/11/23(水) 11:39:28.77 0
ヘーゲルは『大論理学』の存在論で、仏教の「無 Nichts」と「空 Leere」について触れている。 
24 : 
考える名無しさん
2016/11/23(水) 12:04:08.48 0
>>20
西洋では「有」に対する「無」を、仏教の本質として解釈(1820~1890年頃)していた。

現代の西洋に於いては、西洋哲学の「無」の概念に対して、東洋哲学での「空」概念を、どの様に理解

しているのでしょうか。 
25 : 
考える名無しさん
2016/11/23(水) 18:42:02.81 0
>>24
スピヴァクは、デリダの考えが仏教の空に近いものであるという話をしている。(『スピヴァク、日本で語る』(2009))

こういうのも一例。 
26 : 
2016/11/23(水) 23:23:21.47 O
車は実在しない
車は車輪が車なのか車軸が車なのか車体が車なのか
いずれでもない
相互関係で車の本質は実体にはない
ミリンダ王の問い

全てを関係の網の目で仮象とする仏教や唯名論にヘーゲルは近いが
有力な反論もある
丸ごと車という普遍は実在するという実在論からはそれらの批判は
成立しない
車は実在する、個々の部品が車ではないのは当たり前だが
それとは別に本質としての普遍は実在し車もそういう普遍だから
車は実在する
しかし、そういう実在論には一つの欠陥がある
二百メートル先の人物の見た目と二メートル先の同じ人物の見た目は違うが
それが同じ普遍だと言うなら何が同一で何が見た目の違いを出すと言うのか
車が普遍だとして、個々の車で違うなかに何が同一で、
同時に個々の車で何が同一でなく違うのか説明できない
その点では唯名論が正しい
しかし、唯名論も欠陥がある 
27 : 
考える名無しさん
2016/11/24(木) 22:22:48.45 0
関係主義 
28 : 
考える名無しさん
2016/11/24(木) 22:24:38.40 0
ミリンダ王は仏教に帰依したギリシャ人王 
29 :
考える名無しさん
2016/11/24(木) 22:27:42.84 0
西北インドのヘレニズム系王朝 
30 :
考える名無しさん
2016/11/24(木) 22:31:20.72 0
プロティノスより前 
31 : 
考える名無しさん
2016/11/24(木) 23:06:22.24 0
ソシュールはサンスクリット語の研究もやっていたな 
32 :
2016/11/24(木) 23:23:38.72 0
真理を発見しました (哲学系)
http://p.booklog.jp/book/106489/read

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33 : 
2016/11/26(土) 00:09:52.61 O
唯名論としての仏教は2メートル先の人間と200メートル先の人間は
同じか違うか、同じならば、違う物が何故同じで両者に共通する、
背後の実在とは何かとかで悩むことはない
実在論のそういう悩みとは無縁だ
背後の実在を想定する実在論はそういうアポリアは避けられない
でも、関係でそれを同じ人間として扱っているだけだ
背後なんかない、今の目の前にあるものの中で浮き上がってくる
そういう関係だけだとする唯名論も
では何故それを同じ人間として扱わねばならないのかには
結局答えられない
先のばししているだけ

200メートル先の人物も2メートル先の人物も同じ人間だということには
答えられない 
34 : 
2016/11/26(土) 12:34:00.81 O
実在論にもいく種類かあって
意識と物があって意識も物にすぎないタイブの唯物論
意識はあるが背後に物自体があってのカントに代表される二元論
個物離れた概念も実在するだから普遍も実在するの古典的実在論など
二元論などは知覚因果の問題が発生する
物自体は意識に与えられないならどうやったら、
意識は物から因果的認識を得るのか

テレビ局で番組を製作しててテレビの受像機を通じて
私たちは外界を認識するとして受像機の中の位置関係が
正しいと言えるのは何故か
それ以外の実在論も錯覚論法とかの困難に遭遇する
2メートル先の人間と同じ人間が200メートル先にいるとき
実在論は同じだと言うが何でそんなことが言えるのか
現に違うではないか

実在論はこの手の困難を避けられない 
35 :
2016/11/26(土) 12:43:27.38 O
でも仏教にしろ実在を認めない唯名論も結局は先延ばしにすぎない
何故経験からは説明できないべきやねばならないなどについて
唯名論は語れない語る資格がないから
経験からは法則は出てこないからダルマの法も説明できない
個物離れた普遍を認識し法則を理解しているのに
空はそれ自体を説明できない
無いわけでもなく有るわけでもないといくら言っても
普遍が法則が、それが何故取りあえず成立するか人間がそれで生きてるか
空自体からは説明できない 
36 : 
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:53:13.81 0
レヴィナスの逃走論

“逃走とは自分自身の外へ出たいという欲求であり、
 言い換えれば最も根源的で容赦ない繋縛性 ―自我が自分自身であるという事実―
 を断ち切りたいという欲求なのである。”

― レヴィナス「逃走について」 
37 :
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:53:42.26 0
これなどは、仏教と比較しても非常に近い。
仏教は漢字で佛教と書いたが、佛とは、にんべんに非と書く。
仏とは、人でないところの境地を目指すものと理解された。
切断論も仏教が得意とするもの。多くの例がある。 
38 : 
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:53:56.10 0
レヴィナスと仏教が直接比較された例は知らないが、
レヴィナスの特徴の一つには、キリストのケノーシスを受けれている点がある。 
39 :
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:54:28.39 0
「ケノーシス kenosis」とは、キリストの自己無化。

“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。” (フィリピの信徒への手紙 2:6-7)

この"自分を無にして"の部分については、ギリシャ語の原義では「空」が近い。
"emptied himself"とか"自らを空しくされる"と訳される。(ギリシャ語・英語対訳 http://bibleapps.com/int/philippians/2-7.htm) 
40 : 
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:54:47.88 0
レヴィナスは、キリストのケノーシスを、民数記12:3にあるモーセの謙遜さと比較をしている。

“モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。” 
41 : 
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:59:15.80 0
>>39
ケノーシスと仏教の空を比較したものでは、

『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝,ブレット・デービス (2005)所収の

・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか -阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス

が、詳しい。

12 Comments:

Blogger yoji said...

参考:
The Japanese Peace Treaty - J.R. Jayewardene (1951 Sep 01)
https://youtu.be/e0FTwGA9H0E

日本を救ったブッダの教え「憎しみは、愛によって消える」(にしゃんた) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nishantha/20140905-00038868/

再びサンフランシコ講和会議に話を戻したい。9月6日は、会議においてJ.R.ジャヤワルダナ、スリランカ代表
がまさに演説を行った日である。スリランカ代表は、自ら対日賠償請求権を放棄し、諸外国にも同じようにするよう
訴えた。同時に旧ソ連から提案されていた日本分断案に真っ向から反対し、今の国の形を守ったまま日本に返す必要
があると強く求めた。

この演説で最も評価されている部分が何かというと、それは、ブッダの言葉であるダッマパーダ(法句経)5を用
いた「Hatred ceases not by hatred but by love (人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによって
は憎しみを越えられない)という部分である。さらにジャヤワルダナ代表は、この思いはアジア共通文化として今も
なお存在していると強調したことも忘れてはならない。

演説に対して吉田茂首相は深く感銘し涙したと伝えられている。大日本帝国憲法下の日本の最後の総理大臣となり、
戦後直後からの安定的な政権の元に諸外国と共に日本の復興に尽力した吉田茂と後にスリランカの初代大統領とな
ったJ.R.ジャヤワルダナの絶大なる友好および信頼関係はやり取りされた手紙からもうかがわれる。

5:53 午後  
Blogger yoji said...

https://www.google.com/search?tbm=bks&q=Dhammapada%2C+the+Buddha+says+++nietzsche

Nietzsche and Zen: Self-Overcoming Without a Self - 5 ページ
https://books.google.com/books?isbn...

André van der Braak - 2011 - ‎プレビュー - ‎他の版
Nietzsche compares Christianity and Buddhism in The Antichrist 20–23.9 Although for him both belong together as nihilistic religions, Nietzsche considers Buddhism here as far superior because as a “positivistic religion,” it ... quote from the Buddhist writing the Dhammapada: “Not through enmity does enmity come to an end.

12:03 午前  
Blogger yoji said...

weekly5
http://sbmcsociety.net/weekly5.htm
Hatred never conquers hatred. Only non-hatred conquers hatred.



Na hi verena verani
sammantidha kudacanam
averena ca sammanti
esa dhammo sanantano


Never here by enmity
are those with enmity allayed,
they are allayed by amity,
this is a timeless Truth.


HATRED IS OVERCOME ONLY BY NON-HATRED

While residing at the Jetavana Monastery in Savathi, the Buddha spoke this verse, with reference to a certain woman who was barren and another capable of bearing a child.

Once there lived a householder, whose wife was barren. Being unable to bear a child and afraid that she would be mistreated by her husband and her mother-in-law, she arranged for her husband to marry another woman. But on two occasions, as soon as she knew the second wife was pregnant, the barren wife gave her food mixed with drugs causing her to have a miscarriage. On her third pregnancy, the pregnant wife kept it to herself without informing the barren wife. But when the latter came to know about it, she again caused an abortion. Eventually the second wife died in childbirth. Before her death, the unfortunate woman was filled with hatred and vowed vengeance on the barren wife and her future offspring. Thus a feud started.

Among their later existences the two were reborn as a hen and a female cat; a doe and a leopard, and finally as the daughter of a nobleman in Savatthi and a female evil spirit. One day she (Kali Yakkhini) was in pursuit of the nobleman's daughter and her baby. When this lady heard the Buddha was giving a religious discourse at the Jetavana Monastery, she fled to Him and placed her son at His feet for protection. The evil spirit was prevented from entering the Monastery. She was later called in and both the lady and the evil spirit were admonished by the Buddha. The Buddha told them about their past trouble as rival wives and how they had been harboring hatred towards each other. They were made to see that hatred could only cause more hatred, and that it could only cease through friendship, understanding and goodwill. Both realised their mistake, and on the admonition of the Buddha, made their peace with each other.

The Buddha then requested the woman to hand over her son to the evil spirit. Fearing for the safety of her son, she hesitated, but because of her devotion and confidence in the Buddha she did hand over her son.

The child was warmly received by the evil spirit. After kissing and caressing the child tenderly like her own son, she handed back the child to his mother. As a result, there was no more hatred.

* * * * *

idha- in this world; verani - hatred (enmity);
verena - through hatred kudacanam - at no time;

na hi sammanti- not subsided; averena ca: only by non-hatred;

sammanti: are pacified;

eso: this (is);

sanantano: ageless;

dhammo: wisdom;

Those who attempt to conquer hatred by hatred are like warriors who take weapons to overcome others who bear arms. This does not end hatred, but gives it room to grow. But, ancient wisdom has advocated a different timeless strategy to overcome hatred. This eternal wisdom is to meet hatred with non-hatred. The method of trying to conquer hatred through hatred never succeeds in overcoming hatred. But, the method of overcoming hatred through non-hatred is eternally effective. That is why that method is described as eternal wisdom.

NEXT - VERSE 6

2:27 午前  
Blogger yoji said...

パーリ語版『ダンマパダ』は、以下の全26章から構成される。

第1章 - 双(Yamaka-vaggo)
第2章 - 不放逸(Appamāda-vaggo)
第3章 - 心(Citta-vaggo)
第4章 - 花(Puppha-vaggo)
第5章 - 愚者(Bāla-vaggo)
第6章 - 賢者(Paṇḍita-vaggo)
第7章 - 尊者(Arahanta-vaggo)
第8章 - 千(Sahassa-vaggo)
第9章 - 悪(Pāpa-vaggo)
第10章 - 罰(Daṇḍa-vaggo)
第11章 - 老い(Jarā-vaggo)
第12章 - 自己(Atta-vaggo)
第13章 - 世界(Loka-vaggo)
第14章 - ブッダ(Buddha-vaggo)
第15章 - 楽(Sukha-vaggo)
第16章 - 愛(Piya-vaggo)
第17章 - 怒り(Kodha-vaggo)
第18章 - 汚れ(Mala-vaggo))
第19章 - 法行者(Dhammaṭṭha-vaggo)
第20章 - 道(Magga-vaggo)
第21章 - 雑多(Pakiṇṇaka-vaggo)
第22章 - 地獄(Niraya-vaggo)
第23章 - 象(Nāga-vaggo)
第24章 - 渇愛(Taṇhā-vaggo)
第25章 - 比丘(Bhikkhu-vaggo)
第26章 - バラモン(Brāhmaṇa-vaggo)

2:53 午前  
Blogger yoji said...

『法句経』(ほっくきょう)、または『ダンマパダ』(巴: Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形で伝えた、韻文のみからなる経典である。語義は「法(真理)についての句(言葉)」といった意味であり、パーリ語仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。かなり古いテクストであるが、釈迦の時代からはかなり隔たった時代に編纂されたものと考えられている[1]。

目次
テキスト
構成
日本への伝来
書誌情報
日本語訳
英訳
パーリ語本文
関連文献
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
テキスト 編集

パーリ語版『ダンマパダ』はパーリ語経典の「小部」に第2経として収録されている。26章に分かれており、423の詩節を収録する。漢訳としては

維祇難等訳『法句経』(大正蔵210)
法炬・法立訳『法句譬喩経』(大正蔵211)
があるが、パーリ語版とは配列や内容にかなりの違いがある[2]。

ガンダーラ語版の断簡の一部分は19世紀末にホータン近辺でデュトルイユ・ド・ランが入手し、別の一部分をロシアのペトロフスキーが入手した[3]。全体の2⁄3にあたる350詩節ほどが残っている[4]。パーリ語本と順序は異なるが、本来はパーリ語本と同様に26章からなっていたらしい[5]。1990年代以降に新たな断簡が発見された[6]。

ほかに、サンスクリットの強い影響を受けたプラークリットで書かれた『Patna Dharmapada』と呼ばれる版がある[7]。また、『マハーヴァストゥ』には『法句経』の「千」と「比丘」の章を引用する[8]。

サンスクリット経典である『ウダーナヴァルガ』(Udānavarga)は、説一切有部および根本説一切有部で編纂されたもので、『法句経』に因縁譬喩譚が加わったもの[9]。これに対応する漢訳は、

天息災訳『出曜経』(大正蔵212)
竺仏念訳『法集要頌経』(大正蔵213)
がある。ほかにチベット語訳とクチャ語(トカラ語B)訳の断簡がある[10]。

2:54 午前  
Blogger yoji said...

日本への伝来 編集

『ダンマパダ』は漢訳仏典『法句経』として伝来していたが、「小乗のお経」と認識され、ほとんど顧みられることのなかった歴史がある。漢訳の大蔵経では本縁部に収録されている。『ダンマパダ』に日が当たるようになったのは明治期以降であり、ヨーロッパでの仏教研究で『ダンマパダ』が重要文献として扱われていた影響が大きい。

パーリ語からの日本語訳として、友松円諦訳『法句経』が有名である。友松は1933年にラジオで『法句経』講義を行い、たいへんに歓迎された[11]。中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』は、「真理のことば」がパーリ語『ダンマパダ』の翻訳、「感興のことば」がサンスクリット『ウダーナヴァルガ』の翻訳である。

書誌情報 編集

日本語訳 編集
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』 アルボムッレ・スマナサーラ、佼成出版社、2003年12月。ISBN 4-333-02044-1。
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』 アルボムッレ・スマナサーラ、佼成出版社、2005年11月。ISBN 4-333-02182-0。
『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』 北嶋泰観訳註編集、ウ・ヴィッジャーナンダ大長老監修、中山書房仏書林、2000年8月。ISBN 978-4-89097-227-2。 - パーリ語の原文と英文の翻訳を併載。
『法句経』 荻原雲来訳註、一穂社〈名著/古典籍文庫〉、2004年12月(原著1935年6月)、岩波文庫復刻版。ISBN 4-86181-001-9。 - 岩波文庫版(1960年刊第14刷)を原本としたオンデマンド版。
片山一良著 『『ダンマパダ』全詩解説 ――仏祖に学ぶひとすじの道』 大蔵出版、2009年12月。ISBN 978-4-8043-0574-5。
『真理の偈(うた)と物語 『法句譬喩経』現代語訳』上、神塚淑子ほか訳註、榎本文雄・引田弘道偈文の解釈研究、大蔵出版、2001年4月。ISBN 4-8043-1050-9。
『真理の偈(うた)と物語 『法句譬喩経』現代語訳』下、神塚淑子ほか訳註、榎本文雄・引田弘道偈文の解釈研究、大蔵出版、2001年12月。ISBN 4-8043-1053-3。
『Dhammapada 原始仏教の智慧 新現代語訳』 佐藤光夫翻訳・註解、星雲社、2009年4月。ISBN 978-4-434-13034-2。
『ダンマパダ・法句経』 三枝充悳訳・解説、渡辺眸写真、青土社、1989年6月。ISBN 4-7917-5011-X。
『ダンマパダ 和漢英巴対照 法句経』 友松円諦編著、法句経講話三百回記念会、1961年。
『法句経』 友松円諦訳、講談社、1975年11月。ISBN 4-06-142570-6。
『法句経』 友松円諦訳、講談社〈講談社学術文庫679〉、1985年3月。ISBN 4-06-158679-3。
『ダンマパダ 法句経』 長井真琴訳、玄同社、1948年。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』 中村元訳、岩波書店〈岩波文庫青302-1〉、1978年1月。ISBN 4-00-333021-8。
『ブッダの真理のことば 感興のことば ――ダンマパダ ウダーナヴァルガ』 中村元訳、岩波書店〈ブッダのことばシリーズ〉、1984年5月。ISBN 4-00-001990-2。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』 中村元訳、岩波書店〈ワイド版 岩波文庫〉、1991年6月。ISBN 4-00-007040-1。
『ブッダの語る覚醒への光の道 原始仏典「ダンマパダ」現代語全訳』 トーマス・バイロンパーリ語英訳、廣常仁慧英文日本語訳、星雲社、2006年4月。ISBN 4-434-07758-9。
『法句経』 引田弘道校註、大蔵出版〈新国訳大蔵経 本縁部 4〉、2000年1月。ISBN 4-8043-8019-1。 - 漢訳『法句経』をパーリ・サンスクリット語文献と対照し本格的に解読した大著。
「真理のことば(ダンマパダ)」『インド・アラビア・ペルシア集』 前田恵学訳、筑摩書房〈筑摩世界文学大系9〉、1974年。

2:55 午前  
Blogger yoji said...

英訳 編集
英訳はミュラーによるもの(1869年、のち『東方聖典叢書』に収録)や、ロックヒルによるチベット語版『ウダーナヴァルガ』の翻訳(1883年)など、長い歴史がある。インド人による翻訳も少なくない。

The Dhammapada:The Path of Perfection. Anonymous;Juan Mascaro (Paperback ed.). Penguin Classics. (May 30, 1973). ISBN 0-14-044284-7.
Dhammapada:The Sayings of the Buddha. Shambhala Pocket Classics. Thomas Byrom (Paperback ed.). Shambhala. (November 9, 1993). ISBN 0-87773-966-8.
The Dhammapada:The Sayings of the Buddha. John Ross Carter;Mahinda Palihawadana (Paperback ed.). Oxford University Press. (December 15, 2008). ISBN 978-0-19-955513-0.
The Dhammapada. Classics of Indian Spirituality. Eknath Easwaran (Paperback ed.). Nilgiri Press. (April 13, 2007). ISBN 978-1-58638-020-5.
The Dhammapada:A New Translation of the Buddhist Classic with Annotations. Gil Fronsdal (Paperback ed.). Shambhala. (December 5, 2006). ISBN 1-59030-380-6.
The Dhammapada. Balangoda Ananda Maitreya;Thich Nhat Hanh (Paperback ed.). Parallax Press. (August 1, 1995). ISBN 0-938077-87-2.
Word of the Doctrine. K.R. Norman. Pali Text Society. (1997). ISBN 0-86013-335-4.
The Dhammapada:Verses on the Way. Modern Library Classics. Glenn Wallis (Paperback ed.). Modern Library. (January 9, 2007). ISBN 978-0-8129-7727-1.
パーリ語本文 編集
O. von Hinüber;K.R. Norman, ed (1994, 1995). Dhammapada. Pali Text Society. ISBN 0-86013-313-3.
関連文献 編集
『空翔ぶ巨象 法句経ものがたり』 奥野瓔子訳、水野弘元監修、春秋社、1993年8月。ISBN 4-393-13267-X。
片山一良 『「ダンマパダ」をよむ ブッダの教え「今ここに」』上、日本放送出版協会〈NHKシリーズ NHK宗教の時間〉、2007年4月。ISBN 978-4-14-910627-4。
片山一良 『「ダンマパダ」をよむ ブッダの教え「今ここに」』下、日本放送出版協会〈NHKシリーズ NHK宗教の時間〉、2007年10月。ISBN 978-4-14-910628-1。
片山一良 『「ダンマパダ」をよむ ブッダの教え「今ここに」』サンガ、2013年4月
中村元 『原始仏典』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫 ナ20-1〉、2011年3月。ISBN 978-4-480-09367-7。
友松円諦 『法句経講義』 講談社〈講談社学術文庫533〉、1981年3月。ISBN 4-06-158533-9。
友松円諦 『法句経を読む ブッダ真理の言葉』大法輪閣、2005年
今枝由郎 『ダンマパダ 日常語訳 ブッダの〈真理の言葉〉』トランスビュー、2013年
脚注 編集

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^ 中村(1978) p.377
^ 中村(1978) pp.384-385
^ Brough (1962) p.2
^ Brough (1962) xiv
^ Brough (1962) p.13
^ Timothy Lenz, ed (2003). A New Version of the Gāndhārī Dharmapada and a Collection of Previous-birth Stories: British Library Kharoṣṭhī Fragments 16 + 25. Univeristy of Washington Press. ISBN 0295983086.
^ Norman (1997) xx
^ Norman (1997) xxi
^ 中村(1978) p.376
^ 中村(1978) p.388
^ 中村元 『原始仏典I 釈尊の生涯』 東京書籍、1987年、34-35頁。
参考文献 編集

Brough, John (1962). The Ghāndhārī Dharmapada. London Oriental Series. 7. Oxford University Press.
Norman, K.R. (1997). The Word of the Doctrine (Dhammapada). The Pāli Text Society.
中村元 『ブッダの真理のことば・感興のことば』 岩波文庫、1978年。

2:55 午前  
Blogger yoji said...

パーリ仏典 > 経蔵 (パーリ) > 小部 (パーリ) > スッタニパータ
スッタニパータ
Sutta Nipata
訳者 中村元ほか
発行日 1984-05-16
発行元 岩波書店など
ジャンル 聖典
言語 パーリ語
形態 文庫本など
公式サイト www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3330110.html
コード ISBN 4-00-333011-0
ISBN 4-00-007007-X
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『スッタニパータ』(巴: Sutta Nipāta)は、セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された経典のこと。

「スッタ」(Sutta)はパーリ語で「経」の意[1]、「ニパータ」(Nipāta)は「集まり」の意、あわせて『経集』の意となり、『南伝大蔵経』のようなパーリ語経典日本語訳の漢訳題名でも、この名が採用されている[2]。

文字通り古い経を集めたものであり、その一部に対応する漢訳経典としては『義足経』(大正蔵198)がある[3]。第4章と第5章に対する註釈として、サーリプッタ(舎利弗)の作と伝承される同じく小部に収録されている『義釈』がある[4]。

目次
構成 編集

『スッタニパータ』は、以下の全5章から成る。

第1章 - 蛇(Uraga-vagga)
第2章 - 小(Cūḷa-vagga)
第3章 - 大(Mahā-vagga)
第4章 - 八(Aṭṭhaka-vagga)
第5章 - 彼岸道(Pārāyana-vagga)
内容 編集

『ダンマパダ』は初学者が学ぶ入門用テキストであるのに対し、『スッタニパータ』はかなり高度な内容を含んでいるため、必ずしも一般向けではない。

有名な「犀の角のようにただ独り歩め」というフレーズは、かなりの程度、修行の進んだ者に向けて語られたものである。

南方の上座部仏教圏では、この経典のなかに含まれる「慈経」、「宝経」、「勝利の経」などが、日常的に読誦されるお経として、一般にも親しまれている。

成立 編集

最初期に編纂された最古の仏典のひとつとされ、対応する漢訳は一部を除いて存在しない(第4章『八つの詩句』/支謙訳:仏説義足経(大正蔵198))。現代では日本語訳として『南伝大蔵経』の中におさめられている。ただし、『スッタニパータ』の中にも、新旧の編纂のあとが見られ、パーリ語の文法に対応しない東部マガダ語とみられる用語が含まれていることから仏典の中でも最古層に位置づけられている。

また『スッタニパータ』の注釈書として『ニッデーサ』(義釈)が伝えられている。『スッタニパータ』の第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから、この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている。

『ニッデーサ』は文献学的に『スッタニパータ』と同時代に成立したと考えられている。

日本への伝来 編集

スッタニパータ全体の漢訳は存在しないため、日本に伝来することもなかった。近代にはいってからは以下の翻訳がある。

「諸経要集」『国訳大蔵経 経部第11巻』 立花俊道訳、国民文庫刊行会、1935年(原著1927年)。
『釈迦牟尼聖訓集 : 巴利文スツタニパータ』 荻原雲来訳、大東出版社、1935年。
「経集」『南伝大蔵経』小部経典2、水野弘元訳、大蔵出版、1939年。
「スッタニパータ」『世界の大思想』II-2、渡辺照宏訳、河出書房、1969年。
『ブッダのことば』 中村元訳、岩波文庫、1984年。
書誌情報 編集

日本語訳 編集
正田大観 『ブッダその真実のおしえ スッタニパータ第四章 和訳と注解』 シーアンドシー出版、2000年2月。ISBN 4-434-00065-9。
正田大観 『ブッダのまなざし スッタニパータ第四章・第五章 和訳と注解』上、アムリタ書房、2001年9月。ISBN 4-434-01296-7。 - スッタニパータの第四章「八つの偈」の和訳と注解。
正田大観 『ブッダのまなざし スッタニパータ第四章・第五章 和訳と注解』下、アムリタ書房、2001年9月。ISBN 4-434-01296-7。 - スッタニパータの第五章「彼岸への道」の和訳と注解。
『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳、岩波書店〈岩波文庫 青301-1〉、1984年5月。ISBN 4-00-333011-0。
『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳、岩波書店〈ブッダのことばシリーズ〉、1984年5月。ISBN 4-00-001989-9。
『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳、岩波書店〈ワイド版岩波文庫〉、1991年1月。ISBN 4-00-007007-X。
『ブッダの教え スッタニパータ』 宮坂宥勝 訳、法蔵館、2002年10月。ISBN 4-8318-7235-0。
『原始仏典』第7巻 (ブッダの詩 1)、梶山雄一ほか 編、講談社、1986年7月。ISBN 4-06-180677-7。 - 「スッタニパータ(釈尊のことば)」を集録。
『スッタニパータ 釈尊のことば 全現代語訳』 荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄 訳、講談社〈講談社学術文庫 2289〉、2015年4月。ISBN 4-0629-2289-4。 - 『原始仏典 7』(1986年刊)の抜粋。

12:36 午後  
Blogger yoji said...


http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html
 ニーチェの読んだ『スッタニパータ』は、

Sutta Nipata by M. Coomaraswamy
Keywords: Buddhism; Pali; Canon; Tipitaka; Tripitaka; Khuddaka; Nikaya; Sutta; Nipata; translation Pages: 187
http://static.sirimangalo.org/pdf/coomaraswamysuttanipata.pdf


 《僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernの
ひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる
結句のひとつを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの
用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、
ときには僕の心に迫ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト
教的な言い回しと結びつけないでね。
 ――(三行略)――
 生に執着してはいけないということ、これは明白なことなのだ。だが、実際にもうなに
ものも意志しないということになったら、どこで僕たちは生に耐えていけるのだろうか?
認識せんと意志することは、生の意志の最後の領域として、意志することと、もはや意志
しないことの、つまり煉獄の領域と涅槃の領域の中間地帯として、残されているように僕は
思うのだ。一方には、不満を覚え、軽蔑しながら生をふりかえるかぎり、煉獄があり、
他方には、精神(ゼーレ)が生によって純粋観照の状態に近づくかぎり、涅槃があるのだ。》
             (理想社ニーチェ全集第十五巻「書簡集Ⅰ」塚越敏訳)

7:07 午前  
Blogger yoji said...

http://37073327.at.webry.info/201512/article_2.html

《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むこと
がない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(五)*」

 これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもって
いる発言です。
 ここで思い出すのは、第二次世界大戦のあとで講和条約が締結され、世界の諸国はわが国
に賠償を要求したのですが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しま
したが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、この法句経のことばを引いているの
です。
 なぜか。その時、スリランカの政府首脳たちは、仏典のこの文句をひいて言いました。
「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。この精神で セイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。》
中村元『原始仏典』
*ダンマパダ法句経より
新田章『ヨーロッパの仏陀』233頁によれば、同箇所をニーチェは以下の書からの孫引きで
『反キリスト者』(#20, (—“enmity never brings an end to enmity”: the moving refrain of all
Buddhism …. ))に引用している。

オルデンベルク『仏陀』(書肆心水)原著1881年刊行
http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm
新田訳:
「なぜなら、敵意によりては敵意は終わらず、敵意無きことによって敵意は終わる、
これが昔からの秩序だからである」

7:10 午前  
Blogger yoji said...

パーリ仏典 > 経蔵 (パーリ) > 小部 (パーリ) > スッタニパータ
『スッタニパータ』(巴: Sutta Nipāta)は、セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された経典のこと。

スッタニパータ
Sutta Nipata
訳者 中村元ほか
発行日 1984-05-16
発行元 岩波書店など
ジャンル 聖典
言語 パーリ語
形態 文庫本など
公式サイト www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3330110.html
コード ISBN 4-00-333011-0
ISBN 4-00-007007-X
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テンプレートを表示
「スッタ」(Sutta)はパーリ語で「経」の意[1]、「ニパータ」(Nipāta)は「集まり」の意、あわせて『経集』の意となり、『南伝大蔵経』のようなパーリ語経典日本語訳の漢訳題名でも、この名が採用されている[2]。

文字通り古い経を集めたものであり、その一部に対応する漢訳経典としては『義足経』(大正蔵198)がある[3]。第4章と第5章に対する註釈として、サーリプッタ(舎利弗)の作と伝承される同じく小部に収録されている『義釈』がある[4]。

目次

3:48 午後  
Blogger yoji said...

パーリ仏典 > 経蔵 (パーリ) > 小部 (パーリ) > スッタニパータ
『スッタニパータ』(巴: Sutta Nipāta)は、セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された経典のこと。

スッタニパータ
Sutta Nipata
訳者 中村元ほか
発行日 1984-05-16
発行元 岩波書店など
ジャンル 聖典
言語 パーリ語
形態 文庫本など
公式サイト www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3330110.html
コード ISBN 4-00-333011-0
ISBN 4-00-007007-X
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「スッタ」(Sutta)はパーリ語で「経」の意[1]、「ニパータ」(Nipāta)は「集まり」の意、あわせて『経集』の意となり、『南伝大蔵経』のようなパーリ語経典日本語訳の漢訳題名でも、この名が採用されている[2]。

文字通り古い経を集めたものであり、その一部に対応する漢訳経典としては『義足経』(大正蔵198)がある[3]。第4章と第5章に対する註釈として、サーリプッタ(舎利弗)の作と伝承される同じく小部に収録されている『義釈』がある[4]。

3:48 午後  

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