http://www.freeassociations.org/
大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
http://wikidharma.org/4b9399ba7bf3a
【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
http://wikidharma.org/4b93a105abf98
【73】 横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b
【35】 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
http://wikidharma.org/4b936885c5865
聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、 二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
一には頓教、 二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超 即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超 選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出 聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出 浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
http://wikidharma.org/4b93a35c8a81a
三節 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
【訳】 善人ですら往生をとげられるのだから、まして悪人が往生できないはずがありません。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。私がきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(「マルコ伝」二章十七節)
PHP文庫より
◇白骨の章 葬儀や中陰の法事などでしばしば拝読される「白骨の章」は、無常観をそそる御文章としてよく知られています。今回は、この「白骨の章」について講じていただきました。『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』や『無常講式』など、この御文章が成り立った背景にふれるとともに、「はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」とお示しくださった蓮如上人のおこころを、しっかりと味わわせていただきましょう。 |
\教 出 超
心\
竪 聖道門\漸教 聖道門\頓教
横 浄土門\漸教 浄土門\頓教(親鸞)☆
\心 竪 横
教\
出 聖道門・漸教 浄土門・漸教
超 聖道門・頓教 浄土門・頓教(親鸞)☆
\心 竪 横
教\
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門(親鸞)☆
\心 出 超
竪 聖道門\漸教 聖道門\頓教
横 浄土門\漸教 浄土門\頓教(親鸞)☆
菩提心
竪 横
出 聖道門・漸教 浄土門・漸教
超 聖道門・頓教 浄土門・頓教(親鸞)☆
教え
\心 出 超
竪 聖道門\漸教 聖道門\頓教
横 浄土門\漸教 浄土門\頓教(親鸞)☆
菩提心
竪 横
出 聖道門・漸教 浄土門・漸教
超 聖道門・頓教 浄土門・頓教(親鸞)☆
教え
\心 竪 横 二双
教\
竪出 横出
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
四重
竪超 横超
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門(親鸞)☆
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 二双
教\
竪出 横出
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
四重
竪超 横超
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門(親鸞)☆
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
竪出 横出
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
←四重
竪超 横超
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門(親鸞)☆
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
竪出 横出
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
+ ←四重
竪超 横超
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門(親鸞)☆
竪超 - WikiArc
labo.wikidharma.org/index.php/竪超
しゅちょう. 竪は自力のこと、超は速やかに 生死 ( しょうじ ) の迷いを超えること。自力 聖 道門 ( しょうどうもん ) の中の 頓教 ( とんぎょう ) 。自力の修行によって直ちにさとりを ひらく華厳・天台・真言・禅の各宗を指す。→ 頓教 ( とんぎょう ) 。
No.1908 〇十地の否定 即身成仏… - 法華経~ブッダの教え - 学問 ...
textream.yahoo.co.jp>...>東洋哲学>法華経~ブッダの教え
2016年6月18日 ... 即身成仏の空海は明らかに十地の否定だが、親鸞もまた十地を否定しているようだ。 ... 十地品」を否定したところに親鸞の「横超」も道元、空海の「竪超」もない。 ... 日本大乗の 極致がまさにこの「超即」の「今生成仏・即得往生」なんじゃ!
空海(くうかい)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/空海-16397
美術人名辞典 - 空海の用語解説 - 平安前期の真言宗の僧。讃岐生。 ... 日本において も,空海の顕密二教を分かち十住心(《十住心論》)を立てる教判や,親鸞の頓教に難行 易行の二道と竪超横超の二超を立てて漸教・小乗教に対比させる教判などが説かれた 。
辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)-朝日日本歴史人物事典
法蔵(ほうぞう)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/法蔵-132249
... 真徳不空宗,相想俱絶宗,円明俱徳宗の十宗の教判を完成させた。日本においても, 空海の顕密二教を分かち十住心(《十住心論》)を立てる教判や,親鸞の頓教に難行易行 の二道と竪超横超の二超を立てて漸教・小乗教に対比させる教判などが説かれた。
辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)-大辞林 第三版-世界大百科事典 第2版
1-横超(二双四重) - News一覧画面
www.tokuhou-ji.com/t_Info_detail_news_tokuhouji.php?...
二超とは、 一には竪超 即身是仏、即身成仏等の証果なり。 二には横超 選択本願、 真実報土、即得往生なり。 漸教について、また二教二出 .... 即身成仏」とはこの身 をもって仏となるということで、弘法大師空海が生きながらミイラになったことで知られ ています。
日本の思想 - Seesaa ブログ
japanese-thought.seesaa.net/pages/user/m/article?article...
弘法大師空海の著作『十住心論』にも修行によって心を垂直的に高めて悟りに向かう 方法が示されている。これに対して ... 長い修行を続けて迷いから脱し、悟りを得ようとする 。それまでの仏教。『十住心論』。 竪超 (しゅちょう) 厳しい修行をして一気に悟ろうとする。
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
竪出 横出
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
+ ←四重
竪超 横超
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門
(空海) (親鸞)
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
竪出 横出
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
+ ←四重
竪超 横超
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門
(空海) (親鸞)
竪超 (しゅちょう) 厳しい修行をして一気に悟ろうとする。
横超(オウチョウ)とは - コトバンク kotobank.jp/word/横超-449177
仏語。阿弥陀仏の本願の力によって迷いの世界を 跳び越えて、
浄土に往生すること。真宗の説く、他力浄土門の中の絶対他力の教えを いう。
[オピニオン]「横説竪説」95年の歴史 : 東亜日報
japanese.donga.com/List/3/all/27/427804/1
過去の文献で「横説竪説」という言葉は、高麗(コリョ)時代の文人、李穡(イ・セク)が 鄭夢周(チョン・モンジュ)を評価した文に初めて出てくる。李穡は、「鄭夢周は、横で話し ても竪で話しても常に道理に合っている(横説竪説無非当理)」と書いた。性理学.
仏教学/二双四重 にそうしじゅう - 知的快楽主義者の備忘録 Wiki*
wikiwiki.jp/takemaster/?仏教学%2F二双四重 にそうしじゅう
2016年8月7日 ... 浄土真宗の教判(教相判釈(きょうそうはんじゃく)).仏教を,の二対・四重に分けたもの.自力 難行(なんぎょう)道を,他力易行(いぎょう)道を,悟りは ...
Page 1 Page 2 親里における菩提心について (常 光) て、 「道俗の時衆 ... (Adobe PDF)
www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/49/2/49_2.../_pdf
二双四重判における四種の菩提心は、 「竪. 超」 「竪出」 =自力丶 「横出」 =他力中の 自力、 「横超」 =他. 力ということに、 その特徴が見出せる。 親葉において 「自力」. の 規定は、 『 』 念多念文意』 ・ 『唯信鈔文意』 ・ 笠間の門弟の疑. 問に答う書簡に見られる よう ...
元会員から見た浄土真宗親鸞会 本願一乗とは(2)
shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/?mode=m&no=17
この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり 。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。 安養浄刹にして入聖証果する を浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・ ...
二双四重の教判: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-da26.html
横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言 なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。 横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出 ...
ぐとくしょう【愚禿鈔】の意味 - goo国語辞書
dictionary.goo.ne.jp/jn/62418/meaning/m0u/
ぐとくしょう【愚禿鈔】とは。意味や解説、類語。鎌倉時代の仏教書。2巻。親鸞 (しんらん) 著。成立年未詳。仏一代の教説のうち、大乗について二双四重(竪超・竪出、横超・横出 )の教判を立て、浄土真宗を横超とし、最もすぐれているものとして、他力の信心を強調 ...
2016年5月の法話:ちいさなお寺 倶生山なごみ庵:So-netブログ
753an.blog.so-net.ne.jp/2016-05-22
2016年5月22日 ... ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになって しまいますので、今年は正信偈 ... これは親鸞聖人も浄土の教えを説く際に使っていた 言葉なのですが、仏教の分類方法のひとつで「竪出・竪超・横出・横超」 ...
mixiにおける三願転入の法論10 - 親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より
shinrankaiuso.hatenablog.com/entry/2013/02/03/220705
この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり 。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。 安養浄刹にして入聖証果する を浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・ ...
p243 / 顕浄土真実信文類三(教行信証・信)
seiten.icho.gr.jp/html/243.html
横超断四流」と言うは、「横超」は、「横」は竪超・竪出に対す、「超」は迂に対し回に対する の言なり。「竪超」は、大乗真実の教なり。「竪出」は大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の 教なり。「横超」は、すなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また「横出」あり、 ...
2014年02月26日 : あさ川進の、宗教と私 - livedoor Blog
blog.livedoor.jp/skai_as/archives/2014-02-26.html
竪超・竪出・横超・横出。親鸞聖人は、仏教を四つに分けられました。 その中において横 超、浄土真宗とご縁があったということは、たまたま弥陀の本願を聞くご縁に恵まれた こと。まったく不思議と味わわれます。 今までもよく目にしてきたこのご ...
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 I 横 ←二双
教\ 自力 I 他力
I
竪出 I 横出
出 漸教\聖道門 I 漸教\浄土門
-----------+------------ ←四重
竪超 I 横超
超 頓教\聖道門 I 頓教\浄土門
(空海) I (親鸞)
竪超 (しゅちょう) 厳しい修行をして一気に悟ろうとする。
横超(オウチョウ)とは - コトバンク kotobank.jp/word/横超-449177
仏語。阿弥陀仏の本願の力によって迷いの世界を 跳び越えて、
浄土に往生すること。真宗の説く、他力浄土門の中の絶対他力の教えを いう。
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
I
竪出 I 横出
出 漸教\聖道門 I 漸教\浄土門
-----------+------------ ←四重
竪超 I 横超
超 頓教\聖道門 I 頓教\浄土門
(空海) I (親鸞)
竪超 (しゅちょう) 厳しい修行をして一気に悟ろうとする。
横超(オウチョウ)とは - コトバンク kotobank.jp/word/横超-449177
仏語。阿弥陀仏の本願の力によって迷いの世界を 跳び越えて、
浄土に往生すること。真宗の説く、他力浄土門の中の絶対他力の教えを いう。
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
竪出 横出
出 漸教\聖道門 漸教\浄土門
+ ←四重
竪超 横超
超 頓教\聖道門 頓教\浄土門
(空海) (親鸞)
竪超 (しゅちょう) 厳しい修行をして一気に悟ろうとする。
二双四重(にそうしじゅう)
親鸞の立てた教相判釈 (きょうそうはんじゃく) の名。釈尊が一生涯に説法したすべての教説を聖道門と浄土門とに分け,前者を竪 (じゅ) ,後者を横 (おう) として,そのそれぞれに,段階を経て悟りに達する漸教を意味する出 (しゅつ) と,ただちに悟りに達する頓教である超 (ちょう) とを配したもの (→頓教・漸教 ) 。
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
I
竪出 I 横出
出 漸教\聖道門 I 漸教\浄土門
-----------+------------ ←四重
竪超 I 横超
超 頓教\聖道門 I 頓教\浄土門
(空海) I (親鸞)
竪超 (しゅちょう) とは、厳しい修行をして一気に悟ろうとすること。
横超(おうちょう)とは、阿弥陀仏の本願の力によって迷いの世界を 跳び越えて、
浄土に往生すること。真宗の説く、他力浄土門の中の絶対他力の教えをいう。
二双四重(にそうしじゅう)
親鸞の立てた教相判釈 (きょうそうはんじゃく) の名。釈尊が一生涯に説法し
たすべての教説を聖道門と浄土門とに分け,前者を竪 (じゅ) ,後者を横 (おう)
として,そのそれぞれに,段階を経て悟りに達する漸教を意味する出 (しゅつ) と,
ただちに悟りに達する頓教である超 (ちょう) とを配したもの (→頓教・漸教 ) 。
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
I
竪出 I 横出
出 漸教\聖道門 I 漸教\浄土門
-----------+------------ ←四重
竪超 I 横超
超 頓教\聖道門 I 頓教\浄土門
(空海) I (親鸞)
竪超 (しゅちょう) とは、厳しい修行をして一気に悟ろうとすること。
横超(おうちょう)とは、阿弥陀仏の本願の力によって迷いの世界を 跳び越えて、
浄土に往生すること。真宗の説く、他力浄土門の中の絶対他力の教えをいう。
マルクス プルードン
空海 親鸞
『教行信証』「信巻本」菩提心釈(菩提心=信)
【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・
大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた
二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心
なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の
大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
http://wikidharma.org/4b93a105abf98
「信巻末」横超釈
【73】 横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち
願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、
迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正
真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b
二双四重
にそうしじゅう
親鸞の立てた教相判釈 (きょうそうはんじゃく) の名。釈尊が一生涯に説法したすべての教説を聖道門と浄土門とに分け,前者を竪 (じゅ) ,後者を横 (おう) として,そのそれぞれに,段階を経て悟りに達する漸教を意味する出 (しゅつ) と,ただちに悟りに達する頓教である超 (ちょう) とを配したもの (→頓教・漸教 ) 。
《教相判釈とは、自らの仏教思想を、仏教総体の思想体系のなかに明確に位置づけるという作業である。》
(青木孝平『「他者」の倫理学』198頁)
《「二双四重判」とは、諸仏教を竪と横、出と超に分けて、「信」の位置を説くものである。
これまでの仏教は、自己の修行·修道·修学の実践によって善根と功徳を積むこと(竪)によっ
て、自らの執着や煩悩から解脱する道(出)を捜し求めてきた。すなわち「竪」「出」の仏教であっ
たっこれに対して親鸞は、「横」「超」を主張する。つまり、阿弥陀仏の誓願が廻向されることによっ
て、人間のあらゆるはからいを横ざまに捨てて(横)、ひとっ飛びに救われる道(超)を獲得するこ
とである。親鸞の教義は、まさに「竪出」の行に代わる「横超」の信にある。》
(青木孝平『「他者」の倫理学』199頁)
二双四重
にそうしじゅう
親鸞の立てた教相判釈 (きょうそうはんじゃく) の名。釈尊が一生涯に説法したすべての教説を聖道門と浄土門
とに分け,前者を竪 (じゅ) ,後者を横 (おう) として,そのそれぞれに,段階を経て悟りに達する漸教を意味
する出 (しゅつ) と,ただちに悟りに達する頓教である超 (ちょう) とを配したもの (→頓教・漸教 ) 。
《教相判釈とは、自らの仏教思想を、仏教総体の思想体系のなかに明確に位置づけるという作業である。》
(青木孝平『「他者」の倫理学』198頁)
《「二双四重判」とは、諸仏教を竪と横、出と超に分けて、「信」の位置を説くものである。
これまでの仏教は、自己の修行·修道·修学の実践によって善根と功徳を積むこと(竪)によっ
て、自らの執着や煩悩から解脱する道(出)を捜し求めてきた。すなわち「竪」「出」の仏教であっ
たっこれに対して親鸞は、「横」「超」を主張する。つまり、阿弥陀仏の誓願が廻向されることによっ
て、人間のあらゆるはからいを横ざまに捨てて(横)、ひとっ飛びに救われる道(超)を獲得するこ
とである。親鸞の教義は、まさに「竪出」の行に代わる「横超」の信にある。》
(青木孝平『「他者」の倫理学』199頁)
二双四重(にそうしじゅう)
親鸞の立てた教相判釈 (きょうそうはんじゃく) の名。釈尊が一生涯に説法し
たすべての教説を聖道門と浄土門とに分け,前者を竪 (じゅ) ,後者を横 (おう)
として,そのそれぞれに,段階を経て悟りに達する漸教を意味する出 (しゅつ) と,
ただちに悟りに達する頓教である超 (ちょう) とを配したもの (→頓教・漸教 ) 。
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
I
竪出 I 横出
出 漸教\聖道門 I 漸教\浄土門
-----------+------------ ←四重
竪超 I 横超
超 頓教\聖道門 I 頓教\浄土門
(空海) I (親鸞)
竪超 (しゅちょう) とは、厳しい修行をして一気に悟ろうとすること。
横超(おうちょう)とは、阿弥陀仏の本願の力によって迷いの世界を 跳び越えて、
浄土に往生すること。真宗の説く、他力浄土門の中の絶対他力の教えをいう。
《教相判釈とは、自らの仏教思想を、仏教総体の思想体系のなかに明確に位置づけるという作業》
(青木孝平『「他者」の倫理学』198頁)
《親鸞の主著である『教行信証』を読むと、それがインドと中国のあらゆる浄土系のいいところというか、
エッセンスを全部収録して集めてあります。そして、それに対して自分の考え方を述べています。ですから
自分が浄土宗の最後の人だという自覚があったのだと思います。》(吉本隆明『今に生きる親鸞』)
二双四重(にそうしじゅう)
親鸞の立てた教相判釈 (きょうそうはんじゃく) の名。釈尊が一生涯に説法し
たすべての教説を聖道門と浄土門とに分け,前者を竪 (じゅ) ,後者を横 (おう)
として,そのそれぞれに,段階を経て悟りに達する漸教を意味する出 (しゅつ) と,
ただちに悟りに達する頓教である超 (ちょう) とを配したもの (→頓教・漸教 ) 。
漸、竪出
聖道門、難行道、自力、竪{ }
頓、竪超
二双{ }四重
漸、横出
浄土門、易行道、他力、横{ }
頓、横超
http://www.fobenyuan.com/club/home.php?mod=space&uid=32&do=blog&id=45
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2010/03/07/%E4%BA%8C%E5%8F%8C%E5%9B%9B%E9%87%8D%E3%81%AE%E6%95%99%E5%88%A4/
\菩提心 竪 横 ←二双
教\ 自力 他力
I
竪出 I 横出
出 漸教\聖道門 I 漸教\浄土門
-----------+------------ ←四重
竪超 I 横超
超 頓教\聖道門 I 頓教\浄土門
(空海) I (親鸞)
竪超 (しゅちょう) とは、厳しい修行をして一気に悟ろうとすること。
横超(おうちょう)とは、阿弥陀仏の本願の力によって迷いの世界を 跳び越えて、
浄土に往生すること。真宗の説く、他力浄土門の中の絶対他力の教えをいう。
《教相判釈とは、自らの仏教思想を、仏教総体の思想体系のなかに明確に位置づけるという作業》
(青木孝平『「他者」の倫理学』198頁)
《親鸞の主著である『教行信証』を読むと、それがインドと中国のあらゆる浄土系のいいところというか、
エッセンスを全部収録して集めてあります。そして、それに対して自分の考え方を述べています。ですから
自分が浄土宗の最後の人だという自覚があったのだと思います。》(吉本隆明『今に生きる親鸞』)
原田 忠男 (@harapion)
2016/12/26 12:47
@kmy_000 ちなみに、親鸞が善人でさえ往生をとぐ、いわんや悪人をや、善人が天国に行くのに、悪人が救われないはずがないといっていて、彼は福音書の漢文訳を読んでいたんですね。西本願寺にマタイの漢文訳があるらしい。
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2007年12月1日 呉智英夫子(新崎智)の授業 at 理科大
http://d.hatena.ne.jp/YdaTanuki/20080102/1199201408
http://i.imgur.com/fHI89xG.jpg
…
朝には紅顔ありて
夕には白骨となれる身なり
これ有名な言葉ですね
朝には美少年、美少女かと思っていたけれども
夕方にはもう死んでしまって、焼き場で焼いて白骨になってしまう。
こういうことですね
10行ほど飛んで行って、後ろの7行ほどいきますかね
たれの人も はやく後生の一大事を
心にかけて
阿弥陀仏をふかく
たのみまいらせて
念仏もうすべきものなり
あなかしこ
あなかしこ
…
はだしのゲンの一番のテーマが、原爆の災禍に対する怒りである
戦争に対する怒りである
ところが感動的な一番感動的であるのは
原爆の災禍の中で戦っていくところではなくて
友子の葬式のシーンである。
このほかには連載の都合で一、二回見開きが使われているだけで
他には見開きが使われていない
被爆のシーン、あの恐ろしい原爆の恐怖を訴えた被爆のシーンも見開きが使われていない。
友子の葬式のシーンに、見開きが使われている。
しかも、そこで書かれているのは、上に挙げたように
蓮如上人の御文章である。
ここに被曝に対する怒りとか、原爆に対する抗議というものは全く描かれていない。
2017/02/15(水) 00:07:57.67 ID:k3uJ8RUs0
>>205
ひとくち法話84~92話 ―聖徳太子―
http://www.senjuji.or.jp/hitokuchi/84_92.php
第84話 聖徳太子と親鸞聖人(しょうとくたいしとしんらんしょうにん)
真宗のお寺には、本堂右余間に「七高僧(しちこうそう)」と「聖徳太子(しょうとくたいし)」の画像が
並んで安置されています。これは親鸞聖人(しんらんしょうにん)が聖徳太子を
日本のお釈迦(しゃか)さまと仰がれ、太子の仏徳(ぶっとく)を讃歎(さんだん)されたからです。
(中略)
第88話 お寺に太子のお軸があるわけ(おてらにたいしのおじくがあるわけ)
親鸞聖人は、修行が行き詰まると、聖徳太子のご示現におたずねされたという記録が残っています。
その1は、19歳の時に太子の御廟である磯長(しなが)に参籠(さんろう)されたという記録です。
2日目の夜に「親鸞よ、諦(あき)らかに聞きなさい。汝の寿命はあと十余歳です。
命終わったら速やかに浄土に往生させましょう」というきびしいものでした。
聖人はおどろいて、心を新にして再び比叡山に登って修行に励まれました。
その2は、29歳の時です。いよいよ修行に行き詰まって、太子の創建といわれる
京都の六角堂に籠(こも)られて、太子のご示現に賭けられました。
その95日のあかつきにようやく太子が観音菩薩の姿であらわれて、
「後世(ごせ)のことは、法然上人を訪ねなさい」ということでした。
このように聖人は「和国の教主 聖徳王」(前項参照)、つまり聖徳太子は、
日本のお釈迦さまですと尊崇(そんすう)されて、
『皇太子聖徳奉讃』という和讃を百首程もお作りになっております。
そこで、真宗のお寺には、この聖人のお心をいただいて太子のお軸を掛けているのです。
註 ご示現とは、「仏・菩薩が衆生(しゅじょう)救済」のため、いろいろ姿をかえてこの世にあらわれること」
ひとくち法話No88 ―聖徳太子5― より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46946_28584.html
親鸞
三木清
-目次
+一 人間性の自覚
+二 歴史の自覚
+三 三願転入
+四 宗教的真理
+五 社会的生活
一 人間性の自覚
親鸞の思想は深い体験によって滲透されている。これは彼のすべての著作について、『正信偈』や『和讃』のごとき一種の韻文、また仮名で書かれたもろもろの散文のみでなく、特に彼の主著『教行信証』についても言われ得ることである。『教行信証』はまことに不思議な書である。それはおもに経典や論釈の引用から成っている。しかもこれらの章句があたかも親鸞自身の文章であるかのごとく響いてくるのである。いわゆる自釈の文のみでなく、引用の文もまたそのまま彼の体験を語っている。『教行信証』全篇の大部分を占めるこれらの引文は、単に自己の教えの典拠を明らかにするために挙げられたのではなく、むしろ自己の思想と体験とを表現するために借りてこられたのであるとすれば、その引文の読み方、文字の加減などが原典の意味に拘泥こうでいすることなく、親鸞独自のものを示しているのは当然のことであろう。『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それはその根柢に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞のどの著述に接しても我々をまず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。
かようにしてしばしばなされるように、彼の教えを体験の宗教として特色づけることは正しいであろう。しかしその意味は厳密に規定されることが必要である。宗教を単に体験と解することは宗教から本質的に宗教的なものを除いて「美的なもの」にしてしまう危険を有している。実際、親鸞の教えにおいて体験の意義を強調することからそれを単に「美的なもの」にしてしまっている例は決してすくなくはないのである。親鸞はすぐれて宗教的人間であった、彼の体験もまたもとより本質的に宗教的である、ところで宗教的体験の特色は「内面性」にある。親鸞の体験の深さはその内面性の深さである。彼の抒情の深さというものもかくのごとき内面性の深さにほかならない。