土曜日, 12月 24, 2016

一遍上人


                (リンク:::::::::仏教

NAMs出版プロジェクト: 一遍上人

http://nam-students.blogspot.jp/2016/12/blog-post_24.html

NAMs出版プロジェクト: ニーチェ:インデックス

http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_1686.html

NAMs出版プロジェクト: 民俗学(人類学):インデックス

http://nam-students.blogspot.jp/2013/03/blog-post_9856.html

一遍(いっぺん、延応元年(1239年)ー正応2年(1289年))は鎌倉時代中期の僧侶時宗の開祖。

そのディオニソスへの賛美…最もニーチェに呼応すのは一遍かも知れない。

遊行寺の踊念仏

https://youtu.be/qUdvaXtOmj0

映画『一遍上人』予告編


 一遍智真は、延応元年(一二三九年)伊予(現・愛媛県)の豪族河野氏の子として生まれました。法然の往生から二十七年後、親鸞が六十七歳のときです。河野家は水軍の家系だったのですが、一遍が生まれた当時は没落してひっそりと生活していたようです。  
 一遍は、十歳で母を亡くしたのを機に出家しています。比叡山には行かず、大宰府の浄土宗西山派の僧侶である聖達のもとで修行しており、随縁と名乗っていました。聖達は、法然の高弟である証空の弟子です。証空は西山派の派祖です。ですから一遍は浄土宗の西山義系統で育ったということになります。
 一遍の行動と思想は、往生後十年経ってから成立した『一遍聖絵』(全十二巻、以降は『聖絵』と略)と呼ばれる絵詞伝によって知ることができます。

 この絵伝が素晴らしいのは、まず上人の死後十年というほぼリアルタイムに完成していることです。法然上人にも『四十八巻伝』という立派な絵伝がありますが、この絵伝が完成したのは法然上人の死から百年後のことです。
 一遍上人を理解するためのキーワードは四つあります。  
 まず一つ目は「漂泊」です。一遍上人の人生というのは、言わば「旅の人生」です。
二つ目は「捨聖」。僧はお釈迦様以来、出家するのが基本なので、一切のものを捨てた人間であると言えますが、一遍上人の捨て方は非常に徹底しており、他の宗教者とはレベルが違います。
三つ目は「詩歌」。一遍上人は、捨聖にふさわしく著書を残していませんが、多くの長詩と即興で詠んだ和歌を残しています。
そして四つ目が、一遍上人の宗教の最大の特徴とも言える「踊り」です。一遍上人の教えは浄土教の流れを受け継ぐものですが、法然上人の教えとも、親鸞上人の教えとも異なる特徴を備えています。その特徴をはっきり示すものが、「踊り念仏」なのです。
一遍上人の夢に熊野権現が山伏姿で現れて、こう告げました。 「あなたの勧めで衆生の往生が可能になるわけではない。それはすでに阿弥陀仏によって決定しているのだから、信、不信を問わずその札を配りなさい」
この「信・不信を問わず」という考え方は、阿弥陀仏の本願、つまり他力によって救われることを説いた浄土教の中でも新しい考え方です。ですから私は、このお告げを受けたときが、一遍上人が法然上人や師である聖達の教えを越えて、独自の浄土教を確立した瞬間だと思っています。

 これは、宝満寺というお寺で、由良の法燈国師という中国にも留学した当代の禅宗を代表するような高僧と話をされたときに詠まれた歌です。 
 となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして
tおそらく、一遍上人は念仏を称えれば悟りを開くことができるという話をなさったのだと思います。しかし、この歌に対して法燈国師は「未徹在」、つまり、「 一遍智真は、延応元年(一二三九年)伊予(現・愛媛県)の豪族河野氏の子として生まれました。法然の往生から二十七年後、親鸞が六十七歳のときです。河野家は水軍の家系だったのですが、一遍が生まれた当時は没落してひっそりと生活していたようです。  
 一遍は、十歳で母を亡くしたのを機に出家しています。比叡山には行かず、大宰府の浄土宗西山派の僧侶である聖達のもとで修行しており、随縁と名乗っていました。聖達は、法然の高弟である証空の弟子です。証空は西山派の派祖です。ですから一遍は浄土宗の西山義系統で育ったということになります。
 一遍の行動と思想は、往生後十年経ってから成立した『一遍聖絵』(全十二巻、以降は『聖絵』と略)と呼ばれる絵詞伝によって知ることができます。

 この絵伝が素晴らしいのは、まず上人の死後十年というほぼリアルタイムに完成していることです。法然上人にも『四十八巻伝』という立派な絵伝がありますが、この絵伝が完成したのは法然上人の死から百年後のことです。
 一遍上人を理解するためのキーワードは四つあります。  
 まず一つ目は「漂泊」です。一遍上人の人生というのは、言わば「旅の人生」です。
二つ目は「捨聖」。僧はお釈迦様以来、出家するのが基本なので、一切のものを捨てた人間であると言えますが、一遍上人の捨て方は非常に徹底しており、他の宗教者とはレベルが違います。
三つ目は「詩歌」。一遍上人は、捨聖にふさわしく著書を残していませんが、多くの長詩と即興で詠んだ和歌を残しています。
そして四つ目が、一遍上人の宗教の最大の特徴とも言える「踊り」です。一遍上人の教えは浄土教の流れを受け継ぐものですが、法然上人の教えとも、親鸞上人の教えとも異なる特徴を備えています。その特徴をはっきり示すものが、「踊り念仏」なのです。
一遍上人の夢に熊野権現が山伏姿で現れて、こう告げました。 「あなたの勧めで衆生の往生が可能になるわけではない。それはすでに阿弥陀仏によって決定しているのだから、信、不信を問わずその札を配りなさい」
この「信・不信を問わず」という考え方は、阿弥陀仏の本願、つまり他力によって救われることを説いた浄土教の中でも新しい考え方です。ですから私は、このお告げを受けたときが、一遍上人が法然上人や師である聖達の教えを越えて、独自の浄土教を確立した瞬間だと思っています。

 これは、宝満寺というお寺で、由良の法燈国師という中国にも留学した当代の禅宗を代表するような高僧と話をされたときに詠まれた歌です。 

 となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして

おそらく、一遍上人は念仏を称えれば悟りを開くことができるという話をなさったのだと思います。しかし、この歌に対して法燈国師は「未徹在」、つまり、「いまだ徹し切れていないではないか」と言ったといいます。
 そう言われて、一遍上人が詠み直したのが次の歌です。  

 となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏  

 ほとんど同じ歌のように思われますが、ここには大きな違いがあります。  
 最初の「南無阿弥陀仏の声ばかりして」では、南無阿弥陀仏と称えている人と、それを聞いている人、つまり「二人の人」が存在しています。主客が分かれているということです。  
 でも、悟りを開くということは、仏・森羅万と一体になることなので、これでは徹し切れていない、ということになります。  
 そこで一遍上人は「南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠み直したのです。こうなると主客はもはやありません。
tこの歌を聴いて、法燈国師は「ああ、これなら悟りを開いた」と言って、手巾と薬籠を与えて、印可(禅の悟りを開いた証明)となさったと伝えられています。  
 これは大変独自な形を取っていますが、禅問答と言えると思います。  
 一般的な禅問答は漢語で行いますが、ここではそれが「和歌」を使って行われたということです。ですから私は、これこそ本当の意味での日本の禅問答だと思います。

 一遍上人と言えば踊り念仏と言われるほどに「踊り」はその教えの特徴とされていますが、これは一遍上人が考え出されたものではなく、遊行の途中で自然発生的に生まれたものなのです。  
 踊り念仏が最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていたときのことだったといいます。  
 ここで念仏を称えていたとき、自然に念仏が踊りになったのです。  
 踊りになったといっても、はじめは一人か二人だけだったようですが、やがてそれがみんなで踊るようになっていき、「踊り念仏」として知れ渡るものになったのです。
 なぜ念仏が踊りになったのでしょう。 『一遍聖絵』を見ると、踊りには一定の振りがあるわけではないことがわかります。  
 あるものは鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。あるものは踊りはね、あるもは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞です。  
 それは、「踊り」が彼ら各人にとっての念仏の喜びを、自由に体で表現したものなのだからでしょう。
 しかし、こうした踊りが有名になることによって、遊行には必ず念仏踊りというものがセットになって行われるようになっていきます。

 ともはねよかくてもをどれ心ごま弥陀の御法と聞ぞうれしき (「偈頌和歌」)

 …一遍上人は、「そんなつまらないことを言っていないで、お前も一緒に跳ねたらいいじゃないか、そうすれば、そういう仏教もあるということがわかるだろう。お前は知らないかも知れないけれど、これこそ本当の仏教なのだよ」と言ったというのです。  
 これは、ある意味、それまでの常識的な仏教と、一遍上人の説く新しい仏教との攻防と言えるでしょう。

 一遍上人の思想は、能にものすごく大きな影響を及ぼしています。能の「実盛」や「遊行柳」、「誓願寺」といった作品には時宗の聖者が登場するのがその証です。
 また時宗は、歌舞伎とも深く関係しています。かつて、京都の真ん中に位置する四条河原町の交差点に、「四条道場」という場所がありました。この四条道場の近くには、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国が歌舞を行った場があり、歌舞伎の発生と時宗が何らかの関係があることが推察されます。  
 実はこの四条道場は、もともと金寺という時宗の寺院だったのです。金寺の創建は応長元年(一三一一)、時宗は演劇的性格をそなえた踊り念仏を特徴としていたこともあって、その寺院では歌合や歌会がしばしば催されていました。それが次第に芸能の場としても大きく開かれるようになり、四条道場のように多様な演劇を吸引する場としての性格を持つようになっていったのです。

 時宗が衰退した最大の理由は、江戸時代になって「檀家制度」ができたことでした。
 しかし、今こうして一遍上人の教えを見ていくと、本当の意味で宗教の命を消そうとしているのは檀家制度にどっぷりと漬かり、布教をまったく考えない今の寺院なのではないかと思えてきます。
 仏教の復活、そういう意味においても、もう一度、一遍上人のような人を日本人が本気で考えてみることが必要なのだと思います。

参考文献:
梅原猛『梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍』PHP研究所、2014年
釈徹宗『法然親鸞一遍』新潮社、2011年
小松 茂美 (編集)『一遍上人絵伝 (日本の絵巻) 』中央公論社、1988年


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知恵袋

2012/7/618:32:09

北条時宗の「時宗」が、一遍の宗派である「時宗」と同じだったからではありません。

当時、一遍が率いる教団は「時宗」ではなく、「時衆」と呼ばれていました。室町期までに関しては「時衆」の名を用いられていました。他宗派と同様に「宗」の文字を用いるようになったのは江戸時代以降です。江戸時代に入って「時宗」と改められて宗派の名になりました。

「時宗」という呼称は、1633年の「時宗藤沢遊行末寺帳」が事実上の初見とされています。従って、時宗の名前と一緒だったからではありません。

時宗が一遍の鎌倉入りを阻止したのは、治安上の警戒心からだったようです。

時宗は南無阿弥陀仏の文字を節をつけて歌い踊るもので、一種の集団による恍惚状態が得られました。北条時宗は念仏宗による集団行動を厳しく規制していましたが、特に時宗の対しての警戒心が強かったといいます。

この頃の鎌倉は弘安の役後であり、恩賞を求める武士で混乱していたこと、また旧仏教や禅宗を支持していた鎌倉幕府は、時宗を異端として鎌倉への立ち入りを禁止したのでしょう。

1282年3月1日、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとする一遍(先頭の顔の黒い人物)を阻もうとする北条時宗(馬上の白い着物を着た人物)

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アポロン?

北条時宗 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/北条時宗
生誕 建長3年5月15日(1251年6月5日) 
死没 弘安7年4月4日(1284年4月20日) 享年34(満32歳没)

時宗は禅宗に帰依するなど信心深く、特に禅宗は父の時頼と交友のあった蘭渓道隆南宋から来日した兀庵普寧大休正念などから教えを受けていた。蘭渓道隆が死去すると名師を招くために中国に使者を派遣し、無学祖元を招聘する。祖元が開山した鎌倉の円覚寺(鎌倉市山之内)の開祖となり、円覚寺を関東祈祷所とし、尾張国富田庄を寄進する。 また、忍性の慈善活動を支援し、土佐国大忍荘を寄進したとも言われる。 熊本県南小国町の満願寺に時宗を描いたとされる頂相が所蔵されているが、描かれているのは別人であるという説もある。また、『一遍上人絵伝』には一遍と出会った時宗の姿が描かれている。

評価編集

時宗は、父の時頼ほど伝説逸話が豊富ではなく、本格的に論評が風発するのは近世に入ってからであった。その事績を礼賛するか、非難するかの差異は評する者の史実の解釈に依拠するところが大きい。

12 Comments:

Blogger yoji said...

 ともはねよかくてもをどれ心ごま弥陀の御法と聞ぞうれしき (「偈頌和歌」)

 …一遍上人は、「そんなつまらないことを言っていないで、お前も一緒に跳ねたらいいじゃない
か、そうすれば、そういう仏教もあるということがわかるだろう。お前は知らないかも知れない けれど、これこそ本当の仏教なのだよ」と言ったというのです。  
 これは、ある意味、それまでの常識的な仏教と、一遍上人の説く新しい仏教との攻防と言え
るでしょう。

 一遍上人の思想は、能にものすごく大きな影響を及ぼしています。能の「実盛」や「遊行柳」、
「誓願寺」といった作品には時宗の聖者が登場するのがその証です。
 また時宗は、歌舞伎とも深く関係しています。かつて、京都の真ん中に位置する四条河原町の
交差点に、「四条道場」という場所がありました。この四条道場の近くには、歌舞伎の創始者とさ
れる出雲阿国が歌舞を行った場があり、歌舞伎の発生と時宗が何らかの関係があることが
推察されます。  
 実はこの四条道場は、もともと金寺という時宗の寺院だったのです。金寺の創建は応長元年
(一三一一)、時宗は演劇的性格をそなえた踊り念仏を特徴としていたこともあって、その寺院で
は歌合や歌会がしばしば催されていました。それが次第に芸能の場としても大きく開かれるよう
になり、四条道場のように多様な演劇を吸引する場としての性格を持つようになっていったので
す。

 時宗が衰退した最大の理由は、江戸時代になって「檀家制度」ができたことでした。
 しかし、今こうして一遍上人の教えを見ていくと、本当の意味で宗教の命を消そうとしているの
は檀家制度にどっぷりと漬かり、布教をまったく考えない今の寺院なのではないかと思えてきま
す。
 仏教の復活、そういう意味においても、もう一度、一遍上人のような人を日本人が本気で考えて
みることが必要なのだと思います。


梅原猛『梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍』PHP研究所、2014年

8:15 午後  
Blogger yoji said...

円空 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/円空
円空
円空(えんくう、寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代 前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を 持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は一説に...
生涯-出生から出家-諸国の廻国と造仏活動-円空の作品


映画「円空 今に生きる・ENKU Life to Live」予告編・Trailer - YouTube
www.youtube.com/watch?v=JVf0NoqfN6w
映画「円空 今に生きる・ENKU Life to Live」予告編・Trailer - YouTube
最新上映情報 「円空 今に生きる」www.cinema1.jp 脚本・監督 村上清治、音楽 那須 祐介 ...
再生時間:3:10
投稿日:2012年11月7日

12:07 午前  
Blogger yoji said...

北条時宗は、一遍の鎌倉入りを阻んだのは「時宗... - 日本史 | Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1090269245?__ysp=6Y6M5YCJIOWMl%2BadoeaZguWulyDkuIDpgY0%3D
北条時宗は、一遍の鎌倉入りを阻んだのは「時宗」というのが、自分の名を使ってい...
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kinsei583fornagoyaさん2012/7/616:47:24
北条時宗は、一遍の鎌倉入りを阻んだのは「時宗」というのが、自分の名を使っていて不遜と感じたから、鎌倉入りを拒否したのですか?
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閲覧数:524 回答数:1 お礼:25枚違反報告
ベストアンサーに選ばれた回答
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jasonkodai2199さん2012/7/618:32:09
北条時宗の「時宗」が、一遍の宗派である「時宗」と同じだったからではありません。

当時、一遍が率いる教団は「時宗」ではなく、「時衆」と呼ばれていました。室町期までに関しては「時衆」の名を用いられていました。他宗派と同様に「宗」の文字を用いるようになったのは江戸時代以降です。江戸時代に入って「時宗」と改められて宗派の名になりました。

「時宗」という呼称は、1633年の「時宗藤沢遊行末寺帳」が事実上の初見とされています。従って、時宗の名前と一緒だったからではありません。

時宗が一遍の鎌倉入りを阻止したのは、治安上の警戒心からだったようです。

時宗は南無阿弥陀仏の文字を節をつけて歌い踊るもので、一種の集団による恍惚状態が得られました。北条時宗は念仏宗による集団行動を厳しく規制していましたが、特に時宗の対しての警戒心が強かったといいます。

この頃の鎌倉は弘安の役後であり、恩賞を求める武士で混乱していたこと、また旧仏教や禅宗を支持していた鎌倉幕府は、時宗を異端として鎌倉への立ち入りを禁止したのでしょう。

1282年3月1日、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとする一遍(先頭の顔の黒い人物)を阻もうとする北条時宗(馬上の白い着物を着た人物)

12:46 午前  
Blogger yoji said...

https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggZo2Op__hKrJYQIoPParbSg---x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/ans-214852574

12:47 午前  
Blogger yoji said...

特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝
京都国立博物館 平成知新館|04.13 - 06.09

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毘沙門天立像から発見された納入品 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 ※パネル展示のみ

行快作 阿弥陀三尊像(うち一体) 京都・聞名寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示 

行快作 阿弥陀三尊像(うち一体) 京都・聞名寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示 

行快作 阿弥陀三尊像(うち一体) 京都・聞名寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示 

毘沙門天立像 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示

銅造阿弥陀三尊像 滋賀・浄信寺蔵 鎌倉時代 13~14世紀 通期展示

毘沙門天立像から発見された納入品 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 ※パネル展示のみ

毘沙門天立像から発見された納入品 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 ※パネル展示のみ

毘沙門天立像から発見された納入品 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 ※パネル展示のみ

行快作 阿弥陀三尊像(うち一体) 京都・聞名寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示 

行快作 阿弥陀三尊像(うち一体) 京都・聞名寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示 

行快作 阿弥陀三尊像(うち一体) 京都・聞名寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示 

毘沙門天立像 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 通期展示

銅造阿弥陀三尊像 滋賀・浄信寺蔵 鎌倉時代 13~14世紀 通期展示

毘沙門天立像から発見された納入品 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 ※パネル展示のみ

毘沙門天立像から発見された納入品 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 ※パネル展示のみ

毘沙門天立像から発見された納入品 京都・極楽寺蔵 鎌倉時代 13世紀 ※パネル展示のみ

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 太鼓やかねを鳴らして踊りながら念仏を唱えることで知られる「時宗」は、鎌倉時代の僧侶・一遍が開いた宗派。一遍は念仏を唱えることで分け隔てなく人々が往生をとげられると説き、全国を行脚して、念仏札を配り、布教に努めた。その後、二祖の真教が時宗を教団として整備し、大きく発展させた。

 本展では、2019年に真教の700年遠忌を迎えることを記念して、時宗の名宝を一挙に紹介。全国各地を遍歴した一遍の生涯を描いた国宝《一遍聖絵》(清浄光寺[遊行寺]蔵)をはじめ、真教の足跡を綴った《遊行上人縁起絵》、時宗の歴代祖師の肖像画や肖像彫刻など、伝えられてきた名宝の全貌を明らかにする。
 
 さらに見どころのひとつとなるのは、展覧会の事前調査において新発見された《銅造阿弥陀三尊像》《木造阿弥陀三尊像》《毘沙門天立像》の文化財3件。

 滋賀県の名刹・浄信寺の蔵から見つかった《銅造阿弥陀三尊像》は、《洛中洛外図》にも描かれる御影堂新善光寺の本尊であると予想される。《木造阿弥陀三尊像》(京都・聞名寺蔵)は快慶の一番弟子・行快の作品。寡作で知られる行快の貴重な作例となる。そして、鎌倉時代に一流仏師の力量を感じさせる京都・極楽寺秘蔵の《毘沙門天立像》は、今回が特別出品。像内から造像当初の納入品3種が発見され、これらのパネル展示を行う。


Information
特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝
会期 2019年4月13日~6月9日
会場 京都国立博物館 平成知新館
住所 京都府京都市東山区茶屋町527
ART MAPで見る
電話 075-525-2473
開館時間 09:30~17:00(金土~20:00)

5:08 午後  
Blogger yoji said...

こんな話がある。 一遍が寺の境内で踊り念仏をしている。 ... 跳ねば跳ね 踊らば踊れ春駒の のりの道をば 知る人ぞ知る (教えが ...
≪懺悔の値打ちも無い≫「一遍上人」のこと…【2012.04.14】 ( 岩手県 ...
blogs.yahoo.co.jp/mtkabuto1005/62953126.html
懺悔の値打ちも無い≫「一遍上人」のこと… ... ②埋葬されたのは「800年程前」のことだから、「一遍上人絵伝」に描かれている状況 とは大分 ... はねばはねよ踊らば踊れ 法の道をば知る人ぞ知る
一遍(いっぺん)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/一遍-31571
弟子たちの聞き書きである『播州法語集』『一遍聖絵』などによって,その思想を知るしかない。一遍の時宗はそののち,急速に ...
三好恭治の熟田津今昔
home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/nigitazu62.html
尚、和歌の頭部に付けた登録番号は『一遍会報』第375号「一遍の法歌 全百首」(三好恭治)が初出である。 ... 016のこりゐてむかしをいまとかたるべき こゝろのはてをしる人 ぞなき 017さけばさ .... 086心より外にそ法の舟はあれ 知らぬもしつみ知るもうかはす
聖絵~その二「踊り念仏」 : 江部遊観のブログ - livedoor Blog
blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/7137829.html
テキストは岩波文庫「一遍聖絵 大橋俊雄 校注」) 第四 の第五段江州守山のほとり琰魔堂 ... 跳ねば跳ねよ、躍らば躍れ、春駒の法の道をば知る人ぞ知る」 だと思うが、春になって暴れ回る荒馬まで ...

5:38 午後  
Blogger yoji said...

【百人一首講座】あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふ ...
www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/056.html
ことば □□□ 【あらざらむ】 「あら」は動詞「あり」の未然形で「生きている」という意味で す。「む」は推量の ...
特別展「国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」 | - 二祖真教上人七百年御遠忌
ureshikika.com/特別展「国宝-一遍聖絵と時宗の名宝」/
2018年10月24日 ... 京都国立博物館で開催される御遠忌特別展「国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」の記者発表が、10月23日(火)、 ...
特別展「国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」を予習するリン エピソードⅡ - 虎 ...
www.kyohaku.go.jp/jp/torarin/blog/.../190405.html
2019年4月5日 ... 淺湫研究員:一遍さんの遊行の様子は「国宝 一遍聖絵 円伊(えんい)筆(神奈川・清浄光寺(遊行寺)所蔵)」に ...
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一遍聖絵 - 聖戒 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料! ... 百代の儀表、千載の領袖にあらざらむかも彡. 購入者さん ...
神奈川県立歴史博物館だより 2 (Adobe PDF) -htmlで見る
ch.kanagawa-museum.jp/uploads/newsletter_vol21_no2.pdf
国宝「一遍聖絵」第五巻第五段 こふくろさかの場面 清浄光寺(遊行 .... おわりに 千載の領袖にあらざらむかも.

5:39 午後  
Blogger yoji said...

おわりに 千載の領袖にあらざらむかも「聖絵」は、一遍の行状が千年後の人々の導き手(千載の領袖)とならないことがあろうか、として締めくくられます。描かれた遊行のありさまをじっくり鑑賞していただくことにより、宗教者一遍を理解していただけるのではないでしょうか。本年10月10日に遊行寺宝物館がリニューアルオープンし、全巻は開館を記念して遊行寺宝物館で展示されます(場面替あり)。11月下旬からは全巻を3会場に分け、多くの場面をご覧いただけます。県立歴史博物館では第四、五、六、十巻を11月21日(土)より、同金沢文庫では第二、三、八、九巻を11月19日(木)より展示します。一部例外はあるものの、通常「一遍聖絵」の公開は一年に一巻一場面2週間と限定していますから、今回の展示はまさに千載一遇の好機です。是非お見逃しなく。-3

5:40 午後  
Blogger yoji said...

楽天ブックス: 一遍聖絵 - 聖戒 - 9784003332122 : 本
books.rakuten.co.jp/rb/1172692/
百代の儀表、千載の領袖にあらざらむかも彡. 購入者さん: 評価 5.00: 投稿日:2014年05月01日. 一遍聖遊行の跡をいま辿る ...
三好恭治の一遍徒然草紙
home.e-catv.ne.jp/miyoshik/turezure/turezure82.htm
... を尋ね新しきを知らば、百代の儀表、千載の領袖にあらざらむかも」<百代の後の世まで手本となり千年の後の人々の導き手と ...

一遍聖絵

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商品基本情報

発売日: 2000年07月
著者/編集: 聖戒, 大橋俊雄
レーベル: 岩波文庫
出版社: 岩波書店
発行形態: 文庫
ページ数: 164p
ISBNコード: 9784003332122
商品説明

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
法然・栄西・親鸞・道元・日蓮ら鎌倉新仏教の祖師たちの中で、とりわけ行動的な時宗の開祖一遍の伝記。北は奥州江刺から南は大隅国まで全国を遊行して、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」を主唱、全国の民衆の間に流行した。本書は、弟子聖戒が絵師と共に師の足跡をたどって全国を行脚して執筆、師の没後十年に成った。画図は当時の生活風俗を伝え、社会経済史・民衆史の史料としても貴重。

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商品レビュー(2件)

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ブックスのレビュー レビューを見る(1件)/ 書く
百代の儀表、千載の領袖にあらざらむかも彡
購入者さん 評価 5.00 5.00 投稿日:2014年05月01日
一遍聖遊行の跡をいま辿るなら、まさに『 たとひ時うつり事さるとも、もし古をたづね、あたらしきをしらば、百代の儀表、千載の領袖にあらざらむかも。』(本書144p)…南無阿弥陀仏彡
0人が参考になったと回答

5:42 午後  
Blogger yoji said...

聖絵末尾

『たとひ時うつり事さるとも、もし古をたづね、あたらしきをしらば、百代の儀表、千載の領袖にあらざらむかも。』(岩波文庫144p)

5:43 午後  
Blogger yoji said...

跳ねば跳ね 踊らば踊れ春駒の のりの道をば 知る人ぞ知る

一遍

5:44 午後  
Blogger yoji said...

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6:23 午後  

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