金曜日, 1月 20, 2017

『論理哲学論考』 Tractatus Logico-Philosophicus

               (論理学、リンク:::::::::

NAMs出版プロジェクト: 「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus

http://nam-students.blogspot.jp/2017/01/tractatus-logico-philosophicus.html


「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus

http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/index.html
+ 1
世界とは、起きていることすべてである。
+ 2
起きていること、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
+ 3
事実の論理像*が思考である。
+ 4
思考とは有意義な命題である。
+ 5
命題は要素命題*の真理関数である。
(要素命題は自分自身の真理関数である)
+ 6
真理関数の一般形式は p*ξN(ξ)* ]*である。
これは命題の一般的形式である。
  7
語りえぬことについては,沈黙するしかない。

_____
引用終わり

ウィト論考の肝は6.の真理関数の数式です。
以下、ラッセルの解説。

____________

[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)

…このシンボルの説明は次の通りです。

p(pに上線)は全ての原子命題を代表します。
ξ( ξに上線)は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ)(ξに上線)はξを作り上げる全ての否定を代表します。

 《シンボル全体[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線) は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。》
(ラッセルによる序文『論考』邦訳全集①12頁より)

ですから世界は行為であるという「反論」はN…に対応しており、
ウィトの真理関数は崩れないわけです。

ショーペンハウアーの場合、は行為と認識の二重性を認めますから、以下のような解説が可能になります。

《手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主観に二重の仕方で与えられる」の意味です。》
富増 章成(「ショーペンハウアーの哲学とは?」『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁)

二重性を廃し、反論可能性を無限に認めたウィトの方はカント(の批判哲学の再帰的傾向を数式化したもの)に近いですし、
ショーの二重性はアンチノミーを解決したいカントの初期衝動に忠実なわけです。
(ウィトは『論考』でカント批判をしている。*)
 



カント『思惟において方向を定めるとは、どういうことか』(1786)への批判

以下は『論理哲学論考』より

___________

六・三六一  右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、平面の場合に既に存立しており、

それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。


…………〇━━━━━━ ×…………×━━━━━━ ○…………
          a       b

  ここで二つの合同な図形a、bを、この空間の外へと動かすことなくしては、重ね合わせることはできない。
 右手と左手とは実際に完全に合同である。そして両者が重ね合わされないことは、このこととは全く関係がない。
   右手の手袋を仮に四次元空間で回転できるとすれば、それを左手にはめることも可能であろう。

『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p.114より)
______________


カントに批判の数式化及び上記のような単純化(三次元から二次元へ)において、ウィトは
カント第6批判書を書いたとさえ言いたい。
第5批判書はむろんニーチェではなくショーペンハウアーが書いたのだ。

追記:
カントは学部の構成の正当性について書いている(『諸学部の争い』1798年)。
カントの再帰的かつ反省的体系批判は大学にも当てはまるし、国家や国連にも当てはまる。


参考:

NAMs出版プロジェクト: ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン

http://nam-students.blogspot.jp/2012/08/blog-post_28.html

「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論考)5.64☆を参照]」

(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)

D・A・ワイナーによれば上記の記述もショーペンハウアー『意志と表象〜』に応酬したものだと言う(三和書籍141頁)。
ワイナーは指摘していないが、同じ論理がショーペンハウアー『根拠律』(19節邦訳全集第一巻51頁)のスピノザに関する言及にもある。

『意志と表象としての世界』:図解&目次

『天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響 』(単行本)
D.A.ワイナー著 
http://www.amazon.co.jp/dp/4916037529/ 

以下読書メモ:

著者は、ウィトゲンシュタイン『論考』(5.633)の「君」はショーペンハウアーのことだと指摘する(104頁)。
ウィトゲンシュタインは「ショーペンハウアーの亡霊と論争している」(112頁)のだ。
孤高の両思想家は孤高であるという接点を持つ(両者ともに影響関係の必要ない天才であり、努力し勉学に励む才人でもある)。

有名な「梯子」(6.54)の比喩も『続意志と表象』から引いているという(71頁)。

意志と表象の意志の部分をフロイトが受け継いだとするなら(*)、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが批判的に受け継いだのだ。『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだったとも言える、、、

表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する(126頁)。

ただし、著者はウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを通じてカントに接近したと書くが、むしろスピノザと接近しているのではないか?
それは、「永遠の相」(『意志と表象』34節で引用されるスピノザの言葉)を芸術に求めるショーペンハウアー、それに倫理的態度を付け加えるウィトゲンシュタイン(195頁)を見るとわかる(参考「草稿」1916年10月7日)。

ショーペンハウアーはスピノザの演繹的手法を批判したが、思想の実質は受け継いでいる。
カントとプラトンだけにショーペンハウアーの影響関係が限定されるわけではない。

彼らの関係を(ショーペンハウアーによる四つの根拠律を考慮しつつ)図示するとこうなるかも知れない。

スピノザ|ウィト
____|____
カント |ショーペン
    |フロイト

なお、本書はカバーデザインが与える印象と違い、学術的労作と言えると思う。
翻訳も両者邦訳全集の引用元頁数が注記されていて親切だ。


*注: 
ショーペンハウアーとフロイトの関係については、小林敏明氏(『<死の欲動>を読む』47頁)によればZentner『忘却への逃走』(未邦訳)↓に詳しい(意志がエスに、知性が自我に対応する)。

3.2. „Es" und „Ich" - „Wille" und „Intellekt" im Vergleich
http%3A%2%2Fexternal.dandelon.com%2Fdownload%2Fattachments%2
Fdandelon%2Fids%2FDE00409D8261E81701023C12577DE00306C0A.pdf





「…表象としての世界に徹頭徹尾立ち止まるなら、私が客観を私の頭の中の表象と説こうが、
時間と空間の中に現われる表象と説こうが、どちらでもよい(略)そこでこの意味でなら、
観念的なものと実在的なものとの同一性ということが、ともかく主張されうるかも知れな
い。」
(ショーペンハウアー『意志と表象』続編第18章第二巻の補足。白水社版では第6巻13頁)

参考:P.M.S.ハッカー『洞察と幻想 ヴィトゲン シュタインの哲学観と経験の形而上学』(八千代出版)


「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは眼を見ることはない
そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できるものはない。
  5.634
このことは、われわれの経験のいかなる部分もア・プリオリではないということと結びついている。
われわれが見るすべては、また別のようでもありえた。
われわれが記述できるすべては、また別のようでもありえた。
ものにはア・プリオリな秩序は存在しないのである。
- 5.64
ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。独我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。
  5.641
それゆえ、哲学において非心理学的自我を論じうることには確かに意義がある。
  • 6 Comments:

    Blogger yoji said...

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    インタビュ ー マルクスから (ゴルバチョフを経て )カントへ ─ ─戦後啓蒙の果てに
    F r o m M a r x ( v i a G o r b a c h e v ) t o K a n t : A f t e r t h e R i s e a n d F a l l o f P o s t w a r E n l i g h t e n m e n t
    浅田彰 A k i r a A s a d a 聞き手 │東浩紀

    浅田
    …ネグリ &ハ ートにしても 、 「グロ ーバルな帝国のポテスタス (顕在的権力 )は即ちマルチ
    チュ ードのポテンチア (潜在的力能 )にほかならない 」という言い方で 、この両極をスピノザ
    的な 「即 」によって結びつけてしまうわけですが 、その間の相転移が理論的に解き明かされ
    ないので 、下手をするとほとんど宗教的な話 、 「色即是空 、空即是色 」みたいな話にさえ
    なりかねない ─ ─彼らは他方で具体的な議論もしているので 、そちらの方が有益だと思います
    が 。また 、この両極図式を批判する柄谷行人が市場 ─共同体 ─国家 (資本制 =国民 =国家
    に統合される )に対するオルタナティヴとして 「アソシエ ーション 」という言葉で語ろうと
    しているものも 、具体的な例がいまひとつ説得力に欠けるぶん 、原型とされる世界宗教のイメ
    ージが強くならざるをえない 。
    ここではアトランダムにいくつかの例を挙げただけですが 、そこここで政治が宗教に回帰して
    いく傾向はどうも気になりますね 。




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    浅田彰 インタビュ ー マルクスから (ゴルバチョフを経て )カントへ ─ ─戦後啓蒙の果てに. F r o m M a r x ( v i a G o r b a c h e v ) t o K a n t : A f t e r t h e R i s e a n d F a l l o f ...

    戦後啓蒙の到達点

     文学の話から哲学の話に戻って 、もうひとつ言っておくべきなのは 、中高生のころのぼくに
    とってはウィトゲンシュタインがアイドルだったということです 。二〇代に軍隊生活や捕虜生
    活のなかで 『論理哲学論考 』 (二二年 )をほぼ完成させた彼は 、この本によって哲学の問題
    はすべて解決された 、しかしこの本の価値はその解決によっていかにわずかなことしか為され
    なかったかを示している点にある ・ ・ ・ ・ ・ ・と 、大見得を切っている 。単純に 「カッコいいな 」
    と思いました (笑 ) 。きわめてスマ ートな整理を行ったあとで 、そんなものにはなんの意味
    もないと言って梯子を投げ捨て 、語りえぬものについては沈黙する ─ ─本当はそれだけが語る
    に足るものであるにもかかわらず 。もちろん 、ウィトゲンシュタインは 、こうした初期の立場
    から 、言語ゲ ームを核とする後期の立場へと大きく転回するわけで 、柄谷行人がやったように
    その転回を検討することのほうが重要でしょう 。しかし 、たとえば大森荘蔵のように 『哲学探
    究 』 (五三年 )を中心とする後期ウィトゲンシュタインを認めないという立場も 、それはそれ
    でよくわかる気がした 。それくらい 『論理哲学論考 』の衝撃が大きかったということですね 。

    参考:
    「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
    http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/index.html

    6:40 午前  
    Blogger yoji said...

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    トップカスタマーレビュー

    5つ星のうち 5.0「The sense of the world must lie outside the world.」
    投稿者 tomomori トップ100レビュアー 投稿日 2014/2/26
    形式: ペーパーバック Amazonで購入
    米の哲学者、O. K. Bouwsma (1898-1978)は、1949年に訪米中のルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889 -1951)と知り合い、1951年にウィトが亡くなる直前まで、ウィトが自分に語った言葉をノートに書き留めていた。このノート、著者の生前は限定公開で知人にだけ貸し出されるだけだったが、書き写されてコピー版が出回っていたらしい。著者の死後、1986年にそのノートが正式に書籍としてまとめられた。
    レイ・モンクのウィト伝にBouwsma氏が登場していたのを覚えている。二人の会話に印象的な部分があってザル頭に引っ掛かっていた。ウィトは「哲学を教えるなんて無意味だった」と言う。「生徒にとっては害の方が多かった」と。フロイトと同じだ。生徒を酔っ払いにしただけだった。生徒たちは酩酊なき状態で「教え」を使うことは学ばない。それに対してBouwsma氏は、「Because they’ve found a formula.」と敏感に返す。ウィトは「その通り」と答え、私は、「近現代はformulaの時代なのだ」とハッとさせられた。
    異星人が地球に降り立ち、コレは何だ、アレとコレとアレの関係性は何だ…と全てに対して首を捻り、世界を微積分していくような感じである。地球人が捉えないディテールの数々を異星人は捉える。異星人が「地図」を発見しても何の用途か見当もつくまい。地図があり、地勢がある。この二つの関係は何だろう。地図は地勢の「representation」である。しかし「Representing is not on the map」なのだ(確かにそうだ)。異星人がチェスの道具一式を見ても、その認知の中に何の意味も結晶しない。全ての駒の動きのルールを知らなくては、特定の駒の動きに意味は宿らない。こういう異星人感覚を持って世界を見たウィトは、中世神学を打破したデカルト哲学をさらにひっくり返した(と一般に言われる)。
    『Philosophical Investigations』や『On Certainty』を既読の方々にとって特に目新しい考察があるかは置いといて、俗な部分で面白い。バートランド・ラッセルはかつて素晴らしかったのに、バカになってから山のように本を書き出した、とウィトが怒っていたりする。ラッセルはお貴族様だが裕福ではなかったし、物書き稼業は生活の為に必要だった。ウィトの思考回路には、常に奇妙な感じに生活感がない。激烈なる信念の人だからか。それとも、これが本物の大富豪育ちというものなのか。或いは、ラッセルは本気で人類の進歩に寄与したかったのかもしれない。しかしディテール魔人のウィトにとって、「人類」なんてのは「単なる言葉」だ。「人類」ってのは具体的に何を指すのだ。何を指すかも怪しい「人類」なるモノの「進歩」など語っても、意味がない。
    最初はウィトを恐れていた著者がやがて近しくなり、自分に対するウィトの好意に驚きつつ、異様に良い記憶力でその言葉をノートにしたためる。ウィトは死の床につく寸前まで様々な領域を生き生きと語っている。「まえがき」に「分析哲学者が宗教について盛んに語るので驚くかもしれないが」という言葉があるが、全く驚かない。最後のページで、著者は何故かウィトが末期癌であることを知っている。著者のストイックな筆致が、意外なほどに余韻を残して終わる。
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    4:25 午後  
    Blogger yoji said...

    ウィトゲンシュタインとドストエフスキー
    http://www.j-feelings.com/dune.cgi?k=wit_dost
    Home  ウィトゲンシュタインとマルガリート・レスピンガー:恋愛と後期思想  『倫理学講話』(1929-1930)について  ウィトゲンシュタイン on YouTube
    ウィトゲンシュタインとドストエフスキー

     このページでは、ウィトゲンシュタインとドストエフスキーと関係とその類似点について、一読者として思いついたことをまとめてみようと思います。まず、これまでに書いたメモを抜き出してみることにします。(以下の1~11は他の頁で書いた文章の再録)

      ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの関連性を詳しく論じた文章はまれであるので、世評的にどのような評価が可能であるかわたしは知らない。しかし、O.K.ブースマの記録によれば、ウィトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を生涯を通じて50回は精読していたという。また、N.マルコムは「数え切れないほど」と伝えている。彼らの証言を重視するならば、ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの関連性はもっと熟慮されてしかるべきであると思われる。   

    補遺1.ウィトゲンシュタインは本当に「カラマーゾフの兄弟」を50回も読んだのか?(2008.12.26)

    ウィキペディアの「カラマーゾフの兄弟」の解説ページには、
    哲学者ウィトゲンシュタインは「『カラマーゾフの兄弟』を最低でも50回は精読した」と言っている(第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だったため)。
    とある。ウィキペディアの記述者の元ネタが何であるかはわからない。が、もしかするとこのページで私がかつて書いたこと(本頁8-9節:2001)に因しているのかもしれない。O.K.Bouwsmaの” Wittgenstein: Conversations 1949 1951 ”には以下のような記述がある。
    August 5 1949
    Later in the car he mentioned a chapter in Dickens' Uncommercial Traveler--an account of Dickens' visit to an immigrant ship of Mormons and his amazement at finding it all so clean, and so orderly and contrary to everything he had expected. The account of a prejudice. I should read it. He also had read a history of the Mormons-Edward Meier. In the midst of this I had mentioned Ivan as wishing he were a woman of eighteen stone lighting a candle before the ikon. This was wrong, of course, not like Dickens at all. But this led him to talk of The Brothers. He must have read every sentence there fifty times. Alyosha faded, but Smerdyakov, he was deep. This character Dostoyevsky knew. He was real. Then he said that the book did not interest him much anymore. But to Crime and Punishment he should like to return. And he talked about the detail in that book, the house of the murder, the room, the hallway, staircase, etc. But what struck him as most magnificent was Raskolnikov's having forgotten to lock the door. That was tremendous! And after all his planning. (It occurs to me now-like the fly on Pascal's nose.)
     この問題についていくつかコメントしておこうと思う。ひとつは、50回という回数に信憑性があるかどうか。という点だ。上述引用した文章はブースマが1949年8月5日に行ったウィトゲンシュタインとの会話に基づくものだが、本人からの伝聞ではなく、ブースマが感じた印象記述だということ。アリョーシャやスメルジャコフに対するコメントもブースマ本人のものであるかどうか定かではない。また、米国人的感性でいえば、「100%:ワンハンドレッド・パーセント」という表現にもあるように、"100"には「完璧・完全」というニュアンスがあるが、50という数字はその100の半分。完全ではないが、とにかくもの凄く詳しい。というニュアンスで "every sentence there fifty times" と表現したのかもしれない。もちろん、通読回数が実際に何回であったかなどはどうでもよいことではある。

    注)ブースマ(Oets Kolk Bouwsma 1898–1978)はネブラスカ大の倫理学・哲学の教授で、1932年頃の教え子のMorris LazerowitzはG.E.ムーアの下に留学した。彼の妻となったAlice Ambroseはムーアとウィトゲンシュタインの生徒で青色本・茶色本の頃の講義を直に受けている。(その時の講義録は邦訳本が出版されている。) 彼らの帰米後、ウィトゲンシュタインの哲学に影響を受け、やはり教え子であったノーマン・マルコムをウィトゲンシュタインの下へ留学させている。つまりブースマはマルコムの師匠筋、指導教授であった。WikipediaのOets Kolk Bouwsmaの項目を参照。(2013/5/4)

     着目点は他にもある。アリョーシャの立ち回りや作中の役割は、スメルジャコフの自殺で終了する。この点で観れば、スメルジャコフの方が深いという指摘。( He was real. : 彼は実存的だ。)最晩年まである意味でアリョーシャを模倣したような生き方をしてきたウィトゲンシュタイン自身の人生への感慨が、この表現には共振しているように感じる。1949年という最晩年期のウィトゲンシュタインにとって、もはや「カラマーゾフの兄弟」は読み終えた書物となってしまっている。しかし彼は、なおさらに「罪と罰」には立ち返らざるを得ないと言う。ウィトゲンシュタインは、ラスコーリニコフが老婆を殺した後にドアを閉めないまま殺人現場から立ち去ったというドストエフスキーの記述に感嘆!の意を表している。それもまた、ラスコーリニコフ/ドストエフスキーの作為なのだと読んでいるようである。(ブースマの手記の記述にはブースマ本人の感想なのか、ウィトゲンシュタインの感想なのか判別着け難いという解釈上の困難さがある。この点を考慮した編者はウィトゲンシュタインに近しい間柄であったヨーリック・スイマイシーズに監修を求めている)

    いずれにせよ、ウィトゲンシュタインの後期思想は、ドストエフスキーの読み込みと並行的に深まっていったのは確かなことである。それは彼の後期思想の解釈的理解へ至る視座を提供するであろう。ただしかし、問題はまだ残っている。それは「なぜ、後期思想は展開されなければならなかったのか?」というウィトゲンシュタインが後期思想を展開するモチベーション=内面的な必然性の有り様である。

    4:26 午後  
    Blogger yoji said...

    9.Conversation 1949 - 1951 -2-(2001/4/25)

     『Conversation 1949 - 1951』という小冊子は、ウィトゲンシュタインの最晩年の時期を伝える記録としてとても有益だ。読むに値する。昨日航空便で届いたのだが、とりあえず読了した。ただし辞書を引かずに読み飛ばしたところも多いから精読したとは言い難い。それでも、難解な表現はあまりないので。おおよそ、おおよそ。

       伝記としては、次のような書籍がある。

     ●全般的
     回想のウィトゲンシュタイン(ノーマン・マルコム:法政大学出版局/講談社)
     ウィトゲンシュタイン(レイ・モンク:みすず書房)
     ●第一次世界大戦終了まで
     ウィトゲンシュタイン評伝(マクギネス:法政大学出版局)
     ●復員後からケンブリッジ復帰まで
     ウィトゲンシュタインと同性愛(バートリー:未来社)
     ●後期~アイルランド時代
     『Danger of the words』(ドルーリー:未入手)
     ●1949~1951
     『Conversation 1949 - 1951』(ブースマ)

       現時点で、ドルーリーの著書『Danger of the words』が版元で在庫切れで入手できないのが残念。ドルーリーの本では、『カラマーゾフ』のゾシマ長老についての議論が書かれてあるということでだ。

       ブースマの記録の中で面白いと思われたのは、デカルトの「コギト」についてウィトゲンシュタインの論評があることだ。LWは「我思う、故に我あり」というセンテンスは同一時制では話し得ないという点を強調している。「故に」と結論づけられる時点ですでに「思う」ということは「思った」にしかなりえない。その点でこの表現にはある種の混乱(conflict)があると指摘している。

       戦争が人を変えるという点。LWは一次大戦後、ラッセルと会った際に、司教になったホワイトヘッドへ「よろしく」と伝えて欲しいと託したが、ラッセルはなにもしなかった。というのも、ホワイトヘッドは戦争でドイツ嫌いになっていたから。また、ケンブリッジに学んでいたルーマニアの学生は出身国の故に帰国させられたが、彼は戦争によって戦死。戦後、戦没者の慰霊碑にその学生の名を刻むか否かで議論があり、結局刻まれたが、別扱いとなったこと。

      LWがアメリカに着いた直後、イタリア人の少年の靴磨きがあまりに上手だったので倍払いをしたこと。逆に帰国直前、タクシーで港へ向かった際、そのタクシーはいわゆる雲助タクシーで4ドルまでカウントしたところでメータが止められ降りる際には7ドルを請求されたこと。その件で警官を呼んで結局4ドル半を支払ったこと。等々。

       だから、一次資料は面白い。二次的・三次的資料は何を読んでも結局新しい発見に遭遇することはまれだ。だけれど、直接的な体験を元に書かれた一次的な文章は我々のような読者に「発見」の喜びを与えてくれる。

    10.バフチン兄弟(2001/5/7)

      現代ロシアの哲学者、言語学者、文学批評家としてつとに有名なミハエル・バフチン(M. Bakhtin)は、ドストエフスキー論を「ポリフォニック性」という概念で解き明かしていることで知られている。不勉強さのゆえに私はバフチンを今までよく知らないでいた。それで昨日、図書館でドストエフスキーの関連本の一冊として解説書を借りてきた。

       実は、先日、amazon.com から別便が届いた。デレク・ジャーマンのビデオ『Wittgenstein』とLWの解説書が二冊、他に「プリズナーNo.6」のファン向け解説書一冊。ビデオについていえば、英国のTV局「チャンネル4」制作作品なので、いわゆる90分番組的な構成だ。シナリオは単行本として入手が可能。一見しただけなのだが、なんというか、飾りのない黒を背景とした舞台劇風の演出で、「プリズナーNo.6」でいえば第16話「once upon a time:最後の対決」によく似ている。LWその人をデフォルメした上で子供の頃から編年的に見せるという構成。ロンドンには無数の演劇小屋があるがそのどこかで演じられても不思議ない雰囲気の作品だ。

       今回手に入れた解説本の一冊が『Wittgenstein's Ladder』。著者のMajorie Perloff はウィーン生まれの詩人、文学者。子供の時にナチの圧政を逃れて米国へ亡命してきた人物で、個人史的にLWに親近感を強く感じているという。まだ読み始めたばかりだけれど、詩学の低迷した現状にあって、LWが現代の欧米の詩人に広く受け入れられているという指摘はとても面白いと思った。21世紀の現時点で、LWがどのように受け入れられているのか。そうした話に接する機会はまれなので、現状を知ろうとしたら結局この種の新刊の洋書を読み漁るしかない。実は、そこで、バフチンの名前が出てきた。しかもミハエル・バフチンではなく、彼の一つ違いの兄のニコラス・バフチンである。

       レイ・モンクの評伝のインデックスを調べると、ニコラス・バフチンは3ヶ所で触れられている。要は、後期ケンブリッジ時代、LWがロシアへの移住を計画していた時期に親しくつきあいがあったロシア人の一人ということだ。ニコラス・バフチンがケンブリッジの教職に就いていたかは定かではない(友人という記述があるだけだから)。ニコラス・バフチンはおおよそ1894年生まれだからLWとは5~6歳年下ということになる。LWがロシア訪問を行ったのは1935年の9月。この時点で、ミハエル・バフチンはまだ流刑の刑期を終えていなかった。しかしながら、バフチンの「ドストエフスキー論」は1929年に公刊されているのだから、それを兄のニコラスを経由して知っていた可能性は十分ある。

       レイ・モンクの評伝では、さらに、ニコラスとLWが『論考』を一緒に読んでいたことが記されている(下巻510頁)。その際に、『論考』と『探求』は一冊にまとめて出版されるべきだという構想を思いついたとある(『探求』の序文にはこの記載がある。この構想をケンブリッジ大学出版局は承認したものの実際には実現しなかった)。

       レイ・モンクの評伝では、バフチン兄弟とLWの関わりは「接触があった」という指摘はあるものの、具体的には、ほとんど触れられていない。時期的に言えば、1935年は、ミハエル・バフチンの流刑の刑期明け(1936/9)の前年であり、LWが帰英後2年間程度はソビエトへの移住の希望を捨てきれずにいたことを考えると、ミハエルとのなんらかの接触を期待していたということはあり得ることである。というのも、ミハエル・バフチンはある意味で、ドストエフスキーの最大の理解者であったであろうから。LWは話をしたくて仕方がなかった。のではなかったか。これはもちろん私の推測でしかない。バフチンのドストエフスキー理解はLWのそれと非常に似通っていることは確実だと思える。LWには「カーニバル性」は薄いというか欠落している感は否めないとしてもである。見通しとして、バフチンとLWを並べて眺めてみることに何らかの意義はあるだろうと思われる。

       ニコラス・バフチンとの関係について、パスカル夫人の手記に一節がある。ウィトゲンシュタインとニコラス・バフチンは極めて仲が良く、ウィトゲンシュタインは真にニコラスが大好きであるように見えた。彼らは子供のような純真さ(childlike innocence)を共有しつつ大騒ぎし放題の生活をしていた。という記述がある。( Recollection of Wittgenstein P.14 2011/7/10 )

    6:20 午後  
    Blogger yoji said...

    ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン#cite_ref-19

    編集
    1914年、第一次世界大戦が勃発し、8月7日にウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になっている[9]。クラクフへ着任し巡視船ゴプラナ号内で過ごすことになるが、隊内では孤独にさいなまれ、さらに兄パウルが重傷を負ってピアニスト生命を絶たれたと聞き「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考える。そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。それはトルストイによる福音書の解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。誰彼かまわずこの本を読んでみるよう薦め、戦友から「福音書の男」というあだ名までつけられるほど熱中したという[注釈 10]。

    このころから彼は哲学的・宗教的な内省をノートに頻繁に書き留めている。これらのメモのうち最も注目に値するのはのちに『論考』で全面的に展開される写像理論のアイディアであろう[9]。これは後年の述懐によると、塹壕の中で読んだ雑誌の交通事故についての記事中の、事故についての様々な図式解説からヒントを得たものだという。11月にはかつて財政支援をした詩人ゲオルク・トラークルが鬱病で入院しウィトゲンシュタインに会いたがっているとの知らせを受け取る。自身も孤独と憂鬱に悩まされていたこともあり、あの天才詩人と親しく話せる仲になれればなんと幸せなことかと喜び勇んで病院へ見舞いに向かったが、到着したのはトラークルがコカインの過剰摂取により自殺した3日後のことであった。またニーチェの選集も買い求めて『アンチ・キリスト』などのある部分には共感を覚えながらも信仰の念をかえって強める。


    ^ ちなみにウィトゲンシュタインに宗教的な影響を与えた人物には他に聖アウグスティヌス(『告白』を史上最も重要な著作と呼んでいる)、ドストエフスキー(このときの数少ない私物の一つ『カラマーゾフの兄弟』を全文暗誦できるほど読み込んだといわれる)、キルケゴール(「知性に情熱はないが、キルケゴールは信仰には情熱があるといっている」と共感を寄せている)などがいる。
    ^ 『論考』を捕虜収容所で書き上げたという俗説があるが、これは後に創られた神話である。

    6:22 午後  
    Blogger yoji said...


    以下、ドゥルーズ哲学とは何か#1「ひとつの概念とは何か」より

     もちろん、どの概念もひとつの歴史をもっている。わたしたちは、いま述べ
    た他者概念によって、ライプニッツ、ライプニッツにおける可能的世界、そし
    て世界の表現としてのモナド、この三つにまで遡ることができる。しかし、問
    題は同じではない。なぜなら、ライプニッツにおける可能的世界はリアルな世
    界のなかに存在するわけではないからである。その他者概念はまた、命題を扱
    う様相論理学をも指し示している。しかし命題は、その真理条件に対応するリ
    アリティーを、可能的世界に与えることはない(ウィトゲンシュタインは、他
    者を、ひとつの他の主体とひとつの特別な対象のあいだで揺れ動くままにして
    おくので、恐怖や苦痛についての命題を考察するときでさえ、そうした命題に
    、或る〈他者の位置〉」のなかで表現可能な諸様相〔可能性、現実性、必然性
    〕を見ることはできないのである)。可能世界〔という概念〕は長い歴史をも
    っている(1)。…

    (1)この歴史は、ライプニッツとともに始まるわけではないが、ウィトゲン
    シュタインにおける恒常的なテーマとしての他者に関する命題(「彼は歯が痛
    い‥…」)からミシェル・トゥルニエにおける可能的世界論としての他者の位
    置(『フライデーあるいは太平洋の冥界』)にわたるほどの様々なエピソード
    を経ている。

    1:17 午前  

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