http://www.freeassociations.org/
8・スピノザの「無限」 1987 探究2
アセンブリとは「集まり」であり、日本語でいえば「寄り合い」です。近代以前からそれはあった。日本だけではない。どんな社会にも古来、寄り合いのようなものがあった。それが議会(アセンブリ)に発展したのです。だから、デモ・集会と議会は同根です。ルソーはいう。《人民はアセンブリにおいてだけ、主権者として行動しうるだろう》(『社会契約論』)。この場合、アセンブリは、代議制の議会ではありえません。そこでは、「寄り合い」にあった直接民主主義的な要素は失われてしまうからです。代議制では、人民が主権者となるのは投票する時だけで、そのあとは奴隷となってしまう、とルソーはいう。《代表という考えは近代のものである。古代の共和国では、いな君主国においてすら、人民は決して代表者をもたなかった》。
ルソーはこういいます。《人民のアセンブリは、いつの時代にも、支配者たちの恐れるところであった。だから、彼らは、集まっている市民に嫌がらせをするために、つねに、配慮、反対、妨害を惜しまなかった》(同前))。ルソーがそういったわけではないが、このような人民のアセンブリは、街頭のデモ・集会以外に考えられません。実際、日本では、デモはたえず妨害され嫌がらせを受けている。なぜか。それはそこに真のアセンブリがあるからで、それこそ「支配者たちの恐れるところ」だからです。
要するに、日本において民主主義は、デモをするほかに実現できません。デモなどで社会が変わるか、といってはいけない。デモをする以外に、日本の社会は変わらないのです。
#11
私は『トランスクリティーク』以来、一〇年あまり、『トランスクリティーク』で提起した「交換様式」の問題を発展させようとしてきました。それが『世界史の構造』であり、また、『哲学の起源』、『帝国の構造』です。このような仕事を今後も続けるだろうと思います。と同時に、私は過去の仕事をふりかえることを考えています。
#12
私はこれまで講演集を二冊出した。『言葉と悲劇』(一九八九年)と『〈戦前〉の思考』(一九九四年)である。前者は一九八四年から八八年まで、後者は一九九〇年から九三年までの講演を集めたものだ。
序文____『世界史の構造』の構造______
| | |2(氏族社会)1 |
| 1国家 |3世界帝国|贈与と呪術| 定住革命|
| 第2部ギリシア| 第1部 |
|___世界=帝国___|__ミニ世界システム_|
| (B) | (A) |
| | | |序説 |
|2世界貨幣|4普遍宗教| |交換様式論|
|_____|_____|_____|_____|
| |3 | | |
|1近代国家|ネーション| | |
| 第3部 | 第4部 |
|_近代世界システム__|___現在と未来___|
| (C)4 |1 (D) 2 |
|2産業資本|アソシエー|世界資本主|世界 |
| |ショニズム|義の段階と|共和国へ |
|_____|____☆|反復___|_____|
柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇 2017年10月27日 電子版 (初出1989)
柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇 2017年10月27日 電子版初版発行
初出一覧
(それぞれ、講演日/講演場所/主催/初出を示す)
1・言葉と悲劇 1982年5月15日/青山女子短期大学/日本シェイクスピア学会
2・ドストエフスキーの幾何学 1985年6月15日/早稲田大学/ドストエーフスキイの会/
「ドストエーフスキイ研究」Ⅲ号、1986年、原題「ドストエーフスキイとバフチン」
3・漱石の多様性 1985年2月27日/川口市栄町公民館/川口市立前川図書館
4・江戸の注釈学と現在 1985年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
5・「理」の批判 1986年1月31日/エコール・ノルマル・シュペリウール/フランス外務省/
「現代詩手帖」1986年5月号
6・日本的「自然」について 1986年10月25日/都立婦人情報センター/東京女性史研究会/
「フェミニテ」第5号、1987年
7・世界宗教について 1986年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
8・スピノザの「無限」 1987年7月17日/──/「現代思想」インタビュー/「現代思想」1987年9月号
9・政治、あるいは批評としての広告 1987年9月10日/機械振興会館/「広告学校」(「広告
批評」主催)/「広告批評」第100号、1987年
10・単独性と個別性について 1987年11月2日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
11・ファシズムの問題 1988年1月15日/──/「現代思想」インタビュー/「現代思想」1988年3月号
12・ポストモダンにおける「主体」の問題 1988年4月11日/デューク大学/The Duke Center
for Critical Theory/「季刊思潮」創刊号、1988年
13・固有名をめぐって 1988年5月28日/赤坂草月ホール/「季刊思潮」/「図書新聞」1988年6月25日号
14・坂口安吾その可能性の中心 1988年9月24日/東洋大学/日本近代文学会
本書は、1989年第三文明社より刊行され、1993年講談社学術文庫に収録された。本文庫化に際
しては、講談社学術文庫版を底本とし、左記の改変を加えた。
一、「バフチンとウィトゲンシュタイン」については、割愛した。
一、「漱石の多様性」「坂口安吾その可能性の中心」については、『定本 柄谷行人文学
論集』(岩波書店、2016年)所収の改訂稿に差し替えた。
…
本作品は、2017年5月、ちくま学芸文庫として刊行された。
https://itunes.apple.com/jp/book/id1300462537
参考:
柄谷行人「柄谷行人講演集成1995‐2015 思想的地震」
https://itun.es/jp/8hnvjb.l
年代 | 年齢 | 内容 |
---|---|---|
1724年 | 0歳 | 4月22日、イマヌエル・カント(1724-1804)、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に9人の子供のうち第四子として生まれる。父の名はヨハン・ゲオルク・カント(1683-1746)で馬具職人、母の名はアンナ・レギーナ・ロイター(1697-1737)。 |
1730年 | 5歳 | 聖ゲオルク養老院付属小学校に入学する。 |
1732年 | 8歳 | コレギウム=フリデリキアヌム(フリードリッヒ学院)に入学する。 |
1737年 | 13歳 | 母(1697-1737)没す。 |
1740年 | 16歳 | ケーニヒスベルク大学に入学する。 |
1746年 | 22歳 | 大学を卒業。卒業論文の題名は「活力の真の測定に関する考察」。父没(1683-1746)す。 |
1747年 | 23歳 | ダニエル・アンデルシュ家の家庭教師となる。 |
1749年 | 25歳 | 処女作『活力の真の測定に関する考察』を出版する。 |
1751年 | 27歳 | ヒュンゼン家の家庭教師になる。 |
1754年 | 30歳 | 「ケーニヒスベルク週報」で「地軸の回転によって地球がこうむる変化」、「地球は老衰するか」を発表。 |
1755年 | 31歳 | 『天界の一般自然史と理論』を出版する。マギスター論文「火について」を発表。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』についての公開討論、出版。ケーニヒスベルク大学の私講師になる。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。 |
1756年 | 32歳 | 「ケーニヒスベルク週報」でリスボンの大地震についての論文「地震の原因について」、「地震における注目すべき出来事」、「地震論続編」を発表。クヌーツェンの没後に空席となった数学と哲学の院外教授の席を申請するが却下。『物理的単子論』についての公開討論をし、教授資格を得る。「風の理論の解明に関する新註」を発表。倫理学講義を開始。 |
1757年 | 33歳 | 「自然地理学講義概要 付録:西風論」を発表。 |
1758年 | 34歳 | 「運動と静止の新概念」を発表。ケーニヒスベルク大学でJ.D.キュプケの後任として論理学・形而上学教授の席を申請するが却下。この年、ロシア軍によってケーニヒスベルクは占領(1958-1962)される。 |
1759年 | 35歳 | 力学を講義。冬学期講義予告の『オプティミズム試論』を出版。 |
1760年 | 36歳 | 「フンク氏の早世をいたんで」を発表。 |
1762年 | 38歳 | ケーニヒスベルク大学の学長であったボックの後任として詩学教授の後任に推薦されるが辞退する。『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。ウィーンでは禁書扱いになる。『三段論法の四つの格の誤った煩瑣性』を出版。ルソーの『エミール』が出版され、これを読んだカントは後年、ルソーから「人間を尊敬する」ことを学んだと告白する(『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き)。ヘルダー、カントの講義を聴く。 |
1763年 | 39歳 | ベルリンアカデミーの懸賞論文「自然神学と道徳の原則の判明性」が次席に選ばれる。一位はメンデルスゾーン。『負量の概念を世界知に導入する試み』を出版。 |
1764年 | 40歳 | 「ケーニヒスベルク学術政治新聞」で「脳病試論」、「ジルバーシュラークの著作"1762年7月23日に現れた火の玉に関する理論"の論評への補遺」を発表。再び詩学教授職への就任を要請する勅書が発せられるが、辞退する。『美と崇高の感情に関する考察』を出版。 |
1765年 | 41歳 | 「1765-1766年冬学期講義計画公告」を発表。 |
1766年 | 42歳 | 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』を出版。ケーニヒスベルク王立図書館副司書になる(1766-1772)。 |
1767年 | 43歳 | 自然法と哲学概論を講義する。 |
1768年 | 44歳 | 「ケーニヒスベルク週報」で「空間における方位の区別の第一根拠について」を発表。 |
1769年 | 45歳 | エアランゲン大学の論理学・形而上学の教授に招かれ一旦は承諾するが、後に辞退する。 |
1770年 | 46歳 | イェナ大学より招聘されるが、辞退する。ランクハンゼンの後任としてケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授となる。正教授就任論文『感性界と知性界の形式と原理』を出版。鉱物学を講義する。 |
1771年 | 47歳 | ケーニヒスベルク学術政治新聞で「モスカティの著作"動物と人間の構造の間にある身体上の本質的な相違について"の論評」を発表。 |
1772年 | 48歳 | 王立図書館副司書を辞任(1766-1772)。人間学を講義する。 |
1773年 | 49歳 | |
1774年 | 50歳 | 自然神学を講義する。 |
1775年 | 51歳 | 「夏学期講義計画; さまざまな人種について」を発表。 |
1776年 | 52歳 | 「ケーニヒスベルク学術新聞」で「汎愛学舎論」を発表。哲学部学部長を務める。教育学を講義する。 |
1778年 | 54歳 | ハレ大学への招聘を辞退する。 |
1779年 | 55歳 | 哲学部学部長を務める。 |
1780年 | 56歳 | ケーニヒスベルク大学評議委員会会員になる。 |
1781年 | 57歳 | 『純粋理性批判』を出版。 |
1782年 | 58歳 | 「ケーニヒスベルク学術政治新聞」で「ランベルトの往復書簡の公告」、「医者に対する声明」を発表。 |
1783年 | 59歳 | 『将来の形而上学のためのプロレゴーメナ』を出版。 |
1784年 | 60歳 | 「ベルリン月報」で「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。 |
1785年 | 61歳 | 「一般文芸新聞」で「ヘルダー論評」(第一ヘルダー論評)、「抗弁」(第二ヘルダー論評)、「ヘルダー論評」(第三論評)を発表。「ベルリン月報」で「月の火山について」、「偽版の違法について」、「人種の概念の規定」を発表。『人倫の形而上学の基礎づけ』を出版。 |
1786年 | 62歳 | 「ベルリン月報」で「人類史の憶測的起源」、「思考において方位を定めるとはいかなることか」を発表。ケーニヒスベルク大学学長に就任(任期は半年)。『自然科学の形而上学的原理』を出版。「一般文芸新聞」で「自然法の原則に関するフーフェラントの試論に対する論評」を発表。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。 |
1787年 | 63歳 | 『純粋理性批判』第二版を出版。『実践理性批判』を出版(年号には1988年と記してある)。 |
1788年 | 64歳 | 「ドイツ・メルクール」で「哲学における目的論的原理の使用について」を発表。ニヒスベルク大学学長に再任される。 |
1789年 | 65歳 | |
1790年 | 66歳 | 『判断力批判』、『新しい純粋理性批判は古い批判によってすべて無用にされるはずだという発見について』を出版。「一般文芸新聞」で「声明」を発表。これは『カント小著作集・注釈付』と題したまがい物が出回っている事に対する警告である。 |
1791年 | 67歳 | 哲学部学部長。「ベルリン月報」で「弁神論におけるあらゆる哲学的試みの失敗について」を発表。フィヒテが経済的支援を求めてきたのに対し『あらゆる啓示の批判の試み』の出版の口利きをすることで応える。勅令により出版物の検閲が厳しくなる。 |
1792年 | 68歳 | 「ベルリン月報」で「人間の本性における根本悪について」(後の『たんなる理性の限界内の宗教』の第一論文)を発表。「人間の支配をめぐる善原理と悪原理の戦いについて」(のちの『たんなる理性の限界内の宗教』の第二論文)に出版不許可の決定が下る。「一般文芸新聞」で「声明」を発表。この中で『あらゆる啓示の批判の試み』の著者がフィヒテであり、自分とは関係の無いことを主張する。 |
1793年 | 69歳 | 『単なる理性の限界内の宗教』を出版。「ベルリン月報」で「『それは理論では正しいだろうが、実践では役に立たない』という俗言について」を発表。人倫の形而上学を講義する。 |
1794年 | 70歳 | 『単なる理性の限界内の宗教』の改訂第二版を出版。「ベルリン月報」で「月が天候に及ぼす影響について」、「万物の終わり」を発表。ロシアのペテルブルク科学アカデミーの会員に選ばれる。宗教・進学に関する講義、著作を禁ずるフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の勅令が出される。カントは嫌疑を否定しながらも「陛下の忠実な臣下として」勅令を感受することを表明。 |
1795年 | 71歳 | 「魂の器官について」の私見をゼンメリンク宛書簡で述べる。「永遠平和のために」を出版。この頃から講義を縮小していく。 |
1796年 | 72歳 | 学長を辞退する。「ベルリン月報」で「哲学において最近高まってきた尊大な語調」、「誤解に基づいた或る数学上の論争の調停」を発表。「一般文芸新聞」で「フォン・ピッペルの著者としての資格に対する声明」を発表。『永遠平和のために』の改訂第二版を出版。論理学で最終講義を行う。 |
1797年 | 73歳 | 『人倫の形而上学 第一部 法論の形而上学的原理』を出版。「ベルリン月報」(終刊号)で「哲学における来るべき永遠平和条約の締結を告知」を発表。『人倫の形而上学 第二部 徳論の形而上学的原理』を出版。「ベルリン雑誌」で「人類愛から嘘をつく権利の虚妄」を発表。バンジャマン・コンスタンの「政治的反動について」(1796年刊)のどtsu訳語が発表される。この中でコンスタンはカントの窮余の嘘について批判する。 |
1798年 | 74歳 | フーフェラントに論文「自己の病的な身体的感覚についての心意の力」を送付。『法論の形而上学的原理』改訂第二版を出版。講義録『実用的見地における人間学』を出版。『諸学部の争い』を出版し、序文で宗教・進学に関する講義、著作を禁じたフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の勅令が、ヴィルヘルム2世の亡くなった今や無効であると宣言する。『出版業について』を出版。 |
1799年 | 75歳 | 「一般文芸新聞」で「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。 |
1800年 | 76歳 | イェッシェの編集で講義録『論理学』を出版。ヤッハマンの『菅と宗教哲学の吟味』のために「カントの宗教哲学に関するヤッハマンの試論のための序文」を寄稿。クリスティアン・ゴットリープ・ミールケの『リトアニア語・ドイツ語辞典』に「後期」を寄稿。この頃から老衰がひどくなり、ヴァジアンスキーがカントの世話をする。 |
1801年 | 77歳 | 書籍商フォルマーが同年に無断で出版した『カント自然地理学』に対する「抗議声明」を発表。大学評議員を辞する最後の公式「声明」。 |
1802年 | 78歳 | 約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。メモには「ランペの名は今後忘れてしまわねばならない」と記す。リンクの編集で講義録『自然地理学』を出版。 |
1803年 | 79歳 | 亡き弟の末娘ヘンリエッテに父親代わりとして結婚を祝福する手紙を送る。現存する最後の書簡で、ヴァジアンスキーによる代筆。リンクの編集で講義録『教育学』を出版。 |
1804年 | 80歳 | 2月3日、ひどく衰弱しながらも検診に来たエルスナー医師(当時ケーニヒスベルク大学学長)を立ち上がって迎え、「まだ人間性に対する感情を失っていません」と告げる。2月12日、末妹カタリーナやヴァジアンスキーが見守る中、老衰により死亡。ぶどう酒を水で薄め砂糖を混ぜたものを口にして「これでよい(Es ist gut.)」と言ったのが最後の言葉。2月28日、大学墓地に埋葬。カントは極力質素な葬儀を望んでいたが、16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。復活祭に、カントが1788年のベルリン・アカデミー懸賞論文へ応募せずにいた未完の論文をリンクが編集し『形而上学の進歩』として出版する。 |
17 Comments:
柄谷行人
《世界史の構造》日本語版目次
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0236930/top.html
大陸版目次
http://book.douban.com/subject/19897923/
台湾版目次
http://www.psygarden.com.tw/book.php?func=visit&bookid=MjAxMzAxMjIxODMzMDA=
韓国語版目次
http://www.aladin.co.kr/shop/wproduct.aspx?ISBN=8991706592
Kojin Karatani「The Structure of World History: From Modes of Production to Modes of Exchange (Unabridged)」
https://itun.es/jp/bQpJ-
Kojin Karatani: 洋書
https://www.amazon.co.jp/s/ref=dp_byline_sr_book_1?ie=UTF8&text=Kojin+Karatani&search-alias=books-us&field-author=Kojin+Karatani&sort=relevancerank
遊動性は幸か不幸か資産格差を不可能にする。
アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫)を読むとポータブルな抽選器もあったらしい。
どちらが先かは分からない。
基本はアフリカからの移動で平等性を(部族内)システムとして獲得した民族が生き延びた
ユダヤの最初の王サウルもくじ引きで決まった
その後の遊動性を準備するものと言える
《定住以前の狩猟採集社会には、共同寄託はあるが互酬的交換はなかったと考えるべきである。》遊動論
戦場で貧乏籤をひかされるケースもあったろうし、遊動性が平等性と切り離せないのは確かだろう。
アリストテレスは法による支配を重視し、イソノミアという言葉を使わない。
ヘロドトスからは乖離がある。
イオニアが植民都市であることが重要で移動を宿命づけられているのだ。戦争で負ける場合もあるし、
商業に従事するケースもある。
以下カント判断力批判#28より
《力 Macht とは大きな障害に優越している能力である。その同じ力は、力をそれ自身所持しているもの
の抵抗にもまた優越しているとき威力 Gewalt と称せられる。…
われわれは雷雨、暴風雨、地震などにおいて神が憤怒しており、しかも同時に神の崇高性が表出されて
いると表象するのをつねとするが……
われわれの職分がその力を超えて崇高であると考えるところのわれわれの内に存する能力によって、深い
畏敬をわれわれの内に起こさせる存在者の崇高性の理念へ達することができる》
カントは判断力批判#28(岩波文庫上179)で地震に触れその節の末尾を柄谷は定本①(29頁)で引用している。
カントの思考がここまで行きつくには、
スウエーデンボルグルソーヒュームを経なければならなかった。
そうでなければ1750年代の自然科学論文で満足したままだったろう。
1756年地震論文(リスボン地震に触発された)では唯物論、
夢は独断論に対して批判哲学ではなく懐疑主義的歴史観で対抗しているが弱いし、
1766夢論文でスウエーデンボルグを独断論/懐疑論で切るが十分ではない。
カントの強みは自然科学、論理学、倫理学が渾然としているところだ。
(だからそれらを整理するカテゴリーが逆に意味を持つ)
柄谷行人の地震論での錯誤でその渾然としたカントを体現してしまっている。
2000年代マルクスの唯物論に物足りなくなった柄谷と、
1760年代自然科学に物足りなくなったカントとはパラレルだ。
以下カント『判断力批判』#28より
《力 [Macht]とは大きな障害に優越している能力である。その同じ力は、力をそれ自身所持しているもの
の抵抗にもまた優越しているとき威力[Gewalt]と称せられる。…
われわれは雷雨、暴風雨、地震などにおいて神が憤怒しており、しかも同時に神の崇高性が表出されて
いると表象するのをつねとするが……
われわれの職分がその力を超えて崇高であると考えるところのわれわれの内に存する能力によって、深い
畏敬をわれわれの内に起こさせる存在者の崇高性の理念へ達することができる》
カントは『判断力批判』#28(岩波文庫上179)で地震に触れその節の末尾を柄谷は定本①(29頁)で引用している。
カントの思考がここまで行きつくには、
スウェーデンボルグルソーヒュームを経なければならなかった。
そうでなければ1750年代の自然科学論文で満足したままだったろう。
1756年地震論文(リスボン地震に触発された)では唯物論、
1766夢論文でスウェーデンボルグを独断論/懐疑論で切るが十分ではない。
カントの強みは自然科学、論理学、倫理学が渾然としているところだ。
(だからそれらを整理するカテゴリーが逆に意味を持つ。
1798人間論にフーコーが着目した理由もそこだ。)
柄谷行人の地震論での錯誤でその渾然としたカントを体現してしまっている。
2000年代マルクスの唯物論に物足りなくなった柄谷と、
1760年代自然科学に物足りなくなったカントとはパラレルだ。
ちなみに
1880年マルクスは労働者へのアンケート、
https://de.m.wikipedia.org/wiki/Fragebogen_f%C3%BCr_Arbeiter
1881年ザスーリチへの手紙を書いた
全集#19
第19巻 1875年 - 大月書店 マルクス=エンゲルス全集 online
maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK01...
M, フランス語版(1880年)へのまえがき, 181. E, ドイツ語初版(1882年)への序文, 183. E, 空想から科学への社会主義の発展, 186. 1, 186. 2, 198. 3, 206. M, 『哲学の 貧困』について, 226. M, 労働者へのアンケート, 227 ... マルクスとエンゲルスの生活と 活動.
ミシェル・フーコーの世紀 単行本 – 1993/10
蓮實 重彦 (編集), 渡辺 守章 (編集)
この時点ではジジェクのカント理解の方が進んでいる
1755 1875 1995
1755年 リスボン地震その翌年1756年地震論 カント
1875年 ゴータ綱領批判 マルクス
1995年 地震講演 柄谷
以下カント『判断力批判』#28より
《力 [Macht]とは大きな障害に優越している能力である。その同じ力は、力をそれ自身所持しているもの
の抵抗にもまた優越しているとき威力[Gewalt]と称せられる。…
われわれは雷雨、暴風雨、地震などにおいて神が憤怒しており、しかも同時に神の崇高性が表出されて
いると表象するのをつねとするが……
われわれの職分がその力を超えて崇高であると考えるところのわれわれの内に存する能力によって、深い
畏敬をわれわれの内に起こさせる存在者の崇高性の理念へ達することができる》
カントは『判断力批判』#28(岩波文庫上179)で地震に触れその節の末尾を柄谷は定本①(29頁)で引用している。
カントの思考がここまで行きつくには、
スウェーデンボルグルソーヒュームを経なければならなかった。
そうでなければ1750年代の自然科学論文で満足したままだったろう。
1756年地震論文(リスボン地震に触発された)では唯物論、
1766夢論文でスウェーデンボルグを独断論/懐疑論で切るが十分ではない。
カントの強みは自然科学、論理学、倫理学が渾然としているところだ。
(だからそれらを整理するカテゴリーが逆に意味を持つ。
1798人間論にフーコーが着目した理由もそこだ。)
柄谷行人の地震論での錯誤でその渾然としたカントを体現してしまっている。
2000年代マルクスの唯物論に物足りなくなった柄谷と、
1760年代自然科学に物足りなくなったカントとはパラレルだ。
ちなみに
1755年 リスボン地震その翌年1756年地震論 カント
1875年 ゴータ綱領批判 マルクス
1995年 地震講演 柄谷
対抗運動も120年周期
以下カント『判断力批判』#28より
《力 [Macht]とは大きな障害に優越している能力である。その同じ力は、力をそれ自身所持し
ているものの抵抗にもまた優越しているとき威力[Gewalt]と称せられる。…
われわれは雷雨、暴風雨、地震などにおいて神が憤怒しており、しかも同時に神の崇高性が
表出されていると表象するのをつねとするが……
われわれの職分がその力を超えて崇高であると考えるところのわれわれの内に存する能力に
よって、深い畏敬をわれわれの内に起こさせる存在者の崇高性の理念へ達することができる》
カントは『判断力批判』#28(岩波文庫上179)で地震に触れその節の末尾を柄谷は定本①(29頁)で引用している。
カントの思考がここまで行きつくには、
スウェーデンボルグ(霊魂)ルソー(倫理)ヒューム(論理)を経なければならなかった。
そうでなければ1750年代の自然科学論文で満足したままだったろう。
1756年地震論文(リスボン地震に触発された)では唯物論、
1766夢論文でスウェーデンボルグを独断論/懐疑論で切るが十分ではない。
カントの強みは自然科学、倫理学、論理学が渾然としているところだ。
(だからそれらを整理するカテゴリーが逆に意味を持つ。
1798人間論にフーコーが着目した理由もそこだ。)
柄谷行人の地震論での錯誤でその渾然としたカントを体現してしまっている。
2000年代マルクスの唯物論に物足りなくなった柄谷と、
1760年代自然科学に物足りなくなったカントとはパラレルだ。
ちなみに、
1755年 リスボン地震その翌年1756年地震論 カント
1875年 ゴータ綱領批判 マルクス
1995年 地震講演 柄谷
対抗運動も120年周期
中森明夫 (@a_i_jp):
新宿・風花の朗読会で総会屋よろしく柄谷行人に公開質問…注目の韓国人
批評家ジョ・ヨンイルは柄谷行人の一番いい作品は最新作だ、柄谷の
代表作はまだ書かれていないと。他方、東浩紀は昔の『探求』の頃の
「批評という病」を患ってた頃の柄谷はいいが、近年では癒えて
健康になってしまったと批判…
中森明夫 (@a_i_jp):
柄谷行人自身は後身の評価をどう思うのか? と直撃すると、
一瞬だまった後「僕の代表作はまだ書かれていない。病…なんて、
どうでもいいんだ。俺はもっとすごいところへ行くんだから。
これから百歳まで生きるんだ。これからだ…」と意気軒昂!
中森明夫 (@a_i_jp):
柄谷行人75歳…超元気で、何か健康法はあるんですか? と訊くと
「毎日、シコを踏んでるんだ」という。深夜・午前1時半、
新宿の路上で柄谷がシコを踏み出したのには仰天!? ちょうどそこは7年前、
東浩紀が若手らと上半身ハダカで記念撮影、大暴れして新宿警察が
出動したのと同じ場所だった!
柄谷行人「憲法9条の今日的意義」(2016年1月23日講演のテキスト起こし) 烏滸の者
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/300.html
[6:28] 私は以前デモについて考えた時、つぎのようなことに気づきました。日本語ではデモは集会と区別されています。しかし英語でいうと、デモを表すいい方はいろいろありますが、正式にはassemblyです。それは日本語で「集会」と訳されています。だからデモも集会もassemblyなんですね。日本の憲法21条には「集会、結社、表現の自由」というのがありますけれども、「デモの自由」がない。だからかつては「デモの自由」を「表現の自由」から根拠づけるような論がありましたけど、単純な誤解です。デモはassemblyである。だから「集会の自由」が「デモの自由」を意味しているわけです。ちなみに憲法21条にある「結社の自由」という表現、これはわからないものです。これは英語でいうとassociationの自由なんです。「結社」というとほとんどの人は秘密結社ぐらいしか思い浮かばないんです。associationというのはどこにでもあるものです。小学校に行けばあります。PTAのAだから。親と教師のassociationなんですよ。つまり非常にありふれた言葉です。日本語でいえばassemblyというのは寄合です。どの村や町にも寄合がありました。今もあると思います、所によっては。それが元になるわけです。西洋ではそういう寄合が議会にもなったわけです。だから議会はassemblyというんです。寄合です。つまり議会とデモは親戚のようなものですね。たとえば、ルソーが『社会契約論』で「権力は民衆のassemblyを嫌う」と書いている。その場合、assemblyというのは議会というよりも集会・デモという意味だと思います。歴史的には絶対王政に対するassemblyですね。集会・デモがだんだんと大きくなって議会として承認されるようになったわけです。その意味で議会の起源はデモ・集会なんですね。またルソーはこういっています。人民は集会に来たときにだけ主権者として行動しうると。人民という主権者は個々人ではないんです。個々人が集会をしたときに登場するものです。そこにルソーがいう「一般意思」も存在してるわけです。個々人を集めた総和ではありません。その集会において「一般意思」が存在する。だからルソーは同時代の議会制が発達したイギリスにかんしてこういっています。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまうと。またルソーはこうもいっています。代表者という考えは近世のものである。それは封建政治に由来していると。つまり、代表制議会には主権者としての人民はいません。代表者は封建制における領主のようなものです。そのことは現在の日本の代議士をみるとよくわかります。安倍首相を初め、彼らの多くは何代にもわたる世襲です。徳川時代の方が養子制があったから今よりはましです。こんな議会に主権者として人民が存在するはずがない。それが存在するのはもう一つのassemblyすなわちデモ・集会においてです。
《昨晩、読み返しよ(少しばかり)、『資本論』をね!! ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。
ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。(…)『資本論』と
いえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさ
えすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、
無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが
言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ている
ということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。
対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!》
(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳)
山田『三点確保』より孫引き
蚊居肢: マルクスとラカンの三角形
http://kaie14.blogspot.jp/2016/08/blog-post_88.html
柄谷がTCで引用
三点確保は批評空間に連載
柄谷はブリコラージュの達人
親戚や肉親に戦犯がいれば改憲して全てをなかったことにしたくなるだろう。しかしそれは戦死した人々の死を無駄にするものだ。柄谷は戦争放棄が人類の獲得した宝だと認識している。中国が攻めてくるというがそのあとどうやってその戦争を終わらせるというのか?
先を見ているのは柄谷の方だ。親戚や肉親の弔いは別の形でやって欲しい。とりあえずA級戦犯の分祀を宣言し天皇に靖國へ行ってもらえるようにすべきだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ナポレオン3世#.E6.AD.BB.E5.8E.BB
太平洋では、ニュージーランドを併合したイギリスへの対抗、またオーストラリアとの貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年にニューカレドニアを併合している[438][439]。この際に先住民と戦闘になったが、結局フランス軍が勝利している。ナポレオン3世はこの島を政治犯(とりわけ社会主義者)の流刑地として使用した。現在ニューカレドニアに住む白人はほとんどがその子孫である[439]。
『言葉と悲劇』2017年5月10日ちくま学芸文庫
初出一覧 (それぞれ、講演日/講演場所/主催/初出を示す)
言葉と悲劇
1985年5月15日/青山女子短期大学/日本シェイクスピア学会
ドストエフスキーの幾何学
1985年6月15日/早稲田大学/ドストエーフスキイの会/「ドストエーフスキイ研究」Ⅲ号、
1986年、原題「ドストエーフスキイとバフチン」
漱石の多様性
1985年2月27日/川口市栄町公民館/川口市立前川図書館
江戸の注釈学と現在
1985年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
「理」の批判
1986年1月31日/エコール・ノルマル・シュペリウール/フランス外務省/「現代詩手帖」1986年5月号
日本的「自然」について
1986年10月25日/都立婦人情報センター/東京女性史研究会/「フェミニテ」第五号、1987年
世界宗教について
1986年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
スピノザの「無限」
1987年7月17日/…/「現代思想」インタビュー/「現代思想」1987年9月号
政治、あるいは批評としての広告
1987年9月10日/機械振興会館/「広告学校」(「広告批評」主催)/「広告批評」第100号、1987年
単独性と個別性について
1987年11月2日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
ファシズムの問題
1988年1月15日/…/「現代思想」インタビュー/「現代思想」一九八八年三月号
ポストモダンにおける「主体」の問題
1988年4月11日/デューク大学/The Duke Center for Critical Theory/「季刊思潮」創刊号、1988年
固有名をめぐって
1988年5月28日/赤坂草月ホール/「季刊思潮」/「図書新聞」1988年6月25日号
坂口安吾その可能性の中心
1988年9月24日/東洋大学/日本近代文学会
本書は、 1989年第三文明社より刊行され、 1993年講談社学術文庫に収録された。
本文庫化に際しては、講談社学術文庫版を底本とし、左記の改変を加えた。
一、「バフチンとウィトゲンシュタイン」については、割愛した。
一、「漱石の多様性」「坂口安吾その可能性の中心」については、『定本柄谷行人文学
論集』(岩波書店、2016年)所収の改訂稿に差し替えた。
一、内容の関連性等を考慮し、一部講演の配列を入れ替えた。
一、その他、全体を通して改稿を施した。
『言葉と悲劇』2017年5月10日ちくま学芸文庫
初出一覧 (それぞれ、講演日/講演場所/主催/初出を示す)
言葉と悲劇
1985年5月15日/青山女子短期大学/日本シェイクスピア学会
ドストエフスキーの幾何学
1985年6月15日/早稲田大学/ドストエーフスキイの会/「ドストエーフスキイ研究」Ⅲ号、
1986年、原題「ドストエーフスキイとバフチン」
漱石の多様性
1985年2月27日/川口市栄町公民館/川口市立前川図書館
江戸の注釈学と現在
1985年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
「理」の批判
1986年1月31日/エコール・ノルマル・シュペリウール/フランス外務省/「現代詩手帖」1986年5月号
日本的「自然」について
1986年10月25日/都立婦人情報センター/東京女性史研究会/「フェミニテ」第五号、1987年
世界宗教について
1986年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
スピノザの「無限」
1987年7月17日/…/「現代思想」インタビュー/「現代思想」1987年9月号
政治、あるいは批評としての広告
1987年9月10日/機械振興会館/「広告学校」(「広告批評」主催)/「広告批評」第100号、1987年
単独性と個別性について
1987年11月2日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
ファシズムの問題
1988年1月15日/…/「現代思想」インタビュー/「現代思想」一九八八年三月号
ポストモダンにおける「主体」の問題
1988年4月11日/デューク大学/The Duke Center for Critical Theory/「季刊思潮」創刊号、1988年
固有名をめぐって
1988年5月28日/赤坂草月ホール/「季刊思潮」/「図書新聞」1988年6月25日号
坂口安吾その可能性の中心
1988年9月24日/東洋大学/日本近代文学会
本書は、 1989年第三文明社より刊行され、1993年講談社学術文庫に収録された。
本文庫化に際しては、講談社学術文庫版を底本とし、左記の改変を加えた。
一、「バフチンとウィトゲンシュタイン」については、割愛した。
一、「漱石の多様性」「坂口安吾その可能性の中心」については、『定本柄谷行人文学
論集』(岩波書店、2016年)所収の改訂稿に差し替えた。
一、内容の関連性等を考慮し、一部講演の配列を入れ替えた。
一、その他、全体を通して改稿を施した。
柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇 2017年10月27日 電子版 (初出1989)
柄谷行人「柄谷行人講演集成1985‐1988 言葉と悲劇」
https://itunes.apple.com/jp/book/%E6%9F%84%E8%B0%B7%E8%A1%8C%E4%BA%BA%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%9B%86%E6%88%901985-1988-%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A8%E6%82%B2%E5%8A%87/id1300462537?mt=11
柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇 2017年10月27日 電子版初版発行
初出一覧
(それぞれ、講演日/講演場所/主催/初出を示す)
・言葉と悲劇 1982年5月15日/青山女子短期大学/日本シェイクスピア学会
・ドストエフスキーの幾何学 1985年6月15日/早稲田大学/ドストエーフスキイの会/
「ドストエーフスキイ研究」Ⅲ号、1986年、原題「ドストエーフスキイとバフチン」
・漱石の多様性 1985年2月27日/川口市栄町公民館/川口市立前川図書館
・江戸の注釈学と現在 1985年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
・「理」の批判 1986年1月31日/エコール・ノルマル・シュペリウール/フランス外務省/
「現代詩手帖」1986年5月号
・日本的「自然」について 1986年10月25日/都立婦人情報センター/東京女性史研究会/
「フェミニテ」第5号、1987年
・世界宗教について 1986年11月1日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
・スピノザの「無限」 1987年7月17日/──/「現代思想」インタビュー/「現代思想」1987年9月号
・政治、あるいは批評としての広告 1987年9月10日/機械振興会館/「広告学校」(「広告
批評」主催)/「広告批評」第100号、1987年
・単独性と個別性について 1987年11月2日/早稲田大学/早稲田大学文学研究会
・ファシズムの問題 1988年1月15日/──/「現代思想」インタビュー/「現代思想」1988年3月号
・ポストモダンにおける「主体」の問題 1988年4月11日/デューク大学/The Duke Center
for Critical Theory/「季刊思潮」創刊号、1988年
・固有名をめぐって 1988年5月28日/赤坂草月ホール/「季刊思潮」/「図書新聞」1988年6月25日号
・坂口安吾その可能性の中心 1988年9月24日/東洋大学/日本近代文学会
本書は、1989年第三文明社より刊行され、1993年講談社学術文庫に収録された。本文庫化に際
しては、講談社学術文庫版を底本とし、左記の改変を加えた。
一、「バフチンとウィトゲンシュタイン」については、割愛した。
一、「漱石の多様性」「坂口安吾その可能性の中心」については、『定本 柄谷行人文学
論集』(岩波書店、2016年)所収の改訂稿に差し替えた。
…
本作品は、2017年5月、ちくま学芸文庫として刊行された。
https://itunes.apple.com/jp/book/id1300462537
参考:
柄谷行人「柄谷行人講演集成1995‐2015 思想的地震」
https://itun.es/jp/8hnvjb.l
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1534531926329282560?s=21
「ルソーはいう。《人民はアセンブリにおいてだけ、主権者として行動しうるだろう》(『社会契約論』)。この場合、アセンブリは、代議制の議会ではありえません。そこでは、「寄り合い」にあった直接民主主義的な要素は失われてしまうからです。」
柄谷行人「日本人はなぜデモをしないのか」『思想的地震1995-2015』
794 考える名無しさん[sage] 2022/06/08(水) 06:33:44.22 ID:0
終戦に向かうシナリオはどんな展開が考えられるのか。ウクライナ外務省で専門家審議会の委員を務めた経験もある政治学者、ウォロディミル・フェセンコ氏に聞きました。
https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQ655QGJQ63UHBI00Y.html
> ウクライナでよく語られるのは、今から120年ほど前にロシアが日露戦争に敗れ、それが第1次ロシア革命の発生とも関連していることです。ロシアではその後、第1次世界大戦での失敗や国内危機もあり、1917年の(帝政が倒れた)ロシア革命が起きました。79年のソ連によるアフガニスタン侵攻もそうです。これが西側諸国との軍拡競争や国内経済の問題を招き、最終的にソ連の崩壊につながりました。ロシア国内の状況も、ウクライナ侵攻の行方を見通すうえで2番目に重要なファクターといえるでしょう。
結局120年周期も世界戦争でが反復するっていう予想も(それは理論通りなら12年後の2034年頃だが)今のところ残念ながらやっぱり反復してるんだよな
日露戦争も結局両者力尽きたとこでルーズベルトが仲介したから
また次の世界戦争も十年ちょっとあとくらいに東欧のどっかから始まるんだろうか
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