■初版あとがき(1980年7月)--(省略)

■文庫版あとがき(1988年3月)
 私が本書の大半を構想したのは1975~76年にイェール大学で日本文学を教えていた頃である。
 山口昌男氏の推薦文に次のような条りがある。《柄谷行人氏の方法は、すべてを根源的に疑ってかかるという現象学のそれにもとづいている。その結果その仕事は、文学が成立して思考の枠組みとなる過程についての精神史であり、文学的風景の記号論という性格を同時に帯びるに至った。》
 私はこの時期、「現象学」についてほとんど知らなかったが、外国にあって、外国語で話し考えるということは「現象学的還元」を強いるものだ。つまり、自分自身が暗黙に前提している諸条件を吟味することを強いる。「現象学」とは、フッサールを読んで得られるものではなく、いわば異邦人として在ることなのだと思う。
 私はそれまで理論的なタイプではなかったが、自分の感性そのものを吟味するには理論的である他ない。このころ、私はロンドンで「文学論」を構想していた漱石と同じ34歳だったが、漱石があんな仕事をやらねばならなかったことがとてもよく理解できるように思えた。それで本書を漱石のことから書き始めることにした。
 当時同じキャンパスにイェール学派、ディスコンストラクショニストと呼ばれる新しい批評が胎動していて、私は直接に彼らの影響は受けていないが、彼らとの交通が私を刺激し勇気づけた。とりわけポール・ド・マンと知り合ったことは大きかった。私がここでそれを強調するのは、彼が20歳の頃、親ナチの新聞に反ユダヤ主義的な批評を書いたことが暴露され、それによって彼の批評が葬られようとしているからである。彼が一貫して語り続けたのは、言葉が書き手の意図を裏切って別のことを意味してしまう、ということだった。そのことを不可避的な「人間の条件」として見出した。
 1970年代の半ばに大きな転換点があったことは明らかだ。日本に帰ってきて、そこに近代文学が決定的に変容する光景を見出した。一つの特徴は、内面性を否定することだった。別の側からいえば、意味や内面性を背負わない「言葉」が解放されたということだ。言葉遊び、パロディ、引用、物語など、近代文学が締め出した全領域が回復しはじめた。
 私のこの本も、そういうポストモダニズムの流れに属していることが今からみるとよく分る。しかし私の関心事は、近代や近代文学の批評にあるのではなく、言葉によって在る人間の条件の探求にある。私はあらためて本書をポール・ド・マンに捧げたい。

■英語版あとがき(1991年9月)
 私は本書の英語版を出すにあたって大幅に改稿しようと考えていたが、それはやめ、かわりに「ジャンルの消失」という論文を最後につけ加え、さらに後記を付した。それらは現時点での私の考えを示している。
 私の本書でなそうとした近代文学の批判は、日本の文学においても特に新しいものではなく、1970年代の前半には、近代批判はありふれていた。それらも別に新しいものではなく、1930年代後半の「近代の超克」議論の変奏として見ることができる。戦前の「近代の超克」論は西田幾多郎、小林秀雄、保田與重郎に代表される3つのグループによってなされ、そこではデカルト二元論、産業資本主義、ネーション・ステート、マルクス主義などがすべて超克されねばならないとされた。これは日本の帝国主義に対応するイデオロギーであるが、彼らは傑出した人たちであり、単なる戦争イデオローグではなかった。それは明治以来の日本の言説につきまとう諸矛盾を凝縮していて、1970年頃の「近代批判」や80年代に顕著になる日本のポスト・モダニズムを先取りしていた。この両時期の近代批判が微妙につながっていることは日本だけでなく欧州でも起きていた。60年代末のラディカリズムの基底にある「近代批判」(特にフランスの、のちにポスト構造主義またはポストモダニズムと呼ばれる言説)の核心には、ハイデガーというコントラバーシャルな哲学者の与えた近代批判のインパクトが潜んでいて、それは80年代のポストモダニズムの拡大とともに改めて問題化されるようになった。人権を唱える新保守派イデオローグはそれらの近代批判を、ハイデガーがナチに加担したというスキャンダルによって一掃しようとした。アメリカではそれはド・マン問題として顕在化したが、スキャンダルによってそれら近代批判を片付けることはできない。
 「近代」という概念はきわめてあいまいで、非西洋国では「近代」と「西洋」、したがって近代批判と西洋批判はいつも混同されがちである。そこから、たとえば日本の近代文学は西洋的でないので十分近代的でないとか、素材や観念が非西洋的であれば作品は反近代的であるという錯覚が、日本の批評家にも西洋の日本学者にも共通してみられる。
 しかしもし文学が「作家」の「自己」「表現」であると見られているなら、それがいかに反近代的でも反西洋的でも、すでにそれは近代文学の装置の中にあるのだ。たとえば三島由紀夫や川端康成といった作家はいささかも「伝統的」ではなく、明瞭に「近代」の作家なのだ。本当に「近代」を疑うならば、「作家」や「自己」「表現」といった装置そのものの自明性を疑わねばならない。日本の「近代の超克」にはその疑いが欠けていた。しかしそれら装置の起源を問う時、それらは近代西洋で始まっているために、「影響」という言葉で要約しうるような、怠惰で浅薄な議論に帰着しがちである。
 しかしもしそのオリジンたる近代西洋そのものに存する「転倒」のオリジンを問う時、ニーチェのように古代西洋に遡行するかわりに、起源が隠蔽されている西洋ではなく、非西洋国において「転倒」がより劇的に示されるのではないか、と発想を逆転し明治20年代の10年間の文学に焦点を当てた。
 私はまず、近代文学の自明性を強いる基礎的条件を「言文一致」の形成に求めた。それは新たな「文」の創出であり、それによって文が内的な観念にとって単に透明な手段でしかなくなった(エリクチュールの消去)。そして内的な主体と客観的な対象が創出され、ここから自己表現や写実といったものが生まれる。たとえば日本の前近代の文学には、風景がひんぱんに主題にされているにも関わらず、作家が見ていたのは風景のようにみえて実は先行するテキストだった。「風景」は、言文一致に収斂される認識論的な転倒の中で発見、というよりむしろ発明されたのだ。本書において私は、かつて存在しなかったものがあたかも以前からあるかのように自明化されるこの転倒を「風景の発見」と呼んでいる。
 「言文一致」は国家や国家的イデオローグによってではなく、小説家によってなされたことは重要である。ベネディクト・アンダーソンは、ネーションの形成に於ては言語の俗語化が不可欠で、一般的に、新聞と小説がそれを果たすと指摘している。日本でも明治維新から20年後に憲法や議会など政治的、経済的制度の近代化がすすんでいたが、そこにはネーションを形成する何かが欠けていた。それを果たしたのが小説家だといっても過言ではない。近代批判を近代文学批判からはじめなければいけない理由はそこにある。さらにこの時期に、それ以前に存在した文学作品を近代的なパースペクティブによって再構成することで「国文学」が形成された。
 本書はそのようにしてできた文学史の批判であり、文学史ではない。日本文学のオリジナリティを近代以前の起源に求めようとするナショナリズムそれ自体が、起源の忘却に他ならない。こうした「言文一致」は、どの非西洋国にも起こったはずだが、どの国においても「起源」への問いには罠がひそんでいる。たとえば西洋では「言文一致」は長期にわたっていて、厳密に遡行すれば、ギリシャ以来の「音声中心主義」にまで至る。しかし起源への遡行をあまり遠くまでやってはならないと私は考える。たとえば、反セミティズムの起源は一般に中世から古代に求められるが、ハンナ・アーレントは、それを19世紀後半の国家的経済の確立の中に見た。その頃、ユダヤ的経済が強まったからではなく、逆に無力化したがゆえに反ユダヤ主義が広がったのだと彼女は言う。またニーチェは、あらゆるレベルで隠蔽された「起源」に遡行し、遠くプラトンやキリスト教に「転倒」の起源を求めたが、彼が対峙していたのは実は、この時期に確立されたネーションステートやそれに対応する文化、文学といった、彼の同時代に進行していた「転倒」だった。またハイデガーはニーチェをまだ西洋の形而上学の圏域にとどまっていると批判したが、彼の起源への遡行は結局、ニーチェの時代に生じたナショナリズムと反ユダヤ主義をそっくり肯定することに帰着してしまった。このことは本書の考察にも重要な意味合いを持っている。1870年前後は欧米の各地でネーション・ステートが露出し、その10年後にはそうした近代国家は帝国主義に転化し、それが世界各地にナショナリズムを生み出した。日本の明治維新(1868年)もそのような文脈の中にある。普仏戦争の結果として、日本の革命政府はプロシャをモデルにするに至り、日清・日露両戦争を経て、西洋列強の中に混じり始めた。日本の明治時代はこうした変容が短期間に凝縮されている。私が焦点を当てた1890年前後の10年間には、西洋で長期にわたって生じたことが集約的に生じているし、また同時代的な出来事でもあった。フーコーは、「文学」が成立したのは19世紀の後半にすぎないと言っている。「文学」の規範化は、おそらくネーション・ステートの確立とつながっていて、それ以前の文学にあった多様な可能性を抑圧した。とすれば近代の「起源」はその頃に求められるべきで、それ以前への遡行はこの時期に生じた転倒を看過し、それを補強するものとなる。本書で問うた事柄は単に日本だけの問題ではありえない。

■ドイツ語版への序文(1995年12月)
 私はこの本にある基本的アイデアを1975年にイエール大学でやった講義において得た。その場所は、第1に、自分がその中で育ってきた日本近代文学を、外から見ることを、言い換えれば「近代」や「文学」や「日本」そのものの自明性を括弧に入れることを強い且つそれを可能にしたし、第2に、日本をエキゾチックな表象にしていた当時のアメリカの言説に対する抵抗を私に強いた。そのような場所でしか私はこの本に書いたようなことを考えられなかっただろう。そこで私が戦わねばならなかったのは、これら2つの表象、つまり日本人の自己表象と西洋人の日本表象であり、これらは相互補完的であり、同時になされなければならなかった。私が本書を考えたのは、アメリカでもなく日本でもなく、それらの「間」においてであった。
 1980年代にアメリカでは、そのような情勢は一変した。それはエドワード・サイードの「オリエンタリズム」(1978)に負うところが大きい。彼は「オリエント」という表象が西洋の言説によっていかに歴史的に形成されてきたかを明らかにした。彼は狭義の「オリエント」=アラビアに的をしぼっているが、それが日本学にまで及んだのである。サイードはまた、西洋人の考える「オリエント」が、オリエンタル自身においても受け入れられ、それらが相互的に増幅されていると論じた。当時のアメリカでは、日本研究は、文学に於いては「源氏物語」、三島由紀夫、哲学においては禅や西田幾多郎など、アメリカ人の「オリエンタリズム」を充足するものを中心にしており、また日本人もそのような期待の地平で自らを語ってきた。本書はそのような期待を完全に裏切るものである。
 私は基本的にサイードの考えに共鳴するが、私がサイードと違っているところはサイードは「オリエント」という表象を取り除こうとしたが、オリエントとは何であるかについて決して語らないところだ。「オリエントが何であるか」を知っているかのように語ることが「オリエンタリズム」だからだ。ここでは「オリエント」はカントが言う認識できない「物自体」となっている。ついでに言えば、カントが言う物自体も、われわれが属する歴史的なつねに不透明な「状況」として理解すれば、今も新鮮な意味を持つはずだ。
 私はサイードとは逆に、もっぱら日本について語っている。しかし私が論じようとしたものは日本の本質や近代日本文学史ではなく、19世紀のある時期の日本の出来事を通して、西洋に現われた、それゆえ西洋と同一化されてしまっている「近代」そのものの性格である。非西洋世界の人間が、たとえば「東洋」や「日本」として自らを表象すること自体、「近代」の中においてにすぎない。本書で私が示そうとしたのは「日本文学史」あるいは「日本」そのものが「近代」において形成された表象だということである。それは裏返せば「西洋文学史」あるいは「西洋」そのものも「近代」に形成された表象だということだ。
 本書で私は「近代」の「起源」を、非西洋の「西洋化」の過程において見ようとした。「近代」の性格は、西洋においてはそれが長期にわたるため隠蔽されているのに対して、たとえば日本では、それが極度に圧縮され、しかもすべての領域が連関している形で露出しているからだ。しかしこのような「実験室」は非西洋にだけ見られるのではなく、欧州の周縁諸国にも生じたはずだ。18~19世紀にかけてのドイツには、イギリスに比べて「近代」が圧縮されたかたちで劇的に現われている。日本が法制度や哲学の近代化においてドイツをモデルにしたことは偶然ではない。しかしこのことは単に後進国固有の現象とした片付けることはできない。たとえばカントからヘーゲルに至るドイツ観念論は、短期間に凝縮された一回的な強度において、現在もわれわれの思考を刺激している。「遅れ」は「進んだもの」において自明・自然であるものを根源的に問い直す契機となりうる。
 本書を出版した後に読んだ本であるが、私はベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」にも啓発された。ナショナリズムの「起源」を、西洋ではなく、インドネシアの近代化の過程に於いて考察したところが方法的に私と似ていた。私が彼から学んだのは、私が本書に考察した諸問題が同時にナショナリズムの「起源」の問題に他ならないということだった。アンダーソンはこう論じる。「想像の共同体」としてのネーションは、ヴァナキュラーな言語の形成を通してのみ形成される。そこから新聞や小説などが可能になり、それを通じて、それまで相互に無関係だった出来事、人々、対象を併置する空間が提供され、そこに国家機構や血縁・地縁的つながりが決して提供できない“想像の共同体”がもたらされる。この意味で、小説や近代文学は、ネーションの形成において周縁的なものではなく、中心的な役割を果たしているのだ。たとえば近代的なネーション・ステートの形成が遅れたドイツにおいて、ネーションとしての同一性を保証したのがドイツ文学だった。近代のネーション・ステートの核心は、政治的機構そのものよりも「文学」にある。90年代において、グローバルな世界資本主義の中で、近代のネーション・ステートが力を失うと共に、他方で多数の「想像の共同体」が発生している。これらは単に政治・経済レベルの問題ではなく、ネーションの核心にある「文学」とその「起源」を問い直す必要がある。本書がその手がかりを与えるものとして読まれるならば幸いである。

■韓国語版への序文(1997年2月)
 一つの書物が時代状況によって違った意味を帯びてくると感じることはしばしばあるが、本書が日本で出版されて10年後に英語に翻訳され、その草稿を読んだ時にもそれを感じた。その時、この本に書かれている言文一致や風景の発見などが根本的にネーション・ステートの装置に他ならないことを発見した。さらに、漱石が英文学に感じていた違和が、19世紀以降の文学、特にリアリズム小説の優位性への違和に他ならないことを発見した。
 韓国語訳が出る話があってから、私は本書が扱っている時代について考えさせられ、「日本近代文学の起源」は「近代日韓関係の起源」に他ならないと気づいた。
 70年代に本書に収録されたエッセイを書いていたとき私が考えていたのは同時代日本の知的状況であって、それを明治20年代に遡行して考えようとした。当時は1960年代からの急進的な政治運動が破産し、その結果として「文学」に向かうということが生じていた。あるいは「内面」に向かうことによってあらゆる共同幻想から「自立」することが可能であるかのように考えられていた。私はそれが明治20年代から繰り返されてきた傾向だと気づいた。
 日本の標準的な文学史では、坪内逍遥が「小説神髄」で徳川時代の儒教文学の「勧善懲悪」を否定し近代文学の理念を確立したことになっているが、それは実はきわめて政治的な立場からなされていた。明治10年代に自由民権運動と直結して大量の政治小説が書かれ、それは勧善懲悪の傾向を有していた。自由民権運動は挫折し、かわりに外形だけの憲法や議会が与えられた。逍遥が否定したのはそのような政治運動だった。明治20年代の近代文学は自由民権の闘争を軽蔑し、闘争を内面的な過激性にすりかえることにより、事実上、当時の政治体制を肯定したのだ。1970年代にはそれが違った文脈で反復されていた。私が「起源」にさかのぼって批判しようとしたのはそのような「文学」「内面」「近代」だった。
 1980年代に入るとポストモダニズムが風靡し本書もそのような風潮を代表するものとして読まれたが、私が本書で意図したことはこの風潮と対立するものだった。私は1984年に「批評とポストモダン」という評論を書き、日本的ポストモダニズム(近代の超克)に敵対した。私は当時、丸山真男を評価したこともあって、近代主義者に転向したと言われた。私は近代主義を支持したわけではない。中江兆民はかつて次のような主旨のことを書いた。世の通人的政治家たちは、欧米諸国が帝国主義の時代に入った今、十五年前の民権論を担ぎ出すのは陳腐であると言う。欧米諸国で昔から実行されたこの理論は、わが国では藩閥元老と利己的政党家によって理論のまま消滅させられたのであって、理論としては陳腐であるが、いまだそれが実行されていないという意味では新鮮であると。丸山真男は兆民の言葉を引用しながら、近代主義、市民主義もまたいかに陳腐であろうとも、日本では近代も市民も実現されていない以上、今なお新鮮であると主張した。兆民がこう書いた時期に流行したニーチェ主義のような理論はもう読むに耐えないが、兆民のこの言葉はいまだ新鮮である。それが「批評」の言葉だからだ。批評は理論と実行の懸隔、思惟と存在の懸隔への批判的意識である。私は本書でデリダ、フーコーといったポストモダン思想家の影響を受けているが、それらがフランスでもつ批評的役割と日本で持つ意味とを混同したことはない。私が異議を唱えたのは日本におけるデリダ主義やフーコー主義の軽薄な流行にである。
 この兆民の言葉は1898年のものだ。日本の朝鮮への帝国主義的干渉を契機に日清戦争が起こったその4年後である。兆民がいう15年の間に「日本文学の起源」が潜んでいるのだ。15年前に民権論を唱えた人たちは新しい理論であり帝国主義を支える社会的ダーウィニズムに転向していた。つまり、かつての民権的ナショナリストたちはこの時期、帝国主義的ナショナリストに転化したのだ。
 その当時の文学の状況について、私は本書で独歩の「空知川の岸辺」(1902)を扱った。独歩は1894年の日清戦争に従軍記者として参加し、彼はナショナリズム昂揚の中で人気を博すが、戦争が終ると虚脱状態に陥り、その空虚を埋める新天地を北海道に求め、1895年に移住を計画したが、わずか2週間ほど空知川のあたりに滞在しただけに終わった。重要なのは、彼が北海道への移住を真剣に(且つ軽薄に)考えたことである。彼は原野の中で《社会が何処にある、人間が誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある》と感じたが、そこにはアイヌが居住していた。独歩の「風景」の発見は、そのような歴史と他者を排除することによってなされた。ここに日本の植民地文学、あるいは植民地への文学的見方の原型があらわれている。
 日本の植民地政策の原型は北海道で、それが沖縄、台湾、朝鮮、満州、東南アジアへと拡張された。まずアイヌと日本人の「同祖論」が登場したが、それは後の韓国併合では「日鮮同祖論」として変奏された。それは相手の他者性を無化した上で他者を支配する方法で、イギリスやフランスの植民地主義とは対照的で、ある意味アメリカのそれと類似している。実際、北海道はクラーク博士を招いてアメリカの植民地農政学を導入するなど、アメリカをモデルにして開拓された。そして内村鑑三、新渡戸稲造の弟子たちは植民地経営の専門家となった。
 20年前に書かれた本書は、たとえば言文一致に関することはハングルの問題と比較することで普遍的になりうるだろう。今後韓国の文学者とともにこれらの問題を考えて行きたい。

■中国語版への序文 (2002年8月)
 この本を書いていた1970年代後半は、あとで気づいたことだが、日本で「近代文学」が終わろうとしていた。文学に特別に深い意味が付与された時代は終わり、今では人はもう文学にほとんど関心を抱いていない。これは日本だけのことではない。しかしそこから本当に文学の存在根拠が問い直され、また文学の本来的な力が示されると私は思っている。
 本書で私が言う風景とは、名所・名勝とは対照的に、人が見るのを恐れるような風景である。それはカントが美と崇高の区別に関して論じた問題と同じである。カントによれば、名勝を見たときに得られる快が美であり、構想力によって対象に合目的性を見出すことから得られる。一方、原始林、砂漠、氷河など、どう見ても不快だが構想力の限界を越えた対象に対して、なおそこに合目的性を見出そうとする主観の能動性がもたらす快が崇高である。美はその根拠が対象物にあるが、崇高はその根拠は我々の心にある。にも関わらず崇高の根拠が主観にではなく対象そのものに存すると思ってしまうことを本書では「転倒」と呼んでいる。その結果、それが新たな近代の名勝になり、もともと不快な対象だったことが忘れられる。カントは、関心をカッコに入れて物を見る時に美的判断が成立すると述べた。たとえばデュシャンは美術展にありふれた便器を提出し、「泉」と題した。日常の用途的な関心をカッコに入れて便器を見ると、たとえば「泉」のようにみえる。芸術とは単に対象物にあるのではなく、我々が慣れている見方を斥けて別の見方を開示すること、つまり異化作用自体にある。近代文学もまた、旧来の文学に慣れた人たちにとっては便器のようなものだった。文学を目指す人たちは呪われた存在で、漱石もそういう作家だったが、それがそのうち尊敬の目で見られるようになり、1970年代に漱石は国民文学の作家として仰ぎ見られるようになった。近代文学はすでに否定的な破壊力をなくした、文学の死骸だった。それが私が否定しようとした「近代文学」だった。
 本書の英語版が出た時点で、私はベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」に刺激されて自分の仕事をネーションの形成という観点から見直そうとした。アンダーソンは小説を中心とした出版資本主義がネーションの形成に大きな役割を果たしたと指摘しているが、私がこの本で考察した言文一致や風景の発見は、まさにネーションの確立過程に他ならなかった。しかし現在、私はネーションを表象の問題として考えることに満足できなくなった。
 ネーションは「国家」や「民族」と訳されてきたが、近年では「国民」と訳されている。しかし、ネーションを形成するのは封建的拘束から開放された市民であるから、「国家の民」のように聞こえる「国民」という訳語はよくない。またネーションは複数の民族を含むので民族という概念に還元されない。もともとnationという英語自体が曖昧で、一方で民族、他方で国家を意味するようにみえて、そのどちらでもない。民族(エスニック)は家族や部族の延長で、血縁的・地縁的共同体である。そのような共同体から離脱した諸個人(市民)が社会契約的に構成するのがネーションである。
 封建的国家や絶対主義的国家にもネーションはない。そのような身分制的な国家体制がブルジョワ革命によって民主化された後にネーションが成立する。一旦ネーション・ステートが成立すると、それ以前の歴史もネーションの歴史に組み換えられる。ナショナリズムにおいては、古い王朝の歴史が国民の歴史と同一化され、ネーションの「起源」が古い昔にあったかのように語られる。
 ネーションが民族と違うことは、アメリカのような多民族国家が単一のネーションを形成していることからも分る。アメリカのナショナリズムは民族主義ではありえない。合衆国は各人の社会契約によって成立するネーションであり、つまり自由に存することを強調する。ネーションは、血縁や地縁による共同体によってではなく、それを超える普遍的な契機なしに成立しない。
 市民の社会契約はネーションを成立させる理性的側面だが、同時に、地縁・血縁的共同体が解体されたあと、失われた相互扶助的な互酬性reciprocityを想像的に回復することによってネーションが成立する。アメリカを例にとれば、ネーションの社会契約的側面は国歌the Star Spangled Bannerに表象され、感情的な側面は「崇高」な風景を賛美した準国歌America, the Beautifulに表象される。
 カントは感性的なものと悟性的なものが想像力によって媒介されると言ったが、ネーションが共同体的なあり方と社会契約的なあり方を想像力によって媒介したものだとすると、ネーションを「想像の共同体」と呼ぶことは正しい。貨幣経済の浸透によって封建的又は絶対主義的国家・経済は解体され、近代国家と資本主義的市場経済が成立するが、そこに失われた相互扶助的なあり方が想像的に回復され、ネーションが生まれる。ネーション・ステートとはネーションとステートという異質なものの結合だが、厳密にいえばブルジョア革命以後の国家はそれに加え資本主義経済を加えた3つが三位一体的に強力に統合されたものだ。この中でネーションはコスモポリタン的な知識人によって否定的に見られている。しかしそれは国家が相互扶助的な感情や、それを必要とする現実に根ざしている以上、他の二要素をそのままにしてネーションだけを解消できない。その三位一体の環から出てはじめてネーションを真に「揚棄」できるが、私は本書を書いて以後、ずっとその方法について考えてきた。私の近著「トランスクリティーク」を参照されたい。