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NAMs出版プロジェクト: クラウゼヴィッツ 戦争論 - Wikipedia
http://nam-students.blogspot.jp/2017/01/wikipedia.htmlカール・フォン・クラウゼヴィッツ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・フォン・クラウゼヴィッツカール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(独: Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz (Claußwitz)、1780年7月1日[2] - 1831年11月16日)は、プロイセン王国の軍人で軍事学者である。
ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。特記すべき業績としては絶対的戦争、政治的交渉の延長としての戦争概念、摩擦、戦場の霧、重心、軍事的天才、防御の優位性、攻勢極限点、勝敗分岐点などがある。
クラウゼヴィッツの思想に影響を与えた人物にはフリードリヒ2世、ナポレオン・ボナパルト、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストなどがおり、逆に影響を受けた人物にはヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケやコルマール・フォン・デア・ゴルツ、アルフレート・フォン・シュリーフェン、クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルなどのドイツ軍の研究者や、エンゲルスなどの革命戦略家、そして海軍戦略家のジュリアン・コーベットや電撃戦の理論家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなど、研究者に幅広い影響を与えている。
戦争論 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/戦争論『戦争論』(せんそうろん、独: Vom Kriege)は、プロイセンの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによる戦争と軍事戦略に関する書物である。本書は戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけたものであり、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている。
本書が執筆された時期は主にナポレオン戦争終結後の1816年から1830年にかけてであり、クラウゼヴィッツが陸軍大学校の学校長として勤務している時期に大部分が書かれた。1827年に原稿に大規模な修正を加えて整理しているが、未完成のまま死去したことから妻のマリーが遺稿と断片的なまま残されていた最終的な2つの章を編集した。マリーが出版した遺稿集としての『戦争論』全十巻は[1]、第2版から第15版までマリーの兄ブリュールが内容を改ざんしている[2]。第16版以降、ハールヴェークが初版に依拠し直したものとなっている。
戦争論の内容は8篇から構成されている:
戦争がどのような本質を持つのかを明らかにするためには戦争の多様な在り方を説明できるような理論が必要である。そこでまず戦争における暴力性に着目するところからクラウゼヴィッツは議論を始める。そもそも戦争の内在的な本質とは単純化すれば敵対する二者による決闘の性質がある。そこで「戦争とは、敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」として戦争を単純に捉えた場合、戦争の本質は暴力の行使であり、またその目標は敵の戦闘力の粉砕にあるということが分かる。戦争におけるこのような暴力の行使には
の3つの相互作用が認められる。これらの相互作用によって戦争における暴力の行使は原理的に拡大しようとする。
しかしながら、現実世界のあらゆる戦争において暴力が極限的に行使されていると考えることはできない。クラウゼヴィッツはここで暴力性ではなく戦争における政治性に着眼点を移す。つまり戦争は孤立的行為ではなく、また一度の決戦で成立することも、戦争の戦果が絶対的なものではないと考える。ここで改めて戦争における政治的目的が見直されることになる。そもそも敵に対して要求する犠牲を小さくすれば、敵の抵抗は小さくなり、したがって我が支出すべき努力も小さくなる。政治的目的が戦争において支配的であるために軍事行動はその暴力の極限性を弱化させ、皆殺しの戦争からにらみ合い状態までさまざまな種類の激しさを伴う戦争が生じることになる。
さらに戦争における政治の蓋然性の法則と暴力の極限性の法則を以って戦争の多様な形態を説明できたとしても、これだけではまだ説明することができない事態がありうることをクラウゼヴィッツは指摘する。それは戦争においてしばしば生じる軍事行動の停止という事態である。そもそも戦争における両軍の将軍の利害は完全に対立するものとして考えられるが、これは戦場における両極性と考えることができる。言い換えれば戦闘は片方が勝利すればもう片方が原理的に敗北することになるという一般的な性質が存在する。
しかし戦場における両極性は一つではない。これは軍事行動の攻撃と防御がそれぞれに両極性を持つことによるものである。つまり攻撃を行うことを決心しようとするならば、防御の利益を超える攻撃の利益が約束されなければならないということである。軍事行動の停止はこの攻撃と防御の損得の相違による二種類の両極性の法則の結果である[3]。
クラウゼヴィッツは戦争をカメレオンに例えてその規模・形態・情勢が変動していくものと考えた。そしてその戦争の全体を支配している諸傾向を概観すると、
の3つから三位一体が成り立っているとまとめている。この三位一体の各要素はそれぞれに固有の役割を持っており、これらの主体や相互の関係を無視して現実の戦争を見ることは不可能であると論じている。
クラウゼヴィッツにとって戦略とは戦争目的のために戦闘を使用する教義であり、戦略の対象となるものは戦闘である。戦略においてまず全ての軍事行動にその目的に合致した目標を設定する必要がある。そして戦略に従って戦争計画を立案し、個々の戦役に対する見通しを以って個々の戦闘を位置づける。戦略における問題は科学的な形式や課題を発見することではなく、そこに作用している精神的な諸力を把握することである。
戦略においてあらゆるものごとが単純であることと、その実践が容易であるとは限らない。達成すべき目標を設定したとしても無数の要因によって方針を転換することなく、計画を完遂するためには自信と知性が必要である。戦略においては戦術と異なってあらゆることが緩やかに進行するためその状況判断は推測に依存せざるをえず、したがって決断不能な状況に陥りやすい。
戦略において考察される諸要素は以下の5点に集約できる。
これら諸要素は相互に連関したものである。
戦闘とはクラウゼヴィッツによれば本来の軍事行動によって遂行される闘争であり、これは敵の撃滅や征服を目的とするものである。したがって戦闘における敵とは我に対抗する相手の戦闘力である。戦争の目的は諸々の戦闘によって構成されており、それぞれの戦闘は特殊な目標を持ちながら戦争全体と結合している。したがってあらゆる戦略的な行動は戦闘と密接な関係を持っている。
戦闘の一般的目標とは敵の撃滅であるが、それが敵の死傷によるものであるか、また敵の戦闘意思の放棄によるものかは問わない。とにかく戦闘によって敵の戦闘力の損耗が我のそれよりも比較的に大であり、また巧妙な部隊の配備によって敵を不利な状況に追い込むことで退却を強いることなどによって勝敗を決定する。つまり戦闘における勝利の概念とは、敵が物理的諸力において我よりも大きな損失を被っており、精神的諸力についても同様であり、さらに敵が戦闘継続の意思を放棄することで上記のに条件を承認することによって獲得することができる。
戦闘の一般的な記述だけでなく、多種多様な形態に着目すると戦闘を分類する必要がある。そこでクラウゼヴィッツは防御戦闘と攻撃戦闘に大別する:
このことから防御の目標は常に消極的なものであり、他の積極的行動を容易にする以外には間接的に有用であるだけである。したがって防御戦闘が頻繁に実施されることは、戦略的情勢の悪化を意味している。
防御と攻撃の関係についてクラウゼヴィッツはその行動の受動性と能動性から区分する。防御という戦闘行動とは敵の進撃の撃退であり、攻撃は逆に敵を積極的に求める戦闘方式である。戦争において一方的な防御はありえず、防御と攻撃は彼我の双方向の戦闘行動によって相対化する。ただし防御の目的とは攻撃の奪取に比較して維持であるため、その実施は容易である。そのためクラウゼヴィッツは防御形式は本来的に攻撃形式よりも有利であると考える[4]。しかし攻撃を行わなければ敵の戦闘力を打倒するという戦闘の目的は達成することはできない。
つまり攻撃と防御とは交代しながら行われるものである。その理由には攻撃と防御のそれぞれの戦術的性質が異なっているだけでなく、戦闘力の一般的な性質からも考察できる。戦力の衰弱をもたらす要因としては、決戦後にも継続される戦闘、後方支援の確保、戦闘における損害、根拠地と前線の距離の増大、要塞の攻囲、労苦の増大、同盟軍の戦線離脱の要因がある。このような要因による戦闘力の総量の消耗は敵の精神的、物質的な戦闘力の損耗によって相対的に解消されるものであり、戦術的勝利はこの戦闘力の均衡において圧倒的な優位があるために獲得されるものである。
しかしながら戦争において勝利者が軍事的努力によって一名残らず殲滅できるとは限らないだけでなく、戦闘力は勝利後も既に述べたさまざまな要素によって次第に減退していくものである。攻撃を行うことは常に戦闘の目的である敵戦闘力の打破に寄与するものであるが、攻撃によって獲得した戦果は時間の経過とともに逓減していくものだと理解できる。ここで攻撃によってのみ得られる戦果の限界量を導入することが可能となり、これを攻撃の限界点とクラウゼヴィッツは命名する。この攻撃の本質的性格を考慮すれば、防御とはこの攻撃の内在的な欠点を補うため、つまり攻撃の限界点においてそれまで獲得してきた戦果を保存するため、状況に応じて選択される戦闘行動として位置づけることができる。
クラウゼヴィッツは戦争計画の章では戦争の総括的問題を解明し、本来の戦略とその重要事項について論じている。戦争計画は軍事行動のすべてが総合されたものであり、計画中のさまざまな目標は戦争目的と関係付けられる。戦争は国家の知性である政治家と軍人によって発起され、戦争において、また戦争によって達成すべき目標を決定する。しかしクラウゼヴィッツの戦争理論によって既に明らかにされたように、戦争には純粋な暴力の相互作用の原理が機能する絶対戦争と現実的形態として諸々の抑制が加わる現実の戦争がある。つまり戦争は二種類の目的が設定されうるものであり、敵の完全な打倒という戦争目標と敵国の国土の一部を攻略占領という制限された戦争目標が考えられる。
さらに戦争は政治の道具であり、政治的交渉は戦争においても継続され、また同時に戦争行動は政治的交渉を構成するという見解がクラウゼヴィッツの基本的立場である。つまり戦争が政治に内部的に従属するため、政治の戦争意思が強大になるに従って戦争は絶対的形態へと移行する。また政治の戦争意思が弱小になるに従って、戦争本来の姿から生じる厳しい結果を避け、遠い将来の成果よりも近くの結果に関心が集中する。戦争に必要な主要計画は全て政治的事情に対する考察が必要であり、政府と統帥部の意志が統一されなければならない。その方法の一つとして内閣の一員に最高司令官を加えることを挙げている。クラウゼヴィッツは、攻勢的戦争、防御的戦争それぞれにおいて重要な点を述べている。
クラウゼヴィッツが提案する戦争計画の原則は二つの原則から成り立っている。それは次のように定式化される。
集中的行動の原則をクラウゼヴィッツは次のように説明する。敵の戦闘力を集中させ、その点に対して我の戦闘力を集中することが必要である。しかし戦闘力の最初の配置や参戦諸国や交戦地域の地理的環境などによっては分割も可能である。しかし戦闘の勝敗が重要でない地域に戦闘力を分散する場合にはこの原則に従うことが困難になる場合もある。したがってこの集中の原則は主要な戦闘を必要とする方面に対してのみ攻撃を、その他の方面に対しては防御を実施することが合理的であると考えられる。さらに迅速の原則において時間の浪費は戦力の消耗であり、また時間の要素は奇襲の条件を構成する。したがって戦争においては常に敵の完全な打倒を狙いながら前進し続けることだけが望ましいのであり、一度でも停止すると敵に対する有効な攻撃前進を再開することは不可能となる。
1 Comments:
【お花畑】日本人は「軍事的常識」が著しく欠如している
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1じゅげむ ★2017/12/10(日) 23:53:52.14ID:CAP_USER9>>17>>27>>45
集団的自衛権と正当防衛権
──日本人は軍事の基礎を知らないのですか。
昔の軍事は相手を撃滅することだったが、今は外交の背景としての軍事がほとんど。国際的な問題だ。外交の背景になる軍事を誤解されずにしっかり確立しなければいけない。
そのためには国際条理に通じる軍事的常識を知らなければならない。おそらく日本と米国の関係においてもいろんな誤解があるのではないか。
たとえば「集団的自衛権」。今年10月から上智大学の特任教授になったマイケル・グリーン氏(米戦略国際問題研究所の上級副所長兼ジャパンチェア、元大統領補佐官)が皮肉交じりに、「日本人に集団的自衛権の意味を聞くと、100人いると100とおりの答えが返ってくる」と書いていたことがある。
──集団安全保障ではなく。
本当は集団安全保障(collective security)なのだが、集団的自衛権(right of collective self-defense)と日本人の誰もが言うのだからしょうがない、とも。
自衛権と正当防衛権とはそもそも違うものだ。自衛権は国際用語であるのに対し、正当防衛権は国内刑法上の言葉。実はこの言葉を英語に加え、フランス語、スペイン語、それにポルトガル語といったラテン系の言葉は同一に扱う。
ところが、日本とドイツ、それに中国、ロシアでは国内刑法上の正当防衛権と国際法上の自衛権の意味が別々になっている。
──3月に施行された安保法制では?
その内容はもっぱら限定的集団的自衛権を認めたことだといわれているが、法律そのものには集団的自衛権という言葉はない。
法律の前提として、2年半前の閣議決定に基づいた、日本の存在が危うくなった場合の限定的集団的自衛権という言葉はある。
──議論の主要テーマにもなっていました。
米国の海軍と日本の自衛艦が並走しているときに、向こうが撃たれたら自衛艦も撃ち返していいのかという話だ。最高責任者が防衛出動をかけなければ集団的自衛権行使にならないから、あくまで正当防衛権になる。
自衛隊法95条の武器使用に「国家は」とは書いてない。「自衛官は」とある。自衛官は自分の持っている武器のみならず、一緒にある武器を守るために、使用してよろしいと書いてある。それは英語でユニット・セルフディフェンスという。集団的自衛権とは関係ない。
──国内刑法が認めている正当防衛権なのですね。
あくまで自衛官の責任になる。そういう整理がされていない議論は多い。PKO(国連平和維持活動)における武器使用も駆け付け警護も集団的自衛権とは関係ない。国際法上の戦争をしない間は整理されていなくてもいいが、何かあった場合に大いに問題になる。
極めて常識的な問題として、集団的自衛権の行使と正当防衛権に基づく行為はきちんと分けないといけない。規則・法律と、現場における行動とがあいまいな形のままだと、とんでもないことになりかねない。
ミサイル防御にはあまりにも問題がありすぎる
──ミサイル迎撃ではどうですか。
振り返れば第1次安倍晋三内閣のときに安保法制懇談会ができ、そのときに4事例が出てきた。その中に北朝鮮から米国に向かっているミサイルを日本が落とさないと問題になるのではないかとの質問があった。これも実は破壊命令を出すかどうかの法律上の問題。
──できるのですか。
ある条件が整えば邀撃(ようげき)はできるに違いないが、ロフテッド軌道だったら、飽和攻撃を受けたら、弾頭が分かれたらどうかなどと、いろんなケースがありえて、ミサイル防御にはあまりにも問題がありすぎる。
私自身は陸上自衛隊の戦車兵だったので専門家ではないが、自民党の国防族の中には敵地攻撃をやろうと言う人もいる。米軍でさえ手こずり、目標情報さえつかめない。敵地攻撃で完璧を期すことはできないと感じている。
続きはソース
http://toyokeizai.net/articles/-/199689?display=b
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