http://www.freeassociations.org/
255:
《ドクター・プライスの思いつき…
「複利を生む貨幣ははじめはゆっくりふえてゆく。しかし、ふえる率はだんだん速くなって
ゆくので、ある期間がたてば、想像もでぎない速さになる。われわれの救世主が生まれた年に
五%の複利で貨し出された1ペニーは、今ではもう、すべて純金から成っている一億五千万個
の地球に含まれているよりももっと大きな額に増大しているであろう。しかし、単利で貸し出
されたとすれば、同じ期間にたった七シリング4と1/2ペンスにしかふえていないであろう。
今日までわが国の政府はその財政を第一の道よりも第二の道によって改善しようとしてきたの
である。」」(『資本論』第三巻 第五篇利子生み資本 第24章「資本関係の外面化」より、
大月書店国民文庫7巻141頁)
s=c(1+z)^2なる数式まで持ち出して複利を批判するマルクスはまさにに二重の態度を取る。
複利で儲けようとする人間を嘲笑するが、その現実を変えようとしないという評論家的態度だ。
複利が実体経済と合わないと言う指摘は正しい。しかし、短期的には複利は現実をそのシステム
にあわせようとして被害者を生む。長期的にも、現代では国家が複利による赤字を拡大させてお
り、これは社会秩序に直結する問題だ。『共産主義者宣言』が一面的なら、『資本論』は悪い意
味で二重の態度を取った書物だ。
浅田彰 …置塩・森嶋・ローマーの「マルクスの基本定理」というのが
あって、「各産業が正の利潤率をもつような価格体系の存在と搾取率が正に
なるような価値体系の存在は同値である」という。ここで言っている「利潤
率」というのは事実上「利子率」なんですよね。
逃走論182頁より
政府がk%の成長を目標にすると言うとき、その成長の度合いは複利(>>255)に対応する
このことは重要で、複利はすべての国家をいつか必ず破産させる
越村信三郎
経済学図説
90~1:
総体的な拡大された価値形態
A
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E- ̄___/__\___ ̄-B
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D C
一般的価値形態
B
I
I
F-_ I _-C
 ̄-_I_- ̄
A
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E D
316 名無しさん@お腹いっぱい。
2018/07/10(火) 07:04:29.58 ID:+yd5YV22
経済学における古典派の命名はマルクスによるものと一般に言われている。ケインズが
一般理論#1注で言及している。
以下は『経済学批判』より
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html
《商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合
目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イ
ギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカア
ド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判
的な成果である。》
通常『経済学批判』1859年第1章が参照されるが、『哲学の貧困』1847年#2:1:7の方が早い。
《 宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することを
たすけるプロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらが
ブルジュワ的生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のな
かには古典派とロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会
の遺物とたたかいつつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や
商業に新しい飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。
…ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量
に産出される、現代に属する。
…つぎには人道学派がくる。これは現在の生産関係の悪い方面を気にかける。これは、気や
すめや、現実の対照をすこしでもごまかそうとつとめる。それはプロレタリアートの悲嘆、ブル
ジュワ相互間の拘束のない競争を、心からなげく。
…博愛学派は完成された人道学派である。これは対立の必然性を否定する。これはすべて
の人をブルジュワにしようとする。
…経済学者がブルジュワ階級の科学的代表者であるのとおなじように、社会主義者と共産
主義者とはプロレタリア階級の理論家である。
…氏[プルードン]はただ、資本と労働とのあいだを、経済学と共産主義とのあいだを、たえず
動揺する、… 》
プルードンが中間に位置付けられている
5:28 午後 削除
Blogger yoji さんは書きました...
古典派の使用例最古はマルクス。それをケインズが流用した。
マルクス哲学の貧困2:1:7
宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することをたすける
プロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらがブルジュワ的
生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のなかには古典派と
ロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会の遺物とたたかい
つつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や商業に新しい
飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。この闘争にあずかるプロレタリアート
は、この熱狂的な仕事に夢中になって、ただ一時的偶然的苦悩をもつにすぎず…
…ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量に産出される、
現代に属する。
ケインズ一般理論
序章
1一般理論
注
(1)「古典派経済学者」とは、リカード、ジェームズ・ミル、および彼らの先行者たち、すなわち、
リカードの経済学において最高潮に達する理論の創設者たちをひっくるめて言うために、マルクスがひ
ねり出した呼称である。通常の用法には外れるかもしれないが、私は私なりに、リカードの追随者、
すなわちリカードの経済理論を採用し完成させた人たち、(たとえば)J・S・ミル、マーシャル、
エッジワース、それにピグー教授も一緒に「古典派」に含めることにしている。
https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/38024710.html
「資本論、って、資本主義を否定した本なのでしょうか」記事をクリップするクリップ追加
書庫無題
カテゴリ練習用
2019/4/2(火) 午後 0:27
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知恵袋
《マルクスの 資本論、って、資本主義を否定した本なのでしょうか。宜しくお願い致します。》
「資本主義を否定した本」と呼ぶことは、可能です。しかし、その否定の手法は、次のようなものでない、ということに注意する必要があります。
資本論が、とっていない否定の手法とは次のようなものです。
1)資本主義の欠点を列挙する
2)それらの欠点を克服しうると筆者が信じる解決策を列挙する
マルクスは、こういう手法を資本論において採ってはいません。
変わって彼が採用したのは、資本主義それ自体が、自分とは相容れない要素を自分自身の中から生み出すことを論証するという手法です。
本来をそれは、資本論全体を読んでいただかないと、完全には理解できないものなのですが、次の個所でその片鱗をうかがい知ることができます。
《資本主義的生産の主要な事実。
(1) 少数の手のなかでの生産手段の集積。これによって、生産手段は直接的労働者の所有としては現われなくなり、反対に生産の社会的な力に転化する。たとえ最初は資本家の私的所有としてではあっても。資本家はブルジョア社会の受託者であるが、彼らはこの受託の全果実を取りこんでしまうのである。
(2) 社会的労働としての労働そのものの組織。協業や分業によって、また労働と自然科学との結合によって。どちらの面から見ても資本主義的生産様式は私的所有と私的労働とを廃棄する。たとえ対立的な諸形態においてではあっても。》
(資本論 第3部 第15章)
(1)について。「少数者の手のなかでの生産手段の集積」「によって」生産手段が「生産の社会的な力に転化する」とは、私的所有の外皮の中で生産手段が共通占有(≒協同利用)の対象となることを意味します。つまり、株主集団の私物である機械や原材料を、株主が選んだ、株主の意思を代行する経営者の指図に従いつつも、労働者たちは互いに協力し合って作業するために使用するということです。
(2)について。社会的労働の形成が二つの側面から把握されています。一つは、労働する諸個人間の関係の側面、協業や分業です。もう一つの側面は、労働する諸個人との自然との関係の側面であり、こちらの関係は、自然に対する知識・認識とその応用としての労働としてあらわれます。社会的労働をこのような2契機において把握する作業は、第1部第13章の大工業論で綿密に行われており、ここではその内容が反省的に整理されています。
資本主義的生産過程におけるこのような変化、すなわち私的労働の社会的労働への転化及び生産手段の共同的生産手段への転化は、まだ依然として資本主義的な外皮にくるまれています。つまり、社会的労働と共同的生産手段によって産出された諸成果の資本による我物化は、私的所有によって正当化されているのです。
しかし、労働と生産手段の社会的性格の発展は、私的所有自体の揚棄の条件を成熟させずにはいません。そして、私的所有の揚棄への第一歩が資本主義時代において既に踏み出されたのです。株式会社制度の普及です。
共同的生産手段を用いた社会的労働(協業)に対する集団的な私的所有である株式会社は、それ自身の内部で既に私的労働が揚棄されているばかりでなく、集団的私的所有の成立によって私的所有が監督労働の成果であるという虚構が否定されているがゆえに、私的所有の否定とそれによる社会的諸機能の労働する諸個人自身による自律的遂行への「必然的な通過点」となるのです。
論争史を紐解くとハイデガーはギリシア語が出来たのでカッシーラーなどに対して精神的に優位に立てた
マルクスも資本論冒頭でアリストテレスを孫引きで参照しているから
この程度なら勝てるとハイデガーは考えたろう
マルクスが唯物論と言ってもマルクス自身は機械論などを批判しているからそう単純ではない
結局マルクス(の唯物論)もハイデガー(の観念論)も構造主義的認識を提示していたことが最終的な強みとなった
ただし構造主義的認識は主体化とトレードオフする場合が多いから
両者ともにヘーゲル体系の影響から抜け切れていない、ということになる
221 考える名無しさん[] 2019/05/17(金) 22:33:41.64 ID:0
>>219
否定してるんじゃない包括しているのだ
アルチュセールも一応そうしている
ヘーゲルかスピノザか
マルクスをヘーゲルからスピノザの側へ奪還する
469 オニオン[sage] 2019/05/31(金) 01:43:39.63 ID:0
労働価値説とは再生産コストとしての生産価値なんだよ
穴を掘って埋める労働なら、労働者を再生産するコストが労働価値である
だから生産者の負担の大きさによって労働の単価が増す
しかし消費者は効用説に基づいた価値の対価しか払わない
利益を得るには消費者が労働価値以上に金を払うか、
生産者が消費価値より労働価値を下げるしかない
つまり資本家ではなく、消費者が労働者から搾取している可能性もあるということだ
マルクス「市場原理とは消費者が賢いこと、すなわち良い物が売れ、そうでない物が売れないことを前提としている(しかし実際にはそうではない)」
468 考える名無しさん[] 2019/05/30(木) 23:40:40.03 ID:0
トニー・ローソン氏の『経済学と実在』を読んだことがあるが、
そこからロイ・バスカー氏の超越的実在論もしくは批判的実在論というのを知った。
その哲学にはぜんぜん詳しくない。
Verum index sui et falsi Spinoza Marx の スピノザは唯物論だが唯心論と並行的に記述される マルクス主義の唯心論は対外的な唯心論を反措定として必要とする 空想社会主義が愚かな事例として規定される それなしには自己の唯物論の優位性が規定され得ない これは唯心論に自己規定を頼っているのと同じだ 否定は規定なのだから
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yoji
(19/05/19)
Verum index sui et falsi Spinoza Marx の 具体的に言うと弁証法の影響をマルクスは受けすぎた スピノザは唯一弁証法を必要としない哲学者 プルードンが誰よりも早くそれに気づいた マルクスの法学から経済学への移行もプルードン(往復書簡)からの影響だが 弁証法からの脱却には時間がかかった
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yoji
(19/05/19)
Verum index sui et falsi Spinoza Marx の 具体的に言うと弁証法の影響をマルクスは受けすぎた スピノザは唯一弁証法を必要としない哲学者 プルードンが誰よりも早くそれに気づいた マルクスの法学から経済学への移行もプルードン(往復書簡)からの影響だ
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yoji
(19/05/19)
Verum index sui et falsi Spinoza Marx の 資本論でマルクスは国家を分析から外したから 後世の読者はその空白を補完しなければならなくなった 社会心理学的な補完もあり得る その際党派的な闘争とカテゴリーミステイクが混同される それは唯物論基礎にスピノザが位置付けられていないからだ カント、マルクスはスピノザの土台の上に初めてあり得る それをマルクスのラッサール宛書簡で述べられたような転覆を無批判に前提とすると 政治的党派性でしか自己の位置付けが出来なくなる
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yoji
(19/05/19)
MMT(現代貨幣理論) & On Falling Neutral Real Rates,FiscalPolicy,andtheRisk of Secular Stagnation Łukasz Rachel, LSEandBankofEnglandLawrence H. Summers, Harvard University 2019 の AIに関しては供給能力を向上させるからインフレ抑制につながるという希望的観測があり得る とはいえガンジー的運動やラッダイト運動も起こり得る (そうなると善かれ悪しかれ無論所有関係は政治による介入を必要とするようになる) ガンジーは独自の自立分散的生産を消費によって支える運動だから今後も手本となる (根本的に解決はゲゼルの減価マネーとケインズの超国家通貨案が欠かせない)
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単なる合成の誤謬だ
労働者=消費者であり
彼ら/我々の集合力が価値の源泉なのだ
マルクスが結合労働力も機械導入も共に相対的剰余価値として
二次的に定義してしまったから後進が間違える
価値形態論は商品貨幣論で金属主義の系譜だが
再生産表式は信用貨幣論を準備するものだ
表券主義ではないが
価値形態論はゲーデル不完全性定理と比較すると論理が不徹底だとわかる。ゲーデル数はGが可逆的であることを示すのだ。兌換停止は金が国外流出を防ぐだけのものでそれ自体は信用貨幣論を強化しない。むしろ価値形態論の徹底が信用貨幣論に必要だ。
価値形態論はゲーデル不完全性定理と比較すると論理が不徹底だとわかる。ゲーデル数はGが可逆的であることを示す。兌換停止は金の国外流出を防ぐだけのものでそれ自体は信用貨幣論を強化しない。再生産表式と共にむしろ価値形態論の徹底が信用貨幣論に必要だ。
専攻は経済学と社会思想史。兵庫県神戸市出身。
著作
単著
『構造と力――記号論を超えて』(勁草書房, 1983年)
『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房, 1984年)
『ヘルメスの音楽』(筑摩書房, 1985年)
『ダブル・バインドを超えて』(南想社, 1985年)
『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(小学館, 1994年)
『フォーサイス1999』(NTT出版, 1999年)
『「歴史の終わり」を超えて』(中央公論新社, 1999年)
『映画の世紀末』(新潮社, 2000年)
『20世紀文化の臨界』(青土社, 2000年)
(黒田末寿・佐和隆光・長野敬・山口昌哉)『科学的方法とは何か』(中央公論社[中公新書], 1986年)
(島田雅彦)『天使が通る』(新潮社, 1988年)
(松浦寿輝)『ゴダールの肖像』(とっても便利出版部, 1997年)
(田中康夫)『憂国呆談』(幻冬舎, 1999年)
(柄谷行人)『マルクスの現在』(とっても便利出版部, 1999年)
(田中康夫)『新・憂国呆談――神戸から長野へ』(小学館, 2000年)
(佐和隆光)『富める貧者の国――「豊かさ」とは何だろうか』(ダイヤモンド社, 2001年)
(四方田犬彦・大野裕之)『パゾリーニ・ルネサンス』(とっても便利出版部, 2001年)
(田中康夫)『憂国呆談リターンズ――長野が動く、日本が動く』(ダイヤモンド社, 2002年)
「必読書150」
共編著
(岡崎乾二郎・松浦寿夫)『モダニズムのハード・コア――現代美術批評の地平』(太田出版, 1995年)
(渡邊守章・渡辺保)『表象文化研究――文化と芸術表象』(放送大学教育振興会, 2002年)
訳書
メアリー・ダグラス, バロン・イシャウッド『儀礼としての消費――財と消費の経済人類学』(新曜社, 1984年)
参照リンク:wikipedia検索→「浅田彰」
aabiblio @ ウィキ - 浅田彰書誌 http://www36.atwiki.jp/aabiblio/
浅田彰のドタバタ日記 http://www.realtokyo...ocs/ja/column/asada/
REALKYOTOhttp://realkyoto.jp/blogs/asada_akira/
ソトコト 憂国呆談 http://www.sotokoto.net/yukokuhodan/
浅田彰監修『日経イメージ気象観測』とはhttp://www36.atwiki....biblio/pages/66.html
●○● Aquirax: 浅田彰 避難所●○●