土曜日, 2月 25, 2017

浅田彰『逃走論』(1984,1986)☆


                (マルクスリンク::::::::::) 

NAMs出版プロジェクト: 逃走論 1984,1986

http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/19841986.html 

ゲーデルとライプニッツ:付リンク::::
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_407.html

ジョン・ローマー『搾取と階級の一般理論』(未邦訳)/吉原直毅『労働搾取の 厚 生理論序説』

http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_15.html


NEOACA BLOG: 浅田彰『逃走論』

http://neoaca.blogspot.jp/2013/06/blog-post_23.html

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https://i.imgur.com/Y7OBRDu.gif

  





目次

逃走する文明

ゲイ・サイエンス

差異化のパラノイア

スキゾ・カルチャーの到来

対話 ドゥルーズ=ガタリを読む


マルクス主義とディコンストラクション

ぼくたちのマルクス

本物の日本銀行券は贋物だった

共同討議マルクス・貨幣・言語   ☆


ツマミ食い読書術

知の最前線への旅

N・G=レーゲン『経済学の神話』

今村仁司『労働のオントロギー』

広松渉『唯物史観と国家論』

栗本慎一郎『ブタペスト物語』

山本哲士『消費のメタファー』

柄谷行人『隠喩としての建築』

山口昌男『文化の詩学1・2』

蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』


柄谷行人著作リスト['80s]一覧

http://karatani-b.world.coocan.jp/80_l.html


マルクス・貨幣・言語 現代思想 1983.03.01 思考のパラドックス、ダイアローグII 再録



柄谷 だから以前に岩井さんに言ったことがあるんだけど、「ケインズ主義」なんていうものはないんですよね。ケインズは当り前のことを言っている。「ケインズ主義」が出てきてからこうなったということではない。もともとそうなのですから、古典派経済学および新古典派こそがケインズの認識を「ケインズ主義」におとしめてしまう、ありもしない均衡体系を設定している。



浅田彰レジュメ:

レポート                   浅田彰


*記号論

記号論は完結した差異のシステムとしての記号体系を前提とする。


 記号体系は分節化された総体であるが、分節の仕方が恣意性に基づいているため、個々の記号は他の記号との差異においてしか規定されえず、したがって、全体が一挙にとらえられねばならない。

 そのような完結したシステムを前提すれば、その中で個々の記号を形作るシニフィアン(sa)とシニフィエ(se')のペアは、ソシュールの言う通り、一枚の紙の表裏のような一体の関係をなすことになる(図1)。

図1
I+++++++++++++I
     ___
        ↓
     _記号_
    /   \
 I se'I se'I
 +----+----+
 I sa I sa I

   *
 商品の総体をこれと同様のシステムとして考えるのは容易である。
 個々の商品は他の商品との差異においてはじめて規定されるが、そうした差異の総体が完結したシステムをなすとき、個々の商品を形作る使用価値と価値のペアは確固たる統一において立ち現われることになる(図2)。
図2

I+++++++++++++I
     ___
        ↓
     _商品_
    /   \
 I 価値 I 価値 I
 +----+----+
 I使用価値I使用価値I

    *
 ところで、このような完結したシステムは前提とすべきものなのだろうか。むしろ、媒介された結果なのではないだろうか。


*価値形態論


 マルクスは、完結したシステムに先立つ場面に遡り、そこに矛盾を孕んだネットワークを見出す。その矛盾はふたつの商品の関係においてすでに明らかである。それらは互いに相手の使用価値を鏡として自分の価値を確証しようとする。相手を《奴》(sa)、自分を《主》(se')にしようとするのである(図3)。


図3
商品I      商品II
 se'   se'
   \  /
    \/
    /\
   /  \
 sa    sa

se':相対的価値形態 …相手の使用価値を鏡として自分の価値を確証する〈主〉
sa :等 価 形 態 …自分の使用価値を鏡として相手の価値を確証してやる〈奴〉


 どちらが《奴》となり、どちらが《主》となるか。この関係はシーソーのようなものであり、磁石のように揺れ動いてやまない。先の比喩で言えば、紙の表裏は一定せず、いわばメビウス的反転をくり返すのである。
 このような混乱は商品の数を増やすほどにひどくなり、矛盾のネットワークが現出される。それはいかにして解決されるのか。
      *
 このネットワークの中から、ある一商品が、他の全商品の価値を身をもって映し出す一般的な鏡として、つまりは全員の《奴》として下方に排除され、ついで逆転運動により、全商品の価値の保証人として、つまりは全員を後見する《主》として、上方から君臨することになる。大文字のSaとしての貨幣の出現である(図4)。



図4

     全員の〈主〉となったSa
    Sa
    /\
   /  \ 
  /    \ 
 /______\
(__xxxx__)
 \      /
  \    /
   \  /
    \/
     全員の〈奴〉となったsa

 このSaが一般的な媒介のエレメントとなることによってはじめて、ひとまず矛盾が解決され、商品の総体が完結したシステムを形作りうるようになる。その中で個々の商品は固有の価値と使用価値の統一として立ち現われるが、それはSaたる貨幣のもたらす効果なのである(図5)。


図5
       Sa
       /\
      /  \ 
     /    \
    /      \
   /        \ 
  (++++++++++)    I 価値 I 価値 I
      ___         +----+----+
       \________/ I使用価値I使用価値I

 このことは記号論一般にあてはめることができる。Saが超越的な中心としてメタ・レベルから場を超コード化することによってはじめて、記号の総体が完結したシステムを形作りうるようになるのである。記号論が《ゼロ記号》として前提してきたものこそ、このSaである。

*流通論

 しかし、近代の貨幣‐資本については、ストーリーはそれでおわりというわけではない。ひとたびメタ・レベルに立った貨幣がただちにオブジェクト・レベルに再投下されて商品に化身し、そこからまたメタ・レベルヘとジャンプする。このプロセスのくり返しこそ、貨幣―資本の運動形式なのである。これを《クラインの壺》によってモデル化する(図6)。

          __
         /__\
図6    貨幣/〇  \\
        II  //
       / \ //
      /   \I
     /   / \
    /  _/  I\
   / _/    \ \
  /_/_______\_\
 (_____________)

 これは一切のスタティックなハイアラーキーを突き崩していく積極的な運動ではあるが、一定のサイクルを際限なく反復するよう強図いられている点では、未だ規制された回帰でしかない。その中で、差異は完結したシステムに封じ込められることをやめて累積的な差異化の運動を行なうようになるが、それもまた一定方向に誘導された運動でしかない。
 ここで注意しなければならないのは、商品から資本への移行が本来なんの保証もないパラドキシカル・ジャンプーー「命がけの飛躍」(salto mortale)だということである。《クラインの壺》の運動は、パラドックスをそのつど一定の仕方で飛びこえながら進行するプロセスなのである。しかし、それはパラドックスに対するなしくずしの解決なのであって最終的な解決ではない。まさにそのことこそが恐慌論の出発点である。



岩井 はっきり構造的に決まっている。漫才の「ツッコミ」と「ボケ」なん

ですね。(笑)

浅田 「ツッコミ」が「資本家」で「ボケ」が「労働者」だと。

柄谷 でもそこには悲劇性はないわな。(笑)

浅田 まあとにかく、そういう説明が成り立つと思うんですよ。岩井さんが

あえてそれを取らなかったのは「利潤」と「利子」を区別したかったからだ

と思うんです。置塩·森嶋·ローマーの「マルクスの基本定理」というのが

あって、「各産業が正の利潤率をもつような価格体系の存在と搾取率が正に

なるような価値体系の存在は同値である」という。ここで言っている「利潤

率」というのは事実上「利子率」なんですよね。

:182

 


追記:

ゲーデルの不完全性定理と較べればわかるが、マルクス価値形態論は論理が不徹底で道半ばである。

マルクスの場合、ゲーデル数にあたるものが貨幣になるが、その展開がなされていない。



転形問題に関して、浅田彰が逃走論で推奨するのが「転形手続きの数学的構造 」( 塩沢由典/basic数学1979年1月44~49頁)。

以下、

浅田彰が参考文献に挙げた塩沢 由典basic数学1979年1年の論考「転形手続きの数学的構造」より







問題は利潤がマイナスでも生産が維持されるべきだということ。
カンバン方式にはそれが出来ない。LETSならそれが出来る。



浅田 彰(あさだ あきら、1957年3月23日 - )は、京都造形芸術大学大学院長。 
専攻は経済学と社会思想史。兵庫県神戸市出身。 

著作 

単著 
『構造と力――記号論を超えて』(勁草書房, 1983年) 
『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房, 1984年) 
『ヘルメスの音楽』(筑摩書房, 1985年) 
ダブル・バインドを超えて』(南想社, 1985年) 
『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(小学館, 1994年) 
『フォーサイス1999』(NTT出版, 1999年) 
『「歴史の終わり」を超えて』(中央公論新社, 1999年) 
『映画の世紀末』(新潮社, 2000年) 
『20世紀文化の臨界』(青土社, 2000年) 
共著 
(黒田末寿・佐和隆光・長野敬・山口昌哉)『科学的方法とは何か』(中央公論社[中公新書], 1986年) 
(島田雅彦)『天使が通る』(新潮社, 1988年) 
(松浦寿輝)『ゴダールの肖像』(とっても便利出版部, 1997年) 
(田中康夫)『憂国呆談』(幻冬舎, 1999年) 
(柄谷行人)『マルクスの現在』(とっても便利出版部, 1999年) 
(田中康夫)『新・憂国呆談――神戸から長野へ』(小学館, 2000年) 
(佐和隆光)『富める貧者の国――「豊かさ」とは何だろうか』(ダイヤモンド社, 2001年) 
(四方田犬彦・大野裕之)『パゾリーニ・ルネサンス』(とっても便利出版部, 2001年) 
(田中康夫)『憂国呆談リターンズ――長野が動く、日本が動く』(ダイヤモンド社, 2002年) 
「必読書150」 

共編著 
(岡崎乾二郎・松浦寿夫)『モダニズムのハード・コア――現代美術批評の地平』(太田出版, 1995年) 
(渡邊守章・渡辺保)『表象文化研究――文化と芸術表象』(放送大学教育振興会, 2002年) 

訳書 
メアリー・ダグラス, バロン・イシャウッド『儀礼としての消費――財と消費の経済人類学』(新曜社, 1984年) 
参照リンク:wikipedia検索→「浅田彰」 

aabiblio @ ウィキ - 浅田彰書誌 http://www36.atwiki.jp/aabiblio/ 

浅田彰のドタバタ日記 http://www.realtokyo...ocs/ja/column/asada/ 

REALKYOTOhttp://realkyoto.jp/blogs/asada_akira/ 

ソトコト 憂国呆談 http://www.sotokoto.net/yukokuhodan/ 

浅田彰監修『日経イメージ気象観測』とはhttp://www36.atwiki....biblio/pages/66.html 
●○● Aquirax: 浅田彰 避難所●○● 

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