ムーアの倫理学は神の見えざる手のようなもので、功利主義と論理学を繋いだように見えて、経験論を活かし切ることはなかった。
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『確率論』と『一般理論』におけるKeynes流「不確実性 」観の類別 : 部分連続説の立場から: 高籔,学; 新井,一成
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/132470/1/18804322_64_14.pdf
2.「ケインズ問題」と部分連続説
Keynes( 1921) と Keynes( 1936) が連続した発想のもとにあるか,独立した発想のものなのか,見解の一致
に至りにくい大きな要因として,両著の間に,F.P.Ramsey の「真理と確率」(1926)による Keynes「 確率」 へ
の批判が行われたことが挙げられる。この批判は,確率論の学説史の面でも,Keynes への影響の面でも複数
の解釈が成り立つ。
2-1 学説史的側面
確率の分類の議論は,古くは Carnap( 1950) などがあるが,近年の代表的な分類としてD.Gillies( 2000) と
T.L.Fine( 1973) が挙がる。Gillies は現代の学説の潮流を,P.S.Laplace( 1814) の古典確率を基礎として,論理
説・主観説・頻度説・傾向説等に分類した。この分類において,Keynes( 1921) は論理説の代表的著書として,
またRamsey( 1926) は主観説の代表的論文として扱われる。さらに Fine は現代の理論として11の理論を挙げ
ており,以下のとおりである。「公理的比較論( Aximatic comparative)」「Kolmogorov の計算法(Kolmogorov’s
caluculus)」「ふつうの相対頻度説」「Von Mises の相対頻度説」「Reichenbach-Salmonの相対頻度説」
「Solomonoff の複雑基盤説(Solomonoff’s complexity-based theory)」「Laprace の古典理論」「Jaynes の古典理論」
「Koopman の比較論理説」「Carnap の論理説」「De Finetti-Savage の個別的主観説」。このうち Keynes( 1921) は
「Koopman の比較論理説」「Carnap の論理説」へと,Ramsey( 1926) は「De Finetti-Savage の個別的主観説」へ
とそれぞれ発展的に継承された。特に「De Finetti-Savage の個別的主観説」は Bayes 統計学と相性が良く,そ
の文脈で Ramsey( 1926) が取り上げられることが多い。
したがって,研究者が論理説の妥当性を認める立場から検討するか,主観説の妥当性を認める立場から検討
するかによって,Keynes( 1921) と Ramsey( 1926) の評価は大きく変わってくる。Ramsey( 1926) の批判を妥
当なものとして Keynes( 1921) の独自解釈を試みた代表的研究に Kybrug( 1998-2000) が,Ramsey( 1926) の批
判の妥当性を懐疑する形で Keynes( 1921) を検討する研究に Brady( 2004) が,どちらの主張でもそれぞれ捉え
きれない論点があることを示した研究に伊藤邦武(1995)が挙げられる。
...
前提が任意の命題の集合 h からなり,結論が任意の命題の集合 a からなるとする。そのとき,もし h の
「知識」が a に対して度合 α の合理的信念をもつことを正当化するならば, a と h の間に度合 α の確率-関
係があるという。(Keynes( 1921),p. 4 ,邦訳p. 5 )
上記を縮めて a / h = α と表せる。 α を現代的に解釈するならば写像の一種である。
Keynes は確率関係について,『確率論』において唯一図を用いた説明を行っている。
図 1 は『確率論』第 3 章で提示されており,「順序系列およびストランド」と名付けられている 1 。
点 OAI と U ~ Z は確率を表す。確実性 I に近づくほど確率は大きく,不可能性 O に近づくほど確率は小さい
という。O と I の間の数本の線が確率のシリーズであり,同一シリーズにない確率は比較不可能である。数値
表現可能な「確率」はシリーズ OAI 上に位置する 2 。
例を示す。W の確率は Z・V より大きく X・Y より小さいことが上の図から判断できるが,X と Y のどちらが
大きいかは判断できない。またUの確率は他のどの確率とも比較不可能である。ここから,Keynes「確率」の
発想は根本的に,「確率」間の順序に不確実さが内在していると解釈できる。たとえば図における X の確率と
Yの確率の順序は不確実である。より一般化していえば,Keynes「確率」の順序の決め方は,以下の規則に
則っている。
(iv) ABC が順序系列を形成し,B が A と C の間に位置し,ならびに BCD が順序系列を形成し,C が
BD 間に位置するならば,ABCD は順序系列を形成し,B は A と D の間に位置する。
(Keynes( 1921),p.41,邦訳p.44)
一般的に確率の順序はふたつの確率の間で決まるが,Keynes は 3 つの間で決まると主張する 3 。Pattanaik
(2000) は三項間の順序が不確実な場合の意思決定について扱っているが,二項間の順序が不確実な場合と比
べて非常に複雑なモデルとなっているため,3 つの間での順序の定義をもつ Keynes「確率」は,確率関係の定
義において順序「不確実性」をもつ。
3-2 推論「不確実性」
次に Keynes は,推論過程そのものに内在する「不確実性」に触れている。推論は類比によって行われる。
類比は推論者の「知識」によって弱い類比と強い類比に区分され,前提条件や「知識」間の関係により「総肯
定的類比」「帰納的相関」「部分類比」「純粋帰納」等に分類されるが,これら類比のうちもっとも一般的な定
式化は以下のものであろう。
あるいくつかの場合において,Φ と f が真であることが知られた。そこで,Φ のみが観察されているそ
の他の場合において,f も真であると断言したいのである。
(Keynes( 1921),p.249,邦訳p.259)
Keynes はこれら類比に基づく帰納的推論一般をさして「慣行(common practice)」と呼んだ。この「慣行」の
中で最も多く登場する概念に「推論の重み」がある。
第 3 章において論じた意味における推論の確率の大きさは,有利な証拠と称せられるものと不利な証拠
と称せられるものとの間のバランスによって決まる。そのバランスを崩さない新しい証拠は,また推論の
確率も変化させない。しかし,推論の間では,ある種の量的比較が可能であるというもう一つの関係があ
るのではないかと思われる。この比較は,有利な証拠と不利な証拠とのバランスによって決まるのではな
く,それぞれ関連のある知識の絶対・・量と関連のある無知の絶対・・量とのバランスによって決まるのである。
(Keynes( 1921),p.77,邦訳p.82)
Keynes によると「推論の大きさ」は推論の初めに「事前確率」を得て以降,「有利な証拠」と「不利な証拠」
のバランスによって上下するが,「推論の重み」は常に増え続けるという。O’Donnell (1989) では「推論の重
み」のモデルとして図 2 が用いられている。
図 2 で波をうち上下する曲線が「確率」で,単調増加する曲線が「推論の重み」である。「推論の重み」が最
小の状態において,推論者が抱く「確率」と実際の「確率」が異なっているか,どれくらい誤差があるか,い
ずれも全くわからず,不確実である。一方で,考えられる全ての証拠を揃えた場合,「推論の重み」は最大と
なり,このとき推論者の「確率」と実際の「確率」は一致する。図 2 においては最も極端な 2 つの場合が示さ
れている。もし得られた証拠が全て「有利な証拠(*relevant evidence 関連性のある証拠?)」であるなら「確率」は確実性 I に至り,証拠が全て「不利
な証拠」であるなら「確率」は不可能性 O に至る。このことから,「推論の重み」の重さと「不確実性」の間
には密接な関係があり,証拠が全くない状態で「不確実性」は最大で,重みが増すほど「不確実性」は減少す
ると考えられる。
*9
適用「不確実性」にあたる現代的論点の例を挙げれば,等確率性(Keynes)の用語では「無差別原理」
)が成立しない事例と成立する事例がある場合に, どちらにも等確率の原理を適用することが「 合理的」とされるために起こるパラドクスなどがこれにあたる。プロスペクト理論等によってこれらパラドクスの解消が試みられてきた。
http://plato.stanford.edu/entries/rationality-normative-utility/
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『確率論』と「若き日の信条」 平井俊顕
Ⅱ.『確率論』の後 ― ラムゼーによる批判の影響
ラムゼーは『確率論』にたいし,論文「確率と真理」(Ramsey,1926)で根底的批判を展開した。16そして,それをケインズは受容している。公の紙面を割いて,こうした表明を行うのは,ケ インズにあって異例である。既述のように、ケインズの哲学的論文はその後発表されてはいないこともあり、そしてケンブリッジの哲学にあって重要な位置を占 めるラムゼーの批判であることもあり、このできごとはこれまで多くの注目を集めてきた。以下、ラムゼーの批判のポイント、ならびにそれにたいするケインズ の反応をみることにしよう。
1.ラムゼーによる批判
ラムゼーによるケインズ『確率論』批判は、主として3点で構成されている。
第1に,命題間の確率関係といったものは存在しない,という批判が来る。ケインズの「確率」の定義そのものの否定である。
もし誰かが一方の命題が他方の命題にどのような確率を与えるのかと尋ねた場合,私はそれに答えるために[ケインズ氏のように]これら命題を注視し,それらの論理的関係を見分けようと試みるかわりに,むしろ,私が知っているのが一方だけと想定して,その場合もう一方の命題にどれだけの度合の信頼をおくべきかを推量しようとするであろう (Ramsey,1996, 83-84ページ)。
つまり,ラムゼーは命題間の確率ではなく,個人がもう一方の命題に寄せる主観確率について語っている。そこには,確率とは個人による判断をめぐる問題との主張がみられる。17
第2に,その主要な諸原理の論述においても整合性が保たれていない,という批判が来る。『確率論』にみられる確率の客観性・主観性をめぐる曖昧性を突くものである。18
第3に, 帰納法の世界を演繹法の世界に包摂しようとする試みにたいする批判が来る。
…推論を正当化する論理的関係とは,帰結の意味…が,その前提の意味に含まれているということである。だが,帰納的論証の場合には,このようなことは少しも生じていない。これを[ケインズ氏のように]演繹的論証に類似していて,ただその度合が弱いものとするのは不可能である。そこでは帰結の意味が前提の意味に部分的に含まれているというのはばかげている(Ramsey, 1996, 115-116ページ。下線は引用者)。
命題Aと命題Bの間に確率を設定するというのは,命題Bが命題Aから演繹的に(しかも部分的に)導出されるということを意味しない。それをあたかもそうであるかのようにみせるのはおかしい,というのである。
ラムゼーの批判は,私にとり非常に明快で理解しやすいものである。
2. ケインズの反応
ケインズがラムゼーのこの批判に応じたのは,ラムゼーにたいする追悼文「哲学者ラムゼー」(Keynes, 1931b)においてである。これは, 1931年10月時点での「哲学者ケインズ」のスタンスを知るうえできわめて重要な証言であり,「人間論理」(human logic)へのラムゼーの着目にたいする高い評価と,「形式論理」(formal logic)に基づく『確率論』にたいする自己批判とが混在するかたちで語られている。
…彼[ラムゼー]は,「形式論理」とは識別される「人間論理」を考えるに至った。形式論理は整合的な思考ルール以外には何ら関心をもたない。だがこれに加えて, われわれは,われわれの感性や記憶,およびその他の方法で供給される素材を処理するための, そしてそうして真理に達する…ための,ある「有益な精神的慣習」をもっている。…そのような慣習についての分析もまた一種の論理である。こうしたアイデアの確率論理への適用はきわめて有益である。…ここまでのところ,私はラムゼーに譲る ― 私は彼が正しいと思う(JMK.10, pp. 338-339)。
ここには、「形式論理」を中核にした,命題間の客観的関係としての確率よりも,ラムゼー的な「人間論理」に着目した確率論への賛意がみられる。「私は彼が正しいと思う」という発言は,『確率論』が哲学者ケインズの長期間に及ぶ思考の産物であったことを考慮すると, 非常な重みをもっている。
以下は300頁を超える大部なので入門書とは言い難いが、この手の本に珍しく貨幣論論争についても言及している(第3章)。
ケインズとハイエク―貨幣と市場への問い (講談社現代新書)
松原 隆一郎; 新書 2011
102:
Hayek, Freidrich August. von. 1931a. Reflections on the Pure Theory of Money of Mr. J.M.Keynes, Economica,11(33), August, 270-295.
――1931b. The Pure Theory of Money : II.ARejoinder, Economica, 11(34), November, 398-403.
――1932. Reflections on the Pure Theory of Money of Mr. J.M.Keynes Part II, Economica,12(35), February, 22-44.
Keynes, John Maynard. 1931. The Pure Theory of Money : I.AReply to Dr. Hayek, Economica,11 (34), November, 387-397.
ミュルダールとハイエク
https://ncu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=847&item_no=1&attribute_id=25&file_no=1
ヴィクセルとの比較において,ミュルダールのケインズ(とりわけ『貨幣論』)に対する批判的態度は顕著である.J.M.ケインズの新しくすばらしい,しかし必ずしも明晰とはいえない研究貨幣論には,まったくもってヴィクセルからの影響が行き渡っている.それにもかかわらず,ケインズの研究もまた,魅力的なアングロ・サクソン流の不必要な独創性にいくぶん害されており,それはイギリスの経済学者の大半の側におけるドイツ語圏の知識のある程度体系的な欠落に端を発しているのである(Myrdal 1939, 8-9).また,1970 年代にスタグフレーションという問題に直面して,ミュルダールはこう述べた.次第に経済学として主流になったケインズ的アプローチは,あらゆる経済がデフレーションと失業を特徴とする不況に落ち込む傾向を正常と考える明らかに非常に偏ったものであった.ケインズ自身の理論は,彼の本の表題が意味しているような,一般的なものではけっしてなかった.その点に関しては,ヴィクセルの初期の理論のほうが,理論的にすぐれていた(Myrdal1973,17,訳20).
Myrdal, Gunnar.
――1939. Monetary Equilibrium, translated from German by R. B. Bryce and N. Stolper, New York : Augustus M. Kelly. (貨幣的均衡論傍島省三訳,実業之日本社,1943年.)
――1973. Against the Stream: Critical Essays on Economics, NewYork : Pantheon Books. (反主流の経済学加藤寛・丸尾直美訳,ダイヤモンド社,1975年.)
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