SUZUKI Daisetz 鈴木大拙 NHK婦人の時間 聞き手犬養道子
NAMs出版プロジェクト: 大正新脩大蔵経(諸宗部)
1228年に無門慧開が著わした『無門関』は四八の公案を示して説明を加えた書物で、手頃な大きさでもあり、初学者にとって理解し易い点もあり、中国や日本で出版された本文および解釈はすこぶる多い。
世界の大思想より
21
無門禅師が著した『無門関(むもんかん)』という禅の書物の
「雲門屎橛(うんもんしけつ)」(第二十一則)に、こう記されています。
雲門和尚に対してある僧が問いかけます。
「如何なるか是れ仏」
と。雲門は答えて
「乾屎橛(かんしけつ)」。
雲門は、仏とは一体何でしょうかという問いに対して、一言「乾屎橛」と答えるの
ですが、乾屎橛とは排泄後にお尻を拭く尻拭き棒のことです。当時は紙が貴重でしたの
で、木のヘラを用いて、用便後に木のヘラで拭いたのです。中国では、今でも奥地に行
くと、トイレにこの尻拭き棒があって、これで用を足しています。
「糞かきベラ」
ある僧が、雲門文偃(うんもんぶんえん)に尋ねた。
「仏というのは、どんなものですか?」
「糞をかき取るヘラだ!」
-無門関-[第21則]
禅の修行の中で大切な禅問答の中に、「仏とは何ですか?」と問うものがあります。
それに対し「乾屎橛」と答える所があります。この「乾屎橛(かんしけつ)」とは、
「糞かきべら」または「糞(排泄物)」そのものを指しております。
…
皆様も今日からトイレに行く度に「仏様に出会う」という心を持ってみては如何でしょうか。
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1
「趙州の無字」は僧が「犬にも仏性があるのか」と尋ねたとき、趙州が「無。」と答えたという公案(『無門関』第一則)。
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3
俱胝和尚はどんな問を与えられても一指を立てたという(『無門関』第三則)。
参考:
「狐拳みたいな事をやってたが、どうなったんだ」、「参った。お見逃しください」と言って逃げ出したのは旅僧の方で。八公は旅僧を追い、訳を尋ねた。
「和尚には、みどもでは到底かなわぬ。大和尚の胸中(指で丸)はと聞くと、大海のごし(両手で丸)と応え、十法世界(指十本)はと問うと、五戒(指五本)で保つと答えられた。三尊の弥陀(指三本)はと聞くと、目の前を見よ(あっかんべー)と答えられた。畏れ入りましてございます。修行し直してまいります」。
六兵衛さんはカンカンに怒っている。「何で煮え湯を掛けなかったんだ」、「親分が勝ったのです」。六兵衛さん怒りが消えず「あいつは永平寺の坊主ではない。あの乞食坊主、こっちが蒟蒻屋の親父だと見抜いていやがった。おまえの店のこんにゃくは小せえ(指で丸)って言いやがるから、でけえぞ(両手で丸)と答えてやった。こんにゃく十(指十本)丁でいくらだと聞きやがるから、高いと思ったが五百文(指五本)だと答えると、しみったれていて三百文(指三本)にまけろって言いやがる。腹が立ったから、あっかんべー」。
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5
香厳上樹 香厳と木のぼり
☆
漱石の『門』#18で有名な、葛藤集の第百七十六即「香厳撃竹」、偽山の「汝の父母未生以前の本来の面目」(六祖慧能大師)と関連している。
参照:
一撃忘所知 (一撃、所知を忘ず) 〈景徳伝燈録・一一〉
国立国会図書館デジタルコレクション - 景徳傳燈録30卷. [4]
IRIZ: Database: ダウンロード:その他の禅籍:宗門葛藤集
http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/data_f00d5_006.html
宗門葛藤集 (32KB)
解題
安政5(1822)年の刊本、明治23(1890)年の刊本、梶谷宗忍訳注『宗門葛藤集』(相國寺僧堂・法蔵館、1982年)を比較した校合テキスト
2 第二則 六祖因明上座趁至大&C0-B168;嶺。祖見明至、即擲衣鉢於石上云、此衣表信、可力爭耶、任君將去。明遂擧之、如山不動。踟&C3-5B3B;悚慄。明云、我來求法、非爲衣也。願行者開示。祖云、不思善不思惡、正與麼時、那箇是明上座父母未生以前本來面目。…
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12
第十二則
主人公
無門関・第12則/巌喚主人
<1> 公案
瑞巌師彦(ずいがんしげん)和尚は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答
えていた。そして「はっきり覚めているか」と問い、「はい、覚めていますよ」と答える
のであった。「いつ、どんな時でも、他人に瞞(だま)されるな」と言い、「はい大丈夫」と
答えた。
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13
第十三則
徳山托鉢
(徳山宣鑑の晩年の姿を伝える)
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14
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15
【洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)】は「無門関」第十五則の公案。
ちなみに宗純の答えは次の言葉でした。
【有漏路(うろじ)より
無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
雨ふらば降れ 風ふかば吹け】
ここから宗純は一休という名を得た。★
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16
聞聲悟道 (聞声悟道) 〈無門関・一六〉
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19
「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)
前回に続いて公案をとりあげました。
無門関第十九則「平常是道」(びょうじょうぜどう)です。
「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)という言葉は特に有名ですが、この公案から出ている禅語です。
この意味は「ふだんの心が悟りである」ということです。
では、その「ふだんの心」とは一体何でしょう。それが今回の主題です。
本則
南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖く。
州云く、擬せずんば争でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。
州云く、言下に頓悟す。
南泉は趙州が、「道とはどんなものですか」と尋ねたので、「ふだんの心が道である」と答えた。
趙州は問うた、「それをめざして修行してよろしいのでしょうか」 南泉は答えた、「めざそうとすると、すぐにそむく」 趙州、「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」 南泉、「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。
知るというのは妄覚だ、知らぬというのは、無記だ。
もしほんとに『めざすことのない道』に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。そこを無理にああだこうだと云うことなどできない」 趙州は言下に悟った。
趙州禅師といえば第一則の"無字の公案"でも有名ですが、その悟境の透徹さと行持の清高さから、禅宗史上その存在感は別格です。
趙州は十八才にして開悟されたといわれています。
それからさらに二十年の修行をされ、六十才で出家され、この公案で徹底されたといわれています。この時七十三、四才だったとのことです。
120歳まで生きられたといわれるまさに傑僧です。
ある時、趙州は師の南泉禅師に「(悟りの)道とは何ですか」と尋ねました。
南泉はそれに対して「平常心是道」(ふだんの心が悟りへの道だ)と答えました。
趙州はさらに「ではそれをめざして修行すればよろしいでしょうか」と尋ねました。
すると南泉は「めざそうとすると、すぐそむく」(そむくとは外れるということ)と答えました。
趙州はそれに対して「そんなことをおっしゃっても、それを目指して修行しなかったら、どうしてそれが道だと解るのでしょう」と尋ねました。
なるほど当然の疑問です。
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23
不思善不思悪 (善をも思わず悪をも思わず)
☆☆
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30
【即心即仏】は、「無門関」第三十則に出てくる有名な公案。 この公案は南嶽懐譲(なんがくえじょう)馬祖道一(ばそどういち)の話。
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37
庭前柏樹子 (庭前の柏樹子) 〈無門関・三七〉
【解説】 この句は、あるときある僧が、趙州に「如何是祖師西来意」(初祖菩提ダルマがわざわざインドからやって来た意図は何でありましょう)と尋ね、趙州が「庭前柏樹子」(庭の柏の樹)と答えたという話に由来しています。
柏樹子の「子」というのは助辞で意味はなく、柏の樹のことです。中国河北の趙州には柏林が多いことが知られています。
ここで趙州が言っった柏樹とは、決して単なる物体としての柏樹ではなく、自己胸襟中より出てきた柏樹だということができます。
無門は、この話を受けて頌に次のようにうたっています。
言無展事 ことばは事実を展開させる
語不投機 またカンどころに乗ってこない。
承言者喪 ことばをそのままに真実と受け取る者は自己を死なせる。
滞句者迷 語句にとらわれるものは自己を見失う。
☆☆☆
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43
「竹篦背触」〔『無門関』第四三則〕。ある禅坊さんが、竹篦を取り出して、「これを竹篦といえば触れる。そうでないというと背く。背かず、触れないでなんという」。
鈴木大拙が日本的霊性で挙げた具体的な中国の思考を表す例。
《それで、こういう公案が出来た。「竹篦背触(しっぺいはいそく)」というのである〔『無門関』第四三則〕。それはどういうことかというと、ある禅坊さんが、竹篦を取り出して、「これを竹篦といえば触れる。そうでないというと背く。背かず、触れないでなんという」。》
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「黄龍の三関」……黄龍慧南が弟子を指導するのに用いた三つの問い。一は「我が手、仏手と何似ぞ」、二は「我が脚、驢脚と何似ぞ」、三は「人人、箇の生縁あり」。『無門関』の最後に付す。★
(日本的霊性脚注より)
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無門慧開 Wumen Huikai (1183–1260): 無門關 Wumen guan (The Gateless Gate)
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私は以上の公案に対する比喩的説明を、この「徳山托鉢」の一則に引き当てたいと思う。
全盲の ... 彼は誰が来ようと、「言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒」と叫んで一棒を
振い、「這箇(真理)」のただ ある日のこと、昼の食事が少し —159— 第十三則徳山托鉢.
徳山、衆に示して云く、道(い)い得るも也た三十棒、道い得ざるも也た三十棒、速かに道え、速かに道え。
—『瓦筌集』
このように、徳山は山を訪れる修行僧を3尺の棒を持って迎えて口上を迫り、是非に関係なく棒で打ったと言われる。一見乱暴な逸話だが、徳山が与えた三十棒は思慮分別の世界に迷う修行者に与えられた禅機である、とする公案である[1]。
IRIZ: Database: ダウンロード:続蔵経にある禅籍:四家語録?
Ma-tzu's Stick
The stick of Chinese Zen Master Ma-tzu (709–788) is a famous koan that has been presented to students for many centuries. Ma-tzu held up a stick and then said, “If you call this a stick , I will hit you with it. If you don't call it a stick, I will hit you with it. Quickly, now, what is it?” The use of language in this koan creates the threat of punishment no matter how you answer. What should you say? You are faced with an insoluble problem, a double bind, what Gregory Bateson called “mutually contradictory commands being given by a person in authority with the threat of punishment if both commands were not carried out” (Low, 1995, p. 13).
Low, A. (1995). The world: A gateway: Commentaries on the Mumokan. Boston, MA: Charles E. Tuttle Co.,Ink.
Albert Low, The World a Gateway: Commentaries on the Mumonkan, Boston: Charles Tuttle, 1995.
https://books.google.com/books?isbn...
Old Zen Master Ma Tzu said to the assembled monks, in holding up his kotsu (a ceremonial teaching scepter ) “If you say this is a stick, I will hit you! If you say it is not a stick, I will hit you. Quickly now, tell me what is it?” The mind wants to settle down on one side of this or the other; that is the nature of linear logical thought.
www3.ic-net.or.jp › sokusinzebutu
即心即仏」は、「無門関」第三十則に出てくる有名な公案です。 この公案は南嶽懐譲(なんがくえじょう)馬祖道一(ばそどういち)の話です。南嶽懐譲は六祖慧能の弟子で、馬祖道一は南嶽の弟子であります。ある日、馬祖が ...
www.nychogyesa.org/chogyesa_teachers_SeungSahn.html
Seung Sahn Haeng Won Sunim (Dae Soen Sa Nim) was the first Korean Zen Master to begin teaching in the West. He was born in 1927 in Pyeong'An Nam-do (Southern Pyeong'An Province) in what is now North Korea. After World War II, ...
無門関:その1
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/mumonkan1.html
「無門関」は中国宋代(南宋)臨済宗楊岐派の禅僧無門慧開(1183~1260)によって著された公案集である。彼は古今の禅者達の間に交わされた問答商量の中から48則を選び、評唱・頌を付けて公案集にした。参禅修行者が目指す悟りやその悟境の指標になることを望んだ。久松真一の「東洋的無」や西田哲学の「絶対無」の原典としていまや世界的にも有名である。
1249年入宋した我が国の僧心地覚心(法灯国師、1207~1298)は大梅山に登って法常禅師(752~839)の塔を礼拝していた時、偶然友人の僧源心にめぐり会った。源心から「当代第一の明師は無門慧開だ!」と聞いた心地覚心は杭州の霊洞山護国仁王寺に登って無門慧開(1183年-1260年)に相見した。
問答数番の後,」無門は心地覚心の見解を肯い、印可を与えたと伝えられる。このようにして、無門慧開の法嗣となった心地覚心が、帰国に当たって挨拶に来た時、無門慧開は自賛の肖像画や自らの著書「無門関」を土産として与えた。密教僧でもあった心地覚心は瑩山紹瑾(1268年 - 1325年)ら、多くの曹洞宗の僧らと交渉をもったため、その密教化に影響を与えたと考えられている。
一休さん研究室~一休宗純
・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)について
一休宗純(幼名・千菊丸~周建~宗純~一休)(A.D.1394-1481)
京都大徳寺第47世。1392年、義満は南北朝合一を達成する。その2年後のことであった。
一休さんは、1394年(応永元年)元旦に誕生したとされる。父は第100代 後ご小松こまつ天皇てんのう、母は伊予いよの局つぼね(アニメでは)となっている。が、いろんな本を読んでいると、母は「藤氏(とうし)」という藤原氏の流れの人らしい。この二人が同一人物なのかは定かでない。母が南朝方だったため周りの嫉妬しっとのいい攻撃材料になり、朝廷を追われ、一休さんは、京都嵯峨さがの天竜寺のちかくで生まれたそうだ。幼名、千菊丸(せんぎくまる)は6歳になるまで、母とくらした。
さて、ここまでは大体アニメは通説と異ならないのだ。ここからである。
アニメでは、6歳になった千菊丸は、「かそう禅師」(一休生涯最大の師で、京都堅田かただの祥瑞寺の住職。)のところに母に連れられ、「一休」と名付けられる。その足で外観和尚の安国寺で剃髪をされ、仏に仕える身になる。(第1話)
これが、全編にわたって禍根を残す、誤りの元であった。なぜなら、安国寺で一休さんはまだ「周建(しゅうけん)」という名だったからだ。「一休」と名乗るのは、「宗純そうじゅん」をへて、24歳(数えで25)になったときだ。「洞山とうざん三頓さんとんの棒ぼう」という「無門漢むもんかん」という禅書の難しい公案こうあん(問題)をとき、かそう禅師から、一休さんが作った歌から名を取り、「一休」という法名を授かったという。
うろじより むろじへ帰る 一休み
雨ふらば降れ 風ふかば吹け
さて、はたして、アニメ「周建さん」で、人気が出ただろうか?それは、矢吹プロデューサーも考えただろうが、疑問がのこる。そもそも坊主が主人公のアニメなんてのが前代未聞である。折角のネームヴァリューがむだになるし、マイナーなイメージがのこる。「周建」?だれ?それ?ってな具合である。そこで、史実とは異なっても「一休さん」としたのだろう。
なにしろ「さん付け」で呼ばれるのは「一休さん」と「良寛りょうかんさん(良りょう寛大愚かんたいぐ)」くらいなものだから。
- 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし[8]
- 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
- 秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
- 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
- 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
- 世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
- 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
一休さんと風狂の世界(その2)
【洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)】
とは、次のような意味です。
『唐の時代に、雲門禅師のところに何千kmも離れたとこるから、洞山という僧が参禅のため訪ねてきた。
そこで、雲門禅師は洞山に尋ねます。「お前はどこにいたのか」。
洞山は答えます。「査渡(さど)におりました」。
雲門禅師は洞山に再び尋ねます。「この夏は何処で修行したのか」。洞山は答えます。「湖南の報恩寺です」。
雲門禅師は三度洞山に尋ねます。「いつ、そこを発ってきたのか」
洞山は答えます。「8月25日です」
雲門禅師が言います。「お前に三頓(60)の棒叩きを与える」
翌日、洞山は再びやってきて、師に問います。
「昨日、三頓(60)の棒叩きに遭いましたが何か過ちがあったのでしょうか。私にはわかりません」
雲門禅師が叫びます。「この穀つぶしめが。江西湖南をそのようにうろつきまわっていたのか。」
ここにおいて洞山は大悟(悟りきること)した。』
これが公案である。お前は、何と答える。と質問され、坐禅をし、時には何年も考え続けるのです。
どうでしょうか。公案(課題)の意味は何となく判りますが、これに対し、禅でいう悟りになる“答え”はなんなのか、こう質問されたら何と答えていいのやら、私たちにはさっぱりわかりません。
一体なんと答えていいのでしょう。
宗純さんの答えは次の言葉でした。
【有漏路(うろじ)より
無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
雨ふらば降れ 風ふかば吹け】
う~ん、これは難しくて判らない。
というのが本当のところでしょう。
臨済宗の何人もの高僧が挑んだ解釈です。
解釈はいろいろあり、どれも正しいように思えるかもしれません。
どれも、一休宗純さんの真理には、ほど遠いのかもしれません。
しかし、なんとなくこの言葉に惹かれ、どうしても一休宗純さんに近づきたいと考えてしまいます。
そこで、自分流の解釈をすることになります。
こんな、勝手な解釈ができました。
有漏路(うろじ)というのは、迷い(煩悩)の世界のことです。
これにたいし無漏路(むろじ)というのは、悟り(仏)の世界のことです。
「お前はどこにいたのか」;有漏路(うろじ)におりました。
「この夏は何処で修行したのか」;有漏路(うろじ)と無漏路(むろじ)の途中です。
「いつ、そこを発ってきたのか」;有漏路(うろじ)をでるときです。
つまり、こう自分流の解釈をしました。
公案(課題);《人間とは何者か、お前は答えてみよ。》という師の質問が出されたと宗純は考えました。
宗純の回答;《人間とは、悟り(仏)の世界に帰るほんの短い間、迷い(煩悩)の世界であるこの世にいる、仮の存在である。すべては空である》、と答えた。
仮の世で一休み(ひとやすみ)している存在、それが【一休宗純そのもの】なのだと、悟ったのではないでしょうか。
一休さんが生きた時代は激動の時代と言ってもいいかもしれません。華美な室町文化が花開き、一方では戦乱が続きました。一休宗純晩年のころには、11年にも及ぶ、応仁の乱がおきており、戦国時代へ移り変ってゆく時代でもありました。
民衆は苦しみ、仏教も形式ばかりが重んじられ、僧侶は堕落していたともいわれます。
悟りを得た、一休宗純さんが【風狂】の生活を送ったのは、このような時代に、形骸化し、権威ばかり重んじ、自己の保身と富に眼が眩んだ仏教界に、痛烈な批判と、行動を通じての抵抗をしたのかもしれません。
凡人には到達できない、“一切は空である”と悟りを得たからこその、清貧に徹し、物欲に溺れない、しかし一切の形に捉われない破天荒の生涯を送ったのかもしれないのです。
だからこそ、〈絶対の悲しみ〉は、形を変えて、短歌や、書や、逸話に残されたように思うのです。
没して後、江戸時代になって意外なところから一休宗純さんが見直され、評価されました。
茶の湯です。茶室に文人、墨客の掛け軸を飾ることが流行し、一休宗純さんの掛け軸が愛好されました。
非常に能筆であり、沢山の書を残したと言われておりますので、人気が集まりこぞって粋人たちに書画が用いられたということです。
また、同時に戒律や、形式にとらわれない人間臭い生き方は多くのとんち話を生み出す元となり、“一休さんのとんち話”が出来上がりました。
“一休さん”として、民衆に再び人気が出てきました。
★
黄龍三關
我手何似佛手。摸得枕頭背後。不覺大笑呵呵。元來通身是手。
我脚何似驢脚。未舉歩時踏著。一任四海橫行。倒跨楊岐三脚。
人人有箇生縁。各各透徹機先。那※折骨還父。五祖豈藉爺縁。
佛手驢脚生縁。非佛非道非禪。莫怪無門關險。結盡衲子深冤。
瑞巖近日有無門。掇向繩床判古今。凡聖路頭倶截斷。幾多蟠蟄起雷音。
[やぶちゃん字注:「※」=「口」+(「托」-「扌」)。]
請無門首座立僧。山偈奉謝。
紹定庚寅季春。無量宗壽書。
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
黄龍(をうりやう)の三關
我が手(しゆ)、佛手(ぶつしゆ)と何-似(いづ)れぞ。枕頭の背後を摸(さぐ)り得たり。覺えず、大笑す、呵呵(かか)。元來、通身、是れ手(しゆ)なり。
我が脚(きやく)、驢脚(ろきやく)と何似れぞ。未だ歩(ほ)を舉(こ)せざる時、踏著(たふぢやく)す。四海に橫行するに一任す。倒(さか)しまに楊岐が三脚に跨(また)がる。
人人、箇の生縁(しやうえん)有り。各各、機先を透徹す。那※(なた)、骨を折(さ)きて父に還す。五祖、豈に爺(や)の縁に藉(よ)らんや。
佛手と驢脚と生縁と。佛にあらず、道に非ず、禪に非ず。怪しむこと莫かれ、無門關の險なることを。衲子(のつす)の深冤(じんゑん)を結盡す。
瑞巖、近日、無門有り。繩床(じやうしやう)に掇向(てつかう)して古今を判ず。凡聖(ぼんしやう)の路頭、倶に截斷(せつだん)す。幾多の蟠蟄(ばんちつ)、雷音を起こす。
[やぶちゃん字注:「※」=「口」+(「托」-「扌」)。]
無門首座(しゆそ)を請じて立僧とす。山偈(さんげ)をもつて謝し奉る。
紹定(じやうてい)庚寅(かのえとら)季春。無量宗壽書す。
*
淵藪野狐禪師訳:
黄龍の三關
私の手は仏の手と比して、どうか?――私は枕の後ろを手探りして分かった。思わずカッカッと大笑いをしてしまった――もともと、体自体が手そのもの。
我の脚(あし)は、驢馬の脚と比して、どうか?――それを見比べるための上げ脚を未だにちっともしていないうちに、最早、ど~んと大地を踏み据えてしまっていた――この世界を股にかけて余すところ無く歩く。そのためには、かえって楊岐禅師の三本脚の驢馬に跨るのが何より。
人にはそれぞれ、生れついての因縁がある。そのそれぞれが、鮮やかな機先の働きへと玄妙に通底している。――那※(なた)太子は、己が肉体の骨を抜き取って元の父に還したというではないか。どうして今更、わざわざ老爺(ラオパン)五祖大満の、生まれ変わりの迂遠な縁(えにし)をわざわざ必要とすることがあるであろうか、いや、全く以って無用である。
黄龍慧南禅師が示した、仏の手と、驢馬の脚と、生れつきの縁(えにし)と――それらは、「仏ではなく」、「道ではなく」、「禅ではない」――咎めてはいけない、『無門関』が険しいことを、いや、その険しさ故に、多くの修行者が、深い恨みを、収縮したブラック・ホールのように、『無門関』の空間に出現させていることを。
私の居るこの瑞巖寺では、最近、無門和尚が来て居る。繩で編んだ説法の腰掛けにどんと座り込んで、真っ向を向くと、今は昔のエピソードを、一つ一つ、商量している。商量とは言うものの、その実、それがたとえ凡であろうが聖であろうが、一刀両断にしてしまうのである――さても……それを聴いて、どれだけのトグロを巻いた有象無象の蛇ぐさどもが、美事、昇龍となって、天空に雷音を轟かすことが出来るか。
[やぶちゃん字注:「※」=「口」+(「托」-「扌」)。]
無門慧開禅師をお招きして会衆に法を説く立僧首座となって頂いた。その御礼にこの如何にも田舎臭い偈(げ)を以って感謝の意を表し、奉りまする。
紹定(じょうてい)庚寅(かのえとら:西暦1230年。)三月 無量宗寿書
[やぶちゃん注:以上は、最後に記されているように、当時の宋の名刹、浙江省丹丘にあった瑞巌寺の僧、臨済宗大慧派無量宗壽(むりょうそうじゅ:生没年未詳)の偈である。ここにしめされた「黄龍の三關」という公案は、北宋の禅者、臨済宗黄龍派始祖黄龍慧南(おうりょうえなん:1002~1069)が常に参禅した会衆に出したものとして有名なものである。「楊岐禅師の三本脚の驢馬」と訳した部分は、北宋の臨済宗楊岐派の始祖(無門もこの派)楊岐方会(993~1046)の公案に基づく。西村注によれば、『僧が楊岐方会(ようぎほうえ)に「如何なるかこれ仏」と問うたのに対し、楊岐が「三脚の驢子、踵を弄して行く」と答えた(『古尊宿語録』楊岐方会章、『卍続蔵』一一八―三九八下)ことから、楊岐の宗風を三脚の驢子と称する。』とある。「五祖大満の、生まれ変わりの迂遠な縁」の「五祖大満」とは禅宗第五祖弘忍大満(602~675)で、西村注によれば『前世に栽松道者という老人であったが、四祖道信の法を聴くためにみずから死んで一女の胎内に入り、この世に生まれて五祖となったという』、ここはその故事に引っ掛けたもの謂いである。「紹定庚寅三月」とあるが、無門慧開が先の後序を書いたのが、紹定改元の1228年の7月であるから、それより1年8箇月後のこととなる。「那※(なた)」[「※」=「口」+(「托」-「扌」)]は道教の神仙の一人。nalakuubaraナラクーバラで、本来はインドの神話の神。後に仏教の主護神として中国に伝えられ、更に道教に取り入れられて那※三太子等とも呼ばれる。中国に於ける毘沙門天信仰が高まると、毘沙門天は唐代初期の武将李靖と同一視され、道教でも托塔李天王の名で崇められる様になった。それに伴い、その第三太子という設定で那※太子も道教に取り入れられた。現在は「西遊記」「封神演義」などの登場人物として人口に膾炙する。分りやすい「西遊記」の出自では托塔天王の第三太子(「封神演義」では陳塘関の、後に托塔天王となる李靖将軍の第三太子)。生後三日で海中の水晶宮で蛟龍の背筋を抜く凄まじい臂力の持ち主であったが、その非道ゆえに父が彼に殺意を抱いたため、自ら身体を切り刻み、その肉を父に、骨を母に返したとする。後、その魂はその行為に感じた仏性により再生し、父とも釈迦如来の慈悲により和解したという設定で、例の天界で大暴れする孫悟空の討伐に出陣するが敗れる。後半の三蔵法師取経の旅にあっては、悟空の仲間・取経の守護神に一変、何度か見舞われる危機を救う好漢として登場する。]
☆
5
無門関第五則・香嚴上樹
香嚴和尚云、如人上樹、口[銜]樹枝、手不攀枝、脚不踏樹。樹下有人問西來意、不對即違他所問、若對又喪身失命。
正恁麼時、作麼生對。
無門曰、縱有懸河之辨、總用不著。説得一大藏教、亦用不著。若向者裏對得著、活卻從前死路頭、死卻從前活路頭。
其或未然、直待當來問彌勒。
頌曰
香嚴真杜撰 惡毒無盡限
唖卻衲僧口 通身迸鬼眼
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五 香厳上樹
香厳和尚云ク、人ノ樹ニ上ルガ如シ。口ニ樹枝ヲ[銜](フク)ミ、手ニ枝ヲ攀(ヨ)ジズ。脚樹ヲ踏マズ。樹下ニ人アッテ西来ノ意ヲ問フ。対ヘズンバ即チ他ノ所問ニ違(ソム)ク、若シ対フレバ喪身失命セン。正恁麼(ショウインモ)ノ時、作麼生(ソモサン)カ対ヘン。
無門日ク、縦(タト)イ懸河ノ弁有ルモ、總ニ用不著(ジャク)、一大蔵教ヲ説キ得ルモ、亦用不著。若シ者裏ニ向ッテ対得著セバ、従前ノ死路頭ヲ活却シ、従前ノ活路頭ヲ死却セン。其レ或イハ然ラザレバ、直キニ当来ヲ待ッテ弥勒ニ問ヘ。
頌ニ日く、
香厳ハ真ニ杜撰(ズサン)、悪者尽限無シ、
衲僧ノ口ヲ唖却シテ、通身ニ鬼眼ヲ迸(ホトバ)ラシム。
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五 香厳と木のぼり
香厳さまがいうには、「人が木にのぼり、枝をくわえて、手ではつかまれず、足もかけられぬ。下から人が、禅の意味をきく。答えないでは相手にすまぬし、答えたらこっちのいのちがなくなる。こういう場合に、どう応対する。
無門がいう---いくら口が達者でも、役にはたたぬ、お経をまくしたてても、これまた無用。もしこのところで答えられたら、死んでいたのも生かされ、生きていたのが死なされる。それができねば、気ながに待ってミロクにきけ。
歌に---
香厳こそ狂言、
めいわくな世間。
坊ずも舌をまき、
目をむきハテけげん。
---解説---
口で木をくわえているところに'西来ノ意'とは何かと質問され、答えれば落ちてしまうし、答えなければ、質問の要求に答えられないし、どうしようもない絶対絶命のところですが、答えて死ぬよりましなので、なにも答えないでいるのが正解なのでしょうか。
しかしこの答えは、葛藤集の第百七十六即「香厳撃竹」のところで述べている、偽山の「汝の父母未生以前の本来の面目」を言えという質問に、香厳がその答えの教示を求めたところ、「吾、汝にかわりて謂わんこと難しからず。されどは後に汝、吾を恨みん。吾説を謂わば、これ吾が見解、汝が眼目について又何の益あらんや」と、香厳に対して突き放して言ったこの言葉につきていると思います。
偽山はこのとき、自分はその答えを言うことはできるが、それは自分の見解にすぎないから、そのことを今伝えるのは少しも君のためにならないと言います。そして、香厳は何年か後に悟った時に、偽山が自分が質問した時に何も教えてくれなかったことに深く感謝しています。
'西来ノ意'を問うということは、禅の祖師である達摩さんが何を意図して、インドからはるばる海路で中国までやって来たのかという質問です。第三十七則「庭前柏樹」では全くこれと同じ質問によって公案を構成しています。
この公案は達摩さんが伝えようとした禅の真髄とは何かと聞いているのと同じなので、偽山が香厳に問うた「汝の父母未生以前の本来の面目」の答えと同じになります。
さんざん考えた結果、香厳が「どうか教えてください」と教えを請うたとというのは、この問題の'西来ノ意'を聞いたのと同じことになりますが、偽山は弟子の質問に答えませんでした。いくら'西来ノ意'を聞かれても、答えるわけにはいかないのです。聞く方が悪いのですが、聞かれてもどうしようもないことなのです。
無門もその通りのことを言っているようです。 '其レ或イハ然ラザレバ、直キニ当来ヲ待ッテ弥勒ニ問ヘ。'とは、もし自力でこの答えが得られないなら、釈迦が滅したあと民衆を救うために登場するはずの弥勒の救いを待つのが良いということのようです。
夏目漱石は、朝日新聞が『三四郎』についで、『それから』の再連載していた のが、ちょうど終わったところだ。 毎日、楽しみにして、引き込まれるよう に読んだ。 『それから』は、60年近く前の高校生の時に読んでいたのだが、 何にも憶えていなかった。 そうか、こんな話だったのか、わからなかったわ けだと思う。 「愛」に生きるために、友人と夫を裏切り、高等遊民生活の糧 を断った代助と三千代は、『それから』どうなるのだろうか。 朝日新聞は続い て『門』を連載する。 『門』は、友人から妻を奪ったために、山の手の奥の 崖下の借家に、ひっそりと暮らす宗助夫妻の物語だ。 明治43(1910)年3 月1日から6月12日まで『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に104回にわ たって連載された。 その『門』こそ、「父母未生以前本来面目」の出て来る小 説なのである。
夏目漱石は、『門』執筆の16年前、明治27(1894)年数え28歳の時、釈宗 演に参禅した。 荒正人著『漱石研究年表』(集英社)には、「明治27年から 28年にかけて、神経衰弱の症状著しい。幻想や妄想に襲われる」とある。 「12 月23日(日)夜、または24日(月)朝から翌年1月7日(月)まで、菅虎雄 の紹介で、鎌倉の円覚寺に釈宗活を訪ね、塔頭帰源院の正統院に入り、釈宗活 の手引で、釈宗演の提撕(ていせい)を受ける。元良勇次郎も共に坐禅をする。 「父母未生以前本来の面目」という公案をもらう。(島崎藤村も前年9月初旬 の2週間ほど泊り、釈宗演の下で坐禅を組んだと推定される。(瀬沼茂樹))」
松岡ひでたかさんの論考に、後年、島崎藤村は明治38(1905)年の小諸義塾 時代から『破戒』の自費出版や生活費など、雨村、神津猛の援助を受け、交遊 が続いたとある。 さらに藤村が明治44年に神津猛の案内で、円覚寺に宗演 を訪ねたという、猛夫人てう宛の手紙があるそうだが、上の瀬沼推定が正しい とすると、藤村は宗演を以前から知っていたことになる。
松岡ひでたかさんは、虚子が宗演の下に参禅、入室(「禅宗で、弟子が師の室 に入って親しく教えを受けること。開室。」『広辞苑』)してからの様子を、虚子 は語っていないけれど、参考になる資料があるとして、漱石の『門』の一場面 を引用している。
「「まあ何から入つても同じであるが」と老師は宗助に向つて云つた。「父母 未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考へて見たら善からう」/宗助には 父母未生以前といふ意味がよく分からなかつたが、何しろ自分と云ふものは必 竟何物だか、其本体を捕まへて見ろと云ふ意味だらうと判断した。それ以上口 を利くには、余り禅といふものゝ知識に乏しかつたので、黙つて又宜道に伴(つ) れられて一窓庵へ帰つて来た。」
やがて、入室に誘われて老師の前に座した。「此静かな判然しない燈火の力で、 宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道の所謂老師なるものを認めた。彼の顔 は例によつて鋳物の様に動かなかった。色は銅であつた。彼は全身に渋に似た 茶に似た色の法衣を纏つてゐた。足も手も見えなかつた。たゞ頸から上が見え た。其頸から上が、厳粛と緊張の極度に安んじて、何時迄経つても変る恐を有 せざる如くに人を魅した。」
そうして、宗助は、公案に対する自身の解答を提示した。「此面前に気力なく 坐った宗助の、口にした言葉は、たゞ一句で尽きた。/「もつと、ぎろりとし た所を持つて来なければ駄目だ」と忽ち云はれた。「其位な事は少し学問をした ものなら誰でも云へる」宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音 が激しく響いた。」
参照:
一撃忘所知 (一撃、所知を忘ず) 〈景徳伝燈録・一一〉
父母未生時本來真面目 @ 無記心語 :: 痞客邦 PIXNET ::
香嚴智閑禪師 開悟偈
一擊忘所知,更不假修持。
動容揚古路,不墮悄然機。
處處無蹤迹,聲色外威儀。
諸方達道者,咸言上上機。
鄧州香嚴智閑禪師,青州人也。厭俗辭親,觀方慕道。在百丈時性識聰敏,參禪不得。洎丈遷化,遂參潙山。
山問:“我聞汝在百丈先師處,問一答十,問十答百。此是汝聰明靈利,意解識想,生死根本。父母未生時,試道一句看。”
師被一問,直得茫然。歸寮將平日看過底文字從頭要尋一句酬對,竟不能得,乃自歎曰:“畫餅不可充饑。”
屢乞潙山說破,山曰:“我若說似汝,汝已後罵我去。我說底是我底,終不幹汝事。”
師遂將平昔所看文字燒卻。曰:“此生不學佛法也,且作個長行粥飯僧,免役心神。”
乃泣辭潙山,直過南陽睹忠國師遺迹,遂憩止焉。
一日,芟除草木,偶抛瓦礫,擊竹作聲,忽然省悟。
遽歸沐浴焚香,遙禮潙山。贊曰:“和尚大慈,恩逾父母。當時若爲我說破,何有今日之事?”
乃有頌曰:
一擊忘所知,更不假修持。
動容揚古路,不墮悄然機。
處處無蹤迹,聲色外威儀。
諸方達道者,咸言上上機。
潙山聞得,謂仰山曰:“此子徹也。”
仰曰:“此是心機意識,著述得成。待某甲親自勘過。”
仰後見師,曰:“和尚讚歎師弟發明大事,你試說看。”
師舉前頌,仰曰:“此是夙習記持而成,若有正悟,別更說看。”
師又成頌曰:“去年貧未是貧,今年貧始是貧。去年貧,猶有卓錐之地,今年貧,錐也無。”
仰曰:“如來禪許師弟會,祖師禪未夢見在。”
師複有頌曰:“我有一機,瞬目視伊。若人不會,別喚沙彌。”
仰乃報潙山,曰:“且喜閑師弟會祖師禪也。”
﹝玄覺雲:“且道如來禪與祖師禪分不分?”長慶棱雲:“一時坐卻。”﹞
釋義:
香嚴智閑是百丈懷海的弟子,百丈死後,香嚴到大師兄溈山靈佑處學禪。溈山對他說:「聽說你在百丈先師處問一答十,問十答百,這是你的聰明的地方。但是光憑這些,必會產生理智和概念的把握,這是沒有多大用處的。現在我且問你,父母未生前你的本來面目是怎樣的?」
香嚴百思不知所答,回到房裡,翻遍了所有的參考書和先師的語錄筆記,仍找不到答案。
他只好再到溈山那裡,請他點破。但溈山只是說:「我實在無可奉告。如果有什麼東西可以教給你的話,那是我的東西而不是你的東西。」
香嚴很是失望,覺得大師兄有意在隱瞞自己。傷心之下,香嚴一把火把自己身邊所有的文字都燒掉,並且打算過一種依照佛徒戒行的簡單生活,不再為禪道的事傷腦筋。他頹喪地說:「既然佛法這樣難於領會,而又不能向別人請教,學佛法有什麼用呢?今後我要做一個行腳僧,免得勞形損神。」
於是他辭別溈山,雲遊天下。路過南陽國師慧忠禪師的墓時,就築廬定居了下來。有一天,在他除草掃地的時候,偶然拋出一塊瓦礫,擊中了竹子。清脆的一聲,使得香嚴頓然大悟!
當香嚴聽到無心的清脆的擊竹聲時,他突然感到在這瞬間超越了一切時空、因果,跨過了物我的界限,與對象凝為一體,和聲音合而為一,一下子走入了存在深處,融進了宇宙的萬有,他當時就是聲音,就是翠竹,就是萬事萬物,就是真正的本體自身了,也就是父母未生前的本來面目!
汗如雨下的香嚴登時向溈山所在地方跪下禮拜:「師父,你對我恩逾父母。如果你當時為我說破,又哪有今天的頓悟呢?」
於是他作了一首偈子來表達他的悟境:
「一擊忘所知,更不假修持。動容揚古路,不墜悄然機。處處無蹤跡,聲色外威儀。諸方達道者,咸言上上機!」
「一擊忘所知」——香嚴一旦大悟之後,他從前所學的一切佛學知識,就對他沒有什麼重要性可言了。待你一旦達到悟境之後,你就沒有必要死死記住它們而將它們忘去了。
「更不假修持」——大凡剛剛開始習禪的人,都以為他們必須改變他們的平常心態。他們認為他們不是要進入某種出神或恍惚的狀態,就是要經過佛經裡面時常描寫的各種禪定階段。其實,我們每個人的習性,是不需要也是不可能改變的。
「動容揚古路,不墜悄然機!」——自古以來,不少的人抱持這樣一種觀點:大悟的境界必須進入山洞,閉起眼睛坐在那裡冬眠,想像進入「空」的境界。而香嚴卻以活潑的動作顯示了古教的真義。尤其可貴的是,儘管他已進入真空的悟境,並且還以那裡作為他的住處,但他卻沒有採取一種消極否定的態度。
「處處無蹤跡,聲色外威儀」——在真空的境界之中,是沒有一法可以稱為動的。你既沒有待在某一個處所,更沒有待在任何一個地方。儘管你每天從早活動到晚,成天說話,揚眉瞬目,行住坐臥,但實際上什麼也沒有發生。
「諸方達諸者,咸言上上機!」——這兩句充滿了對自己悟境的自信和驕傲。香嚴果然得到了溈山的印可說:「此子徹也!」
香嚴鑒於他擊竹悟道的經歷,開堂後對大眾說:「如果說起明心見性一事,就像有一個人爬到樹上,用嘴咬著樹枝。這時有人問他說:『請問什麼是佛法最精的大意?』這時他如果不回答,便是無視了問者之意;但他如果回答,便會摔死。你們說,這個人怎樣才能從困境中擺脫出來?」
當時有一位招上座應聲而答:「我不問他在樹上怎麼辦,我問,他沒上樹之前是怎麼樣?」
香嚴呵呵大笑,予以印可。
後來,宋代無門慧開禪師評論說:
縱有懸河之辯,總用不著;說得一大藏數,亦用不著。若向者(這)裡對得著,活卻從前死路頭,死卻從前活路頭。
香嚴上樹,說也不是,不說也不是,言默兩喪,反映了禪宗注重內心驗證的悟境。「未上樹時」即溈山所問「父母未生時」,亦即香嚴當時「一擊忘所知」的超悟境界。在這種境界裡,已經不存在作為「生死根本」的「意解識想」了,他從前所學的一切佛學知識,對他已純屬多餘,正如乘船過河,一旦到達彼岸,那隻船對你就沒有用處了,這就是「死卻從前活路頭」。同時禪宗認為,一切眾生都有佛性,只是被妄想所遮蔽了,成為「死路頭」。而參禪的目的,就是要撥開妄念的浮雲以見慧日,使埋藏在煩惱之下的純真人性得以重現,這就是「活卻從前死路頭。」
僧問香嚴:「如何是道?」
香嚴說:「枯木裡龍吟。」
僧又問:「如何是道中人?」
香嚴說:「骷髏裡眼睛。」
在妄想息滅之後,佛性就能顯示其活潑潑的妙用了。
(作者:無名.台灣.2004年)
瞬目視伊(釋義)
仰山禪師帶著試探的語氣問智閑禪師道:「師弟!你最近參禪的心得如何?」
香嚴智閑就用偈語回答道:
「去年貧,未是貧;今年貧,始是貧;去年貧,猶有立錐之地,今年貧,立錐之地也無。」
仰山聽了說:「師弟!我承認你深契如來禪,至於祖師禪,你還沒有入門呢!」
於是,香嚴又作了一首偈語道:
「我有一機,瞬目視伊;若人不會,別喚沙彌。」
聽了這首偈語後,仰山非常高興,便去報告老師溈山禪師道:
「真令人興奮,師弟已悟入祖師禪了。」
智閑禪師和仰山禪師同為百丈禪師的弟子。唐代,自六祖惠能以後,禪宗起了很大的變化。先是有馬祖道一禪師創建叢林,接待十方禪者,倡導集體修行;繼有百丈懷海禪師設立清規,以新的立法安住大眾。門人弟子互相發揚,排除知解的分別,主張不立文字,探究心源,提倡即心即佛,以平常心為道,棒喝的機用,接化的簡速,遂成為中國祖師禪的特質,而印度靜態的如來禪,經過中國禪師的闡揚,更加活躍而成為動態的祖師禪了。
智閑禪師的偈語,「貧無立錐之地」,這就是不著一物的如來禪,即至說到「瞬目視伊」,這就是活潑的揚眉瞬目無非是禪的祖師禪了。
創作者介紹
syuanyin
無記心語
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不思善不思悪 (善をも思わず悪をも思わず)
二十三則には、明上座と六祖の問答(「不思善、不思悪」)。以下、文章は短く変更してあります。
「悟りの内容を私に打ち明けてもらえまいか」 (明上座)
すると、「善をも思わず悪をも思わず(不思善、不思悪)、
そのようなとき、あなたの本来の自己とは、どのようなものですか?」 (六祖)
と逆に問いかけました。 明上座は、それを聴いて、悟りました。
w01.tp1.jp/~a920031141/sp/zen.html
ネット会報平成23年1月号 2月3月合併号 4月号 5月号 6月号 10月号 11月号 12月 号 平成24年1 ... 第九章 「無位の真人」と「父母未生以前の本来の面目」 第十章 終り ..... その時の消息はホームページに書いた書評「山本玄峰『無門関提唱』ほか禅関係の 書籍」から引用する。 ...... この公案は『無門関』の第二十三則「不思善悪」から派生して 生まれたもので、夏目漱石の『門』の主人公がこの公案で挫折することでも知られている 。
☆☆☆
株価小学館の日本国語大辞典によると、「投機」は・・・
1.仏語。禅宗で、修行者が仏祖の教えの要諦にかなって大悟すること。また学人(がくにん)の機と師家(しけ)の機とが一致すること。
2.機会をうまくとらえること。
3.偶然の利益・幸運をねらう行為。やま。「投機心(熟)」
4.市価の変動によって生じる差額を利益として得るために行う商取引。相場。「投機市場」
「投機」という言葉の変遷がよくわかる記述だが、禅の教えである「投機」を「相場」に応用した先人こそ、江戸時代の出羽国(山形県)の酒田(西廻り航路の港として繁栄していた)の天才相場師の本間宗久のようだ・・・酒田の本間家を豪商に導いたのは、宗久の投機の成功によるものだが、宗家から相場の危険故に追放された後、江戸の米相場で失敗し全財産を失う。
ここで宗久は故郷に戻り、禅寺で「非風非幡(幡=旗がはためくのは風が吹くからか?)」という公案(禅問答)に取り組んだ挙句、相場必勝法「三位(さんみ)の法」を編み出し、以後「百戦百勝」する・・・「ローソク足」の株価チャートも、「酒田五法」と言われる相場必勝の秘伝も、宗久が基盤を築いた故、酒田から発祥したのであり、「執着心をさらりと捨てて、平常心で事をなす」という禅の「無の境地」が相場への投機でも、根本の心得となるのである。
「武士は食わねど高楊子」というように、「穢銭思想(お金はキタナい)」という儒教と言霊信仰が結びついたせいで、日本人にとって投機や先物取引は「悪」であるとの思いが強い・・・先物取引は、現物取引では採算割れする可能性がある商品を、先だって取引することで、わずかな頭金だけで相場が上がっても下がっても、利益を出しうる価格で入手できるというメリットがあり、単なるギャンブラーを除けば、経済として必要な制度なのである。
「相場」という「泥沼」から、見事な「蓮華=ハス」の花が咲く・・・江戸時代の商人道は、本場シカゴに百年以上先だって、大阪の堂島にデリバティブの先物相場を形成したのである。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/一休宗純
http://kun.veritas.jp/rinzin-59.htm
そんな中途半端な見方ですが私流にはこんな解釈が成り立ちます。
そこで、雲門禅師は洞山に尋ねます。「お前はどこにいたのか」。
洞山は答えます。「査渡(さど)におりました」。
雲門禅師は洞山に再び尋ねます。「この夏は何処で修行したのか」。洞山は答えます。「湖南の報恩寺です」。
雲門禅師は三度洞山に尋ねます。「いつ、そこを発ってきたのか」
洞山は答えます。「8月25日です」
雲門禅師が言います。「お前に三頓(60)の棒叩きを与える」
翌日、洞山は再びやってきて、師に問います。
「昨日、三頓(60)の棒叩きに遭いましたが何か過ちがあったのでしょうか。私にはわかりません」
雲門禅師が叫びます。「この穀つぶしめが。江西湖南をそのようにうろつきまわっていたのか。」
ここにおいて洞山は大悟(悟りきること)した。』
これが公案である。お前は、何と答える。と質問され、坐禅をし、時には何年も考え続けるのです。
宗純さんの答えは次の言葉でした。
無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
雨ふらば降れ 風ふかば吹け】
というのが本当のところでしょう。
解釈はいろいろあり、どれも正しいように思えるかもしれません。
どれも、一休宗純さんの真理には、ほど遠いのかもしれません。
しかし、なんとなくこの言葉に惹かれ、どうしても一休宗純さんに近づきたいと考えてしまいます。
そこで、自分流の解釈をすることになります。
こんな、勝手な解釈ができました。
有漏路(うろじ)というのは、迷い(煩悩)の世界のことです。
これにたいし無漏路(むろじ)というのは、悟り(仏)の世界のことです。
「この夏は何処で修行したのか」;有漏路(うろじ)と無漏路(むろじ)の途中です。
「いつ、そこを発ってきたのか」;有漏路(うろじ)をでるときです。
公案(課題);《人間とは何者か、お前は答えてみよ。》という師の質問が出されたと宗純は考えました。
宗純の回答;《人間とは、悟り(仏)の世界に帰るほんの短い間、迷い(煩悩)の世界であるこの世にいる、仮の存在である。すべては空である》、と答えた。