火曜日, 7月 18, 2017

機会費用:フリードリヒ・フォン・ヴィーザー(Friedrich von Wieser)1914


              (経済学リンク::::::::::

機会費用:フリードリヒ・フォン・ヴィーザー(Friedrich von Wieser)1914

http://nam-students.blogspot.jp/2017/07/friedrich-von-wieser.html


"If among a nation of hunters, for example, it usually costs twice the labour to kill a beaver which it does to kill a deer, one beaver should naturally exchange for or be worth two deer. It is natural that what is usually the produce of two days or two hours labour, should be worth double of what is usually the produce of one day's or one hour's labour." 

(A. Smith , 1776: p.65).

1:6

もし、たとえば狩猟者の国民のなかで、海狸一頭をころすのに、一頭の鹿をころす労働の二倍が、通常かかるとすると、とうぜん、一頭の海狸は二頭の鹿と交換される、すなわちそれだけのねうちがあることになるであろう。通常二日または二時間の労働の生産物であるものが、通常一日または一時間の労働の生産物であるものの、二倍のねうちをもつのはとうぜんである。


"The phenomena of [alternative] costs are, therefore, a new proof of how greatly the objective conditions of the existence of goods influence the value of goods. How far the value of goods, in its final form of "cost value", is from being the mirror of that subjective fact from which it is derived -- the value of wants! The circumstance that cognate products are produced by different quantities of the same productive elements, brings their subjective valuations into a ratio, the terms of which are derived entirely from the objective conditions of production; while the impulses which call for their emergence...remain subjective, and thus prove the subjectivity of the source and nature of value."

(F. von Wieser, 1889: p.185)自然価値論



機会費用(きかいひよう、opportunity cost)とは、時間の使用・消費の有益性・効率性にまつわる経済学上の概念であり、複数ある選択肢の内、同一期間中に最大利益を生む選択肢とそれ以外の選択肢との利益の差のこと。最大利益を生む選択肢以外を選択する場合、その本来あり得た利益差の分を取り損ねていることになるので、その潜在的な損失分を他の選択肢を選ぶ上での費用(cost)と表現している。

似た概念として、機会損失(opportunity loss)があるが、機会費用(opportunity cost)が「ある選択を実行する」(ことで他の選択が実行できなかった)ことで生じる・生じた架空の費用(cost)・損失(loss)を表現する積極的概念なのに対して、機会損失(opprtunity loss)は単に(ある行為を)「実行できなかった・実行し損ねた(やり損ねた)」ことで生じる・生じた架空の損失(loss)を表現する消極的概念であり、ややニュアンスが異なる。法学における類似概念として、逸失利益があるが、こちらも機会費用(opportunity cost)よりは機会損失(opprtunity loss)に近い概念である。

概要編集

機会費用は、希少性(使いたい量に対して使える量が少ないこと)によって迫られる選択に際して生じる。「そのことをすると、他のことがどれだけ犠牲になるか」計算するものを機会費用(機会コストとも言い)と呼ぶ。つまり、一つのことをすると、もう一つのことするチャンスがなくなることである。機会費用の概念の応用としては、比較優位があり、相手より少ない機会費用を有することを意味する。この比較優位を有する財の生産に特化すること(分業)で、全体的なアウトプットを増大させることができる。

経済学上の費用編集

例えば、大学進学の機会費用とは、進学せずに就学期間中働いていたら得られたと考えられる利益である。大学進学の場合、会計上あらわれる費用は、大学進学のための学費などで、就学期間中働いていたら得られたと考えられる利益は会計学上は費用には入らない。しかし、経済学上の費用とは、会計学上の費用に機会費用を足したものとなる。通常、経済学において、合理的な行動とは会計学上の費用ではなく、経済学上の費用にもとづいたものと考えられている。

時間に対する機会費用がゼロでない限り、なにかしらの費用が発生する[1]。時間の機会費用が高い人は、割引のために列に並んだりはしない[2]。時間当たりの機会費用が小さい人は、通常価格では買わないことが多い[3]

ベンジャミン・フランクリンは、「時間は貨幣」すなわち「時は金なり」という格言で、経済学のいう機会費用の考え方を表現している[4]

たとえば、100万円儲かったとき、別のやり方なら150万円儲かったというとき、50万円が機会費用だ。

その他の実例編集

例えば、ネットワーク商法などで会員をあつめる場合、「サイドビジネスで月に何万円収入が増えるから、儲かります」という売り文句がつかわれる。しかしサイドビジネスにおいて、会計学上の収支として「儲け」がでたとしても、機会費用を考慮した経済学上の費用においても「儲け」がでるかどうかは別の問題である。

もし、経済学上の費用においては、サイドビジネスに時間がとられるのなら、その間の労働の機会費用を考慮にいれなければならない。もし、時給計算で就業可能な別のアルバイトよりも、サイドビジネスがおとっているとすれば、サイドビジネスによる収入増加は労働による機会費用をかならず下回る。

また、本業のほうで、疲労した後、時間をさくのだから、余暇は希少になり、余暇の価値はサイドビジネスをしない場合より大きくなるだろう。もし、この犠牲となる余暇の価値をこえる収入がサイドビジネスによってもたらされないのならば、サイドビジネスは経済学上の収支としては損である。

この場合、個人の選択として合理的なのは、セールストークの会計学上の費用にもとづいて行動することではなく、経済学上の費用にもとづいて行動することである。このことは、合理的な選択にあたっては機会費用を考慮に入れる必要があることを示している。

脚注編集

  1. ^ ロバート・H・フランク 『日常の疑問を経済学で考える』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、113頁。
  2. ^ ロバート・H・フランク 『日常の疑問を経済学で考える』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、137頁。
  3. ^ ロバート・H・フランク 『日常の疑問を経済学で考える』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、318頁。
  4. ^ 日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、120頁。

関連項目編集


The term was coined in 1914 by Austrian economist Friedrich von Wieser in his book Theorie der gesellschaftlichen Wirtschaft.[4] The idea had been anticipated by previous writers including Benjamin Franklin and Frédéric Bastiat. Franklin coined the phrase "Time is Money", and spelt out the associated opportunity cost reasoning in his “Advice to a Young Tradesman” (1746): “Remember that Time is Money. He that can earn Ten Shillings a Day by his Labour, and goes abroad, or sits idle one half of that Day, tho’ he spends but Sixpence during his Diversion or Idleness, ought not to reckon That the only Expence; he has really spent or rather thrown away Five Shillings besides.”

Bastiat's 1848 essay "What Is Seen and What Is Not Seen" used opportunity cost reasoning in his critique of the broken window fallacy, and of what he saw as spurious arguments for public expenditure.


フリードリヒ・フォン・ヴィーザー - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%

フリードリヒ・フォン・ヴィーザー - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒ・フォン・ヴィーザー

略歴編集

業績編集

主要貢献編集

Naturliche Werth, 1889
  • ヴィーザーの2つの主要な貢献は、生産要素の価格は生産物価格により決定される、と主張する「転嫁」の理論、および、価値理論の基礎---新古典主義理論における主観主義者の柱としての「機会費用」理論である。
  • これらの考えを発展させる中で、ヴィーザーは限界効用(彼の造語である)の原理に基づく欠乏と資源配分---固定量の資源と限りない欲求---に関する研究へと、新古典主義経済学を確固として方向付けた、との名誉を与えてよいだろう。ヴィーザーの転嫁の理論は、その単純な原理がどこへでも適用されることを可能にした。費用を生産財の先行使用に換算して分析する、というヴィーザーの代替費用(まだ機会費用としては理解されていない)の理論は、アルフレッド・マーシャルの「実質費用」との間で、間もなく矛盾を生ずることになった。 
  • ヴィーザーは、代替費用の学説と転嫁の理論を注意深く詳述した『自然価値論』"Der natürliche Wert"、1889年)と、それらを現実の世界に適用しようとする意欲的な試みである『社会経済論』"Teorie der gesellschaftlichen Wirtschaft"、1914年)との2つの主著で有名である。

経済計算論争編集

  • 経済計算論争は、経済効率についての厳密な計算を最高に重要とする彼の考えから始まった。価格は、とりわけ市場条件に関する情報を表現し、それゆえいかなる種類の経済活動に対しても必要である。社会主義経済はそれゆえ、稼動する為には価格機構を必要とするであろう。

企業家の重要性編集

  • 彼はまた、経済変化に対する企業家の重要性を強調した。彼によれば、それは「新しい経済の岸への案内人として現れる個々の企業家の英雄的介入」としてもたらされる。この案内人の考えは、後にヨゼフ・シュンペーターによって、経済革新の取り扱いの中で取り上げられた。

自由主義の拒絶編集

  • ほとんどすべてのオーストリア学派の経済学者と異なり、彼は「自由は秩序の体系に取って代わられなければならない。」と書いて、古典的自由主義を拒絶した。

フリードリッヒ・フォン・ヴィーゼル (Friedrich von Wieser)

http://cruel.org/econthought/profiles/wieser.html

フリードリッヒ・フォン・ヴィーゼル (Friedrich von Wieser), 1851-1926.

原ページ
 
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Photo of F.v.Wieser

 1851年ウィーンに生まれ、当初は社会学を学んだが、カール・メンガーの初期の オーストリア学派で、主導的な役割を果たす。同じく活躍したオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクは、同僚で幼なじみで義兄弟だ。

 ヴィーゼルとベーム=バヴェルクはウィーンで、1890 年代末から 1900 年代初頭にかけて、次世代のオーストリア学派を育てた。その中には L.フォン・ミーゼス, F.A. ハイエク、J.A. シュムペーターもいる。ヴィーゼルはウィーンとプラハの大学で教授を務めたが、1903 年にメンガーの後継者としてウィーンに招聘された。クールで超然とした雰囲気で生涯知られていたヴィーゼルだが、1917 年にはオーストリアの政治に参加することになる。

 ヴィーゼルの主要な業績の一つは「転嫁」の理論だ。これは要素価格が産出価格で決まる(これは古典派の考え方とは逆だ) 。もう一つは「代替費用」または「機会費用」を価値理論の基盤に据える考え方だ——これは新古典派理論における根本的な「主観主義」の柱だが、マーシャルら「実質費用」イギリス理論家たちには実質的に無視されてきたものだ。こうしたアイデアを発展させるにあたり、ヴィーゼルは新古典派経済学を、希少性と資源配分——資源は固定量しかなく、欲求は無限にある——にしっかり向け、そのすべてを限界効用原理で検討させた点で評価できる。当初はメンガーがこれをやろうとしたが、生産や要素にきちんと展開できなかった。ヴィーゼルの転嫁理論は、この一つの原理をあらゆるところに適用できるようにした。ヴィーゼルの代替費用理論とマーシャルの「実質費用」理論はすぐに対決モードに入った——ウィックスティードエッジワースもこの論争の一バージョンで丁々発止と渡り合ったし、後にはロビンスナイトヴァイナーも争った。だが今日では、これは折り合いが(おおむね)ついているといえる。これは現代の線形プログラミングと一般均衡理論からくる洞察によるところが大きい。

 ヴィーゼルは主要著書二冊で有名だ。『自然価値』 (1889) は代替費用ドクトリンと転嫁の理論を詳述したもので、『社会経済学』 (1914) はそれを現実世界に適用しようとする野心的な試みだ。

フリードリッヒ・フォン・ヴィーゼルの主要著作

  • Über den Ursprung und die Hauptgesetze des Wirthschaftlichen Werthes, 1884.
  • "The Austrian School and the Theory of Value", 1891, EJ
  • "The Theory of Value", 1892, Annals of the American Academy of Political and Social Science
  • "Resumption of specie payments in Austria-Hungry", 1893, JPE.
  • Natural Value, 1889.
  • "The Austrian School of Economics", 1894, in Palgrave, editor, Dictionary of political economy
  • "Böhm-Bawerk", 1894, in Palgrave, editor, Dictionary of political economy
  • "Das wesen und der Hauptinhalt der theoretischen Nationalökonomie", 1911, Jahrbuch für Gesetzgebung VDR
  • Social Economics, 1914.
  • Das Gesetz der Macht, 1926.
  • "Geld", 1927, in Handworterbutch der Staats Wissenschaften
  • Gesammelte adhanlungen, 1929.

フリードリッヒ・フォン・ヴィーゼルに関するリソース



西洋経済古書収集ーヴィーザー,『経済的価値の本質と主要法則』および『自然価値論』

http://www.eonet.ne.jp/~bookman/gennkaisyugi/wieser.htm

WIESER, von F. , Über den Ursprung und die Hauptgesetze des wirthschaftlichen Werthes. , Wien, Alfread Hölder, 1884, pp.xiv+214, 8vo.
              , Der Natürliche Werth. , Wien, Alfread Hölder, 1889, pp.xvi+239, 8vo.

 ヴィーザー『経済的価値の本源と主要法則』(以下『本源と主要法則』と略)1884年および『自然価値論』1889年、共に初版。著者三大著作のうちの二つである。

 著者略歴:Wieser, F. F. von (1851-1926) 。ウィーンにおいて、代々のハプスブルグ帝国の官吏の家系に生まれる。父親は、軍の兵站官吏であり、イタリア戦争の功により貴族(後準男爵)に列せられる。会計院の副院長を務め、枢密顧問官の称号も得た人物である。地元の名門ギムナジュウムを経て、17歳でウィーン大学に入学、当然官吏(あるいは父親の望む代議士、弁護士としても)の途として、法学部(当時経済学も包含)で法律を学ぶ。学生時代は、ローレンツ・フォン・シュタイン(伊藤博文に憲法を講義したあの人物である)の経済学の講義には興味を示さず、若い頃からの歴史への関心を持続しスペンサーの社会学やトルストイの小説に感銘を受けた。卒業の年(1872)に大学の私講師であったメンガーの『国民経済学原理』を知り、友人であり後義弟となるベーム=バヴェルクとともに、経済学研究を志す。 
 10年以上、下オーストリア州財政局に勤務しながら研究を続ける。この間、1875-77年に二度にわたり、奨学金を得て、ハイデルベルグ、ライプチッヒ、イエナの各大学で、クニース、ロッシャー、ヒルデブラントの下で学ぶ。クニースのゼミでは。「価値に対する費用の関係について」の報告を行う。後の処女作『本源と主要法則』の元となる習作論文であるが、これを見せられたメンガーは何等興味を示さず、ヴィーザーは官吏の職に戻った。1883年『本源と主要法則』(の原稿)によって、ウィーン大学の講師となり、翌年メンガーの推薦によりプラハ大学の助教授となった。 
 プラハ時代の最初の5年間は、価値論研究を継続し前著の改善に努めた。こうして、完成したのが『自然価値論』(1889)である。大学の正教授就任を直接の執筆動機としていたものであるが、「構成においても文体においても際立った経済理論書で、…その問題についての古典的著作の一つとして永久にのこるであろう」(ハイエク、2009、p.222)。この後は、1890年代の経済政策と財政の研究という実際的なものを別として、経済理論研究については雌伏の時代が続いた。1903年にメンガーの後継者としてウィーン大学教授となって、新たな分野である貨幣論の研究を進めることになる。しかし他方、彼はこれまでの著作は、歴史的社会学的研究の準備だと考えるようになり、勢力(Macht)概念を中心として、社会学的問題を研究対象にした。そして、経済理論の研究に再度集中する。マックス・ヴェーバーの勧めで書いた彼の三大著作の一つ『社会経済の理論』(1914)は、経済理論と社会学的研究の統合を試みたものである。第一次世界大戦時は商務大臣となり、研究は中断されたが、1919年ウィーン大学に復帰する。学会を引退後、最後の著書『勢力の法則』(1926)の出版直後に死亡。
  ヴィーザーがメンガーから講座を引き継いだ後に、ベーム=バヴェルクも官界からウィーン大学教授に復帰した(1904)。しかし、ベームはクラーク・フィッシャー等との激しい論争に終始し、晩年は、必ずしも創造的なものを生み出せぬままに没した(1914)。こうした状況の中、「1903年から1922年にいたるまでヴィーン大学で経済学の講義を担当した彼は「オーストリア学派の中心」の位置を占め続けていたのである」(八木、1988、p.97)。シュンペーターによると期せずして、複数の人間が彼をゲーテになぞらえたというが、それは「文化や芸術すべての分野を包含する広範囲に及ぶ関心、日常の些細な出来事から遠ざかりながら維持される古オーストリアの大臣としての世俗的な英知と能力、そして人間に対する包括的な共感、それらは民族主義者としての狭隘さが見られない」人柄によるとハイエク(2009、p.234)はしている。 

 以下、『本源と主要法則』と『自然価値論』は、ほぼ同じ内容を扱っているため、併せて解説する。まずは、学派の伝道者としての両書の役割である。ヴィーザーは「限界効用Grenznutzen」の言葉を新鋳した。以後「限界効用」概念はオーストリア学派において経済分析の道具として頻繁に使用され、斯学派は(狭義の)「限界効用学派Grenznutzen Schule」と呼ばれるようになった。 
 「限界効用」を表すのに、革命者たる限界トリオは如何なる語を用いたか。ジェヴォンズが「最終効用度」final degree of utility, ワルラスが「希少性」rareté(あるいは「充足された最終欲望の強度」 intensité du dernierの語を用いたとすることはよく見られる所である。それでは、メンガーはどう表現したか。「彼特有の名称を用いなかった」(邦訳、p.14)(注1)とヴィーザーは言い、ハイエクも、「メンガーの著作すべてに特徴的なのは、ある現象にたいして完結明瞭な名前を付けるよりは、注意深い記述をすることに重点をおくことである。…このことの典型的な例はメンガーがヴィーザーによって導入された限界効用という用語をもちいず、価値を説明するときにはつねにいくらかぎこちないが正確な言いまわし」(2009、p.168-9)をしたとする。ヴィーザーが「限界効用」の用語を造り、定着させたのである。 

 次にヴィーザーの名前と不離の帰属理論である。既にメンガーは、財の次元性を問題としていた。高次財と低次財とを区別した。後者の典型が消費財(第一次財)で、第一次財の生産に用いられるのが第二次財、第二次財の生産に用いられるのが第三次財等々、次数が低いほど消費財に近い生産財である。生産は高次財が次第に低次財に変化する経済過程としてとらえた。そして、古典派の費用学説とは逆に、高次財が低次財の価値を決めるのではなしに、低次財の(予想)価値によって高次財の価値が決められるとした。「低次財がわれわれにたいしてもつ価値はその生産に用いられた高次財の価値によって制約されるのではなく、むしろ明白なのは、反対に高次財の価値の方がつねに例外なくそれが生産するところの低次財の予想価値によって制約されているということである」(メンガー、1999、p.107)。オーストリア学派は、直接効用充足の対象とならない、高次財の価値を低次財の価値から「帰属」するものとして説明しようとした。この「帰属」という言葉もヴィーザーによるものである(注2)。どうも、彼にはネーミングの才があるようである。
  ヴィーザーは生産類親性(Productionsverwandtschaft大山訳では生産的血縁関係)の概念によって、帰属理論を精緻にした。ある生産要素(生産財の他労働等も含む)を共通にする生産物は、生産類親性がある。これらの生産物は、その生産要素の後裔であり、いわば親戚関係にある。量的に制限がある財で、可能な用途が多数ある生産財については、最も経済的効率が良い使用方法が選ばれる。ここで、生産財は費用とみなされる。そして、費用は常に一切の用途を考慮して(ここにヴィーザーが機会費用概念を導入したとする見方がある)、生産的限界効用によって決定される。「いくつかの、または多くの用途に向けることができる生産財貨は、われわれが既に知っているように、その生産を認められる生産物のうちで最もとるに足らぬ物―限界生産物―の価値から、または限界生産物に寄与することから、その価値を受取る」(邦訳、p.197)。生産財の価値は、経済的に生産される生産物の中で最も低い効用、すなわち限界生産物の効用で決定され、同生産財で生産される他の限界内の生産物(の部分量)もその決定された価値以上を受けとることが出来ないとの考えは、すでにヴィーザーの初期論文で現れている。パンタレオーニはこれに「ヴィーザーの法則」と名付けた。
  可能な用途の内、特定の用途の選択が、その財の価値を決定する。それが、今度はすべての他種の財(生産物)の価値に反映される。ある生産物の価値を決定する欲望は、さしあたり特定の生産物とは無関係で、ただその生産物の総体を全体に結合する生産財の仲介を通じてのみ関係をもつ。こうして、経済行為による財の利用享受とそれを達成するための費用支出の相互作用により、経済原理に導かれて、全体の経済秩序が形成される。
 ヴィーザーの帰属理論にかんして、もう一つの重要な点がある。ヴィーザーの「生産的貢献(寄与)」説といわれるものである。まず、オーストリア学派における先行する価値帰属についての理論を見る。生産物の生産財(以下生産要素でも同じ)がすべて代替的なものであれば、生産財へ価値を帰属させるのに困難はないが、ふつう生産物を構成する数種の生産財は補完的である。メンガーは生産財の価値帰属を、「喪失原理」で解こうとした。彼は、ある生産財の組み合わせがある時、ある生産財あるいはある生産財の一単位を除いた場合の生産物の価値の減少でその生産財の生産的貢献を確認しようとした。こうしてすべての生産財の帰属価値を求めると、補完効果があるから、その合計は生産物価値を上回る。部分が全体より多いという不都合が出る。これに対し、ボェーム=バヴェルクは、「代替原理」をとる。彼は、生産財を代替可能な財とそれ以外の財に区分する。代替可能な財の価値は、代わりうる他の財の価値により規制される。代替可能財が「費用」として生産収益から控除され、その残余が代替不能な財に喪失原理で分配されるのである。前者は代替容易な賃労働、原料等であり、後者は代替困難な土地、経営者等である。この原理とて、代替不能財が複数の場合、それらの価値の合計が残余額を上回るという喪失原理と同様の問題が残るように思う(注3)。
 これに対して、ヴィーザーは価値帰属問題を連立方程式で解こうとした。次はヴィーザー自身の例である。①生産要素の価値合計が生産物の価値に等しい、②生産要素が産業毎に一定の比率で結合される の仮定の下で、生産要素X,Y,Zの1単位の価値をx , y , z とするとき、三つの生産物の1単位の価値(右辺の値)は、現実の生産の観測から、次の方程式で表現できる。
 X + y =100,
  2x + 3z =200,
  4y + 5z =590 
 この式を解いて得られた、x =40, y =60, z=70 が生産要素X,Y,Zの1単位の価値であり、これらの要素の「生産的貢献」とも呼ばれる。あらゆる「生産的貢献」の合計はあらゆる生産物の価値の合計と正確に一致する。「生産的所有の合計(方程式左辺のこと:引用者)は収益の全部価値(右辺のこと:同)に等価である。この収益の全部価値は、…完全にかつ残さずに、個々の生産要素にそれぞれ割当てられる」(邦訳、p.104)。メンガーが「喪失原理」で算出した「協働に依存する持ち分」(邦訳、p.107)の欠陥は免れているとヴィーザーは考える。
 この「生産的貢献」説は、批判もあり大方の承認を得るまでには至らなかった。F.ナイトによって、ヴィーザー自身の方程式によって「喪失原理」と「生産的貢献」の意味することが同一であることが示され、ヴィクセルはこの方程式は生産要素の価格が産業を通じて一致していることを証明しているだけだと批判した(スティグラーによる)。帰属説の三つの説明はどれも、「正しい核心」をもっており、帰属説をさらに進めるとクラークの限界生産力説に行きつく(オット、ヴィンケル)というところが妥当な評価か。
  最後に、「自然価値」についてである。ハイエクは『起源と主要法則』と『自然価値論』の相違を方法論にあるという。後者には還元的・理想化的想定の方法が広範囲に使用されているとする。その典型が後者の題名でもある「自然価値」ではないかと思うので、これについても少し書くこととする。
  ヴィーザーは、「一定の財量と効用との間に成立する社会的関係から発生する価値、または共産主義社会において存在するであろう価値を、以下において自然価値と呼ぼうと思う。…自然価値は完全に組織された、高度に合理的な社会において認められるものである」(邦訳、p.71-72)という。自然価値は、私有財産制や人間の不完全性を拾象した完全に合理的な社会において成立する抽象的価値である。そこでは、財の限界効用によって評価された価値が、支払い能力と結合して価格が決まる。現実の交換経済では、自然価値は価格形成の一要素ではあるが、他の要素もあり撹乱される。財産不平等による購買力の相違の影響および錯誤、詐欺、強制等があるからである。
  しかしながら、完全に組織された高度合理的社会の抽象的価値である自然価値は現実の価値と全く無関係ではない。自然的価値は「社会的価値判断」(ハチスンは「社会的効用」と呼ぶ)とみなしてよい。それは現実経済の理解のみならず、新しい経済を考えるのにも役立つとする。例えば、地代はヴィーザーの当時でも評判の悪いものであるが、共産主義社会でも土地の収益を計算するのに必要である。地代は、個人収入の源泉としてではなく、経済計算上必要である。「今日の価値形態というものは個人的な自己満足のためにのみ存在するのでなく、同時に社会経済のために技術的に有用であるなら、そして経済を計算も統制もなさないままに放置することを望まないなら、それは決して放棄すべきではないであろう」(邦訳、p.75)。
  この一節を見ると、人は社会主義経済計算論争を思い浮かべるであろう。『自然価値論』の「紙面の大部分は、そのような自然価値が中央計画経済の中でいかに決定されるかを示すことにさかれており、したがって、ルードウィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)が、社会主義下では合理的な経済計画は不可能である。という議論を展開する際に論駁しようとしたのはヴィーザーだったのである」とブローグ(1889、p.304-5)も書いている(注4)。そして、Streisslerよると(経済)「計画」という言葉も、ミーゼス経由ではあるが、ヴィーザーに由来するとのことである(注5)。
  また、ハチスンも自然価値は計算不可能で、社会政策の基準とできないとしながらも、ヴィーザーの方法はイギリスの厚生経済学およびパレート・バローネの社会資源の最適配分の定式化に最も近いオーストリアの態度を示すものとしている。確かに現代の根岸の「一般均衡論と厚生経済学におけるオーストリィの伝統」なる論文を見ても、ヴィーザーの議論は厚生経済学の社会的厚生関数として扱われているのである。
  以上全体としてヴィーザーの功績をまとめてみる。メンガーが顧みなかった、生産の効率を最初に考え、ヴィーザーの法則により生産に限界原理を導入した。そしてそれまで、別のものとして分離しがちであった、価値論と分配論を、生産物と生産要素の価値(価格)理論として統一的な説明を与えようとしたこと。ただし、生産物の価値が残りなく生産要素に帰属すること(生産物の完全分配問題)を解明しえなかった――それを定式化したのは独語「限界効用」を英訳(marginal utility)したウィークスティードである。また、ミーゼスやハイエクの先駆けとして、経済計算の問題を取り上げたことも重要であろう。

  両書とも、日本の(別の)古書店からの購入。『本源と主要法則』は、表紙がとれた状態だったので、製本してもらった。個人的営業の製本者であったので、タイトル等の箔押し表示はない。両書とも本家のドイツでは高い値段が付いている。 

(注1)手近な書物を見るに、ジェヴォンズ、ワルラスと同様に、メンガーが使った限界効用に相当する用語として、「重要度が最も劣る欲望満足の有する意義」(松嶋、1996、p.24)あるいは「従属効用」(カウダー、1979、p.76)をあげているものもある。しかしながら、『原理』を見ても、単なる記述の一部で、定型的に使われたように思えない。メンガーは明確な用語を充てなかったのが正しいと思う。
(注2)オット・ヴィンケルの本による。他の本には明記されていない。ヴィーザーは、この言葉を法律用語から借用したようである。『価値』「第三章 生産収益の自然的帰属」の「§20. 帰属の問題(Das Problem der Zurechnung.)」で書いている。
 殺人は、加害者、被害者、凶器、機会を要件とするが、この他加害者の履歴等無数の事情に影響される。しかし、裁判官はその職責上、法律上の責任帰属についてのみ考慮すればよく、主犯者に凶器がなかったら等は考える必要がない。すべての有力な原因、犯行者のうちで、主犯者だけがその行為について、法律上の責任を負う。
 同様に、生産上の収益を分配するのにも、完全な因果の説明は問題にはならず、適切に局限された帰属が問題となる。例えば、肥沃度の異なる二つの異なる農地がある場合、種子・肥料・犂等がなければ、生産が行われないことは明らかであるが、その剰余収益の差は優等地の所有に帰せられる(邦訳、p.88-91)。
(注3)スティグラーの本には、ボェーム=バヴェルクは、「生産物価値と生産要素の最高価値の総計量とのあいだに均等関係が成立する必然性を否定している。」(スティグラー、1967、p.185)と書かれている。
(注4)社会主義経済計算論争の始発点であったミーゼスの論文「社会主義共同体における経済計算」には本文、注を含めてヴィーザーの名が出ておらず、ブローグの言葉は本当かなという気がしないでもない(同論文の邦訳は注の部分に省略があるので、Hayek ed. “Collectivist Economic Planning”の英訳で注の部分も確認した)。もっとも、ブローグが言っているのは、MIses “Gemeinwirtschaft”1922のことかも知れない。この本は「集めて」手許にあるが独語で大部な為、確認していない。
(注5)「計画」という言葉の使用が見出せたのは、『自然価値論』邦訳では、次の部分である。「価値の計算によって最良であることが知られる計画を、最も正確に突き止め、そして最も正確に具体化するのが、経済的手腕の成功と考えなければならぬ。」(邦訳、p.264)


 (参考文献)
  1. ヴィザア 大山千代雄訳 『自然価値論』 有斐閣、1937年 (上記では邦訳と表記:如何にも訳が古いため、根岸の引用部分等を参考に適宜訂正)
  2. A.E.オット/H.ヴィンケル 井上孝訳 『理論経済学の歴史』 東海大学出版会、1992年
  3. エミール・カウダー 斧田好雄訳 『限界効用理論の歴史』 嵯峨野書院、1979年
  4. 小泉信三 『近代経済思想史』 慶応通信、1987年
  5. シュンペーター 中山伊知郎・東畑精一監訳 『十大経済学者 マルクスからケインズまで』 日本評論社、1952年
  6. G.J.スティグラー 松浦保訳 『生産と分配の理論 ―限界生産力理論の形成期― 』 東洋経済新報社、1967年
  7. 長守善 『独逸経済学説史』 風間書房、1952年
  8. 長守善 「ヴィーザー」(山田雄三編 『近代経済学の生成 近代学説全集第9巻』 第5章)
  9. 根岸隆 『古典派経済学と近代経済学』 有斐閣、1981年
  10. ハイエク 八木紀一郎監訳 『思想史論集 ハイエク全集第Ⅱ期第7巻』 春秋社、2009年
  11. T.W.ハチスン 長守善他訳 『近代経済学説史』 東洋経済新報社、1957年
  12. マーク・ブローグ 中矢俊博訳 『ケインズ以前の100大経済学者』 同文館、1889年
  13. 松嶋敦茂 『現代経済学史 1870~1970』 名古屋大学出版会、1996年
  14. ルドウィヒ・フォン・ミーゼス 迫間真次郎訳 「社会主義共同体における経済計算」(村岡到編 『原典社会主義経済計算論争』 1996年 所収)
  15. メンガー 安井琢磨・八木紀一郎訳 『国民経済学原理』 日本経済評論社、1999年
  16. 八木紀一郎 『オーストリア経済思想史研究 ―中欧帝国と経済学者― 』 名古屋大学出版会、1988年
  17. Streissler, E. “Wieser, Friedrich, Freiherr von (1851-1926)” in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998


『経済的価値の本源と主要法則』標題紙(拡大可能)
『自然価値論』標題紙(拡大可能)
(H23.8.29記.)

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国立国会図書館デジタルコレクション - 自然価値論

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882849

永続的識別子

info:ndljp/pid/1882849

タイトル

自然価値論

著者

ヴィザァ 著[他]

出版者

有斐閣

出版年月日

1937


自然価値論 [167]

標題

目次

第一部 個人經濟における價値

第一章 價値の基礎理論

一 價値の根元/1

二 欲望滿足の價値/5

三 欲望飽滿についてのゴツセンの法則/7

四 飽和の度盛り/11

五 限界利用/14

六 將來の欲望滿足の價値/18

七 財貨の價値/22

八 個々の財貨の評價/25

九 蓄積されてゐる財貨の評價(一般的の價値法則、限界利用の法則)/28

一〇 價値の矛盾と價値運動の二分派/33

一一 價値の二律背反と價値の經濟上の役立ち/39

第二章 流通價値と自然價値

一二 價格/45

一三 主觀的意義の交換價値/55

一四 客觀的意義の交換價値(流通價値)/59

一五 流通價値の二律背反/64

一六 國民經濟における流通價値の役立ち/66

一七 自然價値/71

一八 社會主義者の價値說/76

第三章 生產收益の自然的歸屬

第一 歸屬の一般原則

一九 收益價値/80

二〇 歸屬の問題/83

二一 社會主義の問題の見方(勞働者の全生產收益請求權)/91

二二 これまでの解決の試み/95

二三 解決の原則 生產的寄與/101

二四 續き 寄與と協働/107

二五 續き 歸屬の經濟上の働らき/109

二六 續き 歸屬と限界法則/114

二七 個々の歸屬動因 (一)蓄積/119

二八 續き (二)需要と相補財貨/120

二九 續き (三)技術/124

三〇 續き (四)費用財貨の歸屬と獨占財貨の歸屬/127

三一 續き (五)特に優良な性質を有する生產因子の歸屬/132

第二 自然地代

三二 特に優良な性質を有する土地の差額地代(リカアドオ)/134

三三 特に優良な性質を有する地力の差額地代(リカアドオ)/137

三四 リカアドオ理論の批評/139

第三 自然的資本收益

三五 資本の生產性/145

三六 原始經濟と發達した經濟との資本收益計算/151

三七 總收益歸屬と純收益歸屬/154

第四章 土地、資本、勞働の自然價値

三八 緖言/158

三九 資本の價値と資本利子 (一)割引/161

四〇 續き (二)利率/167

四一 續き (三)利率の均一計算の法則/170

四二 續き (四)利率の變化/173

四三 續き (五)固定資本の評價/175

四四 續き (六)資本還元/178

四五 追加 (七)消費貸付と賃貸利子/180

四六 土地の價値/183

四七 勞働の價値/187

四八 生產財貨の價値―現在および將來の關心の間の競爭を考へて/191

第五章 生產物の自然的費用價値

四九 費用法則/197

五〇 費用の槪念/200

五一 費用法則の由來/203

五二 費用法則通用の諸條件/207

五三 決定的な費用の大いさ/210

五四 費用法則と一般的價値法則/212

五五 いはゆる勞働の生產費/215

五六 個々の費用要素 (一)序言/221

五七 續き (二)勞働/224

五八 續き (三)資本/232

五九 續き (四)資本利子/237

六〇 續き (五)地代/241

六一 國民經濟における個人經濟的價値の役立ち/245

第二部 國家經濟における價値

六二 緖言/251

六三 國家經濟の職分/255

六四 自然的國家經濟における價値/263

六五 經驗的國家經濟における價値/272

六六 集合的評價の根本法則/277





Opportunity Cost Doctrine

http://cruel.org/econthought/essays/margrev/oppcost.html 

The Opportunity Cost Doctrine


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"If costs are stated in terms of alternative commodities and all reference either to "sacrifice" or "outlays" simply omitted, we retain the scientific content of cost of production theory while side-tracking the sources of a century and a half of controversy."

(Frank H. KnightJournal of Political Economy, 1928: p.355).

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Contents

Selected References

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(A) Opportunity Cost

Philip H. Wicksteed's (1910, 1914) depiction of "demand-and-supply" in pure exchange was geared to demonstrate the supremacy of the Austrianalternative cost (or opportunity cost or displacement cost) doctrine over the Marshallian real cost (or disutility cost or pain cost) doctrine. 

The concept of opportunity cost can be found in the works of many early economists (e.g. J.H. von ThEen, 1823; J.S. Mill, 1848; and, most notably, L. Walras, 1874), yet the opportunity cost doctrine was only explicitly introduced as an all-encompassing theory of cost in a seminar paper by Friedrich von Wieser (1876) and expounded in his later books (Wieser, 1884, 1889). It was quickly embraced by fellow Austrian economists such as Eugen von Böhm-Bawerk (1889, 1894), Paul Rosenstein-Rodan (1927) and, notably, Gottfried von Haberler (1930, 1933). The alternative cost doctrine was popularized in the English-speaking world by D.L. Green (1894), Frank A. Fetter (1904), Herbert J. Davenport (1908, 1913), Philip H. Wicksteed (1910, 1914), Frank H. Knight (1921, 1928) and Lionel Robbins (1930, 1932, 1934).

The Austrian opportunity cost doctrine is simple enough to explain: it boils down to claiming that relative prices reflect foregone opportunities. In terms of pure exchange, this is easy: for agent h, the cost of demanding D 1h units of good x1 is the offer of O2h units of good x2 he has to make. Thus, the price of good x1 in terms of x2 is the amount of good x2 that has to be offered (and thus foregone) to obtain a unit of good x1, i.e.

p1/p2 = O2h/D1h

So, for example, if to obtain 5 units of good x1, agent h needs to give up 15 units of good x2, then the price of good x1 in terms of x2 is 3. As market prices reflect the trade-off between goods a consumer faces, then perhaps we can be a bit more precise by analyzing it at the infinitesimal margin rather than taking clunky increments of net demands and offers. Doing so, we will find it is more convenient to simply write that, at the margin:

p1/p2 = -dx2h/dx1h

where dx1 is an infinitesimal net demand for good x1 and -dx2 is the corresponding offer. This was baptized by John Hicks (1939) as as the marginal rate of substitution between x1 and x2 The rest is well-known: the hedonistic, rational consumer will choose net demand and offers where -dx2h/dx1h= u1h/u2h, where u1h = ¶uh /¶x1 is the marginal is the marginal utility of good x1h and u2h = ¶ uh/¶ x2h is the marginal utility of good x2. So:

"The ratio of exchange of any two commodities will be the reciprocal of the ratio of the final degrees of utility [i.e. ratio of marginal utilities] of the quantities of the commodity available for consumption after exchange is completed." 

(W.S. Jevons, 1871: p.95).

This has been baptized by Maffeo Pantaleoni (1889: p.184) as "Wieser's Law".

All this is well-known and pretty much accepted by all modern Neoclassical economists. Why the fuss? The fuss arises when we consider the opportunity cost principle in the context of production. Suppose we have two goods, x1 and x2, but only one factor (call it v). Suppose that a unit of the factor can produce a unit of good x1, while a unit of the factor can produce two units of good x2. Consequently, in order to produce one unit of good x1, one foregoes the production of two units of x2; simlarly, to produce one unit of x2, one foregoes a half-unit of x1. Thus, in opportunity cost terms, x1 = 2x2 and x2 = x1/2. If prices must equal opportunity cost, then notice that it must be that p1/p2 = 2.

Now, suppose output prices such that p1/p2 = 3, i.e. a unit of x1 sells for 3 units of x2. In this case, a smart agent would try to produce an enormous amount of x1 and exchange it all for x2. For each unit of x1 produced, he receives 3 units of x3, thus he makes a "profit" of one unit of x3. Conversely, a stupid agent who specialized in the production of x2, would need to produce three units of x2 in order to acquire a unit of x1. Yet, if he simply modified his production process and produced the other good instead, he would be able to obtain 1.5 units of x1 by producing it using the same factors it would take to acquire 1 unit of x1 on the market. Thus, if output price ratio p1/p2 is greater than the opportunity cost of good x1 in terms of x2, then we would expect everyone to produce x1 and nobody to produce x2. Similarly, if p1/p2 is less than the opportunity cost, we would expect nobody to produce x1 and everybody to produce x2.

There might be a slight twinge in the heart of a true Neoclassical: it seems as if prices are determined "objectively" by opportunity costs; where does subjective things like utility and thus demand come into play as the determinant of price? The truth of the matter is that we have not necessarily established that output prices must equal opportunity costs in our example. In order to obtain price-opportunity cost equality, we must actually go to a wider example, one which uses at least two different factors (e.g. capital and labor) in the production of both goods x1 and x2.

To see why, consider Figure 1, where have drawn two production possibilities frontiers, PPF (straight line) and PPF¢ (bowed out from the origin) (the production possibility frontier is originally due to Abba Lerner (1932) and Gottfried von Haberler (1933: p.176)). The bowed-out shape of PPF¢reflects the fact that the proportion in which factors are released when reducing the production of good x1 are different from the proportions in which they are absorbed when increasing the production of good x2. In our earlier example, there was only one factor (v), and two outputs. Thus, when moving from the production of x1 to x2, the factor was absorbed in the same proportion as it was released, thus the relevant production possibilities frontier would be the linear PPF in Figure 1.


ppf.gif (4366 bytes)

Fig.1 - Production Possibilities Frontiers

The slope of any PPF is the opportunity cost of x1 in terms of x2. In the linear case of only one factor, the slope is constant -- in our example, simply -2. Thus, the linear case which is obtained when we have only one factor and two outputs is often referred to as the constant cost case. 

In the concave PPF¢ case, the opportunity cost changes as we change combinations of x1 and x2 produced. Specifically, the concave shape of PPF¢indicates that the more that is produced of good x1, the more and more we have to give up of x2, i.e. the greater the opportunity cost of x1 in terms of x2. Intuitively, this reflects, as Joan Robinson aptly put it, that "an increase in the output of any commodity turns the relative factor prices against itself" (Robinson, 1941). In a general context, if x1 is relatively intensive in capital and x2 is labor intensive, then as we move towards greater output of x1 and less of x2 (e.g. points e to f in Figure 1), the tighter the capital market becomes and the looser the labor market gets. Thus, as we increase x1the price of capital rises relative to labor so that it becomes costlier and costlier to produce more x1.

We can now see where demand begins to play a role. Consider first the linear case. Suppose conditions in the output market are such that p1/p2 = 2 is the output price. In this case, the entire linear PPF locus denotes the output combinations of x1 and x2 that will ensue. In other words, positions c = (x1c, x2e) and d = (x1d, x2f) in Figure 2 are equally possible. Obviously, then, the output level is indeterminate. 

If, however, output prices are such that p1/p2 > 2, then we have determinacy of an extreme sort: we will go to the corner solution x1m, where allfactors are dedicated to the production of x1 and none for x2. If p1/p2 < 2, we go to the other corner, x2m, and produce nothing of x1 and as much as possible of x2. These extremities were already alluded to earlier in our earlier linear example. Note that in these extreme cases, prices are notnecessarily equal to costs. 

The linear or constant cost case reflects exactly Adam Smith's famous example in his Wealth of Nations:

"If among a nation of hunters, for example, it usually costs twice the labour to kill a beaver which it does to kill a deer, one beaver should naturally exchange for or be worth two deer. It is natural that what is usually the produce of two days or two hours labour, should be worth double of what is usually the produce of one day's or one hour's labour." 

(A. Smith , 1776: p.65).

Notice the crucial importance that Smith's example has two outputs (beaver and deer) and one input (labor), thus implying that we must necessarily have a linear PPF as in Figure 1. As insisted by Knight (1928), Smith's argument that exchange values reflect relative labor costs can be reintrepreted in opportunity cost terms: a deer is worth two beaver not because of the fact that labor is involved, but rather because the cost of catching a deer were the two beavers that could be alternatively caught: "the cost of beaver is deer and the cost of deer is beaver, and that is the only objective and scientific content of the cost notion". (F.H. Knight, 1928).

Smith's assertion that prices equal relative labor costs (or, in Knightian interpretation, opportunity costs), implies that he is ruling out the corner solutions x1m and x2m in Figure 1, and thus the only thing that remains is that p1/p2 = 2, thus making demand irrelevant for the determination of prices. In such a case, prices are completely determined by the "objective" relative costs of production of beaver and deer. Note that, in this case, relative output levels are indeterminate, or rather must be determined by something else - exactly as the Classical theory argues they should be.

Suppose, however, that we have two inputs and two outputs, so that we obtain the concave PPF¢ in Figure 1. If prices are (p1/p2)*, then the price line will be tangent to PPF¢ at point e = (x1e, x2e). Equivalently, if prices are (p1/p2)¢ , then the price line will be tangent to PPF¢ at point f = (x1f, x2f). These are, in fact, the only efficient combinations of outputs corresponding to the relevant price ratio. Thus, output price are equal to opportunity costs, and yet utility-based demand, which helps determine output price, is really the main determinant of everything. Thus, Wieser's "Neoclassical" twist on the old Smithian cost theory seems to reduce itself to changing the technology of the system. 

Why would we necessarily produce at e in Figure 1 if prices were (p1/p2)*? Suppose not. Suppose we chose f instead at those prices. If so, then output prices are lower than the opportunity cost of x1 in terms of x2 implied by the slope of PPF¢ at point f¢ . This would lead to the kind of instability we saw earlier: people would move away from the production of x1 and towards the production of x2, i.e. driving us right back up the PPF¢ curve to point e. 

In sum, when viewed from the prism of opportunity costs, output prices must equal opportunity costs and thus it seems as if prices are governed by the "objective" phenomena of opportunity cost. But a more careful look indicates that it is demand, with its influence on output prices, that determines which opportunity costs are to prevail. Thus, prices and outputs, everything else are subjectively determined. In short, the opportunity cost doctrine is an "objective theory of value which is subjective". We find this stated clearly in Wieser:

"The phenomena of [alternative] costs are, therefore, a new proof of how greatly the objective conditions of the existence of goods influence the value of goods. How far the value of goods, in its final form of "cost value", is from being the mirror of that subjective fact from which it is derived -- the value of wants! The circumstance that cognate products are produced by different quantities of the same productive elements, brings their subjective valuations into a ratio, the terms of which are derived entirely from the objective conditions of production; while the impulses which call for their emergence...remain subjective, and thus prove the subjectivity of the source and nature of value."

(F. von Wieser, 1889: p.185)

and even more clearly in Knight:

"When any two commodities can be produced with the aid of the same resources of whatever sort, freely transferable from one use to the other, the prices of those commodities must in equilibrium be such that the alternative products of the same or equal units of resources exchange for each other. Price is determined by cost rather than utility, but by cost in a physical technical sense, not that of pain or sacrifice...Comparisons of sacrifice, however, may be and commonly are involved in greater or lesser degree, and the operation of the utility principle is the basis of the whole process of adjustment. This is the alternative cost theory which is definitely the product of the utility approach."

(F.H. Knight, 1931)

What about factors of production? These are governed by the Austrian principle of imputation (due to Carl Menger (1871) and Friedrich von Wieser (1889)): given output prices, we can determine what the factor prices will be. More specifically, a given point on the production possibilities curve will determine a particular division of factors between industries which, in turn, will determine the proportional factor prices (for a demonstration of this, see our survey of Paretian general equilibrium theory). 

One can go on with the exploitation of opportunity cost idea. As demonstrated famously by Gottfried von Haberler (1933), the principle of comparative advantage in international trade can be couched in opportunity cost terms. To see this consider the following simple linear example. Suppose there are two agents (A and B), each of which is endowed with an hour of labor which can be spent either on rabbit-hunting or deer-hunting. In one hour, A can catch 5 rabbits or 1 deer while B can catch 20 rabbits or 2 deer (they can do a little bit of both, but they each only have an hour to spend). Notice that B is more efficient at catching both rabbits and deer than A is, thus B has an absolute advantage in the production of both goods. The opportunity costs faced by agent A are easily computed: the opportunity cost of a deer is 5 rabbits, or, equivalently, the opportunity cost of a rabbit is 1/5 of a deer. For agent B, the opportunity cost of deer is 10 rabbits or, conversely, the opportunity cost of rabbit is 1/10 of a deer. 

Haberler argues that an agent has a comparative advantage in a good if he has a lower opportunity cost in that good. In this example, as is obvious, agent A has a lower opportunity cost (and thus a comparative advantage) of catching deer, while B has a lower opportunity cost (and thus a comparative advantage) of catching rabbits (in general, in any two-good, two-agent scenario, it will always be the case that if one agent has a lower opportunity cost in one thing, the other agent will necessarily have a lower opportunity cost in the other). 

Consequently, if specialization is to ensue according to the principle of comparative advantage, agent B should dedicate her entire hour to catching rabbits (20 of them), while agent A should dedicate his hour to catching deer (1 of them). They can then trade. Suppose B offers A six rabbits in exchange for the entire deer A has caught: such an offer can be made by B and will be accepted by A because both will better off as a result. To see this, note that after trading, A will have six rabbits (while before the trade, the best he could do was 5 rabbits). In contrast, after trading, B will have 1 deer and 14 rabbits (before trade, the best she could do was 1 deer and 10 rabbits). Thus, after specializing and trading, A is better off by a rabbit while B is better off by four rabbits.

(B) The Austrian-Marshallian Debate

Alfred Marshall was a compromiser: he did not consider the Marginalist Revolution of 1871-4 to be a complete repudiation of the Classical doctrinesof Smith, Ricardo and Mill. Instead, Marshall believed in the continuity between Classical and Neoclassical economics; that both theories, in the end, agreed that equilibrium prices were determined by demand and supply, but that each of them had been too "one-sided" about it. In particular, Marshall (1890: App.I) argued that the sole fault of the Classicals was that they concentrated too much on supply as a determinant of price and thus tended to ignore or understate the role of demand; in contrast, the fault of William Stanley Jevons and other Marginalists was that they concentrated far too much on demand and had ignored supply. Thus, he goes on to conclude, the Marginalist Revolution is less revolutionary that it makes itself seem: supply is determined by cost of production in the Ricardian fashion, demand is determined by utility in the Jevonian fashion, place both together and we have the determination of equilibrium price. As Marshall famously writes:

"We might as reasonably dispute whether it is the upper or the lower blade of a pair of scissors that cuts a piece of paper, as whether value is governed by utility or cost of production. It is true that when one blade is held still, and the cutting is effected by moving the other, we may say with careless brevity that the cutting is done by the second; but the statement is not strictly accurate, and is to be excused only so long as it claims to be merely a popular and not a strictly scientific account of what happens." 

(A. Marshall, 1890: p.290) 

The fact that Marshall was English and that the Marginalist Revolution was largely of Continental derivation may have had something to do with his reluctance to abandon the English Classical tradition. The convese fact that the Austrians were Continental Europeans may also have had something to do with their keen interest in debunking Ricardo and Mill. Whatever the reason, Marshallians and Austrians came to loggerheads over the "ultimate" determinant of value.

The Austrians and their allies did not dispute that there were "two blades to the scissors" in the determination of price in any one market; instead, they disputed Marshall's assertion that supply was determined by "cost of production". As Wicksteed (1910, 1914) so clearly demonstrated, viewed from the prism of opportunity cost, "supply is reverse demand". Thus:

"The only sense, then, in which cost of production can affect the value of one thing, is the sense in which it is itself the value of another thing. Thus, what has been variously termed "utility", "ophelimity", or "desiredness", is the sole and ultimate determinant of all exchange values"

(P.H. Wicksteed, 1910: p.391).

The Marshallians, notably Francis Y. Edgeworth (1894) and Jacob Viner (1932, 1937) took exception to the assertion that all cost was opportunity cost. What they noted was in fact, quite simple: if to acquire anything, one must "give up" something else, then we are effectively implying that there is ultimately a "fixed" amount of everything. But this, the Marshallians noted, is not necessarily true. Resources, they argued, can be regarded as fixed "in the short-run". But in the "longer run", more resources can be made available. For instance, capital may be built; labor can be increased, etc.

A great amount of ink was spent particularly on labor supply. Labor supply, the Marshallians claimed, was rather flexible. Increase the payments to labor, and "more" would be supplied. Consider the production of, say, scissors. As the output of scissors increases, costs of production increase because higher wages must be paid to labor to induce them to increase their supply. These are not, the Marshallians asserted, "opportunity costs", but "real costs": they compensate laborers for the "disutility" of work (a concept originally introduced by Jevons (1871: Ch. Ch.5)).

The Austrians were not caught off-guard by these examples. The resolution to the "alternative cost" vs. "real cost" dispute is readily apparent: what is the "disutility of labor" other than "displaced leisure"? Labor supply may be flexible, but time is fixed and so the worker must choose between work and leisure. Wages are paid not because producers must compensate workes for the "irksomeness" of labor, but rather because they must compensate laborers for foregoing leisure. Thus, Marshallian real costs are reducible to Austrian opportunity costs. 

[Note: in a moment of doubt, Frank Knight (1934) poses the question whether opportunity cost captures the idea that wages in agreeable jobs are lower than wages in irksome jobs? The resolution here is even simpler if we consider the jobs and their irksomeness/agreeableness to be joint goods: the higher wages paid to the laborer in the "irksome job" does not compensate for greater disutility of that job, but rather for the displaced "agreeable job".]

[Another note: the alternative cost-real cost debate flared up with particular vehemence in international trade theory, pitting the Austrian economist Gottfried von Haberler (1930, 1933: Ch. 12; 1951) versus real-cost advocate Jacob Viner (1932, 1937: Ch. 7), and seems to have lingered on for a while in that area. For a modern restatement and resolution in this context see Vanek (1959).]

In reducing the Marshallian examples of real costs to opportunity costs, the Austrians may seem to have won the upper hand, but they were forced to admit one thing: namely, that in the end, for this reduction to be possible, one must impose the assumption that something is fixed in availability which cannot be increased. In our labor example, time was fixed; if time was "extendable" by some way or another, the opportunity cost doctrine would collapse once again. Thus, the Austrians recognized that for the opportunity cost doctrine to work, there must always be a fixed stock of everything

In sum, with their examples, the Marshallians demonstrated time and time again that the opportunity cost doctrine relies on fixed resources. As such, the Marshallians crowed that the opportunity cost doctrine must necessarily be a "special case". When resources are fixed, then indeed "the ultimate standard of value", to use Böhm-Bawerk's term, is opportunity cost, but when resources are flexible, they argued, Marshallian theory comes into its own. 

We find some proponents of the alternative cost doctrine, such as Frank H. Knight (1934) and Lionel Robbins (1930, 1934), a bit troubled by the prospect of flexible resources. In terms of our earlier Figure 1, what will be the prices when the PPF is allowed to move around? However, their resolution was not to rethink the theory of costs to accommodate flexible resources but rather to claim that any economic problem is always ultimately characterized by fixed resources. This was particularly emphasized by Lionel Robbins in his famous Essay on the Nature and Significance of Economic Science (1932). Economics, he insisted, is exclusively concerned with scarcity: "Economics is the science which studies human behaviour as a relationship between ends and scarce means which have alternative uses." (Robbins, 1932: p.16).

Robbins's limitation of the scope of economics to the issue of allocation of fixed resouces was a wildly successful coup and summarized quite well the full meaning of the Marginalist Revolution. Value, as Jevons, Walras, Menger and virtually every Neoclassical since has asserted, derives from scarcity and scarcity cannot arise unless resources are fixed in one way or another. The entire Walrasian-Paretian general equilibrium edifice clearly stands only (and thus perhaps uneasily) on this concept. Of course, the Marginalists also noted that it is not enough that something is fixed in availability in order to have value; it must also be desired, i.e. scarcity is subjective. If value is derived from scarcity, then value is merely "the phenomena of demand acting on fixed stocks -- either of products, or factors or time -- or human capacity." (Robbins, 1933). 

It is evident that Robbins's reasoning is a bit circular. He claims that if something is not scarce, it does not have value and thus is not an economicconcern. Thus, economics necessarily deals only with the allocation of fixed resources. However, we only obtain the conclusion that value derives from scarcity if we assume there are fixed resources. But the Classical economists - Smith, Ricardo, Mill, etc. - would dispute this vehemently. For Classicals, at least since Cantillon, economics is about finding the rates of exchange between goods and the division of income between factors such that the economy can maintain a balanced circulation of goods and incomes. This is not about the "allocation of fixed resources": in Classical economics, all resources (labor and capital) are endogenous and thus not scarce over time. Yet the absence of scarcity does not stop the Classicals from deriving the "value" of goods quite explicitly, as was demonstrated with remarkable virtuosity by Piero Sraffa (1960).

In sum, the alternative cost-real cost dispute between the Austrians and Marshallians can only be said to have been resolved in favor of the Austrians if the basic premise of the Marginalist Revolution, that value derives from scarcity, is held to be true. Thus, the main contribution of the alternative cost debate was that it clarified what was the essence of the Marginalist Revolution of 1871-4 and to re-assert its fundamental message: that value is subjective (i.e. derived from scarcity) and not objective (i.e. from the need to maintain balanced circulation). Viewed from this vantage point, Marshall's musings are somewhat misleading: yes, Virginia, there was a Marginalist Revolution and it was very revolutionary indeed.

[Note: some commentators (e.g. Robbins, 1930) have argued that, underneath it all, Alfred Marshall held a theory of value which is closer in spirit to the Classical notion of balanced circulation than the Neoclassical one of scarcity. If one did make the argument the Marshall's "long-run" theory (flexible resources) is Classical, while his "short-run" theory (fixed resources) is Neoclassical, one could plausibly argue that then demand-and-supply determine prices only in the short-run, and not the long-run. Yet this would immediately remove Marshall from the Neoclassical pantheon: the argument that supply-and-demand determine exchange values only in the short-run is not novel, but taken right out of Ricardo and Mill! More acute attempts to account for Marshall's theory of value without sacrificing his Neoclassical credentials are found in Ragnar Frisch (1950) and Peter Newman (1960).]

Selected References

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国立国会図書館デジタルコレクション - 経済学名著翻訳叢書. 10

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1227688

経済学名著翻訳叢書. 10 貨幣論集

著者 ヴィーザー

経済学名著翻訳刊行会 編

出版者

有斐閣

出版年月日

昭和16

目次

譯者序說/1-73

一 フリードリッヒ・フライヘル・フォン・ヴィーザー  エフ・アー・フォン・ハイエク/3

二 ヴィーザーの貨幣理論/29

一 貨幣の起原/31

二 貨幣の本質と職能/34

三 貨幣の價値/42

ヴィーザーの文獻/64

貨幣理論に關するヴィーザーの文獻/69

ヴィーザーに關する主なる參考文獻/71

ヴィーザーの貨幣理論に關する主なる參考文獻/71

一 オーストリー-ハンガリーにおける正貨支拂の再開/75

二 貨幣の價値とその歷史的變動/109

三 貨幣の價値とその變動/147

まへがき/149

一 財の個人的及び國民經濟的價値/150

二 貨幣の個人的及び國民經濟的交換價値/162

三 數量說と貨幣の價値の問題/171

四 貨幣の價値の變動/179

五 國際的貨幣價値とその變動/193

四 貨幣の價値の變動の測定について/207

五 貨幣の理論(貨幣槪論)/221

一 貨幣の起原/223

二 貨幣の職能と本質/231

三 鑄貨/239

四 貨幣と信用/244

五 貨幣在高と貨幣要量/255

六 貨幣の個別經濟的及び國民經濟的(主觀的及び客觀的)交換價値/261

七 客觀的貨幣價値の形成法則/270

八 金屬主義、名目主義及び貨幣職能學說/273

九 客觀的貨幣價値の變動の法則/278

(イ) 貨幣在高の增加の影響(インフレーション、減價)/279

(ロ) 貨幣要量の增加の結果としての增價の理論/289

(ハ) 貨幣經濟の發達と國民經濟的過程の集約化とによる貨幣の價値の決定/292

十 世界經濟における貨幣の價値/299

(イ) 貨幣の國際的交換價値/299

(ロ) 自由金本位制における貨幣の國際的爲替價値(本位相互間の價値)/300

(ハ) 自由銀本位制における貨幣の國際的爲替價値/304

(ニ) 紙幣インフレーションにおける貨幣の國際的爲替價値/305

(ホ) 停止せられた本位制における貨幣の國際的爲替價値/309

十一 貨幣の價値の安定/311

參考書/318

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