TITLE DEED HOW THE BOOK GOT ITS NAME 'WAR AND PEACE' BY LEO TOLSTOY From: The Sunday Telegraph London Date: December 10, 2006 Author: GARY DEXTER
The original title of War and Peace, as published in serial form in The Russian Herald from 1865, was The Year 1805. When it came to be published as a book in 1867, Tolstoy needed a new title, and briefly considered All's Well That Ends Well before deciding, very soon before publication, on War and Peace. The choice reflected events six years earlier, when Tolstoy, aged 32, had visited the anarchist Pierre-Joseph Proudhon in exile at Ixelles, Brussels, and Proudhon had shown him a copy of his own recently finished tract on international conflict: War and Peace. Greatly impressed by the magnificently bearded, peasant-like Proudhon and his philosophy of benevolent anarchism - which Tolstoy later developed into his own form of Christian anarchism in works such as The Kingdom of God is Within You - his appropriation of Proudhon's title was an act of deliberate homage.
Tolstoy told his official biographer that Proudhon had impressed as a "strong man," who had "le courage de son opinion." See Pavel Ivanovich Biriukov,Lev Nikolaevich Tolstoy: Biografiia(2vols.;Moscow:Posrednik,1906)1.389-90.
In a letter to John Kenworthy dated 8 July 1894,Tolstoy sepeaks of the "profound and good undertakings" of nineteenth-century reformers, among whom he lists Proudhon. See Lev Nikolaevich Tolstoy, Polnoe sobranie sochinenii (ed.V.G.Chertkov et al.; 90 vols.; Moscow:GIKhL,1928-58)67.167. All subsequent references to Tolstoy pertain to this edition. All translations fron russian are my own. チェルトコフ編。トルストイ全集?第67巻より?
" What profound and good undertakings were those of St. Simon, (7) Fourier, (8) Proudhon, (9) Robert Owen (10) and of hundred of other founders of communities in America, and what is now left of them? And how insignificant was the life of the Nazareth carpenter, (11) who was hung for words which displeased the authorities of his time, and yet how enormous the results. (12) Anarchism is a striking sign of the times. It is the beginning of the ruin of old order of things. (略) (9) Pierre Joseph Proudhon (1809 - 1865), French philosopher and theorist of anarchism, the author of the book "The system of economic contradictions or philosophy of poverty" that caused sharp criticism of Marx in his "philosophy of poverty." Tolstoy personally acquainted with Proudhon in 1861 (see v. 48, p. 377). In manuscript N 3 after Proudhon absurdity: with his national Bank (with its National Bank)."
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さらに以下の書籍にも情報がある。
"What Is Art?" (Penguin Classics) (Paperback) by Leo Tolstoy (Author), Richard Pevear (Translator), Larissa Volokhonsky (Translator) http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0140446427 こちらも1865年8月13日のノートブックに『所有とは何か』に関する記述があるという。 「「所有とは盗みである」は真実である、、、」
"For instance, in a notebook entry dated 13 August 1865, we read:
The universal national mission of Russia consists in introducing into the world the idea of a social structure without landed property. La propriete, c'est a le vol ['Property is theft'] will remain a truth truer than the English Constitution as long as the human race exists. ― It is the absolute truth … The Russian revolution will not be against the Tsar and despotism, but against landed property.
Tolstoy had met the libertarian socialist, Pierre-Joseph Proudhon, whose famous saying he quotes, in Brussels, in 1861, and had obviously been much impressed by him.He also borrowed the title of War and Peace from one of Proudhon's books." (XVI)
「たとえば、1865年8月13日と年代を示されるノートにはこう書かれている:
普遍的なロシアの国民的使命は、奪われた資産なしの社会構造についての考えを世界に紹介することにある。 La propriete、c'est a le vol(『財産は盗みである』)という言葉は人類が続く限り、イギリスの憲法が存在するより真実でありつづけるだろう。― それは、絶対の真実だ。ロシアでおこる革命は、皇帝と官僚的専制に反対したものではなく、収奪された所有に対してのものになるだろう。
"Tolstoy" 著者: Ernest Joseph Simmonsにも情報がある。 google.books p6 "Tolstoy also talked with Proudhon at Brussels, shortly after the Emancipation Act on March 5,1861. In welcoming the event, Tolstoy, who earlier had made a futile effort to free his own serfs, proudly told the great French socialist who opposed the ownership of property that Alexander II had not freed the serfs with empty hands but gave them property along with their liberty.
Back in Russia Tolstoy learned to his chagrin the irrelevance of his boast to Proudhon as well as the wisdom of the latter's socialist views on property."
While reading the logical, material Proudhon, his mistakes were as clear to me as the mistakes of the idealists to him. How often does one see the powerlessness of one's mind - always expressing one side; but it is better to see this one side in past thinkers and workers,especially when they complement each other. From this comes love, uniting all these views into one, and this is the simple infallible law of humanity.(30 )
The observation points forward to Tolstoy's conception of universal love, and the notebooks suggest that he was already beginning to reckon with its principal obstacle - modern civilization. "
Tolstoy and the Genesis of "War and Peace" 著者: Kathryn Beliveau Feuer, Donna Tussing Orwin google.books p271 Eikhenbaum, Boris Mikhailovich,ボリス・エイヘンバウム,"Lev Tolstoi"における指摘、 ナポレオンへの不信仰が唯一の影響という説。
追記: 教育に関する議論もあった。
Tolstoy's political philosophy was also influenced by a March 1861 visit to French anarchist Pierre-Joseph Proudhon, then living in exile under an assumed name in Brussels. Apart from reviewing Proudhon's forthcoming publication, "La Guerre et la Paix", whose title Tolstoy would borrow for his masterpiece, the two men discussed education, as Tolstoy wrote in his educational notebooks:
If I recount this conversation with Proudhon, it is to show that, in my personal experience, he was the only man who understood the significance of education and of the printing press in our time. http://www.jameslogancourier.org/index.php?itemid=991
Tolstoy's partisan sadistic thinking was also influenced near a March 1861 affect to French anarchist Pierre-Joseph Proudhon, then living in deport at the beck and call of an spurious specify in Brussels. Books of this author are good. Apart from reviewing Proudhon's near or close (by) publication, "La Guerre et la Paix", whose dirty possession Tolstoy would refer to towards his masterpiece, the two men discussed education, as Tolstoy wrote in his educative notebooks:
If I specify this rough talk with Proudhon, it is to usher that, in my physical experience, he was the exclusive people who agreed the irrepressible relevance of rude cultivation and of the printing protuberant convergence in our earthy experience.
6 Comments:
[10] 高尾山
2011年06月16日 23:45
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ビリューコフの「大トルストイ」によると、トルストイはみずからショーペンハウアー「意志と表象としての世界」のロシア語訳を計画したようですね(結局は多忙等の理由で弟子筋の友人が翻訳したらしいですが)。相当傾倒していたと考えられます。
最新の長編評伝、藤沼貴著「トルストイ」(第三文明社、2009年)でもショーペンハウアーからの影響にかなりの紙数が割かれています。
イイネ! 返信
http://www-h.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2014/09/nenpou8_06.pdf
中村論考
カントは 『判断力批判』 において崇高を 「数学的」 なものと 「力学的」 なものとに分別したが, あきらかにトルストイは, これを踏まえつつ, 世界は人間にとって 「数学的崇高」 であると考えていた (量的・数的に 「絶対的に大であるところのものを崇高と名づける」43)。 歴史とそれを動かす原理は, 人間がけっして至りえないと思わざるをえない絶対的な無限量 「崇高」 の次元にあるというのである。トルストイの 「崇高」 概念は, カントの 『判断力批判』 に直接に依拠していたように思われる。 たしかに作家は 『戦争と平和』 の 「歴史哲学的記述」 の完成に苦慮していた1869年9月30 日, 当時親しかった詩人アファナーシー・フェートに次のような手紙を書き送っている。私はあなたを訪問する計画を立てましたし, まだそのつもりですが, 今までのところ, 42 ( ) 43 『判断力批判 (上)』 同上, 150頁。 なお 「数学的崇高」 については, 同150-171頁参照。
実現できずにいます。 第6巻は4ヶ月前には終わると考えていたのですが, もうだいぶ前に組版ができているとはいえ, いまだに終わっていません。私にとって, この夏がどのようなものだったか, おわかりになりますか?ショーペンハウアーに対する止むことのない熱狂, 私がこれまで経験したことのないような, 精神的な愉悦の連続でした。 私は彼の全著作の抜き書きを作りましたし, よく読み, 今も読んでいます (カントも読み終わりました)。 ……私は, いつ自分の意見を変更しないともわかりませんが, 今のところは, ショーペンハウアーこそ最も天才的な人物であると確信しています44。トルストイが長編の最終的な完成に取り組んでいた時期, ショーペンハウアーに傾倒していたことを語るこの手紙は, しばしばこの哲学者の思想が 『戦争と平和』 の歴史観に影響を及ぼしていたことを示す根拠として引用されてきた。 だが, 作家自身の主観や好悪がどうであれ,トルストイの世界観の枠組は, 崇高を 「観照された客観の, 意志一般に対する承引された敵対関係を超克していく」 ものと定義し, 「空間と時間における世界の無限の大きさを考えて茫然と」 するのと 「並行して, われわれ自身の虚無性というこのような幻影に対抗し, すなわちこのような人を欺く不可能性に対抗して, ……数え切れぬほどのあの世界のことごとくがじつにわが表象のうちに存在するにすぎず, あの世界は純粋認識という永遠の主観の変容態として存在するにすぎないのだという直接的な意識がわき起こってくるであろう」 と語るショーペンハウアーよりも45, この書簡ではついでのように言及されているカントの方に近い。 「批判哲学」の影響は, トルストイが韜晦していたのでないとすれば, 彼自身にも意識されないほどに深く作家を規定していたのである46。7 . 不可分の運動としての生=歴史私たちはここまで, 『戦争と平和』 における空の描写, 死, 生, そして歴史の位相を考察して, 死をもその一様態とする生と, 歴史を動かしている原理とが, ともに人間が知悉しえず, 44 45 『世界の名著45:ショーペンハウアー』 (西尾幹二責任編集, 中央公論社, 1980), 393, 397-398頁。『意志と表象としての世界』 第3巻第39節。46 トルストイに対するカントの影響を示す根拠としては, 本文で挙げたもののほかに, 『戦争と平和』に対しては間接的だが, 長編 『アンナ・カレーニナ』 の末尾 (8部19章) で, 作者の分身とも評される作中人物リョーヴィンが, 身中に感得した善の法則の正当性を疑いつつ, 星空を眺めながらふける物想いの叙述が挙げられる。 この場面はあきらかに, 本稿第2節で 「建築術的な見方」 の例として引用した, 『判断力批判』 中の一節 (星空の眺め) の変奏である。 あくまでも経験的な感覚に立脚しつづけるとき, 「自分の心に……はっきりと示してもらっている」 知恵は, 「明るい惑星」 のように崇高な何かとして現れてくる。 そしてその知恵は 「理性ではとらえられない」 ものであり, なのに自分は 「理性と言葉によって表現しようとしている」 と自嘲するリョーヴィンは, 崇高なるものの言語による定位不可能性という, すぐれてカント的な命題に沿って思考している。 月哲男訳前掲書, 369-370頁参照。
http://www-h.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2014/09/nenpou8_06.pdf
中村論考
カントは 『判断力批判』 において崇高を 「数学的」 なものと 「力学的」 なものとに分別したが, あきらかにトルストイは, これを踏まえつつ, 世界は人間にとって 「数学的崇高」 であると考えていた (量的・数的に 「絶対的に大であるところのものを崇高と名づける」43)。 歴史とそれを動かす原理は, 人間がけっして至りえないと思わざるをえない絶対的な無限量 「崇高」 の次元にあるというのである。トルストイの 「崇高」 概念は, カントの 『判断力批判』 に直接に依拠していたように思われる。 たしかに作家は 『戦争と平和』 の 「歴史哲学的記述」 の完成に苦慮していた1869年9月30 日, 当時親しかった詩人アファナーシー・フェートに次のような手紙を書き送っている。私はあなたを訪問する計画を立てましたし, まだそのつもりですが, 今までのところ, 42 ( ) 43 『判断力批判 (上)』 同上, 150頁。 なお 「数学的崇高」 については, 同150-171頁参照。
実現できずにいます。 第6巻は4ヶ月前には終わると考えていたのですが, もうだいぶ前に組版ができているとはいえ, いまだに終わっていません。私にとって, この夏がどのようなものだったか, おわかりになりますか?ショーペンハウアーに対する止むことのない熱狂, 私がこれまで経験したことのないような, 精神的な愉悦の連続でした。 私は彼の全著作の抜き書きを作りましたし, よく読み, 今も読んでいます (カントも読み終わりました)。 ……私は, いつ自分の意見を変更しないともわかりませんが, 今のところは, ショーペンハウアーこそ最も天才的な人物であると確信しています44。
トルストイが長編の最終的な完成に取り組んでいた時期, ショーペンハウアーに傾倒していたことを語るこの手紙は, しばしばこの哲学者の思想が 『戦争と平和』 の歴史観に影響を及ぼしていたことを示す根拠として引用されてきた。 だが, 作家自身の主観や好悪がどうであれ,トルストイの世界観の枠組は, 崇高を 「観照された客観の, 意志一般に対する承引された敵対関係を超克していく」 ものと定義し, 「空間と時間における世界の無限の大きさを考えて茫然と」 するのと 「並行して, われわれ自身の虚無性というこのような幻影に対抗し, すなわちこのような人を欺く不可能性に対抗して, ……数え切れぬほどのあの世界のことごとくがじつにわが表象のうちに存在するにすぎず, あの世界は純粋認識という永遠の主観の変容態として存在するにすぎないのだという直接的な意識がわき起こってくるであろう」 と語るショーペンハウアーよりも45, この書簡ではついでのように言及されているカントの方に近い。 「批判哲学」の影響は, トルストイが韜晦していたのでないとすれば, 彼自身にも意識されないほどに深く作家を規定していたのである46。7 . 不可分の運動としての生=歴史私たちはここまで, 『戦争と平和』 における空の描写, 死, 生, そして歴史の位相を考察して, 死をもその一様態とする生と, 歴史を動かしている原理とが, ともに人間が知悉しえず, 44 45 『世界の名著45:ショーペンハウアー』 (西尾幹二責任編集, 中央公論社, 1980), 393, 397-398頁。『意志と表象としての世界』 第3巻第39節。46 トルストイに対するカントの影響を示す根拠としては, 本文で挙げたもののほかに, 『戦争と平和』に対しては間接的だが, 長編 『アンナ・カレーニナ』 の末尾 (8部19章) で, 作者の分身とも評される作中人物リョーヴィンが, 身中に感得した善の法則の正当性を疑いつつ, 星空を眺めながらふける物想いの叙述が挙げられる。 この場面はあきらかに, 本稿第2節で 「建築術的な見方」 の例として引用した, 『判断力批判』 中の一節 (星空の眺め) の変奏である。 あくまでも経験的な感覚に立脚しつづけるとき, 「自分の心に……はっきりと示してもらっている」 知恵は, 「明るい惑星」 のように崇高な何かとして現れてくる。 そしてその知恵は 「理性ではとらえられない」 ものであり, なのに自分は 「理性と言葉によって表現しようとしている」 と自嘲するリョーヴィンは, 崇高なるものの言語による定位不可能性という, すぐれてカント的な命題に沿って思考している。 月哲男訳前掲書, 369-370頁参照。
11:33 午後 削除
692 君の名は(やわらか銀行) (ニククエWW ab01-Y6vk [126.235.28.162])[] 2019/01/29(火) 13:22:10.99 ID:MKVHEFE40NIKU
『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』公開ゲネプロ
https://youtu.be/qSRODr52RuM
ゲネプロより
https://youtu.be/T6yfZ0Ibbtw
参考:
戦争と平和(二)より 原作における彗星の描写、
「およしなさい、そんなことを言うのは。あなたの生活はこれからなのです」と彼はナターシャに言った。
「あたしの? いいえ! あたしにはすべてが破滅してしまいましたわ」と彼女は自分を卑しんで恥ずかし
そうに言った。
「すべてが破滅してしまった?」と彼はくりかえした。「もしぼくがこんなぼくでなく、この世でもっとも
美しい、もっとも聡明で、もっともりっぱな人間で、そして自由の身だったら、ぼくはいまこの場にひざまずい
て、あなたのお手と愛を請うたことでしょう」
ナターシャは、長い苦しい日々ののちはじめて、感謝と感動の涙で頰をぬらした、そしてじっとピエール
を見て、部屋を出ていった。
ピエールもそのあとから、喉元に突き上げてくる感動と幸福の涙をおさえながら、ほとんど走るようにし
て控室へ出た、そして袖を通さぬままに、シューバの胸をかきよせて、橇に乗った。
…
寒気のきびしい、明るく冴えた夜だった。薄暗いよごれた通りと、黒い屋根の上に、暗い星空があった。
ピエールは、空ばかり見上げていたので、自分の心を領している高揚に比べて、あらゆる地上のものの腹だ
たしい低劣さを感じなかった。アルバート広場へはいると、暗い星空の巨大な広がりがピエールの目のまえ
にひらけた。この空のほぼ中央、プレチステンスキイ並木道の上空に、まわり一面にまきちらされた無数の
星屑にとりまかれ、しかしどれよりも地上に近いことと、強い光と、上へ長くひいた尾とで、すべての星を
威圧しながら、一八一二年の明るい巨大な彗星がかかっていた。これはあらゆる恐怖と世の終りを予告すると
噂されていたあの彗星だった。しかしきらきら光る尾を長くひいたこの明るい
星も、ピエールの胸にすこしの恐怖感も呼びおこさなかった。それどころか、ピエールは涙にうるんだ目で、
喜びに胸をふるわせながら、この明るい星を見上げていた。この星はさながら無限の空間を、放物線を描き
ながら、言葉にあらわせぬほどの速度で飛来し、ふいに地面に突き刺さった矢のように、みずから選んだ黒い
空の一点に粘着して停止し、勢いあまって尾をぴんとはね上げ、光を放射しながら、きらめく無数の星の
あいだで自分の光をもてあそんでいるかのようだった。ピエールには、この星が、新しい生活に向って花を
開き、やわらげられて、勇気をとりもどした彼の心の中にあるものに、完全に応えてくれているように思われ
たのだった。 (第三巻につづく)
『戦争と平和』(四)エピローグ 第二部より
《…われわれは歴史の次の二つの本質的な問題に、率直に、決定的に答えることができるのである。
(一)権力とは何か?
(二)どんな力が諸民族の運動を生み出すのか?
(一)権力とは、ある人間の他の人々に対する一つの関係で、その人間が活動に参加することが少ないほど、ますます多く、おこなわれている共同の活動に対する意見や、予想や、弁明を表明する、という関係である。
(二)諸民族の運動を生み出すのは、権力ではない、知的活動ではない、歴史家たちが考えたように、その両者の結合でもない、それは、事件に参加し、常に事件に最大の直接参加をする者が、最小の責任を負い、当然その逆もなりたつように編成される、すべての人々の活動である。》
前者はフーコー、後者はプルードンを想起させる。
ただし結論の一行はスピノザ的である。ショーペンハウアー経由のスピノザであろう
《…意識される自由を拒否して、われわれに感じられぬ従属を認めなければならないのである。 了》
『戦争と平和』(四)エピローグ 第二部より
《…われわれは歴史の次の二つの本質的な問題に、率直に、決定的に答えることができるのである。
(一)権力とは何か?
(二)どんな力が諸民族の運動を生み出すのか?
(一)権力とは、ある人間の他の人々に対する一つの関係で、その人間が活動に参加することが少ないほど、
ますます多く、おこなわれている共同の活動に対する意見や、予想や、弁明を表明する、という関係である。
(二)諸民族の運動を生み出すのは、権力ではない、知的活動ではない、歴史家たちが考えたように、その両者の
結合でもない、それは、事件に参加し、常に事件に最大の直接参加をする者が、最小の責任を負い、当然その
逆もなりたつように編成される、すべての人々の活動である。》
前者はフーコー、後者はプルードンを想起させる。
ただし結論の一行はスピノザ的である。ショーペンハウアー経由のスピノザであろう
《…意識される自由を拒否して、われわれに感じられぬ従属を認めなければならないのである。 了》
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