写真・図版
「マルクス・エンゲルス」
 今年はカール・マルクスの生誕200年である。彼の生みだした共産主義という思想で世界は大きく動いたし、今も広く力を保っている。ただ旧ソビエトの解体と東ヨーロッパ諸国の共産圏離脱で彼の名声は大きく揺らいだ。しかし簡単に忘れられていい人物ではない。彼は何を残したのか。
 この映画は1840年代のヨーロッパの田舎から始まる。貧しい人々は森で樹(き)の枝を拾って薪にするのが習慣だったその頃、森に落ちている枝でも勝手に拾うのは盗みだという法律ができて貧しい人たちが森で警官に追われるようになる。そこでこんな事態を引き起こした国家と法律を弾劾(だんがい)する若きドイツ人新聞記者カール・マルクスの登場となる。
 この正義派の熱血青年は哲学で先輩たちに論争を挑み、また経済学の若き革新的論客のエンゲルスと出会って意気投合する。やがて彼らが「共産党宣言」の草案を書き始めるまで、若き日の革命家たちの姿が描かれ、演じられている。
 その思想の現状を知る現代人としては印象は複雑である。人によっては彼らは小生意気な若造たちにしか見えないかも知れない。ラウル・ペック監督はあくまでもマルクスを支持し尊敬する立場でこの映画を作っているが、押しつけがましいところはない。ただマルクスが共産主義思想に達した時期の、ヨーロッパの社会状況と、学者、思想家、社会運動家たちの動向と、今に似た世相とを極力正確に再現しようと努めている様子だ。地味だがそこが良い。マルクスを演じるアウグスト・ディールも、颯爽(さっそう)としてはいるが勿論(もちろん)聖者ではない。(佐藤忠男映画評論家
     *
 28日公開
_______

エンドロールに込められたラウル・ペック監督のメッセージとは?

そして、本作を読み解くうえで重要な鍵になり、同時に最も心を揺さぶるシーンは、実は本編が終わった後のエンドロールかもしれない。そこには本編とは直接関係のない、行きすぎた資本主義によって危機的な状況に陥っている今の世界に繋がる20世紀のさまざまなニュース映像と、世界を変える様々な分岐点に立った人物の姿がランダムに映し出される。
投下される爆弾、破壊された戦禍の街、無邪気な子どもたちの笑顔、権力者に対抗する一般市民、株価の数値に一喜一憂する姿、手持ち無沙汰の失業者たち、やむなく生死を賭けて亡命する難民家族、チェ・ゲバラ、ジョン・F・ケネディ、ネルソン・マンデラ、ロナルド・レーガン、そして本作の監督ラウル・ペック監督が自作『ルムンバの叫び』(2000年)で描いたパトリス・ルムンバ(コンゴ独立の父にして初代大統領)も登場する。

_____

マルクスとエンゲルスは『聖家族』(1844)の時代にはまだプルードンを高く評価していました(ちなみに大月版全集第二巻によれば『聖家族』は共著だがプルードンを扱った節のある第四章はマルクスの単独執筆(『聖家族』英語版該当箇所)である)。
それはあくまで青年ヘーゲル派またはヘーゲル左派のグループの観念性を批判することで現実性を持とうとしたマルクスの思惑に利用された形の相対的な評価でしたが、、、

さて、エンゲルスが1842年のベルリンにおけるヘーゲル左派のグループ「自由人(フライエン)」("Die Freien")の人々の集まりを漫画にして描いた絵があります。
a0024841_2411556.jpg


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Skiz-hegel.png
ヘーゲル左派のメンバー・ルーゲやエトガー・バウアー・シュティルナーらがかかれている。エンゲルスによる風刺画。

解説:
1842年のエンゲルスによる戯画。左からアーノルド・ルーゲ*(『独仏年誌』共同編集者)、ルートヴィヒ・ブール*、カールナウ・ヴェルク*、ブルーノ・バウアー*、オット・ヴィーガント(『ハレ年誌』『ドイツ年誌』『唯一者とその所有』『聖家族』『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を出版したライプツィヒの出版業者)、エトガー・バウアー*、マックス・シュティルナー*、エドゥアルド・マイエン(革命失敗後イギリスに亡命したジャーナリスト)、氏名不明の二人、カール・フリードリッヒ・ケッペン(隊長として。神学者だがこの絵では酒を飲んで酔っぱらっている)。ブルーノ・バウアーはマルクスが編集に参加した『ライン新聞』を踏みつけている。*印をつけた人の著作は平凡社『資料ドイツ初期社会主義』で邦訳を読むことができる。
壁には断頭台があり(ちょうどエドガー兄弟の上)、左の隅には一匹のリス(アイヒホルン)が描いてある(このリスはプロイセンの文部大臣ヨハン・アイヒホルン)を風刺したもの。(参照:大月書店『マル=エン全集』第27巻p345,531、または"The New Hegelians: Politics and Philosophy in the Hegelian School "by Douglas Moggach,p138-9 )

参考:青年ヘーゲル派wikipedia、およびthe young hegelians
ヘーゲル左派日本語研究文献目録

エドガー・バウアー(片手を上げた人)はプルードンに批判的な評論を書き、それが『聖家族』ではマルクスたちの再批判にさらされます。

左端のルーゲなどは、右傾化したと批判されます。そのルーゲと闘っているブルーノ・バウアーはエドガーの兄でエンゲルスを無神論に導いたとされる大学講師で、そのユダヤ人論はマルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)で批判されています。

また、シュティルナーのクールな姿が有名ですが(別バージョンあり)、ただし、これらはあくまでエンゲルスとマルクスの側から見た見取り図です。

もし、プルードンを思想的な中心におくとしたなら、

  マルクス(批判)→プルードン←(批判)シュティルナー

というように左右からプルードンが批判されている構図を描くことができるでしょう。

このように、ヘーゲル左派からはじまりプルードンに着目するのは突拍子もないことではありません。
実際、ヘーゲル左派を研究されている石塚正英氏は、「交換銀行論の系譜——プルードン・ヴァイトリング・ゲゼル 」といった発表をされていて、仏、米、独、といった国境を越えたプルードンの系譜に着目されていて、成果が待たれます。
参考:http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/
   http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/g.html
後記;
上はリンク切れ
目次詳報■石塚正英『革命職人ヴァイトリング』2016 – 社会評論社 公式ブログ

また、佐藤優氏は『私のマルクス』で、ヘーゲル左派の多様性に着目し、スターリン主義、神学、マルクス主義、ユダヤ主義といった要素を読み取っており、ジジェクなどと同様この時期の可能性を掘り起こすことに成功していますが、こちらは残念ながらプルードンへの言及はありません。
参考:http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0709.htm

エドガー・バウアーの描いた「批判的」プルードンとマルクスの理解する「ほんとうの/非批判的/大衆的」プルードンを対比によってマルクスが論じる『聖家族』*は、後の『哲学の貧困』の時期よりもプルードンの本質を描いていると思う。

*追記:
以下のマルクスの言葉をグラムシが何度も引用しているそうだ。

「もしエドガー氏がフランス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうところを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであろう……」
(該当箇所邦訳大月版全集第二巻p36)。<戻る> 
____
1859
経済学批判序言 岡崎次郎 訳

私の専攻学科は法律学だったが、しかし、私は、おもに哲学や歴史を研究し、そのかたわら副次的な学科として法律学を勉強しただけだった。一八四二年から一八四三年にかけて、私は、『ライン新聞』の編集者として、はじめていわゆる物質的な利害関係にどうしても口を出さなければならないという困った羽目におちいった。森林盗伐や土地所有の分割についてのライン州議会の審議、当時ライン州の知事だったフォン・シャーパー氏がモーゼル地方の農民の状態に関して『ライン新聞』を相手にして起こした公開論争、最後には自由貿易と保護関税とに関する論議、これらのことが私に経済上の問題にたずさわる最初のきっかけをつくってくれた。


    去る2017年12月に,私は試写でラウル・ベック監督のベルギー・ドイツ・フランス合作映画「マルクス エンゲルス」を見た。今年はカール・マルクス(1818~1883)の生誕200年にあたるので、それを記念した映画である。この映画にはもちろんエンゲルス(1820~1895)も登場するが、もとのタイトルは「若きマルクス」である。実際にこの映画は,1840年から1848年の『共産党宣言』あたりまでのマルクスの行動を中心にして描いている。
    この映画は、ライン州の森林の中で,枯れ枝を拾い集めている農民を,騎馬警官が暴力的に排除するシーンから始まる。森林に落ちている枯れ枝といえども、地主の「財産」であり、それを拾い集めるのは「窃盗」だとする立場と,いわゆる「入会権」を主張する側との対立である。マルクスは直ちに「ライン新聞」で論陣を張り,「枯れ枝拾い」の正当性を論じた。これは有名な事件であるが、念のためそのいきさつをマルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』(岩波文庫,1974)に付された、訳者である城塚登の「解説」から引用しよう。
    「当時のライン州では貧しい農民が周辺の森林の枯枝を拾い集めて薪に使い,生計の足しにすることが慣習的に認められてきた。それに対して森林所有者の利害を代表する州議会議員たちは、落ちた枯枝といえども木材であり所有物であるから、枯枝集めも窃盗であり刑事犯であるとした。・・・・・・・マルクスは貧しい人たちの慣習的権利は,特権者の慣習的権利とは異なり,実定法に反するものであっても、本来の法律上の権利とは合致するものだということを論証し、貧しい人たちに慣習上の権利を返還するよう要求している。」(p.100~101)
    同じ問題を、廣松渉は次のように記している。「これは農民のいわゆる<入会権>の否認といった次元をはるかにこえる契機を孕んでいた。当時のプロイセンでは犯罪の八割以上,ライン州では何と九割が木材盗伐であったといわれるが、その背景には工業の急速な発展にともなう燃料と還元用木炭の需要が存在した。ドイツでは製鉄のために石炭コークスを使用するのが遅れ,久しいあいだ木炭が用いられていたという史実を想起されたい。盗伐は、森林所有者の<財産保護>もさることながら、森林保護政策という次元でも重大な問題になっていたわけである。」(廣松渉『青年マルクス論』平凡社、1971 p.120) しかし廣松渉は、この問題についてのマルクスが「問題を必ずしもこの次元で捉えたわけではなかった」と指摘している。これは別に考えるべき問題であるが、この「枯れ枝拾い」「木材盗伐」が、マルクスの思想にとって重要な契機になっていたことは確かである。つまり、この「枯枝拾い」のシーンは,マルクスの思想の原点のひとつであり、そこからこの映画を始めた監督の炯眼に注目しておきたい。


第六回ライン州議会の議事 (第三論文)1842年10月25日~11月3日

マルクス「木材窃盗取締法にかんする討論」(第1巻)


 「われわれは貧民の手への慣習法(慣習的権利)の返還を、しかも地方的でない慣習法、あらゆる国々の貧民の慣習法であるような慣習法の返還を要求する。われわれは、さらにすすんで、慣習法あるいは慣習上の権利というものは、その本性上、このような無産で、根源的な、最下層の大衆の権利以外ではありえないのだ、といいたいのである。」P133

 「だがなによりもまず、人倫感のつよい立法者なら、これまで避難されることのなかった行為を犯罪行為の領域にひっくるめてしまうことは、もっともゆゆしく、もっとも心苦しく、そしてもっとも危険なやりくちだと考えることであろう。」P141

英語:

http://www.marxistsfr.org/archive/marx/works/1842/10/25.htm

Articles in Rheinische Zeitung 1842

Proceedings of the Sixth Rhine Province Assembly.
Third Article.

Debates on the Law on Thefts of Wood

Rheinische Zeitung, No. 298, Supplement, October 25 1842

RZ editorial note:
"We regret that we have not been able to publish the second article for our readers.
Editorial board of the Rheinische Zeitung."


独語:

______



Untitled - 東京大学東洋文化研究所

 
(Adobe PDF)
 

www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~suga/papers/shizenntonosettenn.pdf
柳田国男(編)一九三八『山村生活の研究」(復刻版、一九七五、国書刊行会)。 自然の景観というと、私たちは川や森や海などを思い浮かべる。これら川や森や海は ..... そこには、漁業権(現在の大川の鮭漁でいえば、正確には「特別採捕許可」)として、一定の漁. 業を独占的、排他的に営む権利が認められただけである。川自体の所有権は、集落には ... 近代以降、法という外在的な体系により、山野は入会権として括られ、川は漁業権や河川. 法上の二級河川として括られたにすぎないのである。大川沿岸住民のコモンズは ...


柳田国男の「郷土研究」論 - 新潟大学

 
(Adobe PDF)

dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/.../2/h25zeo3.pdf
柳田国男の「郷土研究」論. ― 国民国家の創出 ―. 2014 年 3 月. 新潟大学大学院現代社会文化研究科. 田 中 礼 子 ..... また、山人の研究や山民の生活を. 研究したのも、 中央集権的に平地にのみ適合する政策によって、従来の山地生活を継続させることが. 困難となってきた山人や山民の生活研究し社会に発表することで、政府の政策を批判していたと思. われる。 柳田が農商務省に入省したのは 1900 年のことで ...... 柳田によれば、入会権は古来、自立して生計維持が困難な家計にとってセーフティネットとして機能.
#4
(2)  柳田の見解
 (a)  純益の増加 
これまで柳田が農業政策で提言したことは種々あったけれども、その一つに農業も一職業として純益の多少を問うことが不可欠であるということがある。農業者は農業生産において、総収入から総費用を差し引いて手元に残る金額を確認して経営を行う時代に移行したのであるから、生産費を最小にして、生産量を拡大する経営を行い、時代に適合した経営をしていかなければならないという提言である。 この提言からするならば、この部落有林野は古来、草は牛馬の飼料や肥料、木は薪炭や家用農具材、建築材料に、また萱等は屋根葺きにと無料で農民の使用が許可されてきたのであるから、農民の出費を招来するこの政策に対して当然彼は異を唱えるはずであった。 この政策に対する彼の見解について触れている箇所は二箇所ある。一箇所は 1926 年に早稲田大学政治経済科講義録第49回に発表した『日本農民史』中であり、他は1929年『朝日常識講座』第六巻として発行された『都市と農村』においてである。この書中において述べられている彼の見解について見ていきたい。

 (b)  農の商業化
 柳田によれば、部落有林野の歴史は複雑なものであった。入会には村毎で細かな規約を設け使用していたが、複数の村が同一山林を使用する場合には、争いが起こりやすく、山野の荒廃を招来したという。これを回避するために分割が実行されたが、山林の権利が売買される等、そのために入会権を享受できない農民が多数輩出された。彼によれば、内務省による部落有林野統一政策は、「其最後の一段落であつた」。 彼はこの政策について、次のように述べている(8)。「所謂区有財産整理の問題は其最後の一段落であつた。新町村の町村有地とするには、中々込入つた故障があつた。併し結局は政府までが世話を焼いて、力めて町村民全部の便利に帰するやうに解決したのであつたが、やはり斯うして併合した林野が三分の一は又開墾せられ、三分の一は杉扁柏の植栽地と為つて、其残余だけが真の農業附属地であつた故に、余程の辺鄙な地方で無いと、百姓の建築器具材は勿論、燃料までも自由自在に得られないことになつたのである。農業経済の上から見て、是は可なり大きな変革であつた。即ち今までの仕来りを改めて、農家の金銭収入、即ち換価作物の生産量をうんと多くしなければ、薪炭までを外から買入れて生活することは出来ないのである。一言で言へば農業の商業化が、今や大多数の農村の為に必要になつて来た。而うして政府の近頃の農業政策も、農業倉庫の普及とか、調製荷造法の改良とか、何れも之に対する準備のみを以て忙殺されて居る姿である。」 内務省の部落有林野統一政策に対して、柳田が導出した結論は農業の商業化の更なる推進であった。「農家の金銭収入」を増加させるために、「換価作物の生産量」を増大することである。「換価作物の生産量」の増大が「農家の金銭収入」の増加に帰結するためには、「市場」のあり方が問われることとなる。 これがまず、彼が部落有林野の統合について述べた見解のその一である。それでは、見解のその二はどのようなものであろうか。

 (c)  セーフティネットの構築 
都市と農村』中での彼の見解はどのようなものであろうか。 柳田によれば、入会権は古来、自立して生計維持が困難な家計にとってセーフティネットとして機能してきたという(9)。「婦女幼若衰老の家々に於て、曾て辛うじて其家業を保持せんとした力は、同時に二つの側面から段々に狭められることになつた。田植え稲扱の日にも手間返しが出来ず、所謂落穂拾ひの余得が許されなくなると、後家などの生計は浅ましいものになり勝ちで、以前は恥を包んで幽かな生存を繋ぐ為に、唯一つの隠れ家は山林であつた。凶年には村を挙げて野山の物を求めた如く、この稍鷹揚なる入会権の利用が、多くの古田の村を支へて居た力は大であつた。」 この部落有林野に対して、「行政は心無く之に干渉して、所謂整理と分割とを断行してしまつた。」この断行によって焼畑や切替畑の利用が制限されてしまったという。この焼畑や切替畑とは、年貢が山地としての負担で軽減されていたので、広く耕作が開放されており、主に貧民がこれを活用していたものであった。「それが出来なくなつてから、次第に慈善と救助が必要になつたのである。」 「官民の造林事業」もまた、資力のある者には有利に働き、貧民にとっては不利なものであった(10)。利益が均分されなかったからである。共有地の分割もまた、結果としては不公平なものとなった。分割された地積の大半はわずかな期間で少数の人間に取りまとめられ、利用不可能となる人々を生んだ(11)。 柳田はこの政策に対して批判的ではあるけれども、部落有林野の統一を元に戻せとは一言も述べてはいない。この政策によって「慈善と救助が必要になった」とのみ述べている。つまり、これまで入会権が果たしてきたセーフティネットが現在も必要であり、政府はそれを構築しなくてはならないと言っているのである(12)。彼は、これまで村がおこなってきた共同生産や共有といういわゆる「村の古制」は、農民組合を活用して新しい時代に適合したものを見出していくべきであり、経営の再生産が不可能な農民が経営的に上昇することはないことを「一様に自覚させることが肝要である」と述べている。 

(8)  伊藤幹治・後藤総一郎・宮田登・赤坂憲雄・佐藤健二・石井正巳・小田富英編『柳田國男全集』第3巻、筑摩書房、1999 年、426 頁。
 (9)  上掲、『柳田國男全集』第4巻、291頁。 
(10)  「(御立山村立山、即ち官民の造林事業では)元は労働の機会を多くする趣旨も含まれたか知らぬが、後には屡々余分の夫役が、此為に課せられて居る。如何なる形に変じても共有財産ならば可さゝうなものだが、其利益は常に必ずしも均分せられない。売つて村の収入として村費に充てられる場合には、多くの税を払ふ者が多く負担を軽められる。下木を苅敷に使ふことが出来なくなると、肥料を買ふ段では貧しいからとて少なくするわけには行かぬ。其他燃料であれ家具器材の資料であれ、金を出し得ぬ者が労力を多く出して、失費を免れようといふ途は絶えてしまつて、働く機会は又爰でも制限せられたのである。」上掲、『柳田國男全集』第4巻、291頁。
 (11)  「此分割の実は均等で無かつたことも、今になつては誰にでも認められるであらう。素地の値打は待つて居て始めて現はれる。それを持ち耐へることの出来る者と出来ぬ者と、単に同一の面積を籤引で分けたといふことが、公平なものである筈が無い。だから三年も立たぬ内に二三人の手に取纏められて、今度は恩恵を以て渋々にその少しの利用が承認せられる。他人がそれを引継ぐと忽ちにして縄を張り侵入罪が成立ち、誠に意味も無く永年のモアヒが消えてしまふ。全体村持の野山などは、民法がそれを共有と視たといふのみで、単なる共同の私有物では無かつた。不断は何人も我有と思つて居らぬ点に、村を結合せしむる本当の力があつた。」上掲、『柳田國男全集』第4 巻、291頁。
 (12)  このセーフティネットの構築に関しては、柳田の提言から判断するならば、おそらく彼は組合制度を利用して構築された「地域」をセーフティネットとして活用しようと考えていたと思われる。その理由としては、例えば産業組合の加入資格として次のように地域を限定していたからである。「組合の取引は如何なる遠隔の地と之を為すも勝手なれども唯其組合に加入する者は必ず其区域内に住所を有する者ならざるべからず。信用組合に在りては組合の区域は一市町村より大なること能はず。即ち市、町、村、区、大字又は小字を以て区域と為すべく市と村とを合せて区域とし又は数町村乃至郡等を以て区域とする能はず」(『柳田國男全集』第1巻、22頁)。その理由としては、区域が小規模であるならば、組合員の「行状資力」や性向が熟知されるからであったが、彼が区域を限定してこの組合に期待したことが「漸々廃弛せんとする郷党の結合心」の「恢復」でもあったので、組合活動をとおしてかつての「村」単位の結合を図ろうとしたと思われる。

 NAMs出版プロジェクト: ちくま文庫『柳田国男全集』全32巻:目次
#29
日本農民史………………………………… 229
都市と農村………………………………… 333

8:8
493頁
「婦女幼若衰老の家々に於て、曾て辛うじて其家業を保持せんとした力は、同時に二つの側面から段々に狭められることになつた。田植え稲扱の日にも手間返しが出来ず、所謂落穂拾ひの余得が許されなくなると、後家などの生計は浅ましいものになり勝ちで、以前は恥を包んで幽かな生存を繋ぐ為に、唯一つの隠れ家は山林であつた。凶年には村を挙げて野山の物を求めた如く、この稍鷹揚なる入会権の利用が、多くの古田の村を支へて居た力は大であつた。」 



 1929年


#8:6
現在の共産思想の討究不足、無茶で人ばかり苦しめてしかも実現の不可能であることを、主張するだけならばどれほど勇敢であってもよいが、そのためにこの国民が久遠の歳月にわたって、村で互いに助けてかろうじて活きて来た事実までを、ウソだと言わんと欲する態度を示すことは、良心も同情もない話である。 (『都市と農村』)

柄谷遊動論#1より孫引き


日本農民史………………………………… 229
日本農民史
1農村

山林の権利が売買される等、そのために入会権を享受できない農民が多数輩出された。彼によれば、内務省による部落有林野統一政策は、「其最後の一段落であつた」(#1農村「日本農民史」文庫全集29:255頁)。


____

参考:

NAMs出版プロジェクト: プルードンによるクールベ論
 http://nam-students.blogspot.jp/2009/10/blog-post_28.html
NAMs出版プロジェクト: プルードン/マルクス往復書簡
 http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_10.html
《もしよければ、社会の諸法則やこれらの法則が実現される様式、われわれがそれにそって諸法則を発見するにいたる進歩を一緒に探究したいものです。しかし、あらゆる先験的独断論をしりぞけたあとで、こんどはわれわれが人民を自分の教義に従わせようなどとは決して考えないでおきましょう。カトリック神学を転覆した直後に、破門と呪詛を多用してプロテスタント神学をうちたてはじめたお国のマルチン・ルターのような矛盾に陥らないようにしましょう。ここ三百年というもの、ドイツはルターの塗り替えた漆喰を破壊することだけに専心させられてきたのです。新たな混乱によって人類に新たな仕事を課するようなことはやめましょう。私は、すべての意見を公にするというあなたの考えに心から拍手を送ります。われわれは実り多い真面目な論争をやりましょう。賢明で先見の明に満ちた寛容の模範を世界に示しましょう。しかしわれわれは一つの運動の先頭に立っているのですから、新たな不寛容の頭目になったり、新しい宗教の使徒を自任したりしないでおきましょう。たとえそれが論理の宗教や理性の宗教であったとしても、です。あらゆる異議を歓迎し、奨励しましょう。すべての排他性や神秘主義を払拭しましょう。いかなる問題でも決して解明され尽くした問題とは見なさないようにしましょう。そしてわれわれがとことんまで議論を尽くしたあとでも、もし必要なら、雄弁と皮肉でもってもう一度議論をやりはじめましょう。この条件でなら私は喜んであなたの同盟に加わりましょう。だが、もしそうでないのならおことわりします。… 》1846年5月17日プルードン


NAMs出版プロジェクト: 『哲学の貧困』(マルクス)へのプルードンの書き込み(簡易版):再送
 http://nam-students.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html?m=0
《<17>138/125  Le veritable sens de l'ouvrage de Marx,C'est qu'il a regret quepartout j'aie pense comme lui,et que je l'aie dit avant lui.
Il ne tient qu'au lecteur de croire que c'est Marx qui,apres m'avoir lu,a regret de penser comme moi! Quel homme!
   (…マルクスの著作の本当の意味は、とりわけわたしがかれと同じように考え、そしてかれよりも前にわたしがそのことを言ったことを残念がっているところにあるのだ。いやはや何という男だ!)」》

NAMs出版プロジェクト: ヴァイトリングと『アイアンホース』とプルードン
                      (プルードンリンク::::::::::
19世紀前半のドイツに登場した手工業職人ヴィルヘルルム・ヴァイトリング(wiki)(1808~71)は、一般に暴力主義的な左翼運動家と思われているが、アメリカに渡ってからはプルードンのアソシエーション志向に共鳴し、大陸横断鉄道建設などにも関わったと言う。
石塚正英氏の研究が詳しい、、、、

http://www.geocities.jp/ishizukazemi/text.html (文字化け注意)
石塚正英主要著作解説
 8 社会思想の脱・構築――ヴァイトリング研究、単著、世界書院、1991.5. ドイツ三月革命前の労働者革命家ヴァイト リングは、19世紀中葉以降のアメリカにおい ては、もはやヨーロッパ当時のような秘密結社や武装蜂起でなく、労働 者による労働者の ための交換銀行を設立することによって理想社会を実現しようと邁進する。ドイツ・ヨー ロッパ時 代の<前期ヴァイトリング>は直接行動に革命成就の突破口を見出そうとしてい たが、アメリカ時代の<後期ヴァイ トリング>は、労働者銀行(交換銀行)・協同組合・ アソシエーション(大陸横断鉄道建設)を基盤として経済的変革に よって労働者共和国ア メリカを建設するべく大衆運動を拡大していった。その際、ヴァイトリングの思想と行動 におけ るそのような変化は転向というものでなく、<前期>と<後期>は一貫していたと いう結論を本書で提示している。恩 師の大井正に献じる。ヴァイトリング研究第4作。     

『社会思想の脱・構築――ヴァイトリング研究』(世界書院、1991.5) ←資料的にも充実した名著。
 
カレツキがやったようにマルクス再生産表式から有効需要の原理は導き出せるのだから
マルクス経済学と近代経済学との間にたいした齟齬はない
限界効用理論との対立もそれぞれ微分と積分に対応するに過ぎない
ただし労働組合の意義をどう捉えるかが問題でこれには素朴な集合力理論に立ち還る
必要がある
協同組合と労働組合の齟齬などはラッセルは指摘しているのにマルクス主義者は無自覚だ
代替案を提示していない
プルードンとマルクスを対立関係に捉えない柄谷行人に唯一の希望がある




『資本論』はなぜヴィルヘルム・ヴォルフに捧げられているか?


 『資本論』の冒頭には
 
 忘れがたきわが友
 
 勇敢、誠実、高潔なプロレタリアート前衛戦士
 
 ヴィルヘルム・ヴォルフ
 
 にささぐ
 
 というマルクスの献辞が書かれています。
 
 少し前に、マルクス主義同志会のホームページの質問コーナーにこのヴィルヘルム・ヴォルフの質問が寄せられています。マルクス主義同志会に寄せられた質問はマルクス主義同志会が答えるべき性質のものではありますが、それができないところに現在のマルクス主義同志会の置かれている悲劇的な現状があります。
 
 もちろんわれわれ赤星マルクス研究会は彼らの悲劇をどうのこうのいう立場ではありませんが、この質問は非常に重要だと思うのでわれわれの見解を述べたいと思います。
 
 (われわれがこのような書き出しで書いている途中、いろいろな所用でこの続きを書くことを後回しにしなければなりませんでした。しかし、その間にわれわれが恐れている事態が起こった。とうとう、ある人がマルクス主義同志会に「お前達の解答は解答になっていない」と怒りをぶちまけたのである。このようにしてマルクス主義同志会は解体していくのか、という典型のような出来事ですが、マルクス主義同志会自身が自分たちのおかれている悲劇的な情況を認識できないために、事態はますます喜劇の外観を持ち始めています。マルクス主義同志会の諸君がこの喜劇の背後に隠されている自分たちの悲劇に気がつかなければ、ここでマルクス主義同志会は間違いなく最終ピリオドを打たなければならないかもしれないということを、老婆心ながら、警告しておきたいと思います。)
 
 1 マルクスとヴィルヘルム・ヴォルフが知り合ったのは1846年4月でしたが、以来1864年に死ぬまでマルクスと行動をともにした「勇敢、誠実、高潔なプロレタリアート前衛戦士」でしたのでマルクスの献辞はそのまま彼の人生を表しています。
 
 1846年というのは、ブリュッセルでマルクスとエンゲルスが共産主義者同盟の前身である共産主義通信委員会(通称ブリュッセル委員会)を設立した年で、この団体の目的はドイツ、イギリス、フランスの社会主義者の相互交流を目的としていたことから分かるように最初からインターナショナルな性格を持っていました。
 
 このブリュッセル委員会はやがて発展的に解消して1847年に共産主義者同盟というはじめて労働者階級の政治組織になっていきます。
 
 共産主義者同盟は同盟の目的および目標として「ブルジョアジーを打倒し、プロレタリアートの支配をうち立て、階級対立にもとづく従来のブルジョア社会を廃止し、階級のない、私的所有のない新しい社会を建設すること」をあげていますので、労働者の政党とも言ってもいいでしょう。
 
 なお、この時、マルクスとエンゲルスは「万国の労働者団結せよ!」というスローガンを掲げるよう提案し、それは同盟に受け入れられました。共産主義者同盟は最初から労働者の国際的なつながりを基礎においていました。だからわれわれ赤星マルクス研究会もホームページの下にでっかく「万国の労働者団結せよ!」というスローガンを掲げて自分たちが何者であるのかを明確にしています。
 
 この共産主義者同盟の綱領としてマルクスとエンゲルスは『共産党宣言』と『共産主義の原理』を書きました。これが出版されたのが1848年2月で、ヨーロッパを席巻した「1848年の革命」の直前でした。
 
 革命の勃発とともにマルクス夫妻はブリュッセルを追放になりパリに向かいますが、ヴォルフは理由もなくベルギーの官憲に逮捕され暴行を受けます。
 
 やがてマルクスは革命の勃発したドイツに戻り、ケルンを拠点に『新ライン新聞』を発行します。ブォルフも危険をおかしてドイツに帰国し『新ライン新聞』の編集部に入り、ケルン労働者協会の指導も引き受けます。
 
 ドイツ革命の退潮とともにマルクスはイギリスへの亡命を余儀なくされてしまいますが、ヴォルフも1851年にイギリスに亡命します。
 
 そして共産主義者同盟ロンドン支部は1852年に組織の実態がなくなったことを理由にして解散されます。(この提案を行ったのはマルクス自身でした。この共産主義者同盟の分裂と解散についてはマルクス年代記の中で書いていますので省略します。)
 
 ロンドンに亡命したヴォルフは1864年に亡命地マンチェスターでなくなります。
 
 マルクスのそばには絶えずヴォルフがいたし、ヴォルフは「勇敢、誠実、高潔なプロレタリアート前衛戦士」であったことも確かなことです。  
 
 
2 もう一つの見方は、経済的な問題です。エンゲルスがマルクスを経済的に支えていたのは有名な話ですが、ヴォルフも家庭教師をしながらマルクスを経済的に支えています。
 
 もちろん、ヴォルフ自身が貧乏ですので、いつもというわけにはいかないのですが、エンゲルスがマルクスの経済的な支援の要請を断ったとき、マルクスは、私の妻(イエニー・マルクス)がヴォルフに相談したら、ヴォルフは内緒だと言って、50ポンドも送ってくれたんだよ。あのヴォルフがだよ、私はヴォルフに申し訳なくて、涙が出てしょうがなかった、とエンゲルスにいっています。
 
 1864年にヴォルフは亡くなりますが、彼の死の直前に彼の父が亡くなったので、その遺産として彼に渡った800ポンドをヴォルフは遺言でマルクスに残します。
 
 ちょうどこの時期はマルクスが提唱した国際労働者協会の設立期と重なっているため、マルクスはヴォルフの残した遺産の多くを国際労働者協会設立のために使いましたが、1867年に『資本論』の初版の発行にようやくこぎつけたとき、マルクスの胸には800ポンドの遺産を自分に残していってくれたブォルフがよぎったのではないでしょうか。
 
3 これは直接的なものではなくマルクス主義の形成過程にかかわるものですが、われわれは前に、マルクスとルーゲはともにヘーゲル法学派、すなわち、観念的なブルジョア民主主義者であったので、マルクスがルーゲと決別したときがマルクス主義がマルクス主義として自立したときであるといいました。
 
 その決別は1844年7月にやってきます。この年の6月にドイツのシュレージエン地方で織布工の武装蜂起があり、軍隊によって鎮圧されるという事件が起こっていますが、マルクスはルーゲがこのシュレージエン蜂起を侮辱的に論評したことから怒りを爆発させます。
 
 マル・エン全集の第1巻に納められている『批判的論評』というのがそれに当たります。
 
 この中でマルクスはシュレージエン蜂起を
 
 「さしあたり織布工の歌を思い出してみるがいよい。この大胆なスローガンの中では、家庭や仕事場や居住地域のことには全然ふれずに、プロレタリアートがいきなり私的所有の社会に対する彼らの敵対を、あからさまで鋭く、率直で力強い仕方で絶叫している。
 
 シュレージエンの蜂起は、フランスとイギリスの労働者の蜂起が終わったところから、つまりプロレタリアートの本質の自覚から、はじまっている。行動そのものがこのようなすぐれた性格をおびている。
 
 労働者の競争者である機械が打ち壊されただけだけでなく、財産の要求権をしめす会計帳簿までも破り捨てられた。
 
 またその他の運動はすべてはじめは目に見える敵である工場主だけに向けられているのに、この運動は同時に目に見えない敵である銀行家にも向けられている。
 
 最後に、イギリスの労働蜂起には、どれ一つとして、これほど勇敢に、慎重に、ねばり強くおこなわれたものはない。」
 
と賞賛している。
 
 そして、最後に
 
 「『プロイセン人』氏(ルーゲのこと)よ、君は言いかえでも、不合理でも、どちらでも選ぶがいよい!だが、政治的精神をもってする社会革命なるものが言いかえであるか、あるいは不合理であるかにつれて、社会的精神をもってする政治革命はそれだけ合理的になるのである。
 
 いやしくも革命というもの――現在権力の打倒と従来の諸関係の解体――は一つの政治的な行為である。
 
 だが革命なしには、社会主義は実現できない。社会主義は、破壊と解体を必要とするかぎりで、右のような政治的行為を必要とする。
 
 しかし、社会主義の組織活動がはじまり、その自己目的、その精神があらわれるようになると、社会主義は政治的なベールをかなぐりすてる。」
 
 といいます。
 
 少し前の『ヘーゲル法哲学批判』では、マルクスは「人間をいらしめられ、隷属させられ、見すてられ、軽蔑された存在にしておくようないっさいの諸関係を、くつがえせ」といい、その役割をドイツのプロレタリアートに託しましたが、シュレージエンの労働者蜂起はそれを実行しうるにたる存在であることを明らかにしました。
 
 マルクスは後日、自分が共産主義者になったのはこのシュレージエン蜂起がきっかけであったと語っていますが、シュレージエン蜂起はまさにマルクスが予見し、期待をしていたものでもありました。
 
 そしてヴォルフの生まれたタルナウはシュレージエン地方にあり、ヴォルフ自身が隷農出身でありながら苦労して大学に進学して、この地方の活動家になった人でした。そしてその活動ゆえに、逮捕され軍事監獄をたらい回しにされてきたのですが釈放されるとマルクスのもとへやってきて、シュレージエン地方のルポルタージュを書いています。
 
 マルクスがヴォルフを見る目が特別であったのは、まさにマルクスはヴォルフにドイツの、いや世界の労働者階級の姿を見ていたからです。
 
 搾取と抑圧の中で、断固として闘いに立ち上がるヴォルフのような労働者階級の戦士のために『資本論』は捧げられているということです。   

1:22:1
…商品生産がそれ自身の内在的法則に従って資本制的生産に発達するのと同じ程度で、商品生産の所有法則が資本制的取得の法則に転変する。 
二四 だから、資本制的所有に対立させて商品生産の永遠的所有法則を有効ならしめることによって資本制的所有を廃絶しようとする、プルードンのずるさは驚くべきものである!

1:22:3
注41
…[シーニョア批判]
第二版への追加。俗流経済学者は、人間のあらゆる行動はその反対の行動からの『節慾』と解されうる、という簡単な反省をしたことがない。食事は断食の節慾であり、歩行は停立の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、怠惰は労働の節慾である、等々。諸君は一度、スピノザの規定は否定であるという言葉について沈思してみるがよい。