月曜日, 9月 24, 2018

和歌でない歌 中島敦 (リンク付き)[作業中]

和歌でない歌

中島敦

    遍歴
ある時は
ヘーゲルが如萬有をわが體系にべんともせし
ある時は
アミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひし
ある時は若き
ジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬ
ある時は
ヘルデルリンはね竝べギリシャの空を天翔りけり
ある時は
フィリップのごとさき町にちひさき人々ひとを愛せむと思ふ
ある時は
ラムボーと共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心
ある時は
ゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせし
ある時は
淵明えんめいが如疑はずかの天命を信ぜんとせし
ある時は觀念イデアの中に永遠を見んと願ひぬ
プラトンのごと
ある時は※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーリスのごと石に花に奇しき祕文を讀まむとぞせし
ある時は人を厭ふと石の上にもだもあらまし達磨の如く
ある時は李白の如く醉ひ醉ひて歌ひて世をば終らむと思ふ
ある時は王維をまねびじやくとして幽篁のうちにひとりあらなむ
ある時はスウィフトと共にこの地球ほしYahooヤフー 共をば憎みさげすむ
ある時はヴェルレエヌの如雨の夜の巷に飮みて涙せりけり
ある時は阮籍げんせきがごと白眼に人を睨みて琴を彈ぜむ
ある時はフロイドに行きもろ人のあやしき心理こころさぐらむとする
ある時はゴーガンの如逞ましき野生なまいのちに觸ればやと思ふ
ある時はバイロンが如人の世のおきて踏躪り呵々と笑はむ
ある時はワイルドが如深き淵に墮ちて嘆きて懺悔せむ心
ある時はヴィヨンの如くあやめ盜み寂しく立ちて風に吹かれなむ
ある時はボードレエルがダンディズム昂然として道行く心
ある時はアナクレオンとピロンのみ語るに足ると思ひたりけり
ある時はパスカルの如心いため弱き蘆をばめ憐れみき
ある時はカザノ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)のごとをみな子の肌をさびしくめ行く心
ある時は老子のごとくこれの世の玄のまた玄空しと見つる
ある時はゲエテ仰ぎて吐息しぬ亭々としてあまりに高し
ある時は夕べの鳥と飛び行きて雲のはたてに消えなむ心
ある時はストアの如くわが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか
ある時は其角の如く夜の街に小傾城などなぶらん心
ある時は人麿のごと玉藻なすよりにし妹をめぐしと思ふ
ある時はバッハの如く安らけくたゞ藝術に向はむ心
ある時はティチアンのごと百年ももとせの豐けきいのち生きなむ心
ある時はクライストの如われとわが生命を燃して果てなむ心
ある時は・耳・心みな閉ぢて冬蛇ふゆへびのごと眠らむ心
ある時はバルザックの如コーヒーを飮みて猛然と書きたき心
ある時は巣父の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
ある時は西行がごと家をすて道を求めてさすらはむ心
ある時は年老い耳もひにけるベートーベンを聞きて泣きけり
ある時は心咎めつゝ我の中のイエスを逐ひぬピラトの如く
ある時はアウグスティンが灼熱の意慾にふれて燒かれむとしき
ある時はパオロにりし神の聲我にもがもとひたに祈りき
ある時は安逸の中ゆ仰ぎ見るカントの「善」のいつくしかりし
ある時は整然として澄みとほるスピノザに來てをみはりしか
ある時は※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)レリイ流に使ひたる悟性の身をきずつけし
ある時はモツァルトのごと苦しみゆ明るき藝術ものを生まばやと思ふ
ある時は聰明と愛と諦觀をアナトオル・フランスに學ばんとせし
ある時はスティヴンソンが美しき夢に分け入り醉ひしれしこと
ある時はドオデェと共にプロ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンスの丘の日向ひなた微睡まどろみにけり
ある時は大雅堂を見て陶然と身も世も忘れ立ちつくしけり
ある時は山賊多きコルシカの山をメリメとへめぐる心地
ある時は繩目解かむともがきゐるプロメシュウスと我をあはれむ
ある時はツァラツストラと山に行きまなこるどの鷲と遊びき
ある時はファウスト博士が教へける「行爲タートによらでは救はれじ」
遍歴へめぐりていづくにか行くわがたまぞはやも三十みそぢに近しといふを

    憐れみ讚ふるの歌
ぬばたまの宇宙の闇に一ところ明るきものあり人類の文化
玄々げんげんたる太沖たいちゆうの中に一ところあたたかきものありこの地球ほしの上に
おしなべて暗昧くらきが中に燦然と人類の叡智光るたふとし
この地球ほし人類ひとの文化の明るさよ背後そがひの闇に浮出て美し
たとふれば鑛脈くわうみやくにひそむ※(「王+干」、第3水準1-87-83)らうかんか愚昧の中に叡智光れる
幾萬年人れ繼ぎてきづきてしバベルの塔の崩れむ日はも
人間の夢も愛情なさけも亡びなむこの地球ほし運命さだめかなしと思ふ
學問や藝術たくみ叡智ちゑ戀愛情こひなさけこの美しきもの亡びむあはれ
いつか來む滅亡ほろび知れれば人間ひと生命いのちいや美しく生きむとするか
みづからの運命さだめ知りつゝなほ高くのぼらむとする人間ひとよ切なし
弱き蘆弱きがまゝに美しく伸びんとするを見れば切なしや
人類の滅亡ほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり
しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも
あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふほかみちなし
ありのまゝこの人生を愛し行かむこの心よしと頷きにけり
我は知るゲエテ・プラトンしき世に美しき生命いのち生きにけらずや
きつとして霜柱踏みて思ふこと電光影裡でんくわうえいり如何に生きむぞ

    石とならまほしき夜の歌 八首
石となれ石は怖れも苦しみもいかりもなけむはや石となれ
我はもや石とならむず石となりて冷たき海を沈み行かばや
氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黒き小石に
づれば氷の上を風が吹く我は石となりてまろびて行くを
腐れたるうをまなこは光なし石となる日を待ちて我がゐる
たまきはるいのち寂しく見つめけり冷たき星の上にわれはゐる
あなくらや冷たき風がゆるく吹く我は墮ち行くも隕石のごと
なめくぢか蛭のたぐひかぬばたまの夜の闇處くらどにうごめきわら

    また同じき夜によめる歌 二首
ひたぶるに凝視みつめてあれば卒然そつぜんとして距離の觀念くなりにけり
大小だいせう遠近ゑんきんもなくほうけたり未生みしやうわれや斯くてありけむ

    夢
何者か我に命じぬり切れぬ數を無限に割りつゞけよと
無限なる循環小數いでてきぬ割れども盡きず恐しきまで
無限なる空間をちて行きにけり割り切れぬ數の呪を負ひて
我が聲に驚き覺めぬ冬の夜のネルの寢衣ねまきに汗のつめたさ
無限てふことのかしこさ夢さめてなほしまらくを心慄へゐる
この夢は幼き時ゆいくたびかうなされし夢恐しき夢
へば夢の中にてこの夢を馴染なじみの夢と知れりし如し
ニイチェもかゝる夢見て思ひ得しかツァラツストラが永劫囘歸

むかしわれはねをもぎける蟋蟀こほろぎが夢に來りぬ人の言葉くちきゝて

何故なにゆゑか生埋にされ叫べどもわめけど呼べど人は來らず
叫べども人は來らず暗闇くらやみに足のかたよりくさり行く夢

    夢さめて再び眠られぬ時よめる歌
何處どこやらに魚族奴等いろくづめらが涙する燻製くんせいにほふ夜半よはかわきて

    放歌
我が歌はつたなかれどもわれの歌ことびとならぬこのわれの歌
我が歌はをかしき歌ぞ人麿も憶良もいまだ得まぬ歌ぞ
我が歌は短册に書く歌ならず街をきつゝメモに書く歌
わが歌は腹の醜物しこものあさるとかはやの窓の下に詠む歌
わが歌は吾がとほおやサモスなるエピクロス師にたてまつる歌
わが歌は天子呼べども起きぬてふ長安の酒徒に示さむ歌ぞ
わが歌は冬の夕餐ゆふげのちにして林檎しつゝよみにける歌
わが歌はあした瓦斯ガスにモカとジャ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)のコーヒーつゝよみにける歌
わが歌はアダリンきかずいねられぬ小夜更床さよふけどこによみにける歌
わが歌は呼吸いき迫りきて起きいでしあけの光に書きにける歌
わが歌は麻痺劑強みヅキ/\と痛む頭に浮かびける歌
わが歌はわが胸の喘鳴ぜんめいをわれと聞きつゝよみにける歌

身體うつそみの弱きに甘えふやけゐるわれの心を蹴らむとぞ思ふ
あしとみな失ひて硝子箱に生きゐる人もありといはずや
ゲエテてふをとこ思へばつらにくし口惜くやしけれどもたふとかりけり
ほそつよく太く艶あるの聲の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)
ゴッホの眼モツァルトの耳プラトンの心兼ねてむ人はあらぬか


底本:「中島敦全集第二卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年5月25日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年12月25日初版第3刷発行
底本の親本:「中島敦全集第三卷」筑摩書房
   1949(昭和24)年
入力:川向直樹
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月5日作成
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