水曜日, 8月 28, 2019

試訳Mitchell-macroeconomicsu2019#1,9,10,20,21,22,23


ミッチェルMitchell-macroeconomicsu2019#1,9,10,20,21,22,23

23:10



ミッチェルMitchell 2019 詳細目次
ミッチェル2019(ラーナー機能的財政の基本的な諸関係を改変):
             ______
            |      |・フクロウの比喩(第三の道)☆
            |  政策  |[]20~24
            |______|・自動運転のハンドルの比喩(金融緩和のアクセル、
         ___|________(消費税のブレーキ、など自動車の比喩は有効か)
        /            \
       /              \[]17~19 
      /      E非雇用      \
     /        /雇用       \・95本の骨/100匹の犬の比喩☆
    /____________________\
    |         Y所得        |[]11~16
    |____________________|
    |   | |      I投資     |  15.5
    |C(Y) |______________|・投資=もう一本の蛇口?
    |消費 | |I(i)  | i利子率  |  12.5,25.5
    |性向 | |投資 |  |_______|  
    |   | |機会 |  |i | |M |[] 9~10   
    |___| |___| (M,Y) |貨幣|・バスタブ、シンクの比喩
    ([])  []  流動性選好  
          25~26   /   
                 /
   歴史[]1~8,[]27~30,[]31~33現状,未来
(レンズの比喩はMitchell2019#2で使われている。☆も使われている。#8:128も参照。)

1.1 経済とは何か?2つの視点

米国大統領のトルーマンは片腕となる経済学者を求めていたと言われている。なぜなら彼は、彼の経済学者にいつも「ええと、1つの方向から見れば、我々はXという方法を取り得ます。しかし、一方では、Yもあり得ます」という言葉にイライラしていた。また、そのXとYというのが大体、正反対であった。
その物語はもちろん面白い、しかしそれは社会科学全般に存在する象徴的な問題だ。不幸にも経済学者は時々「ビジネスの決断の研究」や数学の一種に追いやられる。その視点は、数学やモデルの多用やモデルを使った学習によって引き起こされる。経済学者の「科学的決断」としてのこの視点は非常に人工的な、「便益を最大化し費用をさける矛盾ない行動をする非常に合理的な機械だけの世界」という仮定を想定している。それが真実だとしたら、もちろんトルーマンのアドバイザーが「正しい」政策を思いつくことは簡単だっただろう。
この教科書は経済の学習の幅広い視点を代わりに提供する、またそれは社会科学に含まれる。トルーマンの経験が描き出したように、経済学者は、心理学者や政治学者のような他の社会科学と同じように間違う。なぜならそれは人間の修正を取り扱っているからである。その修正は我々が「経済」として示す球体として発生している。その習性とやらは、それ自体では定義しにくく、他の人間の交流の場と区別しにくい。社会科学の「人間の習性」という命題は複雑なので、我々は良くその理由や法則を理解していない。その人間の習慣には、どのような方法が望ましいかすらも分からない。もし我々が成し遂げた結果を知ったとしても、我々は、望ましい結果を生み出す政策を確実には分からない。
我々が社会生活の休息から経済を切り離したり、または経済学を生活のエリアを当てはめたり、有用性だと考えているかもしれない間、我々は分割が必ず独断的だと認識する。実際、経済にリンクしていて、他の社会科学分野の調査結果を取り入れた とされる「経済生活」という分けられた領域は、全く存在しない。
さらに、我々は、注目すべき正しい道はないということを強調したい。このテキストブックのなかでは、我々は多様な方法を使い、我々が作り上げた「経済」の理解に迫る。我々は時たま他の分野から研究や方法を引用するだろう。数式やモデルも使うだろう。なぜなら我々は経済学の歴史、経済学の考え方は、今日の経済を理解するのを助けてくれると信じているからだ。我々は経済の出来事が起こった期間や、過去の理論家たちの考えを検討するために、過去を振り返るだろう。
この章の休止部分では、我々は少しの間、2つの王道の経済げに考え方の概略を説明する。その考え方は、先ほどの偉大な理論家たちによって提供された。また同じように今日の経済学者も使用している。それらの考えをカテゴライズしたり、個々に分類したりすることはいつも危険である。あらゆる政党の政治家(オーストラリア労働党だろうと、アメリカ共和党だろうと)は所属政党のほとんどの人が共有している様々な考えを持っているのと同じように、彼ら(政治家)はライバル政党と一致した考えを持っている。これは経済学者にも当てはまることだ。未だに、2つの主流の考え方は経済学に有用であり、200年にも及ぶ議論を支配している。
トルーマンのイライラの物語を思い出すと、明らかにされた行き詰まりに関連している、正当(もしくは新古典派)的なアプローチと、異端(あるいはケインジアン、制度学派、マルクス派的)なアプローチ(それは主流の教会でもある)2つの手を考えることができる。さあ、いっしょにどちらも学んでいこう。そしてそのなかで一般化して考えいこう。

主流派および新古典派のアプローチ

新古典派のアプローチにおいて、人間の本質に関する重要な仮定は「個人の要求はそれぞれの便益と費用を最大化する」というものだ。さらに、合理的な個人は利己的であり、彼らにとって最大の便益を要求し、そして他者の行動から便益も不利益もどちらも受け取らない。新古典派経済学は「個人は合理的である」と仮定している。その個人は限界まで便益を最大化すると仮定している。しかしながら、個人は、彼らが消費する資源に制約されている。新古典派はこの点に「個人の資源は限られている」と言及している。互いの便益の交換は資源の再分配である。そして交換によってどちらの当事者の便益を増やす。
自由市場の仮定では、交換は意識的な相対価格の競争で行われる(相対価格は比率である。例えば、一匹のシカ、三匹のビーバー、六匹のウサギ、二束の小麦、10時間の労働は同じである、というようなものだ)。市場の参加者はシグナルとして相対価格を取る。相対的な欠乏(相対的に価格が低い状態)は交換される財の価格の上昇をもたらし、生産者は供給を増やし、消費者は需要量を減らす。例えば、もし経済学を履修した学生の供給が、経済学者の需要を下回っているならば、経済学者の歴史学者と比較した場合の相対賃金は上昇する。この学生へのシグナルは、彼らを歴史を学ばせるのではなく、経済を学ばせるようにする。同じ時に、雇用者は同意できるギリギリまで近い(しかし、安くであるが)代替できる人を探す、政治学を学ぶ学生のような。一方、経済学者の供給が上昇するならば、経済学者の相対賃金は下落する。もちろん、その他の要素もこの決定に入ってくる、しかし重要な点は、相対価格は供給者(経済学を履修した学生)、需要者(雇用者)の双方にとってシグナルとなるということだ。
均衡は、「クリアー」な市場として相対価格が設定されたものとして、ハッキリしている。アダム・スミスの「見えざる手」という有名な例えは、均衡価格を生み出すことによって、市場は個人を最大の効用へと誘導するシグナルと
提供し、かつその間に同じく社会(または公共)に、需要と供給が均衡していることを保証された財を提供する。神の見えざる手の概念を理解するならば、我々は週末の公共の道路の農産物市場を想像することができる。農家は彼らの果物と野菜を土曜の朝に持ってくる、そして彼らは売ろうとする値段で価格を設定する。日中、他の業者が彼らよりも高く値段を設定しているとき、何人かの見学者は彼らの売る野菜が安すぎる(活発なペースで売れ、在庫が減っていくことに直面するだろう)ことに気付く。同時に、消費者は予約価格を(彼らが払える量・質の最大)彼らが提示する価格に調整する。価格は、農家が家に売れ残った製品も持ち帰らないことが保証されている限り、週末を通して、最大限の効用を目指して調整される。この話において、生産者と消費者による合理的な行動は、供給と需要が等しくなるように価格を調整することである。その状況において、野菜と果物は完売する。
見えざる手は、権威を必要とせずに、個人と経済の全体を均衡に向かわせる。そのために、政府の必要性は最小限となる。それは分析的な小さな跳躍であった一方で、この自由市場の物語の中の次のステップは、市場の類推を経済全体にまで広げた。たしかに、もし全ての価格・賃金が、あらゆる能力の種類に対するどんな市場においてさえ変動するとすれば、需要と供給は均衡することは明確であろうか?それは、見えざる手に提供された案内を断固として断る全ての供給者個人または需要者個人合理的であろうか?経済全体は、全ての市場に完全な、偉大なる「総合的な均衡」に近づくらしい。
たしかに政府はいくつかの法律を制定し、国防や(おそらくは)社会保証も執行するだろう。だがスミスの解釈に乗っ取れば、政府が個人に直接公共の利益を提供する必要性はない。なぜなら個人が価格のシグナルに反応し、彼らの利益を追求することによって、実際に個人の利益が公共の利益を達成するからだ。
「あなたにふさわしいものは、あなたが得たものだ」。新古典派経済学において、これ以上の結論はない。もし我々が自由市場にやってきて互いに交換する場合、自らの資源に制約されつつ、自らの利益を最大化することができる。近郊の配分はフェアにすることを理解している。それは配分が均等であることを意味していない。何人かはより多くの彼にとっての利益を得るし、他の何人かはより少なく得る。それはすなわち、その何人かが能力が高かったことに起因する。
専門的には、この概念では「ある人の財・サービスの受容は、ある人の財・サービスの提供に基づいて配当されている」となる。もしあなたの最終的な配当が少なければ、それはあなたがマーケットに十分提供しなかったからだ。あなたが少量の資源しか生まなかったり、あなたが少しの教育を獲得できないように制約されていたり、余暇を楽しむことを好んでいたりすれば、そのようになる。言い換えれば、あなたは自らの配当の不足を誰かのせいにすることはできない。自分のせいなのである。
念のため言っておくが、新古典派経済学は不幸、先天的な能力の欠如、その他の存在も認めている。したがって、最貧民層や著しく能力が低い人の配当に関与する政策の役割は存在している。しかしながら、一般的に言えば、配当は市場によって導き出される。なぜならば、市場は、参加者が生み出した市場への提供物に応じて、参加者に報いるからだ。公平性の局面から見て。
近年、経済への新古典派的アプローチは、第二次大戦後の経済体制と西側諸国の社会改良運動に反対する保守的な運動に助けられて、呼び戻されている。(この運動は一般的に米国以外では新自由主義と呼ばれ、米国では新保守主義と呼ばれている。)この反政府的立場はロナルド・レーガン政権やマーガレット・サッチャー政権の時代に密に組織された。1980年代にかけて、レーガンは「政府は市民の後ろに回る」と約束した。一方、サッチャーは、社会としてやるべきことは何もないと、新古典派経済学を反映しながら、論争した。
小さな政府運動、特に社会保障の削減は「政府はインセンティブを与えるだけで良い」「その時、神の見えざる手が、個人が経済全体で最良の方法を取ることによって生み出される、市場からのシグナルが保証されている間、自由市場は個人の利益を最大化する」という、一貫した視点に立っている。
新自由主義・新保守主義政策が保守政党で緊密に立案されている間、穏健な社会民主党でさえこれら(新自由主義的な)の政策を1990年代から2000年代に行ってきた。例えば米国のクリントン大統領は、「我々が知っているように社会保障は終わった」という1992年の選挙のキャンペーンで約束していた際、レーガンが社会保障を嫌っていたことを模倣していた。彼は大きな反貧困プログラム(扶養されている子供がいる家庭を救済する)を廃止し、制限があるプログラムに置き換えた。そのプログラムは、受給者に対して自らの利益のために働くことを促すようなものだった(ウェルフェアではなくワークフェアだった)。米国以外のその他の左翼政党、英国労働党も似たような戦略(生活ほどのための労働、というような)を続行した。ヨーロッパの多くの社会民主党が税制規律、民営化、規制緩和を重視した。それはユーロ圏で起きた。新古典派経済学の理論は、「いわゆる」見えざる手における政府の関与を減らしている間の市場の産出物に大いに信頼した効用に関与している政治家によって変化した、これらの経済政策・社会福祉政策を正当化する強力な理由を提供した。1980年代から、政策議論における新古典派経済学の支配は殆どの政党で勢いが強かった。少なくとも経済政策においては足並みをそろえてこのアイディアに陥っていた。我々は、多くの政策決定が、貧しい結果を導き出している考えの学校への執着に基づいて行われていることを見ることができるだろう。
最後に、新古典派経済学の経済学における定義を振り返っておこう。それはこのアプローチをするときにおいてはとても有益な要約である。
「新古典派の定義:願望が制限されていない間の、資源不足の配当の研究である」
この定義は経済学の問題として取りあげられる。すなわち、資源が不足しているのにもかかわらず、我々の願望に再現がない、と。この問題は、我々の願望をいつも犠牲にすることができない、ということだ。我々が最大限の利益を求めているとしても、資源の制約は我々が最高の幸福を常に実現することを妨げる。この理由から、多くの人は、その問題の解決できない本質を分析して、経済学を「陰気な科学」と呼ぶ。
もう一つの提言は普通、新古典派経済学から推論した「フリーランチはない」という経済学者のせいにする。言い換えれば、資源が不足している間、トレードオフが存在する。もし我々がある一方から資源をもう一方に移動するならば、2人目の便益をひいきすることによって、1人目の便益を必然的に減らすことになる。例えば、もし我々が銃をより多くの求めているならば、バターを減らすことになる。もし仕事によって生活水準を改善しようとするなら、妻との生活水準を落とさなければならない。
厳密にいうならば、あらゆる生産資源が完全雇用にある状態ならば、これは真実である。しかしながら、見えざる手の資源配分の誘導において、変動的な相対価格は、完全雇用された全ての欠乏した資源を確保する。このアイディアはは、生産に従事していない資源がないような需要と供給の均衡に行くまで、常に価格は変化するだろうというものだ。
トレードオフは一時的なものでしかないことに注意しよう。例えば、我々が資源を、消費されるモノの生産の外から、生産の余地が上昇している投資された生産に移動した場合、我々は消費財を獲得することができる(生産)。経済成長を通して、我々は、ボブであろうがジルであろうが、生産のレベルを増やすことができる。しかしながら、これは「フリーランチはない」という忠告に反していない。もし我々がさらなる生産を未来において獲得するならば、我々は今日の生産を犠牲にする意思が必要になってくる。我々は今後もさらにこの教科書において新古典派経済学について言及するだろう。しかしながら、次は複合的なアプローチに移る時間だ。

異端のアプローチ(ケインジアン、制度学派、マルクス学派)

非常に異なった枠組みを採用している経済学の重要な伝統が2つある。不幸にも、それを何と言うか、ということに関しての強力な合意はない。時には、「主流派」または「新古典派」と対立していることを明確にするため「非主流派」と呼ばれる。近年は、この伝統的な研究の多くを「異端の」部類として位置付けているが、その形容詞も同じく「一般的な概念に合意していない」ということを明確にしたものだ。1970年までの第二次世界大戦直後まではまだ、現在は「異端」とラベリングされているその理論は支配的であった。今日、主流派である考えが主流ではないという感覚において、主流派は「反主流派」であった。
さらに、主流の理論が相当に新古典派経済学を採用していた一方で、異端は確立したものたちで構成されており、かつそれらは経済学の学校で一貫していた。これらが一般的な考えを共有している間、彼らは重要な方法におけるもう一方から脱線さえしていた。これらの学派の中で重要な3つのものは、マルクス学派、制度学派、ケインジアンだ。
我々は何をするのか?我々があげた意味深な反対意見にも関わらず、我々はこの慣習に従うつもりだ。そして2番目のアプローチを異端のアプローチ、またはケインジアン、制度学派、マルクス学派と呼ぶつもりだ。さあ、この枠組みを学んでいこう。
まず、このアプローチには「自然人の行動」などという事柄は存在しない。その行動はむしろ、制度、文化、社会によって形成され、変化する。個人の便益に関する本質というものもないし、新古典派経済学における合理的な振るまいというものもない。人間は社会に属し、利己的な振る舞いは罰せられ、利己的な個人が放逐される文化に囲まれて生きている。人間が生き残るために協働をし始めてから、利己は不合理である。なぜなら支援を失い、組織の資源はその人の生存の可能性を減らすからだ。全ての人が知っている社会において、複雑な習慣と伝統が共同を促進し、通常の利益を犠牲にさえしている。
人間の行動は社会を通して大きく異なっている、経済システムは特定の社会のうちの適切な行動を明らかにする要素の一つである。利己的な行動は、いくつかの社会ではより歓迎されるだろう。新古典派経済学の理論が西欧の資本主義社会、特にイギリスで発展したことと偶然一致しているわけではない。合理的行動は新古典派経済学の学者によって、初期のイギリス資本主義経済の人間の振る舞いに関する説明のかなり正しいものである、人間の実際の形態であるとされていた。彼らが運営する社会環境において、他の人の効用を阻害しない(特に彼らが雇う労働者に対する)利己心に基づく利益追求は資本家としての成功の確率を上昇させたかもしれない。さらに、彼らは、農業経済を好みその優位性を守ろうとする王政や貴族政治が支配する、敵対的な政治環境の中で活動していた。彼ら王族・貴族は、かなり少ない国家の産出物の分け前保ったり、増やそうとしていた。政府の介入は、初期の資本主義経済の視点に立てば、ほとんど全ての場合、悪いことであった。なぜなら政府は大いに王族と貴族の利益に基づいて行動していたからだ。
我々は今から経済の歴史に入るつもりはない。我々が強調しておきたいことは、人間の行動は驚くほどに、慣習や伝統による複雑な形式の中で影響を受けやすく、与えやすい。
さらにいうと、我々は、自らが取る行動が本当に効用を最大化しているかを正確に知ることはできない。私はルノーのスポーツカーを買うべきか、それともマツダのそれを買うべきか?決定をしてしばらく経った後に私はもっと良い決断をするかもしれない。だが、もっと起こりそうなことは、10年経っても、私は最良の決断を知ることができないだろうということだ。言うまでもないが、その決断はその他の多くの経済においてしなければならない決断と比較して、比較的重要じゃないし、簡単である。事実、我々はほとんどの場合、自らが効用を最大化した決断をしたかどうかを省みることはない。そこに後知恵があったとしても。
異端のアプローチに従えば、決断と行動はその他の要素の領域に依拠している。それらは不確実性、権力、差別、偏見そして人種差別(隔離)を含んでいる。個人にとって実際に選択可能な領域は彼らの身分、社会的地位、人種、宗教、性別その他に依拠している。これらの「非経済的」な要素が大きく我々の選択に影響し、束縛さえしている。
全ての説得力のある異端の経済学者は、経済的の産出は、ただ需要と供給の均衡を追求する非人間的な市場によって仲介されているという概念を拒否した。現実の世界においては、市場価格は市場の力によって強固に運用されている。賃金は労働市場によって不明瞭に設定されている。むしろ、賃金は労働者と資本の代表者との間における交渉の闘争を反映している。資本主義は階級の闘争を明瞭にしたシステムである。総合的に言って、労働者は彼らが支払った努力と同じ対価を求めるが、監督者は労働者がより少ない賃金で大く働いてくれることを望んでいる。そして、さらに論を進めるならば、失業は、労働者の増加に伴う賃金の下落を通して、解消されない。すなわち、賃金の減少は労働者への需要を減らし、そして失業者を増やす。より一般的に言うと、賃金やその他の価格は見えざる手にシグナルではない。むしろ収入と、そしてビジネスの売上と今後の決断への影響を明らかにしている。なぜなら、価格と賃金の決定は常に市場の見えざる手に導かれていないからだ。
異端派は、限られた資源と制限のない欲求という、「経済学の問題」の違った視点を持っている。欲求は主に社会的に形成され、人間が持っている制限のない欲求に関する本質は存在しない。近代的な広告行為は我々の願望を広げるということが真実である一方で、教育によって対抗することができる。さらに、資源は主に社会的に形成される。いくつかの資源は供給が制限されいる一方で、イノベーションは絶え間なく代替品を生み出している。例えば、西洋社会では、19世紀にクジラの頭数が減少するという、最初のエネルギー危機(鯨油が明かりに使われていた)に直面した。しかしながら、石油生産と電力の、鯨油に対する、急激な代替が起こった。その上、あらゆる経済に最も重要な資源は労働者だ。皮肉なことに、資本主義経済における労働者は事実上、常に供給過剰であった。それ故に、多くの労働者が失業していた。労働者が十分に活用されていないという明らかな事実があった時に、資源が不足しているという前提を持つ新古典派経済学が始まったというのは、は皮肉である。労働者は常に完全雇用であり、故に不足しているという前提をから始まる、あらゆる理論は、明らかな矛盾を無視している。
さあ、いっしょに異端の経済学の定義を見ていこう。
主流派の定義に似ていないことに注意しながら、異端派は資源の生産を重視している。さらに、その生産は個人ひとりよりも優れていると断言する集合体である。そこにおいて、人々は共同して社会的資産を生み出す。配当も同じく、専門的な関係(ある人の生産過程における配当)によって決定されるのではなく、社会的に決定される。例えば、労働組合は、彼らの賃金を低く抑え続ける雇用者と交渉をする上での集合体として組織された。
配当を決定する政策的プロセスも重要である。(雇用をしたり援助したりといった)社会の大きな要素を占める、直接的な政府の提供だけでなく、最低賃金・福祉の設定や、労働環境の確保の義務付けなどが、それだ。政府は資源の生産者でもある。消費者としてだけではない。政府は、研究開発を行う財団や機関(その機関の研究所といった)を組織する。そしてその組織は資源を生産する(しばしば民間の会社によって)。政府は民間企業から、雇用や生産を奨励するために、直接支出する。政府の活動は生産を増やすだけでなく、配分にも影響を与える。これは投票者と政府の代議員によって良く理解されている。なぜなら政策は勝者と敗者を作るからだ。しかし、常にゼロサムゲームになるわけではない。このようにして、政策はさらなる敗者を生む一方で、さらなる敗者を生む。
権力、差別、結託と共同は全て、彼が何をするかにおいて、決定的な役割を演じる。ポイントは、社会というものは、例えば、女性が男性よりも安く給料を支払われるべきか、あるいは、教育が少なかった人が未だに仕事が少なかったり貧しかったりすべきか、ということを決定する市場にはならないということだ。
経済学は、他の全ての社会科学と同じように、複雑で常に変化している社会を分析している。経済学者が経済領域における人間の行動を研究し始めてから、彼らの仕事はとても難しくなった。人間が何をしようとも、彼らは違う何か別の方法を取ることができただろう。人間はいくつかの自由意志の度合いを持っており、彼らの行動は主に彼らがしようと考えていることに依拠している。その人間の行動は、同様に、不確実な未来に向けた期待にも依拠している。彼らは、彼らがやろうとしていることの結果がどうなるかを、正確には分からない。そして他の誰かが何をやろうとしているかどうかも分からない。
すなわち、人間は過去に何が起きたかを正確には分からないし、今日何が起きるかも分からない。彼らは彼が住んでいる環境を解釈するし、自らが全てを知り得ないことを認識する。彼らは、彼らの幸福を真に最大化するかもしれなということを信じない。彼らは実存の不確実性がある状況の中で計画を立て、そして出来る限りのことをし、彼らの状況を受け入れる。彼らの行動は常にほとんど他者からの影響を考慮して行われる。人間は上記のような、社会的な動物であり、それはすなわち経済学が社会科学の一派であることの理由でもある。

経済学者は何をしているのか

心理学者が政治科学者のように、経済学者は人間の振る舞いの特定の側面を理解しようとしてきた。例えば、支出の水準や法則についての決定、進学についての選択、利益を追求するための雇用の種類、といったことだ。我々は上記のことについて、「これらの全てのことが組織、文化、社会に影響される」、「単なる経済学の変数は原因として小さい」、「財の価格や期待される賃金指数は仕事によって変わってくる」というように論争してきた。ミクロ経済学における我々の視点は、個々の消費者や会社の立場に立ったものだ。一方で、マクロ経済学における我々の視点は、国家レベルでの結果に基づく決定の総計の衝撃に焦点を当てている。それは総計の産出量・雇用そしてインフレ率を考慮に入れている。我々はミクロ経済学とマクロ経済学の定義を以下に詳しく述べる。
経済の振る舞いの特定の側面を理解するにあたり、我々は、我々にこれらの特定の経済の決定にの要因に基づいて判断することを求める理論を、発展させる必要がある。言い換えれば、我々は仮定を単純化する必要がある。それは我々がそれらの、分析する上で重要でない要因を無視する必要があるということを意味する。しかしながら、我々は人間に見えるものとしての複雑な現実を再現するかもしれない。その時は、理論立てよりも説明を引こう。

経済学者は何をしているのか

心理学者が政治科学者のように、経済学者は人間の振る舞いの特定の側面を理解しようとしてきた。例えば、支出の水準や法則についての決定、進学についての選択、利益を追求するための雇用の種類、といったことだ。我々は上記のことについて、「これらの全てのことが組織、文化、社会に影響される」、「単なる経済学の変数は原因として小さい」、「財の価格や期待される賃金指数は仕事によって変わってくる」というように論争してきた。ミクロ経済学における我々の視点は、個々の消費者や会社の立場に立ったものだ。一方で、マクロ経済学における我々の視点は、国家レベルでの結果に基づく決定の総計の衝撃に焦点を当てている。それは総計の産出量・雇用そしてインフレ率を考慮に入れている。我々はミクロ経済学とマクロ経済学の定義を以下に詳しく述べる。
経済の振る舞いの特定の側面を理解するにあたり、我々は、我々にこれらの特定の経済の決定にの要因に基づいて判断することを求める理論を、発展させる必要がある。言い換えれば、我々は仮定を単純化する必要がある。それは我々がそれらの、分析する上で重要でない要因を無視する必要があるということを意味する。しかしながら、我々は人間に見えるものとしての複雑な現実を再現するかもしれない。その時は、理論立てよりも説明を引こう。
理論の開発において、我々は理論の材料として見ることができる概念を述べる。モデルは理論の形式化されたものとして見ることができる。多くの理論やモデルを理解することは、学生が理論の根本的な概念を理解する上で重要である。
社会学者は、自らの作成した抽象的で理論的なモデルをテストすることを追い求めている。その理論は、現実の世界の人間の行動について推測した形態を表現したものである。その理論の構築には、現実の世界が提供する、期限が満了になったデータを使用している。例えば、我々は、もし可処分所得(税の支払いを引いた後の所得)が上がれば、家計の消費は増えるだろう、という推測を形成するかもしれない。我々はその時、可処分所得、家計消費、その他の関係すると思われる妥当なデータを集めるだろう。そして、自らの推測がデータと一致しているかどうか見るために、可処分所得と家計消費との間の関係性を測定するための回帰分析といった様々な統計手法をもちいるだろう。
さらに、我々は滅多に理論に反論することができない。2つ以上の最も大事な経済的な課題がある場合、違った答えを出す理論的な方法が存在すると、トランプが文句を言っていた。研究者が関連のあるデータの分析を利用している時でさえ、彼らは100%の自信を持って理論に反論しているわけではない。しばしば理論は、比較検討や証拠の関連性によって受け入れられるのではなく、イデオロギーや政治によって受け入れられる。

研究と政治への影響

トランプのような多くの学生は、経済学者が提案する、経済問題への権威のある答えの無能が、かなりイライラするものだということを発見する。ここに強調すべき点がある。2つの学派の間で行われる簡潔な議論を例にみるように、物理化学やその他の社会科学と同じく、経済学は論争的な学問である。学生はマクロ経済における様々な主な現代的な論争(チャプター31)にさらされる。
経済学(その他のが学問も同じだが)決着の付いていない長い論争があれば、経済現象における我々の理解にどれだけの進歩があるのだろうか?これは良い疑問である。なぜなら、政策担当者が行う議論は、一定期間中に人々の社会福祉に重大な影響力を持つ。例えば、雇用機会や賃金に影響する。

1.2 経済政策と公共目的

近代資本主義経済における家計や法人は、多くの重要な経済において選択を行う。その選択は、雇用と生産と価格を決定し、生産と所得の配分の構成を決定する段階における決断を提供する。自らの自己利益に基づく個々の利益追及によって形成される自由市場経済が、見えざる手が導かれるかのように、調和を達成させることが可能であるという主張をしばしば見かける。しかし実際には、経済学者は、そのような結果を達成する、様式化された経済としての1950年代は、現実の世界には存在しないことを厳密に明らかにしている。言い換えれば、自由市場が最良であるという科学的根拠はない。
様々な場合において、このような主張(あらゆる不確かな経済にとっての真実でさえ)は、実際に存在している近代的な資本主義経済にとって重要ではない。なぜなら、全ての近代資本主義経済は、膨大な企業(多国籍企業を含む)、労働組合、関係経済の規模に対して寒冷している重大な政府部門を混合させている。個人と企業は、社会政治と、抑制されているが可能ではある伝統的な経済体制を操作している。
時々、個人と企業の目標は、彼らが達成できない、公共目的と呼ばれるものに向かって一致している。この節では、我々は、公共の目的と、社会的な次のゴールである、民間の便益を調整を達成しようとする政府が担う役割について議論していこうと思う。
公共目的とは何か?それを明確にしたり定義することは難しい。多くの社会的組織の役割の一つは、必要な衣食住や教育、医療、法律そして社会の成員が生存できる文明を提供することだ。
この科目の主題は経済であるが、経済の範囲と他の社会科学との間の鋭い区分は存在しない。我々は、生存のための物的手段を提供することを果たしうる社会的組織として経済を捉えている。その物的手段とは衣食住といったものだ。しかしながら、経済は常に、文化や政治、社会体制によって変化させながら、全体として社会に埋め込まれている。
もし我々が、多くの成功している経済組織が人口に対して十分な食料を提供しうるということに同意するにしても、以下の多くの質問は残り続ける。「どんあ種類の食料が良いのか」「どうやって生産するのか」「どのように分配すべきか」「その、十分、とはどういう意味か」。
さらに、個人や組織が完全に調和しているような社会など存在しない。衝突は常に存在するし、目標は常に妥協的だ。社会構成員の全員が目指しているような、明白な公共の目的を示すシグナルは存在しない。もし我々が、社会の多数派が積極的に取り組もうとする目標を設定したとしても、その目標の設定はきっと時間の経過によって希望や夢の変化とともに変わっていくだろう。公共目的とは変化していく概念なのだ。
本書が提供する立場は、個人の便益が安定が公共目的とともにあることを保証する「見えざる手は存在しない」という立場である。実際、経済は、公共目的の前進や成功のために設立される社会組織の中の、単なる一つの要素だ。
市場は、社会と個人の目標を含む社会目標を描写するように努める、社会組織の幅広い種類の中の、単なる制度の一つに過ぎない。その他の制度は政治組織、労働組合、職人組合やNGOを含む。
我々がこのチャプターで示したように、国民国家の政府は社会における重要な役割を担っている。なぜなら、その政府は個人と組織が公共目的のために努力ができるように、社会目標を設定したり、社会構造を設立しているからだ。
それは公共目的明確にすることの概要を示すことは、広く認められた困難な行為である。しかし、広く合意が居られた目標を設定することは可能だ。例えば、世界人権宣言は、比較的よく明確に示された目標の普遍的な設定を、加盟国に約束させたものである。
その宣言は、国連のホームページでも概略が読める。
(以下、その前文) 人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要であるので、諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、よって、ここに、国際連合総会は、社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。
(以下、その要約のリストであるが、省略する。)
多くの人権、特にこのリストの最後の方で示されているものが、経済の運営に関連していることは、明確である。例えば、我々は、多くの成功した経済は、良質な十分な衣食住すべきであり、物的に豊かな国民国家は、国連が幸福な示す多くの人権を達成すべきであると、上記のように主張する。
さらに、経済効率とは表面的には無関係と思われているその他の人権も、実際にはその人権の満足感は物質の豊かさと直接関連していると、仮説が立てられている。
例えば、近代的な資本主義経済の雇用(承認された人権の一つである)への関わりは、完全雇用が求められている。仕事は衣食住の購入を可能とする所得を提供するだけでなく、社会への関与や自己の価値(社会への、その人の寄与故に)の感覚を生み出し、社会的な名誉の拡大や高齢の時の引退することを助ける。
実際、雇用は、個人に対するその他の便益に広い範囲を担っているし、社会における心的あるいは精神的な健康、犯罪や薬物の乱用の減少、児童虐待やDVの縮小、多くの社会的あるいは政治的な活動への参加に関与していることが観察される。
確かに、多くの人権に関わる上記のリスト(世界的に同意された人権のリストの一部)は、最も豊かな国や民主国家でさ完全には達成できていない。その意味で、これらの人権は、その実現を約束した加盟国にとっては、「高い目標」である。再び、もし我々が労働と十分な生活に対する人権の例に目を向けるならば、最も豊かな国の最も反映していた時期でさえ、日常的に違反していることが分かる。いまだに、この世界的な人権の認識は、国家が自らの進歩の具合を評価するときの指標として主流である。
我々は、3つの重要な点をまとめる。
1つ目。公共目的は、空間的に拡大し、時間を通して継続している。またそのため場所や時間によってその公共目的は異なっている。その公共目的は、生活水中の向上、特に低水準の所得の改善を含んでいるべきだ。環境的な持続性は必ず含まれているべきだ。人種、民族、性別における不平等の縮小は、重要な公共目的の重要な構成要素だ。これは、単純な経済指標を超えて、継続して行われるべきである。例えば、共同体の生活への完全な参加ということも含んだ家族の所得、といったように。公共目的は、犯罪、汚職、身内びいき、不公平な区別、過剰な消費やその他の社会的な異常行動の減少を、含んでいるべきである。
2つ目。国連の宣言は、全人類の人権であると見られるものまで、解釈を広げられるべきである。この国連憲章は利便性があるが、公共目的の宣言の中に含まれるものとして、完全に満足できるリストではない。今日、人権として考えられているものは、100年前はくそうと思われていたものである。そして、上記のリストは、未来において疑いもなく、あまりにも慎重で保守的である。
公共目的は、密接不可分であり社会の構成員すべての物質的、社会的、身体的、文化的、心理的な豊かさを追い求めんとする、絶え間ない改善への努力という、進歩的な主題と主題と密接不可分である。それは「高い目標」とは密接不可分であり、その考えに則れば終わりがないということになる。なぜなら、地平は絶え間なく拡大していくからだ。
3つ目。国民国家あるいは国際組織(国連など)は、我々が切望する社会の形態の理想を形成するために、重要な役割を負わなければならない。そして、設定したゴールを達成だけでなく、目標の達成に社会が達するために、すべての階層における政府は行動の制度・ルール・望ましくない行動の規制の設計を主導すべきである。
例えば、1950年代、国民国家と国際組織は、天然痘として知られる破壊的な病気の根絶を目指して動き出した。市場や営利団体は、配布するワクチンの開発や組織的な報知活動のキャンペーンに取り組んだが、彼らだけでは病気を根絶させることは不可能だった。
その仕事はとても大きかった。それは自らの利益を追い求めている点で、完全に一貫した活動ではなかった。そしてそれは、大企業に匹敵する国際的な組織が必要とした。
したがって、政府組織が役割を果たした。
公共目的の高い目標の本質に関して言えば、盛大な天然痘の根絶はまだ完了していないが、新しいキャンペーンの提供や別の病気の根絶を、また一つ、また一つと、もたらしている。
長い未来になるかもしれないが、すべての国が予防を予期し、創設される人権が増加するにともなって、病気になやまされない人権は認識されるだろう。
もちろん、我々にはできないが、そのような未来を想像することはできる。遠くない時代において、米国の議会は女性と黒人の参政権を認めていなかった。そして今日、多くの国が性別、宗教、人種、民族によって選挙が制限されることを否定している。さらに、出身地は考慮することは人権に関して違法であるとしている。それゆえ、そのような規制は何世代か経った後は、容認可能である。例えば、21歳以上の白人のアメリカ人は、1920年まで大統領選挙に適してないとされていた。イギリスでは21歳以上の女性全てが1928年に参政権を持っていたのにも関わらず。オーストラリアのアボリジニは、学校への入学と連邦政府の選挙を1962年に許された。今日、自由民主主義国とされている多くの先進国は、女性や少数派に対して、20世紀になるまで選挙権を与えていなかった(スイスは1971年に婦人参政権が認められた)。
公共目的は進歩と密接不可分である。そして、それは永遠に終わらない。

1.3 マクロ経済学とは何か

マクロ経済学において、我々は経済活動における生産の総計を研究している。「マクロ」という言葉はギリシャ語の「大きい」という意味の「makro」が語源である。我々はこの言葉を拾い経済領域の視点として使う。

それゆえ、マクロ経済学では、個々の人間や家計、企業がどのように振る舞うか、ということが考慮されない。それは、主にその他の経済分析(ミクロ経済学)の領域である。マクロ経済学は、いくつかの生産の総計の階層に焦点をあて、国際環境における雇用・生産・インフレの研究を行う。統一的なマクロ経済学の理論は、どのようにそのような総計が明らかになり、変化したかとういことについて、一貫した見解を提供するだろう。

この考え方に基づくと、我々が探求すべき、マクロ経済学に関する重要な問題が存在する。

1.どのような要素が、ある一定期間経済における生産されたものの総計を明らかにするのか。また、どのような要素が、それが成長したことを表すのか。

2.どのような要素が、すべての雇用と明らかにし、失業がなぜ起きたかを明らかにするのか。

3.どのような要素が、経済における価格の上昇を明らかにするのか。

4.国民経済は、残りの他の国々に、どのように作用しているのか。その相互作用の結果とは何か。

マクロ経済学とミクロ経済学の中心的なアイディアは、効率(それは最良の使われ方をしているかという指標)である。この概念は、非常に重要であり、多くの不可解な論争の視点である。しかしながら、マクロ経済学において経済学者の間の合意が存在する。その合意とは、「効率フロンティア」(それは、可能な産出物の配分から得られる、達成可能な最良の決定である)は標準的に完全雇用である場合に要約される。この経済学者による何年にも及ぶ激しい論争は、「完全雇用である場合」を正確に意味している。我々はこの問題を、チャプター17と18で見る。

しかし定義的な論争の側面においては、完全雇用の概念がマクロ経済学の中心的な視点であるということは事実である。有効なマクロ経済における資源(労働者を含む)をその経済における限界まで使用することは、マクロ経済学の重要な目標である。この論争は、実際の限界を想定した上で繰り広げられている。関連する経済上の挑戦は、完全雇用を、物価を低い上昇率あるいは一定に保ちながら、どのように保つかということである。

本書は、産出物の総計(およびその産出物の階層と、その成長)、失業率、(我々が金融制度と呼ぶものの環境における)インフレ率の主要な決定要因を、理解する枠組みを開発する。すべての経済は、商取引を行うために貨幣を使用する。貨幣の取り決めは経済に内在している。さらに、貨幣の発行主体としての国民国家の役割は、総計のレベル話における産出物への影響を持っている。また、その政府の役割は、マクロ経済学において極めて重要な部分である。これ以降において少し説明する現代貨幣理論は、貨幣制度に関する独特な、マクロ経済の枠組みを開発する。

マクロモデル

マクロ経済の関係性に関する我々の考えを組織するとき、我々は、経済の文献から参照した概念的な構造を、モデルとして時々使用する。それはマクロ経済モデルと呼ばれるものだ。モデルは単に、研究対象を、枠組みや単純化したものとして形成されている。本書では、我々はマクロ経済モデルを開発するが、それは物語や代数を含んでいる。それによって読者の、実際の経済活動に関する理解を含めることができるだろう。我々は、わかりやすさを邪魔する複雑な箇所を、必然的に単純化するかもしれない。しかし、我々は常に、実際の経済に対して妥当ではない抽象概念を仮定するのではなく、実際の経済に焦点を当てている。

すべての学問分野は、コミュニケーションの手段として、それらの用語を開発する。ある人が、アイディアを理解するのを困難にしてしまうことに、我々は同情する。しかし、我々も、マクロ経済の事象において、用語に少し詳しい学生にとって、どうすれば有用かを理解している。

チャプター7(方法・道具・技術)において、我々は重要な分析技術と専門用語を提供する。それらは、本書において展開されるマクロ経済モデルを明快にするし、解決する。これらの道具と技術は、本書とそのホームページ(www.macmillanihe.com/mitchell-macro)に付随する、実践的な演習のために開発されたものでもある。チャプター7において主に議論されるだろう。

マクロ経済モデルは、主な経済指標(産出物、雇用、物価)の我々の理解を進展させる、概念と代数技術を描写する。本書のデザインは独特である。なぜなら、特に現代貨幣理論のマクロ経済モデルを開発するからだ。それは、経済政策に示唆を与える。我々はそのアプローチを次の節において解説する。

マクロ経済学への現代貨幣理論のアプローチ

現代貨幣理論(MMT)は、他のマクロ経済学へのアプローチと比べて優れている。なぜなら、分析の中心が貨幣制度に依拠しているからだ。我々がこれから見るように、現代貨幣理論は、異端の伝統において仕事をしてきた多くの経済学者の見識に依拠しながら、議論を建設していく。それゆえ、現代貨幣理論は、正当である、新古典派経済学の主流の原理を拒否している。しかしながら、資本主義経済における貨幣制度を強調しているため、それは以前の異端の伝統にはなかった、新たな見識を加えている。現代貨幣理論の観点に基づいてマクロ経済学を学ぶことは、あなたに貨幣が現代経済においてどのように働いているかを理解することを要求する。また、実際に存在する経済の分析のための概念構造を開発することも要求する。

政府を貨幣の発行主体として、また、貨幣制度の中心として、位置付ける手法によって、現代貨幣理論のアプローチは直接に政府はどのように支出するか、その支出は前述の我々が追求する経済指標にどのように影響を与えるのか、ということに焦点を当てる。この枠組みは、最初に、すべての為替制度(変動、固定、いずれでも)下の政府の支出に関する総合的な分析手法を提供するだろう。その後、我々が変動為替相場制から固定為替相場制に移行した場合に発生する(政策的な判断である)抑制を説明する。我々は、貨幣制度の構造が、政府に選択可能な国民経済の政策決定と、生産、雇用、インフレの場合の特定の生産に、どれだけの衝撃を与えるかを考慮する。

現代貨幣理論が到達した最も重要な結論は、貨幣の発行主体は財政的な制約に直面しないということだ。平たくいえば、自国通貨を発行できる国家は支出ができなくなったり、債務不履行になることはない。返済期限が来たとしても、すべての支払いが可能である。この理由のために、主権国家の財政と企業や家計の財政とは比べることは不適切であるということが分かる。

家計や企業は貨幣の使用者である。彼らは自らの支払いのために貨幣を手に入れなければならない。彼らは給料か、借入か、ものの販売かのいずれかによって、貨幣を手に入れなければならない。彼らはデフォルトすることがある。しかし、自国通貨を発行できる主体は支払い不能になることはない。これ以降のチャプターにおいて、自国通貨の発行主体がいかに支出し、なぜその発行主体はいかなる時も自国通貨単位で売られているものを購入できるのか、ということを説明する。

しかしながら、そこには注意が必要だ。自国通貨を発行できる主体でさえ、自らの手を縛る事ができる。もし(金といった)金属や外国通貨との交換を約束してしまった場合、そのような事が起こる。外国通貨建の建ての国債を負っている政府にとって、それはまれではない。これは発展途上国の政府とって特に事実である。この場合、彼らは自らの負債を発行することによって、外国通貨を手に入れなければならない。かつて、多くの政府が貨幣に金銀との交換を約束させていたし、金銀の価格に合わせるため、彼らは金銀を手に入れた。その時、政府は自国通貨のもとでは債務不履行になることはないのに、彼らは確かに金への価値や外国通貨に貨幣の価値を合わせることを約束せず、その後、金属や外国通貨への支払いを余儀なくさせる事ができた。

ニクソン政権が、第二次世界大戦以後に形成されたブレトンウッズ体制のもとで続いてきた、金交換と固定相場制の停止の時に、1971年に起きた主な歴史的な出来事を多くの人々は気づいていない。その(金本位制のような、戦争の時に停止したことをのぞいて、19世紀以来続いてきた)制度のもとでは、金との交換を約束され、米ドルとの為替は固定されていた。そのような時、彼らは金やドルを貯蔵する。これは、十分で強い貨幣を交換するために高金利を保つような緊縮財政を採用することを、常に意味する。しかしながら、1971年、多くの政府は変動為替相場制に移行し、外国為替との交換を自由にした。時々、中央銀行は、変動幅の範囲内に制限しようとする状況で、為替「操作」として知られる行為を行う。

その時それは、2つの制度の運営上の違いにも関わらず、固定相場制から変動相場制の両方における、貨幣制度の概念を理解するために、重要なことである。為替相場の設定の手法を理解することは重要である。なぜなら、それは、我々の研究の主な課題に影響を与える、自国通貨の発行主体が行う様々な政策(雇用、生産、インフレに関わるような)を、我々が評価することを可能にする。また、(ユーロ圏のような)同一通貨地域におけるような、外国通貨を使用する政府の政策を、我々がさらに深く理解することも可能にする。

変動為替相場異性は、外国為替に対する固定相場を維持する政策から、金融政策を解放した。財政・金融政策は、その時、十分な雇用を達成できるような、国内の支出に集中することが可能になった。自国通貨を発行できる主体である政府が、固定相場を維持するために外国通貨を溜め込む必要がなくなる、という結果となった。オーストラリア、イギリス、日本、アメリカといった通貨を発行できる政府は、債務不履行にならない事が現実となった。これらの政府は、自国通貨を使った支出を、いかなる状況においても可能である。財政における制約はない。

しかしならが、経済学の教科書におけるほとんどの分析は、公衆における議論とカルト的な権威の下支えを通して、金本位制における運営に由来しており、近代貨幣制度に全く依拠していない。その現在の議論を支配している経済政策の案は、1971年に中止された古い制度の遺物である。

MMTの最も胸中すべきマクロ経済における主張は、(総支出・総所得・総生産といった)総計レベルにおける概念である。同様に、雇用の合計は経済における総生産に関係している。なので、雇用と生産の決定について理解するために、我々は「総支出を運営すること」「どのように所得を生み出すか」「労働に対する生産と需要」理解することをを必要とする。

この文脈において、我々は、政府部門と民間部門という2つの経済主体の行動と交流を考慮することになるだろう。その時、我々は民間部門の構成単位を細かく分解する。その結果、「国内民間部門」と「海外部門」に分解できる。チャプター4において、我々はマクロ経済の構成単位を通して導き出される「国民経済計算」と呼ばれるものを詳細に分析する。この手法は「部門間均衡分析手法」と呼ばれる。その手法は、政府の赤字(黒字)は民間部門の同額の黒字(政府が黒字の場合は赤字)を生み出すというルールに基づいている。民間部門は、国内民間部門と海外部門で構成される。なので、さらなる総合的な観測は、政府部門、国内民間部門、海外部門という各部門を考慮した場合、各部門間の純収支の合計はゼロであるというものだ。

もしある部門が収入以上の支出をした場合、少なくとも、その他のある一つの部門が収入以下の支出をしている、つまり支出を収入が上回っている。なぜなら、経済全体において、すべての支出の合計はすべての受け取り(所得)の合計に等しい。あらゆるある部門は収入に対して対等の支出をする理由はないにも関わらず、国民経済計算の枠組みは、その制度の全体が必ず成り立つということを示す。時々、いつもではないが、民間国内部門は黒字になる(収入より支出を少なくする)。これは家計の貯蓄が行われる仕組みだ。民間部門jの全体として貯蓄している(黒字になっている)ということは、他の部門から支出によって発生する、全体の支出の循環から漏れが発生しているということだ。現在の会計上の(海外部門の)赤字は、国内需要を排出させた、もう一方の漏れである。国内経済が海外に、海外部門が国内経済における支出より多く支出した時に、現在の会計上の赤字が発生する。この概念はチャプター6で詳しく説明する。

これは、ストックとフローを区別する時、有益である。後者は、一定期間内の規模である。例えば、支出は常に一定期間内のフローである(例えば、2018年の最初の3ヶ月で家計は1兆ドルの支出をした)。一方で、ストックはある時点における測定である。例えば、学生の財政的な富は、地方の銀行における預金で構成されている。2018年の1月には10兆ドルの預金があった。我々は、チャプター4,6でストックとフローについて詳しく説明する。

部門間均衡分析手法の枠組みは、示す。

ある部門の(年間におけるフローでいうところの)赤字は、(ストックにおける)負債を蓄積する。一方、ある部門の黒字の結果は、ストックにおける資産を蓄積する。その時、MMTは、完璧な様式において計算されるすべてのフローと結果としてストックによるマクロ経済に対する、ストックとフローを一致させるアプローチとしていられるものの、基礎となる。ストックとフローを一致させるアプローチに固執する失費は、間違った分析結果と貧しい政策案を導出する。

財政政策の選択肢の観点から、我々がチャプター6において説明するストックとフローを一致するアプローチの需要な側面は、ある部門の支出によって発生するフローは、もう一方の財政上の資産をプラスにする。

もし世界の他の部分が、国家における財政上の要求を蓄積することを願っているならば、現行では赤字運襟のみができることを本書は、見せるだろう。MMTの枠組みは、ほとんどの政府に対して、政府負債による債務不履行のリスクは存在せず、それゆえそのような状況は持続可能であり、望ましくないと考えるべきではない、ということも見せるだろう。どのような国家の財政上の位置の評価は、社会経済の目標を達成するために政府支出計画の十分か十分ではないかで、行うべきである。それはアバ・ラーナー(1943において)機能的財政論として提唱したものだ。(支出と税収との関係におけるような)いくつもの財政支出の需要を採用するのではなく、政府は支出と税を「機能的」な(完全雇用といった)定義をすべきである。

専門用語において、「予算」という言葉を通貨の発行主体である政府の支出と税収を表す際に、使うことを避ける。代わりに、「財政バランス」という言葉を使う。政府が税収を超える支出をした際に、政府の財政赤字が発生する。政府が支出を超える税収を獲得した際、財政黒字が発生する。

財政バランスという意味の予算という言葉は、自国通貨を発行する政府が家計が予算の構成を考える際と同じような制約に直面しているということを表す概念を呼び起こす。貨幣制度の注意深い理解は、「政府は大きな家計ではない」ということを明確にする。政府は一貫して収入以上の支出をすることができる。なぜなら、政府は貨幣を創造できるからだ。家計は、政府が発行した貨幣を使い支出をまかなっている。彼らの行動は、彼らが利用可能な、外部から財・サービスの売買、借入といった所得によって形成された財源に制約される。家計は将来において支出するために貯蓄(支出をしなかった場合に発生したもの)するのに対して、政府は、自らが発行する貨幣で換算されるものの中から、望むものすべてを購入することができる。

主権国家の政府は、後に徴税や借入の「以前」に、支出しなければならない。家計は自らの収入以上の支出をいくらでもできるわけではない。なぜならば、家計がそのようなことをすれば、負債が絶え間なく増えていき、持続可能でなくなるからだ。家計に対する予算の制約は存在し、慢性的な赤字支出は不可能である。自国通貨を発行できる政府は財政上の収入の制約に縛られることはない。そして、債務不履行のリスクを考えることはなく、赤字支出を維持し続けることができる。言い換えれば、我々、家計が経験する予算の問題からは、政府が考慮すべき問題に関する解答を得ることはできない。本書で紹介するこの複合的な物語は、政府の貨幣の独占という独特さを描き出してくれる。

政府が(他の部門から得た)収入より少なく支出する時に発生する財政黒字は、将来の必要な量以上の収入を政府にもたらさないし、赤字支出はその収入を削ったりしない。政府は自らが発行する貨幣を使った支出をいくらでも行うことができる。

要約すると、予算黒字は、民間部門に赤字支出をすることを強制し、国内民間部門は支出を支えるために負債を増やし続けることを強制される。我々は、これがなぜ持続的な成長戦略でないかということを説明するつもりだ。そして、結局どのようにしたら国内民間部門が貯蓄をすることによって負債のリスクを減らすことができるのか、ということも説明する。その結果というのは、非政府部門が支出することは、全ての支出を行なった上での、政府の財政黒字の負の衝撃をより大きくしてしまうということだ。

財政・金融政策

需要・支出に影響を与えることができる政策には、主に2つがある。財政政策と金融政策だ。

財政政策は、政府(財務省)が行う支出や税制のことである。それらの政策決定によって発生する純財政収支は、政府財政の構成の公表によって、定期的にまとめられる。財政政策は、政府が経済における全ての支出へ影響を与えることを主に意味する。また政府が経済、社会的な問題を達成することも意味する。

本書は、国家は最大限の財政運営が可能であるということ示す(それはすなわち、政府は支出と課税という手段を用いることができるということだ)。

・主権国家が発行する貨幣が流通しているならば、すなわち、外国通貨に対して価値が固定されていない状況。

・外貨建ての負債を負っていたり、国家が外貨の支払いを約束していない状況。

これらの状況にある場合、国民国家は常に自らの発行する貨幣で計算されている財・サービスをいくらでも購入することができる。これは、使用されていない生産資源(人材・機械)がある場合、政府は財政政策によってその資源を生産的な使用に振り分けることができるということを意味している。できるだけ単純にいうならば、これは、仕事を求めている失業者がいるならば、主権国家は公共の目的のために有益な仕事を行わせるために、雇用することができるということだ。マクロ経済学における効率的な視点に立って、我々が注目すべきは、政府は収入に制約されないということだ。それは政府は、家計や企業が支出の際に直面するような、財政的な制約に直面することはないということだ。

経済における中央銀行は、金融政策の遂行について責任がある。典型的な政策として、短期の政策金利を設定するというものがある。2008年の世界的な経済危機以来、金融政策の領域は相当に拡大した。それついての詳しい解説はチャプター23で行う。

中央銀行の典型的な役割は、ンターバンク誘導金利を操作する金融政策だけではない。銀行間の決済(銀行小切手が銀行間で処理されるというような)、最後の砦である先導役としての行動(銀行の営業を停止させたりというような)、銀行の活動の統制・監視も、中央銀行の役割である。

MMTは財務省と中央銀行の、それぞれが結同し、統合政府として活動した場合の機能を考慮する。多くの教科書では、学生は、中央銀行は政府から独立したものであると学習する。MMTのマクロ経済モデルは、貨幣システムを円滑に運営するならば、中央銀行が独立して行動できないということを明確に示している。

主権国家に対するMMTの政策的な意味

MMTは幅広い技術的な枠組みを提供する。その枠組みは、主権国家通貨制度は本来的に公共の独占物であり、課税は、失業を生み出す政府支出の不足と車の両輪の関係にある、という認識に基づいている。

この点についての理解は、学生たちに、政府が、ほぼ普遍的な二重の権限の維持されている間において、担うことができる役割について正しく理解することを可能させられるほど、これより発展させられることだろう。そのような学生は、財政政策を行う政府がインフレをコントロールする、幅広い2つのアプローチを学ぶことになるだろう。

どちらのアプローチも、物価を操作する緩衝材的なストックという概念を導き出す。我々は以下の2つのアプローチの間の違いについて検証する予定である。

A.失業緩衝材ストック:正当な現行の政策として説明される、新古典派経済学アプローチは高金利と、財政支出の制限(緊縮財政)と、緩衝材的ストックとしての失業の誘導を通してインフレーションの操作を追い求める。チャプター17と18において、学生は、このアプローチが非常に費用のかかるものであり、インフレーションの管理を目的とする政策担当者に信頼できない目標を提供するものであることを、学ぶであろう。

B.雇用緩衝材ストック:このアプローチにおいては、政府は、貨幣の格好主体であるという自らの地位に内在する財政的な余剰を活用し、雇用緩衝材ストックを創造する。MMTでは、これは雇用保障プログラムと呼ばれている。これは完全雇用と物価の安定化を達成する。このモデルは、MMTの観点から考慮すれば優れた緩衝材政策である。これについてはチャプター19で説明する。

MMTのマクロ経済の枠組みは労働者余剰の高度な活用は、雇用プログラムを失業者に対して実行すること、必然的に物価の安定を実現させる。総合的な物価水準をこの労働者(現在の失業者)賃金水準に固定させる。そして供給サイドに良い影響を与える、有益な生産活動を発生させる。



B

9.1 はじめに

この章では我々は、この本のこれまでの章で少し紹介された概念のさらなる詳細のいくつかを掘り下げようと思う。まず貨幣の単位と、国家の貨幣に目を向け、後者が金といった貴金属であったことを振り返る。我々は「法定貨幣」と呼ばれるものが、国家による税の支払いやその他の義務の要求によって、価値を持ち、広く取引で使われる、ということを議論する。全ての財務上のスットクとフローは、国家の貨幣単位で表される。この状況では、財政システムを業務上の処理の記録、すなわちスコアボードとして見ることができる。その時は、我々は変動為替相場制と固定為替相場制を比較することができる。
政府と非政府機関の負債は国家の貨幣単位、またはその他の計算貨幣(ユーロなど)で表示される。レバレッジ(負債を用いて運用を行うこと)を明らかにした後は、我々は複数の種類の違う負債を、トップが政府の負債である債務ピラミッドとして考えられることついて議論する。
最後に、我々は、「お金」という言葉が誤解を招かないように気をつけて使う必要があるということを強調しておく。

9.2 国家貨幣(計算単位)

それでは、ストックとフローにおける計算他院としての貨幣をみていこう。

一つの国家に一つの貨幣

チャプター6において、我々は計算貨幣の概念を紹介した。オーストラリアドル、米ドル、日本円、英ポンド、ユーロは、すべて計算貨幣である。以上の中の最初の4つは、歴史をと教え一つの国家によって制度化されており、それは普通の出来事である。一つの国家には一つの貨幣がある。近代になってユーロという、ヨーロッパの経済と貨幣の連合で採用されている貨幣が例外としてあるくらいである。我々はユーロ圏のようなものを例外として位置付けた時、国家で貨幣が使われることと、国家が貨幣を発行することとの間の、違いを注意深く定義することができる。
取り扱う議論のほとんどの部分は、より一般的なケースである「自国通貨を発行する国民国家」に焦点が当てられている。国民国家は、計算単位として国内において支配的な貨幣を発行することができる(その貨幣は、様々な単位を持ち、金属や紙で発行される)。政府による支出も、政府に対する納税義務・公共料金・罰金も、どちらも同じ自国通貨単位で統一されている。これらの支払いは、法的に定められている。さらに一般的には、国家の計算貨幣の広い使用は、法的な契約によって実施されている。例えば、賃金の支払いにおけるようなものだ(日本では労働基準法24条で「通貨で」賃金を支払うように定めているが、これは暗に自国通貨で支払うことを言っているのであろう)。
多くの国々では、外国通貨で計算される、民間における契約が存在する。例えば、いくつかの南米の国々では、商取引が米ドルで計算されていることもある。同じように、その他の国々でも米ドルが流通することがある。多くの政府の管理下における貿易も、米ドルが支配的である。その他、自国通貨を使うことさえない。いくつかの資産によれば、米ドルはアメリカ国内で使われている金額よりも、海外で使われている金額の方が大きい。これの多くは、違法な活動やドラックの売買にも使われている。
それゆえ、一つあるいは複数の外国通貨が、海外において、その国の時刻計算通貨に追加的に使用されることもあれば、その国で支配的に使用されることもある。我々が「一つの国家に一つの通貨」という概念からのそのような逸脱・例外を考慮しても、それらは一般的に、取引・契約に占める割合は少なく、ほとんどの取引は当事国の自国通貨で行われている。

主権と貨幣

国家貨幣は「主権貨幣」としばしば言及される。それはつまり、その貨幣が主権国家の政府が発行しているこということだ。主権国家の政府は、自国民が獲得することができない、様々な権力を保持している。この状況において、我々は、その権力によって制度化された貨幣に、関わることしかできない。主権国家の政府は、公式の計算単位として認識されうる計算貨幣を、定める権力を持った唯一の存在である。さらに、近代主権国家の政府は、国家の計算貨幣として支配的になる貨幣を発行する権力を授けられた、唯一の存在である。例えば、もしアメリカ政府以外の多くの主体が、アメリカの貨幣を発行しようとするならば、彼らは偽札を作った罪で裁かれるだろう。(戦争中の国々は、敵国がインフレや貨幣の信用の暴落を狙って、敵国の貨幣を偽造することがある。)

何が貨幣を裏付けているのか

眷属した根拠が、主権通貨を取り巻いている。例えば、多くの政策担当者や経済学者は、「政府が自らの財・サービスの際に発行した貨幣を、なぜ民間人は受け入れているのか」ということに関して、混乱した認識を持っている。「金属に内在している価値」が貨幣を成り立たせていると認識している人も何人かいる。
歴史的に、政府はたびたび金か銀(あるいは両方)と自国通貨を交換するために、それらを貯蔵していたこともあった。その考えは、もし人々が金属の価値を手に入れるために政府に貨幣を変換した場合、人々は貨幣を受け入れるだろうとしている。なぜなら、人々は金属を商品と同じように考えているからだ。たびたび、金貨の事例のように、貨幣そのものは貴金属を含有していた。
例えば、米国では、1960年代まで、発行した貨幣に対して25%の価値の分の金を貯蔵していた。しかし、アメリカ国民は体制を受け入れなかった。米ドルの海外の保有者だけが、その制度を受け入れた。しかし、米国を含め、多くの国がその制度を、廃止されるもで保ち続けた。銀行に金がなくても、米ドルは世界中で受け入れられた。これは、貨幣は銀行による貴金属との交換によって裏付けられているという考えが、間違いであることを明示している。
上記のことを踏まえると、主権国家の政府は自らの発行する貨幣によって国民に納税義務(公共料金や罰金も同様に)を課す。そしてその金額を決定することができる。すなわち、その政府は、国民にその支払いによって義務を果たすことを許している。
最後に、主権国家の政府は、自らが財・サービスの購入、退職金給付をする際などの支払いをするときに、どのように支払いをするかということも決定している。ほとんどの近代主権国家の政府は、退職金の給付も含めて、異国通貨での支払いを行なっている。我々が研究した理由によると、政府の貨幣による納税義務が、それと同じ貨幣を使った政府支出が受け入れられることを可能にしている。

法定貨幣の法律

もう一つの「なぜ貨幣が受領されるか」に関する説明は、「法定貨幣の法律」である。歴史的に、主権国家の政府は、支払い時に自国通貨が受け入れられることを定めた法律を制定してきた。実際、米国政府が発行した紙幣は「この紙幣はあらゆる負債、政府、民間人に対する支払いに使えることを法律で定めている」と宣言している。カナダ紙幣は「これは法定貨幣である」と宣言している。オーストラリア紙幣は「これは、オーストラリアとその領域内で使われることを法律で定める」と言っている。その比較をすると、イギリス紙幣は「所有者に要求に応じて5ポンドと等価の支払いを行う」(5ポンド紙幣の場合)と書かれている。一方、ユーロ紙幣は何の約束もしていない。
さらに、歴史を通して、貨幣を法律で定めたが、その貨幣の需要が存在しなかったり、民間人に受け入れられなかったり、政府が受領を拒否した例は多く存在する。このいくつかの例において、王のコインの受領を断ったこ、そのコインを溶かしたことに対する罪は、強硬に示されていた。それゆえ、多くの法律に依拠しているかに関わらず、直ちに流通した貨幣が存在した。さらに、我々が知っているように、米国貨幣は多くの国で法定貨幣でないのにも関わらず、流通している(国家が権威によってその流通を禁止しようとしても)。

不換貨幣

近代貨幣はよく「不換貨幣」と呼ばれる。なぜなら、制度的に政府がその貨幣と何かを交換するようになっていないからだ。それらの価値は「許可」(政府が新しい発行者を制限し、貴金属の準備がドルの半分の価値の金額の分しかないとしても、そのコインはドルの半分の価値があると宣言)によって、宣言されている。経済学部の多くの学生は、銀行に貨幣がないのにも関わらず、政府が「許可」を与えていることに衝撃を受けるだろう。実際に財務省で金との交換ができることを深く考慮していのにも関わらず、彼らは「貨幣は何か他のモノによる裏付けがされており、償還に対する準備が存在するかもしれない」という、その間違った信念の中に安心感を見出している。
イギリス貨幣の「所有者に要求に応じて5ポンドと等価の支払いを行う」という約束は、その約束された支払いを可能にするような、財務省が何らかの準備を抱えているという、確かな根拠を暗示している。しかしながら、もし誰かが実際に英国政府に5ポンド紙幣を送っても、新しい5ポンドと根幹されるか、コインに両替されるだけである!多くのアメリカ国民、オーストラリア国民は、自国の財務省で同じ結果を得ることができる。5ドル紙幣を米財務省に持っていっても、新しい5ドルに交換されるか、両替される。政府は、この程度しか支払いを約束していない。
貨幣が貴金属との交換を約束されていない状況、貨幣を受領させるのに十分な法律がない状況、なにか実物との交換を約束していない状況において、人々はなぜ貨幣を受け取るのか?答えを明らかにしてみよう。

納税義務が貨幣に対する需要を生み出す

主権国家の政府によって宣言される最も重要な権力の一つは、課税・徴税をする権力である(それには公共料金、罰金も含まれる)。納税義務は国家貨幣で計算される。例えば、ドルは米国、豪ドルはオーストラリア、円は日本、ポンドはイギリスという風に。さらに、納税義務を果たさせるものを決める。近代国家では、税の支払いにおいて受容された貨幣(一般的に中央銀行準備という形式である。のちに説明する)は、政府が発行する貨幣である。
その他の人が電子的な振込で納税しているのにも関わらず、小切手を書いて納税するものもいる。政府は小切手や振り込みを受領した際、納税者が口座を保有していた銀行の、中郷銀行における準備預金が同額分、引き落とされる。準備預金は、銀行が銀行間のやり取りの際に使う、政府貨幣の特別な形になったものである。全ての貨幣のように、準備預金は政府の負債である。効果的に、民間銀行は納税者と政府の間の仲介者となり、貨幣(準備銀行)を使って納税者の代わりに納税義務を果たすことができる。一度銀行が支払いをすれば、納税者は納税義務を果たしたことになり、納税義務は消滅する。
我々は上記において示した「人々はなぜ貨幣を受け取るのか?」という疑問に、今、答えることができる。その答えはこうだ。なぜなら、「政府貨幣が主な(多くの場合、唯一の)納税の手段であり、人々は政府に納税義務を負っている」からだ。政府貨幣が別の理由で受け取られているということも真実である。例えば、コインは機械の売却から得てものの購入に使えるし、民間人の負債は政府の貨幣によって返済できるし、政府の貨幣はブタの貯金箱に将来の支出に備えて貯金できる。しかし、これらのその他の理由は、課税の支払い手段として受け入れられることに対する、副次的なものである。なぜなら全国民は政府の貨幣を使うことによって納税義務を果たすことができるからだ。それゆえに、国民は、モノの購入や民間人に対する負債の支払いにその貨幣を使用することができるのである。
政府は、他の人々に強制的に、貨幣を民間において使用させたり、ブタの貯金箱に貯金させるように、簡単にできるわけではない。しかし、納税義務を貸すことはできる。したがって、貴金属の準備も、法律の裏付けも、政府が貨幣として受け入れられる際に必要ない。税金として必要とされるのは、政府の貨幣だけである。イギリス紙幣に印刷されている「支払いの約束」という文字は、必要のないし、非常に誤解を招く表現だ。我々は、イギリスの財務省に紙幣を持って行っても、それと(新しい紙幣との交換を別にすれば)何か他のものと交換してくれるわけではないことを知っている。しかし、その紙幣は税の支払いには必ず使える。その政府紙幣は金との交換をできない。それは、政府による支出によって発生した政府紙幣が、政府に戻ってくる方法である。我々は、税の支払いについてチャプター20で詳しく見るつもりだ。現在の目標として大事なところは、「政府に対する納税義務は、納税者への政府の負債によって解消する」ということだ。
我々は、租税駆動貨幣と結論づける。政府は最初に計算貨幣(ドルといった)を創造する。その時、国民国家の計算貨幣で測定できる納税義務を課す。近代国家において、この要点は、ほとんどの負債、資産、商品価格が国家の計算貨幣で表示されていること、つじつまが合う。その貨幣が政府への税金の支払いに使用できることで受け入れられている限り、政府はその貨幣と同じ貨幣を印刷することができる。我々が「貨幣を発行する政府」について話す時、その貨幣の発行の中で、最も一般的な方法は政府の支出である。我々は、現実に対して政府が貨幣を使うことを言っている。それは、借金も発生させるだろう。
国家の貨幣が受け入れられるためには、貴金属の裏付けも必要ないし、法的な裏付けも必要ない。例えば、全てのアメリカの政府(連邦政府、州政府)は、アメリカの紙幣が国内あるいは海外で受領されるために、「この紙幣は法的に民間、あるいは公的機関への負債の支払いに使える」と宣言しているのではなくむしろ、「この紙幣は税の支払い手段として政府に受領される」と約束しているのである。
チャプター2の補論において、我々は「バッカルーモデル(バッカルーとは、おもちゃのお金である)」を紹介した。そのモデルは、アメリカの学生が単位を取るために彼らがコミュニティーサービスに参加する時、報酬としてもらえる貨幣に言及している。「バッカルー」は、学生たちが義務を果たすことを可能にする。そして、貨幣は確かに価値を持つ。貴金属との交換によって価値裏付けられているわけではない。バッカルーは経済において広く受け入れられているわけではない。なぜなら税は、アメリカドル換算で政府によって課されているからだ。しかしながら、学生たちの間に存在する、いくつかの機能が発生していることは、非常に思慮深い。学生たちの間でバッカルーがドルと交換されている。何人かの学生は、コミュニティーサービスに余分な時間参加することを準備するかもしれず、その一方でその他の学生は、コミュニティーサービスに参加するのではなく、バッカルーをドルで買うことを準備するかもしれない。
ボックス9.1では、我々は18世紀後半のバージニア植民地にて、貴金属の裏付けや、紙幣としての使用に言及がされていないのにも関わらず、不換貨幣が価値を持っていた、ということに関する論争について説明する。

BOX 9.1 歴史的な紙幣:植民地アメリカにおける紙幣と税の償還

税が貨幣を運営するという概念は、コイン鋳造制度と紙幣の発行の歴史を検証することを通して、描きだすことができる。ファーレイ・グラブが2015年に多なった、バージニア植民地における紙幣に関する研究は、印象的な、紙幣に基づいた税の原理を描き出す。アメリカ植民地はイングランドからコインを鋳造することを禁止されていた。コインの鋳造は国王に独占されていた。植民地はコインを輸出によって手に入れていたが、強力な重商主義権力によって、イングランドは植民地に、彼らが求める原材料を輸出するように制限をかけていた。植民地は完成品を輸入していたので、輸出で手に入れたコインをイングランドに送り返すことなった。国王は帝国内での消費を制限することも望んでいたので、植民地は費用を資産管理する大きな責任があった。その責任は、フランス、カナディアン、ネイティブアメリカンと戦うことも含んでいた。それゆえ植民地政府は、人頭税や奴隷・タバコの輸出にかかる税の支払いのためにコインを求めていたが、慢性的にコインが不足していた。
財政の規模が大きくするため、植民地政府は紙幣の発行を始めた。バージニア植民地政府は、財務省紙幣の発行を可能にする複数の法律を可決した。それらの法律は、発行する(バージニアポンドとして計算される)紙幣の全ての価値を包括していた。さらにその法律は、最終的な償還(グラブによると、議員がこの法律を立法した)のための項目を記録することを定めていた。面白いことには、その法律は新しい紙幣が発行される際に、新しい税を設定することを定めていた。
「全ての紙幣に関する法律は新しい税制を定めていた。典型的なものは大陸勢や人頭税であり、それらは数年間は実施されていた。それぞれの紙幣に関する法律によって定められた紙幣が十分に施行されるための、十分な資産を生み出すように、数年以上実施されていたそれらの新しい追加的な税は選ばれていた。それらの紙幣の法律の項目は、最終的な償還(それはこれらの法律で定められていた)が税の計算期間の締め日(それもこれらの法律で定められていた)に、厳密に遂行されるように定めていた。」(グラブ,2015:27)
財務省に紙幣を発行することを許可した紙幣法は、貨幣を「償還」する目的で、新たな課税も行なっていた。実際、植民地紙幣は2つの方法で償還されていた。1つは税の支払い。もう1つは、コインに代わる、財務省に対する支払いとして。財務省は経済に対して新しく発行した紙幣を支出し、その後、その紙幣は税の支払い、あるいは支出に使用することができる。また、財務省に送付すればコインと交換することができた。
グラブはほとんどの紙幣が税の支払いに使用できた。また、その紙幣は税として「償還」された。紙幣は税によって回収されたのだ。
「10,327バージニア・ドルの償還の税は回収された。そのうち2,527バージニア・ドルは正貨(コイン)で回収する、紙幣を財務省に償還するために使われる専用口座に、はっきりと分けられていた。税の支払いの残りの部分は焼却された。そのことは、それら残りの税収が紙幣によって形成されたものであることを暗示している。それゆえ、税収の76%は紙幣によって支払われ、24%が正貨によって支払われた。」(グラブ,2015:29)
どちらの方法でも「償還」されなかった紙幣は、どうなっているのか?それらは流通し続けていた。
「最後の償還の記録によれば、それぞれの紙幣の保有者は、コインと紙幣を交換するために殺到することは決してなかった。その紙幣は流通し続けた。紙幣の保有者は、財務省に対する支払いにも、自分の楽しみのためにも、紙幣を使い続けることができた。1766年以降のバージニア政府の会計係であるロバート・ニコラス・カーターは、紙幣のこの性質を「ほとんどの商人、そしてその他の人々も、金や銀よりも、それ(バージニア財務省紙幣)を好んでいる。それは国内における商取引を行う上では、金や銀よりも便利なのである」と述べている(William and Mary Collage Quarterly Historial Magazine, 1912:235)。」(グラブ,2015:30)
同様に、アダム・スミス(1776)は、もし植民地が税の支払いに使用できる紙幣の印刷をしないことを約束することを躊躇していたとしても、その紙幣の価値は下がらないだろう(それどころか、定められた価値、平価以上でさえ流通すると述べている)と述べている。税による紙幣の償還は、流通の循環から紙幣を取り除くことである。それにより紙幣を供給不足に保つ。グラブは、これを植民地政府は熟知していたと述べている。
「バージニア政府の会計係は償還のために紙幣を徴収し、それは紙幣の価値の管理に重要な影響を与えていた。
それは、1760年3月に、紙幣法の宣言において説明されている。”そして一方で、その法律は植民地内における紙幣の信用を保護する上で最も重要であった。本当の意図と、いくつかの議会で可決した紙幣を発行する法律の意味にそって考えた場合、信用の紙幣・財務省紙幣が適切に価値が落ち込む、という公益を反するようなことが続くことはなかった。この目的のために制定された通常の法律は、公的部門の会計をまとめる上での困難と混乱を防ぐかもしれない。”(ヘニング,1969,v. 7, p.353)」(グラブ,2015:27-28)
これは、政府紙幣の価値を保護するために、貨幣流通の循環から紙幣を取り除いていたという事実を強調する。別に紙幣を取り除くことによって、政府は支出をするための「収入」を得ていたわけではない。償還を超える紙幣による支出は、政府の支払いが不可能になるということを引き起こさない。そうではなく、インフレを引き起こすだろう。税は、支出のための「収入を上昇させる」という意味で捉えてはならない。コインの形態による(紙幣を除く、全体としては一部分の)税収を必要としていた。そのことをバージニア政府は理解していた。税が紙幣をコインへと償還することを約束していたということを、これらの事実は確証させる。
紙幣が財務省に帰ってくることによる納税義務の償還は、植民地政府にのみ償還(政府紙幣の負債が消されるという観点に立てば「償還」と言わざるを得ない)されるわけではなかった。政府紙幣は自らも納税義務を負う納税者にも償還された。この償還は同時並行で起こっていた。納税者は「債権者」であり、紙幣発行をする財務省は「債務者」であり、両者は互いに償還され合う関係である。同じ時、「債務者」である納税者は、「債権者」である財務省に、納税(という義務)として紙幣を召喚しなければならない。バランスシートにおける4つの項目は、同時に相殺された。
紙幣の創造は、税の回収に先行して行われていた。(政府の支出を通して行われる)紙幣の創造は、必然的に、(徴税を通して行われる)紙幣の回収より先に行われる。実際、入植者にとって税を支払うことは、慢性的なコインの不足が発生していることもあり、不可能であった。その問題は、紙幣が発行され、かつその紙幣による政府支出が徴税より先行していなければ、解決しなかった。紙幣による政府支出のために、政府が新しい税を課すということは、起こらなかった!
これが見せることは、「償還」に関する現代的な解釈は狭い定義に基づいているということだ。その狭い解釈とは、「貨幣の発行者は、その貨幣に対して、(金本位制におけるような)金との償還や(固定為替相場制度におけるような)外国通貨との償還を約束している」という文脈に適応されるような、「償還」の解釈である。もちろん、そのような約束をする貨幣の発行社は存在する。しかし、ほとんどの約束・原理は、貨幣の発行者が決定した、支払い義務の受け取りを、定めたものだ。例えば、主権通貨の発行者に対する納税義務といったようなものだ。この事例でさえ、同じく主権者(バージニア政府)は金または外国通貨との償還を約束していた(バージニア植民地はイギリスコインとの償還を約束していた)。この償還の約束は、いくつかの事例において適用される追加的な約束であると、我々は皆している。しかし、この約束は現代の先進国においては珍しい事例である(欧州通貨同盟における国家においては、珍しいケースではない)。自らの貨幣を自らの政府への支払い手段として受け入れるという約束は、その例外的な約束より一般的である。実際、世界的な「償還」の約束である。そして、それは貨幣を「運営」する上で重要である。

財政のストックとフローの、国家の計算貨幣での重要な役割

財政のストックとフローは国家の計算貨幣で重要な役割を担っている。労働によって、労働者は支配的な貨幣で賃金を獲得している。その支配的な貨幣で支払うことは、雇用者の資金需要を満たす上でも効果的な方法である(チャプター6より)。給料日、雇用者は、電子的な銀行振込により、賃金支払いを行う。その賃金支払いは、雇用者に課せられた義務である。また、その義務は国家の計算貨幣によって表される。もし、労働者が銀行から現金を引き出し、現金を貯蓄することを望んだならば、労働者は政府に対して債権を持ったことにある。逆に言えば、政府は労働者に対して債務を負うことになる。
あらゆる利用可能な所得は、財・サービスの購入に使われない場合、貯蓄に対するフローに置き換わる。それは資産のストックを貯蓄することになる。この事例では、貯蓄は銀行預金であり、それは財政上では資産に計上される。これらの貨幣のストック・フローは計算貨幣で計算される概念上の会計項目に過ぎない。我々は、コンピューターを使った電子的な振り込みを通して支払う際に、容易にコインや紙幣、小切手を思い浮かべることができる。全ての資産も同様に、紙を使わずとも、計算することができる。
チャプター5において、我々はストック(例えば「資産」)とフロー(例えば「所得」「支出」「貯蓄」)の定義を慎重に行った。そして、それらの関係についても説明した。

スタジアムの電光掲示板のような金融システム

近代的な金融システムは、電子的な記録を使用したシステムを採用している。それはまるで、資本主義経済を舞台にした人生ゲームにおける金融資産の金額の羅列である。金融資産の金額は、スポーツにおける電光掲示板と比較することができる。サッカーの得点を表示する際、電光掲示板のLEDが発行し、得点を表示するだろう。試合が進むにつれ、得点は増えていく。得点は物理的なモノで表現されない。それは競技のルールに則り、試合の経過の記録を表示しているだけである。それらは何かに「裏付けられている」わけではない。しかし、その数字は価値がある。なぜならその数字は、最も多く得点を獲得したチームを明らかにする。その勝者は名声や賞金を得るかもしれない。さらに、適切なルールに照らし合わせた場合、得点は、正式に検証した後に、ルールを破った判断され、罰として剥奪されるかもしれない。その剥奪された得点はどこかに移動するわけはない。得点を記録する人が単純に記録から削除するだけである。
同様に、人生ゲームにおいても、スコアとして見なされる得点を獲得することができ、それは金融資産として貯蓄することができる。スポーツとは違い、人生ゲームにおいては、1人の参加者が持っている得点は、他の参加者が資産を減らしたり債務を負ったりした結果、発生する。人生ゲームの会計係は、金融資産が常にバランスしているかということに注意を払っていなければいけない。賃金の支払いは、雇用者が銀行に持つ「得点」を減らし、被雇用者が銀行に持つ「得点」を増やす。しかし同時に、雇用者は、「被雇用者に賃金を支払わらなければならない」という、「被雇用者が持つ賃金支払い要求」をする法的な権利のような、暗黙の義務を取り除くことができる。したがって、人生ゲームはサッカーの試合よりも少し難しい。
貨幣に換算された貯蓄の記録は、得点の記録ととても似ているという発想は、我々に「貨幣はモノではなく、我々が全ての貸借関係あるいは”得点”の経過を記録するための計算単位である」ということを思い出させてくれる。
我々が「スコア」について考えるとき、(現実世界に対して政府が貨幣を支出することを通して)自国通貨を発行する政府は記録するだろう。そのことは何も、政府が貨幣を消滅させるということを意味していない。それは、試合は必ずいくつかの決められた時点で区切るということを意味している。なぜなら、スコアの記録係は電光掲示板にスコアを記録するために、一旦、ゲームを区切る。この話は、次のチャプターに持ち越すことにしよう。

9.3 変動相場制 vs 固定相場制

為替レートは、外国為替市場において、通貨Aを購入するにはどれくらいの通貨Bが必要かということを表したものである。このことについては、チャプター24で詳しく説明する。政府は貨幣が自由に交換されること許可することができる。それを行うには、どんなに外国通貨に対する価値が変化する方法と(変動相場制)、多国間との多面的な契約を常に行い貨幣の価値を保つ方法(固定相場制)のどちらかを取る。この2つの方法の違いは、選択できる経済政策の違いを生み出す。この説では、少しそのことについて考えてみたい。
前の説において、我々は、貴金属やその他のモノとの交換を一切約束していない貨幣を発行する政府の事例を区分した。5ドルをアメリカ財務省に送ったとしても、税の支払いとして受け取られるか、同じ金額の他の紙幣や硬貨と交換されるだけである。他の何かと交換してくれるわけではない。さらに、アメリカ政府は、特定の水準に、外国貨幣に対するドルの価値を維持することを約束していない。これはほとんどの国家において、典型的な事例である。
ほとんどの教科書は、変動相場制で運用される貨幣について説明している。なので、その教科書は固定相場制を説明するのに使用することはできない。それは、米ドル、豪ドル、カナダ・ドル、英ポンド、日本円、トルコ・リラ、メキシコ・ペソ、アルゼンチン・ペソなどを例にとっている。
これら2つの制度の間にはどのような違いあるのだろうか?また、この区別の含む意味とはなんだろうか?

金本位制と固定相場制

かつて多くの国々は金本位制で貨幣を運営していた。その国の政府は金との交換の約束だけをしていたわけではない。為替相場を固定する約束もしていた。固定相場制の例の1つをみてみよう。アメリカ政府はかつて、35ドルを1オンスの金と交換することを約束していた。何年にもわたって、これは実際にアメリカ政府の公式の為替レートとなった。他の国々は同じく固定相場制を採用しており、金に価格を固定した。第二次世界大戦後には、金に価格を固定している米ドルに価格を固定していた。例えば、ブレトン・ウッズ体制として知られる戦後システムの開始時、英ポンドは、1ドル0.2481ポンドで交換されていた(1945年12月27日当時)。
ある人が1ポンドを交換した場合、4ドル相当を受け取ること意味する。他の多くの貨幣もドルに対する価値を設定していたため、それらの貨幣はドル以外の貨幣に対する価値も設定していたことになる。そのため、1945年12月27日、1ドル119.1フランス・フランで交換されていたが、これは1ポンド480フランで交換されるということを意味した。チャプター24において、どのように貨幣の時価を決定するかということを学ぶ。また、どのように異なる貨幣の価値を比べるかということも学ぶ。
固定相場制において貨幣と交換するものを用意するために、それぞれの国は外国通貨(あるいは金)の準備を蓄えていた。例えば、多くの英ポンドが米ドルとの交換を目的として、イギリスに(例えば、外国の中央銀行などからイングランド銀行に)送られてきたとする。イギリスの外国通貨の準備(ほとんどはドル)は急速に枯渇するだろう。外国通貨の準備を使い果たすことを防ぐための戦略は存在したが、魅力な戦略ではなかった。それは以下のような戦略である。(a)ドルに対するポンドの価値を変化させる。すなわち、ポンドの価値が減らす。(b)外国通貨の準備を借りる。(c)資本投資を引き付けるために、高金利と財政支出を削減する。そのとき発生するデフレを容認する。
この固定相場制において、輸入超過(輸出が輸入より少ない状態)になった国々は常に、固定相場を保つことに苦労した。なぜなら、外国為替市場における、全てのその他の通貨に対する相対的な自国通貨の供給量の超過として、貿易赤字は明確になるからだ。なぜかと言うと、国内業者が輸出した時、外国の購入者は相手国の通貨を手に入れるため自国の貨幣を手放し、反対に、国内業者が輸入した時、相手国の通貨を手に入れるため自国の通貨を手放すからである。したがって、輸入をする当事国では、自国の通貨の供給量が他国の通貨に対して増える。またそれによって、自国通貨の価値は下落する。外国為替市場における下落を止めるためには、自国通貨の供給過剰をなくすために、中央銀行は外国通貨を売ることによって自国通貨を買うことが必要とされる。しかし、慢性的な輸入超過の場合、外貨準備の不足がいずれ起きる。この圧力は、ブレトン・ウッズ体制の余命を縮め、そして1971年に崩壊に追いやった。

変動相場制

1971年、アメリカのニクソン大統領は、固定相場制をアメリカが採用し続けることを拒否した。なぜなら、アメリカはドルと金との交換が行えないようになっていた。多くの国もこれに続いた。これらの出来事は、もはや多くの国々は、自国通貨と外国通貨(あるいは金)を固定相場で交換することができなくなっていたということを意味する。結果として、自国通貨の価値は外国通貨に対して変動するようになった。通貨の価値は、その時々における、その通貨の需要と供給によって決定されることになった。
今日、変動相場制を採用する通貨を含めて、民間銀行や国際空港のキオスクで通貨同士を交換することは容易である。通貨為替は、国債市場おける為替レートに基づいて、通貨の交換を成立させる(この時、手数料を差し引かれる)。この交換比率は、(ある目的に使用する貨幣を手に入れるために発生する、その貨幣の)需要と(別の貨幣と交換するために、その貨幣が提供されることによって発生する、その貨幣の)供給に合わせて、日々変化し、分単位ですら変化している。
変動相場制における為替レートの決定は、極めて複雑である。例えば、ドルの国際的な価値は、「ドルで換算される資産に対する需要」「アメリカの貿易収支」「アメリカの金利」が、他の残りの国々おけるそれらの同じものと、相対的に高いか低いかということに影響される。為替レートを期待通りに予測する統計モデルがまだ存在していないということには、とても多くの要素が絡み合っている。
しかし、変動相場制に関して、我々の分析にとって重要なものは、政府は外貨準備(あるいは金準備)を「自国通貨と交換する」という単純な理由のために枯渇させることを、恐れる必要がないということだ。実際、政府は一切交換の約束をしていない。実際問題として、政府は変動相場制を採用しながら外貨準備を保有しており、国内の金融機関の利便性を高めるために彼らと通貨の交換をしている。しかし、その交換は為替市場のレートに基づき行われており、指示されたレート(固定相場)で交換しているわけではない。
望ましい方向に為替レートを促すことを試みるために、政府は為替市場に介入する。政府は為替レートに影響を与えるために、マクロ経済政策(それはチャプター20で話す「財政・金融政策」を含んでいる)も行う。それは効果を発揮することもあるし、しないこともある。この点は、変動相場制が、政府が自由裁量的に為替レートに影響を与えられるようにすることを、意図しているからだ。対照的に、変動相場制は、政府が為替レートを必ず維持するようにすることを、意図している。
変動相場制は、政府が政策目標を大いに決定する自由を許容できる。変動相場制を採用する政府は、完全雇用、十分な経済成長、物価の安定といった目標を自由に設定できる。これ以降のチャプターにおいて、これについて詳しくみていこう。

9.4 負債(IOU)が国家貨幣を支配している:政府と非政府

前の節にて、資産と負債が、政府によって採用された徴税に使用できる計算貨幣を支配しているということを見てきた。変動相場制において、政府の負債(それは貨幣である)は貴金属やその他のモノとの交換を約束していない。代わりに、その政府負債(貨幣)は、政府に対する支払いに使用することができる(その大半は納税であり、そのほかは公共料金・罰金である)。これは必須で、重要な約束である。負債の発行者は、その負債が自らに支払われたときに必ず受け取らなければならない。政府が自らの負債を税の支払いとして受け入れる限り、政府の負債への需要は存在し続ける(それは少なくとも税の支払い手段として需要もあるだろうし、たぶん他の民間人に対しても支払い手段として受領される)。

同様に、負債を発行した民間人も、自らの発行した負債を受け取らなければならない。例えば、あなたが銀行から借り入れをした場合、自らの銀行の口座を使用する小切手を書くことによって、あなたはいつでも元本と金利を支払うことができる。実際、全ての近代的な銀行システムは、国内における全ての銀行と、それぞれが持つ銀行振り出し小切手を処理する業務を行なっている。これは、国内において、ある債務者が他行に口座を持つある債権者に負債の返済を行うために、小切手振り出すことを可能にしている。この小切手処理機能はその時、銀行間での口座を清算する。このことについてはチャプター20で詳しく議論する。銀行は自らに対する(貸出銀行が作るような)負債の支払いに関して、自らの負債(銀行振出小切手)を受け入れているということは重要な点である。これは、政府が自らの負債(貨幣)を、自らへの負債(納税義務)の支払い手段として認めていることと似ている。

レバレッジ(てこの原理)

しかし、政府と銀行の間には違いが存在する。銀行は自らの負債を何かと交換することを約束している。あなたは貨幣による支払いをする代わりに、小切手を銀行に持っていった場合、「小切手の換金」と通常呼ばれるように、あなたはATMで銀行の口座から現金を引き出すことができる。どのケースでも、銀行の負債は、政府の負債と交換される。銀行公は通常、「求めに応じて」(これは一般に「普通預金」「要求払預金」と呼ばれる、いつでも現金が引き出せる預金の場合である)あるいは「定期的に」(これは「定期預金」という、即時の引き出しが制限された預金の場合である。また貯蓄口座と、CDと略される「譲渡性預金」も同様の性質である)に政府の負債との交換を約束している。

銀行は求めに応じて交換に応じるため、彼らは貨幣の準備を蓄えておくか、その準備にすぐ手が届くようにしていなければならない。それらの準備は、銀行に手元にある現金と、中央銀行にある講座によって構成されている。彼らが保有することを望む紙幣は、彼らが中央銀行に保有する預金に反して、少量で良い。なぜなら彼らは短い期間における銀行への預金の償還(「取り付け」ともいう)は、彼らの抱える銀行預金(銀行にとっては負債)の割に、非常にわずかであるということを知っているからだ。

預金に対する準備機能の拡充の比率を、「準備率」と言う。我々は準備をレバレッジ(その資金をもとにして、何倍もの資金を運用すること)して預金を運用していると考えることができる。例えば、アメリカでは、銀行預金に対する準備立は1%に過ぎない。これは100倍のレバレッジをしていることを表している。

銀行は現金の引き出しの業務に対して、預金に対して相対的に少ない現金しか金庫に保有していない。しかし、彼らの準備の大半は中央銀行に預金という形で準備されている。銀行がもし現金が必要になった時には、中央銀行に「装甲車に乗せて紙幣と貨幣を乗せて運んでくれ」と頼む。故に、銀行が中央銀行に保有する預金準備は、銀行の金庫にある現金と同じものであるとみなすことができる。なぜなら、銀行は中央銀行に保有する預金をすぐさま現金に変換し、預金者の現金の引き出しに対応することができるからだ。銀行の金庫にある現金と、銀行が中央銀行に保有する準備預金との間に、機能的な違いはない。我々は、両方を「満期の存在しない政府の負債」、すなわち貨幣として見做すことできる。

銀行は大量の現金及び準備を保有することを「良し」としない。それは、通常の業務においては特にである。なぜなら、銀行の建物内に大量の現金を抱えておくことは、泥棒にとって魅力的になってしまうからだ。しかし、ほとんどの理由は、大量の貨幣を抱えておく費用を削減するため、なるべく準備を少なくしようとするからだ。もっともわかりやすい費用は、金庫の警備員を雇う費用である。しかし、銀行にとってさらに重要な事実は、準備を抱えることは銀行にとっての利益を生み出さないということだ。銀行は資産としての貸付金を保有したい。なぜなら債務者は、その借入金に対して金利を付与して返済するからだ。このため、銀行は、自らが抱える銀行預金負債(我々、民間人が銀行に保有する銀行預金という資産は、銀行にとっては負債である)に対してほんの少ししか準備預金という資産を持っていない。銀行は高いレバレッジ比率を保ちながら経営しているのである。来る日も来る日も、銀行から現金を引き出す預金者の割合が少ない限り、この経営の方法は何も問題がない。しかし、銀行に取り付け騒ぎが起きた時(預金者が一斉に現金を引き出しに来た時)には、銀行は中央銀行から貨幣を手に入れることができるであろう。これは、銀行が取り付け騒ぎに直面した時に、中央銀行が準備を貸し付けるという、「中央銀行の最後の貸し手機能」という答えを導き出す。これについては、チャプター23で詳しく論じよう。

勘定の清算は、負債を消滅させる

銀行が準備を保有する理由は、他にもある。あなたが何かの支払いをするために、あなたの所有する銀行口座宛ての小切手を書く時、その小切手の受取人はその小切手を、その受取人が口座を持つ銀行に預ける。小切手の振出人と受取人がそれぞれ口座を保有する銀行は、たいてい異なる。受取人の銀行は、振出人の銀行に支払ってもらうために小切手を届ける。これを「勘定の清算」と呼ぶ。銀行は政府の負債を使用して勘定を清算する。そのため、銀行は中央銀行に準備預金を保有している。より重要なこととして、銀行が準備預金が必要にあった時には、準備預金をより多く入手している。銀行は「銀行間取引市場」において他の銀行から借り入れたり(オーバーナイト取引では、銀行は銀行同士で貸し借りをしている)、中央銀行から借り入れたりして、準備預金を入手している。全ての近代的な金融システムは、彼ら自身と、彼らの預金者の勘定を清算できるように、貨幣や準備預金を銀行が入手することを可能にする手順を備えている。中央銀行には、銀行が達成するべき準備預金額を用意できていない時、それを満たすほどの準備預金を銀行に提供するように、義務付けられている。

例えば、第二国立銀行が書いた小切手を第一国立銀行が受け取った時、第一国立銀行が中央銀行に小切手を提示すると、中央銀行は第二国立銀行の準備預金を第一国立銀行の準備預金に振り替える。これは現在、電子的な処理で行われている。その処理に関して、第二国立銀行の資産が減少している一方で(準備預金が減少している)、彼ら第二国立銀行の負債(小切手)が減少していることに注目してほしい。同様に、もし銀行の預金者がATMから現金を引き出した時、銀行の資産(準備していた「現金」)が減少し、彼ら銀行の負債(銀行預金。預金者にとっては資産)が「同額」減少する。

他の商業を営む組織も、自らの口座を処理するために、銀行の負債を使用している。例えば、小売業者は卸売業者から、一般的に買掛金(後で支払う契約のこと。アメリカでは普通30日後に支払われる)を使って商品を購入する。卸売業者は支払い期日まで小売業者の負債を手にすることになる。そして期日になれば、小売業者は小切手を振り出して、電子的な処理によって小売業者の口座から預金が引き落とされ、卸売業者の口座に預金が振り込まれる。この時点で、卸売業者が保有していた小売業者の負債は消滅する。

あるいは、卸売業者は買掛金が支払われるまで待とうとしないかもしれない。この場合、卸売業者は小売業者の負債を割り引いて(支払い期日まで待った場合に受け取れる金額から、いくらか差し引いた金額が手に入る)売却することができる。この割引は、卸売業者が支払い期日より前に資金を望む場合、効果的である。小売業者は効果的に利益を得ることができる(その利益とは、負債の金額と卸売業者が割り引いて手に入れた金額との差である)。また、小売業者の負債は銀行の負債を送金することで消却される(小売業者の負債の所有者は、自らの所有する口座に預金を受け取る)。チャプター23で見るように、割引は商業銀行と金利の基礎である。

貨幣ピラミッド

もう1つの重要な点は、民間の金融負債は政府の貨幣だけによって支配されているわけではないが、最終的にはそれらの民間金融負債は政府の貨幣によって交換される。我々がすでに説明したように、銀行は明確に自らの負債と貨幣との交換の約束をしている(それは普通預金というすぐさま引き出しに応じる形であったり、定期預金という遅く引き出しに応じる形であったりする)。銀行以外の民間組織はほとんどは、自らの会計処理をするために銀行の負債を利用している。本質的には、彼ら銀行以外の民間組織は、指定したデータ(あるいはその他の指定した契約)に基づく「小切手による支払い」という行為によって、自らの負債を銀行の負債と交換することを約束している。この理由によって、彼らは銀行預金を保有していなければならない。また、支払いをするために、銀行預金を使用しなければならない。

実際の物事はこれよりももっと複雑である。なぜなら、支払いサービスを提供する金融機関は幅広く存在しているからだ(そして、非金融機関でさえも、金融サービスを提供している)。これらの組織はその他の組織に対して、「ノンバンク(銀行以外の金融機関)」間の純収支に基づき銀行の負債を使用することによって、支払いをしている。続いて銀行は政府の負債を使用して会計処理する。それゆえ、会計処理に参加する債権者と債務者の間には「6つの区分」が存在しうる。

我々はそれを負債のピラミッドと捉えることができる。そのピラミッドのうちの、異なる階層が中央銀行から分けられた区分と一致している。そのピラミッドの一番下の階層は、家計の負債で構成されている。その家計はおそらく、他の家計、あるいは製造業を営む企業(金融業務を行わない企業)、あるいは銀行、あるいは他の金融機関から借り入れをしているのかもしれない。重要な点は、家計が自らの負債を支払う際には、負債ピラミッドの(自らの所属するう階層より)上位に階層の負債を使用して支払う(一般的に金融機関の負債を使用する)。

最下層に次ぐ階層は、製造業を営む企業の負債によって構成されている。彼らの負債は彼らよりも階層に位置する金融機関によって保有されている(しかし、いくつかの企業は家計や他の企業に負債を保有されている)。そしてほとんどの会計処理はmその金融機関によって発行される負債によって処理される。たまに、「シャドー・バンク」と呼ばれる金融仲介業者の負債によっても処理される。

続いて、次の階層であるノンバンクの金融機関は、より上の階層に位置する銀行の負債を会計処理に用いる。銀行は純収支の支払いのために、銀行の負債を使用する。

最後に、ピラミッドの頂点には政府が存在する。そのより上に、政府の負債と交換することが可能な負債というものは存在しない。ピラミッドの構造は2つの点で学問的に有益である。1つ目はまず、より上位に位置する階層における負債ほど、より世の中で受け入れられやすくなるという、階層的な配置が存在するということを教えてくれるという点だ。また、より上位の階層に位置する負債は弁済能力が高いということも意味する。なぜなら、政府の負債は弁済リスクがないからだ。銀行の負債、非金融組織の負債、家計の負債という風にピラミッドの階層が下になればなるほど、弁済リスクが上がる傾向にある。2つ目は、ピラミッドの全体は、政府の負債のレバレッジに基づいている(政府の負債は、その他の階層における負債よりも少額である)。この概念は次の節においても振り替える。

図9.1は、レバレッジの概念を表現するピラミッドである(この図はハイマン・ミンスキーとダンカン・フォーレイによって開発され、ステファニー・ベルおよび後のステファニー・ケルトンによって発展させられたものだ)。ピラミッドの頂点は、政府の負債である。その政府負債は、我々が「マネタリー・ベース」として言及するような、「銀行が中央銀行に持つ準備預金」と「紙幣や硬貨といった現金」の合計額で構成されている。そして、最下層における負債は、その他の貨幣で換算される負債である(それは貨幣といった非金融部門の負債も含んでいる)。 


9.5「貨幣」という言葉を使うこと:誤解と正確さ [175]

このチャプターに入る以前もそうしてきたが、我々は「貨幣」という言葉を安易に使わないように心がけている。貨幣」という言葉は、「あなたは仕事でどれくらいの貨幣を手に入れたか」ということを問う時など、所得に言及する際に口語的に頻繁に使われる。チャプター5で説明したように、所得とは名目上に決められた一定期間を基準に、計算貨幣で測られるものである。本書では、ストックとフローを注意深く区別するつもりだ。また、「所得」という意味でも「貨幣」という言葉を使うつもりもない。

「貨幣」という言葉は負債を表す時にも良く使われる。例えば、銀行の預金負債や、政府の貨幣負債のように。実際、上述の説明の通り、全ての金融負債は計算貨幣で換算される。それゆえ、それらのうちのいくつかは任意に「貨幣」と呼んだ方が良いし、いくつかはそう呼ばない方が良い。また、ひとたび「貨幣で計算されたものを全て貨幣と呼ぶ」と決めてしまった場合、上記の負債それぞれに言及するため「貨幣」という言葉を使うたびに、上記の負債全てを貨幣に含めなければならない。一方で、全てを除外しなければならない。このように、貨幣と負債を使いわけなければ、論者の意図をつかめなくなってしまう。

本書を通して、我々は計算貨幣(米ドル、豪ドルなど)と特定の貨幣で換算される負債(銀行預金、政府の発行する貨幣など)とを区別するつもりだ。本書では、「貨幣」という言葉は、政府が納税義務あるいはその他の政府への支払い義務を国民に課すことによって決定した、単なる計算単位に言及する時に使われる(つまり、米ドル、豪ドルなどを貨幣と呼ぶ)。

我々が既に説明したように、貨幣は物理的に存在しているわけではない。そうではなく、貨幣とは、我々が持つ負債や資産を記録するための単なる計算単位である。それはまるで、サッカーの試合の得点を記録する電光掲示板のような役割を果たしている。得点は単にゴールの数を記録するように、硬貨はドルの額(あるいは機能)を記録している。サッカーのゴールシュート自体は(選手が特定の場所に向かってボールを蹴るという)物理的な光景を持って現れるが、得点は物理的に存在しているわけではない。同じ理解の方法によって、政府によって発行された10ドル紙幣は(紙にインクを塗布することによって)物理的な存在を持つが、政府が何か義務をすることを計算しているのだ。我々は紙幣を、政府の負債を記録したものと見なすことができる。政府はどのような義務を、あなたに負っているのか。それは、あなたが10ドルという政府の紙幣を使った際に、あなたの10ドルの納税義務を取り除く義務である。あなたは10ドル紙幣を持つことによって10ドルの納税義務を免除される権利を得ているのである。


10.1 はじめに

このチャプターでは、いくつかの説明すべき主題がある。1つ目として、一般的使われている「マネー・サプライ」の定義について我々は説明するつもりだ。以前のチャプターにおいても、財務省、中央銀行、民間銀行の金融資産の購入・売却について頻繁に言及されてきた。ここでは、金融資産に共通する特徴について明瞭な理解を提供したい。そこでここでは、近代的な貨幣経済のもとでは銀行はどのように行動するのかということを中心に説明したい。その説明の中で、金融制度の中における銀行の業務の役割についての、長年の「誤解」「神話」について暴露する。

10.2 いくつかの定義

貨幣の総計

経済学者やコメンテーターは、貨幣の総計が経済に与える影響について解説する。これまで貨幣の総計に関する統計はいくつか考案されている。しかし、それぞれ独自の統計を行う異なる国々にも、共通する統計区分が存在する。各国の中央銀行は、流動性(現金にどれほど容易に変換できるかという指標)の違いを反映するため、M0、M1、M2、M3、M4、といったように区分された統計を発表する。最も流動性の高いものは「狭義の貨幣」とみなされM0、M1として区分される。それ以外の「広義の貨幣」としてのM2からM3に区分される。

M0は「マネタリーベース」とも言い換えられる。オーストラリアやイギリスでは、銀行を含む非政府機関(要するに民間部門)が保有している紙幣や硬貨はM0に含まれる。また、銀行が中央銀行に保有している「準備預金」、その他の中央銀行が非政府機関に負っている負債もM0に含まれる。アメリカでも同じような区分をするが「M0」という言葉は使わない。マネタリーベースは最も流動的な貨幣の統計である。マネタリーベースは、銀行がどれくらいの準備を使ってどれくらいの銀行預金をレバレッジしているかということを言い表す際、「ハイパワードマネー」(HPM)という言葉で言及されることもある。

M1は流通している紙幣と硬貨に加え(M0も含んでいる)、銀行以外の組織が保有する銀行預金を含んだ統計である。いくつかの国では、トラベラーズチェック(外国旅行者向けの小切手)や、銀行口座宛てに書かれた小切手もM1に含んでいる。これも流動性の統計である。なぜならM1は財・サービスのすぐに購入に使うことが可能だからだ。

アメリカ連邦準備銀行は、M1に、ほとんどの貯蓄のための口座、貨幣市場における口座、小売業者間における資金の貸し借り、そして少額(10万ドル以下のもの)の短期定期預金を計算に加えた、M2を公表している。M2はマネーサプライ統計の中では比較的流動性が低い。典型的にそれらはインフレを予想するための指標となる。

M3はM2までの範囲を、長期定期預金といったようなより少ない流動性しか持たない狭義の統計まで、拡大したものである。M4まで行くと、流動性のない他の資産の総計まで足し合わせたものとなる。

以上の全ての統計は、別に世界各国の中央銀行が共通して公表しているわけではない。例えばアメリカの中央銀行は、マネタリーベース、M1、M2しか公表していない。イギリスの中央銀行はM0とM4という2つの統計しか公表していない。欧州中央銀行はM1、M2、M3まで公表し、オーストラリアの中央銀行はM0、M1、M2、M3そしてM4(広義の貨幣)までの統計を公表している。

10.3 金融資産

もし家計が何ヶ月あるいは年にも渡る貯蓄(その行為は、一定期間のフローの計算に入る)をするならば、家計の資産ストックは蓄積される。家計は、現存する自分の銀行預金額にさらに貯蓄するのか、それとも資産構成を考えなおし、違ったリスクの度合いを持つ資産(株、債権などの計算貨幣で計算される金融資産)に預金を変換するのかという、決断に迫られる。

近代的な経済における財務省は、様々な償還期間を持つ債権を発行している。それは国際と呼ばれてもいる。それらの金融資産は、中央銀行、民間銀行、その他の民間組織に買われたり、売られたりしている。金融市場への民間の参加者(例えば、企業など)も同様に債権を発行している。

一般的に、債権は、それの発行者が債権の保有者に対して債務を負っているということを認めている。債権の発行者は債権の保有者に対して、定期的に金利を支払わなければならない。そして、債権の満期に達した場合、元本(債権の額面価格)を支払わなければならない。債権は債権の保有者にとって資産である。

それゆえ、債権は一定期間中に、金利とともに借金(負債)を返済することを約束した「形式的な契約」である。債権者は貸し手(債権者)である。借り手(債務者)は、額面価格に基づく金利(それは普通、債権の表面に書いてある)を支払う必要がある、債権あるいは利付債権を発行する。この場合、定期的に発生する金利は、逐一、その発生した日に支払われる。

発行価格は、その債権が発行されたときに貸し手が払った金額である。その後、債権は、プレミア(債権が債務不履行の可能性が低く、良質であった場合、額面価格以上で取引されること)を付与されたり、逆に割引(額面以下で取引されること)されたりしながら、交換されるだろう。自国通貨を発行する政府によって発行された債権の債務不履行の可能性はゼロである。なぜなら政府は未払いの負債に対して、いつでも対応可能だからである。この理由によって、これらの政府が発行する債権は、不確実性が高い時であっても、購入者に高い需要がある。

コンソル公債は「永久債」と呼ばれる特殊な種類の債権である。コンソル公債は満期が定められていない。金利がこの資産に対して永久に支払われる。

我々が国債市場について語るとき、我々は第一次(債権)市場と第二次(債権)市場との間に区別を必要とする。第一次市場は政府が非政府部門に対して負債を売るための制度機構である。「第一次市場における債権の発行は、政府の支出を円滑にするめるために設計されている」と誤解している人が多い。現実では、自国通貨を発行する政府は財政的な制約直面することはない(チャプター1で説明した通りである)。しかしながら、その代わり我々は、なぜ政府は非政府部門に対して負債を発行するのかということに関して、違った説明をしなければならない。我々はこれに関して、本書のパートE(開放経済における経済政策を扱うパート)で詳述する。

第二次市場は、既存の(すでに第一次市場を通して発行されている)政府の債権を利害関係者が売買する場所である。これと同じ状況は、民間の発行株式にも適用される(普通株、株式と呼ばれるものに適応可能だ)。企業は第一次市場において株式を発行し、あるいは発行した株式を第二次市場において交換することによって、資金を調達する。

それゆえ国債は譲渡の余地がある。債権の所有者は第二次市場において他の人に譲渡(売却)することができる。しかし、国債が一度発行されたら、その発行後の取引は、資産の保有者の間でこの資産がやりとりされて以来ずっと、金融資産額に全く影響を与えない。このことを理解することは重要だ。

第一次市場における国債発行の過程は国ごと、そして時代ごとに異なる。かつての典型的な手法は、特定の指定取扱業者(例えば銀行)が定期的に第一次市場において国債を売るというものだった。そこでは、政府は発行したい(計算貨幣で表現された)負債の額を決定することができた。また購入者に対して利回り(金利)も設定できた。その利回りは「申し入れを受け入れるか、それとも拒否するか」という交渉のもとで設定されたため、国債は非政府部門にとっては魅力的ではなかった。それゆえ、政府が発行した国債のうち、購入者が不足したおかげで余ってしまった分は、その国の中央銀行が購入した。この場合、政府は自分自身に対して負債を発行したことになる。このことは、負債の発行全体を覆う疑問を導き出す。

1970年代以降、経済学の支配的な学派は「マネタリズム」であった。彼らは、中央銀行による負債の購入はインフレをもたらす」という間違った主張をしていた。政府はこの論理の犠牲者となり、政府は、中央銀行が購入されていない負債を購入することをやめさせる政策決定をやり始めた。それゆえ政府は出来るだけ長くの満期を設定し、可能な限り多くの国債を売ることができたが、市場に合わせて継続的に利回りが上下した。そして、純支出の額(財政赤字の額)と国債によって手に入れた収入との間の不一致が存在しない状況が確立された。

「市場のより自由な活動のために」という声に再び答えるように、上記の制度は、政府が利回りを操作しているというあらゆる文句を避ける、より純粋なオークション制度への道筋を提供した。これらのオークション制度(あるいは入札制度)は国際的に支配的になった。大まかに言えば、財務省はオークションの条件を発表する。その国債をどれくらいの額を発行し、どれくらいの期間を満期とし、どれくらいの利札(定期的に支払われる、額面価格に対する金利の割合)を設定するのかというこうとを公表するのである。国債はオークションにかけられ、その時、第一次市場における国債の取り扱い業者は発行されたら国債の最終的な価格を決定する。それゆえ、政府が負債に払う金利について、政府が選択していたのだが、それから離れ、自由裁量的になった。

例えば、1,000ドルの額面価格で5%の利札がつく国債を想像して見てほしい。それは、毎年50ドルの利子が満期までもらえ、かつ満期になったら1,000ドルが帰ってくることを意味する。また、発行した時、国債の取り扱い業者は、彼ら自らの利益への期待を満たすために6%の利回りを望んでいる。この場合、最初の国債の内容については魅力がない。オークション制度の採用に先立って、民間の国債取扱業者はそのような状況で購入することを受け入れていた。しかし、オークション制度のもとでは、彼らは6%の利回りとなるような、彼らが望む1,000ドルより低い値段で国債を入札することができる。

値段が確定した国債の値段(確定利付き債)とその利回りの間には、逆の関係にあるということを理解することは重要である。なぜそうなるのか。確定利付き債のための一般的な規則は、第二次市場においてその国債の値段が上がった場合、その国債の利回りが下がり、逆に第二次市場においてその国債の値段が下がった場合、その国債の利回りは上がるというものだ。なぜこのような現象が発生するかというと、例えば、もしあなたがより高い値段で国債を購入した場合、国債の利札の支払いは国債の値段に対して小さくなるからだ。逆に、もしあなたがより安い値段で国債を購入した場合、国債の利札の支払いは国債の値段に対して大きくなるからでもある。さらに、国債の値段は市場において金利の変化に沿って変化し得る。その変化は、たとえ国債の保有者がいまだにただ満期に国債の額面価格を受け取るつもりだったとしても発生する。

金利が経済のどこか他の場所で上昇したとき、以前に発行された国債の金利は下落する。なぜなら、それらの発行済みは国債は新しく発行された(現在の国債の利率を反映して)利札が高く設定された国債よりも魅力を失うからだ。金利が下落したとき、古い国債の値段は上昇し、それは利札が(古い国債よりも)低く設定された新しい国債よりも魅力的になる。

第二次市場において国債市場トレーダーから入札を受けるオークションのような段取りを、政府機関は運営していた。国債は、ドル建てで、価格(そして要求される利回りも)について順序づけされ、要求される発行数が決定された。国債はそのとき、最も高い値段で入札された額で、政府が発行したいと望む発行数に限り、発行される。そして、最も高い値段で入札した(言い換えれば、「最も安い利回りを受け入れた」)最初の入札者が自らの望む数の国債を手に入れることができる(それは彼が入札する能力がある限り、一人で入札し続けることができる。まあ、ありえないことだろうが)。そして、二番目の入札者(最初の人よりも少し安い値段で買い、少し高い利回りを希望した人)が続いて国債を手に入れる。この方法では、入札しようとする人が少なければ、最終的に決定される利回りは安くなる。逆も然りである。

州およびその他の地方政府も国と同様に第一次市場において債権を発行したり売却したりする。また、多国籍企業、国内の企業、金融機関、その他の公共団体も同様である。企業は投資の資金を以下の方法で手に入れることができる。(1)新規の債権を発行する(2)利益剰余金(内部留保)を使用する(3)新規の株式を発行する。

財務省およびその他の組織は、それぞれ異なる満期を持った債権を発行することができる。例えば、アメリカ財務省は1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年、2年、3年、5年、7年、10年、20年、30年の満期を持った国債を発行している(例えば、10年もの国債は10年が経ったら元本が返済されるという意味だ)。

債権投資における「利回り」の概念

「利回り」とは投資から得られる見返りを表している。そして、通常、比率(%,パーセント)によって表現される。市場において、利回りの概念はいくつか存在する。

・債権利回り・名目利回り

もし年に8%の金利(債権利率)が支払われる額面価格1,000ドルがあったとしたら、その債権の名目利回りは8%である。それゆえ購入者は満期まで毎年80ドルを手に入れることができる。債権利回りは、その債権が存在する限り、同じ比率で存在し続ける。

・直接利回り

例えば、あなたが第二次市場において年利8%の1,000ドルの債権を800ドルで購入するとしよう。そのときあなたが支払った金額にかかわらず、その債権はあなたが毎年80ドル受け取る権利を与える。しかし、その前の例とは違い、満期までの80ドルの支払いは、あなたが支払った金額に基づいた8%分の金額よりも、大きな額である。あなたが支払った金額は800ドルであるから、それに基づく8%は64ドルになってしまう。実際の支払った金額に対する利回りは、80 / 800 = 0.1 = 10% である。なので、直接利回りを計算するために、単純に利払いの金額をあなたが支払った金額で割るのである。一般的に、額面価格よりも安い値段で債権を買った場合、直接利回りは債権利回りよりも大きくなる。一方、高い値段で買った場合、直接利回りは債権利回りより小さくなる。

・満期利回り(Yield to Maturity,YTM)

直接利回りは、債権の購入価格と満期の元本の支払いとの間の違いを考慮していない。満期利回りは追加的な金利の獲得を考慮している。債権購入者は実際に実現した資本利得(実現資本利得,実現キャピタルゲイン)を獲得したり、もしくは満期まで債権を保有することをやめてその資本利得を放棄することもできる。満期利回りは、債権が消滅するまでの債権購入者の本当の利得を測定している。そして、これが満期と利札が異なる複数の債権を比較するときに、最も正確な方法である。

BOX 10.1 利回りに関する例題

1,000ドルの額面価格を持つ債権を800ドルで第二次市場から購入すると仮定してみよう。この200ドルの割り引かれた金額は、利得として計算することもできるし、利回りとして計算することもできる。そして、利回りの計算に含まなければならない。利札8%の1,000ドルの債権を、満期が5年残っているときに800ドルで購入したと仮定してみよう。

そのとき、債権を評価する概念が3つある。

・8%の債権利回り(80ドルの所得フローを1,000ドルの額面価格で割った計算したもの)

・10%の直接利回り(80ドルの所得フローを800ドルという割引価格で割ったもの)

・13.3%の満期利回り(この方法に関して、以下で詳しく説明する)

満期利回りの計算処理は複雑であるが、大まかな規則に従えば簡単に計算できる。

YTM(満期利回り) = (C + PD) / [0.5 x (FV + p)]

「C」は利札であり、PDは比例分配割引、FVは額面価格、Pは購入価格。PDは額面価格と購入価格との差を、満期までの年数で割ったものである。もし債権を額面価格よりも高いねん弾で買った場合、PDは負の値になる。それは満期利回りが債権利回りよりも小さくなっていることを表す。

この式に足して例えとして数字を割り当ててみよう。

YTM = [80 + (200/5)]/[0.5 x ($1,000 + $800)] = $120/$900 = 13.3%

債権トレーダーが利回りについて語るとき、彼らはたいてい、元本価格と債権利回りと実際の利回りのみを考慮した、満期利回りについて言及している。

経済の状況・段階について評価するための、そして将来において院レフになるのかどうかということを非政府部門が判断するための、満期の異なる複数の国債についてのデータを使用できるようにする方法が2つ存在する。論議されている、資産に対する民間の需要が低下したことによる価格の下落し、同様に利回りが上昇する兆候は、我々はすでに知っている。これは、よりリスクのある資産を獲得しようとしたり、よりリスクの少ない安全な資産を獲得しようと準備している投資家との経済の強化を反映している。これは、中央銀行がインターバンク金利と債権の利回りを上げたり下げたりするとき、普通である(これについてはチャプター20で詳述する)。さらに、非政府部門におけるインフレ予想に対して何が起きているのかということを判断するために、我々は利回りの変動を利用することができる。民間市場がインフレになることを予想した場合、長期満期債権の利回りは将来上昇する。すなわち、民間市場は債権の名目利回りが上昇することによって実際の利回りを防御することを望んでいる。

利回りを見る2つ目の方法は、「利回り曲線(イールド・カーブ)」を考慮するというものである。利回り曲線はグラフを安全な金利の期間構造である。また、縦軸で表されるそれぞれの国債の利回り(利益率)に対する、横軸で表される異なる債権の満期を示している。図10.1は、2016年2月3日のアメリカの利回り曲線を表している。

利回り曲線とその動きについての理論は様々なものが存在している。全てに共通しているいくつかの一般的な概念は、特に、人々がインフレを高く予想するほど、利回り曲線は険しくなる、つまり国債ごとの利回りの変化が激しくなる(またその他の要素の変化も激しくなる)。

経済の見通しに対する利回り曲線の形状に関係している基本の元本は、以下のように説明される。短期債の利回り曲線は中央銀行が設定した金利を反映している。中央銀行は、経済における(流動性の高い資産である)現金に対する競争率を設定する。短期金利が上昇(下降)すると、他のより流動性の低い資産も従うように上昇(下降)する。険しい曲線を描く利回り曲線は、そのとき、市場によって決定される長期債権の利回りに従って決まる。短期債の利回りは、利回り曲線の第一の決定因子である。言い換えれば、中央銀行が基準貸出金利を低くしている時は、利回り曲線は主に険しくなる。一方、中央銀行が基準貸出金利を上げている時は、利回り曲線は水平になる。

債権トレーダーは、将来の経済の予測が中央銀行の金利政策に影響を与えると予想している。債権トレーダーは、その将来の経済の予測に対する利回り曲線の動きに、関係している。もし金利を上げたならば、債権の価格が下落する傾向にあるということは、必ず記憶しなければならない。それは、資産売却損(キャピタル・ロス)と呼ばれている。最長の満期を持つ債権の価格は最も影響を受けやすいので、長期債権は一般的に最も資産売却損のリスクが高い主体である。この理由から、インフレ予想(中央銀行の政策に関する予想)と債権の価格と長期債権の利回りの、3つ要素の間には関係があると考えられる。

要約すると、利回り曲線が取りうる形状には、3つの種類がある。

・通常

通常の状況下では、短期債権の利回りは長期債権の利回りよりも低い。中央銀行ができるだけ低い水準に短期債権利回りを維持しようとする。さらに、債権投資家は資産売却損から債権を守るため長期債権における利得を欲しがる。それゆえ、右肩あがりの傾斜をする。先の図10.1がその例である。

・反転

時々、短期債権利回りが長期債権利回りを上回り、利回り曲線は右肩下がりに傾斜する。経済が加熱し始めた時、中央銀行が目標金利を上げたことが誘発するインフレ上昇の予想が、長期債権資産に対する需要を伴った、債権利回りを上昇を導く。中央銀行は、急激な短期金利の上昇によって発生したインフレ圧力の発生に、対応するだろう。債権利回りが上昇するかもしれないにもかかわらず、かなりの金融政策の締め付けが短期金利の急激な上昇を発生させる。それが結果的に、右肩下がりの利回り曲線を作り出す。その時、高い金利は経済成長を鈍化させる。

・水平

水平の利回り曲線は、通常の利回り曲線から反対の利回り曲線に移り変わる時の移行期、あるいは反対の曲線から通常の曲線への移行期に頻繁に見られる。利回り曲線が水平になれば、利回り格差(異なる債権の利回りの差のこと,イールド・スプレッド)は縮まることになる。利回り格差とは、例えば1年満期国債と10年満期国債のそれぞれの利回りの差のことを言う。この現象は、将来の経済が、どのような動きをすることを示しているのか。水平の利回り曲線は金融引き締め政策(短期金利の上昇)を反映するだろう。あるいは、それは景気後退の後の金融緩和(短期金利の緩和に伴う下降)を表しているのだろう。すなわち、通常とは反対の利回り曲線が水平になろうとしていることを表しているだろうということだ。

それゆえ、利回り曲線の動きは、経済学者が「経済の総合的な状況」「中央銀行による金利調節の可能性」「非政府部門のインフレ予想」を把握するために、彼らから注目を浴びている。


BOX 10.2 主流の「名目金利決定」対する分析手法:フィッシャー効果

確定償還価値を持つ確定利付き債を保有することのリスクのひとつは「購買力リスク」である。

貸出資金は金利に近づくと認識している主流派経済学者は、ほとんどの人は将来の消費よりも現在の消費を好んでいるだろうと、信じている。現在の消費を抑制させることを奨励するために、貯蓄の利回りは必ず市場によって提供されるだろうとしている。その間に、その利回りは人に、金利を上昇させることを認めている。その時、インフレは実質消費におけるあらゆる利得を消滅させる。そして、実質金利をゼロにする。

一回の利札の支払いが100ドルと予想される1,000ドルの1年満期を購入する人のことを想像してみて欲しい。個々人は、自らが1,100ドルを満期日に獲得すると予想するだろう。

保有期間を過ぎ、債券価格が10%上昇したと仮定して欲しい。年の最後には、以前の財のバスケットの費用1,000ドルは、現在は1,100ドルになっている。言い換えれば、投資の結果をより良くするためには、年の最後にその債権を手放す以外に方法はない。名目利回りはインフレの額によって相殺される。主流派経済学者は「実質の」収益に動機付けられて投資すると信じている(名目の収益ではない)。これは彼らが、消費者が財・サービスの実物の形態を購入する場合を想定しているからだ。彼らは、消費者が実物の財・サービスを購入する際の、「現在消費するか、将来消費するか」という選択をするように、投資の決断も同様に決断されるとしている。このように貯蓄をするものがインフレの計算をしないならば、将来における彼らの実質的な消費は、彼らが望む消費よりも少なくなる。

主流派経済学者は、名目金利は実質金利にインフレ予想を足したものであると提唱している。実質金利は、貯蓄の資金供給を資金のための投資需要を同額にするような、市場で決定される実質的な収益であるとされている。それゆえ、実質金利は均衡金利(均衡実質金利,均衡金利,均衡利子率とも呼ばれる)である。しかしながら、名目において書かれた契約のため、それゆえ、名目金利において、名目金利は予想されるインフレ率を埋め合わせる分を必ず含んでいるだろう。インフレ予想の上昇による実質金利へのこのような埋め合わせは、アメリカの経済学者のアービンク・フィッシャーにあやかって「フィッシャー効果」と呼ばれている。彼は、上記の関係を1930年代に確認した。多くの市場参加者はこの理論が債権市場に当てはまると信じている。そして、名目利回りが購買力を維持するために市場によって調整されるという、強い信条が存在している。

購買力リスクは満期が長くなるに従って増加する。このことは、より長い満期を持つ債権の金利は一般的により高いと、経済学者が信じている理由の1つである。市場利回りは、要求される利得の実際の比率に、予想インフレ率の埋め合わせを足し合わせたものである。もしインフレ率が高く予想された場合、市場金利はそれを埋め合わせるように上昇するだろう。このゴードン・…ハンナ・ア…ヴィルフレ…ヴィルフレ…ジョセフ・…ブランナ場合、我々は、フィッシャー効果が、短期債権におけるよりも長期債権における方が、より大きく影響を与えるだろうから、利回り曲線が険しくなると説明するだろう。


[改訳]

10.3 金融資産

もし家計が何ヶ月、何年にも渡る貯蓄(その行為は各期間のフローの計算に入る)をするならば、家計の資産ストックは蓄積される。家計は、現存する自分の銀行預金にさらに貯蓄するのか、それとも資産構成を考えなおし、異なるリスクの度合いを持つ資産(株や債券などの計算貨幣で計算される金融資産)に預金を変換するのかという決断に迫られる。

近代的な経済における財務省は、様々な償還期間を持つ債券を発行している。それは国債と呼ばれてもいる。それらの金融資産は、中央銀行、民間銀行、その他の民間組織と売買されている。金融市場への民間の参加者(例えば、企業など)も同様に債券を発行している。

一般的に、債券は、その保有者に対してその発行者が債務を負っているということを認めている。債券の発行者はその保有者に対して、定期的に金利を支払わなければならない。そして、債券が満期に達した場合、元本(債券の額面価格)を支払わなければならない。債券はその保有者にとっての資産である。

それゆえ債券は、一定期間中に金利とともに借金(負債)を返済することを約束した形式的な契約である。債券の保有者は貸し手(債権者)である。借り手(債務者)は、債券や、額面価格に基づいた金利(債券の表面に書いてある)が付いた利付債を発行する。この場合、定期的に発生する金利は、その発生した日に随時支払われる。

発行価格とは、その債券が発行された際に貸し手が払った金額である。その後、債券は、プレミアを付与(債券が債務不履行の可能性が低く、良質であった場合、額面価格以上で取引されること)されたり、逆に割引(額面以下で取引されること)されたりしながら、交換されるだろう。自国通貨を発行する政府によって発行された債券の債務不履行の可能性はゼロである。なぜなら政府は未払いの負債に対して、いつでも対応可能だからである。この理由によって、これらの政府が発行する債券は、不確実性が高い時であっても、購入者に強く需要される。

コンソル公債は「永久債」と呼ばれる特殊な種類の債券であり、満期が定められていない。その保有者に対して、金利が永久に支払われる。

国債市場について語る際は、第一次(債券)市場と第二次(債券)市場とを区別する必要がある。第一次市場とは、政府が非政府部門に対して負債を売るための制度機構である。「第一次市場における債券の発行は政府の支出を円滑にするために設計されている」と誤解する人が多い。実際には、(第1章で説明した通り、)自国通貨を発行する政府が財政的制約に直面することはない。それゆえ我々は、なぜ政府は非政府部門に対して負債を発行するのかということに関して、代わりの説明をしなければならない。これに関しては、本書の(開放経済における経済政策を扱う)パートEで詳述する。

第二次市場は、(すでに第一次市場を通して発行された)既存の国債を利害関係者が売買する場所である。これと同じ状況は、民間の(普通株・株式と呼ばれる)発行株式にも適用される。企業は、第一次市場において株式を発行したり、発行された株式を第二次市場において交換することによって、資金を調達する。

債券の所有者は第二次市場において他の人に譲渡(売却)することができるため、国債は譲渡可能なものである。しかし、国債が一度発行された後の取引は、資産保有者間でこの資産を移動させるだけの行為であるため、金融システム全体における金融資産の総額に全く影響を与えない。これを理解することは重要だ。

第一次市場における国債発行の過程は国ごと、そして時代ごとに異なる。かつての典型的な手法は、第一次市場において特定の(銀行などの)指定取扱業者へ国債を定期的に売るというものだった。そこでは、政府は発行したい(計算貨幣で表現された)負債の額と、購入者への利回り(金利)を設定できた。その条件は「申し入れを受け入れるか、それとも拒否するか」という交渉のもとで設定されたため、国債は非政府部門にとっては魅力的ではなかった。それゆえ、政府が発行した国債のうち、購入者が不足したせいで余ってしまった分は、その国の中央銀行が購入した。この場合、政府は自分自身に対して負債を発行したことになる。このことは、負債発行の論理全体を覆う疑問を導き出す。

1970年代後半、経済学の支配的な学派は「マネタリズム」であった。彼らは、中央銀行による負債の購入はインフレをもたらす」という間違った主張をしていた。政府はこの論理の犠牲者となり、余った負債を中央銀行に購入させない政策決定を取り始めた。それゆえ政府は利回りを設定し、可能な限り多くの国債を売ることができたが、継続的に、市場の要件を満たすために利回りを調整し、純支出(財政赤字)と国債発行による収入を一致させた。

この制度は、「市場のより自由な活動のために」という声に答えるように、政府が利回りを操作しているというあらゆる非難を避ける、より純粋なオークション制度に取って代わられた。これらのオークション制度(あるいは入札制度)は国際的に支配的になった。一般的に、どれくらいの額の国債を発行し、どれくらいの期間を満期とし、どれくらいの利札(額面価格に対して定期的に支払われる金利)を設定するのかなどといったオークションの条件を、財務省が公表する。国債はオークションにかけられ、第一次市場における国債の取扱業者がその最終的な価格を決定する。それゆえ、それゆえ、政府が払う利回りは、選挙で選ばれた政府の決定から解放されている。

例えば、額面価格が1,000ドルで5%の利札が付く国債があるとしよう。つまりそれを持っていれば、毎年50ドルの利子が満期までもらえ、満期になったら1,000ドルが帰ってくる。また、それを発行した際、国債の取扱業者は、自らの利益の期待を満たすために6%の利回りを望んでいるとしよう。この場合、最初の国債の条件は彼らにとって魅力がない。オークション制度が採用される以前では、そのような状況において民間の国債取扱業者がその国債を購入することはなかっただろう。しかしオークション制度の下では、彼らは自身が望む6%の利回りとなるように、1,000ドルより低い値段で国債を入札することができる。

確定利付債の交換価格とその利回りは逆相関の関係にあるということを理解することは重要だ。では、なぜそうなるのか。確定利付債の一般的な規則は、第二次市場で債券価格が上がれば利回りが下がり、逆に、債券価格が下がれば利回りは上がるというものだ。なぜこのような現象が発生するかというと、例えば、もしあなたがより高い値段で債券を購入した場合、利札の支払いは債券価格に対して小さくなるからだ。逆に、もしあなたがより安い値段で債券を購入した場合、利札の支払いは債券価格に対して大きくなる。さらに債券価格は市場において、金利の変動に沿って変化し得る。その変化は、たとえ国債の保有者がただ単に満期で国債の額面価格を受け取るつもりだったとしても発生する。

金利がどこかで上昇すれば、既に発行された債券の金利は下降する。なぜなら、それらの発行済み債券は、(現在の金利を反映して)利札が高く設定された新規債券よりも魅力が無いからだ。金利が下降すれば、発行済み債券の価格は上昇し、発行済み債券よりも利札が低く設定された新規債券よりも、発行済み債券が魅力的になる。

このようなオークションを運用する政府機関は、第二次市場において国債市場トレーダーから入札を受ける。国債は、計算貨幣による価格(そして要求される利回りも)に基づきランク付けされ、要求される発行数が決定された。その時国債は、政府が発行したいと望む発行数に限り、最も高い値段で入札された額で発行される。そして、最も高い値段で入札した(言い換えれば、最も安い利回りを受け入れた)入札者が、(ほとんどありえないことだが、入札にかけられた国債がなくなるまで、)希望する数の国債を手に入れることができる。そして、二番目の入札者(最初の人よりも高い利回りを希望した人)が続いて国債を手に入れる。この方法では、入札しようとする人が少なければ、最終的に決定される利回りは安くなる。逆も然りである。

州及びその他の地方政府も国と同様に第一次市場において債券を発行・売却する。また、多国籍企業、国内の企業、金融機関、その他の公共団体も同様である。企業は投資の資金を以下の方法で手に入れることができる。(1)新規債券の発行(2)利益剰余金(内部留保)の使用(3)新規株式の発行。

財務省及びその他の組織は、それぞれ異なる満期を持った債券を発行することができる。例えば、アメリカ財務省は1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年、2年、3年、5年、7年、10年、20年、30年の満期を持った国債を発行している(例えば、10年物国債は10年が経ったら元本が返済される)。

債券投資における「利回り」の概念

利回りは、投資から得られる見返りを表している。通常、比率(%,パーセント)によって表現される。市場における利回りの概念は、いくつか存在する。

・債券利回り・名目利回り - もし年に8%の金利(債券利率)が支払われる額面価格1,000ドルがあったとしたら、その債券の名目利回りは8%である。それゆえ購入者は満期まで毎年80ドルを手に入れることができる。債券利回りは、その債券が存在する限り、同じ比率で存在し続ける。

・直接利回り - 例えば、あなたが第二次市場において年利8%の1,000ドルの債券を800ドルで購入するとしよう。その債券はあなたに、そのときあなたが支払った金額にかかわらず、毎年80ドル受け取る権利を与える。しかし、先ほどとは違い、満期までの80ドルの支払いは、あなたが支払った金額の8%分の金額よりも、大きな額である。あなたが支払った金額は800ドルであるから、それに基づく8%は64ドルになってしまう。実際の支払った金額に対する利回りは、80 / 800 = 0.1 = 10% である。なので、直接利回りを計算するためには、単純に利払いの金額をあなたが支払った金額で割れば良い。一般的に、額面価格よりも安い値段で債券を買った場合、直接利回りは債券利回りよりも大きくなる。一方、額面価格より高い値段で買った場合、直接利回りは債券利回りより小さくなる。

・満期利回り(Yield to Maturity, YTM) - 直接利回りは、債券の購入価格と満期の元本の支払いとの差を考慮していない。満期利回りは、投資家が利息の獲得に加えて、満期まで債券を保有することで、実現したキャピタルゲイン(資本利得)を獲得したり、キャピタルロス(資本損失)を被ることを考慮している。満期利回りは、債券が消滅するまでの債券購入者の本当の利得を測定しており、満期と利札が異なる複数の債券を比較する際の、最も正確な方法である。

BOX 10.1 利回りに関する例題

1,000ドルの額面価格を持つ債券を800ドルで第二次市場から購入すると仮定してみよう。この200ドルという割り引かれた金額は、利得として計算することもできるし、利回りとして計算することもできるが、利回りの計算に含まなければならない。利札8%の1,000ドルの債券を、満期が5年残っているときに800ドルで購入したと仮定してみよう。

そのとき、債券を評価する概念が3つある。

• 8%の債券利回り(80ドルの所得フローを1,000ドルの額面価格で割った数値)

• 10%の直接利回り(80ドルの所得フローを800ドルという割引価格で割った数値)

• 13.3%の満期利回り(この方法に関しては以下で詳しく説明する)

満期利回りの計算処理は複雑であるが、大まかな規則に従えば簡単に計算できる。

YTM(満期利回り) = (C + PD) / [0.5 x (FV + p)]

C は利札、PD は比例分配割引、FV は額面価格、P は購入価格、PD は額面価格と購入価格との差を満期までの年数で割ったものである。もし債券を額面価格よりも高い値段で買った場合、PD は負の値になる。それは満期利回りが債券利回りよりも小さくなっていることを表す。

この式に例題の数字を割り当ててみよう。

YTM = [80 + (200/5)]/[0.5 x ($1,000 + $800)] = $120/$900 = 13.3%

債券トレーダーが利回りについて語るとき、彼らはたいてい、元本価格と債券利回りと実際の利回りのみを考慮した満期利回りについて言及している。

経済状況について評価し、将来においてインフレになるのかどうかということを非政府部門が判断するために、満期の異なる複数の国債に関するデータの利用方法が2つある。既に述べたように、利回りの上昇は、資産に対する民間需要の低下による価格の下落を表している。これは、リスクのある資産を獲得するよりリスクの少ない安全な資産を獲得しようとする傾向が、投資家たちの間で強くなったことを反映している。これは、中央銀行が銀行間取引金利と債券利回りを上下に調整する際、通常の出来事である(これについては第20章で詳述する)。さらに我々は、非政府部門におけるインフレ期待に対して何が起きているのかということを判断するために、利回りの変動を利用することができる。長期満期債券の利回りの上昇は、民間市場が将来のインフレを期待していること、つまり、債券の名目利回りを上昇させることで実際の利回りを防御することを望んでいることを表す。

利回りについての2つ目の見方は、利回り曲線(イールド・カーブ)を考慮するというものだ。利回り曲線とは、安全な金利の期間構造を表すグラフである。横軸は国債の満期を、縦軸は国債の利回り(利益率)を配置し、データをプロットしている。図10.1は、2016年2月3日における米国財務省証券の利回り曲線を表している。

図10.1 米国財務省債券の利回り曲線(2016年2月3日時点)

利回り曲線とその動きについては、様々な理論が存在している。全てに共通しているいくつかの一般的な概念は、特に人々がインフレを高く期待するほど、他の要因が同じならば、利回り曲線は険しくなり、国債ごとの利回りの差が大きくなる。

経済の見通しに対する利回り曲線の形状に関係している基本原理は、以下のように説明される。短期債の利回り曲線は、中央銀行が設定した金利を反映している。中央銀行は(流動性の高い資産である)現金にとって競争的な金利を設定する。短期金利が上昇(下降)すると、その他のより流動性の低い資産の金利も、それに従い上昇(下降)する。その時、険しい利回り曲線は、市場によって決定される長期債券の利回りによって決まる。だが、短期債の利回りは、利回り曲線の第一の決定因子である。つまり、中央銀行が基準貸出金利を低くしている時は、利回り曲線は概して険しくなる。一方、中央銀行が基準貸出金利を上げている時は、利回り曲線は概して水平になる。

将来の経済に関する自分たちの期待を、利回り曲線の変動に結びつける債券トレーダーたちは、中央銀行の金利政策に影響を与えると予想している。もし金利が上がれば債券価格が下落する傾向にある。このことは重要だ。それは、資本損失(キャピタル・ロス)と呼ばれている。最長の満期を持つ債券価格は最も影響を受けやすいので、長期債券は一般的に最も資本損失のリスクが高い。したがって、インフレ期待(中央銀行の政策に関する期待)と債券価格と長期債券の利回り、これら3つ要素の間には関係があると考えられる。1

要約すると、利回り曲線が取りうる形状には、3つの種類がある。



・通常 - 通常の状況下では、短期債券の利回りは長期債券の利回りよりも低い。中央銀行は、できるだけ低い水準に短期債券利回りを維持しようとする。さらに、債券投資家は資本損失から債券を守るため、長期債券の利得を欲しがる。それゆえ、利回り曲線は右上がりになる。先の図10.1がその例である。



・反対 - 時々、短期債券利回りが長期債券利回りを上回り、利回り曲線は右下がりになる。経済が加熱し始めれば、中央銀行の目標金利引き上げがインフレ上昇の期待を誘発し、長期債券資産に対する需要増加を伴った、債券利回りを上昇を招く。中央銀行は、急激な短期金利の上昇によって発生したインフレ圧力の発生に、対応するだろう。債券利回りが上昇するかもしれないが、相当な金融政策の締め付けにより、さらに早く短期金利が上昇し、結果的に利回り曲線が右下がりになる。その時、高金利は経済成長を鈍化させるかもしれない。



・水平 - 水平の利回り曲線は、通常の利回り曲線から反対の利回り曲線に移り変わる時の移行期、あるいは反対の曲線から通常の曲線への移行期に最もよく見られる。利回り曲線が水平になれば、利回り格差(イールド・スプレッド)は縮まることになる。利回り格差とは、例えば1年満期国債と10年満期国債のそれぞれの利回りの差のことを言う。さてこの現象は、将来の経済がどのような動きをすることを示しているのだろうか。水平の利回り曲線は、金融引き締め政策(短期金利の上昇)を反映するだろう。あるいは、それは景気後退後の金融緩和(短期金利の下降)、すなわち、反対の利回り曲線が水平になるところを表すだろう。



それゆえ利回り曲線の動きは、経済学者が経済の総合的な状況、中央銀行による金利調節の可能性、そして非政府部門のインフレ期待を把握するために使用される。

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BOX 10.2 主流の「名目金利決定」対する分析手法:フィッシャー効果

確定償還価値を持つ確定利付き債を保有することのリスクの一つは、購買力リスクである。

貸出資金説を金利の分析に使用している主流派経済学者は、ほとんどの人は将来の消費よりも現在の消費を好むだろうと信じている。彼らの考えによれば、現在の消費を抑制させることを奨励するために、貯蓄の利回りは必ず市場によって提供されるだろう。利回りは、今犠牲になっている消費よりも多くを将来において消費できるようにすることを目的としている。だが、その間に財・サービスの価格が上昇した場合、インフレが実質金利はゼロにし、実質消費の増加を完全に消滅させる可能性がある。

一回の利札の支払いが100ドルと期待される1,000ドルの1年満期を購入する個人を、想像してみて欲しい。その人は、自分が1,100ドルを満期日に獲得すると期待するだろう。

保有期間を過ぎ、債券価格が10%上昇したと仮定して欲しい。その年の最後には、以前の財のバスケットの費用1,000ドルは、現在は1,100ドルになっている。言い換えれば、投資の結果をより良くするためには、その年の最後にその債券を手放す以外に方法はない。名目利回りはインフレの額によって相殺される。主流派経済学者は、投資家が(名目ではない)「実質の」収益に動機付けられると信じている。これは彼らが、投資の決定を、現実の財・サービスを現在消費するのか将来消費するのかを選択する消費者からの投資であると見ていることに起因する。もし貯蓄者がインフレの計算をしないならば、将来における彼らの実質的な消費は希望よりも少なくなる。

主流派経済学者は名目金利を、実質金利にインフレ期待を足したものであると提唱している。実質金利は、貯蓄による資金供給と、投資のための資金需要とを同額にするような、市場で決定される実質的な利回りであるとされている。それゆえ、実質金利は均衡金利である。しかしながら、名目値で書かれた契約ならば、名目金利は期待されるインフレ率を埋め合わせる分を含まなければならない。このような、インフレ期待の上昇による実質金利への埋め合わせは、アメリカの経済学者のアービンク・フィッシャーにちなんで「フィッシャー効果」と呼ばれている。彼は、上記の関係を1930年代に確認した。多くの市場参加者はこの理論が債券市場に当てはまると信じている。そして、名目利回りが購買力を維持するために市場によって調整されるという、強い信条が存在している。

購買力リスクは満期が長くなるにつれて増加する。このことは、より長い満期を持つ債券の金利は一般的により高いと、経済学者が信じている理由の一つである。市場利回りは、要求される実際の収益率に、期待インフレ率を埋め合わせる分を足し合わせたものである。もしインフレ率が高く期待された場合、市場金利はそれを埋め合わせるように上昇する。この状況において、フィッシャー効果がより長い満期の債券に大きな影響を与えることを考えると、利回り曲線は急勾配になると予想される。


10.4 銀行は何をしているのか

新古典派経済学の視点:貨幣乗数

ほとんどの教科書において、銀行は、預金を受け入れ、部分的な準備を保有し、準備の残りを貸し出す、金融仲介機関として存在していると説明される。この因果関係は、「貸し出しに当てる準備としての預金」という概念からきている。もしそれぞれの銀行が貸し出しを行う際にこの原理に従うならば、貸し出しの総計は「預金・貨幣乗数」に従って拡大することになる。とりあえず今は、すべての銀行が預金に対して10%の準備を持つことを要求されているとしよう。これは銀行にすぐさま、預金者(の財・サービスの購入)による支出の結果としての準備の減少に対応させることを可能にする。商品の売り手が、それで手に入れた資金をどこの銀行に預けても、同様のことが起こる。また、預金者が現金を持つことを望んだ場合も、同様のことが起こる。

以下のものは、新古典派経済学派が貨幣乗数の運動を説明するときに使用する例である。

1)ある顧客がA銀行に100ドルを預金したと仮定する。

2)A銀行は10%の準備を用意しなければならないので、10ドルを準備として残す。そして、貸し出しの資産を増やし収益を増やすため、残り90ドルをある顧客に貸し出す。その時、その顧客の預金額は90ドル増える。

3)その顧客は預金を支出し、受取人である商品の売り手はその90ドルをB銀行に預ける。

4)B銀行は90ドルのうちの90% 、81ドル(90ドルのうちの10%、9ドルはA銀行と同様に準備に回す)を顧客に貸し出す。

それぞれのステージを経るごとに貸し出しと支出の金額は減少していく。これは、もしこれが銀行制度として運営された場合、900ドルの貸し出し資産が生まれるということを、容易に表現することができる。これは、最初の新しい預金が合計1,000ドルの預金に上昇し、その預金は準備100ドルによって「償還」されるということを意味する。それによって、10%の要求準備に従っている。

この例は主流の経済学の教科書が「部分準備銀行制度」と説明するものである。これは、現在の預金の上昇がM1の上昇を引き起しているという、貨幣の創造(信用創造)を説明しているのであると、それらの経済学の教科書は述べる。100ドルを最初に預金した時、乗数は10である。この乗数は要求準備律である10%の逆数である。与信を創造した時、もし非政府部門がより多くの現金を保有することを選択した場合、より小さい貨幣乗数が結果として生ずる。

この例において注意すべきは、個々の銀行が自発的に「貨幣創造(信用創造)」ができないということだ。この制度の全体として100ドルの預金が1,000ドルに増える。それぞれの段階において、それぞれの銀行は自らの保有する準備のうち単純に90%を貸し出し、10%を準備にとっておく。主流派の教科書に従うならば、部分準備銀行制度によって「魔法」が生まれるとしている。預金の余分な部分が出て保持される準備が増えれば増えるほど、乗数の影響は小さくなる。この論理に従えば、もし準備率が0ならば(預金に対して準備を持たなくて良いならば)、銀行は最初に1ドルさえ預けてもらえれば、無限に貨幣創造ができることになる。

この良くある教科書の例では典型的に10%の準備率が仮定されているため、学生は貨幣乗数が瞬時に「10」であることを計算できる。1992年4月12日、アメリカ連邦準備銀行は歴史上初めて「魔法」のような10%の要求準備率を設定した。教科書の理論が現実になったわけだ。しかし、理論と現実が一緒になったからといって、その理論が正しいことが証明されたわけではなかった。我々がこれ以降に見るように、近代銀行制度を説明している「と言われている」貨幣乗数なるものは、神話でった。現実における銀行の業務に全く関係がなかった。

支配的な新古典派経済学の視点を要約するならば、銀行は収益を最大化する金融仲介機関として考えられる。彼らは預金を受け取ることによって準備を用意し、そして彼らはより高い金利を設定して収益を得ることができる。しかし、分別のある規制の要求が彼らに最小限の預金に対する準備を維持させる。部分準備要求は、信用創造には限界があるということを表している。

それゆえ新古典派経済学の物語の中では、貨幣創造は「外生的」であると考えられている。そして、その外からの影響は「中央銀行によって」決定されているとしている。これは彼らの重要な主張だ。なぜならこの主張は、「中央銀行がマネーサプライを早急に増大させることを決定し、インフレを起こすことができる」という彼らの議論を支える根拠だからだ。以上の議論を踏まえると、貨幣数量説に則った、中央銀行がゆっくりと貨幣を増加させることによってインフレを操作しようという、政策が提案される。我々が今後チャプター20で見て、チャプター23で分析するように、貨幣数量説はインフレが発生する過程について概念的に欠点がある。我々はそこで、中央銀行は通常の貨幣制度のもとではマネーサプライを操作する能力がないことを説明する。

貨幣乗数が含んでいる意味とは、もし銀行が追加的な貨幣創造をするために十分な準備を保有していなければ、銀行は貸し出しを控えるだろう、ということだ。いくつかの選択については自由裁量的に行われている。貨幣乗数は、金利の機能と金利の差について、銀行はより多くの余分の準備を好むことについて、公共機関もどうように銀行が現金(準備)を保有することを好んでいるということについて、説明している。また上記に説明したように定期預金・当座預金の比率についても説明している。しかし、ブランナーが1968年に説明したように、これらの要素は些細な重要性しかない。

与信創造のMMT的な描写

部分準備要求によって運営されているとする与信創造の過程に関する新古典派経済学の説明は、不換貨幣と変動相場制を伴う近代的な貨幣経済における銀行の行動を現実にもとづいて描写したものではない。

現実の世界において、銀行の業務は複雑であるが、いくつかの点でその他の営利企業と似ている。その他の企業と同じように、銀行は利益を求め、それによって株主への配当を生み出している。銀行は、彼らが貸し出しをした顧客からの受け取りよりも、彼らが資金の調達のために支払わなければいけない金利が上回らない限り、銀行は貸し出しによって利益を生み出すことができる。

まず、与信創造のために必要な状況は、世の中にノンバンク(銀行ではない組織)あるいは家計が存在し、彼らが財・サービスまたは資産の購入のために借り入れを必要としているという状況だ。そして、彼ら市場参加者が銀行に対して返済能力がなければならない。すなわち借入金の全額を返済する能力がなければならない。返済能力を構成するものは業務を運営していくうちに変化する。また、貸し出し基準は銀行が市場のシェアを獲得しようとしているときは緩和される傾向にある。さらに、上記で説明した通り、銀行は貸し出しによって利益が発生することを期待する。

銀行は自らの準備額(それは彼らの抱える負債、銀行預金に対応するために彼らが保有しているものである)に影響されず独立して貸し出しを行う。貸し出しを行なった後、銀行は自らのが法律を遵守するべく、あるいは自らの目的を達成するべく、追加で準備を借り入れする。銀行の経営者は一般的に、銀行制度における準備の総計について、知らないし気にかけてもいない。確かに、銀行員は貸し出しをする前に自らの銀行の資金調達のことを考えていない。銀行の貸し出しは「準備の値段」と「予想される利得」を考慮して決定される。資金を調達することは一切考慮されない。もし「資産における金利の利得」と「準備を借り入れる費用」の差が十分に拡大するならば、すでに準備が不足している銀行でさえ、資産を購入、貸し出し、必要な準備の銀行間取引市場からの購入(借り入れ)をするだろう。銀行間取引市場は、準備の貸し出しおよび借り入れを行う銀行同士を結びつけている。

重要な点は、銀行が企業・家計に対して貸し出しをする際、貸出の準備、原資なるものは存在しないということだ。銀行の貸し出しは準備が余分にあるからといってより簡単になるわけではないし、準備が少ないからといってより難しくなるわけでもない。銀行準備は、貨幣乗数・部分準備預金の説明とは違い、貨幣創造の際のための原資となるわけではない。銀行は貸出の前に、銀行に現金が預けられるのを待ってはいない。

銀行とその他の企業との違いは、それらの抱える負債の性質に関係している。銀行は「借り手」の負債を購入することによって貸し出しをしている。発生した銀行の負債(銀行預金。たいていは要求払預金)は、少なくとも当初は、借り手にとって資産である。それゆえ、銀行から借り入れをしている銀行の顧客は、要求払預金を保有しているから、銀行への債権者でもあるし、同時に銀行への債務者でもある。彼らは大抵すぐに、その新しく作られた要求払預金を財・サービスあるいは資産を購入する手段として活用する。銀行の負債(銀行預金)は家計・企業に小切手や振込・振替によって使用される。また顧客は要求払預金を(政府に保証された)不換貨幣に1ドル単位で変換することができる。また預金を支払いに使うことができる。政府はいくつかの銀行の負債で税を支払うことを認めているだろう。

同様に、銀行の準備は他の銀行への支払い・契約に使用することができ、中央銀行に要求された支払いにも使用することができる。それゆえ、銀行に対する「債権者」が自らの保有する要求払預金を引き落として、支払いをしたり現金を引き出したりした時、結果としてここの銀行の準備の減少が発生する。その時、銀行は準備の減少を補うために、資産を売却したり、(追加の準備を借りて)負債を増やす。

銀行間取引市場(アメリカではフェデラル・ファンド市場と呼ばれている)は、民間銀行が自らの準備の目標を達成できるように、銀行の準備バランスを移し替える機能を持つ。単純に考えれば、一定の期間中には、ある銀行は全く準備がなくなるかもしれないということが想像できる。しかしながら、概して、そのような現象はある銀行から他の銀行に準備が移動するだけだ。もし本当に銀行が欲する準備が他の銀行から調達できなければ、銀行は中央銀行から準備を調達するだろう。

決して銀行は貸出の前に準備が預けられるのを待っているわけではなく、以下に説明するように、貸し出しによって貸借対照表を拡大させていっている。

貸出が預金を生む

貸出が預金を生んでいる。その事実の後に、準備が預金を支えているという構造が発生する。銀行の新たな負債を生む貸出の拡大の過程は、銀行の資金調達とは関係がない。利益の追求において、銀行は借り入れを望む顧客から申込書を受け取り、その申込書の内容を評価する。2008年の国際金融危機に至るまでの間ではあるが、その評価検証は非常にゆるいものだった。

銀行の貸出拡大の制約となるものは、返済能力のある借入希望者の不足である。それは、悲観的な時期に銀行が資格基準をあげることによって発生し得るし、将来の不確実性によって返済能力のある借入希望者が借り入れに消極的になることによっても発生する。主流の考え方は、「銀行の少量の要求準備を上回る貸借対照表の拡大は、銀行が予想できる貸出による利得に影響するだろう」というものだ。これは懲罰金利の結果である。懲罰金利とは、銀行が営業日の終わりまでに要求される準備を満たすことができなかった時に、中央銀行が割引窓口(準備を必要とする銀行に対して、それを貸し出すことを目的とした中央銀行の設備)を通して要求する金利のことである。しかし、懲罰金利はそもそも銀行の貸出能力を妨げることはない。それゆえ、「中央銀行は銀行の準備を追加することによって、彼らの貸出能力に影響を与えられる」と仮定することは明らかに間違っている。この問題については、チャプター23で詳しく述べることにしよう。

銀行は準備を貸し出していない

「貸し出しが預金を生む」という推論は「銀行は準備を貸し出していない」ということを表現し、さらに準備の実際の役割についての疑問を提示する。

銀行は、銀行間決済制度の一環として、中央銀行に準備を保有しなければならない。準備は銀行間の支払いに使われる。毎日、何百万という取引が銀行間で行われる。例えば、A銀行から振り出された小切手がB銀行に預けられた場合、A銀行の準備がB銀行に振り替えられる。

もし特定の銀行が1日ごとの要求準備に対する自らの準備量の不足を発見した場合、その時、銀行はまず最初に他の銀行から準備を借り入れることが可能である。そして、貸し出す側の銀行は、その特定の日において、準備を余分に持っているのであろう。しかし、今後チャプター20,23で見るように、銀行全体の準備の不足は、中央銀行による準備の提供によって解消される。また、銀行全体の準備が超過している場合は、中央銀行による準備の吸収によって解消される。この中央銀行による介入は、我々が「流動性管理任務」として言及するものだ。中央銀行の金利目標に一致させるために、銀行に準備全体を運営することを許可したものである。例えば、もしあらゆる日において超過準備(要求準備を超える準備)が存在し、なおかつ中央銀行が競争的な利得を準備に提供しなかった場合、超過準備を持つ銀行はその準備を翌日物(翌日には返済を要求する貸出)として貸し出そうとするだろう。その行為は、短期金利を下落させる影響力を持つ。中央銀行は、自らが望む政策(目標)金利に翌日物銀行間金利を合わせるために、その準備を吸収しなければいけない(銀行に国債を銀行に売却すれば、国債の支払いは準備によって支払われるため、銀行制度全体の準備を減らすことができる)。このことについてはチャプター23で見ることにしよう。

内生貨幣

我々は新古典派経済学の教科書とは違い、中央銀行はマネーサプライをコントロールできないという現実を踏まえた物語を示した。言い換えれば、マネーサプライは、「銀行に対する借入需要」と「銀行の貸出(貸出は預金を創造する)意欲」によって「内生的に(ものごとの結果として決まる、事前に決定できない、という意味)」決定するという意味で、「内生貨幣」である。新古典派の間違った理論は、マネーサプライは外生的に決まる、マネーサプライはマネタリーベースと貨幣乗数との計算によって決まると信じている。そして、新古典派経済学者は中央銀行がそれをコントロールできると信じている。

借入需要は、経済における民間部門の消費(および資産購入)決定によって決まる。それは借入金利からは二次的に影響を受けるのみである。銀行は、誰かが「銀行から借り入れたい」と思わない限り、貸し出しをすることができない。このことは、貸出の供給と借入の需要はそれぞれ独立していないために、金利は貸出の供給と借入の需要によって決定されないということを表している。むしろ、銀行は短期の貸付金・借入金を取引する市場において、それらの銀学を設定している。その時、銀行は借入需要に合わせて価格を設定し、いくらかの貸出をしている。言い換えれば、借入の意欲と返済能力がある借り手がいたとしても、銀行は貸出をしないことがあるということだ。

そのような人々の大部分の貸出の割り当てには、いくつかの理由が存在する。銀行は何人かの借り手の債務不履行のリスクについて心配するが、そのリスクを補うほどに金利を上昇させることができない。貸出量の割り当ては価格の割り当てよりも優れている。すなわち金利の上昇が何人かの借り手に課される。また、おそらく銀行は借り手の債務不履行のリスクについての情報よりも、より良い情報を手に入れるだろう。例えば、新しいレストランを開こうとしている借り手はその産業において破産する確率を政策に把握していないだろう。あるいは、単に過度に楽観的になる。一方、未来を知ることはできないので、大まかな規則に則って業務を行わざるを得ない(例えば、形式的ではないが、貸出の大きさの制限を設けるなど)。いくつかの貸出量の割り当ては不合理にすらなるし、差別的にもなる。なぜなら銀行は伝統的にある一定の種類の貸出に慎重になるし、ある一定の集団には貸出をしたがらない。銀行の貸出の供給は、いくつかの金利に基づく借入への需要にただ単に合わせているわけではないということは、重要な点である。

短期金利は、短期の卸売取引における金利における利幅であると捉えられる。利幅を正確に決定するもの(あるいは、利幅は変化するのかどうか)が何であるかは議論が続いている。しかし、ここでの我々の分析にとってあまり重要ではない(Moore,1998)。

結局、卸売市場金利は中央銀行の政策の影響下にある。個々の銀行は小売貸出(借入側は商業上使用する施設を担保とする)と預金の不一致を調整するために卸売市場を使用する。ほとんどの銀行は自らの小売貸出と預金を正確に一致させることはできない。いくつかの銀行は抱えることができる預金額よりも多くの小売貸出を行うことができるだろう。しかし、その他の銀行は預金者よりも少ない人数の借入顧客を獲得する。後者の彼らは超過準備を持つことにあるだろう。その時、前者の彼らは卸売負債を発行して準備を「購入」するために卸売市場を使用する。また、一方で、後者の超過準備を抱える彼らは準備を卸売市場でうるだろう。

以上で説明したように、中央銀行は翌日物銀行間金利を設定している。その時この比率は、裁定取引(現物と先物の価格を利用して利益を獲得する取引)を通して、その他の卸売市場金利を決定する。

要約

新古典派の立場は、銀行のレバレッジ(与信の創造、貸出の増加)は新たに預金がされた時に発生するとしている。そして、一方で部分準備要求によって制限されているとしている。中央銀行はおそらくマネタリーベースを操作できるので、中央銀行がマネーサプライを操作できると主張している。

現実の世界で何が起きているかということを反映すると、MMTは中央銀行はマネタリーベースを操作できないとしている。なぜなら、金融政策は中央銀行が設定した「金利目標」と「適切な準備水準」に導かれるからだ。銀行はその金利目標に従って、貸し借りを行なっている(これについてはチャプター20,23で詳述する)。また、銀行は特定の顧客に対して貸出をする際に、自らの準備量にその貸出が制約されているわけではない。もし債務返済能力がある顧客が存在し、銀行にとって有益な貸出ができるならば、銀行は貸出を行い、その後、十分な準備を他の銀行・中央銀行から調達するだろう。それゆえ、新古典派の立場では「預金が貸出を生む」としているのに対し、MMTでは「貸出が預金を生む」としている。さらに、同様にMMTは、大幅なマネーサプライの増加は借入需要によって生み出されるとしている。また、マネタリーベースは、内生的な貨幣の上昇に後押しされて、特定の金利目標を達成しようとする中央銀行によって調整されるとしている。それゆえ貨幣の供給は、外生的に中央銀行によって貨幣の値段(短期金利。銀行が準備預金を借りる時にかかる金利。翌日物銀行間金利)を決定しているのにも関わらず、内生的に決定される。

貸出の例:貸借対照表を使った分析

10.2は、典型的な銀行の貸借対照表である。

貸借対照表の会計科目のうちの、当座預金と普通預金が負債として計上されていることに注目してほしい。銀行は当座預金(たいていは普通預金)と現金を交換する約束をしているから、それらは負債として扱われている。そして、銀行は顧客への貸付金、債権(それらは財務省の負債やその他の金融資産である)を保有している。

たいていの企業と銀行は、総資産と総負債の差である、純資産を持っていることが当然だ。総資産は借方(左側)に計上され、総負債と純資産は貸方(右側)に計上される。

単純な貸借対照を例にとることは、A銀行による貸出の過程を把握することを簡単にする。では、図10.3のような単純な貸借対照表(それはA銀行のストックを表している)を持つA銀行を仮定してみよう。

A銀行のオーナーは資産を上昇させ、建物を買った。オーナーの総資産また純資産は購入した建物と同額である。A銀行はまだ銀行の業務には携わっていない。

すると、車を買うために借金をしたいと言う顧客が銀行にやってきた。銀行は彼が返済能力があるかどうかを、所得税申告書(所得を記したもの)、資産証明書、借入記録などを訪ねて判断する。もし顧客が認められたら、銀行の貸借対照表は図10.4のようになる。

銀行は200ドルの貨幣科目を想像する(この当座預金は顧客が負債を負った見返りに発行されたものである。そして、これは顧客が何らかの支払いをする時に使える)。銀行の「総資産」と、「負債と純資産の合計」は、現在ともに400ドルである。

顧客が預金を使用して支出をする前に、一旦、現在の貸借対照表を注意深く見てみよう。

銀行はどこに貨幣を創造したのか。

・当座預金は「無から」生み出された。すなわち、何もないところから借り手の口座に200ドルと打ち込んで生み出した。かつては、銀行が独自の紙幣を発行さえしていた。今では中央銀行のみが紙幣を発行することが一般的となっている。

・銀行は事前に預金されることを必要としない。金庫に現金がある必要がない。実際、この例では、銀行は金庫に多くの現金を持っているわけではないし、中央銀行に保有する口座にも多くの預金がされているわけではない。

・銀行は自分の持っている何かを貸しているわけではない。自分の意思で自ら貨幣科目(銀行預金)を作り出している。

・銀行預金という貨幣科目は銀行の負債である。

・銀行がそれらの負債を創造することによって、その銀行は以下のことを約束したことになる。

ー 顧客の要求に応じて預金と現金を交換するということ。

ー その預金を、銀行に対する負債の返済に使用することを受け入れるということ。

当座預金は現金との交換が約束され、さらに銀行の負債として支払いに使われることを単純に法的に約束されている。銀行は多くの現金を今現在において持っていなければならない、というわけではない。

銀行の業務(自らの負債を発行しての貸出。および、顧客への要求払預金の創造)の達成は以下の事柄によって左右される。

・顧客の支払い能力および返済能力。もし期限通りの支払いができない顧客がいたとすると、その影響は、銀行の保有する資産の価値、銀行への収入に影響する。最終的には銀行の純資産、自己資本比率、銀行の株主への配当にも影響する。

・もし以下の条件が揃っているならば、準備を要求する銀行の能力は低コストである。

ー 顧客が現金の引き出しを望んでいる

ー 銀行は、顧客の支払いに従って、他の銀行に対して銀行間取引を行う機関を通して支払いをしなければならない(以下に見る)。

ー 銀行は顧客が政府に負っている納税義務を清算しなければならない。

もし銀行が異常事態に陥り、これらの状況が満たされない場合、銀行預金は破綻し、非流動的になる。「破綻」とは、銀行の純資産が0以下に下落することである。「非流動的」とは、現金と交換ができないということである。それゆえ、銀行には預金貨幣を際限なく想像できる能力があったとしても、実際にそのようなことをする動機は銀行にはない。なぜなら、それは利益を生まないからだ。

もし顧客が車を買うために200ドルを、B銀行に口座を所有する車販売店に支払った場合、何が起きるのであろうか。A銀行の貸借対照表はず10.5、B銀行のそれは図10.6のようになる(ここにおいて、それぞれの会計科目の金額ではなく、資産と負債の変化に注目してほしい)。

顧客の当座預金として計上されている銀行の負債は、車の購入によって引き落とされる。しかし、その取引はA銀行に口座を持つ顧客における貸借対照表の変化には止まらない。B銀行に口座を持つ車販売店の貸借対照表が変化する。今、A銀行はB銀行に対して200ドルの負債を負っている。自らが保有する準備をB銀行に移動させなければならない。しかし、準備を持っていない。では、A銀行はどこから準備を調達するのか。

A銀行は中央銀行において準備を維持することを求められている。この準備は中央銀行にとっては負債であり、銀行にとっては資産である。そして、これは銀行間の支払いを円滑する機能を持っている。その制度は、人々、企業、その他の団体が小切手を振り出すことによって発生する、銀行間の何百万という取引をつないでいる。A銀行に口座を持つ顧客の口座を引き落とし、B銀行に口座を持つ車販売店の口座に新たに預金を生み出さなければならない。その時、B銀行には準備が必要となる。その時、準備の一貫した制度がなければ、B銀行に必要な準備を用意することは不可能だろう。

A銀行は準備を獲得するために、最も費用のかからない方法を選ぶであろう。例えば、資産を売って準備を手に入れようとした場合、現在銀行の保有する資産は「建物」のみであるから、それは非常に費用がかかる方法とわかる。なので、A銀行は債権を多く保有していればそれをうるだろう。あるいは、他の(国内外を含めた)銀行あるいは(自国の)中央銀行から準備を借りることを選択するだろう。一般的な準備を手に入れる方法は、準備を生み出せる唯一の存在である、中央銀行から準備を借りる方法である。図10.7は、中央銀行から準備を借りたA銀行の最終的な貸借対照表である。図10.8は中央銀行の貸借対照表である。

そして今、A銀行はB銀行に準備を送ることが可能になっている。その後、準備を送った後の2つの銀行の貸借対照表が図10.9と図10.10である。

その図では銀行間の送金はもうすでに済んでいる。そして、最終的なA銀行の資産と負債を記録した貸借対照表は図10.11である。

A銀行は、顧客への貸し出しによって得られる金利の収益が、中央銀行に対する(準備を用意するために借り入れた時に発生した)負債の金利の支払いを上回っている限り、貨幣を創造することができる。

B銀行の貸借対照表は図10.12である。我々は、B銀行が車販売店の当座預金を増やす前に、準備を手に入れたと言うことを想像することができる。

中央銀行の最終的な貸借対照表は図10.13の通りである。

ここで、これらの取引において物理的な現金が全く必要とされていないことに注目してほしい。これは、コンピューター網を通した電子的な操作が貢献している簿記の仕分けである。 また、我々が示す例に直接に関係している資産と負債のみを見せたことにも注目してほしい。もちろん、民間銀行と中央銀行は多くの資産と負債、そして純資産を保有している。 実際問題として、中央銀行は通常、無担保で銀行に対して直接に準備を貸し出すということはない。代わりに担保と交換する(たいてい「国債」と交換する)。あるいは、担保を割り引いて交換する。なので、もしA銀行が300ドルの債権を保有しているならば、それを銀行に安い値段で提供して交換に応じなければならない。もし銀行が5%の割引率を設定してならば、その300ドルの債権は285ドルの準備に交換される。割引率の設定は、中央銀行が経済における貸出の量を制限することを試みることができる、数ある方法の中の1つである。


[改訳]

要約

新古典派は、新たに預金がされた時に銀行のレバレッジ(信用創造)が発生し、一方でそれは部分準備要求によって制限されているとしている。中央銀行はおそらくマネタリーベースを操作できるので、中央銀行がマネーサプライを操作できると主張している。

MMTは、現実世界で何が起きているかということを反映し、中央銀行はマネタリーベースを操作できないとしている。なぜなら金融政策は、中央銀行が設定した金利目標と適切な準備水準に従うからだ。銀行はその金利目標に従って、貸し借りを行なっている(これについては第20, 23章で詳述する)。第二に、銀行は特定の顧客に対して貸出をする際、自らの準備量に制約されない。もし債務返済能力がある顧客が存在し、銀行にとって有益な借入顧客ならば、銀行は貸出を行い、その後、十分な準備を他の銀行・中央銀行から調達するだろう。すなわち、新古典派では「預金が貸出を生む」としているのに対し、MMTでは「貸出が預金を生む」としている。第三に、上記を総合してMMTは、大幅なマネーサプライの増加は借入需要によって生み出されるとしている。そして、マネタリーベースは内生的な貨幣の増加に後押しされて、特定の金利目標を達成しようとする中央銀行によって調整されるとしている。それゆえ、貨幣の供給は内生的に決定され、一方で、貨幣の値段(短期金利)は中央銀行によって外生的に決定している。

銀行による信用創造の例:バランスシートを使った分析

図10.2は、典型的な銀行のバランスシートである。

バランスシートの会計科目のうち、当座預金と普通預金が負債として計上されていることに注目してほしい。銀行は当座預金(たいていは普通預金)と現金を交換する約束をしているため、それらは負債として扱われている。そして銀行は、顧客に対する貸付金と(財務省の負債やその他の金融資産などの)債権を保有している。

たいていの企業と銀行は、総資産と総負債の差である、純資産を当然持っている。総資産は借方(左側)に計上され、総負債と純資産は貸方(右側)に計上される。

図10.2 典型的な銀行のバランスシート

単純なバランスシートを例に取ることで、A銀行による信用創造の過程を容易に把握できるようになる。では、図10.3のような単純なバランスシートを持つA銀行を仮定してみよう。それはA銀行のストックを表している。

図10.3 A銀行の最初のバランスシート

A銀行のオーナーは資産を上昇させ、建物を買った。オーナーの総資産及び純資産は、購入した建物の値段と同額である。A銀行はまだ銀行業務を行なっていない。

その後、「車を買うために借金をしたい」という顧客が銀行にやってきた。銀行は彼に返済能力があるかどうかを、所得税申告書、資産証明書、借入記録などを見て判断する。もし顧客が借入を認められれば、銀行のバランスシートは図10.4のようになる。

図10.4 貸出をした後のA銀行のバランスシート

銀行は200ドルの貨幣科目(この当座預金は顧客が負債を負った見返りに発行されたものであり、顧客が何らかの支払いをする時に使える)を創造する。現時点では、銀行の総資産、及び負債と純資産の合計は、ともに400ドルである。

ここで一旦、顧客が預金を支出をする前に、現在のバランスシートを注意深く見てみよう。さて、銀行はどこに貨幣を創造したのだろうか。以下がその答えだ。

銀行はどこに貨幣を創造したのか。

• 当座預金は無から生み出された。すなわち銀行は、何もないところから、借り手の口座に「200ドル」とキーボードで打ち込んで預金を生み出したのだ。かつては銀行が独自の紙幣を発行さえしていたが、今日では中央銀行のみが紙幣を発行することが一般的となっている。

• 銀行は事前に預金されることを必要としない。金庫に現金がある必要がない。実際この例でも、銀行は金庫に多くの現金を持っていないし、中央銀行の口座に多くの預金があるわけでもない。

• 銀行は自分の持っている何かを貸しているわけではない。自分の意思で貨幣科目(銀行預金)を作り出している。

• 銀行預金という貨幣科目は銀行の負債である。

• 銀行がそれらの負債を創造することによって、その銀行は以下のことを約束したことになる。

- 顧客の要求に応じて預金と現金を交換すること。

- その預金を、銀行に対する負債の返済手段として認めること。

当座預金は、現金と交換されることや、銀行に対する負債の返済に使われることを法的に当然のように約束されている。銀行が今現在において多くの現金を持っている必要はない。

銀行業務(自らの負債を発行することによる貸出、及び顧客への要求払預金の創造)の達成は、以下の事柄によって左右される。

• 顧客の支払能力及び返済能力。もし期限通りの支払いができない顧客がいたとすれば、それは銀行の保有する資産価値と、銀行の収入に影響する。最終的には銀行の純資産、自己資本比率、銀行の株主への配当にも影響する。

• もし以下の条件が揃っているならば、準備を要求する銀行の能力は低コストである。

- 顧客が現金の引出を望んでいる。

- 顧客が支出するたび、銀行は、銀行間取引を行う機関を通して、他の銀行に支払いをしなければならない(後述)。

- 銀行は、顧客による政府への納税を処理しなければならない。

もし銀行が異常事態に陥り、これらの状況が満たされない場合、銀行預金は破綻し、非流動的になる。破綻とは、銀行の純資産が0以下になることである。非流動的とは、現金と交換ができないことである。それゆえ、銀行に預金貨幣を際限なく創造できる能力があったとしても、実際にそのようなことをする動機は銀行にはない。なぜなら、それは利益を生まないからだ。

もし顧客が、B銀行に口座を所有する車販売店に対して、車を買うために200ドルを支払った場合、何が起きるだろうか。A銀行のバランスシートは図10.5、B銀行のそれは図10.6のようになる(それぞれの会計科目の金額ではなく、資産と負債の変化に注目してほしい)。

図10.5 顧客が車を購入した時の、A銀行のバランスシートにおける変化
図10.6 車が購入された時の、B銀行における貸借対照表の変化

顧客の当座預金として計上されている銀行の負債は、車の購入を通して引き落とされる。だがその取引は、A銀行に口座を持つ顧客におけるバランスシートの変化させるだけではない。B銀行に口座を持つ車販売店のバランスシートも変化させる。現段階で、A銀行はB銀行に対して200ドルの負債を負っている。自らが保有する準備をB銀行に移動させなければならない。しかし、準備を持っていない。では、A銀行はどこから準備を調達するのか。

A銀行は、中央銀行に準備預金口座を保有することを要求されている。この準備は中央銀行にとっては負債であり、銀行にとっては資産である。そして、これは銀行間の支払いを円滑する機能を持っている。そのシステムは、人々・企業・その他の組織が小切手を振り出すことによって発生する、銀行間の何百万という取引をつないでいる。この例では、A銀行に口座を持つ顧客の口座を引き落とし、B銀行に口座を持つ車販売店の口座に新たに預金を生み出さなければならない。その時、B銀行には準備が必要となる。その時、準備に関する一貫したシステムがなければ、B銀行に必要な準備を用意することは不可能だろう。

A銀行は準備を獲得するために、最も費用のかからない方法を選ぶだろう。例えば資産を売って準備を手に入れようとした場合、現在銀行の保有する資産は「建物」のみであるから、それは明らかに非常に費用がかかる方法だ。なのでA銀行は、債券を多く保有していればそれを売却するだろうし、あるいは、他の(国内外の)銀行・(自国の)中央銀行から準備を借りることを選択するだろう。一般的な準備を手に入れる方法は、準備を生み出せる唯一の存在である中央銀行から準備を借りることである。図10.7は、中央銀行から準備を借りた時の、A銀行の最終的なバランスシートだ。同様に、図10.8は中央銀行のそれだ。

図10.7 中央銀行から準備を借り入れた時の、A銀行のバランスシートにおける変化
図10.8 準備を貸し出した時の、中央銀行のバランスシートの変化

現段階において、A銀行はB銀行に準備を送ることができる。そして、準備を送った後の2つの銀行のバランスシートが、図10.9と図10.10である。

図10.9 B銀行に準備を支払った時の、A銀行のバランスシートにおける変化
図10.10 A銀行から準備の支払いを受けた時の、B銀行のバランスシートにおける変化

その図では銀行間の送金がもうすでに済んでいる。そして、最終的なA銀行の資産と負債を記録したバランスシートが図10.11である。

図10.11 最終的なA銀行のバランスシート

A銀行は、顧客への貸出によって得られる金利収入が、中央銀行に対する負債の利払いを上回っている限り、貨幣を創造することができる。

B銀行のバランスシートは図10.12である。我々はB銀行が、車販売店の当座預金を増やす前に準備を手に入れたのだと、考えることができる。

図10.12 B銀行の最終的なバランスシート

中央銀行の最終的なバランスシートは図10.13の通りである。

図10.13 中央銀行の最終的なバランスシート

ここで、これらの取引において物理的な現金が全く必要とされていないことに注目してほしい。それらは、コンピューターのネットワークを通した電子的な操作による、簿記の仕分けなのだ。

また、例に直接関係している資産と負債のみがバランスシートに表されていたことにも注意してほしい。もちろん現実には、民間銀行と中央銀行は多くの資産と負債、そして純資産を保有している。

実際、中央銀行は通常、銀行に対して無担保で直接に準備を貸し出さない。代わりに担保(多くの場合は国債)と交換するのだ。あるいは、担保を割り引いて交換する。なので、もしA銀行が300ドルの債券を保有しているならば、それを中央銀行に額面より安い値段で提供して交換しなければならない。そこで中央銀行が5%の割引率を設定したならば、その300ドルの債券は285ドルの準備に交換される。割引率の設定は、経済における信用創造を制限するための、中央銀行が持つ数ある方法の中の一つである。

結論

近代的な銀行を、「預金を取り込んだ後、そのほとんどを貸し出し、一部を準備金として保持する」といったことをする「仲介者」と考えるのは不十分であり、誤解を招く。そうではなく、「銀行は(借り手に負債を負わせつつ)貸出を行い、借り手が支出するために使用できる要求払預金を創造する」と考えるべきだ。銀行はほとんどの場合、決済のために準備を使用する。つまり彼らは、他の銀行・中央銀行・財務省に対する支払い、及びATMでの現金の引き出しに対応するために準備を使用する。銀行は、必要に応じて、他の銀行から借り入れるか、中央銀行による準備の創造を通じて準備を手に入れる。第20章では、中央銀行は準備の需要にどのように、そしてなぜ対応するかについて、さらに詳しく説明する。

出典

Brunner, K. (1968) “The Role of Money and Monetary Policy”, Federal Reserve Bank of St Louis Review, 50, 8–24.

Moore, B. (1988) Horizontalists and Verticalists: The Macroeconomics of Credit Money, Cambridge: Cambridge University Press.

後注

1. 正統派経済学者は、「名目金利は、実質金利と期待インフレ率の合計である」と主張している。実質金利は、貯蓄と投資需要を均衡させる、市場で決定された実質利回りであると想定されている。それゆえ、これは実質均衡金利なのだ。しかし、支払契約は名目値、つまり名目金利に基づいて結ばれるため、名目金利は期待インフレ率を補わなければならない。このような、インフレ期待の上昇に伴う実質金利への利率の追加は、フィッシャー効果と呼ばれている(Box 10.2を参照)。多くの市場参加者は、これが債券市場に当てはまると考えている。名目利回りは購買力を維持するために市場によって調整されるという、強い信条が存在している。











20.1 はじめに

この章では、我々は3つのことについて話す。

1.財政政策はどのように考え出されるのか

2.金融政策はどのように考え出されるのか

3.国家の支出を可能にするために、財政政策と金融政策はどのように調整されているのか

この章のはじめに、我々は少しだけ変動相場制を採用する貨幣経済における、中央銀行と財務省の役割について説明する。また我々は、財政・金融政策の妥当性は、「貨幣の使用者」としての家計・企業の観点から見た場合とは、根本的に異なるということを強調する。

この章では政策の実践について注目する。ここ数年、「教科書の財政政策の説明」と異なる国で起こった「制度的な取り決め」の間に不一致が起こっている。アメリカ、イギリス、オーストラリア。それらの国々は似ている部分もあるのだが、それぞれに異なる政策を実行している。我々は財政政策の総括的で簡単な説明を提供する。

そして、中央銀行が第一次市場において国債を買い取ること、俗に言う「中央銀行による政府の国債の直接引き受け」が政策の結果に対して「全く意味のある影響を与えていない」と言うことも説明する(これについてはLavoie,2013および、Tymoigne,Wray,2013の合計3氏から引用)。

その時、近代的な貨幣制度における税の役割を再考することになるだろう。この章ではさらに、ある国が他国から政策的に独立を果たすためには、変動相場制を採用する(ユーロのような共同管理する貨幣ではない)自国通貨が極めて重要であるということも説明している。補論では、開放経済を採用する国家における、中央銀行が取る政策について深く分析している。

20.2 中央銀行

近代的な政府は中央銀行を保有している。いくつかの国では、形式的に中央銀行は政府・財務省から独立している。しかし、通常いまだに選挙で選ばれた政権が中央銀行の政策の決定者の構成員を任命している。そして、政権はその集団を含めた中央銀行が決定した政策に対する拒否権を保持している。しかし、ほとんどの中央銀行の政策決定者(アメリカでは連邦準備制度理事会、イギリスでは金融政策委員会)はいくつかの点では政権・官僚組織から独立している。

中央銀行は翌日物あるいは銀行間取引の金利を設定する権利を与えられている。それは現代における、金融政策を実行する初歩的な道具である。中央銀行の存在は、「金融政策の体系化を担う独立し(聞くところによると)政府と無関係な組織は、より有益な決断を下すことができるだろう」という前提に立っている。

実際、中央銀行の独立性は、いろんな意味で、大きくはない。例えば、アメリカの(「Fed」として知られる)連邦準備銀行(以下「連銀」)は「議会の使い」である。それは法律で定められている。確かに、連邦準備銀行は議会法によって設置されている(1913年制定の議会法)。そして、議会は、中央銀行が決定する金融政策の変更に対して、定期的に権限を与えている。イギリスやオーストラリアも同様に、イングランド銀行・オーストラリア準備銀行は本国の代議員制議会によって定められた法律によって設立されている。オーストラリアでは、選挙で選ばれた政権がオーストラリア準備銀行の理事を選出している。また、財務大臣はオーストラリア銀行が決定した金利の変更する政策を拒否することができる。

「中央銀行の独立性」を疑うべき理由はさらに存在する。中央銀行の金利・流動性政策は大いに調整可能な余地が大きい。なぜなら、その政策は民間銀行の要望を反映するだけでなく、財務省の行動にも影響されるからだ。この節では、中央銀行の行動について大まかに説明しようと思う。第23章では、中央銀行による「民間銀行の管理」「金利の調整」「最後の貸し手機能を通した準備の提供」について言及する。

ほとんどの銀行は「インフレ目標」と呼ばれる政策を継続している。なぜなら、多くの経済学者がそれが「低く安定したインフレ率を提供し、民間部門に自らの支出計画ににつような確かな予想を立てさせることができる」と主張しているからだ。従って、1993年以来、イングランド銀行はCPIインフレを年間2%にすることを目標とし、オーストラリア準備銀行はCPIインフレを2から3%に収めることを目標としている。アメリカの連邦準備銀行は特にインフレ目標を設定していないが、連邦公開市場委員会は2016年に、2%のCPIインフレ目標が「法定準備に適応するものとして、長期的に安定している」と宣言している。

しかしながら、インフレ目標が経済の機能を改善させるという確かな証拠は存在しない。確かにインフレ目標を定めている国と定めていない国の経済の結果の違いを、識別することは困難である。特にそれらの国がアメリカのように広範な「インフレと即座に戦う」金融政策の立場をとっている場合、それはなおさら困難である(Ball and Sheridan,2003)。

中心の問題は、インフレ目標の設定とその達成が、マクロ経済政策の中で金融政策を優先させることになったということだ。結果として、現在の政府は受動的に財政政策を行うようになっている。そして政府は、金融政策に反しないように、在政策を不正に制限する傾向にある。これらの政策によって、各国では平均的に実質GDP成長率が低調に上昇するのみで、一方で高い失業率をもたらしている。

支払システム・準備・銀行間取引市場

ほとんどの銀行は翌日物(銀行間取引)金利の目標値を公表することによって金融政策を行なっている。実際中央銀行は、短い期間中の翌日物金利を目標値の範囲内に維持する戦略をよく取る。中央銀行はこの戦略を達成するために、以下のようないくつかの違った金利を設定する。

・銀行間取引金利(アメリカでフェデラル・ファンド金利と呼ばれるもの)。銀行が他の銀行が準備が足りなくなった時に、それを翌日物(翌日を返済する期日とする貸出)として貸し出す時に発生する金利。

・割引金利。中央銀行が民間銀行に準備を貸し出す時に、中央銀行が民間銀行に提示する金利。

・(中央銀行当座預金における)預金金利。中央銀行に保有する準備に対して支払われる金利。

一般的に、中央銀行の目標は銀行間取引金利である。中央銀行はその金利を直接設定することなく、割引金利を操作して目標金利に金利を押し上げたり、預金金利を操作して押し下げたりする。第23章で説明するように、預金金利は銀行間取引金利の下限を設定する。なぜなら、銀行は中央銀行に準備を保有することによって常に預金金利を得られるため、銀行はそれより低い金利で準備を貸し出そうとはしないからだ。一方、割引金利は銀行間取引金利の上限を設定する。なぜなら、銀行は中央銀行から準備を借りることが(いかなる時も「必ず」)できるので、銀行はそれより高い金利で他の銀行から準備を借り入れることをしないだろうからだ。それゆえ、銀行間取引はその下限(預金金利)と上限(割引金利)の間で変化する傾向にある。中央銀行は、それら2つの間を狭くすれば、銀行間取引金利の変動幅を縮小させることができる。

第10章で見たように、民間銀行は効率的な機能を果たす支払制度を実現するために、中央銀行に準備を保有している。例えば、ある顧客が自らが口座を所有する銀行とは違う銀行の口座を所有する小売業者から、財・サービスを購入したとする。この時発生した支払いによる調整は、顧客と小売業者の保有する銀行口座だけで行われる訳ではない。顧客・小売業者それぞれの使用する異なる2つの銀行の準備も調整される。支払制度におけるそのような動きは、一方の銀行の準備を減少させ、もう一方の準備を増加させる。準備が赤字の銀行は超過準備を抱える銀行から、銀行間取引市場を通して、準備を借りようとする。その後、普及している銀行間取引金利を支払う。

「銀行は顧客に準備を貸し付けていない」ということを理解することは重要である。それは主流派経済学の理論とは逆行することになる。彼ら銀行は、銀行と中央銀行との間の効率的な決済を確保することに、もっぱら慣れている。

もし(全ての銀行の保有する準備)全体で超過準備が存在する場合、その時、市場は銀行間取引金利をゼロに向かわせる。なぜなら銀行は貸し出そうとする準備の価格(すなわち金利)を下げようとするからだ。同様に、もし(全ての銀行の保有する準備)全体で不足が生じた場合、銀行間取引金利はそれの目標金利の上限に向かう。中央銀行はさらなる準備を供給すれば、その金利の上昇を抑えることができる。

準備は、中央銀行による「割引窓口貸出」、中央銀行が国債を購入することによる「公開市場操作」、中央銀行による「金・外国通貨・民間が所有する金融資産の購入」によって、増加する。言い換えれば、銀行は準備が不足しても、中央銀行の割引窓口から借り入れることができ、中央銀行に金融資産を売却することができるので、準備を安定させることができる。いずれの場合でも、中央銀行は準備が不足している銀行に中央銀行準備預金を追加する。

中央銀行は銀行制度において超過準備(すなわち「銀行が自らが望む以上の準備を抱えている状態」)が発生した時にこれらの行動を起こすことを準備している。超過準備を抱える銀行は、割引窓口から借りた準備をへんさいすることができ、中央銀行から資産(多くの場合は国債であり、たまに外国通貨や民間の資産)を購入する。その時中央銀行は彼らの中央銀行準備預金を引き落とす。

中央銀行は必ず毎日の準備の供給と需要を予測する。幸運にも、銀行制度において準備が不足するのか超過するのかを予測するのは容易である。翌日物金利は目標金利に近づいていくだろう。その目標金利は、中央銀行がほぼ自動で追加の準備を提供したり、余分な準備を吸収する現象を引き起こす。

平時において、中央銀行は民間銀行の準備の需要に対応できる。そのため、中央銀行は翌日物金利を操作できる。この準備の量は中央銀行によって自由裁量的に決定できるものではない。金利目標は中央銀行の自由裁量で決定できる。有事の際は、中央銀行の準備に対する銀行の需要は突然状する。なぜなら有事の際、銀行は自らの準備を他の銀行に貸し出そうとしないからだ。この状況では、中央銀行は追加の準備を提供しなければならない。

中央銀行は、財政黒字あるいは財政赤字の発生によって金融制度が崩壊しないように、財務省と良好な連携が取れている状況を望む。財政的な赤字・黒字はどちらも準備に対して影響を与える。その点については、この章の3・4節では財政政策とそれが与える影響について概要を述べる。

最後に、我々は中央銀行のその他の役割について述べる。それは「最後の貸手」としての役割も含む。例えば、金融危機に直面した銀行は、その他の銀行が超過準備を抱え制度全体で準備が十分であったとしても、銀行間取引市場で準備を調達することができない。なぜなら、個々の銀行は準備を貸し出しても返済されないことを恐れ、準備不足の銀行に貸し出しを渋るからだ。その時、中央銀行は準備不足の銀行に貸し出しを行い、解決に乗り出す。そして、解決のために必要とあらば、その銀行を閉鎖する。

また中央銀行は銀行その他の金融機関を規制・管理する。例えば、銀行は貸出を禁止したり(すなわち「与信管理」)、預金の発行を禁止したりする可能性がある。多くの国では、中央銀行は、個々の銀行及び金融制度全体の「安全性と安定性」を確保する役割を担っている。そのような役割は、中央政府の財務省、地方政府、独立した規制団体といった、その他の機関によっても担われている。加えて、多くの国は金融機関の行動規範を定めている。例えば、バーゼル規制は金融の安定性を高めるための基準を定めている。

銀行の規制と管理についての詳細な説明は、マクロ経済の本の範疇を超えた専門的な説明が必要となる。しかし、我々が金融不安定性と世界金融危機について説明する時、それらのことについて少しでも後々この本で説明したいと思う。

20.3 財務省

財務省は選挙で選ばれた政府で財政を担当する機関である。それは政府支出や徴税を通して財政を運営する。各国で財政に関する行為はその国の財務省で行われている。アングロ・サクソンの国家では「Treasury(国庫、財務省)」という言葉をよく使う。

遠い過去には政府は負債を発行することによって直接政府支出をしていた。その負債は、合札(あいふだ)、コイン、紙幣といった形で発行された。行政部門は好きな時に好きなものに、財務省が発行する貨幣を使用して、支出することができた。その貨幣は財政の赤字を埋めるために供給されたものだ。

財務省は、選挙で選ばれた代議員の認可を得ている形で、徴税の任務も負っている。普通に、徴税では財務省が過去に支出のために発行した負債が含まれている。しかし加えて、財務省はたまに他の負債(他国の貨幣、あるいは自国の貨幣であっても、その他の政府負債や民間の負債)も税として受け入れることを許可される。近代的な財務省は自らの政府の負債しか受け取らない。それは中央銀行が発行した準備(中央銀行当座預金)や貨幣、もしくは財務省が発行した硬貨や紙幣などだ。

政府と民間、それぞれの財務会計

たとえいくつかの会計の原理が世界標準だったとしても、中央政府の財務会計の基準は家計や企業で採用されているものを使用すべきではない。ここでは第2章の背後にあった主張とその要約、補足を説明したいと思う。

1つ目として、政府の目的は社会目標の達成であるべきだ。すなわち、公共の福祉の向上であるべきだ。「政府の本当の目的が達成されるか否か」と、「財政が黒字か否か、政府の借金が増えているか否か」は全く関係している必要性はない。

2つ目として、政府には主権がある。この事実は、家計や企業にはない権力を政府に与えている。政府は税を徴収でき、貨幣を発行できる。政府に徴税権力があるということは、政府は家計や企業とは違い商品を売ったりして、収入を得る必要がないということを意味する。政府に通貨発行権があるということは、政府は負債を発行して商品を購入できるということを意味する。短く言えば、イギリス、アメリカ、日本、オーストラリアなどの自国通貨を発行する国の政府は、資金不足になることがないということだ。これらの政府は貨幣を発行することによって、販売されているあらゆる財・サービスを購入することができる。彼らは経済における実際の資源をどのように配分するかということを考えなければいけない。だが、政府に「財政上の」制約というものは存在しない。

税収は広く人々に「収入」として理解されているが、その収入は家計や企業にとっての収入と同じものであると見てはいけない。政府は新しい税を課したり、増税することができる。

政府は支出をする際に、徴税や借入を行なっていない。もし家計が現金で納税する場合、政府はただその現金を受け取り、その現金をシュレッダーにかけるだけである。それゆえ、徴税の概念が家計や政府における収入と同じ概念であるとみなすことは間違いである。

また、今日の財政黒字(税収が支出を上回っている状態)は将来の政府の支出の余地を増やすわけではない。また、今日の財政赤字(税収が支出を下回っている状態)は将来の政府の支出の余地を減らすわけではない。

実際、短期間であれ長期間であれ、ある一定期間において政府の支出と税収は等しくなければいけないという主張の背後に、証拠や経済理論は存在しない。ある時期における財政赤字は、ある一定期間における税収と支出の差でしかない。それは政府が「資金不足になる」兆候でもないし、「自らの資金力を超えて支出してしまっている」わけでもない。財政赤字の大きさそれ自体は「政府が支出しすぎている」あるいは「税収が少なすぎる」という超過を下すための判断材料にはならない。大きな財政赤字は「政府の支出が少なすぎる」時と「税収が多すぎる」時に最適な政策である。

徴税と支出はそれぞれ手段として独立している。

一方で、家計や企業は収入の制約がある。なぜなら彼らは顧客に自らの商品や負債を購入するように強制することはできない。たとえ力のある大企業でさえ、商品の価格が上げれば顧客が代わりの企業の商品を買うことを理解し、負債を増やし続ければ貸し手がいなくなることも知っている。同様に、家計は自らに対してさらなる収入を与えるように誰かを強制することはできない。また、自分に対して貸出を強制することもできない。彼らの支出は収入・事前の貯蓄・借入に制約されている。

一方、政府は全く異なる状況にある。人々へ課税することによって、人々は納税への支払いのために貨幣が必要になる。そのため徴税は、貨幣を使用する公的な支出に対する需要を創出する。この方法で、非民間部門は自らの支出に対する需要を創出することができる。企業も家計も永久に負債を蓄積し続けながら存在することはできない。彼らは最終的には負債を返済するために支出を犠牲にしなければならない。それゆえ、企業、家計、地方政府(州など)は支出をするために収入や貯蓄、借入を必要とする。

論述は議論を呼ぶものではない。これは事実である。上記の事実を援用して、「政府は際限なく税を上げるべき」あるいは「政府は際限なく支出をすべきである」と考えるべきではない。しかし、政府の支出を賄う作業は、民間組織の予算を賄う作業とは違うということは示唆してくれる。

MMTは、家計での予算のやりくりの経験は、政府の予算のやりくりのために全く活かすことができないということを教えてくれる。しかしまだ日常的に、メディアや多くの政治家は、家計と政府の予算のやりくりを同じものと捉えている。

部門間バランス

マクロ経済とマクロ経済計算との間の違いも密接な関係にある。個々の家計や企業は資産部門と負債部門を計算する貸借対照表を持っている。家計や企業は、自らの支出を賄うために収入を得たり、資産を売ったり借入をしなければいけない。そのため彼らの支出は自らの収入と貸借対照表に制約されている。家計や企業は収入を超える支出をする際には(金融・実物資産を得る方法を取らない場合は)銀行の合意を得る必要がある。銀行の設ける基準に従って借入をしなければならない。

一方で、もし集団における家計・企業のこと考慮する場合、状況は違ってくる。国内の民間部門は、その他の経済部門(政府と海外部門)の「収入よりも少なく支出をしよう」という意思に依存して、赤字支出(収入より多く支出すること)をすることができる。ある経済部門の赤字は、他の経済部門の黒字である(これは第6章で強調したことだ)。この黒字は貯蓄され、その金額は赤字部門(赤字を計上した経済部門)の赤字額と等しい。原理上は、少なくともある部門が黒字になりたいと思っている間は、その他の部門で「永久に赤字にならない」ということにはならない。ある1つの部門が黒字になることを望めば、その他のある1つの部門は赤字にならざるを得ない。

現実世界では、アメリカ、イギリス、オーストラリアを含むほとんどの国の政府が満席的に赤字支出をしている状況を観察できる。この状況は、政府以外の経済部門(民間部門・海外部門)が収入よりも少なく支出しようとする傾向を反映している。非政府部門は政府からの支払いによって純資産を蓄積している。非政府部門は、多くの期間において、政府部門の赤字と同額の貯蓄をしている。

同時に、非政府部門が蓄積してきた純資産は、政府部門が発足当時より発行してきた純負債と同額である。非政府部門の純資産の計算において、非政府部門同士で発生している貸し借りは相殺する。しかし、政府部門と非政府部門との間で発生した貸し借りは相殺しない。よって、政府部門の純負債は非政府部門の純資産となる。

この恒等式(右辺と左辺が「=」で繋がっている数式)は、「海外部門」という「非政府部門」を考慮に入れても(我々は「非政府部門」を、さらに2つの「国内民間部門」と「海外部門」という構成要素に細分化している)。アメリカ、イギリス、オーストラリアといった国の政府がここ数十年に渡って赤字支出をしている場合、海外部門は赤字を計上しているそれぞれの国の貨幣単位で純資産を蓄積し続けている。これらの純資産は始めは現金やそれぞれの国の中央銀行の準備で保有されている。

しかしその時それらは、金利を得るために、赤字支出をする政府の負債と交換されるのが一般的である。

部門間のバランスは恒等式によって繋がっている。そのため、政府部門の赤字は非政府部門の黒字と等しくなると定義できる。また政府部門の負債は非政府部門の金融資産と等しくなるとも定義できる。第6章でも見たように、このマクロ経済の関係性は、個々の企業や家計を分析しているだけでは明らかにはならない。

20.4 金融政策と財政政策の調整

財務省と中央銀行で構成される統合政府は、ほとんどの近代的な国家に適用できる普遍的なモデルである。今日でさえ、多くの国は財務省と中央銀行の間の責任を明確にせずに政策を運営している。従って、統合政府の概念は理論上興味深いものである。

MMTの文献は「中央銀行と財務省を政府に統合する」という観点から議論を始める共通項があるが、我々は中央銀行と財務省の間にある責任の区分を維持しようと思う。

中央銀行の義務

・紙幣を発行する。珍しい例であるが、硬貨も発行することがある。

・準備を発行する(それは「割引窓口」あるいは「第二次市場における公開市場操作を通して行う、国債の購入」によって発行する)。

・翌日物金利の設定。銀行間の決済を簡略化する「手形交換所」の運営。銀行と財務省の間の決済手続き。

・外国通貨や金などに関わるその他の取引の管理。

中央銀行と財務省を比較した場合、中央銀行にある1つのと特別な機能が備わっていることがわかる。それは、銀行と財務省との間における支払いの仲介者としての役割である。この役割は、そもそも銀行が中央銀行に準備預金口座を持っており、財務省には何ら口座を持っていないという状況から発生している。それゆえ、「財務省と中央銀行の統合」という概念に関連した分析上の簡易化は、それほど議論に影響を与えない。

財務省の義務

・非政府部門に対する支払いの実行

・非政府部門からの納税の受領。

・新規国債の発行(通常、公的な負債を取り扱うことに特化した運営機関が発行する。例.財務省・大蔵省)。

・硬貨の発行(アメリカは日本はそうである)。

今日でも、財務省が中央銀行を通して支払いや受払いを行い、あなた(民間人)は民間銀行の口座を通して支払いや受払いを行なっている。

一般的に多くの国で、財務省には以下の2つのような、自発的に定めた運営上の規則がある。

1.財務省は、支出を行う時に、中央銀行宛の小切手を書く。財務省は中央銀行における口座残高を使用して支払いを行う。この規則に従うので、財務省は小切手を使って支払う前に、十分な預金を中央銀行に持っていなければならない。

2.財務省は第一次市場において中央銀行に対して新規国債を発行・販売してはならない。財務省は中央銀行に国債を直接買い取らせてはならない。財務省は国債を政府以外の民間銀行やその他の投資家に売らなければならない。しかし、中央銀行は第二次市場においてであれば、国債を買うことができる。中央銀行は政府以外の民間銀行やその他の投資家から国債を買うことができる。

それゆえ、財務省は法律やその他の規則で、「自分にとっての銀行」に国債を売ることを禁止されている(政府目線で見た「自分にとっての銀行」とは「中央銀行」のことである。民間人にとっての銀行は「口座を持っている」という点で民間銀行である。政府が口座を持っているのは「中央銀行」のみであるから、中央銀行は政府目線で見たら「自分にとっての銀行」である)。しかし、民間銀行に対しては直接国債を販売することができる。理解すべき重要な点は、この制約は本質的なものではなく、政府(財務省)が自発的に自らに課したものであるという点である。

この制約は、何か経済・金融上の必要性や確固たる財政理論から導き出されたものではない。むしろ、政府の支出を難しくしようとするイデオロギー的な思考・選好から生まれたものといったほうが良い。我々は緊急時において(例えば、世界金融危機)、危機に対抗できるよう政府に貨幣発行の能力が付与されるなど、しばしばそれらの制約が急速に緩和されるところを見ることができる。

財務省が支出をするとき、経済に貨幣(通常、「中央銀行の準備」という形の貨幣)が注入される。民間銀行は政府に対して財・サービスを販売した者(あるいは単に政府から給付金を支払われた者)の口座(もちろんその民間銀行に保有する口座)を増加させる。同時に中央銀行は、その民間銀行が中央銀行に保有する準備を増加させる。これらは、民間銀行が支払いを受けるためには、中央銀行に準備を保有している必要があるということだ。

財務省は通常、「中央銀行が発行する準備」という形の貨幣を使用した納税しか受け取らない。このことは、税が支払われる瞬間に「納税者が民間銀行に保有する預金が減少した」後、納税者が口座を保有する「民間銀行の準備が同額減少する」ということを表している。

赤字支出は純粋な貨幣の創造を意味している。それは逆に言えば、財政黒字は非政府部門がストックとして保有する貨幣(すなわち、銀行準備・紙幣・硬貨である)の純粋な減少を意味している。

「中央銀行は財政赤字を賄うために貨幣を印刷するだろう」という観点は欠陥がある。もし政府が財政を赤字で運営した場合、まず第一段階として、その赤字支出は必然的に銀行準備の増加をもたらす(銀行準備が減少したとしてもそれ以上の増加をもたらす)。他の事情が同じならば、財政赤字は銀行制度全体における準備の増加の超過を発生させる。この本で以前にも述べたように、その銀行準備の増加は翌日物金利の低下圧力を生み出す。

しかし、もし中央銀行が翌日物金利を高めようとしているならば、中央銀行は準備に対して金利を支払うだろう。または、債権の金利の支払いを行うだろう。それらの手段によって、赤字支出による超過準備の発生を原因とする翌日物金利の下落に対して、中央銀行はその金利の下限を設定できる。一般的に、政府支出が超過準備を生み出した時、中央銀行は債権(多くの場合、国債)を売却する。その債権は準備に対する金利の支払いより大きい利率を備えている。この「債権の売却」という手法は超過準備の解消を達成するために使うことができる。これは「公開市場操作(OMO)」として言及されるものだ。

国債の買い入れの対象となる銀行は、資産構成の形成における選択をしている。彼らは、中央銀行から要求される準備率と、決済業務を遂行する上での準備の必要性を考慮して、買い入れを受け入れる選択をしている。もし彼らが超過準備を抱えている場合、彼らは金利が得られる資産を購入することを望み、財務省から提供される高金利の債権に惹きつけられる。平時は、銀行は多くの超過準備を抱えようとはせず、公開市場操作における債権の買い取りが銀行に超過準備を抱えない状況を確保している。買取の決済を目的とするために、その操作における人々を惹きつける中央銀行の金利は、中央銀行が設定した翌日物金利の目標を達成することを確保している。

この活動は、財政赤字の額に合わせて新規国債を減らしたり増やしたりしようとする、財務省と歩調を合わせて行われる。なぜなら中央銀行が、財政赤字によって生み出された余剰準備を排出させるために債権を売却するからである。しかし重要な点は、そのような中央銀行の操作は赤字を「賄う」ために行われるわけではないという点である。むしろその操作は、中央銀行が自ら設定した目標金利を実現し続けるために行われている。一般的に、「流動性」の量(すなわち「準備の量」、現金に換金できる金融資産の量)は独立して自由裁量的に決定されることはない。なぜなら、目標金利と等しい金利が準備に対して中央銀行から支払われない限り、超過準備が目標金利(ゼロまでのあらゆる金利が設定される可能性がある)よりも低い金利を発生させようとするからである。すなわち平時では、中央銀行は、公開市場操作による債権の売却という手段を、超過準備を焼却するために使用する。

貸借対照表と具体的な数を使った例題

それでは、財務省が100ドルの支出をすることを例を利用して、簡単な分析をしてみよう。

中央銀行が民間銀行の保有する準備に支払う金利はゼロであると仮定する。ただし、銀行間取引金利の目標は正の数とする。財務省は中央銀行に口座を持っているとする。また財務省は支出を計画する際には、その支出を満たす口座残高を持っていなければならないとする。

簡略化をするため、また財務省と中央銀行が1つに統合されているという概念を反映するため、中央銀行は第一次市場で財務省が発行する負債を直接購入できると仮定する。

表20.1は、100ドルの政府支出が発生した後の、貸借対照表の変化を時系列的に表している。段階1では、財務省は自らの中央銀行の預金を中央銀行に国債を発行・売却することで増やしている。それゆえここでの仮定は、自発的に自らに規制をかけていない、本質的な近代的な貨幣制度であることに注目する必要がある(逆に、中央銀行の直接引き受けを仮定しなければ、近代的な貨幣制度の本質が見えづらくなる)。マルクス経済学派の専門用語で言えば、我々は「イデオロギーのベール」を取り払う必要がある。

財務省が純支出をした時、段階2では政府による財・サービスの購入と同額である、100ドル分の非政府部門全体の預金の増加が発生する(非政府部門同士の貸借を相殺して残る預金)。同時に民間銀行が中央銀行に保有する準備が同額(100ドル)増加する。それは民間銀行にとっては資産の増加であり、中央銀行にとっては負債の増加である。

非政府部門の預金の増加は、民間銀行の負債が増加したことを意味するが、同時に(財務省が保有する中央銀行預金が民間銀行の中央銀行の口座に移動するため)民間銀行の準備が増加している。それゆえ、中央銀行と民間銀行の純資産の額は変化していない。財務省の中央銀行預金の額は、国債発行前の水準(この例の最初、0ドル)に戻っている。

決済機能を担う、民間銀行が中央銀行に保有する準備は経済活動を通して100ドル増加した。おそらく銀行は100ドルの追加的な準備を嫌々保有しているだろう。

ここで要求準備率が(民間銀行にとっての負債である(非政府部門が保有する)「銀行預金」に対して)10%であるということを仮定しよう。これはこの状況では、銀行が10ドルの準備を保有しようと望むことを意味する。超過準備を保有するそれらの民間銀行は、その他の銀行に自らの超過準備である90ドルを貸し出そうとするだろう。制度全体の超過(すなわち「銀行全体の準備の超過」)が存在することを考慮すると、中央銀行の活動を除外した場合、民間銀行の準備の貸出という活動は銀行間取引金利を目標値よりも下落させる。

段階3のように、中央銀行は90ドルの額面価格の財務省の負債を民間銀行に売却しようとする。その行動は銀行間取引金利の目標値の範囲内に誘導するだろう。90ドルの超過準備を保有する民間銀行は、この財務省の負債を購入する意欲を持っているだろう。中央銀行によるこの活動は、銀行間取引金利の下方圧力を取り除くだろう。また、それゆえ中央銀行は、銀行間取引金利の目標を設定するという独自の金融政策を、一貫して達成することになるだろう。表の最後に表されている「ストック」という段階では、貸借対照表上のストックの最終的な変化を表している。

それゆえ、中央銀行と財務省の政策の調整は、財政赤字によって発生する結果に対応するために必要となる(上記の通り、財務省の赤字支出は超過準備を生み出し、中央銀行の操作が必要となる)。

一般的に「中央銀行が抱える準備」と「非政府部門(すなわち、銀行、非金融企業、家計)が保有する現金(紙幣・硬貨)」との合計を「マネタリーベース」と定義する。この例では、非政府部門の保有する紙幣・硬貨の量が不変であるのにも関わらず、マネタリーベースが10ドル増加する。

それゆえ、国内経済における財務省の純支出を伴う100ドルの垂直的な取引は、予想した通り、100ドルという同額の非政府部門の純資産を生み出す(ここで示すような「垂直」「水平」の取引の概念は第6章で説明したものだ)。

ここで、財務省が100ドルの純支出をした場合に発生する諸所の取引を、数字を使って分析してみよう。まず、下記の恒等式の左辺を見てみよう。Gは政府支出を表している。iは「名目金利率」を表し、Bは「非政府部門が保有する公的債務残高」を表すので、iBは「現在の財務省の負債に対する金利の支払い」を表している。Tは「税収」を表している。純支出が発生するときは支出が税収を上回ったとき、すなわち「G + iB > T」のときである。次は右辺を見てみよう。Mは「マネタリーベース残高」を表し、Bは上述と同じく「非政府部門が保有する公的債務の残高」を表す。そして、「∆」という記号は数値の変化を表す。よって「∆M」は「マネタリーベース残高の変化」を、「∆B」は「非政府部門が保有する公的債務の残高の変化」を表している。

(20.1) G + iB – T = ∆M + ∆B

財政赤字(左辺 > 0)は非政府部門の黒字を生み出す。すなわちそれは、非政府部門が保有する、マネタリーベース残高と財務省負債残高を増加という形を持って現れる。

次の章では、この恒等式が「政府の予算制約」としてどのように言及されるかということを示す。また、主流派経済学者が言うところの「事前の政府の予算制約」、つまり「赤字を賄う」という概念についても説明する。実際、この恒等式は、政府の自由裁量的な政策と経済状態の結果として発生する、「事後的な」統計を表している会計等式に過ぎない(つまり、主流派経済学者とは対立する概念である)。主流派経済学の教科書が示す教えとは反対に、自国通貨を発行する政府は財務上の予算制約に縛られていない。

財務省の負債に対する十分な需要は存在しているのか?

ほとんどの発展した経済では、政府自らが設定した規制と慣習の結果として、財務省が支出を賄う十分な中央銀行預金を保持していない場合、債権を売ってそれを調達しなければならない。重要な論点は、「民間銀行(加えて、その他の第一次市場に参加する資格を持った投資家)たちはその債権すべて買い取ることができるほどの、債権に対する需要を持っているのか」ということだ。

銀行が第一次市場のオークションで財務省から債権を購入したとき、銀行が中央銀行に保有する準備が減少する。もし債権を買う意欲がある銀行が超過準備を持っていなかった場合、銀行間取引市場で超過準備を抱えるほかの銀行から準備を借りてくるか、中央銀行から割引窓口を通して準備を借りてくる(このことについては第23章で詳しく述べる)。

我々はすでに次のことを知っている。もし銀行制度全体で準備が不足している場合、銀行が債権を購入するために準備の借入需要によって、翌日物金利に対して上昇圧力がかかるであろうということ。それに中央銀行が対応するであろうということ。中央銀行は、「割引窓口を通した準備の貸出」、「公開市場操作という国債の購入」、「非政府部門の債権の購入による準備の追加」をするであろうということ。

金利目標の存在があるので、中央銀行はいつも金利の調整業務に追われている。それゆえ、銀行は国債を購入したいと思う時には常に追加の準備を手に入れることができる。銀行は準備よりも債権を好む。なぜなら準備に付与される金利よりも、債権の金利の方が高いからだ。

ほとんどの国では、国内の債権(国債)を買う用意がある、特定の金融機関が存在する。例えばアメリカでは、アメリカ政府の負債のオークションにおいて入札する義務を負わされた21の取扱業者が存在する(アメリカでは彼らのことを「プライマリー・ディーラー」と呼ぶ)。同様にイギリスでは、財務省短期証券の第一次市場の参加者は、投資家に代わって債権を入札することを認可された金融機関のみである。これらの機関は第二次市場にも参加できる。特定の取扱業者は新規の国債を購入する準備が常にできている。そして国債を購入すれば第二次市場において売却する。また、その購入した国債は、銀行準備が不足している時に、金利に対する上方圧力を和らげる(原文では「relieve downward pressure」となっているが「upward」の間違いではないか。その可能性を考慮してここでは上方圧力と修正した)ための公開市場操作における債権の購入をする中央銀行に対して売却される。

第一次市場における国債の発行に対して、購入者の申し込みは定員以上になることが一般的である。この事実は明白である。言い換えれば、財務省の新規発行国債に対する需要を心配する必要はない。中央銀行の金利目標は、民間銀行が債権を買うために準備を手にいれることを確実にする。

20.5 税と主権国家の支出

政府が発行する貨幣を使用した課税は、その貨幣に対する需要を生み出すと言うことを我々は以前に説明した。また、主権国家の政府は支出をするために秋雨乳を必要としないと言うことも説明した。政府の予算における「収入」について言及するときでさえ、民間部門(家計や企業)におけるような「支出のための収入」と同じような概念で言及することは少し不適切である。しかし、次のことは明確である。政府が受け取る税収は、政府支出をやりくりするために本質的に必要であるというわけではない。

それはとても衝撃的である。なぜなら我々は、政府支出のために課税されていると言う考えることに慣れているからだ。このように考えることは、貨幣を発行できない州といった地方政府の財政に言及するときは適切である。また、外国通貨を自国通貨として採用する国や、外国通貨に対して固定相場制を採用する国の貨幣に言及するときも、おおむねこの考え方で正しい。

固定相場制を取っているとき、設定した相場で外国通貨や金と自国通貨を交換するために、それら外国通貨・金を保有していなければならない。貨幣が流通すると、金や外国通貨との交換の提供が誰に対しても難しくなるため、貨幣の流通の循環経路から徴税している。すなわち、固定相場制を採用する国の政府支出は、税収と同じ水準に制約される。

しかし自国通貨を外国通貨や金との固定相場で交換しない政府(変動相場制を採用する政府)の場合、我々は全く異なる税の捉え方をしなければならない。

さらに、論理を逆にして以下のように考えることもできる。納税者が貨幣によって納税が可能となる前に、政府は自らの発行する貨幣を使用した支出(あるいは貸出)を、経済の中で必ず行なっていると。

「支出が先で、課税が後」。これが適切な論理的順序である。

この論理的順序の提案を最初に聞く人の中の何人かは、ある論理的に考えた結果として疑問を抱くだろう。「では、税を完全になくしてしまえば良いのではないか?」と。しかし、それは不可能である。税が存在する理由は、「政府支出のため」に存在しているわけではないが、いくつかの理由が存在する。1つ目として、税は貨幣によって収められている。もし我々が税を廃止した場合、人々はおそらくただちに(納税に使用していた)貨幣を使わなくなると言うことはないだろうが、多くの人が使用することをやめるだろう。

2つ目として、(すでに広く受け入れられている貨幣で納税される)税は総需要を縮小する効果がある。

税は、政府が社会経済的な権限を活かすための支出ができる、「実物の資源の余地」を生み出す。税は非政府部門の購買力を奪うことができる。したがって、税は実物の資源を運営する能力を備えている。税の能力は、政府が自らの支出により実物の資源を運営できるように、実物の資源を焼却することである。

国のGDPの30%を政府支出が占め、税収がGDPの27%を占める事例を考えてみよう。それゆえ、政府支出の純粋な注入は3%である。もしここで税を廃止した場合(他の事情が同じならば)、支出の純粋な注入はGDPに対して30%になる。それによって大きく総需要は増加し、インフレを引き起こす。

したがって、税は実物の資源(労働力や設備)を解放する。それがなければ、非政府部門が自らの下心のために自由にそれらの実物の資源を利用する。全ての資源が活用された時にインフレが発生する。それゆえ税は政府に、インフレによる制約に直面することなく支出をすることを可能にする。

理想を言えば、反循環的な課税(景気が悪い時に課税を減らし、景気が良い時に課税を増やす)をするのが良い。その課税は政府が反循環的な経済(好景気も不景気もある経済)に実質的な貢献をすることを助け、総需要が安定することを助ける。この状況では、財政支出は自動安定化装置として働く。

これらの全てについて、1940年代に連邦準備銀行の理事長を務めたビアーズリー・ラムルによって勘案されている。彼は税の役割についての重要な論文を書いている(Taxes for Revenue are Obsolete and Tax Policies for Prosperity,Ruml,1946a 及び 1946B)。

まず、彼の「政府は税収を必要としない」という説得力のある主張を説明し、その後、彼の視点に立って税の役割について考えてみよう。彼は次のように強調した。「国家の財政政策の目的は何より貨幣と効率的な金融機構を維持することにある。しかし基礎的な本旨に沿って考えれば、高度に生産性な雇用と繁栄を獲得するための偉大な活動を可能にする」(1946b:82-3)。この視点は、この本の冒頭で提示したものと似ている。

またラルムは、アメリカは第二次世界大戦後の2つの変化によって上記の社会目標を達成するための能力を獲得したとも言っている。「最初の変化は、中央銀行の運営における膨大な新しい経験である。2つめの変化は、貨幣を金やその他の財と交換することを国家の目標として設定することをやめたことである」(1950:91)。この2つの状況は「当然の結果として、貨幣市場における金融上要求に対して、連邦政府は最後の砦となる」、「政府は自らの費用を賄うために税が足りないことを心配する必要はない」(Ruml,1946b:84)。この見解は自国通貨を発行する政府に適用できる。

ではなぜ政府は課税を必要とするのだろうか?ラルムは4つの理由を提示した(1946b:84)。

1.税はドルの購買力(アメリカの総需要)を調整する税制政策の手法として機能する。

2.税は、累進的な所得・資産税を採用した場合、富・所得の分配としての公共政策となる。

3.税は、ある特定の産業・集団に対して助成を与えたり、罰を与える公共政策となる。

4.高速道路や社会保障といった、直接的で明白な国家の利益があるとする。税は、その利益の費用(もちろん「金銭的な費用」ではない)を区分・評価することができる。

1はすでに先ほど述べたようなインフレに関連した話題である。2は、税を使用することによって人々の所得・富を変化させられることを言ったものだ。例えば、累進課税の場合、高所得者に高い税率がかかり、低所得者には低い税率がかかる。3は、税が望ましくないと思われる行動を抑制できることを言ったものだ。大気や水の汚染、タバコやアルコールの摂取に対して課税してそれを抑制することができる。また、関税によって輸入品購入の費用を上げ、国内品の購入を奨励することができる。4は、税が特定の社会計画の受益者に、その計画の費用を分配できることをいったものだ。例えば、高速道路を使う人にその使用料金を支払わせるために、ガソリンに税がかけられるのが普通である(高速道路の料金は、それと同じ機能を果たす、ある1つの方法である)。

多くの人々が政府の支出のために税が必要だと考えている一方で、彼は著作の主な主張の中でその考えに猛烈に反対していたということに注目すべきだ。収入として税は時代遅れであると思っていた。政府は高速道路を作る費用を賄うために税を必要としない。その税(ガソリン税・道路料金)は、道路を使う人々に「その道路の建設を自分たちが支援している」と思わせるために考案されたものだ。

政府はタバコ税からの収入を必要としているのではない。むしろ、その税は人々の健康を改善する。税は人々の行動を抑制するために、タバコを買う費用を税によってあげることができる。

これらの税の要点は、収入を生み出すということではない。政府は常に医療に関する設備建設や政策を実行するための貨幣を賄うことができる。税は、タバコを吸う人を健康にするために、実物の資源の無駄を減らす。タバコ税の根本概念は、喫煙を減らす手段として機能することである。政府の収入を最大化することではない。ラルムは次のように言った(1946b:84)。「提案される公共目的は、収入を上げることを目的とする税の仮面によって覆い隠されたことは一度もない」。

ラルムは1946年の2つの著作を次のように締めくくった。我々が税が何のために存在しているかを一度理解してしまえば、我々は全体的な税収の適切な水準を明らかにできる、と。彼は以下のように結論づけた(1946b:85)。

我々の課税政策の裏にある、簡単な発想は以下のようになるべきである。税は貨幣の安定を保つために、高さを調整されるべきである。現在、税は、我々が満足できる雇用状況を達成するためにはどのような連邦予算の構成が良いだろうか、という原理の元に運営されている。

この原理はこの本で採用されているものの1つである。しかし、1つ注意が必要である。ラルムは海外部門を無視できる状況にいた(海外部門を無視する考え方は、第二次世界大戦後直後の状況では不合理な考え方ではなかった)。今日の世界では、あるいくつかの国で大きな当座預金の黒字が発生しており、その他のいくつかの国では一方で大きな当座預金の赤字が発生している。我々はラウムの原理を修正して現在に適用しなければならない。

その原理は次のように言い換えられるだろう。完全雇用を達成・継続する政府支出ができるように、税率は設定されるべきである。

オーストラリア、アメリカ、イギリスといった慣例的に完全雇用を達成するために財政赤字を増やそうとする国の政府は、普通それを継続しようとする(ちなみに何度も言うようだが、財政赤字は同額の民間部門の黒字を生み出す)。

日本のような国は、少ない財政赤字で完全雇用を達成しようとしている(これはすなわち、民間部門の黒字を少なくしている)。ノルウェーのような財政黒字を生み出しながら完全雇用を達成している国は、インフレを抑制している。

20.6 貨幣の主権と政策の独立

アメリカ、イギリス、オーストラリア、トルコ、アルゼンチンといったカレンシー・ボード制を放棄した国(自国通貨に見合った外国通貨を保有する制度)は国内で使用する貨幣を創造している。政府は他の国に邪魔されることなく、財務省と中央銀行を利用して、貨幣を発行・支出・(マネタリーベースの)貸出を行っている。政府は貨幣としての機能を持った、硬貨・紙幣・銀行準備を発行している。

これらの国は、その貨幣と外国通貨や金を固定相場で交換することに約束していない。変動相場制は、ある国家が独立した財政・金融政策を行う上で重要な要素である。この政策の独立性は、他の領域での国家の独立性と区別する意味で、我々は「貨幣の独立性」と呼んでいる。

対照的に、以前にも見たような固定相場制を採用する国では、自国通貨に対して十分な外国通貨を保有しなければならない。よって、国内の最も最優先すべき政策はその外貨準備を蓄積することになってしまう。その国は貨幣の独立性を、海外とのバランスにおける国内政策の独立性を失うことになる。このことは、固定相場制は政策の独立性を構成する不可欠な要素であるということを表している。

しかし、その独立性を保つために必要な要素で、変動相場制以外のものはない。主権国家の政府は財務省の小切手発行、あるいは電子的な振込をして支出(財・サービス・資産の購入、給付金の支払い)を行う。しかしながら、どちらの方法であっても、中央銀行が民間銀行に政府の中央銀行預金を振り替えた時に、(発行された貨幣によって)預金が創造されている。

同じように、政府が納税をされた時、納税者の銀行預金が減少し、納税者が口座を保有する民間銀行の準備(中央銀行当座預金)が同額減少する。

もし政府が民間銀行経由で支出・徴税をした場合、政府は税収を支出する必要はない。変動相場制と自国通貨とともにあるならば、政府の支払い能力は収入に厳しく制約されることはない。なぜなら、その政府は負債の発行によって支出できるからだ。

政府による自ら負債の売却は、借入という行動として捉えるべきではないということに注意してほしい。しばしばそのように説明されても、その説明にながされてはいけない。前の節で説明したように、国債の売却という政策(財務省の新規国債の発行・売却、あるいは中央銀行が保有する国債の売却)の影響は、政府の赤字支出に伴って発生した(だいたい赤字支出に端を発する)、超過準備を排出させるために行われる。もし国債の売却が準備の排出のために政策として採用されないならば、翌日物金利はゼロへと下落していくだろう(国債の売却をせずにこの金利をゼロにしないためには、中央銀行が準備に対して金利を払うしかない)。

財務省と中央銀行は一致協力して翌日物金利が目標水準(金融政策の決定の1つ)で維持されるように行動している。彼らは国債を売却したり買い取ったりすることで、準備を減らしたり増やしたりしている。彼らは金融制度の信頼性を確保するために、「金融資産の流動性の確保(準備によって金融資産の換金性を高める)」、「マネーサプライの維持」、「準備に対する需要への対応」を行わなければならない。そして、これら全てを実現するために、目標金利を外れない程度に、準備を操作している。

家計などの非政府部門が借入をした時、彼らは負債を発行し、同時に支出のための銀行の負債を手に入れる。一方、政府は自国通貨建てで支出をする際には、銀行預金をその支出の前に獲得しておく必要はない。政府は貨幣を直接発行するか、支出先の銀行に預金を振り込むように要請すれば良い。政府は支出を賄うために国債を発行しているのではない。そうではなく、非政府部門の過剰な貨幣を吸収するために行っている。政府は、民間銀行が保有している金利が低い(あるいは「ゼロ金利」の)金融資産よりも高い金利がついた国債を売却する。それによって、国債はその金利の低い金融資産(準備など)と交換される。

これは実際に行われている金利政策である。これによって、(金利が手に入らない資産である)超過準備を消去する。これを行わない場合、翌日物金利は下落していく。それゆえ、国債の売却というものは本当は金融政策なのである。決して、財政政策(政府支出など)の必要性にかられて行われているものではない。

さらに、主権国家の政府の政策を考慮する上で、最後の重要な点がある。それは、政府の債権に対する金利の支払いは、通常の市場原理の支配下には存在しないということである。政府はいつでも超過準備を放置する政策を、自らの意思で選択することができる。もしその選択を取った場合、翌日物金利はゼロに向かって下落していく(あるいは、準備に対して付与される「支援金利」というものを支払って下落を防ぐ)。

翌日物金利がゼロの時には、財務省はいつも小数点以下の金利がついた短期国債を売却する。そして、それは購買意欲のある買い手を見つけるだろう。なぜなら、翌日物金利がゼロなのだから、少ない金利でも魅力的な代替物になる。

このことは、変動相場制を採用する政府は自分の望む金利で国債を発行できるということを我々に教えてくれる。通常、政府が設定した目標金利よりも高い金利での国債が発行される。

その上、第二次市場において、中央銀行が制限量を設けずに国債を購入することを申し出ることによって、中央銀行は発行された国債の利回りを好きなように設定することができる。このことについては第23章で再び扱う。

翌日物金利をゼロ以上(それは国債の金利もゼロ以上であるという意味)に保つべきだという、経済・政治的な理由が存在するかもしれない。しかし、「政府の財政赤字は、その政府の国債に対して支払われる金利に影響を与える」という主張は間違いである。

ときどき国債の金利は利回り曲線で描かれる。その曲線が緩やかな領域には長期国債が位置していて、曲線の傾斜が鋭い領域には短期国債が位置している。

満期が拡大していけば国債の利回りが需要と供給の市場原理に影響されることは真実である。しかし、財務省が「国債の売却の目的は超過準備の排出である」と理解した場合、中央銀行は目標金利が達成することができ、財務省はこれ以上長期債権を発行しようとは思わないだろう。実際、準備に対する金利は、財務省の負債の発行に代わる、適切な代替物である。準備に対する金利を支払うことにより、翌日物金利はその金利よりも低下することができなくなる。



21.1 はじめに

第20章において、財政政策がどのように行われているかの詳細を説明した。また、中央銀行が民間銀行を相手に国債を売却したり買い取ったりすることによって、金利と流動性を調節しているということも説明した。
この章では、主権国家における財政政策を深く説明しようと思う。ここでは、健全財政論を採用する主流派経済学の考え方での財政運営と、アバ・ラーナーの機能的財政論を基礎にしているMMTの財政運営を比較してみたいと思う。主流派経済学の「政府支出は制約がある」という考え方が、そもそも家計の予算運営の方法を政府の予算運営にも適用してしまっている不適切な考え方から生まれていることも説明する。我々の分析手法は、支出・課税(財政政策)によって社会的な問題の解決や完全雇用・物価安定を達成しようとする政府にとって、有益な政策を提供する。
その時、我々は財政政策の中心的な役割に関する、重要な議論に目を向ける。
・クラウディング・アウト
我々は手短に「拡大する財政政策は、金利の上昇によって、民間部門の支出を押し出す」という主張を検証する。
・インフレ
主流派経済学は、「完全雇用はインフレを引き起こし、悪くなればハイーバインフレになる」と常に心配している。MMTの考え方はそれとは違う観点を提供する。そして第19章で説明したように、就労保障プログラムによって、完全雇用はインフレを招くことなく達成可能である。主流派経済学者は自らのハイパーインフレを招くという主張を根拠づける例として、「1920年代のワイマール共和国」と「1990年代末から2000年代初頭のジンバブエ」を良く使用する。我々はそれらの国が適切な管理を行っていなかったこと、政府はインフレを招かないような支出の比率を保つことができるということを認める。しかし、我々は、この上記2つの例においてそのハイパーインフレが財政政策の拡大によって発生したのではなく、むしろ総供給の不足によってもたらされたものであるということを説明する。

21.2 機能的財政論 vs 健全財政

財政制約と、それに関するハト派、タカ派、どっちでもないフクロウ派

世界金融危機の際に、多くの先進国は自動安定化装置によってGDPに対して高い割合の財政赤字を伴った支出を行い、崩壊した非政府部門の支出を補った。自由裁量の財政刺激策は財政赤字も増加させた。
これらの財政赤字は結果に対GDPの政府債務残高の比率を上昇させた。2009年以来、OECDおよびIMFを含め、国債的な期間は各国に緊縮財政を採用して健全な財政を復活させるように主張した。政府の支出と収入は均衡しているべきであるという誤った信念にも続き、彼らは財政赤字を減らすために支出を削り、増税をすることを主張したのである。
これは一般的な主流派経済学者の財政政策における見解に相当する。この見解は、新古典派経済学の理論の、政府の予算を家計と同じようにみなす視点に立った、政府の財政制約を想定した見解である。世間様が言う「政府の純支出における制約」と呼ばれるこの説明は、政府の支出は3つの方法で賄われているという前提に立っている。その3つの方法とは、下の恒等式の右辺で表されている3つである。
(21.1) G + iB = T + ∆B + ∆Mh
Gは政府支出を、iBはすでに存在している公的負債に対する金利の支払い、Tは税収、∆Bは新規国債の発行によって手に入れた借入、∆Mhは新しいマネタリーベースの創造を表している。この恒等式と式の中の変数は、第20章で紹介した「閉鎖経済における、政府部門のバランスに対する国内民間部門の獲得と損失」と関係している。
主流派経済学の政府の財政制約の解釈に従うならば、もし政府が財政赤字を発生させた場合、同時に政府は借入をするか(∆Bの発生)マネタリーベースを創造(∆Mhの発生)しなければならない。それゆえ、政府の財政制約は、政府が支出をする前に存在していると、主流派経済学者は言う。言い換えれば、「財政政策の支出額は事前に蹴っている」、「(21.1)の等式に従って、支出額は賄われる」と彼らは言っているのである。
均衡財政を法律に定めるべきだと主張する政治家や過激派の論客はと既読存在するが、経済学者でさえ何人かは、財政は常に均衡するべきだと主張している。
我々は財政に関する戦略的な視点を3つに分類することができる。
(a)赤字タカ派
(b)赤字ハト派
(c)赤字フクロウ派
この3つである。ちなみに、(c)はアメリカ、ミズーリ大学カンザスシティ校のステファニー・ケルトン氏によって考案されたものである。
赤字タカ派は、政府の支出が収入と等しくなること、あるいは財政が黒字になることを良しとする。彼らは、たとえ1年間の会計年度でそれを達成することが難しいとしても、同じことを主張し続ける。すなわち均衡財政からの逸脱は発生するだろうが、政府はその不均衡に常に対応しなければならないとする。それゆえ、もしある年度において財政赤字が発生した場合、政府は次の年において財政赤字を達成するために政府支出を削減するか増税しなければならないと結論づける。
赤字ハト派は、政府は単年度ではなく、長期的な経済の循環を通して均衡財政を目指すべきであると主張する。均衡財政を達成すべきとしている点ではタカ派と変わりはないが、不況時には赤字支出をし、好況時には財政が黒字になることを良しとしている。すなわち、非政府部門の支出の増減を補完するように、 政府は財政の範囲を伸縮させるべきであると考えている。例えば、赤字ハト派は世界金融危機の時に、西側諸国の経済の停滞を目の当たりにし、景気刺激策として財政赤字を増やすべきであると主張した。彼らの視点に立てば、均衡財政を達成すべき時は経済が再び強靭になった時であり、その時になって初めて税収を増やすことが良い政策となる。
赤字フクロウ派は機能的財政論を基礎にして、他とは全く違う立場を取っている。今までの2つの視点は、主権国家の政府の財政政策の結果は、政策蹴ってに対して有用でなかった。政策立案の方法を提供しなかったと言う点で、それらは機能的ではなかった。むしろ、フクロウ派は、政府の政策は、「完全雇用」「物価の安定」「貧困の撲滅」「所得格差の是正」「金融の安定」「持続的な自然環境の維持」「総合的な生活水準の向上」といったような、重要な経済の目標を持って行われるべきであるとする。
なぜ赤字フクロウ派のみが、MMTと意見が一致する視点なのか?
前章で見たように、今日において政府は、電子的な振込を通して、貨幣を発行して支出をしている。税はその発行した貨幣を減少させる。論理的に考えて、ある口座の金額が減少するためには、その口座に事前に振込がされていなければならない。よって、政府支出は徴税に先行していなければならない。
MMTは政府の財政を、事後的な恒等式で捉える。年の終わりにおいて、政府の支出額が、(21.1)の式の通り、税収・借入・マネタリーベースの発行額、この3つの合計と等しくなることは確かであろう。この意味で、この方程式は必ず成り立つ簡単な会計上の恒等式となる。しかし、それ以上の価値はない。
同様に重要なことには、MMTは税収(T)・新しいマネタリーベース(∆Mh)・新規国債発行による借入(∆B)を、政府支出を賄う方法とは考えていない。代わりに、MMTはそれらを財政の運営の過程とは異なるものとして捉える。それは第20章において説明し、数式で表したものだ。
政府支出は中央銀行における民間準備の上昇をもたらす。徴税はその減少をもたらす。その時、もし政府が徴税よりも多くを支出するならば、中央銀行における民間準備は純粋に上昇する(∆Mh > 0)。
普通、民間準備は、民間銀行が持っていないと思う量や法的な要求準備量よりも多くが存在してしまう。中央銀行に超過準備を抱える銀行は、銀行間翌日物取引市場においてそれを貸し出そうとする。しかし、銀行制度全体で超過準備が発生していた場合、それを借り入れたいと思う銀行は出てこないだろう。個々の銀行には、自らの超過準備を処理する能力はあっても、銀行制度全体における超過準備を処理する能力はない。制度全体の問題を解決する手法が別途に必要となる。
我々はこれまでの章で、超過準備が発生した場合、中央銀行による支援金利の支払いが行われない限り、翌日物銀行間金利は下落していくと説明した。一度目標金利よりも下落した場合、銀行はすぐさま国債を売却(公開市場操作)してそれに対応するだろう。しかし平常時は、中央銀行が売却できる国債の数は限界がある。中央銀行が売却できる国債の量は、当然以前に購入した国債の量に限られる。
なので、財政赤字が発生し、続けて超過準備が発生した場合、中央銀行は財務省に対して第一次市場で新規国債を発行することを望む。中央銀行と財務省は、政府の財政政策が銀行準備制度に対し望ましくない影響が出ないように、お互いに協力している。したがって、国債の売却・発行は、(通常時に)政府の赤字支出が発生したことによる超過準備を排出するために行われるだろう。
年の終わりにおいて、我々は、政府が税収よりも少なく支出した額(税収 - 政府支出)がマネタリーベースの変化と同じであることを観察できるだろう。そのマネタリーベースの変化とは、「民間銀行の準備」と「民間部門の現金」と「非政府部門が保有する国債」の変化の合計である。
以前に説明したように、平時においては、望まれる(あるいは「必要とされる」)銀行準備の拡大は非常に少ない量である。非政府部門が保有する現金の拡大も同様にかなり小さく、その拡大は国の成長の大小と密接に関係している。それゆえ、財政赤字は、国債の追加的な売却と普通はおおよそ等しい。
一方で、政府が支出をして民間の準備を増やした後、それによって発生した超過準備を放置する場合(すなわち、「国債を売却しない場合」)を想像してみよう。この状況は、例えば、政府がゼロ金利政策を採用している場合に起こりうるであろう。この状況では超過準備によって翌日物銀行間取引金利はゼロに下落していくが、政府は何もしない。その時我々は、「G + iB - T = ∆Mh」である状況を見るだろう。しかしこの状況は先ほどのより一般的な状況(G - T が ∆Bと大体等しい状況。政府が支出を賄う為の行動をしていない状況)とは異なる。
両方の事例において、政府支出は銀行の口座を増加させた。異なる点は、政府が超過準備を排出したかどうかということだ。この違いは、政府がゼロ以上の翌日物金利を目標としているのか、それともゼロ金利政策を採用しているのかという違いから生まれている。
ほとんどの経済学者はこの選択を金融政策と捉えていて、財政政策とは捉えていない。世界金融危機後において、日本、アメリカ、イギリスといった先進国の銀行準備の水準は著しく上昇してきた。これはそれらの国々の銀行の間でリスクに対する嫌悪が高まったことが反映されている。また、それらの国の中央銀行が、量的金融緩和によって、低い翌日物金利と利回り曲線を水平(長期金利の利回りが低下している)に保とうとしたことも反映している(これについては第23章で詳述する)。
我々は政府の財政制約は存在しない、政府は支出を賄うための方法を実行しているわけではないと結論づける。政府の支出に対して事前の恒等式が存在するのではなく、むしろ、家計・企業・金融機関・中央銀行・海外投資家の選択から構成される、事前の恒等式が存在するのである。
・家計、企業、海外投資家はどれくらいの現金が欲しいかを決定する。銀行はどれくらいの準備を備えていたいかを決定する(アメリカのように、中央銀行による要求準備が定められている場合は、それも考慮する)。
・中央銀行は翌日物金利をゼロにすべきか、それともゼロ以上にすべきかを決定する。
これらの選択は、∆Bか∆Mhのどちらかの変数に影響を与える。
それは政府による「借入をするか貨幣を印刷するか」という事前の選択ではない。実際、財務省は、来期においてやっと発生する税収が決定するので、支出をする前に財政を均衡させるのか赤字にさせるのか黒字にさせるのかということを決定するのは不可能である。また、予期しない出来事によって支出が必要になる場合もあるし、自動安定化装置の影響によって税収・支出は細かく変動するため、より事前の決定は不可能となる。
それゆえ(21.1)の等式は政府の目的達成のために役に立たない。等式の右辺には予想できない不確実な要素が変数として組み込まれてしまっている。

機能的財政

1940年代、アメリカの経済学者のアバ・ラーナーは現在でも有名な2つの著作を残した。1つは「貨幣は国家の創造物である(money is a creature of the state)」と宣言した物である(Lerner,1947:313)。当然、それはこの教科書で大まかに示されているMMTの立場と一致する。国家は計算単位としての家計を定め、それで負債を計算させ、さらに貨幣もその単位で発行し、納税はその単位で発行された貨幣で受け取る。これらのことはすでにラーナーは理解していた。
彼の著作において、彼は新しい財政理論として機能的財政を提唱した。彼は、新しい理論のようなものは非常に単純に見え、人々にその理論に対する疑念を抱かせてしまうと言っていた。彼はこう記した。「支出と徴税、借入とそれの返済、貨幣の創造とそれの中止。これらすべての政府の財政政策は、それらの政策によって発生した結果のみによって評価・考案されなければいけない。財政を「健全・不健全」で評価する、あらゆる既存の伝統的な教義を捨て去らなければいけない」(1943:39)。
彼は機能的財政の概要を以下の2つのようにまとめた。
1.「第一の政府の財政に関する責任は(政府以外にこの責任を負うことはできない)、財・サービスに対する支出の割合を維持することである。その割合を変化させ、物価を変動させてはならない」(Lerner, 1943:39)。支出が大きくなりすぎた時は、政府は支出を削減するか増税をする。支出が小さくなりすぎた時は、政府は支出を増やすか減税をする。
2.「興味深い結論は、税を単純に考えてはいけないということである。なぜなら、政府は支出することを望む。それゆえ、納税者が支出を減らすことが望ましい状況で、課税はされるべきである」(Lerner, 1943:40)。
もし政府が「支出をするために」税を使用しないのであれば、その支出のための貨幣はどうのように調達するのか?ラーナーによれば、政府はそれを達成するために借入をする必要はないという。なぜなら「政府が借入すべき時は、政府が貨幣を少なく持つべきであり、政府が多くの負債を抱えるべき時である。これが、第二の機能的財政の原理である」(Lerner, 1943:40)。
言い換えれば、税と借入の目的は支出を賄うことではなく、異なる目的を持っている(債権が貨幣に代わって金利所得を提供し、税が民間所得の余剰を削除する)。代わりに、政府は、機能的財政論の第一原理と第二原理が徴税や国債の発行を命令していない時はいつでも、「新しい貨幣を印刷することによって」支出をすることができる。
すなわち上記で議論したように、マネタリーベース(多くの場合「準備」)を放置するかどうかという、我々が金融政策(金利政策)と呼ぶものによって税と国債の扱いが変わっていくるのである。このことをラーナーは以下のようにまとめる(1943:41)。
機能的財政は「健全財政」、すなわち太陽暦における1年や任意の年度における予算を均衡させようとする伝統的な教義を完全に拒否する。機能的財政は以下のように財政を運営する。
1つ目として、経済全体の総支出(政府を含む全ての経済主体の支出)は失業やインフレをなくすために調整される。政府の支出はその総支出が少なすぎる時に行われ、徴税はその総支出が多すぎる時に行われる。
2つ目として、政府の借入あるいは返済による、政府の貨幣と国債の保有の調整は、最も望ましい投資の水準を導く金利を実現するために行われる。
3つ目として、貨幣の印刷・蓄積・破壊は、1つ目の運営方法において提示した、2つの問題(失業・インフレ)に対処するために実行される。
彼は機能的財政論を「貨幣を経済における重要な要素として使用している、全ての社会に適用可能である」と結論づけた(Lerner,1943:50)。
この本の読者には、我々はこの機能的財政論の適用範囲を「(貨幣における)主権国家」のみに狭めることを望む。もちろん、これはラーナーの1947年の偉大な著作の視点と移管した考えであり、それを発展させたものだ。その著作において、以下のように強く主張した。「金本位制を採用していたかつての時代においてさえ、通常の活動的な経済においては、貨幣は国家の創造物であった。貨幣の一般的な受容性(人々に受け入れられる特性)は、貨幣の持つ最も重要な特性である。受容性は国家によって確立されたり破壊されたりした」(1947:313)。
ただ、国家はどのようにその受容性を示したのであろうか?ラーナーは以下のように答える。
近代的な国家はあらゆるものを貨幣として一般的に受け入れさせる能力を持っている。(省略)国家は、最も説得力のある絶対的な主権を背景にしながらも、「こういうものが貨幣である」という簡単な宣言は出さないであろう、ということは確かである。しかし、「納税」やその他の人々の「政府に対する支払い」に貨幣を使うことを政府が認めた場合、手品が始まる。国家に対する(納税などの)支払い義務を負っている人々は、政府の支払いに使えるその紙切れを受け取るようになる。そして、そのような人々とは違い、その国家に対して支払い義務を負わない人々も、その貨幣を受け取るようになる。なぜなら、主に納税者などがその紙切れを受け取ることを知っているからである(Lerner,1947:313)。
これはMMTの説明、「徴税が貨幣を運営している」という説明と同じである。もし常にこのような状況でないとしても、国家が計算貨幣で納税義務の金額を示す時、国家はその計算貨幣と同じものを国内貨幣として採用するということは、現在において明白な事実である。国家が税務署において受け取るものを決定した時、その税務署において受け取られるものが我々が受容する貨幣となる。貨幣が広く受容される理由は、「国家の独立」「法律による決定」「金の裏付け」のうち、いずれでもない。本当の理由は、国家の持つ徴税権力である。その権力が、貨幣に「税の支払いに必要である」という特性を生み出す。
全ての近代的な国家が以上のような状況であるということは、疑いようがない。ラーナーはこう言った。「タバコや外国通貨が国内で広く使われているような国家は、混沌とした無法地帯だ」(Lerner,1947:313)。
以下のように付け加えることもできるかもしれない。国家が危機に陥り、国家としての正当性や徴税権力を失った時、外国通貨などが国内の民間取引に使用されるなどして「無法地帯の通貨」になる、と。他のあらゆる事例では、国家の通貨は流通しており、それは同じく納税にも使用できる。

21.3 財政政策に関する論争:クラウディング・アウトとインフレ

クラウディング・アウト?

多くの有識者は、政府が財務省の負債を発行した場合、それが民間の借入や支出を押し出してしまうと、誤って理解している。この考え方には、「政府の借入のために必要な、民間の貯蓄の供給には制限ある」「民間部門は政府と競うようにして借入を行う」という前提がある。彼らは、もし政府が追加的な国債の発行・売却を行う場合、その時におこる借入の競争が金利を引き上げるとしている。そして、何人かの民間企業は高い金利で借入をすることを避けるため、結果的に借入が減り、その資金を使った投資が減るとしている。また、借入によって消費をしている家計もいるだろうから、家計による頑丈な消費支出も衰えるとしている。

しかし、このモデルは間違っている。これまでに学んできたように、政府の財政赤字は非政府部門の(フローとしての)黒字を生み出す。それはすなわち、非政府部門の(ストックとしての)金融資産を蓄積する。貯蓄の拡大・金融資産の増大が発生しているので、「政府の債権の発行額は民間貯蓄の量によって制限されている」、「政府は民間部門と限られた貯蓄の供給を巡って借入競争をしている」前提は正しくない。民間の貯蓄・政府債権の保有額は、財政赤字とともに増加していくということが真実である。

それに加えて、第10章で学んだように、銀行の貸出は、その銀行が保有する準備に制約されていない。貸出が預金を創造するのである。あらゆる返済能力が高い借り手は、いつでも資金を借り入れて投資支出ができるのであり、それは決して政府の財政政策によって邪魔はされない。借り入れの競争をすることはない。

一般的に経済が低成長の時は投資支出は少なくなる。つまり、財政支出には景気後退を押しとどめ、減退した投資を補完する効果があるので、民間の投資は財政赤字の縮小によって「押し込まれる(「押し出される」ではなく)」傾向にある。むしろ、財政赤字の縮小は、民間の投資を解放するどころが、押し殺してしまう。

さらに、もうご存知のように、中央銀行は翌日物金利を設定する。それは政府の財政赤字が拡大すれば下落する。例えば、日本では1990年代初頭に経済が停滞に陥って以来、翌日物金利がゼロに非常に近い値で止まっている(そして、長期満期国債の利回りも非常に低い)。これは先進国における財政赤字がどのような結果をもたらすかの例だ(日本の財政赤字、政府負債、金利についての議論は第2章で説明した通りである)。同様に、世界金融危機後のアメリカでは、財政赤字のGDPに対する比率が10%ほどに達しているのにも関わらず、連邦準備銀行は政策金利を低い位置に保っている。なんと、アメリカでは第二次世界大戦時に財政赤字が対GDP比25%になった時も金利をゼロ付近で保っていたのだ。

これらすべてが意味することは、財政赤字が金利を上昇させると考える理由は、どこにも存在しないということだ。なぜなら金利は政策的に決定されるからだ(少なくとも短期の金利は政策的に決定できる)。

これらの理由によって、財政赤字に反対する「クラウディング・アウト理論」は、現実の政策に関する首尾一貫した理解や実証されたデータの上に成り立っていないということがわかる。政府の債権は固定された貯蓄の供給を求めて、民間の借り手と競争するという考え方は、捨て去らなければならない。政府の財政赤字が発生した時には、国債に対する需要は弾力性がある(変化の幅ある)、と仮定する方が真実に近い。

実際、金融市場においてさらなる預金が想像されるための担保として、新規債権が発行されるであろうときだったとしも、プライマリーディーラーは、先物取引市場のオークションで自らの債権の購入を賄っている。クラウディング・アウトとは違い、国債の発行は、それが発行されない場合と比べ、さらなる民間の債権の想像を可能にする。

自発的な制約

第20章において、我々は財務省が自らの支出を十分に満たす中央銀行の口座の残高を手に入れる状況を説明するために、「財務省が中央銀行に第一次市場において直接債権を売る」という、単純化した仮定を提示した。そこでは、我々は「イデオロギーのベール」を取りさらった。それによって、自発的に自らに制約をかけず、財政政策の目的に対して全力で取り組むことができる、財務省と中央銀行を統合した政府の能力を明らかにすることができた。

一方で、財政政策の手法の評価は、実際にイギリス、アメリカ、オーストラリアといった国で行われている。それらの国では、特定の制度的な実験による注意深い検証が行われている。その中の中心的な話題は、「完全雇用という問題を達成するために、自発的な制約が財務省と中央銀行に課されているか」ということである。

英・米・豪の3カ国では、中央銀行は第一次市場において公的負債を購入する中心的な役割を担っていない。言い換えれば、平時には中央銀行は財務省から直接国債を買い取ることができない。しかし、第二次市場においてなら、銀行その他の保有者から国債を買い取ることができる。

負債の運営は、非政府部門に対する定期的なオークションによって行われている。そこでは短期や長期など複数の債権が発行・売却されている。全体を通して、そこで発行される負債は、「G - T + iB」で表される、計画された財政赤字(「借り入れの必要性」ではない)に等しくなるように国債が発行される。

存在する自発的な手順のみによって「借り入れ」は必要である。しかし、ここでは、一般的な文献では「借り入れの必要性」という言葉が当てはまるところで、我々が「財政赤字」という言葉を使ったことに注目して欲しい。「政府は納税やその他の支払いを人々から受ける前に、自らが発行する貨幣を使用した支出や貸出をしておかなければならない」ということを覚えているだろうか。自国通貨である場合は、政府は借入を必要とせず、常に銀行の口座に振り込むことに支出することができる。さらに、上記で議論したように、我々は、ある会計年度において、政府が赤字支出をするかどうかということさえも知ることができない。しかし、多くの国における現行の手順では、政府は支出の前に借入をしなければいけない(もちろん、自発的な制約がなければ、そんなことをする必要はない)。

短期と長期の債権が事前に決定するため、また、市場がそれら債権の金利を決定するために、負債の売却は一般的にオークションの制度のもとで行われる。

重要な問題は、この市場の開放が支払われる金利の上昇を招いているのかどうかということである。また、あるいは極端な状況では、市場の開放が、政府債務を購入することを市場が完全に拒否していることが、自発的な制約のもとで、政府の利用可能な資金の不足を招いているか、ということが問題となる。

政府債権はリスクの小さい資産であるため、民間の資産を構成する要素として重宝されている。非政府部門は、資産構成の比較対象をする際、政府債権をリスクがない資産として見ている。その結果、公的負債の発行に対して一般的に購入の申し込みは定員以上となる。なので、複数の満期の債権であってもどれも低い金利である。しかし、少なくとも銀行間取引金利よりは高い。

中央銀行は、(翌日物)銀行間取引金利の目標を設定するだけでなく、長期の利回りも操作する能力を持っている。彼らは第二次市場において政府の債権を無制限に買い取ることができるので、利回り曲線をあげることもできるし、下げることもできる。この影響は次々に第一次市場におけるオークションにも影響を与えるようになる。

表21.1は、多くの国々に普遍的に当てはまるであろう、国債が民間銀行に買われた時の取引を細分化し、各段階での取引参加者の貸借対照表を表したものである。民間銀行が財務省から国債を買った時、中央銀行は民間銀行の準備を政府が保有する中央銀行の口座に振り替える作業をする。アメリカのようないくつかの国では、財務省は民間銀行に口座を持っており、そのような時は支出に先立ってその口座から中央銀行の口座に振り込まれる。以下において、我々は特定のやり取りを抽出していく。

我々は、中央銀行も民間銀行も現在、資産も負債も一切持っていないという、(非現実的な)仮定から説明を始める。この仮定は、以下の取引の過程をできるだけ簡単に理解できるようにするためだけに行われている。それゆえ、分析の真実を変えることはできない。また我々は、多くの国で広く普及しているような、「政府が支出をする前には、必ず民間銀行に対して国債を発行しなければならない」という自発的な制度的取り決めが存在していることも仮定に含める。

ではさっそく見ていこう。まず最初に財務省は100ドル分の国債を第一次市場のオークションにおいて民間銀行に発行する(表21.1の段階1)。この時、中央銀行は民間銀行の準備を、財務省が中央銀行に保有する口座に振り替える。中央銀行にとってこの作業は、財務省に対する「負債」(財務省にとっては当座預金)が100ドル増え、民間銀行に対する負債(民間銀行にとっては準備)が100ドルが減ったことになる。また、この時民間銀行は100ドルの国債を手に入れ、同額の準備を失う。この段階では、銀行は準備の不足に苦しむことになる。

民間銀行はどこから準備を手に入れるのか?中央銀行からである。準備の不足は、中央銀行が民間銀行が保有する100ドルの国債を買うことによって補うことができる(段階2)。銀行は100ドルの国債を手放すことになるが、失った100ドルの準備が獲得できたため、資産はプラスマイナス・ゼロである。この段階では財務省はまだ支出をしておらず、中央銀行に保有する預金を維持している。

段階3では、財務省は100ドルの支出をしている。この時、中央銀行は財務省が中央銀行に保有する口座を100ドル分減少させ、民間銀行の準備を同額同化させている。民間銀行は、自らの準備が増加したことを確認した後、政府が財・サービスを購入した先である非政府かつ非金融部門が自行に保有する口座を、準備の増加分と同額の100ドル分を同化させる。この時、我々は政府が徴税をせず、赤字支出で支出をしていると仮定していることに注意してほしい。

赤字支出の結果によって、民間銀行は、銀行間取引において他の銀行から借りることをせずとも、100ドルの超過準備を獲得することができた。さらに、段階4では中央銀行は民間銀行に対して90ドル分の債権を売却している(ここでは、民間銀行に法的に要求される準備量は10ドルとする)。

この取引の過程の細分化の分析は、中央銀行が金利目標を保つ業務を説明に内包し、中央銀行が超過準備に金利を支払う業務を除外している。しかし、中央銀行が段階3において発生した超過準備を公開市場操作(段階4)によって取り除くか、あるいは超過準備や競争的な利回りによる報酬によって発生した超過準備を放置するのか、という2つの選択の間には、本質的な違いはないだろう。どちらの選択も同額の資産についてくる金利は維持している。

第20章の表20.1では、社会の問題を解決するために預金を受け取ろうとする、財務省が中央銀行に国債を直接売却した時の影響について分析した。表21.1では、財務省が直接中央銀行に売却せず、民間銀行に売却している点が異なる。ここでは中央銀行は第二次市場において民間銀行からでしか国債を買うことができない。

インフレと独立した財政政策

備忘録

インフレについての矛盾する理論は、ここ最近の50年にわたって主流派経済学の経済政策の議論を支配してきた。第17章において、貨幣数量説の概要を説明した。第18章において、ケインズ派のフィリップス曲線トレードオフの分析から始め、さらにミルトン・フリードマンとエドムンド・フェルプスによって開発されたフィリップス曲線を拡大させた予測について説明した。その章では、インフレと失業のトレードオフの発生する、インフレの履歴現象理論の紹介で締めくくった。

第19章では、我々は、「インフレを制御するための失業緩衝材ストックの適用」と「就労保障を基礎とした雇用緩衝材ストックによる固定賃金の適用」という、基本的な政策の選択肢が存在していることを述べた。我々は、完全雇用が第一の政治的目標であるという主張を発展させた。そして、完全雇用を達成させるために設計され、就労保障の適用をもって完結する、その他の戦略の考え方を変化させた。

自由裁量の財政政策の実行、とりわけMMTの「財政政策に予算上の制約は存在しない」という視点、及びキーボードを叩くことによって何の価値のあるモノの裏付けもなく政府は自国通貨で支出ができるという考え方。これら全て多くの経済学者は敵意を向けている。我々は、この彼らの敵意に、ここでもう一度注目する。

多くの主張は、不換貨幣はインフレを引き起こす、というものだ。もし国家の貨幣が金のような実物の財に価値を縛られているならば、その貨幣の価値を保持するために物価は上昇しないであろう。

一方で、MMTは、国家の貨幣の価値は今も昔も金のような実物の財に価値を保証されたことはない、と主張する。むしろ、負債や資産を計算するための指定された単位でしかない。貨幣は貸借対照の計算単位である。MMTの批判者は我々の提唱する理論に、恐ろしさのあまり狂気の沙汰で反対する。なぜなら彼らは、MMTの提唱する、キーボードを叩くことによる政府支出が、ハイパーインフレーションにならないとしても、少なくともインフレを招くと信じているからだ。以下において、その恐怖の念を和らげようと思う。

備忘録

インフレとは、全体的なレベルの物価が継続的に上昇することである。第17章で行なったこの説明を思い出すことは重要である。1970年代に世界が経験した、オイルショックとともに発生したインフレ。これは地政学的な力によって発生したものだ。石油の価格が短い期間で4倍になり、ほとんどの商品の価格もそれに続けて上昇した。なぜなら、石油はほとんどの財・サービスの生産と輸送に広く使われていたからだ。石油の値段が上がったことにより、その他の財・サービスの費用が上がり、続けて販売価格が上がったというわけだ。

開発が進んだ多くの国では、強力な労働組合が実質賃金の改善を求めて交渉をしていた。それによって、インフレの過程が発生し、緊縮的なマクロ経済政策とスタグフレーション(高い失業率と高いインフレ率が同時に発生する状況)の台頭を招いた。

ケインズの主張では、計算貨幣を使用する経済では、賃金と物価に「硬直性(簡単には変動しないこと)」が必要であり、さもなければその貨幣は使われなくなってしまうとしている。それは、人々が賃金や商品の価値を保つためにそれらを上げようとした結果、貨幣の購買力が落ちる時の、ハイパーインフレへとつながる状況のことを説明したものだ。

しかし、インフレ率はほとんどの先進国では十分に低い数値で止まっており、貨幣も問題なく使用されている。さらに、時々2桁台のインフレになるとしても、その貨幣は自発的に保有されている。経済学者は1年間のインフレ率が40%以下の時の、経済へ負の影響を発見することに苦労している。しかし、明らかに人々は2桁台のインフレが好きではない。それは、避けられない実質所得の損失をもたらし、政策担当者は需要を減らすために緊縮的な政策を普通は実行する。

ここでの疑問は、緊縮的な政策は正しいのかどうかということである。もし経済が完全雇用を超えているならば、ラーナーの第一原理に従えば、政府支出の削減や増税といった政策が必要となる。50年以上前から「需要が上がり、完全雇用を超えて生産が行われた状況」の例があった。主要な戦争はインフレを引き起こすような需要増加の要因となった。しかし、第二次世界大戦後、ほとんどの先進国では、インフレ圧力を引き起こすような要因は存在しなかった。

多くの評論家は以下のように考えている。「MMTの支持者は、現実に対する自国通貨の政府支出について述べている」、「彼らは、論理的には政府は徴税の前に支出をしているとも述べている」、「主権国家の政府において、財源の入手可能性は問題ではないと述べている」、「だから彼らは、彼らは近代的な貨幣経済について説明するよりも、好ましい政策の立案をしているのだ」。これは我々から言わせてもらえば、正しくない。なぜなら、これのMMTの主張は「貨幣を発行できる近代的な政府」について述べているからだ。

全ての主要な国の経済は、金本位制から1970年代の初頭には離脱している。MMTの提案している政策は、ラーナーの提案した機能的財政論における主張に即した、「完全雇用の達成」である。すなわち彼の、もし人々が失業し低所得なら支出をしよう、もし銀行の準備が不足しているなら翌日物金利を保つために金融政策と協力して準備を追加しよう、という主張に反するものではないのである。

支出と雇用が不足しているのかどうかということは、失業者の統計を取ることによってすぐに推定することができる。この統計は、有効需要が過度に少なく、政府は減税か追加的な支出をすべきであるということを指摘する。政府は自らの貨幣を発行し、常にこの政策、減税・政府支出増の実行を現実のものとすることができる。

フリードマンは、「これがインフレの原因である」という主張を述べるため、「ヘリコプターから貨幣をばらまく」という面白い例えを言った(Friedman,1969)。もし政府がこの方法で貨幣を経済に注入することができないのであれば、金融政策の介入に頼るよりも、「振込を通じた財政政策」、もしくは「任意の福祉・社会保障としての支出」として同じことを行うことができる(このことは第22章で説明する)。

ケインズ派の本で紹介される財政政策の実行は、まさにこのようなものである。それは良く「呼び水的な刺激策」であると呼ばれる。その財政政策は政府の支出を見境なく上昇させ、それゆえ民間の所得は消費に向かう。

停滞した経済において、この経済政策は意味がある。なぜなら、おそらく全ての経済主体が十分に活発ではないからだ。その政策は、生産と雇用の上昇をもたらし、物価と賃金に上昇圧力をもたらす。

しかし、一般的にこれは完全雇用を達成するための最良の財政拡大政策ではない。ほとんどの凄まじい景気後退を除けば、その他の不景気は比較的厳しい状況に直面している間は、一般的にいくつかの経済部門は多くは不活発であるということが問題である。単なる財政支出では、特定の経済部門が不景気に取り残されてしまう。

この状況は、一般的に、熟練した高い技術を持った労働者に対する需要は、未熟な労働者に対する需要よりも高いため、労働力の問題に広く共通してとりわけ当てはまる。失業は熟練労働者と未熟練労働者で等しく怒らない。不利な立場におけれた労働者たちは一般的に高い失業率に見舞われる。

そのような状況が発生するのも、産業の立地が広い範囲にわたって公平に分散されていないということも災いしている。

なので、見境のない呼び水政策は地域的に不利な人々を助ける政策としてふさわしくない。ミッチェルとジュニパーは2007年に発表した研究において、高い失業に苦戦している地域に空間的に的を絞った刺激を注入する財政政策をする考え方を紹介した。彼らはこれを「空間的ケインズ主義」という言葉で表現した。

総需要を呼び水を使って復活させようとすると、たとえいくつかの経済主体がいまだに厳しい状況にあったとしても、その経済主体以外の労働者が高い賃金を交渉しようとしたり、それが連鎖的に物価の上昇をもたりという、一種の障害を良く引き起こしてしまう。それは、全ての利用可能な工場・設備、失業者を有効活用している状態に到達する前に、インフレは長く継続する可能性があるということを意味している。

インフレの上昇によって、完全雇用を達成する前に政府は政策に対する前向きさを減らし、景気刺激策を辞めてしまうかもしれない。事実、フリードマンによって強調された財政政策の実行において時間差があることを考えると、呼び水による完全雇用を達成するための約束は、反循環的な手段としてとして運営されず、マクロ経済を不安定にする財政政策によって、不確定になるかもしれない。

フリードマンは1953年の著作で以下のように主張した。裁量的な財政政策は潜在的に経済を不安定させる。なぜなら次のa,b,cの3つの理由の事象が存在することによって、長く変わりうる時間差が発生するからだ。

(a)裁量的な財政政策に対する要求の認識

(b)適切な政策対応の設計と実行

(c)採用された政策手段に対する経済の反応

言い換えれば、財政による刺激が経済に到達することによって、非政府部門の支出が上向きになるかもしれず、その時刺激は(消費が続くことによって)循環的になり、やがてインフレのリスクが上昇する。このようにフリードマンは主張した。

これは、ケインズ派が、非政府部門の支出の循環が下向きの時に、政府が将来の計画を立て、「すぐにでも実行できる」政策を持っていることについて話す理由である。

さらに、呼び水政策は相場程度の賃金の支払いを伴うため、完全雇用に対する約束を維持しているのにもかかわらず、インフレに対抗する制裁を課すための、制限された視点を持っている。この傾向は、政策の立案の開始・中止を導く「信号」のようなものであり、それによって政府はさらに需要を刺激するために支出をする。しかしインフレが発生した時は、支出を削減する。

代わりに必要にされるものは、最も必要な場所に直接需要の創出をすることを目標とした政策である。これはそれほど難しくない。最も政府支出が必要な場所を助けるために、政府は財政刺激策を微調節するが、その時、政府は経済全体における全ての経済部門の貸借対照表を保つ必要はない。

この本で説明してきたように、完全雇用は経済において最も重要な政治的目標である。もし国連の人権宣言に則っとるとしたら、それは特に重要である(第1章より)。第19章において、我々は雇用保障政策について説明した。さらに、雇用を必要としている人に雇用を提供することによって、最も必要なところ直接支出をすることができるということに注目した。

政府支出は、必要とされる時(すなわち、求職者が増加している時)だけ自動的に増加し、必要とされない時(すなわち、「労働者がその政府の計画から代替的な仕事があるために離れた時」、あるいは「労働力の提供をそもそも辞めた時」)だけ自動的に減少するだろう。なので、反循環的に、必要な分だけ刺激策として政府支出が行われる。

いくつかの工場と小売店では過剰な、または十分な余力を確認できることは真実である。しかし、彼らは市場の合図に対して、必要に応じてその余力を減らしたり増やしたりして対応するだろう。

明らかに市場に基づく経済には敗者と勝者が常に存在する。しかし、雇用ブログラムを導入することによって達成される完全雇用の経済において、民間部門全体が市場の合図に対応すると、彼らはより選択をする。

「不換貨幣は金のような実物の産物によって裏付けられていないので、インフレと切っても切り離せない」という主張はどうなったのであろうか?そのインフレに対する恐怖は、「もし政府が販売されている全ての財・サービスを購入できるようになったら、政府はその全てを買ってしまおうと試みるだろう」という信念から生まれている。

しかし、一般的な民主主義国家において、政府はやりすぎなほどの支出と課税に対する規制が存在しているという、十分な証拠が存在する。通常は政府の立法府における選挙で選ばれた代議員たちは、何にどれくらい支出すべきかということについて議論している。そして、政府支出の決定は広範なメディアの厳しい監視のもとにある。

前の説で説明したように、政府は自らの財政政策の自由な決定を制限するあらゆる規制を、自発的に設けている。

さらに、最終的に政治的な過程から生まれる、支出と徴税に関する法律は、「事後の」結果である支出と徴税の額を決定できない。支出と徴税は、制度の自動安定化機能によって、非政府部門による支出に依存している。その年の経済の状況は政策に予想できないため、政府は事前に支出と徴税の額を決定できないのである。不景気の時には、失業者を助けるために支出をし、減税を行うだろう。好景気の時には、税収は予想を上回る額となるだろう。

資源や産出物を購入する意思があり、支出額と物価上昇率を保つことを決定する政府は、疑う余地なく高いインフレを引き起こすだろう。良い統治のための代替品は存在しない。責任がない政府は、政治過程によっても、ましてや金本位制によっても、自らの財政戦略について制限されないだろう。しかし、インフレの原因について理解することは重要である。

マネタリストは財政赤字を賄うためにマネタリーベースを発行することに反対している。なぜなら、彼らは貨幣数量説に基づいてインフレの原因を説明しているからだ。MMT提唱者はまず制度的な実践について強調する。すなわち、そもそも財務省による純支出は同額のマネタリーベースの同化をもたらすということを強調する。

また、MMT提唱者は、貨幣数量説に基づいたインフレの説明を試みるが、もし需要先行型の財政支出を生み出す財政赤字が赤字が発生した場合、(21.1)の等式における「∆B + Mh」は、無意味であることを明らかにする。経済における全体の支出は、インフレの過程における参加者である。さらに、その全体の支出は、国債とマネタリーベースによって創造された金融純資産の事前の配分ではない。

ハイパーインフレ

ここでは、先進国が平時において遭遇するインフレ率よりも、高いインフレ率の例を見てみよう。これらのインフレ率は、経済に損失を与える水準である。我々がこれから見る事例は、インフレ率が非常に高く、普通ではない。さらにその例を見てみると、「静かなインフレの上昇はだんだんとハイパーインフレになるだろう」と信じる理由は、何も存在しないと思えてくる。

それでも、MMT批判者は特定の事例を取り上げることに固執している。古いものでは第二次世界大戦前のワイマール共和国を、新しいものではジンバブエを取り上げ、政府が際限なく支出した結果、貨幣の価値を破壊したと主張する。

ハイパーインフレに関する代わりの説明

近年、何人の経済学者が、財政政策に伴って発生する明示的な貨幣供給の使用を提唱している。

この政策は、公的支出を促進しようとする財務省に対して、中央銀行が自らの貨幣を発行する能力を使って彼らの預金口座を補填することが必要となる。それによって、非政府部門による公的負債の補填をすることは必要ではなくなる(Mitchell,2015)。

この政策の手法は、貨幣の発行という言葉を使って言及されることが多い。しかし、それは間違った言葉の使い方をしている。なぜなら、政府支出はほとんど常に、物理的な貨幣の発行をしなくとも、銀行振込によって達成されているからである。

「もし政府が明示的な貨幣供給をした場合」に関する多くの恐怖は、「それを行ったら、国家を破滅的なハイパーインレフへと続く道に導くだろう」というものだ。ワイマール共和国とジンバブエの経験は、財政政策が危険である理由を説明する時に嫌というほど頻繁に引用される。

このハイパーインフレの事例は以下のように想定されている。これらの経済の崩壊は、まさに記念碑的に高率なインフレ率にあり、それは財政赤字の増加とそれに伴うマネーサプライの増加にあった。その財政赤字の増加は、財政赤字を賄うために「貨幣の発行」に頼る政府によって引き起こされた。

フィリップ・ケーガンの1956年の研究では、彼は「ハイパーインフレ」を「1ヶ月単位で計算されるインフレ率が50%に達している状態」と定義した。ハイパーインフレのほとんどの有名な説明は、マネタリスの貨幣数量説に基づいた説明であった。その説明では、物価の上昇を引き起こす、多額な貨幣の創造に携わっている政府によって引き起こされるとしている。しかし、物価の上昇によって、貨幣の流通速度は上昇する。なぜなら、貨幣の価値が急速に下落している時には、誰もその貨幣を長く保有しようとは思わないからだ。賃金の上昇への需要は日に日に増加していく。なぜなら、明日も今日と同じ賃金であった場合、その賃金で明日買うことができる財・サービスは今日よりも少なくなるからだ。たとえ政府が紙幣を印刷することによってマネーサプライが急速に増加するにしても、マネーサプライの上昇は物価の上昇に追いつくことはできない。物価が上昇すればするほど、流通速度は速くなっていく。やがては労働者が、1時間ごとに賃金の支払いを望むようになるまで、その物価の上昇は続く。その時、労働者は夜になると物価がまた上がることを考えて、昼食の時間になると店に走るようになる。

本質的に、これは、貨幣数量説の簡単な説明がデータと一致しないことを明らかにした、ケーガンの実際の説明である。もし物価の上昇がマネーサプライの上昇よりも早いとしたら、我々はどのように説明して「ハイパーインフレが少ない財に対して貨幣が過剰であることによって引き起こされる」という結論を導けば良いのか。この事実に議論が着地するために、貨幣数量説は、「古い貨幣数量説は、高インフレ下においては貨幣を保有しなくなる流通速度は安定していると、推定していた」と、主張を新ためた。

そのような貨幣数量説の理論武装によって、今だに貨幣数量説の論者は「高インフレ・ハイパーインフレは貨幣が過剰になった結果である」と主張している。インフレ率の増加に遅れて貨幣の増加が起こっている時に、貨幣の流通速度が上昇していたとしても、彼らはそう主張し続ける。マネタリストは「政府はマネーサプライを操作でき、それゆえハイパーインフレは政府によって引き起こされる」と主張している。

加えて、ハイパーインフレ下では、政府の貨幣(紙幣)の供給は急速に上昇する(ときどき、紙幣に書かれる数字の0の数が1つ増えるほどの状況にもなる)。ついには、政府は自らの税収によって支出を維持できなくなった時、赤字支出をする。なので、「政府は支出を賄うために貨幣を発行している」、「それが少ない財に対する貨幣の過剰を生み出してインフレを促進している」と考えられてしまった。

それゆえ、OMFを論ずるMMT提唱者を、ことごとく批判するような経済学者は「ハイパーインフレの責任は、財政赤字を補填するために貨幣を発行した、政府に存在している」と主張する。面白いことに、これらの主張は、日本が1990年代に資産市場の崩壊を経験した時に、日本政府の政策対応において使われている。日本銀行は大規模な量的緩和(中央銀行が国債を買い取ることによって銀行の準備を拡大する政策)を行い、財務省も大規模な赤字支出をした。これらの政策は経済に刺激を与えるために設計されたものである(このうち量的緩和については第23章で詳しく見る)。

世界金融危機の間、アメリカ・イギリス・日本などで、赤字支出が銀行の準備の膨大な増加を発生させた時にも、各国で先の主張が繰り返された。その時は、「莫大な準備の創造は、インフレを促進してくれる熱狂的な貸出を導くだろう」と主張された。しかし、歴史的には、いずれの場合もそのような状況はインフレを促進しないということが明らかである。

これらの歴史的な予測が間違いである理由をより深く理解するために、ここからはMMTによる貨幣数量説への対応を見ていこう。我々は次の3つの点を強調する。

・今まで説明したように、MMTがキーボード入力による政府支出について話しているとき、それは事実の説明しているだけであって、処方箋・政策を提示しているわけではない。もし「貨幣の発行による政府の支出は必ず高インフレ・ハイパーインフレを導く」というMMT批判が正しければ、そのとき現在のほとんどの先進国は(ハイパーインフレではないとしても)少なくとも高インフレになっている。なぜなら彼ら先進国は全ての支出をキーボード入力で行なっているからだ。全ての貨幣を発行できる政府は、政府以外の者が貨幣を発行できないことを考えると、税を集める前に支出をしなければならない。政府支出を行うための代わりの方法はない。たとえ政府が固定相場で貨幣を交換することを約束していたとしても、政府はキーボード入力で支出をする。最近20年の先進国の歴史において、ハイパーインフレ、高インフレの事例はない。このことは、貨幣の発行とハイパーインフレとの間に関係性を見出そうとすることが、信ぴょう性の疑わしい試みであるということを示唆している。

・ルクセンブルクとジンバブエという特定の事例の議論は吟味が必要である。それらの国には多くの国々にも共通の特性も存在していても、ハイパーインフレは並外れて特殊な状況によって引き起こされる。原因が複雑で多様であるにも関わらず、マネタリストの説明はその複雑な要素を無視する。

・世界金融危機後のアメリカ・イギリス・日本において財政赤字が高く、量的緩和と金利政策によって銀行の準備が大量にあるのにも関わらず、それらの国はハイパーインフレも高インフレも経験していない。それが起こるような兆候すらない。

MMTと俗に言う不換貨幣に対する批判はさながら、「どこからともなく」貨幣を想像するための政府と銀行の能力を実物の産物で制限する時代を思い出させる。その産物で、最も良い例は金のような貴金属である。かつては貴金属の価値によって貨幣の価値が決められていると考えられており、政府は金を獲得しなければ支出ができなかった。厳しい金本位制の例では、政府や銀行が紙幣を発行するためには、それに対して100%同じ総額となる金を保有していなければならなかった。

MMT批判者は財政政策を制限するために予算均衡や債務の制限を提唱する。彼らが赤字ハト派であれば、やがては財政赤字を削減していくことを提唱する。これらは既にアメリカで実現している。2015年には、イギリス議会は「財政政策の効果ではない経済成長が1%を超えた場合は、財務省は財政が黒字化するように努力する」ことを求める法案を可決した。これは2016年の後半に「EU離脱の衝撃による民間支出および財政への負の影響」を考慮して修正された。

我々が主張したように、変動相場制は自国通貨を発行する賢明な政府に、自由に決定する政治的目標を達成すること可能にする。これは変動相場制によって自国通貨の発行が、外国通貨や金などとの交換を固定の価値で約束していないことから生じる結果である。一見、固定相場制の方が賢明な保証を行なっているように見えるが、それを実際に保証することは極めて困難だ。固定相場制は不本意の債務不履行という為替危機をもたらし、政府が賢明に為替を交換するを不可能にする。

政治は外国通貨の提供を保証する時、ワイマール共和国が襲ったハイパーインフレと同じものが国内に起こるリスクが生ずる。もし国内の銀行は賢明ではない場合、そのリスクはより深刻となる。

現実世界のハイパーインフレ

現実では、ハイパーインフレや高インフレは珍しい事例だ。この節では、ハイパーインフレの歴史的な事例を見ていく。過剰な財政赤字を賄うための「貨幣の発行」という簡単な説明は、ほとんどそれらの事例に光を当てた説明ではない。

今日、最も知られたハイパーインフレの例はワイマール共和国とジンバブエの例である。(少し知名度の低いもので言うと、1946年のハンガリーである。)ミッチェルは洞察力のある分析を提供した(2010;2011)。彼の分析をここで全て紹介することはできない。

しかし、ワイマール共和国とジンバブエのハイパーインフレについての重要な点の要約をするつもりである。その要約は、それらの国のハイパーインフレが財政赤字を賄うための「狂った」ような「貨幣の発行」によって引き起こされたと、簡単には断定できない複雑な事例であることを明らかにしてくれる。

ワイマール共和国のハイパーインフレに関する一般的な説明は、ハイパーインフレの結果の説明に配慮することなく、それが金との交換を約束しない不換貨幣の自由な発行によって引き起こされたと説明される。現実はもっと複雑である。1つ目として、20世紀の初頭においてさえ、多くの国が自国通貨と英スターリングもしくは金との交換との約束していたのにも関わらず、ほとんどの政府が負債を発行して支出していたということを、我々は理解する必要がある。第二次大戦後、ワイマール共和国となったドイツでは金で払わなければいけない巨額な賠償金に苦しめられていた。彼らの金の準備は非常に限られていた。さらに不幸なことに、ドイツの生産設備は戦争によって破壊されるか、その敗北によって徴収されていた。ドイツは輸出によって金を手に入れて、戦勝国に対する賠償金を用意だろうと考えられていた。ケインズはその最初の世界的に有名となる著作(1920)である「平和の経済的帰結」で、金本位制に基づく支払いでは賠償金を払うことはできないと主張した。

それゆえワイマールに関する問題は1923年のハイパーインフレ以前に、長く横たわっていたのである。ヴェルサイユ条約が定めた賠償金の支払いはドイツ政府を苦しめ、そして債務不履行となった。その時、フランス軍とベルギー軍はドイツがデフォルトした後、ドイツの重要な採掘・工業地帯であるルール地方を占領する報復措置をとった。その結果、ドイツの生産業は停止せざるを得なくなった。また、ドイツは発行が限られた自国通貨で労働者に賃金を払わなければならなかった。

その時もはやドイツの国家全体としての生産能力は国内の需要を賄うこともできなったので、当然巨額の賠償金を支払うために輸出をして金を獲得することなど不可能であった。政府は、賠償金支払いのための輸出を賄うのに十分な資源を確保する増税は、実行不可能だと信じていた。代わり政府は税収以上の収入をした。このことは、政府が国内の限られた供給を民間部門と競争して手に入れていたことを示す。それは供給に対して需要が過剰である状態であり、インフレをもたらす。

同じ時、国内の生産業者は欲しい輸入品を買い入れる際、外国通貨建てで国外から借入を行なっていた。「物価の上昇」と「外国通貨の借入」は自国通貨を減価した。その時、国外からの輸入品の値段が自国通貨から見たとしたら値上げしてるので(外国通貨高になって輸入がしづらくなっている)、ドイツの業者はさらなる外国通貨の借入を行なった。また、賠償金の金額も、自国通貨で見た場合値上げしている。

輸出が不調になった時、崩壊が訪れた。その後のドイツは財政赤字の拡大によってでしか賠償金の支払いをすることができなくなった。ついにハイパーインフレはこの状況では不可避となった。

「その当時のドイツの中央銀行は財務省から負債を買うことによってインフレを引き起こしていた」とよく説明されるが、実際の彼らは今日とよく似た業務をお行なっていた。つまり、ドイツの中央銀行は銀行に政府負債を売却し、銀行から準備を吸い取る代わりに、金利のより高い資産(政府負債)を提供していたのだ。財政赤字が高インフレ下でさらに拡大し、ハイパーインフレになった後では徴税を行なっても物価を下げることは不可能だった。

ついに、1924年にドイツ政府は新しい貨幣を採用する。その貨幣は法律によって貨幣と定められたわけではなかったが、税の支払いに使用することができた。そして、ハイパーインフレは終了した。以上の事実は、ワイマール共和国のハイパーインフレは、第一次世界大戦後の「限られた供給能力」と「相当な額の戦後賠償金」が原因であることを証明している。

それでは次にジンバブエの例を見てみよう。これは、継続的かつ巨額の財政赤字の拡大によってハイパーインフレが発生した例として、ワイマールの例と比べてさらに多く言及される。ジンバブエの継続的な財政赤字の拡大を例とする場合に気をつけなければならないことがある。それは、このジンバブエの失敗を「完全雇用を達成するための継続的な財政赤字の拡大」を否定する根拠として使用してはいけないということである。

アフリカの植民地では白人の少数者が、多数の黒人を虐げる不平等を形成していた。ジンバブエ(かつては、ローデシアとして知られていた)も例外ではなかった。かつてのジンバブエ、ローデシアは人口の1%しか占めない白人が国内の肥沃な農場の70%も占領していた。

1970年代の内戦と1980年の独立の結果、ジンバブエという国とロバート・ムガベ政権が成立した。その政権下の当初は、安定したインフレ率を保ちながら比較的堅実な経済成長をもたらした。1992年から翌年までの短い期間に発生した2桁代の高インフレを除けば、実質GDPは堅実に増加していたのである。

ところが、2000年以降にムガベ政権が、不平等の解消をより迅速に行うために、国土の改革政策を施行し始めてから問題が発生した。ジンバブエの自由の獲得を達した革命の戦士は、白人が使用していた多くの国民の食物を生産する商業用農場を与えられた。その改革は非常に大きな期待をもって行われたが、新しく農場所有者となった戦士たちは全く農業の経験がなかった。その食料供給の停止は悲惨なものだった。潜在産出量(生産能力が全て活用された場合に発揮できる生産量)は急激に縮小し、生産能力の45%が失われていた。失業が国内全体に広がり、失業率は80%に上昇した。急速な需要の縮小が要求されたが、失業の増加がその実行を不可能にした。

ムガベ政権は公共のインフラ整備政策と、供給連鎖(サプライチェーン)に存在する制約の管理でも失敗した。例えば、ジンバブエの国営鉄道制度の質が低下し、採掘産業の輸出品の輸送が大幅に減少した。2007年において、1年で鉱物の輸出が57%も減少した。

工業部門も影響を受けた。工業生産量は2005年に29%下落し、2006年には18%、2007年には28%下落した。2007年には、国内の18.9%の生産能力しか活用されていなかった。これは、原材料の不足を含む、問題の領域を反映している。しかし全体的に、工業家たちは自らの生産に必要な原材料を買うための、外国為替業務を中央銀行がしていなかったことを責めている。代わりにその中央銀銀行、ジンバブエ準備銀行は自らの外貨準備を食糧の輸入するための資金として国民に提供している。

ジンバブエ経済における供給の崩壊に目を向けると、このハイパーインフレの経緯を。総供給の減少によって発生したハイパーインフレを避けるためには、ジンバブエ政府は現行の供給能力に合わせて厳しく支出を減らした。緊縮財政を実行したことにより、飢餓、場合によっては餓死者が現れた。

このような状況ではハイパーインフレは不可避である。しかし、この事例は、「供給能力が常に成長し、完全雇用を達成するために財政赤字になっている主権国家」に対して、本質的な教訓を提供しない。

例えば、民間の投資が過熱している時、経済はインフレになり、それに対応することが政治的課題になる。一般的に、総供給が縮小している経済での、継続的な総支出の拡大は、上述のようなハイパーインフレを引き起こす。

これは、政府が政治・経済の両方の理由のために、増税ができなかったもう1つの事例でもある。また、これらのことは、政府の「貨幣の発行」に注目するマネタリストの簡単な説明が、ジンバブエの問題に全く焦点を当てていなかったことを気づかせてくれる。

すなわち、ジンバブエのハイパーインフレは、社会的な不安や農業の崩壊という問題が引き起こしたものだ。すなわち、主要な供給の不足、外国への負債が引き起こしたのである。

ハイパーインフレの要約

ワイマール共和国、ジンバブエという両方の事例の中で、政府支出に対する大きな制約がハイパーインフレを首尾よく妨げるかもしれないことを、認めることは重要である。しかし、ハイパーインフレという特殊な事例を検証するとしたら、それらの事例は単純に物語ることができない。ハイパーインフレに至る道は多様にある。しかし良くある問題が発生したくらいではハイパーインフレに向かうことはない。社会的・経済的な動乱、内戦、戦争による供給能力の崩壊、貧弱な政府、外国通貨・金建ての負債。このような状況下で、我々は財政赤字と、未曾有の政府負債の増加を観察する。しかし、我々は、物価を上昇させる政府と競争する、民間の支出を賄うために貨幣の創造を行う銀行を見ることもできる。

それゆえ、おそらく、緊縮財政はインフレ圧力を減少させるだろう。ハイパーインフレの原因が、あらゆる種類の供給能力を制限にある場合、それは全体的な困難を克服させるものではないだろう。しかし、この問題に対する緊縮財政という対応方法は、金本位制の採用を必要としない。むしろ、高インフレに対応するために、政策立案者は漸進的な賃金と振込の削減、生産の安定、供給能力に対する過剰な需要の削減、社会不安の沈静化を試みるべきである。しばらくの間高いインフレ率がいつまでも続く時は、新しい貨幣の発行や債務不履行を宣言することも良い対策案である。

それゆえ、マネタリスの簡単な力関係の説明とは合致しないが、「高(あるいはハイパー)インフレ」「財政赤字」「マネーサプライ」との間には関係がある。政府は支払先の預金口座にキーボード入力で振り込むことによって支出をしている。さらに、準備をキーボード入力によって振り込まれることによって徴税(あるいは国債の売却)を行なっている。今まで議論してきたように、ハイパーインフレ下において、徴税は政府の支出より少なく増加していく。それゆえ我々は財政赤字を、「発行済の政府債務の増加」と説明する。

さらに厄介なことは、高金利政策を中央銀行が追求している場合である。なぜかと言うと、政府は一般的に財政赤字の増加を、新規の政府債務の発行に一致させ、さらに、その債務への金利の支払いが政府支出として追加されるからである。もし中央銀行が金利目標を上げることによって増加する財政赤字に対応した場合、それは財政赤字の増加を満たすものとなり、またさらに、経済に対する金利の支払いという形で需要の刺激策となる。しかし、同時に投資を抑制する逆効果をもたらす。



22.1 はじめに

この章では、我々は、MMTの原理を取り入れた財政の持続可能性の概念を練り上げるために、第20・21章の議論をまとめる。我々はこの概念を、IMFのような国際機関が「自国通貨を発行するある政府が財政赤字を拡大できる限度」という意味で使用する、財政余地の概念と供に紹介する。

我々は、意味のある財政の持続可能性・財政余地の概念は、「現実の資源の入手可能性」の面で捉えるもののみであるということを示す。財政は現実の資源があるかないかでしか制約されない。

良い財政政策を立案しようとする時、政府が、「財政赤字の限界を決定するもの」を理解したり、メディアでたいてい毎日報じられている「財政の持続可能性、財政の統合、財政の引き締め、予算案という言葉」は何であるかを理解することは重要である。

主流派経済学が求める財政の責任は、「貨幣を発行する政府は財源に制約されている」という誤った根拠に基づいている。また、主流派経済学者は、政府は債券市場で借入や、「財源が尽きる」リスクを減らしていかなければならないという、政策上の立場に固執している。

この章では、我々は彼らの推理が主権国家の政府にふさわしくないことを示す。むしろ、MMTが首尾一貫した完全雇用の財政赤字の状態という、新たな財政の責任の概念を提供する。その責任の考え方の上では、政府は目的を達成するために、多くの財政赤字を必要とするのか、少ない財政赤字を必要とするのかということを考慮する。黒字などの状態でさえ、決して政府の問題ではない。経済の問題である。

MMTの枠組みの内の、財政の持続可能性は、政府に対して「対GDP政府負債残高の割合や、対GDP財政赤字の割合」を目標にするのではなく、「完全雇用の達成や物価の安定」を目標にすることを要求する。

さらに我々は、「完全雇用を達成するために在政策に頼ることは政府負債残高の対GDP比を増加させ、いつかは財政が持続不可能になる」という主張を反証する。

22.2 完全雇用を達成する財政赤字の状態

ではまず、もし政府の支出と税が存在しない場合の開放経済を仮定して観察してみる。その経済の活動は、民間の支出(消費と投資)、海外部門の純支出(輸出から輸入を引いた額)だけで構成されている。もしその経済の中で支出が減っていけば、同時に経済活動全体が活発ではなくなっていく。

仕事を求めている人々に(労働時間で測った場合に)十分な仕事を与えられている現行の生産性の水準で、もし総支出が生産量よりも少ない場合、支出ギャップ(供給に対して需要が不足している状態)が発生する。言い換えれば、完全雇用の下では支出ギャップは発生しない。機能的財政論の観点から、政府の財政政策は支出ギャップを無くすことを保証する。

もし非政府部門の支出が完全雇用を達成する水準よりも減少する場合、支出ギャップが発生し、それを解消するためには(政府の直接的な支出や減税によって)純支出を上昇させるしかないことは明らかとなる。

第15章で学んだ支出結果アプローチに則ると、支出フローは総需要に加算されるということが分かる。その支出フローの種類は以下の通りである。

家計消費(C)

民間投資(I)

政府支出(G)

輸出所得(X)

(この節では我々は、純所得フローから以上の支出フローを抽出し、当座勘定、つまり現在進行形の計算に組み入れていることに注意してほしい。)

その支出フローによって生み出された、(生産に携わっている資源の所有者に対する支払いである)所得は次のように使い道が分かれる。

政府からの支出を差し引いた納税、税の純移転(T)※政府から1万円もらい3万円の税金を納めている場合、純移転は2万円となる。

家計消費(C)

家計貯蓄(S)

輸入支出(M)

はっきりと、所得のもととなるものは使い道と等しくなる。

以上を踏まえて、所得が発生する式を書くと以下のようになる。

(22.1)C + I + G + X = C + S + T + M

さらに、両辺からCを差し引くとこうなる。

(22.2)I + G + X = S + T + M

(22.2)の左辺は支出フローへの外生的な(「外部からの」という意味)注入を表している。そして、その右辺は所得の漏洩(ろうえい)である。注入は経済における新しい支出を構成し、一方で漏洩は国民所得における変化に起因し、総支出を減少させる。

(22.2)の両辺は国民所得の調整(すなわち、「支出の変化による、全体的な活動の変化」)によって均衡に到達する。

例えば、もし「I」が上昇(「G」と「X」は一定)した場合、新しい発注に対して生産の増加を計画するような企業に対して、総支出の増加は刺激となる。そうすることで、それは雇用を増加させ、第15章で見たような支出乗数を誘発させる。

所得の受け手は追加された所得を貯蓄(S)、(もし税率が変わっていなかったとしても)納税(T)、輸入品(M)、さらなる消費に回す。

国内経済の拡大は、貯蓄・納税・輸入の変化に伴う投資額の変化(政府支出と輸出は一定とする)が発生して仕舞えば、停止してしまう。それゆえ、所得の注入が所得の漏洩と等しい時、新しい(所得の拡大が停止する)均衡点が定まる。均衡点が(支出の注入によって)揺れ動いている時はいつでも、国民所得は調整され、(22.2)の右辺である「総所得の微妙な漏洩」が、(22.2)の左辺に「新しい所得への注入」をもたらす。その点が均衡点である。

ここでは3つの点を注意すべきである。1つ目として、その均衡点は完全雇用を必然的にもたらす訳ではないということだ。この国民所得が決定する仕組みでは、たとえ多くの失業が発生していたとしても、均衡点が発生する。ケインズ(それ以前ではマルクスも)は、経済が高い失業率を伴いつつも均衡し、財政の介入(すなわち財政政策)がなければ今日もその状況のままであることを主張していた。

2つ目として、経済が高い失業率を伴い均衡している場合、そこには総需要の不足をもたらしている支出ギャップが必ず存在している。非政府部門の支出の弱体化により、税の純移転(T)よりも多い政府支出(G)が必要となる。つまり、財政赤字が必要となる。なぜなら、非政府部門の支出ギャップが生じているからである。

3つ目として、支出ギャップだけが、財政赤字は常に必要な理由ではないということである。財政赤字を続ける根拠はもう1つ存在する。もし非政府部門が総合すれば「純貯蓄」を望んでいる場合、すなわち彼らが経済において「I + X < S + M」が発生することを望んでいる場合、財政赤字を継続的に拡大する(G > T)ことだけがそれを実現する方法となる。経済の状態を維持するために財政赤字の拡大が必要となる。

この事例では、非政府部門が持つ純貯蓄を増加させたいという要求を十分に満たすために、財政赤字が拡大する。

機能的財政論は、責任のある財政は2つの状況を必要とするとしている。1つ目として、財政状態(赤字か黒字か)が、「貯蓄と投資のギャップ」から「輸出と輸入の差」を引いた数を埋め合わせるものでなければならない。

すなわち、

(22.3) (G - T)=(S - I)-(X - M)

である。

国民所得が等式として成り立つためには、財政赤字が、超過貯蓄(それは需要を減少させる)から超過輸出(それは需要を増加させる)を引いた分を埋め合わせなければならない。

もしこの式の右辺、(S - I)-(X - M)が正の数である場合、それは非政府部門全体の貯蓄の増加と、政府部門の財政赤字の増加を発生させる。ここでは、この純貯蓄が、可処分所得に含まれるということに注目する必要がある。

(22.3)の右辺の黒字は、(S - I)>(X - M)の時に引き起こされる(すなわち、国内民間部門の純貯蓄が純輸出よりも多い時に黒字になる)。もしくは、輸入の赤字(それは需要を減少させ、国外の貯蓄を増加させる)が民間の赤字(投資が貯蓄より多い時に発生する)より大きい時に発生する(このとき、民間は純輸出によって所得を得られないので、別の方法、すなわち政府の赤字によって所得を得て、それを投資に回したと考えられる)。

2つ目として、国民所得の均衡水準が、完全雇用を達成しないかもしれないということだ。我々は、「労働者と生産資源の所有者の選好に従いつつ、それら全ての生産資源を有効活用している状態」を、「完全雇用を達成している国民所得」と定義することができる。

「S、T、M」が全て正の数であると考えると、完全雇用と定義できる状態でそれらは独特な水準で存在する。態度における変化(例えば、追加的に1ドルを手に入れた時の貯蓄願望が増加するなど)は独特な水準で変化するだろう。しかし、態度の選好・要素を考慮するために、我々はそれぞれについて完全雇用を定義することができる。

我々は完全雇用下における貯蓄と輸入の水準として、それぞれを「S(Yf)」と「M(Yf)」として定義し直すことができる。(Yf)とは「full enmployment(完全雇用)」であることを表す記号である。また、我々は、技術を手に入れるための投資をする動機を増加させるほど高い国民所得に気を配るために、投資(投資については第25章で詳しく説明する)を考慮する。なので、I(Yf)は、完全雇用を達成する投資として定義することができるかもしれない。我々は、世界の所得水準によって輸出が決定することを考慮する。

最後に、我々は税の純移転(T)が経済の循環に敏感であることに注目する(それは財政政策の自動安定化機能によるものだ)。それゆえ、T(YF)は、完全雇用下での、政府の支出移転を差し引いた税収であると、我々は定義することができる。

したがって、完全雇用を達成する国民所得の等式は以下のように書くことができる。

(22.4) {G - T(Yf)} = S(Yf) + M(Yf) - I(Yf) - X

この等式は、我々が完全雇用の財政状態を表現する時に使用するものである。

S(Yf)とM(Yf)の合計は、経済が完全雇用の時の、需要の排出を表している。さらに、I(Yf)とXの合計は、完全雇用経済下の支出の注入を表している。

もし(22.4)の右辺で「需要の排出・S(Yf)とM(Yf)」と「支出の注入・I(Yf)とX」を上回っている場合、完全雇用を達成するためには「財政赤字・{G - T(Yf)}」をその上回った分だけ積み上げて支出ギャップを埋めなければならない。もしその財政赤字が十分に多きものでなければ、完全雇用は達成されない。

一方、もし総支出が完全雇用でまかなえる生産を超えるものであれば、商品在庫は枯渇し、物価が上昇傾向となるだろう。もし政府が総需要が生産能力に対して上昇し続けていくと予想した場合(すなわち、物価が上昇していくと予想した場合)、政府はインフレ圧力を減らすために純支出を削減するだろう。

この意味で、MMTの原理は厳しい財政規律を明確に示している。もし完全雇用と物価の安定を政策目標にした場合、財政赤字をそれに適応する形にしなければならないのである。

22.3 財政余地と財政の持続可能性

前節の議論は、我々に財政の持続可能性という言葉の意味が何かを理解させるのを助けてくれる。財政の持続可能性と財政余地の概念は経済の文献でよく議論されている。問題は、一般的にそれらの文献は、「政府は自らではどうすることもできない、財政上の制約のもとにある」という前提で議論をしている点だ。

IMFは「財政余地」を次のように定義している。

政府の予算における、財政状態と経済の持続可能性を危うくすることない、資源を購入するための支出が拡大できる範囲。この概念は、価値のある政府支出のために財政余地は必ず存在し、作られていなければならないことを示している。政府は財政余地を増税、外部からの確保、優先順位の低い支出の削減、国内外からの借入、銀行制度からの借入(それによってマネーサプライが拡大する)によって創造することができる。しかし、政府はそれらを経済と財政の持続可能性を毀損することなく行わなければいけない。その財政の持続可能性とは、短期と長期の予算の確保と、自らの支出計画に必要な資金を賄うための借入を可能にするものである。

このIMFの定義、およびこのような類の定義は、政府の機関やその他の国際組織で、財政政策を制限するために広く使用されいる。

その定義は、経済の全体的な状態の広範な背景において財政を評価することよりも(これはMMTが行なっている)むしろ、財政赤字対GDP比や政府債務残高対GDP比などの金融指標の厳密ではない指標で財政の持続可能性を評価している。その点で、その定義は狭量で曖昧としている。何かしらのデータを用いて政府の債務比率を分析した研究の中で、「政府はどれくらの債務比率になったら財政が持続可能ではなくなるのか」ということを総合的かつ一貫した説明を行った研究はない。

最も重要なのは、その定義は「自国通貨を発行できたとしても、政府は企業や家計と同じように財政を制約されている」と仮定している点だ。最終的には、政府の支出と債務の持続性は、実質金利に基づいた市場における国債の売買が持続するかどうかに依存していると仮定してしまっているのだ。

この本で学んできたように、不換貨幣の経済において、この定義をしようすると以下の2つのことを無視してしまうことになる。

・政府は収入に制約されていない。財政余地は財政上の条件によって決定しない。

・政府が集約できる資源の量は、その国で利用できる現実の資源(労働者、天然資源、生産能力、ノウハウ)のみに依存して決定される。

政府は資金が尽きることがなく、常に支払い能力があることを考慮すれば、IMFなどのような機関が使用するような基準となる比率(例.債務比率)を使って、財政の持続可能性(や財政余地)の概念を定義することが無意味であることが分かるであろう。

MMTの視点では、政府の最も重要な責任は、完全雇用や物価の安定という要素を考慮に入れた財政の持続可能性の概念に基づき、公共の目的・公益を達成することである。完全雇用の財政赤字の状態という概念は、この視点を政策立案者に提供してくれる。

その時、我々の財政の持続可能性の概念では、いくつかの事柄が考慮すべきこととして重要となってくる。

公共目的の進展

非政府部門が将来の予想に基づき支出(あるいは貯蓄)の決定をしたならば、政府は完全雇用という目的に沿ってその民間の決定に対し、一貫した行動を取らなければならない。

経済の循環の中で、非政府部門は一般的に純貯蓄を手に入れたがることを考慮すると、経済には平均的に支出ギャップが存在し、それを解消できるのは国家の政府部門だけであろう。黒字になることを望む非政府部門には、財政赤字の政府が必要なのだ。

その時政府は完全雇用の財政赤字の状態を保つべきである。我々はその財政赤字を「良い」ものとして捉える。なぜなら、それが非政府部門の貯蓄と雇用を助けているからである。

反対に、政府は政策的な目標として不況を維持することも可能である。それは政府の財政赤字が少し小さく、時には黒字になっているということである。しかし、この戦略を採用することは経済に危害を加える。それは最終的に、企業の生産と所得をもたらし、財政の結果も税では決して財政赤字を埋め合わすこともできず、国民が貧困化しないために結局社会福祉支出が増加する。言い換えれば、政府の赤字を減らすことは、大きな財政赤字を生み出すことによって可能になるのである。

究極的には、支出ギャップは自動安定化装置によって縮小していく。なぜなら、国民所得の減少は、部門間の恒等式に基づいて、漏洩(貯蓄・納税・輸入)と注入(投資・政府支出・輸出)が同じになることを実現する。しかし、経済には少ない雇用と多くの失業をもたらしているだろう。「結果」として財政赤字を、我々は「悪い」ものとして捉える。なぜなら、それは失業などの経済の悪い現象を解消するために残ったものだからである(もちろん、財政赤字自体が悪い現象をもたらすから「悪い」としているわけでは断じてない)。財政赤字はその国の不幸の歴史を物語っているものである。

それゆえ財政の持続可能性は、政府が完全雇用という目的に向かって「良い」財政赤字を運営することを必要とする。多くの財政戦略も、完全雇用という目的に首尾一貫して進んでいなければ、それは持続的ではないのである。

ここで、我々が「一般的に非政府部門は純貯蓄、つまり黒字になることを望み、従って政府部門は常に赤字にならざるを得ない」と仮定してきたことに注目してほしい。しかし、今日のいくつかの国々では当座勘定で大きな赤字を記録し、他方で非政府部門でも黒字を記録している。

貨幣環境を理解する

多くの財政の持続可能性は、政府が運営している貨幣制度の本質的な環境に必ず関係している。不換貨幣を採用する政府の行動を金本位制の論理で説明することは意味をなさない。

金本位制や固定相場制下における政府への制約(為替相場位を維持しなければならないという制約)は、不換貨幣を採用する政府に全く存在しない。

不換貨幣制度下の政府は自発的に、金本位制時代のような制約を再現することを認め、自らに制約をすることがあるかもしれない。これらの制約は「財政赤字と公的負債の発行を等しくするもの」、「財政赤字の大きさを制限するもの」、「ある一定期間における政府支出の大きさを制限するもの」、「政府債務残高を制限するもの」などであるかもしれない。

これらの制約のうちで、不換貨幣を運営する政府に適用できるものは1つもない。全体的に、政府への制約を課す行為・法律はイデオロギー上の必要性にかられて行われている。そのイデオロギーは一般的に政府の経済における役割を縮小しようとする教義を持っている。

従って、主権を有する政府の場合での、財政の持続可能性の概念は、自発的な制約を持つべき正当性のある理由は何1つ持っていない。これらの制約は本質的に、政府が国民に対して完全雇用を保障する責任を、意味のない財政の制約に従属させてしまう。

ここでは、政府による主権と変動相場制のの放棄、すなわち金本位制や固定相場制の採用は、全て政府の自発的な行動によって行われることである、ということを覚えておいてほしい。

「主権を保有する政府とは何か」を理解する

今まで学んできたように、主権を保揺する政府は好きなときに支出でき、支出を賄うために非政府部門から借入を行わなくてはならない義務など存在しない。これは発行された貨幣を使用する非政府部門の特性とは、際立って対照的である。非政府部門は支出の前に、所得を得たり、貯蓄をしていたり、借入や資産の売却を通して資金を手に入れなければならない。彼らは永久的に赤字を維持することはできない。我々が説明したように、非政府部門のこれらの制約は、不換貨幣を発行する主権を保有する政府には適用することができない。

「財政が黒字になっているかどうか」で財政の持続可能性を定義すると、「もし政府部門が黒字である場合、民間部門は赤字である」「もし政府部門が赤字である場合、民間部門は黒字である」という事実を見落とすことになる。

国家が海外との取引で黒字になっていない場合、政府の黒字は常に民間の赤字を反映しているだろう。民間が赤字になり続ける政策など、実行可能な成長戦略にはなり得ない。なぜなら彼ら民間部門は資金面で制約があり、継続的に赤字・負債発行をできないからだ。最終的に、財政は、民間部門が不安定な借金を減らすために貯蓄する状況をもたらし、経済を不況に叩き落とすだろう。

従って、財政の持続可能性の概念は、財政上の制約から政府が解放されている状態を概念化することを含み、非政府部門が持つことができない領域の能力も保有している。

さらに、「一般的に非政府部門は貨幣を純貯蓄として保有することを望んでいる」と考慮すれば、主権を保有する政府は必ず継続的に財政赤字を運営しなければならない。財政赤字の適切な大きさは完全雇用の財政赤字の状態によって決定されるであろう。

「なぜ政府は課税するのか」を理解する

我々は第20・21章で、課税は非政府部門から政府部門への財・サービスの提供を促進し、さらに、法的な納税義務を解消するための資金を賄う必要性を発生させることを説明した。

この方法で、課税は非政府部門に(有給の仕事を求める人の)失業を非政府部門にもたらす。その課税による失業を、実物資源の余地の創造として考えて良いかもしれない。実物資源の余地は、非政府部門から政府部門への財・サービスの移転によって創造される。同様に、それは政府の経済的・社会的な計画に必要なものを賄う。

我々は、課税の影響を、失業という労働資源の創造として捉えることができる。その時、政府支出はそれらの資源を公共の分野に使うことができる。政府が失業を生み出す課税をしたり、政府が民間から使用できる実物資源を必要なだけ賄えないことを予想することは意味がない(もちろん、民間の資源に限界はあるのだか、民間が利用できて、政府が利用できない資源などない)。すなわち、政府は課税によって失業した人々を雇用することができる。

納税義務を果たすために必要な資金は、政府の支出によって非政府部門に提供される。従って、課税による失業を解消する有給の仕事を、政府支出は提供する。もし「G < T」であるならば、非政府部門は流動性の面で締め付けられており(つまり、現金やその他の金融資産が政府に吸い取られており)、資産を切り崩さなければならない。これに従って不況がやってくる。

失業は、非政府部門が貨幣による所得を手に入れることを望んではいるが、所得の全てを支出に回さない時に発生する。結果的に、財・サービスの提供者の間に存在する、不本意の在庫の蓄積は、生産と雇用の減少に変化する。

明らかな結論は、「失業は、非政府部門の、税の支払いのための資金への要求と、所得を維持しようとする要求とを満たすほど政府支出が十分に行われていないことによって失業は発生する」ということである。

従って、財政の持続可能性の概念は、「非政府部門の純貯蓄をしたいという要求を賄うための継続的な財政赤字は、将来における高い課税によって払い戻されるだろう」という概念を拒否する。

ある期間における財政赤字は、その後のある期間において払い戻される訳ではない。将来における課税は、生産能力に対する総支出の状態によって変化するだろう(あるいは変化しないかもしれない)。税率に関する将来の決定は、政府支出を「賄う」ために行われる必要はない(それは過去の支出を賄う必要もなければ、現在の支出も、将来の支出も賄う必要がない)。

「なぜ政府は負債を発行するのか」を理解する

我々はすでに、主権を保有する政府は支出をする前に非政府部門に対して負債を発行する必要がないことを説明した。第20・21章で、我々は、公的負債が中央銀行に自ら目標金利を(公開市場操作を通して)安定化させるために使われていることを説明した。

実際、主権を保有する政府は全く負債を発行する必要がない。中央銀行は、継続的な財政赤字によって発生してしまった銀行の超過準備に対して金利を支払うことによって、金利がゼロにならないようにしている。超過準備に金利を支払わなかった場合、超過準備を保有する銀行はそれを貸し出そうとし、ますます銀行間取引金利が下落していく。

言い換えれば、財政赤字に合わせて非政府部門に負債を発行する行為は必要不可欠ではない。むしろ、過去の習慣の再現や、「政府の支出を制限しよう」というイデオロギーによって行われているだけである。もし支出をするごとに負債を発行するように政府に制度的な制限をかけてしまえば、政府支出に制限をかけるだろうと考えられている。現実ではそれらの制限が「政府が公共の目的を達成する責任を満たしているかどうか」を決定する上で取るに足らないものであるにも関わらず、公共の議論が公的負債の(何かに対する)比率に焦点を当てたものになっている理由は、そのようなイデオロギー的な考えがあるからである。

従って、財政の持続可能性は、「負債の発行」と「政府の純支出」の間を決して結びつけてはならない。財政赤字に合わせて負債を発行する必然性はない。財政赤字と負債の発行を結びつける政府による自発的な決定は、不換貨幣制度の本質に基づいているものではない。

財政目標の設定

財政目標の設定は政府にとって危険な行動ではない。なぜなら、我々は、最終的な財政の結果は、「自由裁量の支出」と「政府の設定と非政府部門の選択による徴税」に依存しているということを知っている。

厳しく性急な負債・財政赤字・支出の制限があるかどうかという面で財政の持続可能性を定義してはならない。むしろ、政府は完全雇用を達成する総需要を維持するために、純支出を継続することに焦点を当てなければならない。もし現実の目標(完全雇用など)が達成されれば、財政はそれに従って変化し、持続可能なものになるだろう。

国外からの影響

「もし外国人が政府の負債を購入している場合、その政府は国外からの与信リスクにさらされている」とよく考えられる。しかし、この懸念は誤解である。

第24章では、我々は、もし国民が財政赤字によって資産を貯蓄することを望んでいるならば、国家は必ず輸出を輸入よりも多くなるであろうということを見た。例えば、中国はアメリカに対して経常収支が黒字である。なぜなら、中国国民が資産構成をドル換算の資産で形成することを望んでいるからである。このような過程においてのみ、外国人はその他の国において現地の貨幣で純資産を貯蓄することができる。

対外資産の保有者は資産を、アメリカの国債で保有することを望むだろう。しかし、アメリカ政府の支出が、外国人国債保有者の選考に依存しているという訳ではない。主権を保有する政府は、外国人が自らの黒字を政府の負債と交換するのかどうかに関わらず、常に支出することができる。財政の持続可能性(「支出をする能力」と「現実の財・サービスを変化させる能力」)は、外国人の国債の購入の受け入れ・拒絶によって妥協させられている訳ではない。

「”費用”とは何か」を理解する

財政余地に関するIMFの概念は、経済の費用を構成するものを誤解している。政府が新しい計画で1000億ドルの支出をする財政の状態を公表するとき、その数字は費用を反映していない。

あらゆる計画の現実の費用とは、計画の実施に必要な資源の中で、過剰になった現実の資源である。例えば、もし政府が雇用保障を導入することを公表したとき、計画の現実の費用とは、労働者が自らの営利の追求に使用する「以前は失業していた労働者」と「過剰な資本設備」の過剰な消費である。言い換えれば、政府は、貨幣に関する用語を使って評価されるのではなく、「現実の資源をどのように使ったか」で評価されなければならない。

従って、財政の持続可能性は現実の資源の利用率によって関係しているべきである。このことは我々を、公共目的を追求する上での最初の点に連れ戻してくれる。正しい財政とは、完全雇用を一貫して達成する財政である。

22.4 負債の持続可能性に関する議論

政府の財政赤字と負債に関する議論は、負債を追加する絶え間ない赤字支出の持続性可能性と、同様に、政府債務残高対GDP比の持続性可能性に向けられるのが普通である。この節では、我々はこの問題について検証するつもりである。しかし、我々はまた、それらの議論におけるモデル化の作業が、貨幣を発行する政府を想定すれば根本的に見当違いであるということも主張する。それは以下の2つの点において見当違いなのである。

1つ目として、主権を保有する政府にとっての本質的な問題ではない。政府は自らの必要に応じてどんなに大きな額であろうともいつでも支出できる(第21章)という意味で、それは持続可能性の議論ではない。しかし、その議論が取るに足らないものであったとしても、もし政府負債残高対GDP比と負債に対する金利の支払いに継続的かつ急速に上昇した場合、違った種類の重要性をはらんだ、政府支出に関する「クラウディング・アウト」の問題を考えなければならない。

2つ目の同様に重要なこととして、経済成長の過程に関する簡単なモデル化の枠組みが間違っているのである。なぜなら、その枠組みは、財政赤字や負債の割合を変化させるような、経済の動きの変動が起こる可能性を無視している。

それではこれより、赤字支出の持続可能性を評価するために使われている一般的なモデルを検証していこう。その前に、主流派経済学が「政府は支出計画の事前に財政的な制約に囚われている」と仮定し、マネタリーベースによる財政赤字の補填がインフレを招くと信じていることを思い出してみよう。この主張は第21章3節で徹底的に論じ、MMTが完全に否定した。しかし、主流派のモデルに従えば、全ての財政赤字は負債の発行を招くとされてしまうのである。

我々は2つの時期における政府債務残高対GDP比の変化を測る。

時期0における政府債務残高を「d0 = D0/Y0」として表す。Dは債務残高、YはGDPである。この式で、「GDPの何割分の債務残高が存在しているのか」ということが分かる。

他の事情が同じならば、時期0における債務残高は、金利の支払いによって増加していく。「r」を利率とすると、時期0では「D0(1+r)」で債務があることになる。なお、ここでは「r」は定数とする。しかし、その債務残高も今後の財政黒字・赤字によって、相殺・増加する。次の会計時点における財政黒字・赤字を「FS1」(Financial Surplus)と表す。よって、時期0における債務残高は「D1 = D0(1 + r) - FS1」で表される。

同じように、時期0におけるGDPは「Y0」で表し、次の時期を「Y1」で表す。そして、GDPの成長を表す「g」という記号を定数として用いる。GDPは1つの期間において「Y(1 + g)」分成長する。これは負債を相殺するものとして重要であり、それが増えれば政府債務残高対GDP比は一定になったり減少したりする。債務残高、GDP、財政黒字といった変数は、一般的にインフレ調整後の数字を使用する。しかし、それはそれほど問題ではない。 デフレは単に全ての名目値を減らすから、我々は名目値を維持することができる。政府債務対GDP比の変化は「∆d」で表し、それは「∆d = D1/Y1 - D0/Y0」となる。その変化を変形したものが以下である。

(22.5) ∆d = D1/Y1 = D0/Y0 = (D0(1 + r) – FS1)/Y0(1 + g)) – D0/Y0

= (D0(r – g)/Y0(1 + g) – FS1/(Y0(1 + g))

= (D0/Y0)(r – g)/(1 + g) – FS1/Y1

= d0(r – g)/(1 + g) – fs1

「fs」はGDPに対する財政黒字の割合を示したものである。また「d」は政府債務対GDP比である。

それゆえ、この分析に従うと、以下の2つの要因が、債務の比率を上昇させるのかどうかということに関わっていることが分かる。

・負債の実質金利と実質GDP成長の差(すなわち「r-g」)は、正の数か負の数か

・時期1における財政状態は黒字か(すなわち「FS1 > 0」)赤字か(すなわち「FS1 < 0」)

その時、その2つの要因をそれぞれ組み合わせた以下の4つの状況が存在しうる。

状況1. r > g で財政赤字

状況2. r > g で財政黒字

状況3. r < g で財政赤字

状況4. r < g で財政黒字

もし「r > g」で年度の財政が「均衡」あるい「赤字」ならば、債務比率は上昇する( 状況1より)。

状況2で、もし政府が財政黒字を一定のまま運営した場合(一定の財政黒字は「fs*」と表す)、「r, g, fs*」の3つが一定である限り、その時は政府債務残高は一定のままである(一定の政府債務残高は「d*」で表す)。その「d*」の式は以下のように表すことができる。

(22.6) d* = fs*(1 + g)/(r – g)

「d*」で表される政府債務残高の均衡は、不安定である。例えばもし、財政黒字比率が一時的に以前の数値から(すなわち「fs*」)逸脱した場合、政府債務残高比率も以前の数値(すなわち「d*」)から逸脱し、決して「d*」には戻らない。それは、その後に「fs」が「fs*」に復帰したとしても、政府債務残高とそのGDP比率は回復しないのである。

もし財務省が継続的に財政赤字を発生させたが、同時にGDP成長が金利の支払いよりも大きかった場合(状況3)、分子(すなわち「fs*(1 + g)」)と分母(すなわち「(r – g)」)が負の数になり(22.6)の等式が正の数になり、(22.6)の等式を満たすような政府債務残高が維持される。さらに、このことは、政府債務残高対GDP比が以前の状況と比べて一定になることは、安定して起こり得るということを示してくれている。反対に、状況4のように、財政黒字で「g > r」の場合、政府債務残高対GDP比は着実に減少していく。

主流派経済学者は(22.5)のようなモデルを使用する。一般的に、彼らはそのモデルを使用するときは、我々が上記で行ったように、「g, r, fs」という重要な数値を定数として扱う。しかし、彼らは、「支出乗数効果の存在によってGDP成長(g)と政府の財政(fs)が相互依存になっている」ということを認識していない。これは彼らの大きな欠点である。

さらに、中央銀行は翌日物金利(それは利回り曲線における基本的な金利を設定する)の設定において重要な役割を担っているが、それだけでなく彼らは長期国債を買う能力によって利回り曲線を平らにすることもできる。

したがって、中央銀行は負債の金利(r)に影響を与えている。アメリカ、イギリス、日本、ユーロ圏のそれぞれの中央銀行は量的金融緩和を通して長期金利を下げ、民間の支出を刺激しようと試みてきた。

それゆえ、「g, r, fs」は前もって決められているものではない。定数ではないのだ。これらの数値は、財政赤字と政府負債との間の関係に大きな影響力を持っている。

ここで我々は、「完全雇用の維持の達成のための財政政策の装置は、持続可能性がない政府債務残高対GDP比を導くだろう」という一般的に抱かれた視点に疑問を投げかける、様々な状況を説明する。

・緩やかなインフレは、人々の名目所得を上昇が所得税の高所得者層にあたる人々を増やし所得税収を上昇させる現象(ブラケット・クリープ)を発生させ、税収全体が上昇させる傾向がある。多くの事例は、実質金利を減らす傾向を示している。実質金利の減少率を超える実質GDP成長を上昇率の実現を容易にする。言い換えれば、GDP成長率は再び金利以上に上昇するだろうということだ。さらに負債の力学を反転させる。

・政府は財政スタンスを調整することによって、マクロ経済に刺激(減税・支出増)を与える試みを実行することができる。妥当な支出乗数と最初の政府債務残高の数値に基づくならば、政府債務残高の上昇よりも高いGDP成長によって、政府債務残高対GDP比は減少するだろう。政策金利を低く設定することにより、中央銀行は、負債の力学を変化させる、「政府債務残高対GDP比の減少」が発生する可能性を上昇させることができる。

・民間部門は、政府の財政スタンスに応じて、自らのフロー(貯蓄・支出)を調整するかもしれない。もし政府が継続的に収入よりも多く支出するならば、政府は民間部門の純資産を追加することになるだろう。さらに、政府負債への金利の支払いも民間の所得を上昇させるだろう。純資産におけるこの上昇は、資産効果によって追加的な民間支出・低い貯蓄率を導くだろう。それゆえ、民間部門は収入に占める支出の割合を上昇させる。そこで起こりそうな結果は、「政府の税収の増加」、「民間消費の増加」、「民間の黒字の減少」、「政府の財政赤字の減少」である。爆発的に負債が上昇する状況はありそうもないことである。また、その状況は「非政府部門は、自分たちの純金融資産を創造する、大きな政府の財政赤字に反応し自らの行動様式を変えないだろう」という前提に基づいたものだ。

・最後に紹介するのは、議論を呼ぶ点だ。ここで議論した力学で作用し始めるものはないと想定してほしい。すなわち、政府債務残高対GDP比が傾向として上昇していると想定してほしい。主権を保有する政府は金利の支払いで間違いを犯すことを、強制されるのだろうか?アメリカの連邦準備制度理事会で議長を務めていたバーナンキは以下のように説明した。「世界金融危機の時に苦境に陥ったウォール・ストリートの投資銀行に対して行った、中央銀行による全ての支出・貸出はキーボード入力や電子的な貸借対照表の操作によって生み出されたものだ」。それを行うことに技術的な制限は存在しないのである。

我々は以下のように結論づけることができる。「民間の永続的な赤字支出と政府の永続的な赤字支出との間には、本質的な違いがある」と。前者は持続可能性はないが、後者は違う。

我々はすでに、政府の継続的な財政赤字が民間の資産を増やし、続いてどうしても政府債務比率を上げてしまうことがあることを説明した(Watts and Sharpe,2013)。しかし、貨幣を発行し主権を保有する政府は、債務比率が大きくなっているのにも関わらず、満期が到来した債務に対して全て返済することができる。それらの支払いを可能にする行為はインフレを導くかもしれない。それは、低金利政策といった政策への政策の変更を発生させるかもしれない。またそれは、経済成長率、財政赤字、負債比率の変化を引き起こしそうな、非政府部門の行動様式の変化を発生させるかもしれない。すなわち、政府債務の上昇は永遠に続くことなどありそうもない。

ラーナーが主張したように(第21章参照)、財政赤字には機能的財政論が必要である。財政赤字や負債の比率を心配するのではなく、我々は現実の問題に目を向けなければいけない。雇用、成長、為替、自然環境の持続可能性、不平等、その他の社会・経済的な生活の質の指標に、我々は目を向けるべきなのである。





23.1 はじめに

第20章では金融・財政政策について説明した。中郷銀行は、「財務省による支出」はもちろんのこと、「財務省による徴税」、「財務省の国債の売却による中央銀行預金の受け取り」を扱っている。これらの財政に関する活動は必然的に、銀行制度全体に対して衝撃を与える。したがって、中央銀行は、目標金利の達成を確保するために。銀行準備の変動を最小化する。そのために、財務省と緊密に連携して活動する。この調整に関する説明を通して、実際の中央銀行のそれらの業務に関する我々の理解にとって、MMTは多大な貢献をしてくれた。

第21章において、我々は「財務省が自由裁量的な財政政策をすることの利点」に関する議論を検証した。そこで、「貨幣の拡大により資金をまかなった時、財政政策を拡大することはインフレを生み出す。さらに、負債を発行によってその財政赤字を賄った場合、民間の支出を押し出してしまう」という主張をMMTによって完全に否定した。また「民間部門にとってもそうであるように、財務省にとっても財政赤字や負債の動きが悪いものになりうる」という主張も第22章において否定した。また、そこにおいて、貨幣の発行主体は、自らが発行する貨幣で計算された負債はいつでもどんなものでも返済が可能であるということも示した。

マクロ経済に関するこの4つの章における我々の第一の目的は、今までの近代の銀行業務に議論を短く要約した形にまとめることである。その時、多くの中央銀行によってなされる、「マネーサプライ目標」から「金利目標」への切り替えを分析する。その時、流動性管理に関する我々の理解を検証するだろう。すなわち、異なる制度の設定の考察により、目標金利を確保する中央銀行の業務が達成される。我々は、1970年代以降以来、先進国の間の金融政策において支配的になった観点に基づいた、主権を保有する政府による金融政策の行為を検証するだろう。その時、我々は、中央銀行が金融政策を容易にする能力をこれ以上制限した時、いくつかの中央銀行による慣習に従わない金融政策の採用を検証・評価する。

また、我々は、1993年中盤から導入されたインフレ目標を参照しながら、オーストラリアにとっての失業とインフレの結果を手短に検証する。その時、我々は金融政策を一番のマクロ経済政策の道具として採用することの、利益と不利益を評価する。

中央銀行の独立性の本質を取り上げる。これは垂直派の水平派と主張の立場の統合に従って行われる。

23.2 近代的な銀行の業務

民間部門の負債は国内の貨幣で計算される。同様に、負債を発行した民間部門は自らの負債を受け取る約束もしている。例えば、もし家計が銀行から借り入れた場合、家計はいつでも銀行の預金口座を使用した小切手を発行することによって元本・金利を支払うことができる。この事例では、銀行は自分に対する支払い手段として、自らが発行した負債を受け入れていることになる。同じように、政府も自分に対する支払い(納税)の手段として、自らが発行した負債(貨幣)を受け入れている。

実際、近代的な貨幣制度は手形交換所を備えている。すなわち、国内における全ての銀行は、他の国内の全ての銀行が発行した小切手を受け取っている。この制度は、国内の全ての銀行に対して、他の国内の全ての銀行が発行した小切手を使用して自らの負債の支払いを行うことを可能にしている。その時、手形交換所は銀行間の口座の振替を行う。銀行は政府の負債を使用して口座を処理する。そのため、銀行は自らの銀行に貨幣を蓄えるか、準備預金を中央銀行に維持している。後者の方がより重要な方法である。

第10章で見たように、全ての近代的な金融制度は、銀行が他の銀行(または中央銀行)から(銀行間取引市場を通して)貨幣と準備を手に入れることを可能にする支払い制度を発展させている。これは、銀行がその他の銀行と決済すること、あるいは銀行が顧客の現金の引出しに応じることを可能にしている。

また、銀行は金庫に保有する現金の量を最小化しようと試みている。そうする理由は、セキュリティー面だけに理由があるのではなく、彼らが貸し出しを行って金利収入を得ようとしていることにも理由がある。それゆえ、彼らは自らの準備をレバレッジ(元手の資金以上に貸出を行う資産運用をすること)し、準備という形の資産はほんの少ししか保有しようとしない。

銀行は(自らが発行する)預金を保有する顧客が、預金を現金に交換する総額が来る日も来る日も少ないうちは、何も問題はない。しかし、取り付け騒ぎ(多くの顧客が多額の預金を現金に交換しようと銀行に殺到する現象)が起きた時は、銀行は中央銀行から貨幣を手に入れなければならなくなるだろう。

このことは、銀行が取り付け騒ぎに遭遇した時の、中央銀行による最後の貸し手として役割さえ導くことができる。中央銀行がこのような介入をする時、中央銀行は自らが発行する負債を銀行に貸し出し、銀行は自らが発行する負債をそれと交換する。その結果、銀行は中央銀行の預金口座に準備を準備(銀行にとって資産)を保有することになり、中央銀行は銀行が発行した負債を自らの資産として保有することになる。銀行の顧客が銀行から現金を引き出した時、銀行が中央銀行に保有する預金が同額引き落とされ、顧客の銀行預金が同額引き落とされる。その時、現金は「中央銀行の負債(顧客にとっては、中央銀行に対する債権)」として顧客に保有される。ちなみに、その中央銀行の負債は、中央銀行に対する銀行の負債によって相殺される。

23.3 金利目標 vs 貨幣目標

1960年代行の長い間、中央銀行のマネーサプライを操作する能力に焦点を当てたマネタリストの考えは、政策立案者の集団において支配的になった。主流派経済学者たちは、「中央銀行は、民間の貨幣創造(与信)を操作できる、量的な制限をすることができる」とかつて主張していた。アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、オーストラリを含む多くの国の中央銀行は、1970年だから1980年代まで、マネーサプライを指標として貨幣の総量の目標を設定していた。彼らは貨幣数量説に基づき、そのようなことを実行した。そこでは、長い目で見たマネーサプライの成長はインフレ率を決定すると想定されていた。しかし、1980年代の中頃になり、各国の中央銀行は、自らの能力ではマネーサプライは操作できないことを発見した。そして、マネタリストの基盤となる考えを放棄した。

現在、中央銀行は、貨幣の値段を設定できるだけである(一般的に翌日物金利)ということを悟り、貨幣に関する統計の成長に対して僅かな注意しか払っていない。彼らは、準備の量、民間による貨幣創造の量、すなわちマネーサプライに対して間接的な影響力しか持っていない。

備忘録

与信創造の過程に関する対照的な考え方と、内生的貨幣供給論を見直したい方は、第10章を参照してほしい。

中央銀行が貨幣集計量を目標にすることをやめたのにも関わらず、中央銀行による目標金利の設定という金融政策はマクロ経済政策の第一の手段として引き続き使用されているし、その金融政策は未だにインフレ率の操作を目的として設計されている。しかし、「金融政策において、どのように銀行間取引金利の目標を設定すれば、有効にインフレ率を狙い撃ちできるのか」ということはめったに説明されない。せいぜい、「金利の変化は、インフレの過程に衝撃を与える、支出の量を変化させる」とまでしか説明されない。

財政政策ではなく、金融政策が重要な政策と考えられるようになったのは、1970年代の初頭においてインフレの理論として支配的になったフィリップス曲線から生じた命題を反映している。財政政策は、低い失業率を達成するものとして、拒否されたのである。なぜなら、それはインフレを招くと考えられたからである。完全雇用を阻害する低く安定したインフレ率は、マクロ経済政策の主な目標となった。それは、「民間部門の支出計画は予期せぬインフレ率の変化によって毀損されることはないため、低く安定したインフレ率の経済環境は民間部門の支出と雇用に対して最も伝道する性質がある」という信条を反映している。加えて、「金融政策の策定を任された独立した主体の方がより良い決定を下すことができる」という前提が存在していた。

いくつかの中央銀行は、インフレ目標の達成の任務を負わされた。例えば、2018年、イングランド銀行は年間2%のインフレ率を達成する任務を負わされた。一方、オーストラリア準備銀行は目標範囲を採用し、年間のオーストラリアのインフレ率を2~3%に収めることを要求された。アメリカの連邦準備銀行はインフレ目標の達成を強制されてはいないが、2016には長期的な政策目標と金融政策の戦略を表明した。連邦公開市場委員会(FOMC)は2%のCPIインフレ目標が「法定要求準備を長期的に運営する上で最も適している」と表明している(FOMC,2016)。

インフレの操作に加えて、中央銀行は政策的な目標を達成する主体としても捉えられている。例えばアメリカのFOMCは、「最大の雇用、安定した物価、適度な長期金利を促進する議会の法律を満たすことをはっきりと約束し」ており、また、「FOMCの関係者が推定した、長期的な通常の失業率の中央値は4.9%である」と表明している(FOMC,2016)。また、イングランド銀行は「経済成長や雇用を含む政府の経済政策の目標を支援」しなければならない(Bank of England,2016)。オーストラリア準備銀行は「オーストラリアにおける完全雇用の維持」を援助しなければならない。またさらに総合的に「オーストラリアの経済的繁栄と人々の福利厚生」まで支援しなければならない(Reserve Bank Act,1959)。

第三の政策目標

適度な資産価格の上昇という第三の政策目標も時々言及される。しかし、正式には認識されない。実際、他の中央銀行と同じようにアメリカの連邦準備銀行は、考慮することを義務づけられていない、資産価格について公の場で発言することを避ける。さらに、もし中央銀行が資産価格の上昇を義務付けられていた場合、これは政策的な論争を発生させる。中央銀行が資産価格に関心があるときは特にである。

多くの先進国における中央銀行は、毎月銀行間取引金利の目標値を設定する。しかし、その水準は、広く一般的な政策的な優先順位に鑑みて、独立した機関の決定により命令されて設定したものである。銀行による準備への需要は非弾力的(変化が少ない)であるため、中央銀行による協調的な行動は一般的に、翌日物金利が目標値に向かって素早く動くであろうことを考慮した、目標金利の変更の表明に従うことを要求されていない。

最後の貸し手としての役割と金融の安定性を保つ役割

危機の際、中央銀行によって担われる重要な役割は、金融機関が要求する準備を提供する、最後の貸し手としての役割である。もともとこの役割は、銀行の取り付け騒ぎを止めるために考案されたものである。世界金融危機が発生したとき、銀行は借り換えをすることができなかった。なぜなら、銀行の顧客が満期の負債の支払いを望んでいたからだ。世界中の中央銀行は借り換えを提供し、金融制度を崩壊から防いだ。中央銀行は、当時の政府に代わって金融制度に対して貨幣を提供する、絶大な能力を際限なく保持している。世界金融危機の間、オーストラリア準備銀行もまた、銀行の顧客を安心させるために預金の保証を行なった。米ドルが国際的な外貨準備として保有されていることを考慮して、世界金融危機の時、アメリカ連邦準備銀行は数兆ドルを外国の民間銀行・中央銀行に貸し出した。ドル換算の負債を発行するアメリカ国外の銀行の取り付け騒ぎを止めるための、世界の最後の貸し手としての行動を本質的にしたのである(Felkerson,2012)。

23.4 流動性管理

はじめに

この節では、この本の最初の方の章で紹介した流動性管理(中央銀行によって行われる、銀行間取引金利の目標値を達成するために行われる業務)について分析するつもりだ。また、異なる制度的な手段も考慮するつもりである。

MMTは「中央銀行はマネーサプライ・銀行準備、いずれの水準も操作することはできない」という観点を共有している。代わりに中央銀行は準備への需要に対して必ず応じることができるとしている。それゆえ、準備の供給は、中央銀行の目標金利において、「水平的である」として最もよく特徴付けられる。これは内生的貨幣供給論および水平的準備論と呼ばれるものであり、それは1970・80年代にムーアとその他のポスト・ケインジアンによって発展させられたものだ(Lavoie,1984;Moore,1988)。現代のほとんどの経済学者は、これらの学派の考え方を無視し、「マネーサプライを操作できる」という考え方を、近代的な中央銀行の業務を正しく表現したものであるとしている。

しかし、「中央銀行による準備の水平的な供給」を支持する主張は、以下のことを考慮することなく公式化されている。

・財政政策の活動

・中央銀行の翌日物金利の目標値が、ゼロ付近になった時の状況、もしくは中央銀行預金に対する支払いの利率と等しくなった時の状況。

政府が支出をした時、政府に財・サービスを提供した者の銀行預金が上昇し、その銀行の準備が増加し、結果的に銀行制度全体で準備が増加する。銀行準備に対して支払う金利が目標金利より低く設定されている、中央銀行は国債を売却することによって超過準備を排出させている。さもなければ、銀行が他の銀行から準備を借りる時の金利が、市場原理よって下落していってしまう。財政黒字の時、銀行準備の減少幅は増加幅よりも大きくなる。よって、銀行準備は純粋に減少し、それを増加させるために中央銀行は公開市場操作による国債の購入する必要が出てくるだろう。第20章において、財政政策が実行された状況における、中央銀行による流動性管理の単純化した概要を説明した。「準備は目標金利において弾力的に供給される」という主張の要点は、財政政策を考慮したとしても変わることはない。

主流派経済学の教科書における貨幣乗数モデルの論理に従えば、中央銀行は、公開市場操作による準備の供給によってマネーサプライを供給できることになる。そして、部分準備制度、あるいは銀行によって選択される準備に対する預金の(予測可能な)比率に従って与信創造が行われていくという前提を立って、銀行は膨大な貸出をすることができるとしている。しかし、主流派の主張は、「銀行が望む量以上の準備の追加は、次の会計期間まで要求準備が変更されないため、ただちに銀行間取引金利をゼロに下落させるか、支援金利をゼロ以上にする」という認識をしていない点で欠点がある。もし目標金利あるいは支援金利が等しくない場合、ゼロ以上の銀行間取引金利の目標を達成する要求は、中央銀行に国債を売ることによって準備を排出することを強制する。

一方で、主流派は「中央銀行は準備を減らすことによってマネーサプライを減らすことできる」という視点も持っている。しかし、もし排出される超過準備が存在していない場合、いくつかの銀行は十分な準備を持っているだろう。中央銀行は、銀行間取引金利の目標値を維持するために、銀行制度に対して準備を戻さざるを得ないだろう。

主流派が想定するマネーサプライの増加の過程、あるいは減少の過程、どちらの場合も、銀行準備とマネーサプライの水準は不変なのである。従って、中央銀行は、「マネーサプライを操作」するという表面上の政策目標を達成する(とされている)準備の変化を、自由裁量的に決定する権限を持っていない。準備の変化でマネーサプライを変化させることもできなければ、「中央銀行は銀行間取引金利の目標値を達成しなければならない」という要件のために、その準備すら(金利目標の達成という目的以外のために)自由に変化させることはできなのである。代わりに、銀行による与信創造の結果としてのマネーサプライの増加は、銀行が預金に対する準備の比率を上げるために自らの準備を増加させた時、マネタリーベースの増加をもたらすだろう。この相関関係は決して「準備が与信を変化させている」わけではない。むしろ、「与信が準備を変化させている」のである。銀行は与信創造(貸出)をすることにより、中央銀行における準備を増加させるのである。マネーサプライとマネタリーベースの関係で言えば、「マネタリーベースがマネーサプライを変化させている」のではなく、「マネーサプライがマネタリーベースを変化させている」のである。

金利設定の異なる手段

世界金融危機の直後、アメリカと日本はゼロに近い金利目標を採用した(表23.1)。そのため、超過準備は放置された。アメリカの銀行間取引金利の目標値は、2015年12月になるまで0から0.25%の範囲内で設定された。この状況では、銀行が保有する超過準備の水準にも関わらず、市場金利はその範囲内にとどまった。2015年12月、アメリカの目標金利の範囲は0.25から0.5%の範囲に上昇し、続いて201612月にはさらに0.25%分上昇した。連邦準備銀行は、銀行間取引金利の目標範囲の下限の利率で準備に利息を支払い、上限の利率で銀行に準備を貸し出した。これによってフィデラル・ファンド金利(アメリカにおける翌日物金利)が全体的に目標範囲にとどまる状況を確保する。たとえ超過準備を放置したとしても目標範囲にとどまるのだ。2009年、イングランド銀行は目標金利と支援金利(準備に支払う金利)を0.5%に設定した。どの銀行も0.5%以下の金利で準備を貸し出そうとしないだろうから(貸し出そうとしなくても準備を保有するだけで0.5%の金利がもらえるから)、目標金利は0.5%を下回る心配はなく、銀行制度の超過準備を放置することができた。この目標金利は2016年8月に0.25%に切り下げられた。

それゆえ、正の数の目標金利が支援金利と等しかったとしても、ゼロ付近に止まっていたとしても、金融政策で妥協することなく中央銀行は超過準備を放置することができる。すなわち、中央銀行は緩和的な役割を演じるように強制されない。しかし、準備の不足は市場金利を目標金利以上にするだろうし、中央銀行に対応を迫るだろう。言い換えれば、準備に対する支払い(あるいは、ゼロ金利政策の採用)は中央銀行にとって「超過準備は放置できるけど、準備の不足は放置できない」という非対称を生む。

「中央銀行は超過準備に介入することによって民間銀行を主導できる」という認識は、「政策に対して量的な手法を用いることができるかもしれないという信条を導いたのかもしれない。言い換えれば、超過準備を満たすことによって、マネーサプライを少なくともマネーサプライを上昇傾向にするような左右差ができるかもしれないという信条を作り出したのかもしれないのだ。さらにその時、これは金融政策における「通常利子率波及メカニズム」として知られる考え方が発案されるのを助けたのだろう。世界金融危機の後にはすでに金利が低かったことを考えると、中央銀行は超過準備を提供することによりその後もなお経済に刺激を与えることはできたのだろうか?

その時、復活するべき「預金」、すなわち「マネーサプライ」は準備によって操作できるのかどうかということが重要な疑問となった。このことは「否」である。なぜなら、利益を生む貸出は返済能力がある顧客と、銀行が十分な利回りを生むのに妥当な貸付金利と借入金利との差を求めているからである。この計算に付随して、十分な準備があるのかないのかに関わる影響が発生する。

イングランド銀行は、「銀行は与信創造ために資産を使う」としている、あまりにも単純化された「銀行は金融の仲介者である」という定義を拒否している(McLeay et al,2014)。この点で、金融制度における銀行の役割に関して大きく譲歩している。しかし、いくつかの中央銀行はいまだに「マネタリーベース(非政府部門が保有する現金と準備預金)が銀行による与信創造に影響を与える」という視点を持っているように思われる。

23.5 金融政策の手段

波及経路

ここでは、我々は、「金融政策における変化が、波及メカニズムを通して、マクロ経済に影響を与える」とされていることについて説明する。一般的に、金融政策と金利リスクに関する不確実性によって、利回り曲線は右肩上がりになる(第10章参照)。ここでは目標金利の切り下げについて考慮してみよう。利回り曲線は、リスクがない金利の期間構造をグラフ化したものである。そのグラフ上では、横軸に複数の国債の満期を示し、縦軸にはそれぞれの満期を持つ国債の利回りを示している(第10章の図10.1参照)。

その時、銀行間取引金利(の目標値)の下落は、裁定取引を通して、中長期の満期を持つ国債の金利を下落させるであろう。そして、利回り曲線の右肩下がりになるだろう。また裁定取引は民間部門の資産の金利に則り行われる。それゆえ、金利政策の変化は、民間の短期金利(例えば、銀行預金の金利)や商業・消費者借入における長期金利に影響を与えるだろう。このような民間部門において発生する金利上昇の調整現象は、オーストラリアでは、目標金利の上昇に伴って発生する。しかし、たまに目標金利を切り下げた時にも発生する。だが、もし目標金利の変更が市場において広く待ち望まれているならば、それは全体的な金利の期待を反映しているのかもしれない。なので、金利の変更を表明した後の利回り曲線の動きは、はっきりと少なくなるだろう。

投資は、金利の影響に敏感な、総支出の構成要素である。新規の物理的な資産への投資は通常、借入によって行われる。これらの投資計画は、予想される純利益率が借入金利が高い時だけ着手される。投資計画の建設段階は(数年まで行かないとしても)数ヶ月は続くだろうし、生産・販売が行われるまで計画からの利益は生まれないだろうから、長期金利は妥当な数値になる。他の事情が全て同じならば、金利の切り下げに伴う追加的な支出に合わせて、さらなる投資計画が「十分な利回りを生むだろう」と期待されるだろう。利益への期待に基づく、不確実な将来への長期的な期待は極めて不安定である。しかし、自信も反映している。したがって、「借入金利における0.25%あるいは0.5%の切り下げが投資支出に良い影響を与えるだろう」と判断する確証は存在しない。加えて、2019年に発生する投資の水準は、事前の数ヶ月におよび行われた詳細の投資計画の結果だろうし、その計画は短期の微妙な金利の変化に敏感になりそうにない。

耐久消費財(例えば、車、家、白物家電および家電)への支出は良く借入によって賄われる。なのでまた、借入費用と貸出能力は支出に関する決定に対して妥当な水準である。不確実な経済環境では、数年後のうちに雇用確保の水準も、借入を返済する能力を考える上で、重要な考慮すべき要素になるだろう。住宅ローン金利の下落は、定期的な住宅ローンの支払いを減らすだろう。それはさらに高い支出を可能にし、そしてあるいは、貯蓄を増やすだろう。また、住宅ローンの早期の全額返済を可能にするだろう。

目標金利の下落は国内の金利を全体的に低下させ、国内と国外の金利の差を縮める。国債資本移動(外国との金融資産の売買)は金利の差に強制的に反応させられる。国内の金利が低下すると、国内への資本流入が減少するだろう(すなわち、外国への資産の売却を、外国の資産の購入が上回る)。なので国内貨幣は減価されるだろう。これは「国内貨幣で価格がつけられた時は、輸入が高価になり、外国からの購入を魅力的でないものになる」ことを意味する。一方、「外国貨幣で価格がつけられた時は、輸出はより安くなり、高額の投資と耐久消費財支出を増加させるような純輸出は今後増加していくであろう」ということも意味する。

長期金利の小さな変化は支出に小さな影響しか与えないであろう。しかし、それにも関わらず、どんどん上昇していく金利は最終的に、金利に敏感に反応する支出を減らす。

それゆえ、総支出に影響を与えようとするための、そしてインフレの過程に間接的に影響を与えようとするための、金融政策への依存は非常に問題がある。我々は手短に、インフレと失業の結果に関して、オーストラリア準備銀行の能力を本章7節で再検証する。

23.6 慣習的ではない金融政策

はじめに

アメリカ、イギリス、日本、ユーロ圏を含む、世界金融危機の悪影響を被った先進国では、公定歩合は2008年の前半から頻繁に切り下げられ、歴史的な低金利を記録した。2015年12月に目標金利の範囲を0.25%から0.5%にあげ、2016年12月にはさらに0.25%分の利上げを行なったアメリカという例外を除けば、それらの国々の低金利は2016年の終わりまで継続した。

世界金融危機後に着任した政策立案者は、「金融政策はいまだにマクロ経済学の主な手段であると考えられている」という事実を強調した。世界金融危機以来、先進国の経済のインフレ率は低く、実際、特にユーロ圏ではデフレが到来している可能性さえ何度も議論された。世界金融危機は、それ自体が民間部門の支出の崩壊を招くものであると世界中へと瞬く間に知らしめた。財政刺激策はOECDとIMFにより支援された。しかし、もし有害な財政赤字・負債発行の動きがあった場合、支援を中止するという条件が付いていた。刺激策はオーストラリア、イギリス、アメリカを含むいくつかの国では採用されたが、採用された国でさえ2009年の間しか行われなかった。したがって、そこには金融政策への依存があった。しかし、主な先進国の経済において金利がゼロ付近に下落していたので、さらに金利を引き下げる手段には限界が来ていた。結果として、これらの国々は慣習的ではない金融政策を採用するに至った。

量的緩和

利回り曲線の金利を下落させる能力の欠如が発生した後、彼らの銀行間取引金利の目標値は非常に低いため、日本、イギリス、アメリカは利回り曲線を水平にする方法として量的緩和政策に頼った。簡単にいうとこの政策は、国内の中央銀行が長期国債を購入する業務を進行させる政策であり、ある場合には民間部門の金融資産を銀行やその他の民家部門から購入することもあった。この政策の目的は、民間の金融資産の市場価格を上昇させる、その資産への需要を押し上げ、それにより利回りを下げ、利回り曲線を水平にすることにあった。加えて、中央銀行に民間部門が金融資産を売却は、国内全体の銀行準備の増加をもたらした。

この章ですでに学んだように、イギリス、日本、アメリカ、ユーロ圏における世界金融危機後の金利設定の業務は、量的緩和の実施を可能にした。ゼロ付近の金利と、超過準備への低い利払いで、中央銀行は非対称の政策を採用することができた。中央銀行は準備の不足は放置できなのにも関わらず(もちろん、ここでいう「不足」「超過」は「銀行制度全体での準備」の話である)、悪影響がなければ超過準備であれば放置できた(この対応の切迫感の差を「非対称」と呼んでいる)。もし超過準備の発生に伴い中央銀行が国債の売却によって目標金利を守ることを強制された場合、最初の国債の売却は無効にされるだろう。それによってあらゆるマクロ経済的な影響を無効化する。

イングランド銀行は、量的緩和が支出を促進するとされるメカニズムを証明した。1つ目として、金融資産の購入は短期・長期金利を減少させ、自信の増大を促進する。これは信号経路として定義されている。

2つ目として、中央銀行による国債の購入は、これらの資産を保有している家計にとっての資本利得(キャピタル・ゲイン)を上昇させる。そして、彼らはそれらの資産の上昇分を消費に回すと仮定されている。これは資産構成(再)バランス経路として参照される。3つ目として、銀行以外からの資産の購入によって増加した銀行預金と銀行準備は、銀行の貸出能力を増やすだろう。なので、銀行はさらに貸出を増やそうとするだろう(Joyce et al.,2012)。これは銀行貸出経路とされている。

MMTは、「間接的に長期金利を減少させる公定歩合の切り下げをより早く行うよりも、量的緩和を通した長期金利の直接的な減少の方が、経済を刺激することにおいてより効果的なのか」という議論に挑戦している。先進国における主な疑問は、経済成長の不調と、返済能力がある大勢の借り手の慢性的に不足していることである。2つ目として、資産効果による支出の増加が微量に存在しているだろう。しかし、同様に、退職者に対する金利所得は金利の利率に基づいており、利率の減少によってそれは減少するだろう。3つ目として、MMTは銀行貸出経路の概念を、「準備が貸出・与信創造を運営している」という考えに基づいているため、要するに「貨幣乗数」の考えに基づいているため、拒否するだろう。

マイナス金利

「慣習的でない」金融政策のもう1つの形態は、スイス(2015年2月から)と日本(2016年1月から)の中央銀行が頼った「マイナス金利政策(準備に付与する利息の利率を、負の数の利率にする政策)」である。

日本はそのマイナス金利の標準金利を-0.1%に切り下げた。しかし、金融機関の所得への影響を減らすために、金融機関が保有する準備は、「正の数の金利がつく準備」「金利がつかない準備」「負の数の金利がつく準備」の3つの層に分けられた。また、日本銀行はその政策に並行して、毎年80兆円分の国債を購入することによる量的緩和政策も行うことも約束した。これら2つの手法は利回り曲線の金利を減少させ、「利回り曲線にさらなる下方圧力を発生させる(日本銀行,2016)」と予想された。この戦略の目的は「できるだけ早く2%の物価安定目標を達成すること」であった。

この目標が「インフレ率を高くすること」にあるのに、民間部門に新たな公的な税を課すことは奇妙である。しかし、これは、欧州中央銀行による0.3%の金利目標を達成するために行われた全ての準備に対する3%の課税と比べて、比較的に注意深い動きである。これらの状況では、銀行は準備の保有量を切り詰めるインセンティブ(意欲)を持つようになるだろう。しかし、これは別に「銀行が貸出・与信活動にインセンティブを持つ」ことを意味する訳ではない。

バリオとディスヤタットは(Bordo and Disyatat,2009:19)は以下のように記している。

「超過準備」と「銀行による貸出」の間の希薄なつながりを示す、顕著な最近の実例は、2001年から2006年までの日本銀行の「量的緩和」政策による経験である。ゼロ金利政策を伴った、超過準備の十分な拡大、およびマネタリーベースの増加があったのにも関わらず、日本国内の銀行による貸付行為は頑として増加しなかった。

彼らは、日本の当時における低調な貸出の成長の原因は、日本経済が消費部門の需要が貧弱であり、彼らが借入を望んでいないことにあると主張し続けた。日本の当時の政策は2010年以来、対GDP投資比率を補った。しかし、その比率は日本の1990年代にまんべんなく発生した投資比率を下回ったままであった。

結論

新自由主義の考えと一致して、世界金融危機以来、政府はマクロ経済政策の第一の手段として、金融政策に頼り続けている。それは、先進国において高い失業率を発生させるという大きな間違いを犯した。結果として、従来の貨幣の緩和に関する限られた視点の先を考慮して、中央銀行は慣習的でない金融政策に頼った。MMTの視点からは、これらの手法は効果的でない。これまでの証拠は、MMTの視点を支えている。

23.7 金融政策の実践

図23.1は、インフレと失業率に対するオーストラリア準備銀行の能力を検証している。1993年の中盤にオーストラリア準備銀行に対して2%のインフレ目標が導入された。第18章で分析したように、1991年の不況に従って、インフレと失業率の間の関係において抜本的な変化があった。2000年から、インフレ率が減少傾向になり、それに伴い2008年まで失業率が減少し続けた。2010年の後半から、いくつかの変動があったが、失業率が絶え間なく上昇した。たとえ、最高で1.75%から1.5%への、一連の公定歩合の減少(2016年8月のできごと)があったのにも関わらず、失業率は上昇したのである。

従って、インフレ率が2%を下回り、なおかつ失業率が上昇しており、刺激策を行うことが正当であると考えられている時、公定歩合の切り下げる行為は意味がない。この結果はMMTの意見と一致する。この実例は、ギリシャ、スペイン、ポルトガル、アイルランドのような国を、継続的な経済の成績の分析をした時に、より一層明確に示される。継続的な低いインフレ率、デフレ(物価が減少すること)期、欧州中央銀行によって設定される銀行間取引金利の低い目標値(2018年は0.00%)。これらがあったのにも関わらず、これらの国は2018年に高い失業率に陥っている。例えば、アイルランドは5.9%、スペインは15.1%、ギリシャは19.5%の失業率に見舞われている。

23.8 金融政策の利点と欠点

マネタリストと主流派経済学者は一般的に、金利の設定を通した金融政策をマクロ経済政策の主な手法として使用することを好む。理由は以下の通りである。

・簡単に柔軟に実行できる(毎月実行内容を勘案する)

・政治的な影響をなるべく少なくできる

・金融取扱業者により明確に理解してもらえる

加えて、もしインフレ率が目標の水準(例えば、特定の目標だったり、範囲の目標)の下にある場合、消費者と商業に携わる人のインフレ予想を固定する。

金融政策の欠点は以下の通りである。

・経済にとって適時に「刺激的」あるいは「緊縮的」に作動することを保障されていない、無差別的な政策である。

・中東における政治的な不確実性から発生する外国の石油危機や、世界的な干ばつなどの、費用上昇型インフレに対応するのに、不適切な政策である。

・衝突し合うであろう3つの政策目標(インフレ・GDP成長・資産価格上昇)に影響を与えることを試みるために、いくつかの状況において個々の手段が存在している。ティンバーゲンは、手段の数は継続的に行われる経済政策の「目標の数」と等しいと指摘した(Tinbergen,1952)。

・地域的に特殊ではない。なので、大都市における住宅ブームが起こったとしよう。それは、より高い(変動金利付きの)住宅ローンの返済を通して住宅価格の上昇を抑えるために、目標金利が上昇することを保障するだろう。しかし、同時に大都市以外の地域において住宅価格の下落し、雇用機会の減少したことにより、金利を減少させるだろう。

・もしもその金融政策が、良く過小評価される「高い失業率」という主な経済的・社会的な費用を課すことができる、低インフレ(あるいは目標範囲)を目的としている場合、それはよく過度な引き締め政策となる。

23.9 中央銀行の独立性

はじめに

金融・財政政策を実行するための制度的な手法についての重要な議論は、近代的な貨幣経済において適切な中央銀行の独立性が確保されているかということである。もしそうならば、独立の本質とは何であるべきだろうか?我々は以下のことをすでに示した。

中央銀行は目標金利と支援金利が等しくなったりゼロ金利目標が存在しない限り、準備の提供に関して調整的でなければならない。しかしまた中央銀行は、法律で定められた政策目標の制約の範囲内において、銀行間取引金利の目標を設定することが可能である、と。

独立性に関する根本原理

オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、イギリスなどの、いくつかの主権国家の経済では、第一次市場で中央銀行が政府の債務を買い取ることを法的に制限されていない。しかし実際には、これら国の中央銀行は、カナダを除いて、第一次市場において契約を制限されている。この制限は1923年の連邦準備銀行の設立の時に書かれたアメリカの法律に含まれている。対GDP比で25%の財政赤字が存在した、第二次世界大戦中のような、制限の例外はあるものの、法律では禁止されている。

確かに、主流派経済学の専門家や政策立案者の中では、「中央銀行が第一次市場において国債を買うことによって、財政赤字を賄うことを禁止すべきだ」という意見の一致が存在している。イギリス財務省は債務管理局を通して、事前に公表した発行日(それは年内に変更される可能性もある)に合わせて国債を発行し、必要な資金を満たしている。それは以下の例のように表現される、根本原理を提供する。

政府は、透明性と予測可能性の原理は、予算を賄う必要性が完全に満たすことによって、最もよく達成されると信じている。さらに、政府は、金融政策と負債管理政策との間の制度的な分離と矛盾しないように、公的部門の金融取引が貨幣環境に影響を与えることができる認識を避けることによっても、透明性と予測可能性の原理が達成されると信じている(HM Treasure,2012:8)。

最初の点は、政府支出は高額になる傾向にあり、税収を超える高額な支出が、全体的な予算を賄う必要性に合わせた負債の発行・売却によって明白になることを、暗示している。オークション制度の下では、異なる満期を持つ国債の売却される量は、市場の利回りの決定によって決定する。それによって予算を賄う作業が終了するだろう。2つ目として、負債の売却は、財政赤字によって発生する準備における衝撃を中和するだろう。これは、超過準備を吸収するための負債の売却によって、「政府は、金融政策の誠実さを保つために中央銀行に対して要求することを避けているのだ」と考えられてしまうかもしれない。また、その時、中央銀行と負債完成作の間の制度的な分離を維持してしまうだろう。しかし、銀行はある程度の追加的な準備を保有することを望んでいるだろう。また、銀行以外の民間部門も、経済活動が活発になることを考えれば、現金を追加的に保有したいと望むだろう。それゆえ、流動性管理の必要性は、非政府部門による追加的な負債の保有は、必要な予算を完全に賄う行為と一貫していないことを、よく意味するだろう。また、金融政策と負債管理政策との間の制度的な分離が存在しないであろうことも意味するだろう。

もう1つの事例は、「欧州中央銀行がユーロ加盟国政府の負債を買い取ることは禁止されている」と仮定されていることだ。マースリヒト条約の下で、計画的にこれらの政府は市場によって自らの財政赤字・負債を制限することになった。したがって、対GDP比で3%以内の財政赤字と60%以内の政府債務残高が義務付けられた。本書の学んだように、この計画は実現に至っていない。欧州中銀行は第二次市場においてユーロ加盟国の政府負債を買い取ったことにより、自らの貸借対照表はアメリカの連邦準備銀行のそれよりも大きくなっている。

ほとんどの先進国における中央銀行は自国の議会に対して説明責任がある。また、自らの業務と財政策に関する詳細な情報を提供する義務を負わされている。この章の前半で説明したように、ほとんどの議会は中央銀行を主導するマクロ経済の目標を細かく指定している。目標には、例えば、低インフレ、雇用、妥当な経済成長、財政の安定性などがある。議会はこれらの目標を達成するための手段(例えば、公開市場操作、割引窓口貸出)に関して指令を与えられないだろう。

「多くの中央銀行によって享受されている独立性は、彼らを特定の利益団体による政治的な圧力から隔絶することを可能にしている」という、一般的に受け入れられている視点が存在する。中央銀行の目標金利を設定する委員会・理事会が、しばしば勢力の強い政党によって任命されるのにも関わらず、その観点が存在しているのである。したがって、彼らは「評判が良くないが長期的に経済に利益をもたらす決定」をも下すことが可能であるとされている。しかしとうとう、何人かの主流派経済学者が「中央銀行は税と政府支出に関する決定もするべきだ(もちろん現在はどこの国も財務省が行なっている)と信じている」のにも関わらず、以上の中央銀行の独立性は現実世界では存在しない。中央銀行は財務省に対する支払いを断ることができない。なぜなら、彼らは決済制度の円滑な機能性を確保するように強制されているからである。もし中央銀行が「不足している予算」の賄うための小切手を購入しなかった場合、中央銀行の最高責任者は説明責任を果たしてもらうために、選挙で選ばれた代議員の面前に呼ばれるだろう。主権を保有する政府の支出は、財政に関する法律・契約によって制約されているのであって、中央銀行に制約されているわけではない。

23.10 水平的・垂直的業務:それらの統合

ある点で、垂直派と水平派はそれぞれ貨幣供給の過程の認識を持っている。ある人は、不換貨幣の政府の供給によって成り立っている垂直的な貨幣供給の部分を想像することができる。「貨幣は政府の財・サービスの購入や中央銀行による資産(金・外国通貨や外国政府負債・割引窓口からの債権の割引買取)の購入を通して、政府から民間部門に垂直に落ちる」と。

図23.2はマクロ経済の関係性の垂直と水平の側面を表現している。後者は、マネーサプライを拡大・縮小させる民間の貸付市場の参加者(例.銀行)を表している。

我々の「民間部門に(政府支出によって発生する)政府の不換貨幣を受け入れる意欲があるのは、政府がその不換貨幣で納税することを民間部門に義務付けているからだ」という今までの議論を思い出して欲しい。

政府部門(財務省・中央銀行)は「(広義の)貨幣」を経済に注入する。中央銀行が主として貨幣を現実世界に「貸付」をしている一方、財務省は貨幣を「支出」している。同時に、税の支払い(それは義務を解消する)は不換貨幣を排出する。民間部門から政府部門への垂直的な動きとして想像することができる(すなわち、貨幣の「紙くず入れへの移動」は、単に中央銀行の貸借対照表の負債側をふき取る)。これらの垂直的なフローの正味の差は、不換貨幣の貯蓄(全民間部門が保有する不換貨幣と、銀行が保有する準備)の変動をもたらす。民間の機関は、自らが発行した負債よりもかなり多い貨幣を保有している。また政府は金利が付く債権を、金利が付かない現金や準備と交換することを提案することができる。

これらの債権の売却(第一次市場における財務省による発行・売却であろうと、第二次市場における中央銀行による売却であろうと)もまた貨幣を排出する。その排出される貨幣は、貨幣と企業にとっては現金として保有されているものであり、銀行にとっては準備として保有されているものである。

他方で、水平としての銀行の貨幣供給も考えることができる。これは、貯蓄している垂直的な不換貨幣のレバレッジ(少ない資産で多くの負債・収益を獲得すること)の形態として視覚化することできる。明らかに、銀行貨幣は不換貨幣をレバレッジをした結果生まれたものの一種でしかない。

レバレッジによって生まれたものは他にも、コマーシャルペーパー、民間債権、全ての種類の銀行預金などがある。要するに、計算に使用する不換貨幣で換算されたふべての負債である。これらの民間の負債の全ては、3つの共通する特徴を持っている。(1)それらは不換貨幣で換算されている。(2)それらは短期ポジション(現在保有できる金融資産)・長期ポジション(金融資産を提供する将来の約束なので、現在は保有できない金融資産)で成り立っている。(3)それらは、長期・短期で正味ゼロになるような、「内側の」負債である。銀行の借り手が、自分たちは後々借金を返済する貨幣を手に入れるだろうとかけている短期ポジションを持っている一方で、銀行預金は不換貨幣の長期ポジションとして考えることができる。

政府支出の減少は、民間部門の資金繰りを困難にすることができる。すなわち、民間部門が銀行に対して発行したローン(借り手にとっては負債・貸し手にとっては資産)は、返済するのに十分な貨幣を獲得できなくなる。これは時々「短期圧縮」と呼ばれる。労働者などの借り手は、所得を失う。なぜなら政府支出の削減が失業を増加させるからである。また、その労働者が企業に勤めているのであれば、売り上げが減ったり、必要な借り入れができなくなるからである。もし(銀行預金を増やしてくれるような)「救済者」が自らの支出を増やす意欲があるならば、あるいはその他の人々が(圧縮に対する貸出をする)短期ポジションを獲得するために市場に参入してくる意思があるならば、政府支出の削減から発生する圧縮は緩和される可能性がある。この事例では、非政府部門での資金不足は水平的な階層における活動で和らげられるかもしれない。しかしこれは、経済活動が後退し、非政府部門が支出と貸出に慎重な立場をとっている時には起きそうにない。

短期圧縮を和らげることができる、唯一の信頼できる方法は、政府が(垂直的な部分を通して)純粋な貨幣の供給者としての能力を発揮することである。もし政府が短期の圧縮に対応しない場合、銀行の借り手は資産の売却、借り換え融資や新しい負債の発行を余儀無くされるだろう。これは資産価格の下落を招き、また負債の実質的な価格が上昇するため、経済を負債デフレに陥れる。また、もし短期圧縮が継続すれば、債務不履行が頻繁に起こる。他方で、もし中央銀行が最後の貸し手として介入する場合、あるいは財務省が財政赤字を拡大する場合、これは避けられる可能性がある。

もし状況が非常に悪化した場合、銀行の借り手が債務不履行になるため、銀行が保有する資産が銀行が抱える負債を下回るため(銀行にとっては借り手の負債が資産計上されているため、借り手の債務不履行は銀行にとっての資産減少になる)、銀行は支払い不能になる。もし(長期ポジションとしての)銀行預金を保有する顧客が預金を引き出した時、銀行は中央銀行の割引窓口で準備を借りざるを得なくなる。以後、銀行の貸借対照表は悪化するので、彼らは中央銀行の割引窓口で十分な資産を得ることができないだろう。物価の下落、借り手の債務不履行、銀行の破綻によって、民間経済の疑いもない不況によって、政府は課税を減らし支出を増やし、財政赤字を増やしていく。