魚住洋一. 1. モーリス ・ メルロ = ポンティは、その最後の著作となった『眼と精神』の 冒頭に、 ... des sensations)とは、メルロ = ポンティがその生涯を通じて見究めようと したもので .... デカルトは『屈折光学』5 のなかで、盲人は「手で見る」と語ったが、彼は、 視覚.
デカルトの『屈折光学』への彼の批判を見ていくことにしよう。
デカルトは『屈折光学』(5)のなかで、盲人は「手で見る」と語ったが、彼は、視覚を接触作用として、つまり、盲人の杖の先に物が触れる場合のような作用として考える。彼にとって視覚のモデルは、「触ること」なのである。さらに彼によれば、「見ること」は、光線がボールのように眼に飛び込んできて網膜上に生じた何らかの結果を「思考」によって解読することにすぎない。つまり、デカルトにとって、見ることは眼における一種の接触作用とそれを機縁として起こる精神の思考作用に還元されてしまうのである[OE 36–41:269–272]。メルロ=ポンティは、デカルトは見ることを「見ているという考え」(la pensée de voir)に還元してしまったと述べている[OE 54:279]。 デカルトとは違って、私たちに見えるがままのものに即して考えようとするメルロ=ポンティは、接触作用ならざる視覚の「遠隔作用」(l’action à distance)、その「遍在性」(ubiquité)について語る。─「視覚によって私たちは太陽や星に触れ、私たちは至るところに、手近なもののもとにも遠いもののもとにも同時に居るのだ」[OE 83:296]。
「奥行にはどこか逆説的なところがある。相互に重なり合い、...
1Joachim Gasque, Cézanne, Les Éditions Bernheim-Jeune, 1921, p.82(『セザンヌ』與謝野文子訳、岩波文庫、2009年、p.220)
2メルロ=ポンティの著作からの引用は、以下の略号を用い、本文中の[ ]内に、原著と邦訳のページ数をコロンで区切って表示する。ただし、翻訳については一部変更を加えた箇所がある。
SC:La structure du comportement, Presses universitaire de France, 1942.(『行動の構造』滝浦静雄他訳、みすず書房、1964年)
PP:La phénoménologie de la perception, Éditions Gallimard, 1945.(『知覚の現象学』全2冊、竹内芳郎他訳、みすず書房、1967年、1974年)
OE:L’œil et l’esprit, Éditions Gallimard, 1961.(「眼と精神」、『眼と精神』滝浦静雄他訳、みすず書房、1966年)VI:Le visible et l’invisible, Éditions Gallimard, 1964.(『見えるものと見えないもの』滝浦静雄他訳、みすず書房、1989年)
DC:“Le doute de Cézanne,” in: Sense et Non-sense, Éditions Gallimard, 1996.(「セザンヌの疑惑」、『意味と無意味』滝浦静雄他訳、みすず書房、1983年)
3三島由紀夫『假面の告白』初版、河出書房、1949年、pp.3–5。
4メルロ=ポンティの遺稿『見えるものと見えないもの』で用いられた「肉」という概念は、発芽した胚が双葉(feuillets)に分かれていくように、見るもの/見えるもの、感じるもの/感じられるものが二重化されてそこから現われてくるその母胎を表そうとするものである。彼は「感覚的なるもの」が出現するこうした事態を胞子嚢のうの裂開に喩え、肉の「裂開」(déhiscence)とも呼んでいる[VI 192:202]。しかし、これは現象学的に記述しうる事態ではない。
5 René Descartes, La dioptrique (Six premiers discourse), in: Œuvres et lettres, Textes présentés par André Bridoux, Éditions Gallimard, 1953, pp.180–229.
(「屈折光学」青木靖三・水野和久訳、『デカルト著作集』第1巻、白水社、1973年、pp.113–222)
6「横から見た幅」という言葉は、『知覚の現象学』のバークレー批判の箇所から採った[PP 29
参考:
NAMs出版プロジェクト: ヘーゲルの未来図?と無限:再掲
http://nam-students.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8014.html
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