AO#1:2
《「相対的剰余価値が資本主義に特有な体系の中で発展し、それによって社会的労働の生産性が増大するに従って、労働の生産諸力と社会的諸連関は、生産プロセスから切り離されて、労働の領域から資本の領域へと移行するようにみえる。こうして、資本はきわめて神秘的な存在になる。というのは、あらゆる生産諸力は、資本の胎内から生じ、資本に属しているように見えるからである(11)。」
…
(11) Marx, Le Capital , III, 7, ch. 25(Pléiade II, p, 1435).〔「資本論」、『マルクス・エンゲルス全集』25b、岡崎次郎訳、大月書店、1965、1060ページ〕Cf. Althusser, Lire le Capital , les commentaires de Balibar, t. II, pp. 213 sq., et de Macherey, t. I, pp. 201 sq.(Maspero, 1965).〔バリバール「史的唯物論の根本概念について」、マシュレー「『資本論』の叙述過程について」、『資本論を読む』各下、上巻、今村仁司訳、ちくま学芸文庫、1996〕》
…
3:48:3
《本来の独自的・資本制的生産様式における相対的剰余価値の発展につれて、──それにつれて労働の社会的生産諸力が発展するのだが、直接的労働過程における労働のこの生産諸力および社会的諸関連は、労働から資本に移置されたものとして現象する。これだけでも資本はきわめて神秘的なものとなる。というのは、労働のあらゆる社会的生産諸力が、労働としての労働にでなく資本に属する諸力、しかも資本じしんの胎内から生まれでる諸力、として現象するからである。》河出訳
AO#3:8
《マルクスは、歴史が抽象的なものから具体的なものに移る様式が存在することを認めていた。「単純な諸カテゴリーはもろもろの関係を表現し、この関係において十分に発展していない具体的なものがおそらく実現されたが、これらの諸カテゴリーはもっと複雑な関連や関係を措定してはいなかった。こうした複雑な関係は、もっとも具体的なカテゴリーの中で理論的に表現されるものなのだ。ところが、他方、いっそう発展した具体的なものは、この同じカテゴリーをあるひとつの従属的な関係として存続させている(70)。」国家はまず、別々に作動する部分集合を統合する抽象的な統一体であった。いまやそれは、諸力の場に従属して力の流れを調整し、諸力がたがいに支配し従属し合う自律的な諸関係を表現する。国家はもはや、煉瓦状に維持されたもろもろの領土性を超コード化することでは満足しない。
…
(70) Marx, Introduction générale à la critique de l'économie politique , Pléiade I, p. 256.〔「経済学批判への序説」、『マルクスエンゲルス全集』13、629ページ〕》
AO#3:9
《(マルクスが描いた悪魔の契約のようなものである。「産業的宦官」よ、それゆえ、もしそうなら、これはおまえのものだ…(75))。
…
(75) Marx, Economie et philosophie , 1844, Pléiade II, p. 92.〔『経済学・哲学草稿』150ページ〕》
《マルクスが言っているように、抽象労働は、まさに生産活動において最も単純で最も古い関係であるが、それがそのようなものとして現われ、実際に真実になるのは、近代の資本主義機械の中においてである(78)。
…
(78) Marx, Introduction générale à la critique de l'économie politique , Pléiade I, p. 259.〔「経済学批判への序説」、『マルクスエンゲルス全集』13、631ページ〕》
《「漸進的価値、たえず発芽し成長する貨幣、こうしたものが資本である……。この価値は、突然、自分自身で運動する実体として現われる。これにとっては、商品も貨幣もただの形式にすぎない。この価値は、自分自身において、その原価値とその剰余価値を区別する。その仕方は、神が自分自身の位格において父と子を区別し、父と子が一体であり年齢も同じである仕方と同じである。なぜなら、最初に前貸しされた一〇〇ポンドが資本になるのは、一〇ポンドの剰余価値によってでしかないからである(79)。」資本は、ただこうした諸条件においてのみ充実身体となり、新しい社会体となり、あらゆる生産力を…
…
(79) Marx, Le Capital , I, 2, ch. 4, Pléiade I, p. 701.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23a、202ページ〕》
Nous avons vu que: dans la circulation simple, il s’accomplit une séparation formelle entre
les marchandises et leur valeur, qui se pose en face d’elles sous l’aspect argent.
Maintenant, la valeur se présente tout à coup comme une substance motrice d’elle-même, et pour laquelle marchandise et argent ne sont que de pures formes. Bien plus, au lieu de représenter des rapports entre marchandises,elle entre, pour ainsi dire, en rapport privé avec elle-même.
Elle distingue an soi sa valeur primitive de sa plus-value, de la même façon que Dieu distingue en sa personne le père et le fils, et que tous les deux ne font qu’un et sont du même âge, car ce n’est que par la plus-value de 10 l. st. que les 100 premières l. st. avancées deviennent capital; et dès que cela est accompli, dès que le fils a été engendré par le père et réciproquement, toute di
…
《単純な流通においては、商品の価値は、その使用価値に対してたかだか貨幣という自立的形態を受けとるのであるが、いまや価値は、とつぜんに、過程しつつある・みずから運動しつつある・実体としてあらわれるのであって、この実体にとっては、商品と貨幣とは二つの単なる形態にすぎない。しかも、それだけではない。価値はいまや、商品関係を表示するかわりに、いわば、それ自身にたいする私的関係に入りこむ。それは、みずからを本源的価値として剰余価値としての自分じしんから・みずからを父なる神として子なる神としての自分じしんから・区別するのであるが、父子の両者は同じ年齢であり、しかも実は一個の人格にほかならない。というわけは、投下された一〇〇ポンドは一〇ポンドの剰余価値によってのみ資本となるのであり、そしてそれが資本となるや否や──子が、そして子によって父が、生みだされるや否や──両者の区別区別はふたたび消失して、両者が一考、すなわち一一〇ポンドなのだからである。》河出1:4:1
(79) Marx, Le Capital , I, 2, ch. 4, Pléiade I, p. 701.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23a、202ページ〕》
《ケインズの貢献のひとつは、貨幣の問題の中に欲望を導入したことであった。これこそ、マルクス主義的分析の必要条件にあげるべきことなのである。だから、不幸なことは、マルクス主義の経済学者たちが、あまりにもししばしば生産様式の考察や、『資本論』の最初の部分に現われる一般的等価物としての貨幣の理論に関する考察にとどまって、銀行業務や金融操作や信用貨幣の特殊な循環に対して十分に重要性を認めていないということである(こういった点にこそ、マルクスに回帰すること、つまりマルクスの貨幣理論に回帰することの意味がある)。
貨幣の二重性、二つの明細表、二つの登記に、賃金労働者の家計における登記と、企業の貸借対照表における登記に戻ることにしよう。同じ分析的単位によって、二つの秩序の大きさを測ることは、純粋な虚構であり、喜劇な詐欺行為である。これはあたかも、メートルやセンチメートルで、銀河系の間の距離や原子の間の距離を測るようなものである。》
《この円環がもし完結することがあるとすれば、それは、剰余価値が単に生産され、あるいは収奪されるばかりではなくて、吸収され、あるいは現実化される場合においてのみである(88)、と。
…
(88) Marx, Le Capital , III, 3, conclusions, Pléiade II, p. 1026.〔「資本論」『マルクスエンゲルス全集』25a、306-307ページ〕》
#3:10(93~)
《剰余価値の形態としての剰余労働は、労働の流れとは質的かつ時間的に区別される流れを構成し、したがって、非経済的な諸因子をともなう、それ自体質的な複合物の中に入らなければならないからである(98)。
…
(98) Cf. Marx, Le Capital , III, 6, ch. 24, Pléiade II, p. 1400.「このような条件において、名目上の土地所有者のための労働を実行することを彼らに強制するためには、どんな性質のものであれ経済外的な理由がなければならない。」〔「資本論」、『マルクス・エンゲルス全集』25b、1014ページ〕》
《「資本としての貨幣の循環は、それ自身の中に自分の目的をもっている。なぜなら、たえず更新されるこの循環の運動によってのみ価値は価値であり続けるからである。それゆえ、資本の運動極限をもたない(99)」。
…
(99) Marx, Le Capital , I, 2, ch. 4, Pléiade I, p. 698. P.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23b、198ページ〕》
《これに反し、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、この、たえず更新される運動の内部にのみ実存するからである。だから、資本の運動は限度なしである。 》河出1:4:1
《「資本家が尊敬されうるものであるのは、ただ彼が人間となった資本であるからである。こうした役割において、彼は、守銭奴のように、抽象的な富、つまり価値への盲目的な情念によって支配される。しかし、守銭奴においては個人的な偏執に見えるものが、資本家においては社会的メカニズムの効果であり、資本家はこのメカニズムの歯車でしかない(102)。」ひとはこういうかもしれない
…
(102) Marx, le Capital , I, 7, ch. 24. Pléiade I, p. 1096.〔「資本論」、『マルクスエンゲルス全集』23b、771-772ページ〕》
1:22:3
《資本の人格化としてのみ、資本家は尊敬すべきものである。こうしたものとしては、彼は貨幣蓄蔵者と同じように、絶対的な致富衝動を有する。だが、貨幣蓄蔵者のばあいに個人的狂望として現象するものが、資本家のばあいには、社会的機構──そこでは彼は一個の動輪にすぎない──の作用である。》河出
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経済学関連:
《もし生産コストが下がらないなら、資本主義は現存の設備を維持し、これと併行して他の領域に投資するほかはない(86)。
…
(86)Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , 1966, tr. fr. Maspero, pp. 96-98.〔ポール・バラン、ポール・スィージー『独占資本』小原敬士訳、岩波書店、1967、112-118ページ〕》116~118頁
スウィージーは1:15:9資本論を参照している。
《アンドレ・ゴルツが「科学的技術的労働者」を描いた二重のポートレートは、まったく意味深いものだ。彼は、知識、情報、教育の流れの先生であるが、しかしあまりにもみごとに資本の中に吸収されているので、公理系に組み入れられ組織化された愚昧の逆流に完全に巻き込まれることになる。このため、この労働者は、晩になって自分の家に帰ってから、テレビをいじりながらやっと自分の小さい欲望機械を取りもどすというわけなのだ。ああ、何という絶望(89)。確かに学者は、あるがままでは何ら革命的な力をもってはいない。彼は、統合作用に統合される最初の手先であり…
(89) A. Gorz, Stratégie ouvrière et néo-capitalisme , Ed. du Seuil, p. 57.〔アンドレ・ゴルツ『労働者戦略と新資本主義』小林正明訳、合同出版、1970、118ページ〕》
《Alors que la croissance du secteur des serviees a partiellement compensé l effets « destructeurs d'emploi de lIa teclmologie mo de e, celle-ci I(en conjonction avec des phénomènes induits) a ajouté une dimension nouvelle à la deshumanisation du processus de travail en régime capitaliste. Il n'est guère besoin de répéter ici ce qui a été tellement souligné dans les ch'apitres précédents, à savoir qu'une partie de plus en plus grande du produit de la société de capitalisme monopoliste est, - d'après des critères fondés sur les véritables besoins humains, - inutile, super ue ou bien franchement destructrice. L'illustration la plus frappante de eeci se trouve dans le
fait que des dizaines de milliards de dollars de biens et services sont engloutis tous les ans par l'appareil militaire, dont le seul but est d'empêcher les peuples du monde de résoudre leurs problèmes par l'unique moyen véritablement effieace, par le socialisme révolution naire. Cependant, ceux qui actionnent et qui approvisionnent l'ap pareil militaire ne sont pas les seuls à être engagés dans une entreprise anti·humaine. Les millions d'ouvriers qui produisent (ce qui créent une demande pour) des biens et services inutiles sont également. et à
des degrés divers, concernés. Les divers secteurs et branches de l'éco. nomie sont tellement interdépendants que presque tout le monde se trouve impliqué d'une façon ou d'une autre dans une activité anti· humaine ; le fermier fournissant des produits alimentaires aux trou· pes luttant contre le peuple vietnamien, les fabricants des instruments complexes nécessair à la création d'un nouveau modèle automobile, les fabricants de papier, d'encre ou de postes de télévision dont les produits sont utilisés pour contrôler et empoisonner les prits des gens, et ainsi de suite. 仏訳303~4
《このようなシステムにおいては、生産システム全体に生気を吹き込む反生産の活動との結びつきを誰ものがれることはできない。「軍事的装備を稼働させ補給する人びとだけが、反人間的な企てにかかわっているわけではない。何百万もの労働者が無用の財や仕事を生産し(このことがまたこれらに対する需要を創りだす)、さまざまな度合で、このことにかかわっている。経済の異なる諸分野や諸部門は深く相互依存しあっているので、ほとんど全世界の人びとが何らかの仕方で反人間的な活動の中に巻き込まれている。ヴェトナム人民と戦争する軍隊に食糧品を供給する農夫。新しい自動車の型を創造するのに必要な、複雑な道具を作る製造者たち。人びとの精神を統制し腐敗させるために用いられる製品となる紙、インク、テレビの製造者たち。以下同様(90)。」こうして、たえず拡大する資本主義的再生産の三つの線分が完結し、これはまた、それの内在性の三つの様相を規定する。1、労働の脱コード化した流れと生産の脱コード化した流れとの微分の比の関係から、人間による剰余価値を引きだし、また中心から周縁へと移動しながらも、やはり中心に膨大な残滓的地帯を保持しているという様相。2、中心の「最尖端」の個所において、科学的技術的コードのもろもろの流れの公理系から、機械による剰余価値を引きだしてくるという様相。3、流れの剰余価値のこれら二つの形態の創出を保証し、生産装置の中にたえず反生産を注入することによって、これらの二形態を吸収し、あるいは現実化してゆく様相。ひとは周辺において分裂症化するが、しかし中心や中間においてもやはり分裂症化するのである。
剰余価値の定義は、可変資本資本に由来する〈人間による剰余価値〉とは区別される〈機械による剰余価値〉との関連において、また流れの剰余価値全体の測定不可能な性格をも考慮に入れて、手直しされなければならない。剰余価値は、労働力の価値と労働力によって創造される価値との差異によって定義されうるものではない。そうではなくて、これら二つの流れがたがいに内在し合っているにもかかわらず、この二つの間に通約不可能性があることによって定義される。一方の流れは真の経済の力を測り、他方の流れは「収入」として規定される購買力を測るものであるからである。第一は莫大な脱領土化した流れであり、この流れは資本の充実身体を構成するものである。ベルナール・シュミットのような経済学者は、無限負債のこの流れを特徴づけるために、〈瞬時の創造的流れ〉といった抒情的な奇妙なことばを見いだしている。銀行は自発的に自分自身への負債としてこのような流れを創造する。銀行のこの創造は無からの創造であって、これは支払い手段としてあらかじめ準備された貨幣を流布させるのではなく、負の貨幣(銀行の債務として登記された負債)を充実身体の一方の極に深く埋めこみ、正の貨幣(生産経済が銀行に対してもつ債権)を他方の極に突出させる。これは「突然変異の力をもつ流れ」であるが、この流れは収入の中には入らず、購買には向けられない。つまり純粋な待機であって、所有物でもなく、富でもない(91)。これに対して、貨幣のもうひとつの様相は、貨幣が次のように還流する事態を表わしている。すなわち、貨幣が労働者たちや生産諸因子に分配され収入として配分されて購買力を獲得することになると、たちまち貨幣はもろもろの財と関係をもつことになり、この収入が現実の財に変換されると直ちに、この貨幣は財との関係を喪失するのである(この場合、すべては新しい生産によって再開されるが、新しい生産はまず貨幣の第一の様相において生まれてくる……)。ところで、流れと還流というこの二つの様相の通約不可能性は次のことを示している。名目賃金は国民の収入の全体を包括するものであるが、賃金労働者は、企業によって捕獲された大量の収入を漏出させるのである。今度はこの収入が連接によって合流し、新たに粗利益の連続的流れを形成し、この合流は「ひとつの流れとして」、たとえその割り当てはもろもろに異なるにしろ(利息、配当金、管理職給与、生産財購入、等々)、充実身体の上を流れるひとつの不可分な量を構成することになる(92)。事情に通じていない観察者は、この経済的図式そのもの、この歴史そのものが深く分裂的であるという印象をもつ。こうした理論の目的は自明である。しかし、この理論は、あらゆる道徳的関心をみずからに禁じているのだ。〈誰が盗まれるのか〉という疑問…
…
(90) Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , p. 303.〔『独占資本』〕邦訳416~7頁、#11:2
http://digamo.free.fr/barans68.pdf フランス語訳全336p
(91) Bernard Schmitt, Monnaie, salaires et profits , P. U. F., 1966, pp. 234-236.
(92) ib. p. 292.》
独占資本:
独占資本―アメリカの経済・社会秩序にかんする試論 (1967年) , 1967
P.バラン (著), P.スウィージー (著), 小原 敬士 (翻訳)
本書の主要な 内容構成はつぎのとおりである。
1. 序論
2.巨大株式会社
3.余剰の増大傾向
4.余剰の吸収。資本家の消費と投資。
5.余剰の吸収。販売努力。
6.余剰の吸収。 市民政府。
7.余剰の吸収。軍国主義と帝国主義 。
8.独占資本主義の歴史 。
9.独占資本主義と人種問題。
10独占資本主義社会の質的側面。
11. 不合理な体制。
(岩波とは別訳)
独占資本#3ではカレツキも参照されている。
___
人類学関連:
#1:1
《レヴィストロースは器用仕事を規定するとき、緊密に結びついた諸特性の総体としてそれを提案している。すなわち、多数のチグハグな、限られたストックやコードを具えていること、もろもろの断片を、たえず新しい断片化に導く能力をもつこと。したがって生産する働きと生産物は区別されず、用いる道具の全体と、実現すべき仕事の全体も区別されない(8)。
…
(8) Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage , Plon, 1962, pp. 26 sq. 〔レヴィストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、1976、28ページ〕》
AO#3:9:2
《精神において展開する構造と関係づけて、原始共同体における親族関係を解釈するとき、ひとはいつも、縁組を支配的な出自に従属させる大きな線分のイデオロギーに陥ってしまう。しかし、このイデオロギーは実践によって否認される。「不均衡な縁組システムにおいては、交換の一般化への、つまり交換のサイクルの閉鎖への根本的傾向が存在するのかどうかを問題にする必要がある。私は、ムル族の人びとに、このような問題を何ひとつ見いだすことはできなかった……。すべてのひとは、あたかも、サイクルの閉鎖によって生じるような補償などまったく知らないかのように行動し、債権者-債務者の行動を強調しながら、不均衡な関係を強化している(8)。」親族のシステムが閉じられたものとして現われるのは、ひとがこのシステムを経済的政治的な座標から切断するからでしかない。経済的政治的座標は、このシステムを開かれたものとして維持し、縁組はこれによって、結婚の階層と出自の系譜を調整するのではなく別のものと考えられることになる。
…
(8) L. G. Löffler,〈L'Alliance asymétrique chez les Mru〉, L'Homme , juillet 1966, pp. 78-79. リーチは、『人類学再考』において、カチン族の結婚に関して、イデオロギーと実践の間の差異を分析している(pp. 140-141)。彼は、閉じられたシステムとしての親族関係という発想を、徹底的に批判している(pp. 153-154) 。》
_____
AO
第四章 分裂分析への序章
第二節 分子的無意識
ところが、マルクスは、もっと神秘的なことをいっている。真の差異は、人間における二つの性の間の差異ではなく、人間の性と「非人間的な性」の間の差異である、と(15)
(15) Marx,〈Critique de la philosophie de l'Etat de Hegel〉, in Œuvres philosophiques , IV, tr. fr. Costes, pp. 182-184.〔マルクス「ヘーゲル国法論批判」真下信一訳、『マルクスエンゲルス全集』1、大月書店、1959、329ページ〕マルクスのこのテクストについては、L-F・リオタールの美しい注釈がある。Discours, figure , pp. 138-141.
AO下4原注より
#4:1
…
(4) 神秘学の周縁的な現象の見地からも、無意識のコミュニケーションの、しかも基本的な問題はまずボーリングあての書簡一七におけるスピノザによって提起され、ついでF・E・H・マイヤー、W・ジェイムス、H・ベルクソンなどによって提起される。
フロイトが、無意識においては、あらゆる問題は個体群にかかわるといったとき(また同様に、彼が多様性を考察して精神病の兆候を見いだしたとき)、彼はダーウィン主義者、新ダーウィン主義者であった(7)。
…
(7) 『無意識』に関する一九一三年の論文において、フロイトは、包括的対象を必要とする神経症に対して、精神病はいくつもの小さい多様性を介入させることを示している。例えば、穴の多様性(しかし、フロイトは、この精神病的現象を、単に言語的表象の力にたよって説明しているにすぎない)。
参考:
神経症の発症類型について(須藤訓任訳)?1912
フロイト全集13―1913-14年
強迫神経症の素因(立木康介訳)1913
精神分析への関心(福田覚訳)1913 邦訳著作集10[これが有力]
《神経症の発症は、数え上げられる変化がことごとく個人のリビードに関係付けられるという一つの性格によって、他の組み合わせの発症誘因から区別される。》「神経症の発症類型について」#12:221頁
《精神分析は…神経症発症の原因となるものを、さまざまな道筋で作り出されうる特定の心的状況のうちにいつも見いだすことを教えたのであった。》同229頁
《…強迫神経症の素因を見いだした前性器的なサディズム肛門性愛段階にまで性生活が退行…》「強迫神経症の素因」#10:199頁
《….夢の表現手段は主として視覚的な像であって言葉ではないということを考えると、我々には、夢と言語を比較す
るよりも、夢と文字体系を比較した方がより適切なように思えてくる。実際、夢の解釈は、エジプトのヒエログリ
フのような古代の象形文字の判読ときわめてよく似ている。…様々な夢の要素の多義性は、それと対になるも
のをこの古い文字体系に見出すことができるし、それは、様々な関係の省略についても同様である。…
夢の言語は無意識的な心の活動の表現法である、と言うことができる。しかし、無意識が話すは方言はたったーつ
とは限らず、もっと数が多い、神経症の個々の形式を特徴付け、互いを鑑別させる心理学的諸条件が変わると、無
意識的な心の動き(蠢き)を表す表現にもー定した変化が生じる。》「精神分析への関心」#10:217~8頁
《最近の数年間に、精神分析的な研究は、「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題が心の生活にも適用可能
に違いない、という点に気付くようになった。精神分析的な関心の新たな拡大がそこから生じてきたので
ある。》同226頁
(9) Raymond Ruyer, La Genèse des formes vivantes , Flammarion, 1958, pp. 80-81. ボーア、シュレディンガー、ジョルダン、リリーの若干の主張をとりあげ直して、リュイエは次のことを示している。生物は、有機体の内的な力学的回路にも、外的な技術的活動にも現われる群れの効果を超えて、原子の個体的現象にじかに結合されている。「古典物理学は、群れの現象にかかわるだけである。逆にミクロ物理学は、必然的に生物学につながる。原子の個体的諸現象から出発して、実際われわれは二つの方向に進むことができる。これらの統計学的蓄積は、通常の物理学の諸法則に直結する。しかし、これらの個体的諸現象が、分子、マクロ分子、ウイルス、単細胞といったもののただなかで群れの現象を自分に従属させ、みずからの個体性を確保しながらも、システム的な相互作用を通じて複雑化するとき、ついにわれわれは有機体にたどりつく。これは、いくら大きいとしても、この意味で顕微鏡的な大きさにとどまっている。」(p. 54)。こうした主題は、リュイエによって『新目的論』の中で大きく展開されている。Néo-finalisme, P. U. F., 1952.
補遺 欲望機械のための総括とプログラム
第一節 欲望機械と他のさまざまなものとの相対的差異-アイディア製品との差異-幻想あるいは想像的投射のシステムとの差異-道具あるいは現実的投射のシステムとの差異-私たちを欲望機械に導く倒錯機械との差異
第二節 欲望機械とオイディプス装置、つまり抑制-退行に抵抗する反復
第三節 機械と充実身体。機械のもろもろの備給
極限への移行としての欲望機械、すなわち充実身体の推論、単純な諸形態の抽出、絆の不在の指定。マルクスの『資本論』の方法は、この方向に進んでいるが、弁証法的な諸前提によって、下部構造の部分をなすものとしての欲望に到達することは妨げられている。
欲望のパラドックスとは、この両極を識別し、欲望機械にとっての集団的革命的試練をあらわにするためには、無意識のこんなにも長い分析が、あらゆる分析が常に必要であるということだ。
MP
2 一九一四年──狼はただ一匹か数匹か?
フロイトが知っているのは、オイディプス化された狼や犬、去勢され去勢する者である狼-パパ、犬小屋の犬、精神分析学者のワンワンだけだ。
以下、ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』より
13 BC七〇〇〇年──捕獲装置
三つの頭をもつ捕獲装置、マルクスの定式から派生した(三つはマルクスと同じ仕方で
配分されてはいないが)「三位一体の定式」は次のようになる。
土地(領土とは区別されるものとして)|
(a)各土地の直接比較、差異地代 >地代
ス (b)土地の独占的所有、絶対地代 |〈所有者〉
ト 労働(活動とは区別されるものとして)|
(a)活動の直接比較、労働 >利益
ッ (b)労働の独占的所有、余剩労働 |〈事業主〉
ク 貨幣(交換とは区別されるものとして)|
(a)交換物の直接比較、商品 > 税
(b)比較方法の独占的所有、貨幣の発行 |〈銀行家〉
…
ガタリの功績かもしれないが、税に着目してマルクスを改定しているところは流石である。
地代、利潤、利子とマルクスなら書くだろうが、利子の部分を税に包括させている。
ゲゼルの代替案に呼応するし、何よりもケインズの三分割と同じで有効需要が視野に入っている。
マルクス主義は国家を敵とみなすあまり、有効需要の発見に遅れを取った。
限界効用に関してはその欠如がマルクス主義の欠点になることはないが、有効需要に関しては
その発見の遅れは致命的である。マルクス再生産表式論から有効需要の原理を導き出した
カレツキの名声はケインズ以上であるべきなのに。
近年の入門書に関して言えば、再生産表式の理解において、下巻をまるまる使った
冗長なハーヴェイより1頁で済ませた簡潔なハインリッヒ(『『資本論』の新しい読み方―
21世紀のマルクス入門』)の方が正確だ。
記号と事件
《…フェリックス・ガタリと私は、各人の流儀に違いがあるだろうとはいえ、やはりふたりともマルキシストでありつづけていると思います。私たちには資本主義とその発展の分析に焦点をしぼらないような政治哲学が信じられられないのです。私たちがマルクスでいちばん面白いと思ったのは、資本主義を内在性のシステムとして分析しているところです。つまり資本主義はみずからのリミットを絶えず押しやっていく、しかしリミットすなわち資本である以上、尺度を拡大したかたちで、どうしてもまた同じリミットに逢着するということですね。》
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http://d.hatena.ne.jp/femmelets/touch/20120215/1329232117
ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)、p.11-12
〈マルクス〉
私は共産党に入ったことは一度もありません。(精神分析を受けたことも一度もありません。そういったことはすべて免れました。)60年代以前は、自分をマルクス主義者だと思ったこともありません。共産党員にならなかったのは、党が党員の知識人に何をさせていたかを見て知っていたからです。
当時私がマルクス主義者でなかったわけは、つきつめればマルクスを知らなかったからだということもことわっておかなければなりません。
マルクスを読んだのはニーチェと同じ時期でした。素晴らしいと思いました。彼の生み出したさまざまなコンセプトは、私にとって今でも役立つものです。そこにはひとつの批判、根本的な批判が存在しています。『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に完全に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。例えば、「管理社会」について書いた記事は(月刊ロートル・ジュールナル1号 1990年5月号に掲載、ミニュイ社刊『記号と事件』に収録、邦訳河出書房新社)、マルクスが彼の時代には知りえなかったことを語っているにもかかわらず、完璧にマルクス主義的なテクストです。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終ったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。
〈著作〉
次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。
〈絵を描くこと〉
私は今もう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を描くでしょう。
注:
(上記インタビューでは、ラカンについての言及はあるが、フロイトについての言及はない。)
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マルクス:インデックス
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_2074.html
"My name is Sigmund Freud"
http://nam-students.blogspot.jp/2010/10/my-name-is-sigmund-freud.html
スピノザ 【 分 析 】
\
アンチ・ /
オイディプス/
ライプニッツ|
ベルクソン
\|/
【規定】
差異と反復ーーー
シネマーーー
意味の論理学【反省】
/|\ [修辞学?]
フーコー/ | \
ヒューム
(
マルクス) | (フロイト)
/
千のプラトー\
【 総 合 】
ニーチェ、
Nietzsche
分子化
マルクス:インデックス
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"My name is Sigmund Freud"
http://nam-students.blogspot.jp/2010/10/my-name-is-sigmund-freud.html
ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
ドゥルーズ体系:
スピノザ 【 分 析 】
\
アンチ・ /
オイディプス/
ライプニッツ|
ベルクソン
\|/
【規定】
差異と反復ーーー
シネマーーー
意味の論理学【反省】
/|\ [修辞学?]
フーコー/ | \
ヒューム
(
マルクス) | (フロイト)
/
千のプラトー\
【 総 合 】
ニーチェ、
Nietzsche
分子化
________________
☆
- Présentation de Sacher-Masoch : le froid et le cruel (1967)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794912640
マゾッホとサド
ドゥルーズ,ジル【著】〈Deleuze,Gilles〉/蓮実 重彦【訳】
晶文社(1998/10発売)
サイズ B6判/ページ数 215p/高さ 20cm
内容説明
マゾヒズムはサディズムの裏返しではない―。不当に歪められた作家マゾッホの独創性とすぐれた現代性を証すフランス思想の巨星ドゥルーズの名著。
目次:
サド、マゾッホ、そして二人の言語
描写の役割
サドとマゾッホの相互補足性の限界
マゾッホと三人の女性
父親と母親
マゾッホの小説技法の要素
法、ユーモア、そしてイロニー
契約から儀式へ
精神分析学
死の本能とは何か?
サディスムの超自我とマゾヒスムの自我
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/index.php?sp=liv&livre_id=2010
Gilles Deleuze
Présentation de Sacher-Masoch
Le froid et le cruel
Suivi du texte intégral de La Vénus à la fourrure
Traduit de l’allemand par Aude Willm
1967
Collection « Arguments », 276 pages, 6 gravures in-texte, 2 portraits hors-texte
Avec
La Vénus à la fourrure s’ouvre un univers de phantasmes et de suspens,
rempli de femmes de pierre, de travestis, de gestes punisseurs, de
crucifixions et même de châtiments pour des fautes non encore commises.
L’esprit artistique fait de chaque pose une œuvre d’art, l’esprit
juridique y noue de rigoureux contrats entre la victime et le bourreau.
Gilles Deleuze montre que le masochisme n’est ni le contraire ni le
complément du sadisme, mais un monde à part, avec d’autres techniques et
d’autres effets.
‑‑‑‑‑ Table des matières ‑‑‑‑‑
Avant-propos
Présentation de Sacher-Masoch (Le Froid et le cruel) :
Sade, Masoch et leur langage –
Rôle des descriptions –
Jusqu’où va la complémentarité de Sade et de Masoch –
Masoch et les trois femmes –
Père et mère –
Les éléments romanesques de Masoch –
La loi, l’humour et l’ironie –
Du contrat au rite –
La psychanalyse –
Qu’est-ce l’instinct de mort ? –
Surmoi sadique et moi masochiste
Texte intégral de La Vénus à la fourrure
Appendices
: 1. Souvenirs d’enfance et réflexion sur le roman – 2. Deux « contrats
de Masoch » – Aventure avec Louis II (racontée par Wanda)
http://yokato41.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2.html
《サディスム=マゾヒスムが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまった。すべてを始めからやりなおさねばならない》
医学には、徴候群と徴候の区別がある。すなわち徴候とは、一つの疾患の特徴的な符牒であるが、徴候群とは、遭遇または交叉からなる幾つかの単位であり、大
そう異質な因果系統や可変的なコンテキストとの関係を明らかにする。サド=マゾヒスム的なる実体は、それじたいで一つの徴候群で、他には還元しがたい二系
統に解離すべきものとは確信をもって主張しがたい。(『マゾッホとサド』)
サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。要約しておこう。
①サディスムと思弁的=論証的能力、マゾヒスムの弁証法的=想像的能力。
②サディスムの否定性と否定、マゾヒスムの否認と宙吊り的未決定性。
③量的な繰り返しと、質的な宙吊り。
④サディストに固有のマゾヒスム、サディストに固有のサディスム、そして両者は決して結合しない。
⑤サディスムにおける母親の否定と父親の膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄。
⑥二つの場合における物神的な役割と意味の対立関係、幻影についても同様の対立関係。
⑦サディスムの反審美主義、マゾヒスムの審美主義。
⑧一方の「制度的」な意味、他方の契約的な意味。
⑨サディスムにおける超自我と同一視、マゾヒスムにおける自我と理想化。
⑩性的素質の排除と再強化の対立的二形態。
⑪全篇を要約するかたちで、サド的意気阻喪とマゾッホ的冷淡さとの根源的命題。
以上の十一の命題は、サドとマゾッホの方法の文学的な違いにおとらず、サディスムとマゾヒスムの幾多の違いをも明白に表明すべきものであろう。(『マゾッホとサド』p163)
期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒストとは、待つことを純粋状態にお
いて生きるものである。それ自身が二つの分身となり、同時的な二つの推移へと変ずることは、純粋なる期待の属性である。そしてその二つの推移の一方は、待
たれている対象を表現し、それは、本質的な引き伸ばしであり、つねに遅刻状態にあって延期される。いま一方のものは、予期している何ものかを表現し、それ
のみが待たれている対象の到来を性急に繰りあげうるかも知れないものだ。かかる形態、二様の流れからなる時間的リズムが、まさにある種の快楽=苦痛という
組み合わせによって充たされているという事実は、一つの必然的な帰結なのである。苦痛は、予期しているものの役割を演じ、それと同時に、快楽は待たれてい
る対象の役割を演じることになるのだ。マゾヒストは、快楽を、根本的に遅延する何ものかとして待ち、最終的に快楽の到来を(肉体的にして精神的に)可能に
する条件として、苦痛を予期しているのである。したがって、それじたいとして待つことの対象たる苦痛が、自分を可能ならしめるのにいつも必要としている快
楽を、マゾヒストは未来へと押しやっているのだ。マゾヒストの苦悩は、ここでは、不断に快楽を待ちはするが、その方法として苛烈なまでに苦痛を予期してか
かるという、二重の限定作用をとることになるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 91~92頁)
◆『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)
柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。
ぼくはそんなものは感嘆に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えるこ
となんですよ。しかし、そうやって意味を変えるときに、必ずドゥルーズならドゥルーズという名前がついてくるんです。たとえば、マルクスが「存在が意識を
決定する」と言ったときの「存在」は、マルクスによって創造された概念なんで、その一行は「事件」なんです。ぼくはそれが概念の創造だと思う。
浅田彰)だから、たとえばデカルトの「コギト」(われ思う)というのが概念の創造なんですね。
蓮實重彦)まさにそのとおりだと思うけれども、ちょっと違う角度から言うと、たとえば『マゾッホ』、あれはサディズムの概念をおもしろく定義したからいいのではないし、マゾヒズムの概念をおもしろく定義したからいいのではなくて、ふたつを分けたことが概念の創造なんです。
浅田)「マゾヒズム」はサディズムと関係ないというのが概念の創造なんですね。
(……)
音楽でいうと概念というのはライトモチーフなんですよ。だから、一回聴いたらそれがだれのものかわかるんですね、どういう変奏のもとに出てきたとしても。
蓮實)そこで、まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。
浅田)たとえば「スキゾ」という概念が80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど……。
蓮實)ありますよ、それは(笑)。…
浅田)しかし、本当は、「スキゾフレニー」(分裂症)という言葉だってそれまでにいろんな人たちによっていろんな形で使われてきたわけで、ドゥルーズとガ
タリは新しい言葉を作るのではなくそういう既成の言葉を新しい形で使うことで概念を創造したんです。その点では、ガタリはまだ新しい言葉を生み出している
として、ドゥルーズはほとんどそういう言葉を生み出していないとあえて言いたいぐらいなんですね。
蓮實)であるがゆえにすごいんだということでしょ。
浅田)そうです。つまり、ドゥルーズはやはり何よりも哲学史家だと思う。音楽の比喩で言うと、作曲家ではなくて演奏家なんです。ドゥルーズとガタリはグー
ルドが好きだったけれど、グールドが弾くとバッハもベートーヴェンもグールドになってしまう、しかしそれはやはりバッハやベートーヴェンなんです。ガタリ
との関係で言えば、ドゥルーズはほとんどガタリというピアノを弾いているんですね。
柄谷)カント論もニーチェ論もみなそうで、演奏なんですね。
浅田)演奏ってインタープリテーション(=解釈)ですから。
柄谷)ただし、解釈学とは違う解釈ですね。(……)
蓮實)……ドゥルーズは、共通の美的感性の持ち主のグループというのを想定しないと言いつつ、『シネマ』に関してはしているんですね。明らかに、ある種の
『カイエ・デュ・シネマ』的なシネフィリー(映画好き)というものの上に立っている。つまり、与えられた題材をもとにその分類と体験の質を分割しているだ
けであの中で、あっと驚く映画はひとつも出てこない。もしそうなら、それは大した哲学者じゃないと言うべきじゃないの(笑)。
浅田)いや、哲学者はそれでいいんでしょう(笑)。
蓮實)ただし、それにもかかわらず、(……)概念化へと向かう言葉がまったく描写することがないのに、映画のひとつひとつのシーンが目に見えるようでしょ
う。これはすごい才能だと思う。その才能に立ちあえば、それが、哲学であろうとなかろうといいと思う。概念化されたものが、あれほどまざまざと見えるって
ことは、ちょっとないですよ。それは、同じ感性を持ってない人、そもそも映画に興味のない人には、ほとんど何もわからない。だけどそういう力を持っていた
人がいたということはすごいことです。
柄谷)それじゃあ、ぼくには関係ないな(笑)。
浅田)たしかに、『哲学とは何か』でも、哲学と科学に並んで、芸術を大きく取り上げている。芸術家は、自存する感覚のブロックをつくり、そこから、潜在的
でも顕在的でもない、可能性の宇宙を作り上げるのだ、と。とすると、それが哲学的に見ると浅いものかもしれない。にもかかわらず、ドゥルーズにとって
はーーそして、柄谷さんはともあれ、蓮實さんと同じくぼくにとってもーーかけがえのないものなんです。
残念ながらまだ刊行されていない講義録のなかで、
ラカンが
ドゥルーズに触れた機会が二度ほどあります。一度は
1967年4月19日。
ドゥルーズの『
マゾッホと
サド』に関する非常に好意的な論評です。「しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の
意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです。」もう一度は
1969年3月12日。今度は『
意味の
論理学』に関する
コメントです。ここでは若干の見解の相違点を指摘しつつも、こんな指摘を。
「喜んで労を払おうという方なら、この《他者》のレベルに、ドゥルーズの本の中では出来事、上演と題され、呼ばれているものを位置づけることが出来るでしょう。これは厳密さと尊敬すべき正確さでもって、判明に、それも現代論理学思考が定義しうるものすべてとも調和を保っています。あるいは、ランガージュの存在と結びついたあらゆるパレードと呼んでもいいかもしれません。ここにこそ、《他者》の中にこそ、無意識は一つのランガージュとして構造化されているのです。」
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題――
1960
年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
要旨
ドゥルーズは
1940
年代から
1960
年代にかけて「倒錯」の問題を論じている。倒錯の概念は、一見すると
1970
年代
以降分裂症の概念にとって代わられてしまうかのように見えるが、それ自体還元不可能な独自性を持っており、ドゥルー
ズ哲学を貫く問題系をかたちづくっている。
本稿では、
『マゾッホとサド』
(
1967
年)における二つの超越論的な企図であるサディズムとマゾヒズムを分析し、そ
のうちマゾヒズムを、あらゆる法や原理の彼岸を目指すサディズムに対するさらなる彼岸を開示するものとしてとりだ
す。ドゥルーズがマゾヒズムを特徴づけるメカニズムと考える「否認」と「排除」を、精神分析におけるそのプロブレマティックな地位に注目して詳細に検討することで、マゾヒズムが、サディズム的な超越論的企図さえも退けて一切の
組織化の原理の手前を目指すものであることが明らかとなるだろう。マゾヒズムとはこのような意味で「手前の彼岸」
なのである。
そして、
『意味の論理学』の動的発生論の読解を通じて、このようなマゾヒズム的倒錯の論理が、所与の破裂的で断片
的で迫害的な対象関係をそっくりそのまま放棄するという仕方で、
「器官なき身体」を導出することが明らかにされるだ
ろう。...
...『マゾッホとサド』において、
「倒錯」についての「偉大な臨床家」として、
サドとマゾッホを論じている。
「サ
ド=マゾヒズム」という単位性、その相互補完性を当然のものと見なす当代の「変換論」に対して、ドゥ
ルーズは両者を切り離そうとする。本稿の考えでは、その中でマゾヒズムに与えられる諸特徴が、
『マゾッ
ホとサド』だけでなく、
『意味の論理学』およびその後の著作におけるドゥルーズの「倒錯」概念全体にとっ
て重要な意義を持っていると思われるのである。
では、両者はいかに峻別されるのだろうか。ドゥルーズによる両者の分析は小説技法、バッハオーフェ
ンを援用した特異な人類学、ユーモアとアイロニーの観点から論じられる法哲学にまで多岐にわたるもの
なので、ここでそのすべてを扱うことはできない。本稿では、両者を特徴づける二つの概念、すなわち「否
定[
négation
]
」と「否認[
dénégation
]
」にまずは注目し、その精神分析的な含意に焦点を当てながら確認
していこう。いずれの概念においても、問題となっているのは、所与の自然や法に対する超越論的な原理
を見いだすことである。
2
‐
1
サディズムと否定
サドの文学で問われているのは、
「否定のあらゆる拡がりと深度」
(
6
)
であり、この問いは二つの「自然」
の区別にもとづいている。ひとつが「二義的自然」である。二義的自然は、それ自身の規律と法則に従属
した自然であり、そこではいなかなる否定性も、すでに存在する秩序の中での否定にすぎず、いわば秩序
そのものの追認でしかない。もうひとつが、
「本義的自然」である。本義的自然は、
「類や法則を超えた純
粋否定の代弁者」
(
PSM 25
)であり、あらゆる秩序の要請からも自由な原初のカオスと考えられる。これ
は一切の経験則を超えるものと考えられるので、
「
〈理念〉の対象」
(
PSM 25
)でなければならない。
この自然の区別の論理は、ドゥルーズのフロイト解釈と対応している。よく知られているように、フロ
イトは『快原理の彼岸』
(
1920
年)で「生の欲動」と「死の欲動」という対を導入した。フロイトの理論
においては、死の欲動はそれ自体経験的ないし実体的に捉えられることはなく、生の欲動との混合状態に
おいてしか見いだされえない。それゆえ、死の欲動そのものは思弁的なものなのである。しかしドゥルー
ズは、生の欲動との混合状態から考えられてしまう死の欲動は、あくまで快原理という経験則に従属した
ものにすぎないと論難する。こういってよければ、ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルーズは、
「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも
のに対して、さらなる「彼岸」を、真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯
や経験的なものの残滓を残してしまう「欲動」という言葉を排して、
「死の本能[
l
’
instinct de mort
]
」
(
PSM
28
)と呼ばれる。
_______
独占資本―アメリカの経済・社会秩序にかんする試論 (1967年) , 1967
P.バラン (著), P.スウィージー (著), 小原 敬士 (翻訳)
本書の主要な 内容構成はつぎのとおりである。
1. 序論
2.巨大株式会社
3.余剰の増大傾向
4.余剰の吸収。資本家の消費と投資。
5.余剰の吸収。販売努力。
6.余剰の吸収。 市民政府。
7.余剰の吸収。軍国主義と帝国主義 。
8.独占資本主義の歴史 。
9.独占資本主義と人種問題。
10独占資本主義社会の質的側面。
11. 不合理な体制。
(岩波とは別訳)
スウィージー『独占資本』
ドゥルーズがAO#3で参照している
《第九節 文明資本主義機械
…
ある革新が採用されるのは、利潤率のせいである。つまり、この革新のための投資が、生産コストの低下を通じてどれだけの利潤率を実現するのかが問題なのだ。もし生産コストが下がらないなら、資本主義は現存の設備を維持し、これと併行して他の領域に投資するほかはない(86)。》
《このようなシステムにおいては、生産システム全体に生気を吹き込む反生産の活動との結びつきを誰ものがれることはできない。「軍事的装備を稼働させ補給する人びとだけが、反人間的な企てにかかわっているわけではない。何百万もの労働者が無用の財や仕事を生産し(このことがまたこれらに対する需要を創りだす)、さまざまな度合で、このことにかかわっている。経済の異なる諸分野や諸部門は深く相互依存しあっているので、ほとんど全世界の人びとが何らかの仕方で反人間的な活動の中に巻き込まれている。ヴェトナム人民と戦争する軍隊に食糧品を供給する農夫。新しい自動車の型を創造するのに必要な、複雑な道具を作る製造者たち。人びとの精神を統制し腐敗させるために用いられる製品となる紙、インク、テレビの製造者たち。以下同様(90)。」こうして、たえず拡大する資本主義的再生産の三つの線分が完結し、これはまた、それの内在性の三つの様相を規定する。》
(86)
Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , 1966, tr. fr. Maspero, pp. 96-98.〔ポール・バラン、ポール・スィージー『独占資本』小原敬士訳、岩波書店、1967、112-118ページ〕116~118頁
(90) Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , p. 303.〔『独占資本』〕邦訳416~7頁、#11:2
独占資本#3ではカレツキも参照される。
30 Comments:
土地(領土とは区別されるものとして) |
(a)各土地の直接比較、差異地代 | 地代
ス (b)土地の独占的所有、絶対地代 |〈所有者〉
ト 労働(活動とは区別されるものとして) |
(a)活動の直接比較、労働 | 利益
ッ (b)労働の独占的所有、余剩労働 |〈事業主〉
ク 貨幣(交換とは区別されるものとして) |
(a)交換物の直接比較、商品 | 税
(b)比較法の独占的所有、貨幣の発行 |〈銀行家〉
土地(領土とは区別されるものとして) |
(a)各土地の直接比較、差異地代 >地代
ス (b)土地の独占的所有、絶対地代 |〈所有者〉
ト 労働(活動とは区別されるものとして) |
(a)活動の直接比較、労働 >利益
ッ (b)労働の独占的所有、余剩労働 |〈事業主〉
ク 貨幣(交換とは区別されるものとして) |
(a)交換物の直接比較、商品 > 税
(b)比較法の独占的所有、貨幣の発行 |〈銀行家〉
土地(領土とは区別されるものとして) |
(a)各土地の直接比較、差異地代 | 地代
ス (b)土地の独占的所有、絶対地代 |〈所有者〉
ト 労働(活動とは区別されるものとして) |
(a)活動の直接比較、労働 | 利益
ッ (b)労働の独占的所有、余剩労働 |〈事業主〉
ク 貨幣(交換とは区別されるものとして) |
(a)交換物の直接比較、商品 | 税
(b)比較法の独占的所有、貨幣の発行 |〈銀行家〉
#13
捕獲装置
命題十二──捕獲
ストック、労働、商品という考え方に頼ることなく、互いに未知である原始人集団のあいだにおける「交換」を考えられるだろうか。限界効用説を手直しすれば、一つの仮説が得られるようにみえる。限界効用説は経済理論としてはきわめて脆弱だが、そのすぐれた論理的力能はジュヴォンズを、ほとんど経済学のルイス・キャロルにしている。抽象的な集団を二つ想定しよう。集団Aは種子を提供し、斧を受け取る。…
…限界効用よりもむしろ「最適限界」について語るとき、パレートはこうした方向に進んでいた。アレンジメントを構成するものとしての欲求可能性が問題なのだ。
ジュヴォンズ×
ジェヴォンズ○
千プラトー
#10
欲動とはアレンジメントそのものにほかならない。いまや古典となった二つの論文で、フロイトはハンスの馬への生成変化に、フェレンツィはアルパドの鶏への生成変化に、それぞれ患者の父親を認めるだけである。
#2(1914)
フロイトの方は、間もなく驚異的な数頁を書こうとしていた。それは「無意識」についての一九一五年の論文で、神経症と精神病との違いにかかわるまったく実用的なものだった。
…
いつも無意識の実に偉大な手法、分子的な多様体の手法を発見すると、たちまちフロイトはモル的な統一性にもどり、彼のおなじみの主題、定冠詞つきの父、ペニス、膣、去勢……などを見出す(リゾームを発見する手前のところで、フロイトはいつも単純な根にもどるのだ)。一九一五年の論文における還元の仕方は大変興味深い。神経症患者は事物の表象にしたがって比較や同一化を行なうのに、精神病患者は言語の表象しかもたない(例えば、穴という言葉)と彼は言う。
…
フロイトが知っているのは、オイディプス化された狼や犬、去勢され去勢する者である狼-パパ、犬小屋の犬、精神分析学者のワンワンだけだ。
(1) Freud, Métapsychologie, Gallimard, p.116.〔「無意識について」『フロイト著作集6』井村恒郎訳、人文書院、1970、110ページ〕
狼男(『狼男の症例』) - Biglobe
www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/.../biography018.html
精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、1918年に『ある幼児期神経症の病歴 より』という臨床的な事例研究(ケースワーク)の論文を書いたが、その中で『狼男(Wolf man)』と名付けた患者の精神病理や問題状況の分析内容について触れている。
03. フロイト「ある幼児期神経症の病歴より」(症例:狼男) | 山竹伸二の ...
yamatake.chu.jp>トップページ>精神分析を読む
フロイト「狼男症例」(『フロイト著作集9巻』人文書院:所収)より作成. (2000.8.31. 山竹 伸二). 本論文は症例「狼男」と呼ばれており、ある患者(以下、狼男と呼ぶ)の幼児期の 神経症に関してのみ報告されたものである。狼男の幼児期神経症は、まず4歳頃に不安 ...
フロイトと狼男(1) (Adobe PDF) -htmlで見る
dspace.wul.waseda.ac.jp/.../BungakuKenkyukaKiyo2_5...
フロイトと狼男(1). 149. 彼が語った狼の夢にちなんで狼男(Wolfsmann)という ニックネームで呼ばれることになるフ. ロイトの患者、セルゲイ・パンケイエフ。この患者を めぐる症例研究論文は原光景(Urszene)、. 事後性(Nachträglichkeit)といった精神 分析の ...
狼男による狼男――フロイトの「最も有名な症例」による回想 | ミュリエル ...
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商品の説明
内容紹介
「フロイトの執筆したすべての症例史の中で最も精緻で、最も
重要なものである」(J・ストレイチィ)とまで評される論考「ある幼児期神経症の病歴より」。
その名著のなかで提示された症例「狼男」ことセルゲイ・パンケイエフの人生は、フロイトと
精神分析に出会うことでどのように変わったのだろうか?
姉や両親との暮らし、フロイトの精神分析をはじめとする数々の治療体験、
ロシア革命と二つの世界大戦、そして最愛の妻テレーゼの自死……。
狼男自身による回想録を中心に、フロイトの後に彼に精神分析を行った
ルース・マック・ブランスウィックの記録、晩年の狼男を支えたミュリエル・
ガーディナーによる多面的考察が加えられ、狼男の90年以上におよぶ生涯が
詳らかにされる。フロイトの「最も有名な症例」として生きた男の真実の姿に迫る、
精神分析学の重要古典。
内容(「BOOK」データベースより)
「フロイトの執筆したすべての症例史の中で最も精緻で、最も重要なものである」(J.ストレイチィ)とまで評される論考「ある幼児期神経症の病歴より」。その名著のなかで提示された症例「狼男」ことセルゲイ・パンケイエフの人生は、フロイトと精神分析に出会うことでどのように変わったのだろうか?姉や両親との暮らし、フロイトの精神分析をはじめとする数々の治療体験、ロシア革命と二度の世界大戦、そして最愛の妻テレーゼの死…。狼男自身による回想録を中心に、フロイトの後に彼に精神分析を行ったルース・マック・ブランスウィックの記録、晩年の狼男を支えたミュリエル・ガーディナーによる多面的考察が加えられ、狼男の90年以上におよぶ生涯が詳らかにされる。フロイトの「最も有名な症例」として生きた男の真実の姿に迫る、精神分析学の重要古典。
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登録情報
単行本: 352ページ
出版社: みすず書房 (2014/9/10)
言語: 日本語
ISBN-10: 4622078481
ISBN-13: 978-4622078487
発売日: 2014/9/10
商品パッケージの寸法: 19 x 13.6 x 3 cm
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投稿者 辞書を引き引き 投稿日 2014/12/31
今回は原書を参照できていないので、推測に基づく記事です。
あちこちに意味のとれない文があって困ったので、その原因を暗示していると思われる例をふたつ挙げてみます。
アンナ・フロイトによる前文VIIページで何度か繰り返される「同一性」という言葉。
例えば、「誰一人として彼女の同一性の謎を突き破ることに成功した者はいなかった。」
何度か読み返してみて思い当たったのは、この「同一性」と訳されているものの原語はidentityではないか、ということ。そうすると、この文脈では「同一性」ではなく「身元、正体」というほうが相応しいのでは。そのつもりで読み直してみるとちゃんと意味がわかる。
310頁で引用されるフロイトの言葉。
「この症例は、臨床精神医学がきわめて雑多で変わりやすい診断名を貼りつけてきた他のたくさんの症例と同様に、自然に終末を迎えたが、治癒後に一種の欠陥を残している強迫神経症に続く一つの状態である、とみなされるべきである」
そして316頁ではやはりフロイトの言葉として
「自然発生的に始まり、欠陥を残したまま治癒した強迫神経症の後続状態」
という表現が紹介されている。
おそらくこれらは同じ言葉のはず。6ページを隔てただけで訳が違っている。なぜ訳者は訳を...続きを読む ›
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http://mb2.jp/_tetsugaku/720.html-1602
『フラニーは、狼たちについてある番組を聴いている。私は彼女に言う――きみは一匹の狼un loupでありたいと思う?軽蔑したような返事――そんなの馬鹿げている、たった一匹の狼なんかいるわけないじゃない、狼はいつだって八匹か十、六か七匹なのよ。これはつまり、たった一人で同時に六か七匹の狼であるというのではなく、他の狼であるということだ。〈狼になること〉において重要なこと、それは群衆的状況であり、そして何よりもまず、群れに対する、狼―多様体に対する主体自身の位置、彼がそこに入り、あるいは入らないでいるやり方、それに対して彼が保つ距離、彼が多様体に接し、かつ接しない流儀だ。自分のした返事の邪険さを和らげるために、フラニーは一つの夢を語ってくれる――・・・』
D&Gの『千のプラトー』からの抜粋です。この先に書かれてあったのが『砂漠があるの。・・・。』ということになるのですが(これは以前に記しましたのでここでは割愛します)。D&Gによると、彼女(おそらく)は分裂病者であるとのことです。
「schizophrania(スキゾフラニア)」という言葉もあるようです。日本語では「統合失調症」と言うようです。しばらく前は「精神分裂症」と言っていたらしい。「フラニー」と「スキゾフラニア」、なんか似ている。ひょっとしたらD&Gは”そのようなもの”に「フラニー」という名をつけたのかもしれない。すなわち、D&Gが作り上げた女性(概念人物)かもしれません。
しかし私はフラニーに興味が湧いた。あるいは、D&Gの興味の矛先がような人であることに興味が湧いた。ということかもしれない。
”先行するカテゴリーを通過しない処理法”には興味がある。もっとも”私における先行するカテゴリー”にすぎないのかもしれないのだが。
少々の発散。
岡崎京子による引用・言及事例集
page.freett.com/tach/okazaki_quote.html
松浦は、『口唇論』でしきりにドゥルーズを引用しましたし、岡崎も、雑誌「文芸」1994年秋 号の『ミル・プラトー』翻訳完成記念の特集 ...... シュ」にはじまり「フラニーとゾーイー」 など)でグラース家のきょうだいがみんなラジオの天才子供番組(「これは天才」だっけ) に出てたことの引用ではないかと思います。 ...... ドゥルーズ・ガタリ「千のプラトー」: 「私 は貴方のオモチャなの」の冒頭の星山星子のセリフ「いやこれは物語ではない/それは 欲望 ...
DR#0
フロイトは、死の本能を、生命のない物質の状態へ還帰しようと する傾向、まったく物理的あるいは物質的な反復というモデルを維持している傾向とし て解釈しているがゆえに、快感原則の彼岸においてさえ、裸の反復の形式が存続してい るのである。
DR#0
フロイトは、死の本能を、生命のない物質の状態へ還帰しようと する傾向、まったく物理的あるいは物質的な反復というモデルを維持している傾向とし て解釈しているがゆえに、快感原則の彼岸においてさえ、裸の反復の形式が存続してい るのである。48
ク) 47
フロイト 『あるとステリー患者の分析の断片』(細木 ・飯田訳、『フロイト著作集5』所
(7) Roger Dadoun,〈Les ombilics du rêve〉, in L'espace du rêve, Nouvelle revue de psychanalyse , n 5.(プログラムとしての夢について、cf. Sarane Alexandrian,〈Le rêve dans le surréalisme〉, id .)
フランス留学生あつまれ~! - mimizun
mimizun.com/log/2ch/kaigai/970345943/
ロジェ・ダドゥーン Roger Dadoun といったあたりになるんでしょうが……。 でも、 マジョールは大学人ではなく、ダドゥーンはすでに退官しています。 ルーディネスコは… …パリ第7大学にまだいるのかな? ちょっとわかりません。 ガタリはもう生き ...
AOに以下の記述がある
ダドゥンは次のことを指摘している。『夢判断』〔一九〇〇年〕とともに、いかにフロイトは『科学的心理学草稿』〔一八九五年〕の頃にはまだ可能であった方向を放棄して、その後、精神分析を袋小路の中に追いやることになるかを。
DR序章、MP第二章などを読んでも、フロイトが本来あった可能性を閉ざしたという大枠は変わらないのではないか?
自明とは思うが、死の欲動と死の本能とは違う。
『マゾッホとサド』(PSM)で使い分けられており、『差異と反復』(DR)序論,#第二章でも踏襲される。
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―― 1960 年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルー
ズは、 「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも のに対して、さらなる「彼岸」を、
真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯 や経験的なものの残滓を
残してしまう「欲動」という言葉を排して、 「死の本能[ l ’ instinct de mort ] 」 ( PSM 28 )と呼
ばれる。
DR#2
《フロイトにおいて、葛藤のモデルの優位を助けているのは、抑圧理論ばか りでなく、欲動理論に
おける二元論でもある。けれども、葛藤は、それよりもはるかに精妙な差異的=微分的なメカニズム
(置き換えと偽装)の所産なのである。》文庫上288頁
AOに以下の記述がある
《ダドゥンは次のことを指摘している。『夢判断』〔一九〇〇年〕とともに、
いかにフロイトは『科学的心理学草稿』〔一八九五年〕の頃にはまだ可能であっ
た方向を放棄して、その後、精神分析を袋小路の中に追いやることになるかを。》
注:Roger Dadoun,〈Les ombilics du rêve〉, in L'espace du rêve, Nouvelle revue de psychanalyse , n 5.
(プログラムとしての夢について、cf. Sarane Alexandrian,〈Le rêve dans le surréalisme〉, id .)
『千のプラトー』(MP)第二章などを読んでも、フロイトが本来あった可能性を閉
ざしたという大枠の評価は変わらないのではないか?
自明とは思うが、死の欲動(pulsion de mort)と死の本能(instinct de mort)とは違う。
『マゾッホとサド』(PSM)で使い分けられており、『差異と反復』(DR)序論,#第二章でも踏襲される。
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―― 1960 年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルー
ズは、 「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも のに対して、さらなる「彼岸」を、
真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯 や経験的なものの残滓を
残してしまう「欲動」という言葉を排して、 「死の本能[ l ’ instinct de mort ] 」 ( PSM 28 )と呼
ばれる。
DR#2
《フロイトにおいて、葛藤のモデルの優位を助けているのは、抑圧理論ばか りでなく、欲動理論に
おける二元論でもある。けれども、葛藤は、それよりもはるかに精妙な差異的=微分的なメカニズム
(置き換えと偽装)の所産なのである。》文庫上288頁
AOに以下の記述がある
《ダドゥンは次のことを指摘している。『夢判断』〔一九〇〇年〕とともに、
いかにフロイトは『科学的心理学草稿』〔一八九五年〕の頃にはまだ可能であっ
た方向を放棄して、その後、精神分析を袋小路の中に追いやることになるかを。》
注:Roger Dadoun,〈Les ombilics du rêve〉, in L'espace du rêve, Nouvelle revue de psychanalyse , n 5.
(プログラムとしての夢について、cf. Sarane Alexandrian,〈Le rêve dans le surréalisme〉, id .)
『千のプラトー』(MP)第二章などを読んでも、フロイトが本来あった可能性を閉
ざしたという大枠の評価は変わらないのではないか?
death drive [pulsion de mort]
デストルドー(英語: destrudoまたはdeath drive、ドイツ語: Todestrieb (トーデストリープ))とは、ジークムント・フロイトの提唱した精神分析学用語で、死へ向かおうとする欲動のこと。タナトス(英語: Thanatos)もほぼ同義で、死の神であるタナトスの神話に由来する。
荻本医院:ラカン勉強会
http://www.ogimoto.com/benkyo080118.html
1) 死の本能と死の欲動pulsion de mortとの違いについては、ラカンは明確な区別をしていたのか、小生は、今のところ、これはというパッセージに巡り会ったことがありません。一般的に、ラカンはinstinctという用語を退けたと言われていますが、初期のセミネールにはinstinct de mortという言い方を散見できます。Deleuzeはサドがいう自然の破壊的傾向にも、二種類あり、Klosovski(cf. Sade Mon prochain, Seuil)のいう部分的過程としての否定négation comme processus partielと全的否定négation totaleを受けて、前者をpulsion de mort後者をinstinct de mortと区別しています(v. Présentation de Sacher-Masoch - Le froid et le cruel, Les éditions de minuit, p.29)
参考:
death drive [pulsion de mort]
デストルドー(英語: destrudoまたはdeath drive、ドイツ語: Todestrieb (トーデストリープ))とは、
ジークムント・フロイトの提唱した精神分析学用語で、死へ向かおうとする欲動のこと。タナトス
(英語: Thanatos)もほぼ同義で、死の神であるタナトスの神話に由来する。…
自明とは思うが、死の欲動(pulsion de mort)と死の本能(instinct de mort)とは違う。
『マゾッホとサド』(PSM)で使い分けられており、『差異と反復』(DR)序論,#第二章でも踏襲される。
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―― 1960 年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルー
ズは、 「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも のに対して、さらなる「彼岸」を、
真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯 や経験的なものの残滓を
残してしまう「欲動」という言葉を排して、 「死の本能[ l ’ instinct de mort ] 」 ( PSM 28 )と呼
ばれる。
荻本医院:ラカン勉強会
http://www.ogimoto.com/benkyo080118.html
1) 死の本能と死の欲動pulsion de mortとの違いについては、ラカンは明確な区別をしていたの
か、小生は、今のところ、これはというパッセージに巡り会ったことがありません。一般的に、ラ
カンはinstinctという用語を退けたと言われていますが、初期のセミネールにはinstinct de mort
という言い方を散見できます。Deleuzeはサドがいう自然の破壊的傾向にも、二種類あり、Klosovski(cf. Sade Mon prochain, Seuil)のいう部分的過程としての否定négation comme
processus partielと全的否定négation totaleを受けて、前者をpulsion de mort後者をinstinct de
mortと区別しています(v. Présentation de Sacher-Masoch - Le froid et le cruel, Les éditions
de minuit, p.29)
少なくとも吉本本人はドゥルーズを読んでドゥルーズを批判していた
なのに吉本信者は全く読まないでその党派性だけを前提にし批判する
これでは「マルクス主義」が何を意味するのかももはやわからないだろう
ドゥルーズにとってマルクス主義は資本の分析を意味する
《…フェリックス・ガタリと私は、各人の流儀に違いがあるだろうとはいえ、やはりふ
たりともマルキシストでありつづけていると思います。私たちには資本主義とその
発展の分析に焦点をしぼらないような政治哲学が信じられられないのです。私たち
がマルクスでいちばん面白いと思ったのは、資本主義を内在性のシステムとして
分析しているところです。つまり資本主義はみずからのリミットを絶えず押しやってい
く、しかしリミットすなわち資本である以上、尺度を拡大したかたちで、どうしてもまた
同じリミットに逢着するということですね。》
記号と事件
ただしドゥルーズは左翼の定義として「政権につかない」と述べている(『ABC』より)
晩年は明らかにマルクス主義よりもアナーキズムに接近し、その系譜上にある
柄谷のように両者を二項対立にしたくないのだろうが…
ドゥルーズも吉本(親鸞)もアナーキズムとして読めるが
その伝統が途切れている
(一般にプルードンが読まれていないからだ)
昨今の論理学はヘーゲルに近づいて再評価しているが
スピノザを知らないために無駄な遠回りをしている
吉本やジジェクのようにヘーゲルに回帰するのはいいが、
そこから出るにはスピノザが必要だ
戸田山の近著はスピノザに近づいているのに自覚がない…
《結局、CsOに関する偉大な書物は、『エチカ』ではなかろうか。》MP#2
MPより
《13 BC七〇〇〇年──捕獲装置
…
三つの頭をもつ捕獲装置、マルクスの定式から派生した(三つはマルクスと同じ仕方で配分さ
れてはいないが)「三位一体の定式」は次のようになる。
土地(領土とは区別されるものとして)|
(a)各土地の直接比較、差異地代 >地代
ス (b)土地の独占的所有、絶対地代 |〈所有者〉
ト 労働(活動とは区別されるものとして)|
(a)活動の直接比較、労働 >利益
ッ (b)労働の独占的所有、余剩労働 |〈事業主〉
ク 貨幣(交換とは区別されるものとして)|
(a)交換物の直接比較、商品 > 税
(b)比較方法の独占的所有、貨幣の発行 |〈銀行家〉》
_____
マルクス三位一体の定式の一つ「資本-利潤」をドゥルーズは「貨幣-税」としている。
(ガタリの功績かもしれないが、税に着目してマルクスを改定しているところは流石である。)
ドゥルーズは、国家が資本の中に折りたたまれた構造を提示している。
スウィージー『独占資本』
ドゥルーズがAO#3で参照している
《第九節 文明資本主義機械
…
ある革新が採用されるのは、利潤率のせいである。つまり、この革新のための投資が、
生産コストの低下を通じてどれだけの利潤率を実現するのかが問題なのだ。もし生産
コストが下がらないなら、資本主義は現存の設備を維持し、これと併行して他の領域に
投資するほかはない(86)。》
《このようなシステムにおいては、生産システム全体に生気を吹き込む反生産の活動と
の結びつきを誰ものがれることはできない。「軍事的装備を稼働させ補給する人びと
だけが、反人間的な企てにかかわっているわけではない。何百万もの労働者が無用の財
や仕事を生産し(このことがまたこれらに対する需要を創りだす)、さまざまな度合で、
このことにかかわっている。経済の異なる諸分野や諸部門は深く相互依存しあっている
ので、ほとんど全世界の人びとが何らかの仕方で反人間的な活動の中に巻き込まれている。
ヴェトナム人民と戦争する軍隊に食糧品を供給する農夫。新しい自動車の型を創造するの
に必要な、複雑な道具を作る製造者たち。人びとの精神を統制し腐敗させるために用い
られる製品となる紙、インク、テレビの製造者たち。以下同様(90)。」こうして、
たえず拡大する資本主義的再生産の三つの線分が完結し、これはまた、それの内在性の
三つの様相を規定する。》
(86)
Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , 1966, tr. fr. Maspero, pp. 96-98.
〔ポール・バラン、ポール・スィージー『独占資本』小原敬士訳、岩波書店、1967、
112-118ページ〕
…
(90) Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , p. 303.〔『独占資本』〕
邦訳416~7頁、#11:2
http://digamo.free.fr/barans68.pdf フランス語訳全336p
独占資本#3ではカレツキも参照される。
https://www.amazon.co.jp/dp/B000JA8YO0/
独占資本―アメリカの経済・社会秩序にかんする試論 (1967年) - – 古書, 1967
P.バラン (著), P.スウィージー (著), 小原 敬士 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000JA8YO0/
独占資本―アメリカの経済・社会秩序にかんする試論 (1967年) , 1967
P.バラン (著), P.スウィージー (著), 小原 敬士 (翻訳)
ドゥルーズがAO#3で参照している
《第九節 文明資本主義機械
…
ある革新が採用されるのは、利潤率のせいである。つまり、この革新のための投資が、
生産コストの低下を通じてどれだけの利潤率を実現するのかが問題なのだ。もし生産
コストが下がらないなら、資本主義は現存の設備を維持し、これと併行して他の領域に
投資するほかはない(86)。》
《このようなシステムにおいては、生産システム全体に生気を吹き込む反生産の活動と
の結びつきを誰ものがれることはできない。「軍事的装備を稼働させ補給する人びと
だけが、反人間的な企てにかかわっているわけではない。何百万もの労働者が無用の財
や仕事を生産し(このことがまたこれらに対する需要を創りだす)、さまざまな度合で、
このことにかかわっている。経済の異なる諸分野や諸部門は深く相互依存しあっている
ので、ほとんど全世界の人びとが何らかの仕方で反人間的な活動の中に巻き込まれている。
ヴェトナム人民と戦争する軍隊に食糧品を供給する農夫。新しい自動車の型を創造するの
に必要な、複雑な道具を作る製造者たち。人びとの精神を統制し腐敗させるために用い
られる製品となる紙、インク、テレビの製造者たち。以下同様(90)。」こうして、
たえず拡大する資本主義的再生産の三つの線分が完結し、これはまた、それの内在性の
三つの様相を規定する。》
(86)Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , 1966, tr. fr. Maspero, pp. 96-98.
〔ポール・バラン、ポール・スィージー『独占資本』小原敬士訳、岩波書店、1967、
112-118ページ〕
…
(90) Paul Baran et Paul Sweezy, Le Capitalisme monopoliste , p. 303.〔『独占資本』〕
邦訳416~7頁、#11:2
http://digamo.free.fr/barans68.pdf フランス語訳全336p
独占資本#3ではカレツキも参照される。
[jungnet 00200] Re^2: 書評/河合俊雄『ユング』
http://www.asahi-net.or.jp/~we7n-hkt/jung-kawaito00200.html
Cさんへ
> Cです。よろしく。
> ユングネットは読む量が多くて驚いてます(^^。
こちらこそよろしく。(^^)
書きなぐりのAです。読み流してくださいませ。(^^;)
> ユングの思想がジャネの直系であるのは
> その通りだと思います。
>
> ただ、ジャネがフロイトの「敵対者」かどうかは、ちょっと(^^;。
確かに「敵対者」という表現はちょっと大げさだったかもしれませんね。精
神分析に対する論客だった、というのが本当のところでしょうか。
1913年8月、ロンドンでの国際医学会総会の精神医学分科会で、ジャネは
精神分析に対するかなり厳しい批判を行なったそうです。ちょうどこの時同じ
ところで、精神分析の弁護論を発表したのがユングでした。
エレンベルガー『無意識の発見』から引用します。
ジャネは主に二つの点に関して精神分析を批判した。ジャネは第一に、神
経症が心的外傷に起因することを明らかにし、この原因論に基づいて神経症
をカタルシス的に治癒させうるという発見は、自分が先になしたものである
と主張した。ジャネの考えでは、精神分析は、この基本概念を一方向だけに
発展させたものにすぎない。第二に、フロイトの、夢の解釈法と神経症の性
的起源説を、ジャネは鋭く批判した。ジャネは、精神分析を「形而上学的」
体系だと断定した。
(木村敏・中井久夫監訳、弘文堂、上巻、1980、P400)
この部分を読んだとき、私は「んん?」と思いました。ジャネの精神分析に
対する批判の論点は、ユングのフロイトに対する批判の論点と重なっていませ
んか?
実際この1913年という年は、ユングがフロイトから離反した年であるわけ
ですね。そんな時に、ユングがジャネに対抗する形で論を張る形になったとい
うのは、なにとはなしに面白い布置を感じます。もう少しエレンベルガーを引
用します。
フロイトはユングに、1913年8月のロンドン国際医学会で精神分析学を
ジャネの攻撃から守る使命を委託している。しかし、精神分析に関するユン
グの学会発表の内容は大部分彼自身の精神分析論だった。翌月ミュンヒェン
で国際精神分析学会が開かれた時、ユングと精神分析派との争いは尖鋭化し
た。ユングは1913年10月に精神分析学会を脱退し、『精神分析学年報』の
編集者も辞めた。
(木村敏・中井久夫監訳、弘文堂、下巻、1980、P303)
ユングが1913年8月のロンドン国際医学会で、ジャネに対抗して行なった
精神分析の弁護とはいかなる内容だったのか、ちょっと興味がありますね。
> ユングもフロイトも、最先端のおフランスに留学して、
> フロイトのころはシャルコー先生、
> ユングのころはジャネ先生だったということです。
> (ちなみに、「精神分析」という言葉は、
> はじめフロイトのフランス語の論文で使われています。
> 「LaPsychanalyse、ラ・プシカナリーズ」)。
> なんで、シャルコーやジャネでなく、
> フロイトやユングが残ったのか
> 考慮すべきではありますまいか。
私にはよくわかりませんが、推測をするならば、やはりシャルコーやジャネ
の理論がバリバリの医学理論だったのに対し、フロイトやユングのそれは他の
領域にも影響を与えるような文学理論でもあったからではないでしょうか。
つまりは、マスコミ受けがよかったからではないかと。(^^;)
> ちなみに私見では、
> 初期のコンプレックス論から始まって、
> 後期の元型論にいたるまで、
> ユングは解離以外の理論モデルを
> 持ってません(言い切っていいかな?)。
私は言い切っていいと思いますよ。ユングの心理学理論の核には、常に解離
モデルがあると思います。
> ジャネやユングがすでに持っていた理論モデルが、
> 今更ながらにアメリカナイズして
> 回帰するのはなぜかも考えるべきでしょうねえ。
アメリカ精神医学界において、多重人格のモデルとしての解離理論および催
眠療法が再び注目されていること、そして精神分析に対する批判が高まりつつ
あることが背景としてあるように思います。ユングは正統派精神医学から見れ
ばやっぱりオカルトであるし、とりあえず精神分析の流れでもあるので、ジャ
ネのほうを引っぱって来ざるをえなかったんでしょうね。
> いや、まったくそれこそが
> 「心的現実」の発想でしょう。
> ハーマンがアメリカ人かなんか忘れましたが、
> トラウマの意義を無視して、
> トラウマを引き起こした事実を
> 詮索する方に重きを置いてしまうのは、
> 彼の地の経済的、法学的な
> プラグマティズムのせいだと夢想する次第です。
ハーマンはフェミニズムからかなりの思想的影響を受けていることを自ら認
めており、政治的な解放という視点を強く持っています。虐待行為や戦争によ
る神経症といった事実を、政治的かつ構造的な問題として告発するという意図
もあったんでしょう。これはこれで大事ではあると思います。それがすべてと
されるとユング読みとしては物足りませんけどね。
> トラウマを引き起こした事実を確証して、
> そんなことは許せんと法的介入するのは、
> それとして価値のあることですが、
> 決して分析にとって意義のあることではありません。
このあたりの兼ね合いが難しいんでしょうね。児童虐待の本を読んだりする
と、何よりもまず物理的に介入しないとまずい、というケースも結構あるんだ
と実感させられます。本人にとって何がいちばんよい方向か、ということを基
準にして法的介入を行なっていくことが必要なんだと思います。
> ところで、
> 僕自身に大きな誤解があるかもしれませんが、
> ユング派だったら、解離状態が続いても、
> 本人(達)が納得してるんなら、
> それをどうこうしようという意図は
> まったくないんですよねえ?
>
> 問題は、結局、「自殺してやる~」とか、
> 反社会的なことをしかねない人格Xさんを
> どうするかに行きつくのかな?
この点も難しい問題ですよね。ユングは心の中に、解離を自然と統合させる
システムがあると考えていたわけですが、これがどこまで妥当性を持った見解
であるか改めて問い直すことが必要かもしれません。
→ 会話の続きを読む
[jungnet 00222] Re: 書評/河合俊雄『ユング』
フロイト全集12―1912-13年
トーテムとタブー(門脇健訳)
転移の力動論にむけて(須藤訓任訳)
神経症の発症類型について(須藤訓任訳)
性愛生活が誰からも貶められることについて(『性愛生活の心理学への寄与』 II)(須藤訓任訳)
精神分析治療に際して医師が注意すべきことども(須藤訓任訳)
自慰についての討論のための緒言・閉会の辞(須藤訓任訳)
精神分析における無意識概念についての若干の見解(須藤訓任訳)
幼年期の夢の実例求む―編集者より(須藤訓任訳)
「未開人の心の生活と神経症者の心の生活における若干の一致点について」への導入の文章(須藤訓任訳)
アーネスト・ジョーンズ「ローズベルトを精神分析する」への付記(須藤訓任訳)
小箱選びのモティーフ(須藤訓任訳)
フロイト全集13―1913-14年
ミケランジェロのモーセ像(渡辺哲夫訳)
精神分析運動の歴史のために(福田覚訳)
ナルシシズムの導入にむけて(立木康介訳)
証拠手段としての夢(道籏泰三訳)
オスカル・プフィスター博士著『精神分析的方法』へのはしがき(道籏泰三訳)
夢における童話の題材(道籏泰三訳)
マクシミリアン・シュタイナー博士著『男性能力の心的障害』への序言(道籏泰三訳)
子供のついた2つの嘘(福田覚訳)
強迫神経症の素因(立木康介訳)
精神分析への関心(福田覚訳)
ジョン・グレゴリー・バーク著『諸民族の風俗、慣行、信仰ならびに慣習法における汚物』へのはしがき(道籏泰三訳)
治療の開始のために(道籏泰三訳)
特殊な意味を持った幼年期の夢(道籏泰三訳)
分析実践の経験と事例(道籏泰三訳)
分析作業中の誤った再認(「すでに話した」)について(道籏泰三訳)
ギムナジウム生徒の心理学のために(道籏泰三訳)
想起、反復、反芻処理(道籏泰三訳)
夢における「偉業」の叙述(道籏泰三訳)
転移性恋愛についての見解(道籏泰三訳)
フレデリク・ヴァン・エーデン宛書簡(道籏泰三訳)
フロイト全著作解説/2005.8
http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000007927055.html
証拠としての夢 (1913a) 273
夢の中の童話素材 (1913d) 273
小箱選びのモティーフ (1913f) 274
子供のうその二例 (1913g) 275
強迫神経症の素因神経症の選択の問題に関する一寄与 (1913i) 276
オスカー・プフィスター著『精神分析の方法』への序文 (1913b) 281
J・G・ブアク著『諸民族の風俗・習慣・信仰・習慣法における汚物』への緒言 (1913k) 282
母音系列の意義 (1911d) 283
「偉大なるはエペソスのディアーナ」(1911f) 284
M・シュタイナー博士著『男性能力の心的障害』への序言 (1913e) 284
トーテムとタブー (1913 [1912-13]) 285
精神分析への関心 (1913j) 288
分析的実践から得た観察と実例 (1913h) 289
フロイト全集13―1913-14年
強迫神経症の素因(立木康介訳)1913
精神分析への関心(福田覚訳)1913 邦訳著作集10[これが有力]
《…強迫神経症の素因を見いだした前性器的なサディズム肛門性愛段階にまで性生活が退行…》「強迫神経症の素因」#10:199頁
《….夢の表現手段は主として視覚的な像であって言葉ではないということを考えると、我々には、夢と言語を比較す
るよりも、夢と文字体系を比較した方がより適切なように思えてくる。実際、夢の解釈は、エジプトのヒエログリ
フのような古代の象形文字の判読ときわめてよく似ている。…様々な夢の要素の多義性は、それと対になるも
のをこの古い文字体系に見出すことができるし、それは、様々な関係の省略についても同様である。…
夢の言語は無意識的な心の活動の表現法である、と言うことができる。しかし、無意識が話すは方言はたったーつ
とは限らず、もっと数が多い、神経症の個々の形式を特徴付け、互いを鑑別させる心理学的諸条件が変わると、無
意識的な心の動き(蠢き)を表す表現にもー定した変化が生じる。》「精神分析への関心」#10:217~8頁
P. A. Baran and P. M. Sweezy; Monopoly capital, an essay on th...1966
https://www.mysciencework.com/publication/show/09659988ecc15cc90f317a8f0ee58144
本書の主要な 内容構成はつぎのとおりである。
1. 序論
2.巨大株式会社
3.余剰の増大傾向
4.余剰の吸収。資本家の消費と投資。
5.余剰の吸収。販売努力。
6.余剰の吸収。 市民政府。
7.余剰の吸収。軍国主義と帝国主義 。
8.独占資本主義の歴史 。
9.独占資本主義と人種問題。
10独占資本主義社会の質的側面。
11. 不合理な体制。
(岩波とは別訳)
以下、ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』#13より
三つの頭をもつ捕獲装置、マルクスの定式から派生した(三つはマルクスと同じ仕方で
配分されてはいないが)「三位一体の定式」は次のようになる。
土地(領土とは区別されるものとして)|
(a)各土地の直接比較、差異地代 >地代
ス (b)土地の独占的所有、絶対地代 |〈所有者〉
ト 労働(活動とは区別されるものとして)|
(a)活動の直接比較、労働 >利益
ッ (b)労働の独占的所有、余剩労働 |〈事業主〉
ク 貨幣(交換とは区別されるものとして)|
(a)交換物の直接比較、商品 > 税
(b)比較方法の独占的所有、貨幣の発行 |〈銀行家〉
…
地代、利潤、利子とマルクスなら書くだろうが、利子の部分を税に包括させている。
ゲゼルの代替案に呼応するし、何よりもケインズの三分割と同じで有効需要が視野に入っている。
マルクス主義は国家を敵とみなすあまり、有効需要の発見に遅れを取った。
限界効用に関してはその欠如がマルクス主義の欠点になることはないが、有効需要に関しては
その発見の遅れは致命的である。マルクス再生産表式論から有効需要の原理を導き出した
カレツキの名声はケインズ以上であるべきなのに。
参考:《…カレツキは、以上みた論文Kalecki[1968]*の最後の部分において、マルクスの『資本論』第3巻、第15章のい
わゆる「剰余価値の実現」の問題を論じた一節「直接的搾取の諸条件と剰余価値の実現の諸条件とは同一で
はない。‥‥‥‥」を引用して、「マルクスは、明らかに、資本主義の動態に対する有効需要の影響を深く認
識していた」としつつも、「彼は、彼の再生産表式によって叙述されている過程を、有効需要の問題の帰結
として資本主義に内在する矛盾という観点から体系的に吟味することをしなかった」と、マルクスにおける
『資本論』第3巻の「剰余価値の実現」の問題=「有効需要の問題」と第2巻の再生産表式論との関連の未
展開を批判する。》
http://www.unotheory.org/news_II_8
栗田康之 :カレツキの資本主義経済論―マルクスおよび宇野理論との関連で―
*("The Marxian equations of reproduction and modern economics"1968
参考:
《…カレツキは、以上みた論文Kalecki[1968]*の最後の部分において、マルクスの『資本論』第3巻、第15章のい
わゆる「剰余価値の実現」の問題を論じた一節「直接的搾取の諸条件と剰余価値の実現の諸条件とは同一で
はない。‥‥‥‥」を引用して、「マルクスは、明らかに、資本主義の動態に対する有効需要の影響を深く認
識していた」としつつも、「彼は、彼の再生産表式によって叙述されている過程を、有効需要の問題の帰結
として資本主義に内在する矛盾という観点から体系的に吟味することをしなかった」と、マルクスにおける
『資本論』第3巻の「剰余価値の実現」の問題=「有効需要の問題」と第2巻の再生産表式論との関連の未
展開を批判する。》
http://www.unotheory.org/news_II_8
栗田康之 :カレツキの資本主義経済論―マルクスおよび宇野理論との関連で―(PDF形式:563KB)
*("The Marxian equations of reproduction and modern economics"1968
「マルクスの再生産の方程式と近代経済学」1968,1991未邦訳
(簡単に言えば、カレツキはマルクス再生産表式の生産手段(生産財)部門をさらに二つ
にわけることで有効需要の概念をケインズに先駆けて定式化した。マルクスの表式のままだと
2階級間の階級闘争しか見えてこない)
November 4, 1995: Deleuze's death as an event - KASS Produktion (Adobe PDF) -htmlで見る
www.kass-produktion.se/wp.../death-as-an-event_marked.pdf
1–15 février. 1995, 16. Dosse, François. Histoire du structuralisme. II. Paris: La Découverte, 1992. Droit, Roger-Pol. “Gilles Deleuze, un penseur pluriel et pourtant tr`es singulier”. Le Monde. 7 novembre, 1995, 28. Eribon, Didier. “Le 'Je me souviens' de Gilles Deleuze”. Entretien. Le Nouvel Observateur. 16–22 novembre, 1995, 114–115. Faye, Jean-Pierre. “J'étouffe, je te rappellerai”. Libération. 7 novembre 1995, 38. Frodon, Jean-Michel. “Le Cinéma `a la lumi`ere de la philosophie”.
批評空間 第2期1号-10号 - aabiblio @ ウィキ - アットウィキ
www36.atwiki.jp/aabiblio/pages/64.html
小特集 ドゥルーズ○ Gilles Deleuze「思い出すこと」(聞き手:Didier Eribon)(*26)( 鈴木秀亘訳)pp.6-12 ○ 前田英樹「基調報告1 悟性と感性の「性質の差異」について」 pp.13-6 ○ 財津理「基調報告2 ドゥルーズの思想の生成変化」pp.17-21 ○ 財津理・蓮實重彦・前田英樹・浅田彰・柄谷行人「共同討議 ドゥルーズと哲学」(1996.1.19.)pp.22- 54〔→柄谷行人編『シンポジウムIII』、1998.6〕 ○ Paul Virilio・Sacha Goldman「文明問題としての核拡散について」(松葉祥一訳)pp.81-86 ○ 坂本龍一・浅田彰・柄谷行人「 座談 ...
Eribon, Didier. “Le 'Je me souviens' de Gilles Deleuze”. Entretien.
思い出すことなど インタビュー
マルクス主義者を名乗ることは政治革命志向を意味するから
マルクスを理解していたらその人はマルクス主義者を名乗らない
マルクス主義は社会革命を意味するべきだ
ただこれは日本国内での話
ドゥルーズがマルクス主義者を自称するとき
それは資本の分析の重要性を意味する
《…フェリックス・ガタリと私は、各人の流儀に違いがあるだろうとはいえ、やはりふ
たりともマルキシストでありつづけていると思います。私たちには資本主義とその
発展の分析に焦点をしぼらないような政治哲学が信じられられないのです。私たち
がマルクスでいちばん面白いと思ったのは、資本主義を内在性のシステムとして
分析しているところです。つまり資本主義はみずからのリミットを絶えず押しやってい
く、しかしリミットすなわち資本である以上、尺度を拡大したかたちで、どうしてもまた
同じリミットに逢着するということですね。》
ドゥルーズ『記号と事件 』
LNO: Gilles Deleuze | Architexturez Network
http://network.architexturez.net/pst/az-cf-56379-817742161
http://d.hatena.ne.jp/femmelets/touch/20120215/1329232117
ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)、p.11-12
〈マルクス〉
私は共産党に入ったことは一度もありません。(精神分析を受けたことも一度もありません。そういったことはすべて免れまし
た。)60年代以前は、自分をマルクス主義者だと思ったこともありません。共産党員にならなかったのは、党が党員の知識人に
何をさせていたかを見て知っていたからです。
当時私がマルクス主義者でなかったわけは、つきつめればマルクスを知らなかったからだということもことわっておかなければ
なりません。
マルクスを読んだのはニーチェと同じ時期でした。素晴らしいと思いました。彼の生み出したさまざまなコンセプトは、私にと
って今でも役立つものです。そこにはひとつの批判、根本的な批判が存在しています。『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』
はマルクスに、マルクス主義に完全に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。例えば、
「管理社会」について書いた記事は(月刊ロートル・ジュールナル1号 1990年5月号に掲載、ミニュイ社刊『記号と事件』に収録、
邦訳河出書房新社)、マルクスが彼の時代には知りえなかったことを語っているにもかかわらず、完璧にマルクス主義的なテクストです。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終ったなどと
聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためには
マルクスにもう一度立ち返らなければなりません。
〈著作〉
次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。
〈絵を描くこと〉
私は今もう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を描くでしょう。
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