『カフカ マイナー文学のために』ドゥルーズ/ガタリ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/deleuze-guattari-kafka-pour-une.html(本頁)
身体 器官なき
ドゥルーズ体系: 分子化
スピノザ 【 分 析 】
プラトン、
カント ベーコン
Hegel\ | /
Heidegger
千のプラトー/
ライプニッツ|
ベルクソン☆
\|/
【規定】
差異と反復ーーー
シネマーーー
意味の論理学【反省】
カフカ
/|\ [修辞学]
フーコー/ | (
ヒューム)
(
Marx)
アンチ Freud
/
・オイディプス\
サルトル 【 総 合 】
ニーチェ プルースト
諸機械 欲望する
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ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 『カフカ マイナー文学のために』 (叢書ウニベルシタス)
"Il n'y a de grand, et de révolutionnaire, que le mineur. Haïr toute littérature de maîtres. (...) Mais, ce qui est intéressant encore, c'est la possibilité de faire de sa propre langue, à supposer qu'elle soit unique, qu'elle soit une langue majeure ou l'ait été, un usage mineur. Être dans sa propre langue comme un étranger"
Gilles Deleuze/Félix Guattari "Kafka", Les éditions de minuit, 1975, p.48
(偉大で革新的なのはマイナーなものだけだ。巨匠の文学くそくらえ。特殊な言語であれ、メジャーなあるいはかつてメジャーだった言語であれ、自分自身の言語をマイナーなやり方で使用することができるかどうかが関心事なのだ。自分自身の言語においてよそ者のようであること)
ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ
『カフカ マイナー文学のために』
宇波彰/岩田行一 訳
叢書ウニベルシタス
法政大学出版局 1978年7月10日初版第1刷発行/1986年6月30日第8刷発行
202p 四六判 丸背布装上製本 カバー 定価1,800円
Gilles Deleuze/Félix Guattari : Kafka; Pour une littérature mineure, 1975
「カバーの図版はカフカ自筆の素描。「ミレナへの手紙」(S. Fischer Verlag)より。」
目次
第一章 内容と表現
うなだれた頭、挙げられた頭
写真・音
第二章 ふとりすぎのオイディプス
二重の超越
社会的三角形、動物への変身
第三章 マイナー文学とは何か
言語
政治
集団的なもの
第四章 表現の構成要素
愛の手紙と悪魔の契約
物語と動物への変化
長篇小説と機械状鎖列
第五章 内在と欲求
法に対する違反、罪など
プロセス、隣接・連続・無限定
第六章 セリーの増殖
権力の問題
欲求・分節・線
第七章 連結器
女たちと芸術家
芸術の反=美的主義
第八章 ブロック・セリー・強度
カフカによる構築物の二つの状態
ブロック、そのさまざまなかたちと長篇小説の構成
マニエリスム
第九章 鎖列とは何か
言表と欲求、表現と内容
訳注
訳者あとがき (宇波彰)
付録・カフカの表現機械 (宇波彰)
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/index.php?sp=liv&livre_id=2014
Gilles Deleuze
Félix Guattari
Kafka
Pour une littérature mineure
1975
Collection « Critique », 160 pages
Force de Kafka. Politique de Kafka. Déjà les lettres d’amour sont une politique où Kafka se vit lui-même comme un vampire. Les nouvelles ou les récits tracent des devenirs-animaux qui sont autant de lignes de fuite actives. Les romans, illimités plutôt qu’inachevés, opèrent un démontage des grandes machines sociales présentes et à venir.
Au moment même où il les brandit, et s’en sert comme d’un paravent, Kafka ne croit guère à la loi, à la culpabilité, à l’angoisse, à l’intériorité. Ni aux symboles, aux métaphores ou aux allégories. Il ne croit qu’à des architectures et à des agencements dessinés par toutes les formes de désir. Ses lignes de fuite ne sont jamais un refuge, une sortie hors du monde. C’est au contraire un moyen de détecter ce qui se prépare, et de devancer les “ puissances diaboliques ” du proche avenir. Kafka aime à se définir linguistiquement, politiquement, collectivement, dans les termes d’une littérature dite “ mineure ”. Mais la littérature mineure est l’élément de toute révolution dans les grandes littératures.
‑‑‑‑‑ Table des matières ‑‑‑‑‑
Chapitre 1. Contenu et expression. Tête penchée, tête redressée – Photo, son
Chapitre 2. Un œdipe trop gros. Double dépassement : les triangles sociaux, les devenirs-animaux
Chapitre 3. La littérature mineure. Le langage – Le politique – Le collectif
Chapitre 4. Les composantes de l’expression. Les lettres d’amour et le pacte diabolique – Les nouvelles et les devenirs-animaux – Les romans et les agencements machiniques
Chapitre 5. Immanence et désir. Contre la loi, la culpabilité, etc. – Processus : le contigu, le continu et l’illimité
Chapitre 6. Prolifération des séries. Problème du pouvoir – Désir, segment et ligne
Chapitre 7. Les connecteurs. Femmes et artistes – Anti-esthétisme de l’art
Chapitre 8. Blocs, séries, intensités. Les deux états de l’architecture selon Kafka – Les blocs, leurs différentes formes et les compositions de romans – Le maniérisme
Chapitre 9. Qu’est-ce qu’un agencement ? L’énoncé et le désir, l’expression et le contenu
本書より:
「偉大で、革命的なのは、マイナーなものだけである。大作家たちのすべての文学を憎むこと。(中略)もっと興味があるのは、彼に固有の言語が独自なものであり、それが主要な言語であるか、かつてそうであったと仮定して、その言語についてマイナーな使用をする可能性である。自分の言語のなかで異邦人のようであるというのが、カフカの「偉大な水泳選手」の状況である。独自なものであっても、ひとつの言語はオートミールであり、精神分裂病的な混合物、寄せ集め――それを通してきわめて多様な言語活動の動機と、権力のさまざまな中枢が作用するような寄せ集め――であり、語られうることと語られえないこととを振り分けている。ひとつの機能を別の機能に対して働きかけさせ、相対的な領域性と非領域化の係数が働かせられよう。たとえ多くのひとびとが使う言語であっても、ひとつの言語はそれを創造的な逃走の線にしたがって展開させるような、またきわめてゆっくりしていて慎重なものであるにせよ、今度は絶対的な非領域化をかたち作るような、強度な使用が可能である。創造は単に語彙だけのものではない。語彙はほとんど取るに足らない。犬のように書くためには、冷静なシンタックス的創造が肝心である。(しかし、犬はまったく書かない。)それはアルトーがフランス語についてしたこと、つまり叫び=息であり、別の線にしたがってセリーヌがフランス語についてしたこと、つまり至高点における叫び声である。(中略)ここに真のマイナーの作家がある。言語・音楽・エクリチュールにとってのひとつの出口、それはポップと呼ばれるもの、ポップミュージック・ポップ哲学・ポップエクリチュール、つまりことばの逃走(ヴェルターフルヒト)。自分の言語のなかで、多言語使用をすること、自分の言語についてマイナーまたは強度な使用をすること、この言語の抑圧された特徴を、この言語の抑圧者的な特徴に対立させること、非文化と未開発の地点、言語の第三世界の地帯――そういう場でひとつの言語が逃げて行き、一匹の動物がくっつき、ひとつの鎖列が作られるのだが――を見出すこと。たとえまったく小さなものであっても、何と多くのスタイル、ジャンルまたは文学運動がただひとつの夢、言語の大きな機能を満たし、国家の言語、公式の言語としての仕事をしようと申し出る夢しか持っていないことであろう。(中略)それとは逆の夢を見ること。マイナーなものへの生成変化を作れるということ。」
「動物のなかにあるすべてのものは変身である。そして変身は、動物が人間に変化することと、人間が動物に変化することという同じ回路のなかにある。」
「つまり、人間が、動物に逃げることを強制したり、それを従属させることによって、動物に与える非領域化と、人間がひとりでは考えないような出口または逃走の手段(分裂病的逃走)を人間に示すことによって、動物が人間に提示する非領域化という二つの非領域化があるが、変身はこの二つの非領域化の結合として存在する。そしてこの二つの非領域化のそれぞれが、もうひとつの非領域化に内在し、それを駆り立て、それに境界を越えさせる。」
「そうすると、重要なことは、動物への変化の相対的な遅さなどではない。なぜなら、その変化がどれほど遅くても、また遅ければそれだけ一層、人間が移動し、旅をすることによって自分自身に行う相対的な非領域化に対して、人間の絶対的な非領域化を構成するからである。動物への変化は、動かないまま、その場で行なわれる旅であり、強度においてでなければ体験されたり理解されることのできないものである(強度の境界線を踏み越えること)。
動物への変化には隠喩的なものはない。いかなる象徴表現も、いかなるアレゴリーもない。それはまた、ひとつのあやまちや呪いの結果ではなく、罪性の帰結でもない。エイハブ船長の、鯨への変化についてメルヴィルが言うように、それは《パノラマ》であって《福音書》ではない。それは強度を示す地図である。それは、人間がひとつの出口をさぐる限りにおいて彼に付着している、すべてがたがいに異なったもろもろの状態の集合である。それはおのれ自身以外の他のいかなるものについても語ることを望まない、創造的な逃走の線である。」
1 Comments:
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1971年4月21日クロソウスキー宛
《…あなたは下部構造のなかに欲望を注入している、あるいは結局同じことですが、逆に、欲望のなかに生産の範疇を注入して
いるので酢。この点がきわめて大きな重要性をもつように思います。なぜならそれこそが、(1)マルクス
-フロイト、貨幣,糞便といった不毛な並行論から、こうしたあらゆる愚鈍さから抜け出すための唯ーの手
段だからであり、(2)ライヒが、その天才にもかかわらず失敗した地点で成功するための手段だからです
(なぜならライヒは、イデオロギー批判の水準に留まっていたために、彼もまた下部構造のなかに欲動が挿
人される地点を見落としたのです)。
こうして、またふたたび、私はあなたの後を追いかけているのです(私はケインズに取り組む必要さえあ
るでしよう。なぜなら、ケインズは欲望,貨幣の奇妙な関係を発見しているというあなたの指摘を信じるか
らです)。あなたがなさっていることのなかには、マルクス主義-精神分析という二重の現状維持主義を揺
り動かし、もしかしたら吹き飛ばしさえするものが存在しています。そうなったら愉快でしょうね。…》
(クロソウスキー『生きた貨幣』刊行は1969年)
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