木曜日, 11月 26, 2015

難波津 (和歌) - Wikipedia


 王仁の難波津の歌は、仁徳天皇の御代の御始めを祝ったものである。安積山の歌は、采女の戯れの心から詠んだもの。「古今和歌集」仮名序は、この二つの歌は、歌の父母のようにして、手習いする人の最初に習うものとしている。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
○難波津に咲く梅の花よ、今は咲くべき春として、うるわしく咲く梅の花よ。

           『日本の古典10』(河出書房新社)の窪田空穂訳「古今和歌集」

あさか山(安積山)かげさへ見ゆる山の井の あさくは 人をおもふものかは(浅香山、物の影までが映って見える(清澄な)山の井の浅く そんなに浅く人を思うものですか)
「古今和歌集」仮名序。訳は「古今和歌集全評釈古注七種集成(上)」(竹岡正夫著)82ページ

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<和歌「難波津の歌」>ほぼ全文書かれた木簡を発見  (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000000-mai-cul

<和歌「難波津の歌」>ほぼ全文書かれた木簡を発見 

毎日新聞 11月27日(金)0時54分配信
 ◇京都市埋蔵文化財研究所 京都の井戸の中から

 京都市埋蔵文化財研究所は26日、平安貴族邸跡と考えられる同市中京区の井戸の中から、和歌「難波津(なにわづ)の歌」がほぼ全文書かれた木簡を発見したと発表した。この歌の木簡は多く確認されているが、ほぼ全文が確認できたのは初めて。9世紀後半ごろのものとみられ、平仮名の完成期に近い文字で書かれていた。仮名の変遷を考察する貴重な資料という。











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難波津 (和歌) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E6%B4%A5_(%E5%92%8C%E6%AD%8C)
難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花
応神天皇の崩御後、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が互いに皇位を譲り合ったため、3年間も空位となっていたが、のちに難波高津宮において大鷦鷯尊が即位して仁徳天皇となった際、その治世の繁栄を願って詠まれた歌とされている。なお、この歌に詠まれている花はではなくである。
仮名序で安積山の歌と並んで「手習ふ人のはじめにもしける」と言われたように、古来書道の初学としても用いられた。実際に徳島県観音寺遺跡から、万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された7世紀のものとみられる習書木簡[1]が出土しているのをはじめ、各地から数多くこの歌を記した木簡が出土している[2]平安時代には「難波津の歌」と言えば「誰でも知っている歌」の代名詞となっていた。
競技かるたにおいては競技の開始時に難波津の歌を詠むことが通例となっているが、決まり字の「いまは」との混同を避けるため、四句は「今“を”春べと」に変更されている。
大阪市行政区である浪速区此花区は、どちらも1925年大正14年)4月1日に難波津の歌から区名を引用して誕生した。

万葉集で解く難波津の歌の謎
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0kininaru-0n.htm
上の概念図に用いられている2個のキーワード、難波安積を得たのは、「いろは歌」の暗号に関心を持つものには到底認めることの出来ない、古今集仮名序の次の箇所からです。
難波津の歌は、帝の御代の御始めを祝ったものである。安積山の歌は、采女の戯れの心から詠んだもので、この二つの歌は、歌の父母のようにして、手習いする人の最初に習うものにさえしてある。
(この二つの歌を詠みこんだ特異な31首の歌(クリック)があります。是非ご覧おき下さい。)
そもそも、歌の体(さま)は六つある。唐(から)の歌もそのようであろう。
六種の歌の第一としては、そえ歌。仁徳天皇をなぞらえまつった王仁(わに)の歌の、
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
○難波津に咲く梅の花よ、今は咲くべき春として、うるわしく咲く梅の花よ。

という歌が、それであろう。
            『日本の古典10』(河出書房新社)の窪田空穂訳「古今和歌集」による
この部分がおかしい理由は、おいおい述べます。要は、古今集仮名序に、納得できない記述によって、平城天皇・難波・安積に注意を向けさせようとする意図があることです。
このような受け取り方の意義を保証するものに、『口遊』の著者として知られる源為憲が10世紀後半に作った「いろは歌」があります。
それというのも、「いろは歌」には、万葉の異色の歌人山上憶良と古今集の代表的歌人である撰者紀貫之の名を用いた次のような暗号が仕組まれているからです。
」字型の暗号
 
」字型の暗号
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山上憶良(山うえのおく
 
山上憶良紀貫之(のつらゆき)
時代を異にする2人の名を合体させているこの「」字型の暗号は、万葉集と古今集が10世紀後半に現在のような形になったことを表わすものではないかと考えられます。

「あさか山かげさへ見ゆる」について考える - よしさらば後の世とだにたのめをけ
http://blog.goo.ne.jp/yoshisaraba/e/a69326bb8ba58137543acface23fd7de
あさか山かげさへ見ゆる山の井の あさくは 人をおもふものかは(浅香山、物の影までが映って見える(清澄な)山の井の浅く そんなに浅く人を思うものですか)
「古今和歌集」仮名序。訳は「古今和歌集全評釈古注七種集成(上)」(竹岡正夫著)82ページ

 「古今和歌集」仮名序には、この歌は王仁の「難波津の歌」とともに、歌の手習いの際に最初に習うため父・母のような歌、としている。

この「あさか山・・・」の歌であるが、
安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
万葉集巻第十六 3807

にもとづいた歌で、この万葉集のほうの意味は、

安積山の影までも映す山の泉、それほどに浅い心を私はもたないものを
講談社文庫「万葉集 全訳注原文付」(四)中西進 28ページ

が定説化しているようだ。

しかし、私は「安積香山」という山さへも映すから、井戸は浅いのだ、という論理の展開に、どうもついていけない。
いつもの癖だが、自分なりに仮説を立ててみた。

「山の井」はそもそも浅い、というイメージが一般的にあったとする仮説である。

紀貫之の名歌『むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな』も山の井が浅いことを前提に歌っている。

そもそも飲もうとしても、滴るしずくで濁ってしまうのが山の井なのだ。そこにわざわざ山の影さへ映す、なんてことをいわなくても、十分、浅いということは伝わっているのである。

だとしたら、この「あさか山かげさへ見ゆる山の井の あさくは 人をおもふものかは」は何を言わんとしているのか。

山の井は浅い、でもその山の井には私の姿だけではなく、「安積香山」の姿も映っている、すごく深みを感じられる井戸なのです。そのような井戸のように、私のこころも深く、あなたのことを思っているのです。

こういう意味になると思う。

「古今和歌集全評釈古注七種集成(上)」所収の宗祇(1421-1502)の 歌学書「古今和歌集両度聞書」には、次のように書かれてある。

(あさか山の歌)歌の心はかげさへ見ゆるとは高山のかげもうつる程ふかき水と云るなり。浅き水には物のかげのうつる事なし。されな浅くはおもひ奉らずといはんために影さへ見ゆるとよめるなり。大かたの山井はかげ浅き物なり。此山の井は深きなるべし。打見るにあさきやうなれども、まことはふかき水なるを国司の心にたとへてよめり
「古今和歌集全評釈古注七種集成(上)」83ページ

宗祇のこの「古今和歌集両度聞書」では、山の井は山の影を映す深い井であると述べているのであるが、私は物理的に深くなくてもいいと考える。山の姿や空が水面に映っているだけで、浅い井戸も十分、深みを感じることができるのである。

ちなみにこの歌は、陸奥につかわされた葛城王に対しての国司のお仕えぶりに不満を感じた王が、酒宴の席でも白けているたのに対して、ウネメが土器の銚子をとって水を入れて王のひざをたたきながら詠んだもので、このウネメのおかげで、王のこころはようやく解けたのだという。

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<和歌「難波津の歌」>ほぼ全文書かれた木簡を発見  (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000000-mai-cul

<和歌「難波津の歌」>ほぼ全文書かれた木簡を発見 

毎日新聞 11月27日(金)0時54分配信
 ◇京都市埋蔵文化財研究所 京都の井戸の中から

 京都市埋蔵文化財研究所は26日、平安貴族邸跡と考えられる同市中京区の井戸の中から、和歌「難波津(なにわづ)の歌」がほぼ全文書かれた木簡を発見したと発表した。この歌の木簡は多く確認されているが、ほぼ全文が確認できたのは初めて。9世紀後半ごろのものとみられ、平仮名の完成期に近い文字で書かれていた。仮名の変遷を考察する貴重な資料という。

 研究所によると、木簡は1枚で長さ34.5センチ、幅3.5センチ、厚さ4ミリ。2行にわたって仮名文字が書かれ、右側に31字以上、左側に20字が記されていた。右側は「左久也己能波奈」を崩した文字などが書かれ、歌のほぼ全文が判読できた。京都産業大の吉野秋二准教授(日本古代史)は「崩し方からみて、万葉仮名ではなく平仮名にかなり近い」としている。左側には散文が書かれていたが、意味は不明だった。

 仁徳天皇をたたえた内容の難波津の歌は、古今和歌集の中で紀貫之が「歌の父母(手本)」と記し、和歌を習得する際に学ぶ歌とされる。今回は左側に散文がある点などから、手習いのために書かれたとは考えにくいという。吉野准教授は「ほぼ全文が判読できる形で、過渡期の文字が残っていて非常に重要な資料。仮名の変遷を考察する際の基準にもなる」としている。

 木簡は27日~12月13日、同市上京区の市考古資料館で一般公開される。無料。問い合わせは同館(075・432・3245)。【川瀬慎一朗】

対幻想というタームには可能性がある。

ヘーゲル的に市民社会と理解されたり、氏族制と一緒にされるが、

柳田國男に足りない部分を見事についている。

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