『マゾッホとサド』ドゥルーズ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_88.html(本頁)
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潜在的
実在的+可能的
現働的
virtualité
réalité+possibilité
actualité
ドゥルーズ体系: 分子化
スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント ベーコン
Hegel\ | /Heidegger
千のプラトー/
ライプニッツ| ベルクソン
\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】カフカ
/|\ [修辞学]
フーコー/ | (ヒューム)
(Marx)アンチ Freud フロイト(マゾッホとサド☆)
/・オイディプス\
サルトル 【 総 合 】 ニーチェ プルースト
潜在的
実在的+可能的
現働的
◎
- Présentation de Sacher-Masoch : le froid et le cruel (1967),(直訳だと『ザッヒェル=マゾッホ紹介』)
《...サディスム=マゾヒスムが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまった。すべてを始めからやりなおさねばならない》(『マゾッホとサド』19頁はしがきより)
死の欲動と死の本能は違う。
『マゾッホとサド』(PSM)で使い分けられており、『差異と反復』(DR)序論,#第二章でも踏襲される。
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―― 1960 年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥル
ーズは、 「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも のに対して、さらなる「彼岸」を、
真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯 や経験的なものの残滓を
残してしまう「欲動」という言葉を排して、 「死の本能[ l ’ instinct de mort ] 」 ( PSM 28、
邦訳40~1頁参照☆)と呼ばれる。
蓮實訳だと欲動は衝動になっている(143頁参照☆☆)。
DR#2
《フロイトにおいて、葛藤のモデルの優位を助けているのは、抑圧理論ばか りでなく、欲動理論に
おける二元論でもある。けれども、葛藤は、それよりもはるかに精妙な差異的=微分的なメカニズム(置き換えと偽装)の所産なのである。》文庫上288頁
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794912640
マゾッホとサド
ドゥルーズ,ジル【著】〈Deleuze,Gilles〉/蓮実 重彦【訳】
晶文社(1998/10発売)
サイズ B6判/ページ数 215p/高さ 20cm
内容説明
マゾヒズムはサディズムの裏返しではない―。不当に歪められた作家マゾッホの独創性とすぐれた現代性を証すフランス思想の巨星ドゥルーズの名著。
目次:
はしがき
サド、マゾッホ、そして二人の言語
描写の役割 ☆
サドとマゾッホの相互補足性の限界
マゾッホと三人の女性
父親と母親
マゾッホの小説技法の要素 ☆☆☆
法、ユーモア、そしてイロニー
契約から儀式へ
精神分析学
死の本能とは何か? ☆☆
サディスムの超自我とマゾヒスムの自我 ☆☆☆☆
付録(マゾッホによる単文3編)
付録Ⅰ:幼児の追憶と小説をめぐる考察(ザッヒェル・マゾッホ『体験』より)
付録Ⅱ:マゾッホの契約書二通
付録Ⅲ:ルードヴィッヒ二世との経緯(ワンダの告白) (ワンダ・フォン・ザッヒェル・マゾッホ『わが生涯の告白』より)
巻末に原註、訳註、解説「問題・遭遇・倒錯」を収録
原著にあった『毛皮を着たヴィーナス』からの抜粋は邦訳では省略されている。
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/index.php?sp=liv&livre_id=2010
Gilles Deleuze
Présentation de Sacher-Masoch
Le froid et le cruel
Suivi du texte intégral de La Vénus à la fourrure
Traduit de l’allemand par Aude Willm
1967
Collection « Arguments », 276 pages, 6 gravures in-texte, 2 portraits hors-texte
Avec La Vénus à la fourrure s’ouvre un univers de phantasmes et de suspens, rempli de femmes de pierre, de travestis, de gestes punisseurs, de crucifixions et même de châtiments pour des fautes non encore commises. L’esprit artistique fait de chaque pose une œuvre d’art, l’esprit juridique y noue de rigoureux contrats entre la victime et le bourreau. Gilles Deleuze montre que le masochisme n’est ni le contraire ni le complément du sadisme, mais un monde à part, avec d’autres techniques et d’autres effets.
‑‑‑‑‑ Table des matières ‑‑‑‑‑
Avant-propos
Présentation de Sacher-Masoch (Le Froid et le cruel) :
Sade, Masoch et leur langage –
Rôle des descriptions –
Jusqu’où va la complémentarité de Sade et de Masoch –
Masoch et les trois femmes –
Père et mère –
Les éléments romanesques de Masoch –
La loi, l’humour et l’ironie –
Du contrat au rite –
La psychanalyse –
Qu’est-ce l’instinct de mort ? –
Surmoi sadique et moi masochiste
Texte intégral de La Vénus à la fourrure
Appendices : 1. Souvenirs d’enfance et réflexion sur le roman – 2. Deux « contrats de Masoch » – Aventure avec Louis II (racontée par Wanda)
http://yokato41.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2.html
《医学には、徴候群と徴候の区別がある。すなわち徴候とは、一つの疾患の特徴的な符牒であるが、徴候群とは、遭遇または交叉からなる幾つかの単位であり、大
そう異質な因果系統や可変的なコンテキストとの関係を明らかにする。サド=マゾヒスム的なる実体は、それじたいで一つの徴候群で、他には還元しがたい二系
統に解離すべきものとは確信をもって主張しがたい。われわれはサディスム=マゾヒスムが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまった。すべてを始めからやりなおさねばならない。》(『マゾッホとサド』19頁はしがき)
期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒスト
とは、待つことを純粋状態にお
いて生きるものである。それ自身が二つの分身となり、同時的な二つの推移へと変ずることは、純粋なる期待の属性である。そしてその二つの推移の一方は、待
たれている対象を表現し、それは、本質的な引き伸ばしであり、つねに遅刻状態にあって延期される。いま一方のものは、予期している何ものかを表現し、それ
のみが待たれている対象の到来を性急に繰りあげうるかも知れないものだ。かかる形態、二様の流れからなる時間的リズムが、まさにある種の快楽=苦痛という
組み合わせによって充たされているという事実は、一つの必然的な帰結なのである。苦痛は、予期しているものの役割を演じ、それと同時に、快楽は待たれてい
る対象の役割を演じることになるのだ。マゾヒストは、快楽を、根本的に遅延する何ものかとして待ち、最終的に快楽の到来を(肉体的にして精神的に)可能に
する条件として、苦痛を予期しているのである。したがって、それじたいとして待つことの対象たる苦痛が、自分を可能ならしめるのにいつも必要としている快
楽を、マゾヒストは未来へと押しやっているのだ。マゾヒストの苦悩は、ここでは、不断に快楽を待ちはするが、その方法として苛烈なまでに苦痛を予期してか
かるという、二重の限定作用をとることになるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 91~92頁)☆☆☆
サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。要約しておこう。
①サディスムと思弁的=論証的能力、マゾヒスムの弁証法的=想像的能力。
②サディスムの否定性と否定、マゾヒスムの否認と宙吊り的未決定性。
③量的な繰り返しと、質的な宙吊り。
④サディストに固有のマゾヒスム、サディストに固有のサディスム、そして両者は決して結合しない。
⑤サディスムにおける母親の否定と父親の膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄。
⑥二つの場合における物神的な役割と意味の対立関係、幻影についても同様の対立関係。
⑦サディスムの反審美主義、マゾヒスムの審美主義。
⑧一方の「制度的」な意味、他方の契約的な意味。
⑨サディスムにおける超自我と同一視、マゾヒスムにおける自我と理想化。
⑩性的素質の排除と再強化の対立的二形態。
⑪全篇を要約するかたちで、サド的意気阻喪とマゾッホ的冷淡さとの根源的命題。
以上の十一の命題は、サドとマゾッホの方法の文学的な違いにおとらず、サディスムとマゾヒスムの幾多の違いをも明白に表明すべきものであろう。(『マゾッホとサド』p163)☆☆☆☆
◆『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)
柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。
ぼくはそんなものは感嘆に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えるこ
となんですよ。しかし、そうやって意味を変えるときに、必ずドゥルーズならドゥルーズという名前がついてくるんです。たとえば、マルクスが「存在が意識を
決定する」と言ったときの「存在」は、マルクスによって創造された概念なんで、その一行は「事件」なんです。ぼくはそれが概念の創造だと思う。
浅田彰)だから、たとえばデカルトの「コギト」(われ思う)というのが概念の創造なんですね。
蓮實重彦)まさにそのとおりだと思うけれども、ちょっと違う角度から言うと、たとえば『マゾッホ』、あれはサディズムの概念をおもしろく定義したからいいのではないし、マゾヒズムの概念をおもしろく定義したからいいのではなくて、ふたつを分けたことが概念の創造なんです。
浅田)「マゾヒズム」はサディズムと関係ないというのが概念の創造なんですね。
(……)
音楽でいうと概念というのはライトモチーフなんですよ。だから、一回聴いたらそれがだれのものかわかるんですね、どういう変奏のもとに出てきたとしても。
蓮實)そこで、まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。
浅田)たとえば「スキゾ」という概念が80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど……。
蓮實)ありますよ、それは(笑)。…
浅田)しかし、本当は、「スキゾフレニー」(分裂症)という言葉だってそれまでにいろんな人たちによっていろんな形で使われてきたわけで、ドゥルーズとガ
タリは新しい言葉を作るのではなくそういう既成の言葉を新しい形で使うことで概念を創造したんです。その点では、ガタリはまだ新しい言葉を生み出している
として、ドゥルーズはほとんどそういう言葉を生み出していないとあえて言いたいぐらいなんですね。
蓮實)であるがゆえにすごいんだということでしょ。
浅田)そうです。つまり、ドゥルーズはやはり何よりも哲学史家だと思う。音楽の比喩で言うと、作曲家ではなくて演奏家なんです。ドゥルーズとガタリはグー
ルドが好きだったけれど、グールドが弾くとバッハもベートーヴェンもグールドになってしまう、しかしそれはやはりバッハやベートーヴェンなんです。ガタリ
との関係で言えば、ドゥルーズはほとんどガタリというピアノを弾いているんですね。
柄谷)カント論もニーチェ論もみなそうで、演奏なんですね。
浅田)演奏ってインタープリテーション(=解釈)ですから。
柄谷)ただし、解釈学とは違う解釈ですね。(……)
蓮實)……ドゥルーズは、共通の美的感性の持ち主のグループというのを想定しないと言いつつ、『シネマ』に関してはしているんですね。明らかに、ある種の
『カイエ・デュ・シネマ』的なシネフィリー(映画好き)というものの上に立っている。つまり、与えられた題材をもとにその分類と体験の質を分割しているだ
けであの中で、あっと驚く映画はひとつも出てこない。もしそうなら、それは大した哲学者じゃないと言うべきじゃないの(笑)。
浅田)いや、哲学者はそれでいいんでしょう(笑)。
蓮實)ただし、それにもかかわらず、(……)概念化へと向かう言葉がまったく描写することがないのに、映画のひとつひとつのシーンが目に見えるようでしょ
う。これはすごい才能だと思う。その才能に立ちあえば、それが、哲学であろうとなかろうといいと思う。概念化されたものが、あれほどまざまざと見えるって
ことは、ちょっとないですよ。それは、同じ感性を持ってない人、そもそも映画に興味のない人には、ほとんど何もわからない。だけどそういう力を持っていた
人がいたということはすごいことです。
柄谷)それじゃあ、ぼくには関係ないな(笑)。
浅田)たしかに、『哲学とは何か』でも、哲学と科学に並んで、芸術を大きく取り上げている。芸術家は、自存する感覚のブロックをつくり、そこから、潜在的
でも顕在的でもない、可能性の宇宙を作り上げるのだ、と。とすると、それが哲学的に見ると浅いものかもしれない。にもかかわらず、ドゥルーズにとって
はーーそして、柄谷さんはともあれ、蓮實さんと同じくぼくにとってもーーかけがえのないものなんです。
残念ながらまだ刊行されていない講義録のなかで、
ラカンが
ドゥルーズに触れた機会が二度ほどあります。一度は
1967年4月19日。
ドゥルーズの『
マゾッホと
サド』に関する非常に好意的な論評です。「しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の
意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです。」もう一度は
1969年3月12日。今度は『
意味の
論理学』に関する
コメントです。ここでは若干の見解の相違点を指摘しつつも、こんな指摘を。
「喜んで労を払おうという方なら、この《他者》のレベルに、ドゥルーズの本の中では出来事、上演と題され、呼ばれているものを位置づけることが出来るでしょう。これは厳密さと尊敬すべき正確さでもって、判明に、それも現代論理学思考が定義しうるものすべてとも調和を保っています。あるいは、ランガージュの存在と結びついたあらゆるパレードと呼んでもいいかもしれません。ここにこそ、《他者》の中にこそ、無意識は一つのランガージュとして構造化されているのです。」
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題――
1960
年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
要旨
ドゥルーズは
1940
年代から
1960
年代にかけて「倒錯」の問題を論じている。倒錯の概念は、一見すると
1970
年代
以降分裂症の概念にとって代わられてしまうかのように見えるが、それ自体還元不可能な独自性を持っており、ドゥルー
ズ哲学を貫く問題系をかたちづくっている。
本稿では、
『マゾッホとサド』
(
1967
年)における二つの超越論的な企図であるサディズムとマゾヒズムを分析し、そ
のうちマゾヒズムを、あらゆる法や原理の彼岸を目指すサディズムに対するさらなる彼岸を開示するものとしてとりだ
す。ドゥルーズがマゾヒズムを特徴づけるメカニズムと考える「否認」と「排除」を、精神分析におけるそのプロブレ
マティックな地位に注目して詳細に検討することで、マゾヒズムが、サディズム的な超越論的企図さえも退けて一切の
組織化の原理の手前を目指すものであることが明らかとなるだろう。マゾヒズムとはこのような意味で「手前の彼岸」
なのである。
そして、
『意味の論理学』の動的発生論の読解を通じて、このようなマゾヒズム的倒錯の論理が、所与の破裂的で断片
的で迫害的な対象関係をそっくりそのまま放棄するという仕方で、
「器官なき身体」を導出することが明らかにされるだ
ろう。...
...『マゾッホとサド』において、
「倒錯」についての「偉大な臨床家」として、
サドとマゾッホを論じている。
「サ
ド=マゾヒズム」という単位性、その相互補完性を当然のものと見なす当代の「変換論」に対して、ドゥ
ルーズは両者を切り離そうとする。本稿の考えでは、その中でマゾヒズムに与えられる諸特徴が、
『マゾッ
ホとサド』だけでなく、
『意味の論理学』およびその後の著作におけるドゥルーズの「倒錯」概念全体にとっ
て重要な意義を持っていると思われるのである。
では、両者はいかに峻別されるのだろうか。ドゥルーズによる両者の分析は小説技法、バッハオーフェ
ンを援用した特異な人類学、ユーモアとアイロニーの観点から論じられる法哲学にまで多岐にわたるもの
なので、ここでそのすべてを扱うことはできない。本稿では、両者を特徴づける二つの概念、すなわち「否
定[
négation
]
」と「否認[
dénégation
]
」にまずは注目し、その精神分析的な含意に焦点を当てながら確認
していこう。いずれの概念においても、問題となっているのは、所与の自然や法に対する超越論的な原理
を見いだすことである。
2
‐
1
サディズムと否定
サドの文学で問われているのは、
「否定のあらゆる拡がりと深度」
(
6
)
であり、この問いは二つの「自然」
の区別にもとづいている。ひとつが「二義的自然」である。二義的自然は、それ自身の規律と法則に従属
した自然であり、そこではいなかなる否定性も、すでに存在する秩序の中での否定にすぎず、いわば秩序
そのものの追認でしかない。もうひとつが、
「本義的自然」である。本義的自然は、
「類や法則を超えた純
粋否定の代弁者」
(
PSM 25
)であり、あらゆる秩序の要請からも自由な原初のカオスと考えられる。これ
は一切の経験則を超えるものと考えられるので、
「
〈理念〉の対象」
(
PSM 25
)でなければならない。
この自然の区別の論理は、ドゥルーズのフロイト解釈と対応している。よく知られているように、フロ
イトは『快原理の彼岸』
(
1920
年)で「生の欲動」と「死の欲動」という対を導入した。フロイトの理論
においては、死の欲動はそれ自体経験的ないし実体的に捉えられることはなく、生の欲動との混合状態に
おいてしか見いだされえない。それゆえ、死の欲動そのものは思弁的なものなのである。しかしドゥルー
ズは、生の欲動との混合状態から考えられてしまう死の欲動は、あくまで快原理という経験則に従属した
ものにすぎないと論難する。こういってよければ、ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルーズは、
「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも
のに対して、さらなる「彼岸」を、真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯
や経験的なものの残滓を残してしまう「欲動」という言葉を排して、
「死の本能[
l
’
instinct de mort
]
」
(
PSM
28
)と呼ばれる。
_____________
AO
第四章 分裂分析への序章
第二節 分子的無意識
ところが、マルクスは、もっと神秘的なことをいっている。真の差異は、人間における二つの性の間の差異ではなく、人間の性と「非人間的な性」の間の差異である、と(15)
(15) Marx,〈Critique de la philosophie de l'Etat de Hegel〉, in Œuvres
philosophiques , IV, tr. fr. Costes, pp.
182-184.〔マルクス「ヘーゲル国法論批判」真下信一訳、『マルクスエンゲルス全集』1、大月書店、1959、329ページ〕マルクスのこのテクス
トについては、L-F・リオタールの美しい注釈がある。Discours, figure , pp. 138-141.
AO下4原注より
(4) 神秘学の周縁的な現象の見地からも、無意識のコミュニケーションの、しかも基本的な問題はまずボーリングあての書簡一七におけるスピノザによって提起され、ついでF・E・H・マイヤー、W・ジェイムス、H・ベルクソンなどによって提起される。
(7) 『無意識』に関する一九一三年の論文において、フロイトは、包括的対象を必要とする神経症に対して、精神病はいくつもの小さい多様性を介入させる
ことを示している。例えば、穴の多様性(しかし、フロイトは、この精神病的現象を、単に言語的表象の力にたよって説明しているにすぎない)。
補遺 欲望機械のための総括とプログラム
第一節 欲望機械と他のさまざまなものとの相対的差異-アイディア製品との差異-幻想あるいは想像的投射のシステムとの差異-道具あるいは現実的投射のシステムとの差異-私たちを欲望機械に導く倒錯機械との差異
第二節 欲望機械とオイディプス装置、つまり抑制-退行に抵抗する反復
4 Comments:
サド シネマ1イメージ
マゾッホ シネマ2時間
死の欲動と死の本能は違う。
『マゾッホとサド』(PSM)で使い分けられており、『差異と反復』(DR)序論,#第二章でも踏襲される。
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―― 1960 年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルー
ズは、 「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも のに対して、さらなる「彼岸」を、
真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯 や経験的なものの残滓を
残してしまう「欲動」という言葉を排して、 「死の本能[ l ’ instinct de mort ] 」 ( PSM 28 )と呼
ばれる。
DR#2
《フロイトにおいて、葛藤のモデルの優位を助けているのは、抑圧理論ばか りでなく、欲動理論に
おける二元論でもある。けれども、葛藤は、それよりもはるかに精妙な差異的=微分的なメカニズム
(置き換えと偽装)の所産なのである。》文庫上288頁
蓮實訳だと欲動は衝動になっている。143頁参照。
ザッヘル=マゾッホ紹介: 冷淡なものと残酷なもの 文庫 – 2018/1/9
ジル・ドゥルーズ (著), 堀 千晶 (翻訳)
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